春呼ぶ蹄と古の歌
目次
1 異形の神様
月の明るい、秋の夜。激しく咳き込んでいた母がようやく寝付いた頃、シェルータは静かにベッドを抜け出し、拙い手つきで暗褐色の髪を編んだ。手早く労働着を身に着け、木の実採取用の篭を背負う。 七つのシェルータは、虫も眠るような夜更けにこっそりと家を抜け出した。行き先は村のそばの大きな森だ。病みがちな母に薬草を採りに行くためだ。 家を出たシェルータは、一度家を振り返った。
「父さま。わたしが森に行く間、母さまを守ってください」
シェルータは森の方を向いて、母の安寧を祈った。森の向こうには小高い丘がある。丘の上には、朽ちかけた石造りの神殿があった。村の者のほとんどは、百年近く丘に近づいていない。丘の上の神殿には、悪魔が棲みついていると帝国から教えられているからだ。 この教えはケビト以外の村にも伝えられており、今ではケビトどころか、この一帯のどの村の民も小高い丘に近寄らない。 だから神殿が朽ちかけていることも、そこに祀られる神がいることも、ケビトの民は知らない。忘れられた神を知っているのは、祭司の血を引くシェルータの家族だけだ。 丘に向かって祈ったシェルータは、できるだけ足音を忍ばせ、森へ急いだ。 ケビトの村のそばにある森は、昔々も大昔、ケビトの民のものだった。許可も金も必要なく、好きに入れた。しかし帝国があちこちの小国や集落を飲み込んでしまったせいで、今では帝国の貴族たちに金を払って許可をもらわなくてはならない。 つい先日、許可もなしに森に入った猟師が森番に殺された。村の真ん中の広場で、見せしめに惨たらしく殺された。
「こんな風に死にたくなくば、きっちり金を払うんだな」
シェルータには父がいない。シェルータが三つの春、村のそばにある森で死んだ。帝国貴族が狩りに来ていたことを、森番は教えてくれなかった。シェルータの父は鹿を狙った矢にのどを射貫かれ死んだ。 夫を亡くしたシェルータの母をもらってやろうという男は、ケビトの村にはいなかった。すでに娘がいる上、病みがちで伏せがちだ。労働力には期待できないし、新たな労働力を増やす見込みも低い。母を支えられるのは、七つになったシェルータだけだった。 そんなシェルータの手に、森番に払える金なぞない。かといって、母のために薬を買う金もない。あるのは両親から与えられた知識と、少しばかりの度胸だけ。 だからシェルータは見せしめで人が死んだ数日後、それも明るい夜に森へ入ることにした。そんな愚行を子供が犯すなんて、さすがの森番も思わないだろうと子供なりに知恵を絞った結果だった。 向こう見ずで危険な考えだったが、シェルータは運が良かった。その夜の森番は酒をたらふく聞こし召していた。森番の高|鼾《いびき》は、森に忍び込む者の足音をかき消してしまっていた。 月明かりを頼りに、シェルータは森を歩いた。シェルータは母と一緒に何度も森に入っている。父の友人である豚飼いのルーペルトが収入の少ない二人を気遣って何度も飼料集めに雇ってくれたお陰だ。 母からたくさんの教育を受けていたシェルータは、何かを覚えることが得意だった。 木の実がたくさんある場所はどこか。薬草が生えている場所はどこか。どこをどう通れば森を抜けて村へ戻れるか。反対に、どこをどう通れば、森の向こうの丘に辿り着くか。 シェルータはたくさんのことを知っていた。だから目の前に現れた大人が、密猟者であることも一目でわかった。彼らがシェルータを殺すつもりであることも、わかってしまった。 密猟者たちは、余所の村の者だった。それぞれの村で余った収穫物を交換するためやってきた、働き盛りの男たちだった。シェルータの身の上を知り、気の毒がっておまけをつけてくれた人たちだった。
「みなしごになったらもっとつらい。母ちゃんは大事にしな」
そんな言葉をかけてくれる、優しい人たちだった。だが今、シェルータを見下ろす彼らの目は恐ろしいほど冷たい。
「見られたな」 「見られちまった」 「殺しちまうか」 「告げ口されちゃたまんねえ」
密猟者たちはナイフを手に、シェルータとの距離をじりじりと近づける。シェルータは足を震わせ、父と母の顔を思い浮かべた。
「わたしまで死んだら、母さま、ひとりぼっちになっちゃう」
シェルータの呟きは、密猟者たちに届かない。シェルータはうり坊のように姿勢を低くすると、村ではなく密猟者たちに向かって走った。なぜ向かっていったのか。それはシェルータに流れる血が、ケビトの者にとって森の中が安全だと教えていたからだろう。 密猟者のナイフがシェルータを狙う。シェルータは慣れない姿勢で走ったせいで、足がもつれて頭から転んでしまった。転んだシェルータは、頭からごろりと一回転した。背負っていた篭が衝撃で砕ける。その篭が転んだ衝撃を和らげた。その上、篭の木片が飛び散って密猟者の目を眩ませた。密猟者は思わず目を閉じ庇ったせいで、シェルータに向けて振るった刃は地面に突き立つこととなる。 シェルータは運一つで、自らに迫る凶刃を避けることができた。おまけに、密猟者たちの背後へも抜けられた。 起き上がったシェルータは走った。彼らから距離を取るため、必死になって足を動かした。 どこをどう走ったか、覚える暇なんてない。シェルータも密猟者も、無我夢中で暗い森を走った。 息が上がるのはシェルータが先だった。足の速さは密猟者たちが勝っていた。足下の悪さに、シェルータは再び転んだ。獣道で転がったシェルータは、足と頬を擦りむいた。傷口から滲んだ血が、地面に赤を添えた。 密猟者たちがシェルータを囲む。もう逃げ場はない。一番大柄な男が、シェルータを押さえつけた。
「悪く思うなよ」
シェルータは涙を滲ませ、強く目を閉じた。
「助けて、神さま」
助けを求めたシェルータを、密猟者たちはせせら笑った。しかし次の瞬間、その笑いは引っ込んだ。地響きとともに、重い何かが背後に落ちてきたせいだ。 落ちてきたわけではない。振り向いた密猟者たちは知った。それは地に足をつけ立っていた。それはシェルータを押さえつける男より、一回り大きな影だった。 風が木々を揺らし、葉の隙間から月明かりが差す。宵闇に溶けていた影が、はっきりと形を見せた。その異形さに、密猟者たちは息を呑んだ。 それは人の姿によく似ていた。しかし人にしては異形だった。密猟者の一人が呟いた。
「お、丘の上の悪魔だ……」
異形の姿は、悪魔と呼ぶにふさわしい。 まず頭には角が生えている。よく耕した土のような茶色の髪から伸びる角は、農具を引く牛の頭にあるものと似通っていた。違うと思わせるのは、その角が牛のものよりも長く、先端の鋭さに害意を感じるところだ。 次いで背中には翼がある。帝国が教える天の御使いの翼とは違う。洞窟にいる蝙蝠の、あの薄くも気味な形だった。 |怖《おぞ》|気《け》が走る原因は脚部にもあった。悪魔の脚は馬だった。暗闇よりも暗い毛並みは、こんな状況でなければ見惚れただろう。大柄な悪魔の膝頭は、ちょうどシェルータの目の高さ。もしシェルータが立ち上がっていれば、馬の膝はどんな構造か知れただろう。 そんな異形の者が持つ人の部分は、浅黒い肌をした逞しい青年だった。密猟者越しに異形の悪魔を見上げたシェルータは、呆けたように呟いた。
「神さま」
異形の者は、シェルータの母が教えてくれた知識の一つ、かつてケビトの人たちと暮らした神の姿だった。「神さま」と呼ばれた悪魔は、横長の瞳孔でシェルータを見やる。それから、シェルータを押さえつける密猟者たちを睨めつけた。
「俺の森に入ったって、つまみ出すのも面倒だから放っといてやったのに」
悪魔はため息をつき、目を伏せた。再び密猟者たちを睨んだ目には、めらめらと緑の炎が燃えていた。
「ケビトの血を流されたら、約束を果たさざるを得ないだろうが」
悪魔は一歩踏み出して、シェルータに刃を向ける密猟者の頭を掴んだ。林檎を持つような、軽い動作だった。しかしそこにどれほどの力が込められているのだろう。大柄な密猟者はたちまち呻き、悪魔の手を外そうと藻掻いた。立派な体躯を持つ、成人した男だ。並の力ではないはずだ。にも拘わらず、悪魔は密猟者の抵抗を意にも介さず、小石を投げるように巨躯を放り投げた。 放り投げられた密猟者は、見上げるような背丈の木々を越えて姿を消した。ぽかんとするシェルータの前で、悪魔は密猟者たちを次々に放り投げる。シェルータを殺そうとしていた密猟者たちは、あっという間にいなくなった。 残るはシェルータだけだ。 悪魔がくるりと振り向く。投げられる、と身構えたシェルータを、悪魔は小脇に抱えた。壊れた篭が素肌に刺さって痛いだろうに、悪魔は気にした様子も見せない。シェルータは自分がずだ袋いっぱいの麦かになった気分にさせられた。 悪魔の逞しい体は、幼いシェルータには威圧的だ。しかし古着越しにじんわり伝わる体温が、シェルータに親近感を持たせた。シェルータが体から力を抜くと、悪魔はぼそりと呟いた。
「動くなよ」
蝙蝠の翼が音もなく広げられ、シェルータごと悪魔の体を地面から浮かせた。翼はその薄さからは想像もつかない力で悪魔とシェルータを木々より高く持ち上げる。 満月が、シェルータと悪魔を照らした。シェルータは身を捩り、悪魔を見上げた。気づいた悪魔が、抱えたシェルータを見下ろす。 月を背負う悪魔の顔は、影になってシェルータには見えない。しかしなぜだか、シェルータを見下ろす目だけははっきり見えた。 悪魔の瞳は、明るい茶色。シェルータたちケビトの村の者と、同じ色だった。
「神さまの目、わたしと同じ色ですね」 「……何が神様だよ。百年もほったらかしてたくせに」
見下ろすのをやめた悪魔は、拗ねた口調で返した。悪魔の声はぼそぼそと小さく、聞き取りにくい。けれどももしシェルータと同じくらいの声量を出したなら、その声は年頃の娘を魅了して止まないだろう。 残念ながらシェルータはまだ七つだ。悪魔の声の良さは伝わらない。シェルータは無邪気に悪魔に話しかける。
「助けてくださり、ありがとうございます。今度お礼に、お参りしに行きます」 「来なくていい」 「明日はお隣のオットマーさんと畑の世話するんです。お野菜がもらえるので、それをお供えしますね」 「来なくていいって言ってんだろ」 「神さまはやっぱり、葉物が好きですか? 牛の神さまですものね。あ、でも神さま、馬でもありますね。それだったら根菜のほうが好きですか?」 「もう黙ってろ」
低い声で遮られ、シェルータは渋々黙った。悪魔も黙ったまま、森の出口へ飛んでいく。悪魔は森番の存在を知ってか知らずか、高鼾と反対方向へ向かった。 それほど時間をかけず、シェルータはケビトの土を踏むことができた。元は神だからか、悪魔は迷いなくシェルータを家に送り届けた。家の前でシェルータをそっと下ろした悪魔は、「もう夜の森に入るなよ」と釘を刺した。シェルータは素直に「はい」とうなずいた。 それで終わりのはずだった。悪魔はシェルータに背を向けて「もう来るなよ」とぼそぼそ呟く。その後ろ姿――尻尾を見せる馬の足――に、シェルータは「待って」と縋った。
「神さま。母さまに、薬草が必要なんです。毎日ずっと咳をしてばかりで……だからわたし、森に入ったんです」
悪魔は足を止め、縋りつくシェルータを見下ろした。シェルータと同じ色の瞳が、壊れた篭をちらと見る。得心した表情の悪魔を見上げ、シェルータは必死に訴える。
「朝も、昼も、夜も、ずーっと咳をしてるんです。母さまに薬を買ってあげたくても、うちにはお金がありません。お金がないから、薬草を採りに行きたいって、森番に頼むこともできないんです」
月明かりが、悪魔の顔を照らした。褐色の肌を持つ青年の顔が、闇夜に浮かび上がる。 悪魔の顔は整っていた。きりりと吊り上がった眉に高い鼻梁、引き結ばれた薄い唇。ともすれば冷たく見える顔つきだが、その印象を変えるのは目だ。寂しさを湛える目はシェルータと同じ色をしていて、ほんのわずかに目尻が下がっていていた。 悪魔は困り果てた顔でシェルータを見下ろした。悪魔は口を開かない。シェルータもそれ以上は口を開かなかった。 二人は見つめ合った。梟が鳴き声を上げようと、狼が遠吠えをしようと、どちらも動かない。口も開かない。 沈黙を破ったのは、悪魔だ。根負けした悪魔は、シェルータの襟首を掴んで足から引き剥がした。
「持って行ってやるから、今夜は帰れ」
相変わらずのぼそぼそ声でそう言うと、悪魔はシェルータを家の軒下に押し込んだ。
「それ、貸せ」
壊れた篭を、悪魔の指が差す。悪魔の手は、普通の人間と同じ手だ。シェルータが「壊れてます」と首を振っても、悪魔は了承しない。シェルータはおずおずと、壊れた篭を差し出した。
「朝には持ってきてやる」
