花舞う眼と勇躍の鼓
目次
1
ケビトの村のすぐそばには森がある。その森を抜ければ小高い丘があり、頂上には朽ちかけた石造りの神殿が佇んでいる。そこには見るも恐ろしい悪魔が棲みついている――というのが、帝国の言い分だ。 確かに、丘の上の神殿には異形の化け物が棲みついていた。 大人より頭一つ、いや二つ分は大きい背丈。胴体こそ人ではあるが、首から上は蜥蜴の頭。振り乱した黒髪の隙間からは金色の目がギラギラ光り、対峙した相手を睨めつける。首から上は蜥蜴だが、肩から生える腕は大きな猿の腕だ。そして腰から下は狼の足で、尻尾は蛇ときている。 おどろおどろしい見た目だ。これでは帝国の者から〝悪魔〟と呼ばれるのも仕方ない。 帝国の民は、ケビトの地には悪魔がいると信じていた。蜥蜴の頭に猿の腕、狼の足に蛇の尻尾を持つ異形の悪魔。ケビトの者はこの異形を神として祀る異教の民だった。哀れな異教徒たちに、帝国が正しい教えで導く必要がある。だから百年ほど前に、帝国はケビトに攻め入った――。 こんな話を信じているから、帝国の民は悪魔が泣き虫であることを知らない。ケビトの丘に棲まう悪魔は、子供よりも怖がりで泣き虫だ。 悪魔の金色の目からぽろぽろこぼれ落ちる涙が、それはそれはきれいであることも知らない。涙を流す金色の中に青が散っていることも、その青がまるで花のようであることも、帝国の民は知らない。 悪魔が手に取るように天気を読むことも、そのお陰でケビトの畑が豊作になることも、帝国の民は知らない。今や帝国の民となったケビトの民すら、悪魔から天候を教えてもらっていたこと、悪魔と豊穣の歌を歌って踊っていたことを忘れてしまった。 少なくとも悪魔は、そう思っていた。 それでも悪魔はケビトを見守り続けた。どうしてケビトの者と関わり始めたかは、百年が過ぎる間に思い出せなくなっていた。けれど悪魔の中からケビトの者たちへの愛しさは消えなかった。 森で迷う子はいないか。森で怪我をする者はいないか。悪魔は度々森へ入っては、ケビトの子らが日々を営む様子を見守った。時にはこっそり手を出して、彼らの生活を支えた。 悪魔がそうしてそばにいることを、ケビトの誰も知らない。気づかれてはいない。悪魔はそれが少し寂しかったけれど、仕方ない、仕方ないと呟いて胸の古い傷を撫でた。
「負けたんだもの。役に立てなかったんだもの。仕方ない、仕方ないんだよ」
胸の傷は百年前、帝国の者どもが攻め入ったときにできた傷だった。ケビトの子らを守ってできた傷だ。けれど結局、悪魔は帝国の者どもを退けることはできなかった。ケビトは帝国のすみっこの、小さな領地と成り果てた。
「怖かったなぁ。痛かったなぁ。悲しかったなぁ」
悪魔の金色の目から、ぽろぽろ涙が落ちた。古傷を撫で、涙を流しながら、悪魔は森を一周し、何事もないことを確かめて神殿に戻った。 丘の上の神殿は、悪意によって壊され、朽ちかけている。そんな神殿を訪れる者はもういない。誰も訪れない神殿に、明かりが灯ることはない。明かりを灯すことは簡単だ。しかしそうすると、神殿の空虚な広さが浮き彫りになる。神殿には、悪魔以外誰もいないのだ。 静かすぎる神殿で、悪魔は祭壇に横たわった。石造りの祭壇はひやりと冷たい。悪魔はこの百年で、冷たい祭壇で眠ることに慣れてしまった。 祭壇の上で丸くなり、金色の目を閉じる。悪魔の目からまたぽろりと、涙が一粒こぼれ落ちた。
「さびしいなぁ。悲しいなぁ。昔みたいに、みんなと踊りたいなぁ」
呟いたって叶うわけでもない。それでも悪魔は呟かずにいられない。そうしないと、神殿の静謐さに気が狂いそうだった。ひやりと冷たい尻尾を抱いて、悪魔はどうにか眠りに落ちた。 そんな夜からどれほど日が過ぎた頃だっただろうか。ある春の昼下がり。悪魔は森の中で迷子を見つけた。 同じ道を何度も歩いては、きょろきょろと辺りを見回す。そして首を捻って、また同じ場所をぐるりと歩く。 耳の下で切り揃えられた黒髪は、ケビトでよく見る色だ。瞳の黒色も、ケビトでよく見る色だった。まん丸の瞳とぷくぷくしたほっぺは、まだまだ幼い証拠だ。 子供は袖のない外套を羽織っており、その外套にはたくさんの装飾品をぶら下げていた。きらきら光る石でできた装飾品は、子供が歩くたびに音を立ててぶつかり合う。見覚えのある装飾品だが、悪魔はこれらが何を意味するか、すぐに思い出せなかった。 ともかく子供が心配な悪魔は、そっと子供の後をつけた。 本当に迷子かしら。近くに大人はいないかしら。実は友達と来ているんじゃないかしら。悪魔の胸に、不安が湧く。 子供が一人で森を歩くなんて信じられなくて、悪魔は怒号を上げる大人が今にも飛び出してくるのではないかと怯えていた。子供が動物に襲われやしないかと、ハラハラしていた。 そうして子供を見守っていても、子供はずっと一人きりだった。 迷子なのは間違いないだろう。でももしかしたら、そろそろこの子を心配した大人がやってくるかもしれない。そうなったら、また怖がられて恐ろしい武器を向けられるかもしれない。 それはやだな、怖いなぁ、でもあの子が迷子になって行き倒れになるのも嫌だなぁと、悪魔は困ってしまった。 どうしたものかと悩みながら木陰から木陰へこそこそ移動する悪魔に、腹を空かせた狼が音もなく近寄ってきた。
「ちょいと、ねえ、丘の神様ったら」 「どうしたの。何か困りごと?」 「困りごとも困りごと。あたしゃ腹が減っちまってね。あのガキが倒れたら、食っちまってもいいかい? 若くて肉が柔らかい上に、メスだから栄養もある」 「だめだよ!」
大きな声を出してから、悪魔はハッと自分の口を大きな手で押さえた。幸い、子供は悪魔の声に気づいていない。悪魔はひそひそと潜めた声で、寿命が近い野兎の巣穴を教えた。 野兎といえど森に住まう者の命。胸は痛むが、まだまだ寿命のある子供を狼に差し出すのも気の優しい悪魔には難しい。野兎が上げる悲鳴を想像し、悪魔は胸の中で何度も謝りながら、迷子に向き直った。 子供は疲れてしまったらしい。背を預けるにちょうどいい太さの木を見つけると、その根元でぺたんと座り込んでしまった。 胸に何かを大事に抱えている。水筒かしらと思った悪魔が目を凝らすと、それは太鼓だった。子供が持つにちょうどいい大きさだ。なぜ子供がそんなものを大事に持っているのか。考えたってわかるはずもない。まぁいいかと太鼓から目を逸らし、悪魔は意を決し木陰から出た。 子供はまだ悪魔に気づかない。悪魔は声をかけるかかけまいか、この期に及んでまだ悩んでいた。
――放っておけばあの子は干からびて死ぬかもしれない。そうでなくとも、狼や熊に食べられるかもしれない。そうなったら可哀想だもの。
腹をくくった悪魔は、恐る恐る子供に声をかけた。
「あのぅ……きみ、迷子?」 「うきゃあ!」
