殺し屋モリーとジョン・ドウ

「倫理なんて犬の糞ほどの価値もない」と言ったのは、モリーがモリーでなかった頃、初めて彼女に殺しを依頼した男だった。世界が東西南北の四つに分かれて久しい頃だった。  産み落とされたモリーは物心つく前に捨てられた。場所は、分かたれた四つの世界が交わり、最も治安の悪いとされる街だった。そこでは、力がなければ子供であろうが誰かの食い物となり、死んでいく。  気づけばすでに孤児だったモリーは、当時名前なんて持っていなかった。ぎょろぎょろした目で辺りにいる敵を探り、隙を見ては残飯を漁り泥水に濡れたパンを腹へ詰め込む日々を送っていた。  そんなモリーに、男は殺しを依頼した。厳密には、依頼ではなく命令だ。男はモリーに金を渡し、名もなき少女だったモリーを『ジェーン・ドウ』と呼んだ。

「名前のねえ奴はそう呼ばれるのさ。男ならジョンだが、おめえ、女だろ」

 モリーは自分自身が男か女かなんて、考えたこともなかった。そんなこと考えている暇なんて、この街にいる限りありはしないからだ。  モリーの初めての殺しは呆気ないものだった。対象者の背後から体当たりするように、与えられたナイフで刺す。複雑なことは何もない。モリーは運が良かった。渡されたナイフは、対象者の肝臓を貫いた。対象者は激痛に声も出せず、道ばたに倒れ込んだ。血を流し死にゆく男をしばし見つめ、モリーはその場から走り去った。  こうしてモリーは、生きるため、金を得るため、人を殺す道に足を踏み入れた。  名前のなかったモリーは『ジェーン・ドウ』と呼ばれ、時にそう名乗り、殺しの依頼を受け続けた。そのうちモリーは成長し、男よりも背が高く、痩せぎすで枝のように薄い体の〝女〟になった。しかし誰もモリーを女だとは思わない。病的に白い肌。伸ばしっぱなしの長い黒髪。虫か魚のようにぎょろぎょろした目。モリーは〝人〟というよりも、人を殺す〝人以外の何か〟としか見られなかった。  その頃のモリーは、もう『ジェーン・ドウ』ではなく『モリー』と名乗るようになっていた。黒髪ぎょろ目ののっぽな女。ナイフだけで《《どんな》》依頼もこなす、冷徹な殺し屋。無口で何を考えているかわからない、気味の悪い凄腕の殺し屋。それがモリーへの評価だ。  モリーは女子供を対象とした依頼でも断らない。大抵の殺し屋は嫌がり断るが、モリーはちょっと困った顔をするだけだ。時折顔を合わせる同業の者が、モリーを「どうかしてる」と笑うことがある。モリーは相手をちらと見るだけで、言い返したりしない。モリーは無口だった。依頼を受ける際も、断る場合も、首を振るだけで返事とする。  そんなモリーでも、いつも不思議に思うことがあった。同業者たちの殺しに対するスタンスだ。女子供を殺すのと、成人の男を殺すのは、一体全体どう違うと彼らは思っているのか。どの命も等しく重く、どの命も等しく価値がないものなのに。不思議に思っていても、モリーが直接尋ねることはない。面倒なやり取りが始まるのは、目に見えているからだ。  金さえしっかり払ってもらえるなら、モリーは相手は誰であろうが、対象がどんな人物だろうが構わなかった。前金を受け取り、きっちりと仕事をこなし、報酬を受け取るだけだった。

***

 ある日モリーは、依頼で殺した女の部屋で子供を一人見つけた。余計な目撃者を増やさないよう、殺し屋モリーは常に気を張っている。そのモリーですら気づかないくらい、少年はひっそりと部屋の隅で息を殺していた。  少年を認め、モリーはちょっと困った顔で眉をひそめた。依頼者からは、殺す女に子供がいるとは聞いていなかった。子供まで殺せという依頼も受けていない。モリーは金にならない殺しはしない主義だ。何せ殺しは後始末こそが一番の面倒。金のもらえない殺しなど、モリーは絶対にしなかった。  さてどうするかと考えながら、モリーはナイフに付いた血を払い少年に近づいた。少年はモリーを見上げ、「おれ」と呟いた。