そう言い残すと、悪魔はシェルータがこれ以上何か言う前に、蝙蝠の翼で飛び立っていってしまった。皮膜でできた翼は、静かに夜の空気を切り裂いていた。 シェルータは満月に向かって遠のく影を見送って、渋々、家に入った。昼間の労働と夜の小さくない冒険で、シェルータは疲れていた。寝台に倒れ込んだシェルータは、夢も見ず眠り込んだ。
***
2 さびしんぼ
翌朝。 朝日とともに目覚めたシェルータは、寝ぼけ眼をこすりながら水汲みのために外へ出た。もう少し眠気が強ければ、戸口に置いてあるものに気がつかなかっただろう。うっかり蹴飛ばしそうになったのは、不器用に直された篭と、その中に詰め込まれた草の山だ。草の山は、シェルータが悪魔に願った母のための薬草だった。 シェルータの目がきらりと輝く。修理された篭ごと薬草を胸に抱くと、「母さま!」と声を上げて家の中に取って返した。狭い家にシェルータの足音がとたとたと響く。ベッドに横たわっていた母は、何事かと半身を起こした。
「シェルータ、どうしたの」
薬草を抱いたシェルータは、母に飛びつく勢いで悪魔から与えられた草の山を見せた。
「神さまが持ってきてくださったの、母さまのために! それにね、篭も直してくださったの!」 「いったい、どういうこと?」
尋ねる母に、シェルータは森での出来事を冒険譚のように語った。目を輝かせ熱弁を振るう幼い娘、母は呆れと心配のため息をついた。
「シェルータ、あなたって子は……。普段は大人しいのに、変に行動力があるんだから」 「だって母さま、最近ずっと、苦しそうな咳をしてらしたから……」
しゅんとしょげるシェルータに、母は「しょうのない子ね」と苦笑した。
「今回ばかりは許すから、もうこんな無茶はしないって約束してちょうだい」 「はい、母さま」
眉を下げ笑い、母はシェルータの頭を撫でた。肉付きの悪くなった手だ。この手をもっと豊かにしてあげたいと思いながら、シェルータは元気にうなずいて見せた。 ベッドから起きた母と朝食を済ませたシェルータは、手早く身支度をして、隣家のオットマー宅へ急いだ。 老いたオットマーとその妻には愛想がない。シェルータが「おはようございます」と挨拶をしても、無言でうなずくだけだ。
「どうしたぃ、その篭」
皺だらけの顔を顰め、オットマーが尋ねる。皺に埋もれてなお鋭い目は、シェルータが背負う篭をしかと見ていた。オットマーの妻が鋭い目で「誰ぞ意地悪でもすんのかぃ」と尋ねる。シェルータは大慌てで首を振らなければいけなかった。
「ちょっと、転んじゃって……でも、直しましたから」 「どいつか知らんが、不器用な奴に直してもらったんだな」
呟くように言うと、オットマーは口を閉じて荷車に農具を載せた。妻も「意地悪されたんでねえならいぃ」とうなずき、荷車の後ろへ回る。シェルータも妻の隣へ急いだ。荷車を引くのはオットマー、押すのは妻とシェルータの仕事だ。 明るい歌の一つも聞こえない野良作業が始まった。 オットマーたちは愛想こそないが、決して意地悪ではない。 七つのシェルータが運べないような重いものは、無理に持たせない。自分たちが一息つく頃には、シェルータにも休ませる。シェルータが多少失敗しても、怒鳴りつけたりしない。あくまで対等に、シェルータを扱った。 だから自分たちが仕事を終える頃には、シェルータを家に帰らせる。休憩の合間には、シェルータの歪になった篭を元通りに修繕してくれた。そしてその篭に、妻が「お駄賃」と言って今日収穫したばかりの野菜を詰め込む。恐縮するシェルータの手には、わずかばかりだが硬貨も握らせた。
「お金までもらうなんて……」 「小遣い程度だ。受け取んなぃ」 「おっ母さん、また咳き込んでたろ。あったかいもん食わせて、早く働けるようにしてやんなぃ」
気遣う二人にお礼を言うと、シェルータは編んだ髪を尻尾のように揺らして家に帰った。
「母さま、オットマーさんがお駄賃までくださったの」
息を切らせて駆け込んだシェルータを、母は椅子に腰掛けたまま出迎えた。手と膝には、繕い物と針がある。 本来、季候のいい秋こそ母はシェルータと外で働く必要があった。しかしひどい咳を心配するシェルータに止められ、今は針仕事のような内職が主な活計となっている。
「おかえりなさい、シェルータ。いつもごめんなさいね」 「謝らないで、母さま。それよりね、森に行っていい? 神さまにお礼を言いたいの」 「それならルーペルトさんのお手伝いをさせてもらいなさい」
ルーペルトの手伝いをすれば、飼料集めという隠れ蓑ができる。暗にそう告げる母に従い、シェルータはルーペルト宅へ急いだ。 戸を叩くなり「お手伝いさせてください!」と意気込むシェルータに、ルーペルトは驚いた。しかし今は秋。冬に備え、いくらでも飼料がほしい頃だった。ルーペルトは「助かるよ」と破顔し、シェルータに許可印入りの篭を渡した。
「おや、何だって野菜なんか持ってるんだい」 「か、囓るんです。お腹が空いたときに!」 「葉物をそのまま?」
変わった弁当だなぁと首を捻るも、ルーペルトはシェルータを森へ送りだした。篭を背負ったシェルータは嘘をついたことに罪悪感を抱きつつ、急いで森に入っていった。 今までにないほど手早く篭をいっぱいにしたシェルータは、本来の目的を果たすため一つ息を吐き出した。目指すは森の向こう、丘の上の神殿だ。悪魔――シェルータにとっては神――はそこに棲んでいる。丘に出るまでの道は、母に教えられただけだ。なのにシェルータは、何度も通った道を歩く気分だった。 森を抜けると、草原が広がっていた。長く人の足が踏み入らなかった草原は、草花だけが地面を彩っている。草原はなだらかに盛り上がり、小高い丘を作り上げていた。シェルータは視線を隠す木もない草原を見渡し、丘の頂上を見上げ、あと一息だと篭を背負い直した。 シェルータが目指す神殿は、丘の頂上にある。なだらかな坂は、さほどシェルータの体力を奪わさなかった。 辿り着いた頂上の神殿は、シェルータの想像以上に朽ちかけていた。 長く放置されたせいだけではない。大昔、大勢の人たちが意図的に壊した跡が見て取れる。かつては大事にされてきたであろう神殿は、ケビトの人々が使っていた古の言葉のように、壊されてしまっていた。 誰もを拒まず受け入れていたはずの入り口は、倒れた柱で塞がれている。まだ子供のシェルータでは背伸びをしても柱の向こうが見えず、何度か飛び跳ねる必要があった。 そうして覗き込んだ中は昼間だというのに真っ暗で、何も見えない。しかし、この程度でシェルータはめげない。シェルータらしからぬお転婆さで柱をよじ登ると、真っ暗な神殿の中に入っていった。 神殿には、明かりの一つもない。転がる|石塊《いしころ》を踏んづけてしまわないよう気をつけながら、シェルータは恐る恐る、奥へと進んだ。 光差さない入り口から奥へ進むと、だだ広い広間に出た。そこからさらに真っ直ぐ進むと、祭壇らしきものがある。そしてその上には悪魔が横たわっていた。 ごろりと横になって眠る悪魔に気づいた途端、神殿のあちらこちらに明かりが灯った。明かりの源は照明具ではない。宙に浮かぶ鬼火のようなものだったが、シェルータの目には見えていなかった。シェルータの視界には、恩人である悪魔しか入ってこない。 嬉しそうに「神さま!」と声を上げたシェルータは、今まで怖々歩いていたことを忘れ、祭壇で横たわる悪魔に駆け寄った。
「おはようございます、神さま!」
駆け寄った途端、シェルータは「きゃあ!」と声を上げた。悪魔の姿は、おおよそ昨夜見たままだ。馬の下半身、褐色の肌、蝙蝠の翼。けれど褐色の首に乗るのは、牛の首だった。 あわあわと驚くシェルータの声で起きたのか、悪魔はだらりと垂らしていた尻尾をぴくりと揺らす。シェルータは、今目の前にいるのが礼を言う相手か悩んでしまった。もし違うのであれば、本物の悪魔かもしれない。そうならば、自分は食べられてしまうかもしれない。 もう一度挨拶をするか、早々に踵を返すか逡巡している間に、悪魔はうっすらと目を開けた。
「……何だよ」
かすれた低い声は不機嫌そのものだが、シェルータは寧ろ安心した。自分を助けた悪魔の声で間違いなかったからだ。ほっとしたシェルータは、ぱっと顔を輝かせると、にこにこと笑って悪魔に再度挨拶をした。
「おはようございますっ。きのっ、昨日は助けてくだしゃりっ、ありがとうございましたっ」
シェルータの元気な声が寝起きの頭に響くのらしい。悪魔は低く唸ってゆっくりと起き上がった。蝙蝠の翼が音もなく広がり、牛の顔が昨夜の青年の顔へと戻っていく。 人の顔になった悪魔は首に手を添えごきりと音を立てると、「それで?」とシェルータを見下ろした。
「それで……まだ俺に何か用か」
薄明かりの下では、悪魔の大柄な体と翼で作られる影は怪物のように恐ろしい。しかしシェルータが恐れることはない。シェルータの世界に恐ろしい怪物も悪魔もいない。いるのは古から信じてきた神だけだ。 眠たげに持ち上げられた瞼の下、明るい茶色の瞳だけを見て、シェルータは薬草の礼を加えた。
「あとっ、薬草もありがとうございます。母も感謝しておりますっ」
自分を恐れる様子がないシェルータに毒気を抜かれたのか、悪魔は翼を畳み、すとんと肩から力を抜いた。
「それだけなら、もう帰れ」
犬を追いやるように手を振ると、悪魔は祭壇にごろりと寝転がった。帰れと言われてあっさり帰るわけにはいかない。そっぽを向かれていないならばまだ会話はできるはず。シェルータは自分の背丈ほどの祭壇に飛びつき、悪魔に話しかけた。
「あのっ、わたし、シェルータです。古い言葉から意味をもらってますっ」 「そりゃよかったな。興味ないからもう帰れ」 「だ、だめです! お礼をしに来たんですからっ」 「いらねえよ、そんなもん」
ぶすっと拗ねた顔をする悪魔を見ても、シェルータはめげない。寧ろ子供のような表情をする悪魔に親近感すら覚えた。 シェルータは祭壇から体を離し、〝お弁当〟と称して持ってきた野菜を祭壇に載せた。
「春さまに喜んでもらえたらって、お野菜を持ってきました」 「春さま?」 「春さま、ですよね。昔の言葉はもう誰もわからないんですけど……神さまの名前、意味は〝春呼ぶ蹄〟だって教えられてます」
シェルータは目を輝かせるが、悪魔は反対に、ますます不機嫌そうな顔になったようだ。野菜を一瞥しただけで寝返りを打ち、そっぽを向いてしまった。それでも構わずシェルータは喋る。
「わたしの名前は〝古の歌〟を意味してるそうです。わたしの家系は、ずっとずっと、春さまのことを伝えるために、帝国の支配下に置かれてからも昔の言葉を――」 「覚えてたなら」
そっぽを向いたままの悪魔が、シェルータの言葉を遮った。思わず口を噤んだシェルータに、悪魔は間を置いて続けた。
「何で、誰も来なかったんだよ」
シェルータを振り向きもしない悪魔の声は、低い。横たわる体は大きく、向けられた背中からは威圧感すら漂う。しかしなぜかシェルータの目には、その背中が小さく見えた。馬の尻尾が寂しそうに揺れていたせいかもしれない。ゆらり、ゆらりと揺れる尻尾を見つめ、うつむき、シェルータは囁くような声で謝った。
「……ごめんなさい、春さま」 「名前で呼ぶな」 「いやです」
顔を上げたシェルータは、そっぽを向いた悪魔をしっかりと見つめた。
「わたし、通います。これから毎日、春さまのところに来ます。春さまが、寂しくないように!」 「寂しいなんて言ってない」
もう慣れた――と、悪魔はぽつり呟いた。その寂しげな声に、シェルータは胸が締めつけられた。一度は身を離した祭壇に縋り、シェルータは「だめです」と首を振った。
「これからは、わたしがいることに慣れてください」
あえて悪魔の前に回るようなことはせず、シェルータは持ってきた野菜を悪魔の枕元へ置いた。悪魔はそっぽを向いたままだが、シェルータは構わなかった。
「今日はお手伝いを言い訳に森に入ったんです。だからそろそろ戻らないと。明日からはもっと長くいられるようにしますね」 「来なくていいって言ってるだろ」 「来ます!」
思わぬ強い語気に、悪魔は微かに息を呑み、それから大儀そうに大きく息を吐いた。
「……狼に襲われても知らないからな」 「母さまに狼除けのお札を書いてもらいますから、平気ですっ」
それでは、と言い残し、シェルータはぱたぱたと足音を響かせ神殿を出て行った。足音が遠ざかって、ようやく悪魔は身を起こし、シェルータの姿が見えない出口を睨んだ。
「……祭司の血、途絶えてなかったんだな」
悪魔がそう呟いたことも、シェルータが置いていったお供えに手を伸ばしたことも、この日のシェルータが知ることはなかった。