子供は元気な叫び声を上げ、ぴょんと跳び上がった。想像もしなかった声量に悪魔も驚き、きゃっと跳び上がる。予想外の声の大きさで、悪魔の脳裏に百年前の恐ろしい出来事が蘇ってしまった。 雄叫びを上げ攻め込む、帝国の者の声。痛みに呻くケビトの若者の声。抵抗空しく嬲られるケビトの女たちのすすり泣き。恐怖に駆られたケビトの子供たちの悲鳴。 悪魔の金色の目から、ぼろぼろと涙が落ちる。情けない声を上げ、悪魔はその場にうずくまって泣き出してしまった。 慌てたのは子供のほうだ。「わぁ」と声を上げた子供は、悪魔に駆け寄るとうねる黒髪と丸くなった背中を小さな手で何度も撫でた。
「なかないで、神さま。ごめんね。トゥトゥ、びっくりしただけだよ。神さまのこと、こわがったんじゃないよ」 「かみさま?」
もうずいぶん呼ばれていない呼び名に、悪魔は思わず顔を上げた。涙で濡れた金色の目を見つめ、子供――トゥトゥは大きくうなずいた。
「ケビトの神さま。むかし、むかぁし、ケビトの人たちとなかよしだった。みんなわすれちゃったけど、ととさまとトゥトゥ、おぼえてるよ」
名前だって、とトゥトゥは悪魔の目を見つめ、重なる鱗を何度も何度も優しく撫でる。
「神さまの名前、〝花舞う眼〟。トゥトゥ、知ってる。ととさまも、知ってる」
覚えてる。知ってる。 素朴な言葉だ。だからこそ寂しかった悪魔の胸に染みこんだ。嬉しさが新たな涙となって湧き上がる。 悪魔はぽろぽろと涙をこぼし、嗚咽を漏らした。トゥトゥの何倍もある巨躯を丸め、悪魔はしくしくと泣く。情けなく泣き顔を晒す悪魔が泣き止むまでずっと、トゥトゥはその小さな手で悪魔の頭を撫でてやった。 落ち着いた悪魔は、トゥトゥと名乗った子供にもう一度名前を確認した。
「きみの名前は、トゥトゥ?」 「うん。トゥトゥはトゥトゥ。あ、ちがった。ユトゥルトゥだよ」 「ユトゥルトゥ……そうか、きみは祭司の子か」
ユトゥルトゥ。今はもう失われた言葉の響きに、悪魔はトゥトゥが太鼓を抱えていること、たくさんの装飾品をつけていることを納得した。
「きみの名前は〝勇躍の鼓〟だね」 「そだよ。トゥトゥは、さいしの子。〝勇躍の鼓〟だよ」
うなずいたトゥトゥは、抱えた太鼓をとことことんっと叩いた。
「トゥトゥ、太鼓がとくい。たくさんたたくよ。たくさんたくさん、みんなのきもち、ひょうげんするよ」
とことこ、ぽこぽこと鳴らしながら、トゥトゥは器用にくるくる踊る。小さな手が奏でる音の高低、音の振動は小気味よい。翻る外套の裾と、ぶら下げられた装飾品がトゥトゥの踊りを華やかに魅せる。 それはケビトの踊りだった。ケビトの者たちが、かつて神だった悪魔とともに喜びを表した音だった。嬉しくなった悪魔は大きな手で惜しみない拍手を送り、自分もまた、古の言葉で歌い出した。 トゥトゥの太鼓に、悪魔の歌が重なる。トゥトゥは黒い瞳をきらっと輝かせると、太鼓を叩く手を一層激しく踊らせた。 それからしばらく、二人は歌ったり踊ったりを楽しんだ。ハッと気づく頃には日が傾いていて、トゥトゥは急いで家に帰らなくてはならなかった。
「それじゃあ神さま、またあした」
また明日。そんな言葉、悪魔は久しく耳にしていなかった。花散る瞳をぴかぴかと輝かせ、悪魔は何度も「うん!」「また明日!」とうなずき、大きな猿の手をぶんぶんと振った。トゥトゥもまた、太鼓を抱えていない手を悪魔が見えなくなるまで振っていた。
「また明日……明日、明日かぁ」
嬉しくて嬉しくて、悪魔はうふふと笑みをこぼした。今まで寂しさで占められていた悪魔の胸に、あたたかな炎が灯っていた。
2
それからトゥトゥは本当に、毎日悪魔のところへやってきた。悪魔はトゥトゥが無事やってくるか心配で、いつもそわそわしながら森の中で出迎えた。 装飾品がぶつかり合う音を響かせながら、トゥトゥはとたとた駆けてくる。小さな太鼓も決して忘れない。
「花ちゃん!」
悪魔の名前〝花舞う眼〟から、トゥトゥは悪魔をこう呼ぶ。かつて人々と暮らした頃だって、悪魔をそんな風に呼ぶ者はいなかった。悪魔は嬉しくてくすぐったくて、うふふと笑ってから「トゥトゥ!」と返す。
「花ちゃん、またおむかえ来てくれた」 「うん。トゥトゥが狼に食べられないか、心配だったから」 「だいじょぶ。トゥトゥ、おおかみたいじの音出せる」
そう言ってトゥトゥは、とことことん、と太鼓を叩いた。 祭司の血筋は音楽によって人を導く。幼いながらもトゥトゥの腕前はかなりのものだ。だがその腕前が獣に通じるとも限らない。 トゥトゥが大丈夫と言い張っても、悪魔は毎日トゥトゥを森まで迎えに行き、丘の上の神殿まで手を繋いで歩いた。 トゥトゥが毎日やってくるのは、理由があった。
「あのね花ちゃん。はたけ、芽がでないの」
神殿前、草がふかふか生い茂る広場で腰を落ち着けながら、トゥトゥは畑のことを話した。トゥトゥが悪魔を訪うのは、古の時代からケビトの農耕に携わる悪魔に助力を求めるためだった。 この日の相談は発芽の悪さだ。トゥトゥの正面に座り込み、拙い言葉と説明から状況を察した悪魔は、うぅんと腕を組み考え込んだ。
「時期が悪かったかなぁ。しばらく穏やかな天気が続くから、種に余裕があればもう一度蒔いてみて。余裕がないなら――」
悪魔が話す解決方法を、トゥトゥは真面目な顔でふんふんと聞く。「わかった」と大きくうなずいたトゥトゥの顔は、大人の真似をしているのがよくわかる顔つきだった。その可愛らしさに噴き出しそうになるのを、悪魔は懸命に堪えなければならなかった。 また別の日は、強風で作物が倒れてしまうことへの相談だった。
「風、つよい。たおれちゃう」 「これから風が強くなるから、対策しないといけないね。背が高いものは添え木が必要かなぁ」
神妙な顔で「そえぎ」と繰り返すトゥトゥの口調はまだまだ幼い。いったいいくつなんだろうなぁと考えながら、悪魔はトゥトゥを送る道すがらにもう一度説明しようと決めた。 悪魔に相談して、悪魔とおしゃべりをして、歌って踊って楽しんだら、トゥトゥは村へ帰る。悪魔が見送るのは、森の半ばまでだ。それ以上は村へ近づかない。「気をつけて帰ってね」と言って手を離した悪魔を、トゥトゥは不思議そうに見上げた。
「花ちゃん、なんで森からでないの?」 「うぅん? うーん、うん……」 「うん?」
唸る悪魔を、トゥトゥは純真な目で見つめる。悪魔は蜥蜴の頭で困った顔をしながら、トゥトゥに理解してもらえる言葉を探した。
「僕は……こんな見た目だから、初めてケビトの人たちと会った日も、すごく怖がられたんだ」 「トゥトゥ、花ちゃんこわくないよ」 「うん、トゥトゥは僕を怖がらないね。嬉しいよ。でもね、たぶん……今のケビトの人たちは、僕を見たらきっと、昔の彼らよりも驚いて、僕を怖がると思う」