「おれ、料理、できる」

 料理と聞き、モリーは足を止めた。モリーは料理が苦手だった。料理どころか、殺し以外は何でも苦手だった。足を止めるモリーに、少年は続けて言った。

「おれ、静か。黙ってろ、できる。しゃべるな、できる。泣くな、できる。おれ、静か」

 少年は、自分は静かにできると主張している。モリーのことを誰にも話さないとも言っている。だから自分を拾えと、モリーに言っている。ふむ、とモリーは少し考えた。  子供というのはやかましいものだとモリーは認識している。しかしこの少年が静かに生活できると言うならば、家に置いてやってもいいとモリーは考えた。何せ少年は殺しの対象ではないから、殺して死体を増やしても後始末に困る。何より、少年は料理ができると言った。モリーはあたたかい料理が好きだ。舌を火傷しそうなほど熱いシチューを帰宅してすぐ食べられるなら、モリーにとっては依頼の報酬よりも魅力的だ。仮に少年が邪魔になっても、少年を売るなり捨てるなり殺すなり、どうとでもできる。モリーにはそれだけの伝手があった。  モリーは少年を引き取り、料理人として|家《アパート》に置くことにした。  ナイフをケースに仕舞い、白い手を少年に差し伸べる。モリーの手は、少年の母親らしき女の血で濡れている。だが少年は、血まみれの手を躊躇なく掴んだ。血まみれの手はぬめり、掴んでも掴んでもぬるりと滑る。少年は不思議そうにモリーの手を見つめた。

「魚の腹の中みたいにぬるぬるなのに、魚の腹の中よりあったかい」

 魚の腹と聞き、モリーは「こいつは魚も捌くのか」と感心した。人間を捌くならできなくもないが、同じように魚を捌けと言われると困った顔を返すしかない。魚料理もいいな、とモリーはフライやムニエルを思い浮かべた。あつあつのフリッターはモリーの好物だ。少年に作らせる食事に思いを巡らせながら、モリーは手がぬめる理由を生真面目に答えた。

「ぬめりはお前の母親の血だ。あたたかいのは、私の体温だ」

 少年は一言、「そっか」とうなずいた。そしてモリーの手を強く握り、見上げた。

「おれ、あったかいって、はじめて」

 モリーは黙って少年を見下ろした。だがそれだけで、何も言わない。少年の小さな手を引き、モリーは女の部屋を後にした。少年はモリーに手を引かれ、大人しく歩いた。  モリーが向かったのは、依頼主のオフィスだ。  血をきれいに洗い落としたモリーは、少年の手に付いた血も洗い流し、それから依頼主に顔を見せた。モリーに依頼を出すだけはある、と思わせるような、強面な男ばかりのオフィスだった。モリーは慣れたもので顔色一つ変えないが、少年も珍しそうに一人一人の顔を見るだけで、怯える様子は微塵も見せなかった。  モリーが任務完了の報告をすると、依頼主らしいオフィスのボスは、モリーの手を握ったままの少年を指さした。

「モリー。そのガキは何だ」 「女と同じ部屋にいた」

 無口なモリーは、いつも言葉数が少ない。言葉が足りない、とも言える。そして、その少ない言葉は、平坦な声で紡がれる。

「女に子供がいるとは、聞いていない」

 モリーはいつでも平坦だ。依頼に失敗し自分の命が危険に晒されても、焦りすらしない。モリーは未来から来た殺人ロボットなのさ、と同業の誰かがジョークを飛ばしたこともある。そんなジョークにも、モリーは唇の端すら持ち上げず肩を竦めるだけだ。  どんなときも平坦で静かなモリーを、依頼主たちは恐ろしく感じるらしい。モリーが事実を述べ、子供も殺してほしいなら最初から依頼に含んでいてほしいと伝えただけでもだ。依頼主はモリーの虫のように無感情な目に怯み、「悪かったよ」と謝る。

「あいつにガキがいるなんて、知らなかったんだ。あんたに嘘をついたわけじゃない」

 モリーは片眉を上げるだけで、何も言わなかった。依頼主は恐る恐るといった様子で、少年もこちらで処分してやろうかと持ちかけた。とんでもない提案だった。少年はモリーのコックになるというのに。モリーはゆっくりと首を振った。

「こいつは私のコックになる」 「へえ、コック。まあ、あんたがいいならこっちは文句もないよ」

 依頼主は手を振り、この件を終いにした。この瞬間から、モリーは一人暮らしから一転、コックという肩書きの少年と二人で暮らすことになった。  アパートに帰る道すがら、モリーはいつものスーパーで食材を買い込んだ。常連客のモリーが冷凍食品ではなく生鮮食品を買うのを見て、店員は「とうとう終末がやってくるぞ」だの「黙示録の前触れか」だのと軽口を飛ばした。彼らの軽口にも、モリーは肩を竦めるだけだった。  小さな城に少年を迎え、中に入るなりモリーは少年を食材の山の前に立たせた。平坦な声が「作れ」と促す。少年は緊張した面持ちでほぼ未使用の調理道具を手に取った。  結果から言うと、少年の腕前はモリーの期待ほどではなかった。それでも、モリーが作るより遙かに美味しい。モリーが無言でうなずくと、少年はほぉっと息を吐いた。