***
3 一人のための道
それからシェルータは、毎日悪魔の元へ通った。森の中はある程度人の手が入っているが、あくまでケビトの村の者が通る範囲だけだ。神殿への道は、獣道も同然だった。 シェルータは運が良かった。初めて神殿へ行ったあの日、秋の森で獰猛な動物と出会わなかった。次の日も、その次の日も、兎の一羽すら見かけなかった。 しかしそんな幸運、何度も続くはずもない。 鈍色の雲が空を覆い、しとしとと雨が降る昼日中のことだった。こんな雨の日は、樵も飼料集めの女子供も、家に籠もって内職に励む。ケビトの森番は金にがめついが不真面目だ。こんな雨の日は小屋に入り、小屋の前を通る間抜けしか取り締まらない。 シェルータはこっそりと、村のはずれから森に入った。母にもらった目隠しの札と狼除けの札を過信しての愚行だ。 雨に濡れながら、シェルータは道とも呼べない道を急いでいた。胸には悪魔に捧げる野菜を抱いている。そして手には狼除けの札を握りしめている。次第に強まる雨は狼除けの札を濡らし、呪文の効力を薄めていった。 森を抜けるまであと一歩というところで、シェルータの手からしとどに濡れた札が抜け落ちた。効力が切れた反動だろうか。野菜なぞ興味ないだろうに、低木の間から、黒と柿色がまだらになった狼が飛び出してきた。狼の機嫌はすこぶる悪いようだ。鼻面に皺を寄せ、体勢を低くして唸っている。金色の瞳は、シェルータをしかと見据えていた。 狼の前足に力がこもるのを、シェルータは見た。逃げねばならないとわかっていても、背を向けることなんてできないし、そもそも体が強張っている。動けないシェルータは、もうだめだと目を瞑った。
「おい」
知った声が降ってきた。やや遅れて、狼が情けなく短い悲鳴を上げた。自分を襲う痛みがいつまでたっても来ないから、シェルータは恐る恐る目を開けた。目の前にあったのは、暗闇より深い色をした馬の脚だ。神殿にいるはずの悪魔が、シェルータの前に立っていた。その手には仔犬のようにぶら下げられた狼がいる。
「何してんだ」
これは狼にかけた言葉らしい。悪魔の明るい茶色の目は、狼の金色の目を見ている。狼は尾を脚の間に巻き込み、申し訳なさそうに短く鳴いた。
「人間なんざ襲ったって腹は膨れないだろ。群れに帰れ」
狼が了承したように一声鳴くと、悪魔は褐色の手から狼を解放した。走り去る狼は、シェルータを振り返りもしなかった。 一方、悪魔はシェルータを振り返った。シェルータを見下ろす顔は険しい。
「お前……こんな危ない道から通ってんのか」 「それはっ、この道しか、ないからです」
普段この森は人が多く、人に見つからずかつ遠回りをしないのなら、この道しかない。シェルータは慌てて言い訳をする必要があった。
「今日は雨だけど、晴れた日なら、猟をする人や、木を切る人たちに見つかっちゃうから……神さまのところに、通えなくなります」
しゅんとしょげるシェルータの言い訳に、悪魔は目を伏せてため息をついた。
「俺が来なくていいって言ってんだから、来なくていいだろ」 「だっ、だめです! だめ、神さまが寂しくなっちゃう!」
ぶんぶんと首を振るシェルータの様子に、悪魔は顔を顰めた。狼を止めた時よりも低い声が「寂しいなんて誰が言った」と否定する。しかし目に滲む寂しさは隠し切れていない。シェルータがまだ何か言おうとすると、悪魔は褐色の腕を伸ばし、シェルータが大事に抱く野菜を掴んだ。
「お前はこれさえ渡せればいいんだろ。もう今日は帰れ」 「でも、」 「いいから帰れ」
悪魔の大きな手がシェルータの頭を掴んだ。大きな手に操られるまま、シェルータはくるりと踵を返す。シェルータは渋々、来た道を戻ることになった。家路に一歩踏み出しながら、シェルータは悪魔を振り返った。
「明日も来ます。だから……だから、あの……待っててくださいね」
真剣な光を宿す目を一瞥し、悪魔は小さな声で「勝手にしろ」と目を逸らした。シェルータは笑顔になり、家への道を駆け戻った。 そして、その翌日。 青空が広がり、心地いい風が吹いていた。この天気なら狼除けの札が濡れることはないだろう。シェルータは前日同様、札を握りしめて意気揚々といつもの道を歩いていた。 この日シェルータは悪魔への供物を抱えておらず、精々夕飯用の茸と飼料用の木の実を篭に入れていた程度だ。しかしその程度でも獣の鼻にはよく届くのだろう。シェルータは目の前に現れた熊を見て、森への認識が甘すぎたことに気づいた。 シェルータがこうなることを予測していたかのように、音もなく悪魔が現れた。音も立てず空から下りてきた悪魔は、熊を説き伏せ、シェルータの篭から一掴みの木の実と茸を渡して立ち去らせた。 目を輝かせる見上げてくるシェルータを、悪魔は呆れながら見下ろした。
「お前は本当に、強情なガキだな……」 「お父さん譲りの頑固さらしいです」
にこにこして答えるシェルータを見て、悪魔は頭痛でも覚えたのか、こめかみを押さえてため息をついた。
「……道を作ってやるから、そこから来い」 「道って、作れるものなんですか?」 「疲れるから、あんまりやりたくないけどな」
悪魔が作り出した〝道〟は、狼も熊も寄りつかず、シェルータ以外の人間に知覚できない道だった。正真正銘、シェルータ《《が》》神殿へ通うため《《だけの》》道だ。 歩きやすく、誰にも見つからない、護符を持たずに歩ける道。これをシェルータが喜ばないはずがない。
「ありがとうございます、春さま!」
喜色満面で礼を言われ、悪魔は困ったような、拗ねたような顔をした。もごもごと何か言い訳めいたことを口にしているが、その声は小さすぎてシェルータには届かない。シェルータは眩しいほどの笑顔で悪魔へ感謝の気持ちをぶつけるばかりだ。 二人は連れ立って神殿へ向かった。悪魔が翼を使えばすぐの距離だが、悪魔は馬の足で同じ道を踏み締めた。隣では、シェルータが目を輝かせながらあれこれと悪魔に話す。 他愛もない世間話だ。神殿に引きこもっている悪魔には理解の及ばない話もあった。それでも悪魔は、シェルータが話すのを止めなかった。 感謝と憧れ、そして親愛で輝く瞳が自分に向いている。久しく忘れていた光を正面から浴びて、悪魔は眩しさに目を細めたくなった。しかし、悪魔はわずかに目を眇めただけ。そして口元はほんの少し、目を懲らさなければ気づかないほどに和らげられていた。
***
4 春呼ぶ蹄
冬になっても、シェルータは悪魔の元へ通った。悪魔は渋い顔をしていたが、シェルータの頑固さと熊や狼の脅威がなくなったことから、シェルータの好きにさせていた。 しかし、一度大雪に見舞われたシェルータが遭難しかけたことで態度は一変する。シェルータが次から気をつけると言い張っても悪魔は聞く耳を持たず、冬の間は森に入ることを禁じてしまった。
「春さま、春さま、入れてください」
森に戸を作られたわけではない。なのにシェルータは、爪先すら森の中へ入ることが許されない。戸を引っ掻く仔猫のように森の入り口で懇願しても、悪魔はシェルータが森に入るのを許さなかった。今でこそ悪魔だが、元は神だ。この程度、造作もないのだろう。 今が冬でよかったと、シェルータは内心ホッとしていた。これが秋だったなら、飼料集めで森に入ることもできない。足先すら森に入れないシェルータを、周りは訝しむだろう。そうなればシェルータのみならず、母まで村を追い出されるかもしれない。 そうならなくてよかった――と、シェルータは安心して家に籠もった。母と針仕事に励み、時に編み物も拵え、春を待つ。晴れた日は外に出て日差しを浴びながら、悪魔の寂しそうな横顔を思い出した。
「早く雪が溶ければいいのに」
春を待ち遠しく思うシェルータに応えるように、日差しは日ごと暖かさを増し、やがて降り積もった雪は溶けた。悪魔も春の訪れを認めたのだろう。シェルータはようやく、森に入れるようになった。 足取りも軽く森に入ったシェルータは、熊にも狼にも出会うことなく森を出て、丘を登った。丘の上の神殿は、相変わらず崩れかけている。冬と比べて変わったのは一つだけ。入り口を塞ぐように倒れていた柱が、撤去されていることだ。 シェルータのために柱が退けられたことは想像に難くない。シェルータは嬉しく思うと同時に、恥ずかしさで頬を赤らめた。 神殿に入るとき、シェルータはいつも柱をよじ登っていた。はしたない姿を見られたかもしれない恥ずかしさ。いつも気怠げな悪魔が自分のために柱を取り去ってくれた嬉しさ。どちらが勝ったかは、シェルータの足取りと「春さま!」と呼ぶ弾んだ声でわかるだろう。 悪魔はいつも通り、祭壇に横たわっていた。どこか違うところを見つけるならば、眠たげな顔つきだろう。肘をついて「ん」と短くうなずく様子は、寝起きそのものだ。齧り付くようにして祭壇に顔を覗かせたシェルータは、あら、と声を上げた。
「春さま、眠いんですか?」 「俺は万年眠い」
もごもごと返され、シェルータはそうかしらと首を傾げた。言われてみれば、瞼はいつも重たげだったかもしれない。寂しげな様子が目について、眠そうという発想に至らなかったのかもしれない。 まだうとうとしている悪魔の顔を、シェルータはじっと見つめてみた。今までから悪魔とは近距離で話しているシェルータだが、こうして悪魔の顔をまじまじと見つめるのは初めてだ。 いつぞや述べたように、悪魔の顔立ちは整っている。甘い顔立ちといっても差し支えない。シェルータはようやく悪魔の顔立ちが整っていることに気づいた。 祭壇に齧り付いていた手を離し、シェルータは少しだけ悪魔から離れた。今まで無遠慮に近づいていたことが、急に気恥ずかしくなってしまった。頬を押さえ照れるシェルータを、悪魔が怪訝そうに見やる。
「何だ急に……。どうした、顔なんか押さえて」
痛むのかと心配され、シェルータは「違います!」と元気に否定しなくてはならなかった。ぶんぶんと音を立てて首を振るシェルータを見て、悪魔は面倒くさそうに「そうか」と呟き目を閉じた。
「そんで……今日は何しに来た?」 「はいっ。あの、は、春さまにいろいろお話ししたくって! 冬の間、いろんなことがあったんです」
悪魔はもう、シェルータを追い返さない。シェルータが満足するまで神殿にいることを、拒絶しない。相づちもろくに打たないが、話すシェルータから目を逸らすことはない。 シェルータはそれが嬉しくて、村であったこと、自分の家で起きたこと、森の中で見たものを悪魔に話す。楽しそうに話すシェルータの声に、悪魔も静かに耳を傾けた。 積もった雪のようにたくさんあった話も、毎日のように通えばあっという間に尽きてしまう。話題がなくなってシェルータが黙り込んでも、悪魔はシェルータを追い出さない。しかし眠気が勝るのか、うとうととうたた寝を始めてしまう。シェルータはそれが寂しくて、どこか物足りなくて、どうすれば悪魔が起きていてくれるかを一生懸命考えた。 そして思いついたのが、自分の名前だ。
「春さま、わたし、歌が得意なんです」
眠る悪魔と目を合わせるため、シェルータはいつも祭壇に手をかけ爪先立ちになる。いつかは顔をまじまじと見て照れたというのに、そんなことはもう忘れたらしい。悪魔の重たげな瞼が持ち上がり、近距離にあるシェルータの顔を見る。 瞼はすぐに閉じられた。悪魔は興味の薄そうな声で「そうかよ」と返す。だがこの程度ではめげるシェルータではない。
「歌いますから、聞いてくださいますか?」 「好きにしろよ」
本当に興味がなければ、悪魔は素っ気なく寝返りを打つ。今の悪魔はまだ、シェルータに向き合ってくれている。それが嬉しいシェルータは、悪魔から数歩離れると、一度だけ深呼吸をしてから歌い出した。
「子豚、子豚、大きく肥えろ。まんまるに肥えろ。そうしてみんなの腹満たせ。……」
シェルータが歌い出したのは、豚の番をするときの牧歌だった。豚に飼料を与えるときや、与えるための飼料集めのとき、村の誰もがよく歌う。 歌いながらもシェルータは悪魔の様子を見ていた。反応は芳しくない。歌い終え、すぐに次の歌を歌う。次の歌は収穫の歌だ。
「光れ、光れ、朝露よ。大地の恵みがわかるように。輝け、輝け、麦の穂よ。一粒たりとも見逃すまいぞ」
しかしこれも、悪魔の反応は薄い。
「人の子にしちゃ上手いんじゃないか」
二曲歌い終えても、この一言だけだ。シェルータはちょっぴり悔しくて、知っている限りの歌を歌った。しかしどれも悪魔の琴線に触れることはない。 持ち歌が尽きたシェルータは、うぅん、と悩んだ。
「あとは……ほかは……あっ!」