帝国の教えは、ケビトにすっかり馴染んでしまっているから。帝国の考えは、ほとんどケビトの考えとなっているから。 ケビトの村には楽しかった思い出が詰まっている。悲しい、恐ろしい記憶もあるけれど、大半は楽しくてあたたかな思い出だ。そんな思い出ある彼らの子孫に怯えられるという悲しい記憶は、塗り重ねたくなかった。
「だから、僕は村までは行かない。行けないんだ」 「トゥトゥといっしょでも?」 「うん……ごめんね」 「いいよ」
トゥトゥは「またあした」と手を振り歩き出して、何か思い出したように足を止め、くるりと悪魔を振り向いた。とたとたと、幼い足音を響かせ駆け戻ってくる。かと思うと、トゥトゥは悪魔に体当たりをする勢いで抱きついた。
「トゥトゥ、花ちゃんだいすき。みんなもきっと、花ちゃんすきになるよ」
悪魔は鼻の奥がつんと痛くなるのを感じた。金色の目に浮かぶ涙がこぼれないよう、とっさに上を向く。けれど溢れた涙は目尻を伝ってこぼれてしまい、トゥトゥのつむじを濡らした。突然の雨に、トゥトゥは顔を上げて首を傾げた。
「花ちゃん、すぐなくね。どして?」 「すぐ泣いちゃう情けない神様で、ごめんなさい……」
大きな手で目尻を拭い、悪魔はしゅんとして謝った。謝る悪魔にトゥトゥは「んーん」と首を振った。小さな手を目一杯伸ばし、狼の毛皮を優しく撫でる。
「花ちゃんなかなくていいように、トゥトゥ、もっとがんばるね」
何をだろうと思いながら、悪魔は聞き返せなかった。これ以上嬉しくなる言葉を聞かされたら、泣き止む自信がない。 今度こそ、トゥトゥは村へ帰っていった。装飾品を揺らし帰るトゥトゥを、悪魔はいつまでも見送っていた。 手を振る悪魔が見えなくなるまで歩いたトゥトゥは、太鼓をよいしょと抱え直した。森番と出会さないうちに村まで戻らなければならない。トゥトゥは駆けっこが苦手だ。それでも大急ぎで、村まで走った。 森の出口で茂みに隠れながら、トゥトゥは近づく足音がないか耳を澄ませた。息を潜め、目を閉じて集中する。トゥトゥの耳に届く足音はなかった。トゥトゥの耳に誰かの話し声は聞こえなかった。 トゥトゥはほっと息を吐き、茂みから出て村に入った。 もし森番が歩いてきたらどうしていたのか。そのときは、得意の太鼓で森番を惑わせるつもりだった。トゥトゥは〝勇躍の鼓〟、本来は人の心を上向かせるために太鼓を叩く。けれどその反対、誰かの心を落ち込ませたり、不安にさせたりすることだってできる。 そんな使い方をしてはいけないよと、祭司である父から厳しく教えられていた。けれどトゥトゥは、父の言うことを素直に聞くような良い子ではない。何せ森番は意地悪なのだ。子供も大人も関係なく、男女の区別もなく、意地悪を言うし意地悪をする。ひどいときにはケチをつけて、貧乏なケビトの人々から必要以上の金を巻き上げる。 そんな人だから、森番に対してちょっとくらい悪さをしてもいいだろうとトゥトゥは考えていた。考えているだけで、未だ一度も森番に不安の鼓を聞かせたことはないけれど。 無事に森から抜けて家へ帰ったトゥトゥは、畑仕事を終えて一息ついている父へ悪魔から聞いた助言を伝えた。 トゥトゥの父は祭司だが、帝国の教えが根付いたこの村ではもう祭司として働くことはない。ケビトの民のほとんどは、悪魔がかつて神であったことを忘れている。忘れさせないのがトゥトゥたちの血筋の役割だったのだが、トゥトゥの父は今や、家族を食わせるため身を粉にして働く農民となっている。
「そうか、そうか。〝花舞う瞳〟様はそう仰っていたか、ありがとう、トゥトゥ」
トゥトゥの父は礼こそ言うものの、自分で森へ入ろうとはしない。直接お礼を言いに行こうとしない。幼いトゥトゥはそれが不満だった。「皆に言って回ろう」と立ち上がる父の裾を掴み、トゥトゥは「どうして」と尋ねた。
「ととさま、花ちゃんにありがとって、いわないの? いいに、いかないの?」
我が子の真っ直ぐな瞳に、父は困り果てた。 ここはトゥトゥたちの家だ。客人もいないし、話を盗み聞きされる心配もない。けれど父はしゃがみ込み、声を潜めてトゥトゥに話した。
「いいか、トゥトゥ。森に入って見逃してもらえるのは、お前が子供だからだよ。本当は、森番の許しなしに森へ行ってはいけないんだ」 「どして?」 「今はもう、森も丘も、ケビトのものじゃないからさ」 「ケビトのだよ。ずっと、ずーっとむかしから」
トゥトゥの頬がぷくりと膨らむ。不服そうな娘の顔を見て、父は苦笑いを浮かべた。もはや祭司ではなく労働者のものとなった大きな手で、わしわしとトゥトゥの黒髪を撫でる。
「お前がもう少し大きくなったら、ちゃんと話してあげよう。今はただ、神様とほかの子供たちと、仲良く遊んでくれればいい」 「できるかい」と尋ねる父に、トゥトゥは「できるよ」と胸を張った。 話はそこでおしまいだった。「母さまの手伝いをしておいで」と父がトゥトゥを家の奥へ向かせる。奥では母が、糸を紡いでいるようだ。トゥトゥは「んえぇ」と嫌そうな声を上げたが、逆らうつもりはなさそうだ。とたとた足音を響かせ「かかさまー」と母を呼ぶ娘を見送り、父も今一度働くため、うん、と大きく背筋を伸ばした。
3
そう、トゥトゥが森に入るのは、悪魔に助力を求めるためばかりではなかった。確かに困りごとは無尽蔵だが、すべてがすべて悪魔に解決してもらうものでもない。トゥトゥが森に入る日のほとんどは、悪魔と遊ぶためだった。 手を繋いで森を歩きながら、トゥトゥと悪魔は楽しい時間を過ごした。 例えば、木の実を取って囓ったり。
「この赤い実はねぇ、囓ると酸っぱいんだ。煮詰めると美味しくなるんだけど――」 「しゅっぱい!!」 「もう食べたの!? だめだよトゥトゥ、ぺっして、ぺっ!」
悪魔の肩に止まる小鳥と歌ったり。
「花ちゃん、とりだよ」 「うん。肩で休ませてほしいんだって。お礼に歌を聴かせてくれるそうだよ」 「もううたってる」 「きれいな声だねぇ」 「むむっ。トゥトゥの太鼓もまけないよ!」 「わぁ、トゥトゥも上手だねぇ」
悪魔の足にすり寄っては「その子の指だけでもちょいと囓らせとくれよ」とねだる狼から逃げたり。
「ちょいと、ちょいと、ねえ、神様」 「わぁ、おおかみ!」 「だ、大丈夫だよトゥトゥ! まだ太鼓は叩かなくていいよ、僕の肩に乗って!」 「おやひどい。ねえ神様、小腹が空いたんだよ。その子の臓物をくれなんて言わないからさ、ちょいと小指だけでも囓らせとくれよ」 「トゥトゥ、太鼓を叩いて! 今すぐ!」 「わかった!」
こんな風に、トゥトゥと悪魔は二人っきり――とも限らなかったけれど――でも楽しく過ごした。 森を抜ければ、神殿が建つ丘に出る。なだらかな坂を登っていると、わざわざ木から下りてきた栗鼠たちが、悪魔にまとわりついた。
「かみさま、かみさまー!」 「のぼらせて、のぼらせてー!」 「あはは、くすぐったい」
