――殺すつもりなんてなかった。
月並みだが、矢島はそう言うほかなかった。けれど彼は殺してしまった。上司であり、学生時代の先輩である、三谷を。 三谷は、矢島を今の会社に招いた恩人でもある。なのに彼は、三谷を殺した。この応接室で。 なぜ彼は三谷さんを殺したのか。それは彼が、首を飛ばされる直前だったからだ。
「矢島ぁ、すまん」
三谷はそう言って、矢島に退職を願った。不況のせいだ。矢島もわかっていた。三谷とて、交配の肩を叩くのは上から言われてのこと。胃を痛めながら、何人もの肩を叩いた。それを矢島はわかっていた。わかっていたが、彼にだって妻子がいる。職を失うわけにはいかなかった。 縋りついてもダメだった。次第に二人は口論になった。三谷が矢島の営業成績の悪さを詰る。矢島も応戦し、三谷のネクタイセンスが最悪であることを指摘する。頭に血が上った三谷が、矢島の肩を掴む。矢島も当然のように応戦し、気づけば矢島は、三谷を突き飛ばしていた。 よろめいた三谷は、バランスを崩した。嫌な音を立てて机の角を経由し、床に倒れる。応接室の高価な絨毯に、三谷の血が染みこんでいく。だくだくと流れる血に矢島は動転し、何もできなかった。そのせいで、三谷は動かなくなった。 机の角に着いた血を見て、矢島はぽつりと呟いた。
「ドラマで見たな、こういうの」
自分の呟きに、矢島はぞっとした。現実感が追いついてくる。破滅の予感が矢島の体温を奪う。終わるのは彼の人生だけではない。受験を控えた娘がいる。人殺しの子と指を差されることになる。それは避けなければいけない。しかし、どうすればいいのか。三谷と矢島が二人きりで応接室に入ったことは、使用履歴に残っている。
「終わりだ……俺は、家族は、もうだめだ……」
矢島は嘆き、膝をついた。三谷の血が、スラックスの膝頭を濡らす。けれどそんなこと、殺してしまった事実に比べれば些末なことだ。 血に濡れた膝を見て、顔を覆い、涙も出ないほどの絶望に浸る。このままここで首を括ろうかと考えた矢島の頭上から、少女の可憐な声が降ってきた。
「罪を隠してあげましょう」
顔を上げると、そこには娘と変わらない年頃の少女がいた。制服にも私服にも見える、紺色に城のラインがよく映えたセーラー服を着ている。 少女の頭には羊のような巻き角、プリーツスカートの裾からはつるりとした尻尾が伸びている。人ではないという証拠に、矢島を見下ろす瞳は金色で、瞳孔は横長に裂けていた。 少女は微笑み、矢島が何も言っていないのに大きくうなずく。
「ええ、隠してあげますとも。あなたの清らかな魂を穢すことを代価に」
少女はパチンと指を鳴らした。すると矢島のスーツを濡らした血が、瞬く間に消えた。絨毯に染みこんだ血も同様だ。矢島は驚き、少女と床を何度も見比べた。少女はにんまりと笑うと、もう一度指を鳴らした。今度は机に着いた血が、消えた。 一も二もなく、矢島は少女に縋った。
「捕まりたくない。娘に苦労させたくない。頼む、助けてくれ。嫌、助けてください!」 「あなたの清らかな魂と引き換えです。あなたがその魂を穢すと言うのなら、私はそこに転がる死体も消してあげましょう」
少女の提案は矢島の理解を越えていたが、彼はうなずいた。魂を穢す? 人を殺してしまう魂が、清らかなはずがない。 矢島がうなずいた途端、三谷の遺体が消えた。矢島は驚き、戸惑い、きょろきょろと周囲を見渡した。そんな矢島に、少女は微笑んだ。
「家へお帰りになられては?」
気分が悪くなったからと、早退させてくれと頼むよう、矢島に囁く。少女の潜めた声に、矢島は先ほどの罪が発覚することはないのだと理解した。矢島は喜び、少女に跪いて感謝し、応接室を出た。手続きを踏んで早退し、愛しの我が家へ向かう。 矢島はそのまま、数日を過ごした。普段と何ら変わりのない、日常を。三谷を突き飛ばした感触も、血が膝を濡らした感触も忘れて過ごした。 忘れたふりをして、過ごした。
だが自分を騙し通すことはできなかった。矢島は根が小心だ。段々と罪の意識に苛まれるようになった。
出社しても、三谷の不在を誰も疑問に思わない。会社には、そもそも三谷の席が存在していなかった。アルバムをめくっても、三谷が写っていた写真には知らない誰かが微笑んでいる。 矢島が殺してしまった三谷は、死体どころか存在ごと消されていた。存在しない誰かが死んだことを、誰が証明し、誰が罰するだろうか。 三谷がその存在すら消えたと理解した夜から、矢島は夜毎、三谷を殺した日の夢を見るようになった。少女は現れず、三谷はよろめき起き上がる。頭から血を流し、時に割れた頭から脳をこぼし、矢島に近づく。怨み混じりの呻きが、矢島に耳を塞がせる。 矢島は、罪を償いたかった。三谷の家族に謝罪し、塀の向こうで償いの日々を過ごしたかった。しかし殺した相手が存在しないのだから、罪滅ぼしなんてできるわけがない。
矢島は罪の意識に耐えきれなくなり、警察に駆け込んだ。けれど話を聞く内に警官たちは呆れた表情になり、矢島を精神疾患扱いするだけで帰らせてしまった。 日に日に青ざめ痩せこけていく矢島を、妻や娘が、疲れているのではと心配する。二人に洗いざらい話したいところだが、矢島は言葉を飲み込んだ。言えば、二人のまで精神疾患を疑われるだけだ。 罪を誰にも打ち明けられない。これはどれほど重く苦しいことだろう。 償えない十字架を背負って生きていくことに絶望しながら、矢島は日常を過ごすしかなかった。
そんな矢島を、空中から眺める存在がいた。矢島に遺体を消してやろうと持ちかけた少女だ。 見えない椅子に腰掛けるような姿勢で宙に浮く少女は、尖った歯を見せ愉快そうに笑った。
「人間の魂が穢れていく様は、永久をさまよう我々には最高の娯楽だなぁ」
少女の声は矢島に聞こえない。懺悔すらできない罪を抱えた矢島の苦悩を眺め、少女は声を抑えず笑っていた。