またうたた寝をしようとする悪魔に「もう一回だけ!」と頼み込み、シェルータは最後の一曲を歌い始めた。 それは帝国でも、異国のものでもない言葉で紡がれた歌だった。歌っているシェルータ自身、この歌が何を表す歌なのかわからない。シェルータに教えた母も、そのまた母も、自分たちの母から教わっただけで、意味を知らない。しかし確かに、彼女らの血筋に連綿と受け継がれてきた歌だった。 この歌に、悪魔は反応した。目を見開き、シェルータを見つめる。シェルータが歌い終えるのを待つと、悪魔は「久々に聞いたな」とぽつり呟いた。
「……昔は、誰もがこの言葉で話してた。この言葉で、俺に名前をつけた」
ぽつぽつと、珍しく悪魔が昔を語った。 その昔、ケビトの村がもっと大きく、帝国に飲み込まれていなかった頃。悪魔はケビトの者たちから神でありながら隣人として扱われていた。今のように神殿に籠もらず、春になればかつて山だったこの丘を下り、ケビトの者たちと交流をしていた。 その蹄の音が春の訪れをケビトの者たちに告げることから、悪魔は彼らの言葉で〝春呼ぶ蹄〟と呼ばれるようになった。 悪魔は目を伏せ、懐かしそうに語る。
「ケビトの誰もが、俺が山を下りてくると喜んだ。畑を手伝ってやれば礼を言って歌を教えてくれた。一緒に歌えば、畑を手伝うよりも喜んでくれたっけな」
シェルータは祭壇に近づき、悪魔のそばで話を聞いた。悪魔の尻尾がゆらゆら揺れて、時折、祭壇に置かれたシェルータの手をぱたぱたと叩く。
「羊を襲おうとやってきた狼を追い払ったときなんか、宴を開いてくれた。そうだ、あの頃は豚じゃなく、羊を飼ってたんだ。今じゃあほとんど見なくなったな。あいつらの鳴き声は気が抜けて好きだったけどな」
そう言って悪魔は目を細め、「懐かしい」と呟いた。その顔は少しだけ、ほんの少しだけ、笑っていた。 悪魔の笑顔を見たシェルータの目が、星のように輝く。祭壇の縁を掴む手に、シェルータはぎゅっと力を込めた。夢見るような声が「春さま」と悪魔を呼ぶ。
「わたし……わたし、もっともっと歌を覚えます。春さまが好きな言葉、たくさん使えるように頑張りますからっ」
勇み立つシェルータの様子に、悪魔はきょとんと目を瞬かせた。シェルータが自分のために歌を覚えると言い出したことを理解すると、今までで一番柔らかな笑みを見せた。
「お前が覚えたくなきゃ、無理しなくていい」
珍しく悪魔から笑みを向けられ、穏やかな声でそう言われたシェルータが張り切らないわけがない。「覚えてみせます」と言い切ったシェルータは、鼻息も荒く家に帰った。
「母さま、もっと歌を教えて!」
家に帰るなりそう言うシェルータに、母は目を丸くし驚いた。娘の目に宿る光が本気を表しているのを見て取り、母は穏やかに目を細めた。
「そう。それじゃあ、何から教えようかしら。どの歌を教えようか、悩んでしまうわね」
嬉しそうな声だった。思い出すように目を閉じた母は、自身も母から教わったという古の歌を、シェルータに教えた。 普段であれば、数日かけて教え込む。けれどその日のシェルータはいつにもまして真剣だった。今まで誰も一日では覚えなかった歌を、シェルータはその日のうちに覚えてみせた。 娘の成長に母は喜び、得意げなシェルータを優しく撫でた。
「あなたも大人になったら、あなたの子に教えるのよ」
微笑む母の言葉に、シェルータの胸はなぜだかつきんと痛んだ。痛みの理由がわからぬまま、シェルータはまた神殿に通い、覚えたばかりの歌や、悪魔が喜ぶ歌を披露する。その度に悪魔は、少しだけ、微かな笑みを見せた。悪魔の周囲を漂う寂しげな空気が消え、表情が和らぐ。
「よくもまあそうたくさんの歌を覚えられるな」
いくつもの歌を歌い終え息を切らすシェルータに、悪魔が呆れ混じりにこう言った。シェルータは息を整え、胸を張る。
「だってわたしは、〝古の歌〟ですから」 「だからって、俺以外に聞かせる訳でもないんだろう?」 「春さまのためだからこそです。春さまが聞いてくださるなら、わたし、何百曲でも覚えます!」
シェルータの台詞に、悪魔は小さく噴き出した。
「何だってそこまで俺に構いたがるんだか」
――だってあなたが、大好きだから。
思わず口をついて出そうになった言葉に、シェルータは両手で口を塞がなければならなかった。 いつかのように、シェルータの頬が真っ赤に染まる。ああそうかと、シェルータは納得した。自分がこの悪魔に恋心を抱いていることを、自覚した。しかしその恋心はまだ、勢いで打ち明けられるものではない。 声に出せない気持ちを抱いて、シェルータははにかみ、微笑んだ。 シェルータの胸に芽吹いた恋心は、十年かけて大輪の花を咲かせる。しかしそれはまだ、悪魔もシェルータ本人も知り得ないことだった。
***
5 意識の変わるお年頃
シェルータが悪魔の元へ通い詰め、十年が過ぎた。 春になり、シェルータはもう十七だ。悪魔の膝頭ほどだった背丈はずいぶん伸び、今では悪魔の胸元ほどまでになった。 そろそろ浮いた話の一つ、それどころか嫁入りしていてもおかしくない年頃といえる。なのにシェルータは相も変わらず理由をつけては森に入り、神殿へ通っている。そんな訳で、シェルータは村の誰とも良い仲になっていなかった。 シェルータが森に通い詰めていることを知る者は、母のほかにいない。森に入りさえすれば、森の中で悪魔が作った道を歩けば、シェルータの姿は誰にも見つけられないからだ。森から神殿に通うことを誰も知らないのは当然といえる。 しかし不思議なのは、シェルータが森に入るところすら誰も見ていないことだ。元神の加護か、悪魔の幻惑か。こればかりはわからない。確かなのは、シェルータがやってくることを悪魔は歓迎し、シェルータもまた悪魔との時間を大事にしているということだ。 神殿の入り口から「春さま」と呼べば、神殿の奥から「何だ、〝歌〟」と返ってくる。シェルータの名の意味は〝古の歌〟だ。悪魔はそれを縮め〝歌〟と呼ぶ。悪魔だけが呼ぶ特別な名が、シェルータは嬉しかった。 シェルータが成長し、恋心がより深いものに変わりゆくように、悪魔も少しずつ変わり始めていた。滅多なことでは神殿から出なかった悪魔が、少しずつ外へ出るようになった。元は神であり、森を統べる者だ。信仰が薄れて以来その仕事を放棄していた悪魔だが、熱心に通うシェルータに危険が及ばぬよう、ここ十年はしっかりと働いていた。 悪魔が神殿を出るときは、シェルータも付き添って外に出る。森の主として働く悪魔の姿を、森の生き物たちは喜んだ。シェルータは彼らの言葉を理解できないが、その喜びようは伝わった。
「春さまは、動物にも頼られてますね」 「俺なんて、動物しか頼らない」
時々、悪魔の口からは卑屈な言葉が出る。シェルータはそんなこと、と言いかける。ケビトの者に信仰心がないのは事実だ。言葉だけの慰めなんて口にできず、シェルータはいつも胸を痛めて言葉を飲み込む。
「……言葉の通じない動物にまで頼られるなんて、なかなかないことだと思います」
動物たちの困りごとを聞いてやる悪魔に、そんなありきたりな、平凡な言葉しか、かけられなかった。 もどかしさを覚える日もあった。悲しさを覚える日もあった。けれど喜びに満ちた日もあった。たとえばそれは、春も半ばを過ぎ、夏が近づいてきたある日のことだった。 悪魔とシェルータは、丘の上までやってきた兎たちの話を聞いてやっていた。しゃがみ込んで目線を合わせる悪魔とシェルータに、兎たちは非常に困ったことがある、と訴えた。 兎たちの困りごとは、熊がいたずらに自分たちの巣を掘り返すことだった。食べるために巣を狙うならまだしも、暇潰しで住まいを壊されてはたまらない。壊すならば人間の家にしてくれ、と主張する兎の言葉を訳しながら、悪魔はシェルータに目をやった。悪魔の隣で膝をついていたシェルータは、兎の主張に苦笑いするほかなかった。
「あんなに小さい穴なんだから、また掘ればいいだろ」 「春さま、私たちからすれば小さな穴ですけれど、兎たちにとっては大きな穴だと思いますよ」 「そうか。じゃあ俺が掘ってやるから、いい場所を言え」
新しい巣穴を掘ってもらえると聞き、兎たちはきぃきぃと喜んだ。その時だった。ぽつりと、小さな水滴が兎の黒い鼻を濡らした。兎が顔を上げるのを待っていたかのように、小粒の雨が降り注ぐ。気づいたシェルータも「あら」と空を見上げた。
「雨ですね、春さま」
シェルータの台詞を皮切りに、雨は強さを増した。兎たちは慌てて森へ駆け戻る。自分たちも神殿に戻らなければ、とシェルータも立ち上がろうとした。 それを押しとどめるように、頭上に影が差す。見上げると、悪魔の翼が覆い被さるように広がっていた。翼が雨から隠すのはシェルータだけで、悪魔の大柄な体は雨に濡れるがままになっている。シェルータは目を見開き、「春さま」と悪魔の腕を取った。
「濡れてしまいます。神殿に戻りましょう、春さま」
腕を取って立ち上がらせようとするシェルータに、悪魔は首を振る。
「恵みの雨だ。俺にはちょうどいい」
そう言われても、翼を借りて雨宿りするシェルータは罪悪感を持ってしまう。申し訳なさそうな顔をするシェルータに、悪魔も寂しそうな顔を見せた。
「濡れてもいいから、もう少しだけ〝歌〟とここにいたい。……って言っても、だめか?」
それは悪魔が滅多と見せない、あどけない顔だった。真っ直ぐに見つめられ、シェルータは赤くなりながら、悪魔の腕をそっと放した。
「そ……それじゃあ……もう少し、このままで」
離れようとするシェルータの気持ちも知らず、悪魔は「濡れるだろ」と翼で抱き寄せた。シェルータの肩と悪魔の肩が触れ合い、衣服越しにじんわりとしたぬくもりが伝わってくる。恥じらいが限界に達したシェルータは、耳まで赤くなってしまった。だが悪魔にシェルータの気持ちはわからない。赤らんだ耳に気づいた悪魔は、不思議そうにシェルータの顔を覗き込んだ。
「何だ、もう風邪引いたのか。耳まで赤くなってるな」
ともすれば鼻先が触れそうな距離に、シェルータは後ずさろうとした。しかしそれは、悪魔の翼に防がれる。じわりじわりと悪魔から顔を逸らしながら、シェルータは風邪ではないと否定しようとした。けれど、ではなぜだと聞き返されては困る。
「ち、ちが、ちが……わな、い、かも……?」
顔が赤らんだ理由を言えないシェルータは、そんな曖昧な返ししかできなかった。赤くなるシェルータを風邪だと信じて疑わない悪魔は、寒いならば神殿に戻るか、いやそれよりも村に戻るかと気遣う。
「ここからなら、抱えて飛んでも濡れないだろ。運ぶぞ、シェルータ」 「いえっ、平気です。本当に平気です、春さまっ。大丈夫ですから、そ、それ以上近づかれたら本当に熱が出てしまいますから!」
シェルータの必死の懇願も、悪魔には理解できないようだった。首を傾げる悪魔を、シェルータは正面から見ることができなかった。
――春さまは神様だもの。私の気持ちなんて通じないよね。なのにどうして、こんな気持ちを抱いてしまったんだろう。
無意識に、両手が頬を押さえてしまう。シェルータの仕草の理由を悪魔は理解し得ない。 蝙蝠のものとよく似た翼を雨粒が叩く。とたとたと軽い音に混じり、シェルータは自らの鼓動を聞いた。 恥じらい、うつむくシェルータの隣で、悪魔の目は雨に濡れる草花に向いている。かと思うと、悪魔は可憐な花を摘んでしまった。悪魔にしては珍しい所作だ。怪訝に思ったシェルータが「春さま?」と呼ぶ前に、悪魔はシェルータを振り向いた。
「ん」
褐色の指が、シェルータの編んだ髪に花を差し込んでいく。暗褐色の髪に、可憐な花々が彩りを添えられた。悪魔は何度か角度を変えて出来映えを確認すると、満足げに「いいな」と笑った。
「〝歌〟には花がよく似合う。花も喜んでるぞ」
朗らかな笑みを正面から見て、シェルータの顔から赤みが引くことはないだろう。耳まで赤くなってうつむいてしまったシェルータの髪に、悪魔は「もう少し飾るか」と言ってどんどん花を差し込んでいく。 人の心、神知らず。 そんな言葉が浮かぶ光景だった。
***
さて、シェルータに浮いた話がないのは悪魔の元へ通い詰めているから――というのは理由の一つだ。シェルータに浮いた話がないのは、とある男がケビトの村に圧力をかけていることが大きい。 ケビトの村に圧力をかけるほどの男とは、領主の息子テオバルトだった。年の頃は、シェルータよりも二つほど上。ふわふわと風に揺れる金の巻き毛に優しげな緑の瞳が特徴の彼は、いつからかシェルータにご執心だ。 そのきっかけは何だったのか。 父である領主と狐狩りにやってきたテオバルトが森で迷ったところを、シェルータが助けたからだったか。 初めての狼狩りで張り切って怪我をしてしまったテオバルトの手当てをしたのが、シェルータだったからか。 テオバルトが執心する理由を、シェルータは知らない。自分が悪魔に思いを向けるように、他者から思いを寄せられているなんて、シェルータは考えたこともなかった。自分に嫁入り話の一つも持ち上がらないのが彼のせいだなんて、夢にも思っていないだろう。 だからシェルータはこの日も、連絡もなしにやってきた領主の息子テオバルトが直々に戸を叩いたときはどうしたものかと困り果てた。 兜こそ取っているものの、春の日差しを受けて輝く甲冑は物々しさを隠さない。甲冑を着込む理由は、尋ねるまでもなくテオバルトが明かした。