狼の毛皮を掴んで足下から登った栗鼠たちは、そのまま器用に悪魔の黒髪を掴み、つむじまでするすると登っていく。木の上よりもずいぶん低いのに、彼らにとって悪魔のつむじに立って見る景色は格別らしい。 不思議そうに栗鼠を見上げるトゥトゥにそう説明すると、トゥトゥはあまり興味がなさそうに「ふぅん」とうなずいた。
「トゥトゥ、もしかして栗鼠は嫌い?」 「んーん、すきだよ」
首を振るトゥトゥの返事に、悪魔はほっと息を吐いた。けれど吐いた安堵はすぐに吸い戻されることになる。
「りす、おいしくてすき」 「た、た、食べちゃだめ!」
大きな手で頭の上を隠しながら、悪魔は何度も首を振った。手の下で栗鼠が目を回してしまったが、悪魔が気づくまでしばらくかかる。トゥトゥは悪魔の手の向こうにいる栗鼠を、じっと見つめ首を傾げる。
「おいしいのに? どして?」 「せめて、せめて僕の前では、食べないで……この子たちまだ、寿命があるから……」
しくしく泣いて命乞いをする悪魔に、トゥトゥは慌てて「たべない!」と約束しなければならなかった。 またあるときは、悪魔がトゥトゥの前で花を食べることがあった。 トゥトゥたちは森を出て丘を登ると、神殿の前で話したり、歌ったり、踊ったりして楽しむ。この日もトゥトゥと悪魔は二人で歌いながら丘を登り、神殿前の開けた場所、柔らかな草の生えたそこに腰を落ち着けた。 短くない道のりは、喉も渇くし空腹も覚える。トゥトゥはいつも太鼓のほかに持参した水袋で喉を潤すが、悪魔が何か飲み食いすることは滅多とない。 だからこの日、丘に着くなりお弁当感覚でむしゃむしゃ食べる悪魔を見たトゥトゥは、目をまん丸にした。悪魔が食べている花は、悪魔自身が森で熱心に摘んでいたものだった。鮮やかな青が印象的な花だった。
「花ちゃん、花、たべるの?」 「うん? うん。美味しいよ」 「花なのに?」 「花だからだよ。瑠璃萵苣っていってね、トゥトゥたちが食べてもいい花だよ」
花の名前が聞き取れなかったのか、トゥトゥは黒髪をさらりと揺らし頭を傾け、「るり?」と繰り返した。悪魔はそれを「るりぢしゃ」と訂正する。けれどトゥトゥには、発音が難しいらしい。
「るりじさ」 「るりぢしゃ」 「るりでぃしゃ?」 「るりぢしゃ」 「ちしゃー!」
両手を挙げ威嚇するように声を上げたトゥトゥを見て、悪魔は「子熊みたい」と楽しそうにくすくす笑った。 悪魔の手には、まだまだたくさん花がある。それをトゥトゥの手で一掴みほど選んだ悪魔は、はい、とトゥトゥに差し出した。
「トゥトゥにあげる。本当に美味しいよ」 「えぇ、いらなぁい」 「汁物に添えるともっと美味しくなるらしいよ。きっと、お父さんやお母さんが上手に料理してくれるよ」 「やーっ!」 「あっ、トゥトゥ待って! ごめん、無理に食べなくていいから! トゥトゥ、トゥトゥーっ!」
走って逃げ出すトゥトゥを追いかけながら、悪魔はトゥトゥが香りの強い花や野菜が好きではないと初めて知った。 別の日には、ふかふかの草に寝転がって、悪魔の胸にある傷について尋ねることもあった。 踊り疲れ歌い疲れ、悪魔とトゥトゥはごろりと草の上に転がった。眠気にまどろむ悪魔の隣に転がっていたトゥトゥは、思い出したようにむくりと起き上がった。
「花ちゃん、このがびがび、なぁに?」
起き上がったトゥトゥが見ているのは、悪魔の胸にある大きな傷だ。百年前にケビトの土地に攻め込んだ帝国の者どもが、当時は神として崇められ慕われていた悪魔を恐れ、槍や刃を突き立てた傷だった。 大きな手で傷を撫でながら、悪魔は「これはね」とトゥトゥに怖がられない言葉を探す。
「これは……昔、帝国の人たちにつけられた傷だよ」 「どして?」
トゥトゥの目はいつでも純粋だ。純粋な目が投げかけた問いかけは、悪魔が何度も抱いたものだ。 なぜ。どうして。ケビトの人々が、自分自身が、攻め入る異国の者どもに傷つけられ、踏みにじられねばならないのか。なぜ。どうして。ケビトの人々が、自分自身が、かつての言葉を奪われ壊され、他国の言葉を強要されねばならないのか。 悪魔の青散る瞳に、涙が膜を作った。弱々しい声で「わかんない」と力なく首を振る。
「僕やケビトの人たちが、帝国の人からは、怖かったみたい。怖くないよ、何もしないよって言ったんだ。だからやめてって、頼んだんだ。なのに彼らは、信じてくれなかった。やめてくれなかったんだ……」
トゥトゥから顔ごと体を背けた悪魔は、そのまま丸くなって、しくしくと泣き出した。 悪魔の耳に、あの日の怒号が蘇る。あの日の泣き叫ぶ声が蘇る。胸の傷が、炎のような痛みを呼び起こす。 体を縮こめ泣く悪魔を、トゥトゥは優しく、優しく慰めた。
「だいじょぶ、だいじょーぶ」
小さな手が、震える背中を優しく撫でる。
「こわくない。花ちゃん、やさしいよ。トゥトゥ、知ってるよ」
幼い声が、知る限りの言葉で悪魔を慰める。
「花ちゃん、こわいの、いたいの、やだったね。花ちゃんつよいけど、だれかにいたいこと、こわいことするの、やだもんね。花ちゃん、いいこ、いいこ」
強くないよ、と悪魔はくぐもった声で否定した。 強くない、強くなんかない。怖がりで、臆病で、何にもできない弱い神様。ケビトの人たちを守れなかった、頼りない、情けない神様。 否定し、首を振っても、トゥトゥはさらに強く首を振る。
「花ちゃん、つよい。やさしくて、つよくて、いいこ。だいじょぶ。花ちゃん、つぎはかてる!」
次があったら嫌だなぁと思いながら、悪魔はもしもまたあんなことがあったなら――と考えた。 次はせめて、引っこ抜いた木を投げようか。次はせめて、大岩を投げて脅かしてみようか。そのくらいは、頑張ってみようか。だってトゥトゥが、こんなに励ましてくれるのだから。 畑仕事を手伝っていたから、力だけはあるものなぁと思い出した悪魔は、小さな小さな声で「うん」とうなずいた。
4
トゥトゥが村の子供たちを悪魔の元へ連れて行くようになったのは、悪魔の傷の理由を聞いてからだった。
「モケモと、カルミー」
トゥトゥが連れてきたのは、二人の子供だった。二人とも女の子のようで、どちらも髪を長く伸ばして編み込んでいる。トゥトゥは短く切り揃えているが、それは祭司の血筋だからだろう。 トゥトゥ以外の子供が自分の元へやってくると思わなかった悪魔は、モケモとカルミーの姿を見て驚いた。そして嬉しくなった。二人は悪魔を見上げぽかんと口を開けている。悪魔はなるべく二人を怖がらせないよう、ゆっくりと手を差し出した。
「僕は、〝花舞う眼〟。えっと、よろし――」 「悪魔だーっ!」 「お目々が怖いよーっ!」
モケモとカルミーは火がついたように泣き出した。二人も悪魔の姿に驚いたのだろう。トゥトゥはいったいどんな説明をして二人を森へ連れてきたのか。 驚いたのは悪魔も同じだ。寧ろ泣かれてしまった分、悪魔のほうが衝撃は大きい。 青が散る金の目に、瞬く間に涙が浮かんだ。