「この辺りの村々で山賊の被害が増えてると聞いてね。心配だからきみの顔を見に来たよ、シェルータ」 「それは光栄です、テオバルト様」
開け放した戸の前で、シェルータは表情を曇らせ、テオバルトは白い肌と金の髪を輝かせる。笑顔のテオバルトの後ろでは、同じく甲冑に身を固めた従者がシェルータの母に果物の篭を渡していた。 篭いっぱいの果物はケビトの土地でできるものではなく、遠い異国から仕入れたもののようだった。シェルータの家どころかケビトの村の誰も買うことのできない高級品だ。 恐縮する母とシェルータに、テオバルトは「気にしなくていい」と朗らかに笑って見せた。
「安物だよ、このくらい。きみにはいいものを食べさせてあげたいんだ、シェルータ」 「そんな、私なんかにはもったいない……。それよりもテオバルト様、山賊を追われているのに、寄り道されてよろしいんですか?」 「ああ、まあね。二手に分かれていて、僕はその片方なのさ」
シェルータにいいところを見せられると思ったのか、テオバルトは誇らしげに胸を張った。聞かれてもいないのに近くの村で山賊の手がかりを見つけ、塒がケビトの近くにありそうだということまで語る。シェルータと母は、果物の篭を手にしながら曖昧にうなずくしかできない。 よく話して舌が滑らかになったのか、テオバルトは頬を紅潮させ、改めてシェルータに向き直った。
「父上も領民が怪我をして働けなくなると困るから、私兵を出してはくださっているけどね。ケビトは特に僕らの屋敷から遠い領地だから、いざというとき、間に合わないかもしれない」
そこでだ、とテオバルトはシェルータの手を取った。
「きみをね、この村から出してあげようと思うんだ」
戸惑うシェルータに、テオバルトは笑顔で続ける。
「きみはこんな村の出にしては教養がある。都会へ出たって恥をかくことはない。きみの母親も世話してあげるから、心配はいらないよ」 「あの、テオバルト様。お話が理解できないのですが……」 「きみに求婚しに来たんだよ、シェルータ」
にこにこと笑っていたテオバルトが、ここで初めて真剣な顔をした。優しげな緑に熱が浮かぶ。シェルータは無意識に一歩下がろうとしたが、テオバルトに掴まれた手がそれを阻んだ。
「階級が必要なら養子になればいい。子供たちが皆片付いた親戚がいてね。未亡人だから、肥え太った醜い中年男に手を出されることもない。安心して地位を得て、少しばかり貴族の作法を教わって、それから嫁いでおいで」
シェルータは困り顔のまま、テオバルトに掴まれた手をそっと引き抜いた。テオバルトを見上げ、シェルータはゆっくりと首を振る。
「もったいないお言葉です。でもテオバルト様には、私なんかよりもっとふさわしい方がいらっしゃいますから」
やんわりとした口調だった。決して強く拒絶しているわけではない。かといってテオバルトの求婚を受け入れる余地を感じさせない。テオバルトは悲しげな顔をして笑みを引っ込めた。眉尻を下げ、不安でたまらないといった声音で、シェルータに迫る。
「シェルータ、もしかして僕の言葉を冗談だと思っているのかい? それとも、本妻じゃなく愛妾として迎えるつもりだと勘違いしてる? 僕は本気だよ、シェルータ。きみは領主夫人になれるんだ」
嘘偽りは述べていないと、シェルータにもわかった。わかったところで、シェルータの心にテオバルトが入り込む隙間などない。シェルータは首を振るしかできない。
「平民が嫁いだことで、いかほどの泥を塗るか想像もつきません。私には荷が重い話です。テオバルト様、どうか私のことなどお忘れになってください」
テオバルトの顔から、悲しみや不安が消えた。代わりに浮かび上がったのは、傲岸不遜な貴族の顔だ。
「泥……泥ねぇ。家に泥を塗られるよりも、僕の顔に泥を塗られたことのほうがよっぽど気になるな」
シェルータはハッと息を呑み、身を縮め謝罪した。恐れ入るシェルータが謝意の言葉を並べ立てるのを、テオバルトは「謝らなくていいさ」とおっとりした声で止める。
「きみが村の誰とも良い仲になっていないのは知ってるよ。きみが村から出ることがないのも知ってる。なのにきみは僕を拒む。はてさて、きみの思い人はどこにいるんだい?」
緑の目の奥で、ちらちらと炎が揺れている。その炎が何を示すかわからないなりに、シェルータはひやりと恐ろしさを感じた。自分を見つめる緑の目から顔を逸らし、シェルータは口を閉ざす。テオバルトには、それが苛立たしかったようだ。
「きみの美徳が、今はもどかしくてたまらない。シェルータ、僕はきみを手に入れる。どんな手を使ってでもね」
冷え切った声に、シェルータは怖々とテオバルトの表情を窺った。テオバルトはいつもの柔和な笑みを浮かべている。だというのに、嫌な予感がシェルータを襲う。 シェルータが一声うなずけば、テオバルトはこれ以上こだわらないだろう。それでもシェルータは、テオバルトの求婚にうなずけない。 従者を引き連れ「またね」と去って行くテオバルトを見送るシェルータは、悪魔のあの寂しげな顔を見たくてたまらなかった。
***
6 古の盟約
脅しといえる台詞を残したテオバルトが去って、シェルータがその台詞を忘れる頃には季節が移り変わり、秋になっていた。 そろそろ飼料集めに子供たちを雇わねば。いやいやあそこの畑で収穫が先だ。それよりも冬に備えて潰す家畜を選んでおかないと。 そんな風に村中が秋の訪れを喜んでいた矢先の、ある夜だ。ケビトの村に、山賊たちが押し入った。 身なりこそ小汚いものの、屈強な男たちばかりだった。寝入った家々に押し入り、鉈を振り回し、自分たちのほしいものを奪っていく。 悲鳴が上がり、村の誰もが異変に気づく。ある者は、村の仲間を助けようと農具を手に走って行く。ある者は、家族を守るため大ぶりな農具を構え家に籠もる。ある者は、命あっての物種だと家を飛び出していく。 シェルータも、命を優先する者の一人だった。 母を起こし、着の身着のまま家を飛び出し森へ走る。森に入れば、神殿に行けば、悪魔がいる。守ってくれるはずだと、シェルータは母を支え必死に走った。 山賊たちは、嬲る獲物を嗅ぎつけるのが得意だ。逃げる村人を次々捕まえてはいたぶっていく。シェルータと母もあと一歩というところで山賊たちに捕まえられてしまった。 二人は地面に引き倒され、シェルータはそのまま押さえつけられ、母は無理矢理立たされ羽交い締めにされた。
「どぉれ捕まえた」 「疲れた顔したババアだな」
山賊の太い腕がシェルータの母の首を締め上げる。やめてと叫びたくても、山賊の足が腹を押さえつけるせいで、シェルータは呼吸もままならない。 山賊の持つ鉈の先が、シェルータの首元に伸びる。
「持ってるもの全部出しな、嬢ちゃん。でなきゃこのババア、首がへし折れるぜ」
声を出せないシェルータは、何度も首を振って着の身着のまま家を出たことを訴えた。しかし山賊は「そんなわけあるか」と言って、シェルータの喉元から胸元へ刃先を移動させた。 ゆっくりと、刃先が沈む。服の繊維を断ち、シェルータの肌に到達する。娘への凶行を見逃せるわけもなく、体の弱い母が必死になって山賊の腕の中で暴れた。 山賊が「動くな」と母の顔へ拳をめり込ませる。目を見開いたシェルータが声を振り絞り「やめて」と叫ぶ。そのシェルータの横面に、山賊の爪先が飛んできた。 蹴り飛ばされ、シェルータは地面で強かに頭を打った。視界が翳み、意識が朦朧とし始める。踏まれる以上の重みが、シェルータの体に加わった。山賊らしき影の向こう、星も見えない暗い空を見上げ、シェルータは悪魔の名を呼んだ。
「助けて……助けて、春さま」
呼ばれるのを待っていたように、地響きがした。狼の吠え声と熊の唸り声が重なる。その向こうから、地を這うように響く低い声がシェルータの耳に届いた。
「村の者を傷つけたな――俺の〝歌〟を、傷つけたな」
シェルータは、体にのしかかる重みが消えたのに気づいた。翳む目では見えないが、シェルータにのしかかっていた山賊の体は今、ぶらんと宙に浮いている。持ち上げているのは、悪魔の逞しい腕だ。 悪魔の冷え切った目が、山賊を見やる。
「食っちまえ」
無感情な声で、悪魔は無造作に山賊を放り投げた。山賊がどうと落ちた場所は、涎を垂らす熊の目と鼻の先だ。起き上がろうにも、強かに背中を打ちつけたせいですぐに動けない。山賊は熊が大きく口を開けるの見ながら、叫ぶことしか許されなかった。 生きたまま|腸《はらわた》を食べられる仲間の悲鳴に、ほかの山賊たちは何が起きたんだと平静を失った。 彼らに悪魔の姿は見えない。彼らは帝国の血を引く荒くれ者だ。侵略者の彼らに、古から土地に根ざす神は好んで姿を見せはしない。 |戦《おのの》く山賊たちに目もくれず、悪魔はシェルータを抱き起こした。見えない目で、シェルータは悪魔の輪郭を見つめた。
「俺が遅くなったせいで、あいつらに殴られたんだな、〝歌〟」
気遣う悪魔の声は穏やかだが、怒りは隠しきれていない。シェルータは涙を滲ませながら、痛む体で手を持ち上げ、母がいるであろう方向を、村人たちが助けを求めているであろう方角を指し示した。
「春さま、私よりも母さまを、ほかの人を……」
その手を掴み、悪魔は「大丈夫だ」とうなずく。
「村の者は一人残らず助ける。そういう《《約束》》だ。安心しろ、〝歌〟」
力強い声に、シェルータはようやく安心することができた。翳む目を閉じ、体から力を抜く。ぐったりしたシェルータを見て、悪魔はシェルータが死んでしまったのかと動揺した。震えそうな手でシェルータの顔に手をかざせば、微かな風を感じた。
――生きてる。
安堵した悪魔は、泣きそうになるのを堪えた。 意識のないシェルータをそっと横たわらせると、悪魔はシェルータの母を、山賊の腕ごと取り返した。腕をもがれ泣き叫ぶ山賊の声を背景に、悪魔はシェルータの母かを確認する。
「お前が〝歌〟の母親だな」
締め上げられた余韻でうまく声が出ない母は、何度もうなずくことで返事とした。悪魔は「〝歌〟を頼む」と母をシェルータのそばに置くと、恐慌状態になりつつある山賊たちに向き直った。 悪魔の顔が、ゆっくりと牛の顔へ変わりゆく。褐色の腕が真っ直ぐに伸ばされ、指先が山賊たちを指で差す。
「やれ」
地響きよりも低い悪魔の一声で、猛獣たちは一斉に走り出した。 狼の群れが山賊たちの喉笛に噛みつく。 熊が山賊の腕や足を叩き折る。 悪魔の手が山賊たちの頭を握り潰す。 山賊たちは獣に襲われ息絶える仲間や、見えない何かに頭を潰され死ぬ仲間を見て怯え、逃げ惑った。 振り回される鉈を腕で受け止めながら、悪魔はなお獣たちに命じる。
「一人も逃がすな。確実に息の根を止めろ。村の者以外なら、好きなだけ食え」
ケビトの村人を傷つけた者にかける情けなど、悪魔は持ち合わせていない。村人を無視して自分たちだけに襲いかかる猛獣を、何もないのに浮き上がり頭を潰される仲間を目の当たりにして、山賊たちは怯え、泣き喚き、罵倒を口にし、死んでいった。 山賊たちの屍で山ができる頃、馬の蹄が立てる音、金属の触れ合う嫌な音が悪魔の耳に届いた。獣たちも村に近づく集団に気づき、食事を中断する。 間延びした声が、村の入り口から響いた。
「あれぇ、いったいどうなってるんだ?」
死屍累々を見回しのんきな声を上げるのは、山賊討伐隊を率いてやってきたテオバルトだ。悪魔が「戻れ」と一声命じる。それだけで獣たちは察し、川のように一つの流れとなって森へ駆け戻った。 悪魔の声は、山賊たちに聞こえなかった。テオバルトの左右を固める護衛にも、その後ろの兵士たちにも聞こえることはないだろう。だがテオバルトには、悪魔の声が聞こえたようだ。 ぴくりと反応したテオバルトは、悪魔が佇む方角へ勢いよく顔を向けた。しかし緑の瞳が悪魔の姿を映すことはない。馬から下りたテオバルトは、鳴り物のように甲冑を鳴らしながら死体の山へ近づいた。
「……獣の群れが、この惨状を? 賢い獣もいたもんだなぁ」
息絶えた山賊の死体を、テオバルトが甲冑の爪先でつつく。当然、死体から返事はない。それとも――と呟き、テオバルトは悪魔の声が聞こえた方角へ再び目を向けた。