「う、う……うわぁあああん」
泣き叫ぶ子供二人と、情けなく泣く悪魔。そして泣く三人を前に、呆然と立ち尽くすトゥトゥ。この中で先に行動したのは、モケモとカルミーの二人だった。
「な……泣かないで」 「ごめんね、怖がっちゃって……」
溢れては落ちる涙を拭う大きな手に、二人の小さな手がそっと重ねられる。それでも悪魔はまだぐすぐすと泣き止まない。見た目は恐ろしいが、悪魔は泣き虫だ。子供のように泣く悪魔の姿に、モケモもカルミーの恐怖心は吹き飛んでしまったようだ。 そこでやっと、トゥトゥが仲裁に入った。
「花ちゃん、ちょっと泣きむしだけど、こわくないよ。やさしいよ。トゥトゥの太鼓で、おどってくれるよ」
とととん、とトゥトゥの手が太鼓を叩いた。泣いていた悪魔が顔を上げる。モケモとカルミーの焦げ茶の目が輝く。
「そうだ、踊ろう!」 「トゥトゥの太鼓で踊ったら、みんな、みぃんな、おともだち!」 「トゥトゥ、叩いて!」 「いーよ」
地面に座り込み、トゥトゥは軽やかな手つきで太鼓を叩き出した。小気味よい音の強弱に合わせて、モケモとカルミーも悪魔の手を引き踊り出す。
「にゃーゆにゃ」 「にゃーいにゃ」 「わったりったー」 「やーいわいやー」
二人が歌うのは、帝国に壊され砕かれ消されたはずの、古の言葉だ。悪魔の目から涙が引いてゆく。すっかり機嫌を直した悪魔は、一緒になって歌い出した。楽しげに踊る悪魔とモケモたち。その姿を見て、トゥトゥは得意気に笑いながら小さな手を忙しなく動かしていた。
モケモとカルミーが悪魔と仲良くなったことで、村の子供たちは森に入る抵抗をなくしたらしい。トゥトゥが一人で森へ来ることはなくなった。森から丘へ行く悪魔の両手は、いつもトゥトゥと誰かの手と繋がれていた。 楽しく歌い、楽しく踊る。そんな風に、子供たちと悪魔は毎日仲良く過ごしていた。小さな労働力である彼らが仕事を放り出して遊び回るのは、大人にとって頭痛の種ではあった。だからといって、大人の誰もが森へ行くなとは言わなかった。森番ですらも、子供たちがこそこそ森へ行くことを咎めはしなかった。 けれど一人だけ、子供たちが悪魔と遊ぶ様を目の当たりにして、これは一大事と騒いだ者がいた。それはカルミーの兄、ティグリだった。 妹のカルミーが度々仕事を放り出して遊びに行くせいで、ティグリは子守りや薪拾いを押しつけられがちだった。その日ティグリは、今日こそ妹に仕事をさせようと鼻息荒く森に足を踏み入れた。 そこで彼は、蜥蜴頭の怪物が、訳のわからない言葉で歌って踊る様を見た。子供たちが、トゥトゥの太鼓に合わせて悪魔と一緒に歌って踊る様を見た。
「大変だ、大変だ」
木陰で盗み見ていたティグリは、震える足で転がるように村へ戻った。そして大きな声で、大人たちに森での様子を触れ回った。
「あいつら騙されてんだ! トゥトゥが怖がんねーせいだ! ちびたちみんな、怪物に食われちまうんだ!」
ティグリのただならぬ様子に、大人たちが仕事の手を止めて集まってくる。そこにはトゥトゥの父もいた。ティグリは集まった大人たちを広場へ移動させると、子供たちが森で何をしているか、森に何がいるかを語った。そしてトゥトゥの父を指差し、悪魔と子供たちを引き合わせたトゥトゥを糾弾した。
「あんたの娘だ、あんたの娘が俺の妹を誑かしたんだ!」
困り顔をしたトゥトゥの父は、森番がこの騒ぎで村に戻ってこないかをちらと確認した。そして潜めた声で、もう忘れ去られつつある昔の信仰を語った。
「知らない者も多いだろうが、ケビトが帝国に飲み込まれる前、私たちには私たちの神がいたんだ」 「神様ってのは、あれだろう? 帝国のでっかいお堂にある、あの……ほら、あれだ。何だか白くてきれいな……」 「ああ、わかるわかる。見たことはねえが」 「その神様ではなく、私たちだけの神様だよ」
蜥蜴の頭に、黒い髪。人の胴に猿の腕。狼の足に蛇の尻尾。見た目こそ異形極まりないけれど、性格は穏やかで、天気を読むことに長けて、いつでもケビトの民に寄り添っていた。少しばかり寂しがり屋で、怖がりで、泣き虫であったのが玉に瑕。けれどそんな欠点も、愛おしくてならなかったケビトの隣人。 トゥトゥの父の語り口に、大人たちが「じーさんが畑仕事の合間に話してたっけね」「子守りのばーさんが聞かせてくれたな」「子供の頃、森で見た気がするね」「でかくて怖かったけど、声は優しかった気がするよ」と次々自分の聞いた話や体験を語る。大人たちは、トゥトゥたちと遊ぶ悪魔を良き隣人として扱いそうだ。 納得しないのは、ティグリただ一人。
「で、でもトゥトゥたちがっ、変な言葉の歌を歌ってたんだ!」
あれは悪魔の言葉だ、と主張するティグリに、またもやトゥトゥの父が「それは違う」と首を振る。
「私たちの祖父や祖母、ご先祖様たちが使っていた、古の言葉だよ。変な言葉の歌ならば、今だって収穫の時に歌っているだろう?」
トゥトゥの父を否定しようと、ティグリは噛みつかんばかりに口を開けた。しかしそれを遮って「歌ってるなぁ」とうなずいたのは、ティグリの父だ。その横で「にゃーんや、わーいや……ってな」と口ずさんだのは、モケモの父だ。
「じーさまが歌ってたの、よく覚えてらぁ」 「昔は収穫祭のときにみんなで歌って踊ったんだったか? 神様がまだいるんなら、いっちょ今年は集まってみるか」
豪快に笑う父親二人のそばで、「いいわねぇ」と乗り気になって見せたのはその妻たちだ。周りの大人も、それに同調する。のんきな大人たちの態度に、ティグリは砕けそうなほどの力で歯噛みした。 折悪しくそこへ帰ってきたのが、ティグリによって槍玉に挙げられている子供たちだ。太鼓を抱え歩くトゥトゥを見て、ティグリが勢いよく指を差す。
「あいつが悪いんだ! あんな怪物と仲良くしてっ、俺の妹まで誑かしやがって!」
トゥトゥはむっと唇を尖らせ、頬を膨らませた。指を差すどころか、大事な友――そして神様――を怪物扱いされた。これで怒らないほど、トゥトゥは大人しい性格ではない。
「かいぶつじゃ、ないもん」
黒い瞳に、小さくも確かな炎が燃え上がる。たかたかとティグリの前まで小走りでやってきたトゥトゥは、まだ指を差すティグリをぐっと見上げた。
「花ちゃん、やさしいもん。まいごになったとき、だいじょぶって、きいてくれたもん」 「そんなもん、お前を食っちまうための演技だ!」 「いやぁ、そうでもないんじゃないの?」
のんびりとした声を上げたのはティグリと仲のいい、マーロという娘だった。
「あたしさぁ、トゥトゥくらいの頃、森で迷ったんだよね。そんとき、蜥蜴頭のでっかい化け物に道を教えてもらったよ」
泣き叫んだらどっか行っちゃったけど、と笑うマーロに同調し、俺も俺もと次々体験談が語られる。