「見えない〝何か〟が、これをやったのかな? たとえば――丘の上の悪魔とか」
テオバルトの疑念を否定するように、森へ走る狼たちが遠吠えをする。加勢するように、走る熊が、森に潜む梟たちが、一斉に声を上げる。 獣たちの異様な合唱に、ケビトの村人はおろか、やってきた兵士たちまでもが震えた。 テオバルトは剣呑な目で森を見やったが、それもすぐにやめ、自分の兵士たちを振り返った。夜空にテオバルトの声が響き渡る。
「我々が追っていた山賊たちは獣に襲われ死んだ。しかし、山賊たちによってケビトの村は大損害を被っている。目的を討伐から救援に変更だ。村人の手当てを始めるぞ、急げ!」
悪魔はこの声を聞き、手当てしてもらえるのならと蝙蝠の翼を広げた。音もなく空を飛び、シェルータとその母の元へ戻る。山賊たちの亡骸のそばで、シェルータの母は気丈にも意識を保ったまま娘に寄り添っていた。だがそれも、悪魔の顔を見るまでだった。
「〝春呼ぶ蹄〟様……」
シェルータによく似た顔が、安堵の息を吐いて体から力を抜く。母親にまで気を失われてはたまらないと、悪魔は救援が来たことを伝えた。
「甲冑の奴らが村に来てる。お前らを手当てするつもりらしいから、早く行け」
だが、シェルータの母は立ち上がれなかった。
「シェルータが目を覚まさないのです」
まさか今度こそ死んでしまったのかと、悪魔は恐る恐るシェルータの顔に手をかざした。悪魔の心配を笑うように、その手のひらをシェルータの呼吸が温める。それでも悪魔は不安で、シェルータの体を軽く検分した。しかしどこにもおかしなところはない。 張り詰めていた気が緩んだせいだろうと結論づけた悪魔は、シェルータを片腕で抱えた。空いた片腕で、シェルータの母も抱えようとする。シェルータの母はこれを固辞した。
「私は一人で歩けます。お怪我に障るでしょうから、私よりも娘を」
確かに、悪魔の腕には鉈によって大きな傷ができている。ぱっくりと割れた傷からは、その体が生き物である証明が多く見えていた。幸か不幸か、悪魔は痛みを感じていない。
「お前だって、怪我してるだろ」
シェルータを抱え立ち尽くす悪魔は、困ったように眉を下げ、母にそばへ来るよう促した。
「〝歌〟が心配する。娘のためだと思って、頼れ」
娘を引き合いに出されては従わざるを得ない。うなずいた母をも抱きかかえ、悪魔は二人を村まで運んだ。ただ、目立つのを避けるために飛ぶのは控えた。 小脇に抱えられながら、シェルータの母は上手く出ない声を絞り出して礼を言った。
「……助けてくださり、ありがとうございます」 「そういう約束だ。昔からのな」 「〝古の盟約〟でございますね」
小さく咳き込む母に、悪魔は「喋るな」とやんわり止める。だが母は続けた。後ろめたさと責任感が、彼女に声を出させた。
「私たちは信仰を忘れて久しい。もう忘れていただいて構わないんですよ」 「……そういうわけにもいかないのが、〝神〟ってもんだろ」
悪魔はぽつりと呟いた。シェルータが起きていれば、母が身を捩ることができれば、呟いた悪魔の顔がどれだけ寂しげだったか知れただろう。だがシェルータは意識を失っていて、母は地面を見るしかできない。 母が「そうですね」と小さな声でうなずいて以降、悪魔の馬の足が地面を踏む音以外は何も聞こえなくなった。 やがて村が近づき、悪魔はそっと二人を地面に下ろした。母を立たせ、シェルータを支えさせる。そして二人を支えながら、悪魔が一緒に歩いてやる。母娘に気づいた兵士が駆け寄るまで、悪魔はずっと、二人に寄り添い支え続けた。 二人を村に送り届けた悪魔は、羽を広げ森へ戻った。シェルータの意識が戻るまで様子を見たかったが、諦めなくてはならない。山賊の鉈を受け止めた腕が、もう限界だった。 シェルータの意識が戻ったのは翌日だ。その頃には、悪魔は神殿でうずくまって眠っていた。シェルータの母は、彼女が目を覚ますまで一睡もせずに寄り添っていた。 目を覚ました娘を見て安堵した母は、入れ替わるようにベッドへ倒れ込んだ。今度はシェルータが、母の看病をする番だった。
***
7 神様だって生きてる
ただでさえ体の弱かった母は、山賊の襲来で神経までもやられてしまったようだ。シェルータが目を覚ましてから三日ほどは、まどろんでも山賊の夢を見てしまい、叫びながら起きる始末。母の叫びでシェルータも目を覚まし、宥めるのに時間をかけなければならなかった。 母の看病で参っているシェルータを見舞うのは、テオバルトが連れてきた私兵たちだ。見舞う理由はテオバルトに言われたからだけでなく、シェルータの怪我の容態を看るためでもあった。 私兵たちはシェルータたち親子の看るほか、テオバルトからだと高価な薬や温かな食事を運んでくれた。それらをありがたく受け取り、シェルータはまた、母の看病に勤しんだ。 シェルータが気にかけねばならないのは母だけでない。山賊の襲来で傷ついた近所のオットマー夫妻も気にかけねばならなかった。幸い二人は母に比べ頑丈だったため、シェルータは二人の傷の具合を気にするだけで済んだ。 母の神経が落ち着きを取り戻し、シェルータがようやくゆっくり眠れた夜の翌朝だった。よく晴れた昼近く。テオバルトは従者も連れずにやってきた。
「大変だったねぇ、シェルータ」
戸口に立ったテオバルトを、シェルータは慌てて中へ招き、粗末ながらも来客用の茶を出した。もてなされることに慣れているテオバルトは、古びた椅子にもにこやかに腰掛け、粗末な茶を口にした。
「母や私に手厚い支援をありがとうございます。どれだけ感謝しても足りないほどに感謝しております」
感謝の言葉がシェルータの口から出たことで、テオバルトの笑みはさらに深いものとなる。カップを置きながら、テオバルトはうんうんとうなずいた。
「当然だよ。何せ僕は次期当主だ。領地の民を守るのが仕事さ。それにきみは、僕の未来の花嫁だもの」
断り続けているのに、テオバルトはまだ諦めていないようだ。シェルータは困った顔で眉を下げたが、テオバルトは拒否の言葉を口にさせない。シェルータが口を開くより先に、「でもねぇ」と浮かない顔で外を見やった。
「逃げた山賊もそうだけど、まだまだこの辺りでは流れ者の山賊も増えてるそうなんだ」 「それは恐ろしゅうございますね」
テオバルトの台詞に、シェルータもうなずいた。山賊から振るわれた暴力や浴びせられた罵声を思い出し、知らず、ぶるりと震える。それを横目で見たテオバルトは、「怖いよね」とうなずいてシェルータに向き直った。
「だからねシェルータ、こんな治安の悪い村を出て、僕のところへおいで!」
恋人が胸に飛び込むのを待つような明るい笑顔でテオバルトは腕を広げた。ためらうシェルータに次の台詞を投げかけたときも、テオバルトの笑顔は崩れなかった。
「でないとまた、山賊が来るよ?」
自らの血が音を立てて引いていくのを、シェルータは聞いた。信じがたい台詞に、シェルータは目眩すら覚えた。ふらついた足を支えたのは、奥で眠る母の顔と、あの日ケビトの村を救った悪魔の顔だ。 震える声が、テオバルトを問い詰める。
「あ……あなたが、山賊をけしかけたんですか?」 「賢いシェルータ。美しいシェルータ。僕はきみを傷つけたくない」 「そんな……そんなひどいことをする人のところになんて、誰が嫁ぐと思うんです、テオバルト様」
腕を広げるのをやめ、テオバルトは頬杖をついて手を組んだ。組んだ手の甲に顎を載せる様は、自分の好物が運ばれてくるのを信じて止まない子供に似ている。「シェルータ、シェルータ、シェルータ」と繰り返す声は、歌うように楽しげだ。
「きみが僕のところへ嫁がないと言うのなら、今度はもっと強くておっかない奴らが、今回よりもたくさん来るかもしれない。そのとき僕は、私兵を出さないかもしれない」
緑の瞳は穏やかな色をしている。けれどその奥に潜むのは、あまりに強いシェルータへの執着だ。
「美しいシェルータ、優しいシェルータ、賢いシェルータ。きみはどうする?」
テオバルトは、シェルータに悩む暇すら与えない。 たった一人の母親に、あれ以上の恐怖を与えるのか。怪我をした母の手当てを打ち切ることだってできる。それどころか村全体をこのまま見捨てることだって――。 母を人質にまくし立てられ、シェルータの思考は出口のない迷路に入ってしまった。 奥では母が眠っている。泣き叫びながら飛び起きる母の顔。物音一つに怯える母の顔。起こしてしまって、騒いでしまってすまないと何度も謝る母の顔。そして、ようやく落ち着いて眠れるようになった母の顔。 それらを思い出し、シェルータは目を伏せた。体の弱い母にこれ以上の負担を強いるなんて、シェルータにはできない。だからといって、テオバルトに嫁ぐこともシェルータには選択できない。
「考えさせて、ください」
うつむき、前掛けを握りしめながら、シェルータは囁くように答えた。シェルータが受け入れる余地を見せるのは、これが初めてだ。テオバルトは「考えるまでもないと思うけどね」と皮肉を言いつつも、喜びを隠しきれないようだった。 出された粗茶を飲み干し、テオバルトは期待に満ちた顔で野営地へ戻っていった。手早く片付けを終わらせたシェルータは、よく眠る母を世話になっているオットマー夫妻に托した。 シェルータの胸は、不安でいっぱいだった。一時でも早く、神殿の悪魔に会いたかった。悪魔に話せば何とかしてもらえる、山賊のようにテオバルトたちを追い払ってもらえる――そういった思いがあったのかもしれない。 しかしシェルータの淡い期待は、うずくまる悪魔の姿を見たことで打ち砕かれる。
「春さま、その怪我……」
シェルータの目は、悪魔の腕に釘付けになった。うずくまって眠っていた悪魔は、眠たげに頭を持ち上げた。その頭はまだ牛のままだ。悪魔は人のものへと頭を戻しながら、ため息のような声を出した。
「ああ? ああ……。こんなくらい、大したことない。気にするな、〝歌〟」
そう呟いて、また眠り込もうとする。シェルータは「大したことないなんて」と言葉を失った。悪魔の腕には、あの鉈を受けてできた傷が残っている。それはぱっくりと割れたままで、ろくな手当てもされていない。 慌てふためいたシェルータは「手当てしないと!」と叫ぶなり、飛ぶように丘を駆け下り家に戻った。オットマー夫妻が驚くのも目に留めず、家にある手当ての道具を片っ端から袋に詰めてまた家を飛び出す。息を切らせて戻ってきたシェルータを見て、悪魔は明るい色の目を瞬かせた。 起き上がるよう促され、悪魔は祭壇から下りて石材の床で胡座をかく。シェルータがするがまま、悪魔は大人しく手当てを受けた。 シェルータは悪魔の傷を塞ごうと必死だが、傷を負っている本人は気にした様子がない。寧ろ、シェルータに手当てされて嬉しそうにしている。
「誰かに心配されるのは、いいもんだな」
機嫌の良さは尻尾からも読み取れた。持ち上げては下ろして立てるぱたん、ぱたんという音は機嫌のいい証拠だ。のんきな悪魔のそばで膝をついたシェルータは、「春さまったら……」と珍しく呆れた声を出した。 洗いもせずに放置されていた傷をきれいな水で洗い流し、傷薬を塗り込む。見た目より痛む様子がないのは、怪我をしたのが悪魔だからか。湿布を固定しながら、シェルータは浮かない顔で「ごめんなさい」と謝った。
「ごめんなさい、春さま」 「何が」
短く尋ねる声は、穏やかだ。いっそ不機嫌であれば、シェルータもここまで罪悪感は抱かなかっただろう。
「私が……春さまに助けを求めたりしなければ、こんな怪我をされることはなかったでしょう?」 「お前が呼ばなくたって、俺はお前たちを助けた。そういう〝約束〟がこの土地にはあるからな」
膝立ちになるシェルータに向き直ると、悪魔は優しい声で古くからの約束を持ち出した。それはシェルータも知る話だ。 ケビトの民は〝古の約束〟で悪魔――当時の神――といくつかの決まり事を交わしている。そのうちの一つが、信仰の対価としての救済だ。しかし今、その信仰はほぼ失われている。悪魔となった彼がケビトの民を救う義理はない。「でも」と納得しないシェルータに、悪魔は「まあ確かに」と肩を竦めた。
「あの夜は、お前に呼ばれたから急いだってのはあるけどな」
あくまでも、軽い口調だ。けれどシェルータには声の調子など関係ない。悪魔が自分のせいで怪我を負ったという事実が何より重かった。 この世の終わりでも来たような顔をするシェルータを見て、悪魔は慌てて「違う」と首を振った。
「いや、お前が悪いんじゃない。俺が言いたいのはだな……そうじゃなくて……何て言えば伝わるんだ?」
怪我をしていない腕が持ち上がり、褐色の手がシェルータの頬に伸ばされる。優しく触れる手のぬくもりは、シェルータもよく知っている。悪魔はシェルータの頬を包み、ゆっくりと言葉を選びながら話す。