「それなら俺も小さい頃、でっかい猿みたいな蜥蜴に村の方角教えてもらったぞ」 「うんうん、おっそろしい顔なのに優しい声だったよ」 「話したこたぁないけど、あたしがちびの頃、森で見たことはあるねぇ」 「森で迷ったときは変な生きもんが道案内してくれっから、うろうろ歩き回るなよってじーさまたちも言ってたな」
大人たちの考えは〝悪魔は良き隣人である〟という意見へ固まっていく。その様子を目の当たりにして、ティグリは悔しそうに歯軋りした。その顔はもはや、当初の目的を忘れてしまっているようだ。 一方でトゥトゥは、大人たちが悪魔を褒めそやす様子を見て得意気に胸を張った。
「花ちゃん、やさしいよ」
トゥトゥはどうだと言わんばかりに、ティグリを見上げてふふふんと笑う。
「みんなにやさしい。ひとにも、どうぶつにも」
むっとしたティグリがまだ噛みつこうとするのを、トゥトゥの父が大きく手を鳴らすことで止めた。
「話はこれでおしまいだ。トゥトゥたちが遊んでいただいているのは、化け物でも悪魔でもない、我々の良き隣人だ。そうだろう、みんな?」 「おう、そうだとも」 「悪さするわけじゃねえ、ちょいと見た目が怖いってだけだろう?」 「話がおしまいなら、仕事すっかぁ」
ぞろぞろと引き上げていく大人たちを、ティグリが恨めしげに睨む。その恨めしさを受け止めるように、トゥトゥの父がトゥトゥを抱き上げながらティグリの前に立った。
「ティグリ、心配かけたね。でも決して悪いものではないんだ。どうか見守ってやってくれないか」
トゥトゥの父が謝る声は優しい。ティグリを見下ろす顔は、手助けしてやりたくなる困り顔だ。 農民となりつつあっても、彼は祭司の血筋だ。どんな声音で訴えれば、どんな仕草を見せれば、どんな言葉を選べば、人の心を掴めるかよく知っている。 けれどティグリは祭司の血筋なんて知らない。何となくこの人の言うことには逆らえないなと感じながら、ふて腐れたように「わかったよ」とうなずくほかなかった。 父に抱き上げられたトゥトゥが「うふふ」と笑う。
「ティグリにーちゃん、せっかちさんだね。花ちゃんいいこなのに」 「うっ……うるせえうるせえうるせえーっ! 俺は絶対っ、あんな化け物認めねーからな!!」
父のせっかくの取りなしも、トゥトゥ自身が台無しにしてしまった。呆れてこめかみを押さえる父の腕の中で、トゥトゥはおかしそうにくすくす笑っていた。
それからティグリは、大人から押しつけられる細々した仕事の合間を縫ってはトゥトゥたちの後をつけて森に入った。どうにか悪魔が悪いものであると証明したいようだ。 木陰から剣呑な目で睨みつけられ、悪魔は戸惑うばかり。悪魔自身は、ティグリとも仲良くしたかった。ケビトの者は誰も彼も、悪魔にとって友人たちの子孫だ。大きくなったって可愛くて仕方ないし、悪意を持って睨まれたって憎み返せない。 しょげ返る悪魔の様子に、トゥトゥとモケモ、カルミーの三人が悪魔を取り囲んで耳打ちした。
「花ちゃん、いいこと教えたげるの」 「ティグリにーちゃん、てなずけられるよ」 「トゥトゥったら、むつかしい言葉知ってるのね!」 「あの子、ティグリっていうんだね」 「そうなの。カルミーのお兄ちゃんなの!」
それでね、と三人が声を潜める。三人の背丈に合わせて、悪魔は地面に膝をつけるほど屈む必要があった。 ティグリはトゥトゥたち三人が悪魔に耳打ちしているのを見ていたが、近づいて盗み聞きしようとはしなかった。するほどの気力がなかった。 カルミーが子供同士で遊んでいる分、大人に近いティグリは子守りに畑仕事に薪拾いとたくさんの仕事を背負っていた。今日だって、悪魔が子供たちに危害を加えやしないかと仕事が一段落してすぐ森に入った。朝食を食べたきり、水の一滴も飲んでいない。ティグリはからからの喉とぺこぺこの腹を宥めるので精一杯だった。 だから悪魔が、いそいそとティグリのそばまでやってくるのに気づけなかった。
「やあ、あの、ティグリ。初めまして」
太陽に影が差したかと思うほどの巨躯。ぬうっと目の前に現れた悪魔に、ティグリはぎょっとした。ティグリはいつも離れたところから悪魔を見ていたから、ここまで近づいたことはない。近くで見る悪魔の様相は恐ろしい。ティグリがもう一つ二つ幼ければ震え上がって泣いていただろう。 叫びたくなるのをぐっと堪え、ティグリは精一杯強がった声で「何だよ」と悪魔を睨みつけた。悪魔は両手を体の後ろにやって、何やらもじもじしている。訝しんだティグリが「何だってば」と繰り返しても、まだ恥ずかしがっている。 離れたところから見守るトゥトゥたち三人組に励まされ、悪魔はようやく隠していた手を前へ出した。大きな手のひらに載っていたのは、つやつや輝く赤い果実だ。
「あの、あの……こ、これ、食べる?」 「はぁ? いらねえよそんなもん!」
差し出された果実を拒んだティグリだが、そっぽを向こうとしたそのとき、腹の虫が果実を寄越せと鳴き出した。ティグリの顔が、果実に負けず劣らず赤くなる。どう声をかけたものかとおろおろする悪魔の手から、ティグリは引ったくるように果実を受け取った。
「……仕方ねえから食ってやるよ!!」
様子を見守っていたちびっ子三人組が、きゃははと笑いながら駆け寄ってきた。
「ティグリにーちゃんはね、くいしんぼだから。おやつあげたら、なつくよ」 「食いしんぼじゃねーよ、食えるときに食っとくだけだ!」
言い訳しながら囓る果実は、労働上がりの疲れた体に染み渡るほど甘かった。がしゅがしゅと果実を囓りながら、ティグリは「勘違いすんなよ」と悪魔に指を突きつける。
「言っとくけど……こんなくらいで、俺はお前のこといい奴なんて思ったりしねーからな!!」
そう言い切ったものの、ティグリの態度は日に日に軟化していく。お腹を空かせたティグリに悪魔が何かと食べ物を与えるからだが、もちろんそれだけではない。 悪魔の泣き虫な性格、悪魔の穏やかな気性、そして子供たちが心底悪魔を好いていること。ティグリは自分一人が悪魔を嫌うのが馬鹿らしくなってしまった。 春が過ぎ夏を迎え、大人たちがトゥトゥたち子供に悪魔へお土産を持たせるようになる頃には、ティグリもすっかり悪魔に慣れて、一緒になって子守りをするようになっていた。 子供たちの笑い声とティグリの叱る声が森に弾ける。「花ちゃん」と悪魔を呼ぶ声が丘に響き渡る。寂しさなんて一抹も感じさせない光景に浮かんだ涙を、悪魔はこっそり、ひっそりと拭った。
5
山賊がケビトの村に押し寄せたのは、秋の収穫祭の頃だった。 山賊たちは傷ついていた。帝国貴族の私兵たちから逃げてきたらしい。だからといって彼らはケビトの人たちにしおらしい顔を見せはしない。鉈や斧を振り回し、彼らを恐怖でねじ伏せようとした。
「今日からこの村を、俺たちの根城とする!」
とはいえ、相手はぼろぼろに怪我をした山賊たちだ。ケビトの男たちも農具を手に、従うものかと抵抗した。怪我をしていようが相手は山賊。暴力を振るう年季が違う。 殴られ蹴られ、暴れられ、家や納屋、家畜小屋の一部を壊されては大人しくするほかない。村の外へ逃げて助けを呼びに行こうとした森番は、投げつけられた手斧が背中に当たって死んでしまった。山賊たちは、従わなければこいつのように殺すとケビトの人々を脅した。殺すつもりのなかった手斧の主は震えていたが、周りの山賊は臆病な――まだ善良であった――彼を、ケビトの人たちから隠した。 何人かの村人や子供たちは、森の中へ逃げた。悪魔に助けを求めるためだった。森を走り抜け、丘を駆け抜け、神殿に棲まう悪魔を呼ぶ。 悪魔には、助けを求める声が聞こえていた。山賊がやってくる蹄の音、吼える声が聞こえていた。家が壊される音、家畜が殺される声も聞こえていた。 けれど悪魔は、神殿から出て行けなかった。
「花ちゃん、花ちゃん、助けてよ!」 「森番さん、死んじゃったの。斧投げつけられて、死んじゃったの」 「今度は親父たちまで殺されるかもしれない」 「ぼくらも、ころされちゃうかもしれない」
神殿の外から、子供たちが助けを求める。悪魔の耳はしっかりと、彼らの声を聞いていた。それでも悪魔は立ち上がれず、冷たい祭壇の上で震えていた。トゥトゥの声が聞こえないことだけが、悪魔にとって救いだった。 悪魔が出てこないことで、子供たちも、大人たちもがっかりした。けれど村へは戻れない。森の中にもいられない。神殿の軒先で山賊が出ていくまで隠れるしかない。もしくは、隙を突いてよその村へ出て行くかだ。 薄暗い神殿で、悪魔は一人で泣いていた。外にいる子供らに聞こえないよう、うずくまって、声を殺して泣いた。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
悪魔の体にある傷が、傷つけられたあの日のように痛む。耳元に、あの日の叫び声が、泣き声が、蘇る。 悪魔の中に、立ち上がらなくちゃと主張する声があった。けれど正義感に満ちた声よりも強いのが、帝国の侵略を覚えている弱虫の声だった。 人の造り出した武器は恐ろしい。痛みを与えること、壊すことに特化しすぎている。 悪魔は恐ろしかった。自分が痛みを感じることも、誰かが痛みを感じることも、怖くて怖くて仕方なかった。
「怖いんだ。大きな刃物を向けられるのが、くしゃくしゃに歪んだ顔で吼えられるのが、怖くて仕方ないんだ」
どれだけ押し殺したって、悪魔の嗚咽は神殿の外にいれば聞こえた。悪魔の泣き言は、大人にも、子供にも聞こえた。子供たちは心底がっかりしたし、大人たちは山賊に抵抗する気力を失った。助けを求めに外へ出ようとする者も、自分たちで山賊を追い出そうとする者もいなくなった。 たった一人、トゥトゥを覗いては。 村が山賊に支配されて数日後のことだ。トゥトゥは一人、森と丘を行ったり来たりしていた。トゥトゥが一人で何かしていることを、大人も子供も知っていた。けれど誰も、トゥトゥに何をしているのか聞かなかった。 それからさらに二日が過ぎた頃、トゥトゥは得意気な顔で神殿に入った。トゥトゥの右手には、いつか悪魔が「美味しいよ」と言った花が握られている。そして左腕には、いつもの太鼓を抱えている。 神殿に入ったトゥトゥは、悪魔が丸くなる祭壇まで近づくと「はい」と花を差し出した。悪魔が顔を上げ、ぐずぐずに潤んだ声で「トゥトゥ」と呼び、おずおずと花を受け取った。トゥトゥはいつもの、真っ直ぐな笑顔を見せた。
「花ちゃんなら、できるよ」
両手が空になったトゥトゥが、とことこと太鼓を叩く。
「おいはらうことだって、できる」
差し出されたのは瑠璃萵苣だ。泣きすぎた悪魔は食欲なんかなかったのに、トゥトゥの太鼓のせいか、なぜだかお腹が空いてたまらなくなった。
「花ちゃん、これたべて、がんばろ?」
太鼓の音に乗せてそう言われると、食べねばならないような気がした。頑張れるような気がした。 悪魔はむしゃむしゃと、瑠璃萵苣を頬張った。飲み込むほどに、やる気が出てくる。山賊たちを追い払わねばと、勇気が湧いてくる。 うん、うん、と悪魔は何度もうなずいた。
「頑張るよ、トゥトゥ。怖いけど、ケビトの人たちを守るために、今度こそ守るために、頑張る!」 「それじゃあ、さくせんかんがえよ!」
ぽこぽん、と太鼓の音が変わる。同時に、神殿の軒先で小さな暮らしを営んでいたケビトの子らが悪魔とトゥトゥの元へ駆け込んだ。誰も彼も、目にはやる気が満ちている。 山賊を追い出すため、子供たちがああでもないこうでもないと額を寄せ合う。そんな様子を見て、大人たちが何もしないわけにもいかない。神殿に避難した大人たちが、神殿と森を行き来する。村に残った大人たちが、森と村を行き来する。そうやって大人たちの知識も行き来して、ケビトの者と悪魔は、山賊を追い出す方法を考えた。 決行は、雷雨の夜。操ることこそできないものの、悪魔はどんな天気も読み違えない。 嵐が来るその日まで、トゥトゥたちは息を潜め、大人たちは作戦が上手くいくよう、山賊を少しずつ誘導して暮らした。 大人たちの努力の甲斐あり、山賊たちは住まいを村の中心から、外れへと変更した。そこはかつてあの嫌な森番が暮らした家だった。酒がたんまり隠された家を気に入り、山賊たちは文句も言わず森番の家を塒とした。 嵐が来るその日、作戦が決行される昼日中。ケビトの人たちは、鹿が捕れたからと山賊たちに献上した。よく太ったいい鹿だった。山賊たちは気をよくし、家の外で鹿を捌き、宴会を始めた。 大人たちは山賊たちを家の中へ入らせまいと、村中に残った酒を次々運び、酒のあてになりそうなものを持って行った。山賊たちは喜んで飲み食いし、酒気に酔い、そのまま外で寝こける者まで出た。 こうなれば、あとはトゥトゥと悪魔の出番だった。 外で宴会をする山賊たちを、ティグリとカルミーが茂みに隠れて見張っていた。村の外れは森の近く。隠れる場所はいくらでもあった。そこへトゥトゥと悪魔が、茂みを揺らしながらやってくる。「静かにしろよ」とティグリが目を吊り上げるが、しゅんとするのは悪魔だけだ。
「ねた?」 「寝てる奴もいる。偉い奴っぽいのは起きてるぞ」 「トゥトゥ、ほんとうに行くの?」 「だいじょぶ。花ちゃんいるから」 「せ、責任重大だぁ……」
震える悪魔の背中を、ティグリがばしっと叩いた。
「しっかりしろよ〝花舞う眼〟。お前、元々は俺たちの神様だろ」