「お前を傷つけられて、居ても立ってもいられなくなった。お前たちで言う、頭に血が上った状態だな。それだけだ。この怪我も、お前たちみたいが感じるようなのたうち回るような痛みはない。そんな顔をするな、〝歌〟」
自分よりも少し高い温度を感じながら、シェルータは頬を包む大きな手に顔を預けた。 優しい声も、優しい温度も、この悪魔の何もかもが、シェルータは好きだった。だが今は、優しい声が胸に痛い。 悪魔の言葉に「はい」とうなずきながら、シェルータは一つの決心をした。 手当てを終え、二つ三つ言葉を交わし、シェルータは母の看病を言い訳に神殿を出た。丘を下り、森を抜け、村に戻るなりテオバルトがいる野営地へ向かう。 天幕はどれも人で溢れていた。どこにテオバルトがいるかわからないシェルータは、うろつく私兵の一人にテオバルトを呼ぶよう頼んだ。テオバルトに聞かされていたのか、それともテオバルトご執心のシェルータは有名なのか。名を尋ねられることもなく、シェルータはテオバルトがいる天幕へ案内された。 通された天幕では、テオバルトは忙しそうに私兵たちを差配していた。しかしそれもシェルータを見るまでのこと。すぐに人払いを済ませ、気まずげな佇まいのシェルータと喜色満面といった顔のテオバルトだけが天幕に残った。
「どうしたんだい、シェルータ?」
机で頬杖をつき、テオバルトは白々しい態度で尋ねる。うつむいたシェルータは強く目を瞑ると、顔を上げ、明るい茶の瞳でテオバルトの緑の目を見据えた。
「母さまのこと、本当に支援してくださいますか。私がいなくなっても、この村を守ってくださいますか」 「もちろんだよ、シェルータ」
テオバルトはためらいもなくうなずいた。嘘の色はないか、シェルータは懸命に緑の目を見つめる。けれどどこまでも、テオバルトの目にはシェルータへの好意と執着しか見つけられない。
「きみが育った村をこの僕は必ず守ろう。約束するよ」
立ち上がり、テオバルトはシェルータへ手を差し伸べた。
「僕のところへ来てくれるんだね、シェルータ? 嫁ぐ覚悟ができたんだね?」
差し出された手には汚れのない白い手袋。シェルータは一瞬、本当にいいのかためらった。けれどかき消すように頭を振り、目を伏せたままテオバルトの手を取った。
「よろしく、お願い致します」
手ばかり見つめていたシェルータは、テオバルトの顔にどれほどの喜びが浮かんでいたか知らない。うつむくシェルータのつむじを見つめていたテオバルトは、シェルータがどれほど思い詰めた表情をしていたか知らない。 互いの感情を知らぬまま、テオバルトとシェルータの婚姻の話が進んでいった。
***
8 想い合ってすれ違って
シェルータが家に帰る頃には、とっぷりと日が暮れていた。夕飯はオットマー夫妻が用意してくれたらしい。起きたらしい母が、オットマー夫妻と楽しげに食後の歓談に興じていた。 オットマー夫妻はシェルータが帰ったのを見ると、礼も聞かずさっさと帰ってしまった。長時間の留守を怒ったわけではない。愛想はないが思いやりのある夫婦だ。シェルータの思い詰めた顔を見て、母にだけ話したいことがあると察したのだろう。 食卓に座る母は、帰ったシェルータの顔を見てひどく心配した。冷めたお茶を入れ直し、とにかく座るようシェルータにすすめる。シェルータは明るい顔をせねばと努めるものの、上手くできなかった。
「テオバルト様のところへ嫁ぎます」
母の真向かいに座ってただ一言、それだけ告げるのが精一杯だった。シェルータの一言に、母は息を呑んだ。
「あんなに断っていたのに、どうして」
家計はいつでも火の車だ。それでも母は、シェルータにテオバルトからの求婚を受け入れろとは言わなかった。体の弱い母親を支えたシェルータの意志を、母はどんなときでも尊重しようとしていた。 シェルータは母の顔を見ることができず、湯気の立ち上るお茶を見つめながら、言い訳のように婚約理由を並べる。
「母さまの支援もしてくださるんです。薬も、安全も、約束してくださいました。母さまはもう、体のことも何もかも、心配しなくていいんです」 「私のことなんかいいのよ」
正面に座った母が、手を伸ばしてシェルータの手を包む。痩せた手だった。苦労の滲む手だった。シェルータは母の手を見つめ、「だめ」と首を振った。
「なんか、じゃない……。私にはもう、母さましかいないの。そんな風に言わないで」
とうの昔に父は死んだ。祖父母も天に召され、兄弟もいない。シェルータの血縁は、母のほか誰もいない。たった一人の肉親を気遣わないなんて、シェルータにはできなかった。 けれど、母はそう思っていないようだ。
「あなたが大事に思っているのは、私だけなの? そうではないでしょう、シェルータ。あなたの心には、もう誰かがいるでしょう?」
母が言う誰かとは、シェルータが思い浮かべているあの寂しげな異形だ。母からすでに察されていて、その上で認められているとわかっていても、シェルータはうなずけなかった。 黙り込むシェルータに、母は優しく諭す。
「司祭の血を絶やさないでほしいとは思っているわ。でもねシェルータ。あなたが〝春呼ぶ蹄〟様を愛おしく思うなら……それを隠す必要はないのよ。だって私たちの役目は――」
シェルータは首を振り、母にそれ以上言わせなかった。 シェルータの脳裏に過るのは、怪我をしてうずくまる悪魔の姿だ。悪魔の腕でぱっくりと開く大きな傷だ。痛みはないと言う優しい声だ。 あの優しい悪魔に、どうして再び無理をさせられようか。
「いいの、母さま」
話はそこで打ち切られ、シェルータの覚悟が覆されることはなかった。 その翌日。シェルータは朝早くから森に入り、悪魔が棲まう神殿を訪れた。手には悪魔の怪我を手当てする道具を携えている。神殿を訪れた目的は悪魔の手当てだけではない。嫁入りを、村を出て行くことを、告げるためだ。 シェルータの訪れを悪魔は喜び、床に胡座をかいてされるがままに手当てを受けた。悪魔のそばで膝をつき、シェルータは黙々と湿布と包帯を取り替えていく。 悪魔はシェルータの顔色が優れないことに気づいた。心配を隠しきれない声が「具合が悪いのか」「眠れないのか」「また山賊でも来たのか」と尋ねる。大きな手が、気遣うようにシェルータの頬に触れた。あたたかな手だった。この手に額を押しつけ泣けたなら、シェルータの胸はどれほど軽くなっただろう。 シェルータは涙がこぼれそうになるのを堪え、首を振って悪魔の手から離れた。悪魔はますます心配し、手当てをやめさせようとする。シェルータは一度大きく息を吸って、ようやく嫁入りを打ち明けた。
「テオバルト様――ケビトの人たちを支援してくださっている方の元へ、嫁ぐことになりました」
悪魔はきょとんとして、シェルータを見つめる。シェルータは悪魔の顔を見ることができず、取り替えた包帯を見つめた。なるべく感情を抑えた声で「日取りは決まっていませんが」と前置きし、村を出ることを告げる。 悪魔はまだシェルータの台詞を理解できないようで、ようやく発した声は、わずかに震えていた。
「何だって……出てく必要がある。何だって嫁ぐ必要がある。お前は、お前は――」 「体の弱い母さまを、支援していただくためです」
悪魔の縋るような声を、シェルータの泣きそうな声が遮った。悪魔が口を噤む。シェルータは口を閉じない。シェルータの明るい色の瞳が、ようやく悪魔を見上げた。
「ケビトの村に、二度と山賊を近寄らせないためなんです」
わかってくれと言外に滲ませる台詞に、悪魔は一瞬、痛みを堪えるように顔を歪めた。けれどそれは本当に一瞬で、次の瞬間には、険しい顔で「そんな必要ない」とシェルータの決断を否定した。
「俺が薬草を用意してやる。種さえあれば、気候が合わなかろうが芽吹かせてみせる。それなら、金なんて必要ないだろ」 「どんなに素晴らしい薬草があったって、私に知識がなければ使えません」 「もう二度とケビトの者に怪我なんかさせない。山賊程度、何度でも追い払ってやる。余所者なんかに頼らなくていいだろうが」 「だからこそ、私は嫁ぎます」
悪魔の言い分をことごとく否定し返したシェルータは、悪魔の腕にそっと触れた。巻かれた包帯の下では、未だ傷が大きな口を開けている。 涙のこぼれそうな目が悪魔の腕を見つめる。傷に触れないようにそっと、シェルータは悪魔の腕を撫でた。
「春さまも、怪我をするんですね。神様は怪我をしないって、どこかで思ってました。でも……でも、そうじゃなかった」
溢れた涙を、シェルータは瞬きで散らした。それでも涙の滲む目で優しく悪魔を見つめると、シェルータは明るい声を出し、胸に秘めた覚悟を告げた。
「私、お嫁に行きます。母さまの怪我を治してもらうため。春さまに怪我をさせないため」 「行くな」
その覚悟を、悪魔の声が揺らがせる。間髪を入れず止めた悪魔は、怪我をした手でシェルータの手を掴んだ。
「こんな怪我、痛いと感じたことすらない。お前が気にするな。ほっとけばすぐに治る」 「本当に治りますか。すぐに治るならどうして、その傷は癒えないんですか」
シェルータの問いは、悪魔の痛いところを突いていた。黙り込んでしまった悪魔の顔を見ることのできないシェルータは、包帯に覆われた傷をじっと見つめる。
「春さま……私は春さまが傷つくことが、母さまを死なせてしまうことよりも、怖いんです」
親不孝ですねと自嘲するシェルータに、悪魔は何も言えない。シェルータの意志の固さを見て取った悪魔は、シェルータの手を離した。 覚悟をしていても手が離れていく感触は寂しく、シェルータはつい、顔を上げてしまった。そして悪魔の、言うことを聞いてもらえない子供がするような、悲しそうな、寂しそうな、拗ねたような顔を正面から見てしまった。
「……勝手にしろ」
低い声でぼそりと呟くと、悪魔はシェルータに背を向けてしまった。シェルータは何か言葉をかけようとして、結局諦めた。ただ一言「ごめんなさい」と呟いて、そっと悪魔から離れた。 足音も響かせず、シェルータが神殿を出て行く。悪魔が寂しげに尻尾を揺らす音だけが、神殿に響いていた。
***
それからシェルータは、母との生活に集中した。嫁入りの時期はまだ決まっていないが、残された期間が長くないことはわかっていた。
「行かなくていいの?」
母が問う。どこへだなんて、聞かなくてもわかりきったことだった。「いいの」と首を振ったシェルータは、無理に笑みを作った。
「会いに行ったら、私、戻れなくなっちゃう」
母は何度もシェルータの気持ちを変えようとしたが、頑固なシェルータは結局一度もうなずかなかった。 そうして日々を過ごすうちに、シェルータがケビトを離れる日は思っていたよりも早く訪れた。 母の怪我がよくなり、山賊に傷つけられた村の建物もある程度修復された頃、テオバルトたちが引き上げを決めた。村人たちが礼を言う中、テオバルトはシェルータをそばに招いて高らかに宣言した。
「僕らは明日、村を発つ。その際には花嫁も連れて行く。花嫁が生まれ育ったこの村は僕にとって第二の故郷だ。惜しみない支援を約束しよう」
堂々とした宣言に、村人たちは一瞬呆気にとられた。けれどすぐ、割れんばかりの拍手が湧き起こった。領主の息子の結婚、そして約束された村への支援。祝福しない理由はない。 テオバルトに肩を抱かれながら、シェルータは笑みを絶やさぬよう努力した。その笑みが引きつっていると気づいたのは、母くらいのものだろう。
「明日の朝、迎えに行こう。それまで家で準備をしておいで」
穏やかな声でそう促され、シェルータはありがたく家へ帰った。 しかし帰ったところで、シェルータが嫁入り道具として持ち出すものは少ない。元々が貧しい家の育ちだ。それにシェルータは、形なきものを大事にする娘だった。 領主の館まで幾日、いや何週間かかるか。旅に必要そうなものをまとめながら、シェルータは自分が嫁入りするのだと改めて実感した。旅立つ日が目前だというのに、目を閉じれば瞼の裏に悪魔の顔が思い浮かぶ。 最後に見た悲しそうな、泣きそうな、拗ねたような目。 シェルータの胸が締めつけられたのは、彼が見せた感情のせいだけではない。もう会えなくなるという事実が、たまらなく寂しい気持ちにさせていた。今すぐ悪魔の元へ駆け出したい気持ちにさせていた。顔を覆って泣きたい気持ちにさせていた。
「会いたい」