悪魔を睨みつける目に、以前のような敵意はない。信頼の浮かぶ目で睨まれ、悪魔もようやく覚悟を決めた。 空模様を見て、悪魔がまず動き出す。悪魔の動きを気取られぬよう、トゥトゥも動き出した。一番危険な役目は、一番幼いトゥトゥが自ら背負った。 最初は小さな音だった。眠りこける者には聞こえない、酔いの回った者には聞こえない、微かな音だった。それは徐々に大きくなり、しこたま酒を飲んだ山賊にも、太鼓の音だとわかるほどに大きく響き出した。 音の方角を山賊たちが一斉に見る。音の発生源はもちろんトゥトゥだ。袖なし外套を身に着け、装飾品をかちかち鳴らして歩み寄る、小さな子供。近づいてくるのは子供だけではない。空に暗雲が立ちこめ始めている。 山賊たちが怪訝そうにトゥトゥを見る。トゥトゥは構わず太鼓を叩き、真っ黒になりつつある空を見上げて足を止めた。
「あめが、ふるよ」 「ああ?」
唸ったのは誰だったか。そんなこと気にする暇もなく、にわかに土砂降りの雨が村を襲った。 トゥトゥの言う通り、いやそれ以上の雨に、山賊たちは声を上げて驚いた。眠っていた山賊すらも、突然の雨と大声に飛び起きた。 トゥトゥは大きく、激しく太鼓を叩き続ける。トゥトゥが口を開く。トゥトゥは決して声を張り上げない。なのにトゥトゥの声は、太鼓の音にも、戸惑う山賊たちの声にも負けなかった。
「かみなりが、なるよ」
言うが早いか空が光り、太鼓よりも大きな音が響いた。山賊たちの顔から、酒の赤みが引いていく。
「まさか……」
青ざめた山賊の一人が呟く。 まさか、こんな子供が――。 続きは誰も言わない。言えやしない。 トゥトゥは太鼓を叩く手を止めなかった。太鼓を叩く手は、不規則に音の強弱を変える。離れた場所で聞いているティグリたちの心臓までも、ばくばくと、どくどくと、嫌な脈打ち方をする。そばで聞いている山賊たちは、さぞ不安に駆られているだろう。「やな音だな」とティグリはこっそり呟いた。 嫌な音を出す張本人は、静かな怒りを燃やす目で山賊たちを睨んでいる。
「ケビトのむらは、かいぶつのむら」
不安な音が、山賊たちの心臓を鷲掴みにする。不安をかき立てる音が、山賊たちの胃の腑を引っ繰り返そうとする。
「トゥトゥはかいぶつと、おしゃべりできる」
雷の音よりも低い、太鼓の音よりも不気味な、本能的に命の危機を感じる音が、山賊たちの背後で聞こえた。 誰も振り向けない。振り向いてそこに何がいるか、確かめられない。彼らにできるのは、トゥトゥの忙しなく動く手を見つめることだけだ。
「かいぶつのちから、じぶんのものみたいに、つかえる」
もう一度、トゥトゥが強く太鼓を叩いた。同時に落ちた雷が、森の木を倒したらしい。巨木が倒れる音に、山賊たちがひぃっと情けない声を上げる。 トゥトゥはようやく、太鼓を叩く手を止めた。しかし不安は山賊たちを支配したままだ。ずぶ濡れのトゥトゥが、山賊たちを、そして彼らの向こうを指で差す。山賊たちは恐る恐る、自分たちの背後を振り向いた。 そこには、濡れそぼった黒髪を振り乱す、恐ろしい化け物の姿があった。 振り乱した黒い髪の向こうで、青い花咲く金の瞳が睨みつける。蜥蜴頭の怪物が、不気味な唸り声を上げている。大きな大きな猿の手が、山賊たちを握り潰さんと音を立てている。 震え上がる山賊たちに、トゥトゥがとどめの一言を放った。
「しんでんにすむあくまに、おまえたちをたべさせちゃうよ」
悪魔が腕を振り上げ吼えるのと、山賊たちが逃げ出すのは同時だった。荒くれ者の山賊たちが、武器も馬も放り出して命からがら逃げていく。それはティグリたちにとって、胸の空くような愉快な光景だった。 山賊たちの悲鳴が十分に遠のいたのを聞いて、トゥトゥがぷふぅと息を吐いた。雨はまだ降り続いている。顔を伝う雨を拭いながら、トゥトゥは悪魔へ目をやった。 悪魔はまだ、腕を振り上げ吼えたときのまま固まっていた。よく見ると、悪魔の体は細かく震えていた。
「花ちゃん、だいじょぶ?」
トゥトゥが駆け寄り、雨粒でぐっしょり濡れた狼の毛皮を掴む。悪魔はようやく腕を下ろし、体から力を抜いた。青い花舞う金の眼からは、今にも涙がこぼれそうだ。
「こ、怖かったぁ……」
そう呟いて項垂れる悪魔の腕を、トゥトゥがぽんぽんと叩く。「こわくないよ」と言い聞かせる声は、幼いのに大人びて聞こえる。悪魔はこぼれかけた涙を拭い、トゥトゥを見下ろした。
「トゥトゥは強いなぁ。僕もトゥトゥを見習わなきゃ」
悪魔の台詞に、トゥトゥは首を傾げた。それから「ちがうよ」と首を振って悪魔を見上げる。
「トゥトゥ、つよくない。さんぞく、こわかったよ」
だけどね、と呟いたトゥトゥは、悪魔の大きな手の長い指をきゅっと握った。
「花ちゃんがいるから、こわくなかったんだよ」
悪魔はきょとんと目を見開いて、トゥトゥに握られた手とトゥトゥの目を見た。ゆっくりと、悪魔の心にトゥトゥの言葉が染みこんでいく。自分を頼りないと思っていた悪魔は、トゥトゥが自分を頼りにしていたことが嬉しくて、照れてしまった。
「そ、そっか……そっかぁ」 「うん。そだよ」
えへへと笑う悪魔に、トゥトゥは真面目な顔でうなずいて見せる。茂みから飛び出したティグリとカルミーが「村へ帰ろう」「ほーこくしなきゃ!」と二人をせっつく。悪魔とトゥトゥはうなずいて、手を繋いで村へ戻った。 戻ってきたのが悪魔と子供たちであることを、村人たちは諸手を挙げて喜んだ。土砂降りの雨も、鳴り響く雷鳴も翳むほどの喜びようだ。その喜びを煽るように、トゥトゥが片手で器用に太鼓を叩く。 うふふと笑ったトゥトゥが、嬉しそうに悪魔を見上げた。
「またみんなで、おどれるね」 「うん、うん。そうだね」
トゥトゥの太鼓につられるように、子供が、大人たちが踊り出す。喜びの歌で村中が満ちていく。悪魔の手を離して太鼓を叩こうとするトゥトゥを、悪魔が止めた。
「トゥトゥはいつも、太鼓を叩いて踊らない。今日くらいは、僕と踊ろうよ」
きょとんとするトゥトゥのそばへやってきたのは、祭司であるトゥトゥの父だった。彼は最後まで山賊に抵抗した一人なのだろう。顔は腫れ上がりいくつもの傷が見えるが、喜びのお陰か、生気に満ちあふれていた。
「それがいい」と言って、父はトゥトゥの手からそっと太鼓を取り上げた。
「祭司は私だ。村の喜びは私が表そう」
だから踊っておいでと、父の手がトゥトゥの背を押す。父と悪魔を見比べて、トゥトゥは大きくうなずいた。
「うん。うん! トゥトゥも、みんなとおどる!」
悪魔と手を取り合い、トゥトゥも踊りの輪に加わった。子供たちが悪魔とトゥトゥのそばに集まって、声を合わせて歌い出す。大人たちも集まって、全身で喜びを表していく。 この喜びの宴会は、雨が止み朝がやってくるまで続いた。
こうして山賊を追い出した後、村人たちは悪魔を昔のように神と敬い、収穫のたびに捧げ物をするようになった。祭壇はいつでもきれいに清められ、崩れかかった神殿も、少しずつ修繕されていった。 やがて悪魔――花舞う眼は、ケビトの村を守る神様へと戻っていった。 その頃には、トゥトゥは少女から娘へと成長していた。信仰を取り戻した村に、神様に嫁入りする娘の話が生まれる。だがそれはまだ、あなた以外、誰も知らない。