言葉にしてしまえば、もう抑えられない。一目見るだけでもと、シェルータはケビトで過ごす最後の夜、悪魔の元へ赴く決心をした。 月も昇らない静かな夜。外衣を頭から被ったシェルータは、森に入った。細腕には篭が提げられている。今まで捧げた供物の中でとりわけ悪魔が気に入った野菜が、篭の中に入っていた。 梟たちが道案内をするようにシェルータのそばを飛び回り、神殿への道のりを同行する。足下を通り過ぎたのは狼だろうか。開けた草原では、草花すらもシェルータのために道を作っていた。 丘を登り、神殿に入る。いつもならシェルータが足を踏み入れただけで明かりが灯る。しかしこの夜は、足下が照らされる気配はない。シェルータは困る様子もなく、慣れた足取りで祭壇へ近づいた。 祭壇では、いつかのように悪魔が背中を向けて横たわっていた。暗闇でも悪魔の姿はよく見えた。迷いのない足取りで歩くシェルータは、祭壇まであと数歩のところで立ち止まった。 悪魔がシェルータを拒んでいることは、背中を――不機嫌そうに揺れる尻尾を見ればわかった。篭を置いて立ち去るべきか、それとも自分の感情を優先して声をかけようか。そう悩むシェルータに、悪魔が低い声で尋ねた。
「今更、何しに来た」
これまでの優しい声ではない、冷たい声だった。シェルータはたじろいだものの、踵を返すことはしなかった。
「最後にどうしても、お礼が言いたくて」
一歩近づこうとするシェルータを、悪魔は「いらない」とすげない返事で止める。立ち止まったシェルータは、せめて持ってきた供物だけでもと篭を下ろそうとする。けれど悪魔は、また「何もいらない」と冷たく突っぱねた。
「何もほしくない。言葉も供物も、ここへ置いていくな」 「でも……でも何か、春さまに感謝を伝えたいんです。あなたがしてほしいことを、最後だからこそしたいんです」 「出て行く奴に、してほしいことなんかない」
吐き捨てるような悪魔の台詞に、シェルータは息を呑んだ。返せる言葉なんて、持ち合わせていない。何か返さねばと探してみるも、視線がさまようだけでシェルータの声は思いを紡がない。黙り込んだシェルータは胸元を握りしめ、うつむいてしまった。 耳が痛いほどの沈黙が下りる。梟たちの声も、風で揺れる草花の囁きも、神殿には届かない。 うつむいていたシェルータは、ゆっくりと顔を上げた。悪魔もわずかに顔を上げ、肩越しにシェルータを振り向いた。
「ごめんなさい」
囁くような声とともに、涙が一粒落ちた。悪魔の目が見開かれる。シェルータはどうにか悪魔に微笑みかけると、踵を返し足早に神殿を出て行った。 振り向かなかったシェルータは、悪魔が立ち上がりかけてやめたのを知らない。悪魔が頭痛を抑えるように考え込んだのを知らない。 知るのはただ、張り裂けそうな胸の痛みだけだった。
***
9 古の歌
悪魔と別れを果たした翌朝。 テオバルト率いる山賊討伐隊は、ケビトの復興を確認し引き上げることになった。行きと同じく甲冑を着込んだ私兵たちの中に、シェルータの姿もある。もちろんシェルータは、テオバルトの客人という扱いだ。
「山賊に襲われてはいけないからね。我が花嫁は丁重に扱え」
テオバルトの一言で、シェルータの身柄は馬車の中に移された。兵たちを率いる身分のテオバルトは、自ら馬に乗り屋敷へ帰る。テオバルトとシェルータが言葉を交わすのは、ケビトを出て森を越え、平原で馬を休ませるとき程度だろう。もしくは、屋敷に着いた頃か。 シェルータが乗る馬車には護衛と見張りを兼ねて、三人の兵が乗り込んだ。誰も彼も厳めしい顔をして黙り込んでいる。シェルータも、まるで葬儀に向かうような顔だった。 準備が整い、テオバルトの一声で隊列が動き出す。会話の一つも聞こえない馬車の中では、甲冑の揺れる音、車輪が回る音、蹄が地面を蹴る音がよく聞こえた。 車輪が石でも踏んだのか、がたりと車体が揺れた。シェルータは窓辺に体を預ける形になり、そのままぼんやりと外へ目線を向けた。 ゆっくりと生まれ故郷が遠ざかっていく。生まれ故郷の向こう、愛しいひとが住まう神殿が遠ざかっていく。 村を離れ、森を抜け、平原に出る頃には、シェルータの脳裏に悪魔と出会った夜のこと、それから過ごした日々のことがまざまざと蘇っていた。 驚くこともあった。恐ろしい目にも遭った。嬉しいことは山ほどあった。切なく胸を締めつけられることもあった。どれもこれも良い思い出だ。良い思い出に、しなくてはならない。頭でそう言い聞かせても、心が従うとは限らない。 寂しい。 悲しい。 会いたい。 浮かんだ感情は交ざり合い、シェルータに母から教わった歌を思い出させた。 母が教えた、古の歌。帝国に砕かれ壊され踏みにじられた、かつてケビトの誰もが使った言葉で綴られた歌。シェルータが歌えば悪魔が喜んだ、思い出の歌。 車体に寄りかかったシェルータは、思い出の歌をぽつりぽつりと口ずさんだ。呪文のごとき響きに驚いたのか、乗り込んだ兵たちが一斉にシェルータへ目を向ける。しかしシェルータの横顔が寂しげだったこと、紡ぐ言葉に悲しげな響きを聞き取ったことで、彼らはシェルータをそのまま放置した。 それが彼らの旅路を左右するとも知らずに。 シェルータは歌い続けた。途切れ途切れの呟くような声は徐々に滑らかになり、窓の外まで聞こえるほどの歌となる。 古の言葉で歌われるのは、会えない人を思う心だった。溢れる愛を伝える言葉だった。故郷を懐かしむ、胸が締めつけられる歌だった。 いつの間にかシェルータの穏やかな歌声に聞き入っていた兵たちは、自分の胸中に生じた異変に気づかなかった。 初めは若い兵だった。シェルータの正面に座っていた若い男は、目からぽろぽろ涙を落とし、甲冑を外した口元を覆った。
「会いたい……会いたいよ、カーヤ……」
次いで涙を流したのは、その隣に座る髭の男だ。彼は嗚咽を漏らし、両手で顔を覆う。
「ルトラ、もう俺の顔なんて覚えちゃいないだろうな……」
シェルータの隣に座っていた傷の男は、自分の胸に湧き上がる感情に動揺しながらはらはらと涙を流した。
「何だ、何だこの涙は。何なんだ、この寂しさは……」
シェルータの歌は平原を吹きすさぶ風に乗って、馬車の外にまで郷愁を、思慕を届けた。 シェルータの歌を耳にした馬たちは嘶き、乗せた兵士を振り落とそうと暴れ、隊列を乱した。兵士を振り落とした馬たちは、それぞれ好き勝手な方向へ走っていく。その方角が彼らの故郷であるかは、誰にもわからない。 振り落とされた兵士たちも、立ち上がることなくその場で膝をつき泣き崩れた。
「帰りたい」 「会いたい」 「さびしい」 「かなしい」
屈強な兵士たちがまるで幼子のように泣き出すのは異様な光景だった。誰もが嘆き、悲しみ、「故郷へ帰りたい」「家族に会いたい」「愛しい人を一目だけでも」と訴え顔を覆う。 ただ一人泣きもしないのは、テオバルトだ。それでも馬の狂乱に、兵士たちの慟哭には動揺を隠せない。兜を脱ぎ捨て、テオバルトは従者や兵士を見回した。
「どうした、何があった!」
誰もテオバルトに現状を報告しない。報告する余裕のある者なんて、この平原にはいなかった。 泣きながらも馬を宥める御者の声を聞きながら、シェルータは歌い続けた。歌を止めてはいけない気がした。歌い続けなければ、後悔する気がした。 こんな状況でも、テオバルトはすぐに冷静さを取り戻した。テオバルトはまだ、何も失っていない。歌を聴いて悲しむ過去がないテオバルトは、シェルータの歌に感情を動かされはしない。 周りを見回したテオバルトは、異様な光景を生み出しているのがシェルータの歌だと気づいた。暴れる馬を無理矢理操り、シェルータの馬車に向かう。馬から振り落とされても自らの足で馬車に近づき、シェルータを馬車から引きずり下ろした。
「歌うのをやめろ、シェルータ。きみののどを切り裂きたくなんかないんだ」
引きずり出され、地面に引き倒されても、シェルータは歌った。決して、歌うことをやめなかった。シェルータの明るい色の瞳はテオバルトを見ない。テオバルトの向こう、故郷を見つめている。 目の前にいるのは愛しのシェルータか、はたまた異教の魔女か。この異様な状況のせいで、テオバルトはシェルータの正体がわからなくなった。戦慄したテオバルトは、鞘から剣を引き抜いた。
「歌をやめろと言ってるんだ!」
切っ先を向けられてもシェルータは歌う。振り上げられた刃が太陽の光を反射しても、振り下ろされた刃に恐怖し目を閉じても、歌うことだけはやめなかった。 母や村への支援はどうなるのだろう。ほんのわずかな時間、シェルータは母とケビトの人たちを思い出した。支援の話はなくなるだろう。それなのに一抹の後悔も感じない自分はひどい人間だと、シェルータは自嘲した。 死を覚悟したシェルータの耳に、翼の羽ばたく音が聞こえた。
「俺の〝歌〟に何をする」
肉を切り裂く音が聞こえた。硬いものが触れ合う音が聞こえた。シェルータがハッと目を開けると、テオバルトからシェルータを隠すように立つ悪魔がいた。
「春さま……」 「あ……あ、悪魔っ……?」
シェルータとテオバルトの口が同時に開く。帝国の教えでは、牛の角も、馬の下半身も、蝙蝠の翼も、褐色の肌も、異教の悪魔のものだ。青ざめ恐れるテオバルトの剣を、悪魔は素手で握りしめ真っ二つにへし折った。 折った剣を放り投げた悪魔は、恐ろしさに硬直するテオバルトの頭を片手で握った。
「二度と〝歌〟に手を出すな。ケビトの村に手を出すな。山賊なんて寄越してみろ。どこにいようがお前を見つけ出して、報いを受けさせてやる」
テオバルトの頭蓋骨がみしみしと音を立てる。シェルータが止める前に、悪魔はテオバルトの体をぽいと放り投げた。離れたところでテオバルトがべしゃりと落ちる。もうテオバルトに見向きもせず、悪魔はシェルータに手を差し伸べた。
「立てるか、〝歌〟」 「は、はいっ」
起き上がるシェルータを、悪魔は横抱きで抱えた。
「帰るぞ」
短い一言だ。けれど有無を言わせない。シェルータの返事も待たず、悪魔は翼を羽ばたかせ浮き上がった。向かうのはケビトの村――を越えた先、丘の上の神殿のようだ。だがシェルータは気づかない。悪魔に抱えられ、密着した状況をどう受け止めるか処理するのに精一杯だったからだ。 恥じらい慌てるシェルータとは反対に、悪魔はどこか気落ちしている。
「……合わす顔なんて、ないんだけどな」
ぽつりと呟く声は、しょんぼりと落ち込んでいる。悪魔のそんな声に、シェルータは驚きと愛しさで返事もできない。それを悪魔はどう受け取ったのか、シェルータを抱え直すとぐっと顔を近づけた。
「聞いてくれるか、シェルータ」 「も、もちろんですっ」
悪魔が初めて、シェルータの名を呼んだ。二人の間だけの特別な名ではない、シェルータの名。悪魔の声で〝シェルータ〟と呼ばれたのが嬉しくて、面映ゆくて、シェルータはぽぽぽと頬を染めた。 腕の中のシェルータが照れているとは知らず、悪魔は真面目な顔でシェルータを見つめる。
「村のことは、気にかける。何かあったら、すぐに飛んでいく。だから、だ……だから、だな」
真剣な目でシェルータを見つめていた悪魔が、じわりじわりと、シェルータから目を逸らす。言い含めるようにはっきり発音していた声が、段々と不明瞭になっていく。 もごもごと口ごもりながら、悪魔はシェルータにこの先ずっとともにあることを求めた。
「俺の……花嫁に、なってくれないか。村じゃなく、神殿に住むことになるが……」
目どころか顔を逸らしてしまった悪魔は、求婚しているとは思えないほどそっぽを向いている。お陰で、シェルータは悪魔の真っ赤な耳を見ることができた。だが赤くなった耳はシェルータも同じだ。 真っ赤になりながら、シェルータは悪魔にぎゅうとしがみついた。驚く悪魔に、シェルータは今まで秘めていた思いを返す。
「春さまが望んでくださるのなら、喜んで」 「ん」と短くうなずいた悪魔は、飛ぶ速度を落とし始めた。翼の羽ばたきは力強いままだ。シェルータは悪魔の尻尾がやたら揺れているのを見た。シェルータに尻尾を見られたと気づいた悪魔は、気まずそうに遠回りを提案した。
「ちょっと、遠回りしていいか」 「は、はい。どうぞ」 「しばらく顔を見ないでくれって頼んでも、いいか」 「わかりました。なるべく、見ないようにします……」
少しの間、二人の間で風を切る以外の音が消えた。 沈黙を経て、悪魔はどうにか耳から赤みを引かせた。逸らしていた顔を、ゆっくりとシェルータに向ける。シェルータの顔からはまだ赤みが引かない。顔を隠したくなるのを堪え、シェルータは悪魔を見つめ返した。 悪魔がゆっくりと、口を開く。
「これからも、そばにいてくれるか」
明るい茶色の目に、シェルータが映る。シェルータの瞳には、愛しいひとが映り込む。シェルータは柔らかく微笑み、もちろん、とうなずいた。
「寂しいなんて言葉を忘れるくらい、そばにいますからね」
シェルータの返事に、悪魔が微笑む。その顔にはもう、寂しさなんて微塵も滲んでいなかった。