「おれ、料理、たくさん作る。モリーのために、たくさん覚える」

 名前を呼ばれ、モリーは片眉を上げた。名乗った覚えはなかった。だが先ほど依頼主とのやり取りで名前を呼ばれたことを思い出し、すぐにいつもの位置まで眉を下げた。少年はモリーの名を知っているが、モリーは知らない。モリーは貝のように閉ざされがちな唇を、ゆっくり開いた。

「お前の、名前は」

 少年は目をぱちくりさせ、答えた。

「いっぱい、ある。おい、とか、あれ、とか」

 どうやら少年に名はないようだ。少年の生い立ちも想像できそうなものだが、モリーは文字通り眉一つ動かさない。「そうか」とだけ答え、再び少年の料理を口に運んだ。  それから毎日、少年はモリーと自分の食事を作った。モリーは少年が作る料理を、文句を言わなければ褒めもせず、無表情に淡々と食べた。少年はモリーの表情を逐一観察し、鉄面皮のように動かない表情筋のわずかな動きを読み取ろうとした。少年のたゆまぬ努力は実を結び、やがてはモリーがわずかに眉や頬、目を動かすだけで、感情の機微を汲み取れるようになった。これによりモリーは、日々自分好みの味付けになっていく料理を楽しめた。  モリーは、殺し以外の一切合切が苦手だった。金の勘定は生きるため必要なのでどうにか覚えたが、それ以外は壊滅的と言えた。少年はモリーの殺し以外の生活を補うように、家事についての一切合切を極めていった。  衣類を血で汚すモリーのため、少年は料理の次に、洗濯を極めていった。どこでそんな情報を仕入れるのか、良い洗剤、良い洗濯のやり方を耳に入れてはすぐに試した。洗剤は衣服以外にも使われ、モリーの服、タオル、シーツといった身近なものは清潔でふかふかなものに変わっていった。  洗濯を極めると、少年は掃除も極めていった。シンク、床、窓、風呂のタイルなど、目につくあらゆるものを日と時間をかけてピカピカにしていく。部屋中あちこちをピカピカにした少年は、得意げな顔でモリーを出迎えた。  仕事から帰ったモリーは、ずいぶん様変わりした部屋を見ても驚いたりしない。やや首を傾げるだけで、少年を褒めることもない。ただ、納得するようにうんうんとうなずいた。それだけで少年の目はきらきらと輝いた。  モリーが〝うなずく〟といった大きな動作を返すのは、大変に珍しいことなのだ。モリーを長く観察した少年は、それをよく知っていた。だからこそ、モリーが自分の仕事の成果に対しうなずくと、飛び上がるほど喜んだ。実際、部屋でぴょんぴょんと飛び跳ね、下の部屋から怒鳴られたこともある。だが少年は、モリーの前で全身を使って喜びを表すことをやめたりはしなかった。  静かで平坦だったモリーの生活に、少年は騒々しさと明るさをもたらした。実際モリーがそう感じていたかはわからないが、少なくともモリーの生活は、静かで平坦ではなくなった。少年のぎこちない話し方は日を追うに連れ滑らかになり、表情も明るくなっていった。モリーはそれを喜ぶでもなく、淡々と日々を過ごした。  少年がモリーの生活にずいぶん馴染んだある日、モリーはテーブルに着いて仕事道具を手入れしていた。少年はモリーと自分の昼食を準備しており、二人は互いの顔を見ていない状態だった。少年は楽しげに、モリーは無感情に、互いの仕事道具と向き合っていた。  唐突に、モリーは少年に向かって「ジョン」と呼びかけた。顔は鏡のように輝くナイフを見ていたが、それは少年への呼びかけだった。突然ジョンと呼ばれ、少年は目を瞬かせモリーを振り向いた。モリーは顔も上げず、丁寧にナイフを磨きながら続ける。

「これからは、ジョン・ドウがお前の名前だ」

 少年ことジョンは、目を輝かせ「どうして?」と言ってナイフを持つモリーにまとわりついた。「寄るな」と容赦のない鉄拳をつむじに落とされても、ジョンは顔をしかめることも涙をにじませることもなく、モリーのそばで跳ねる。

「どうしてジョンって名前なの? おれのどこがジョンっぽい? モリーはジョンって名前、どう思う?」 「どうも思わない」

 素っ気なく答え、モリーは今手入れしたばかりのナイフを矯めつ眇めつして検める。手入れを終えたナイフは、丁寧にケースへ仕舞われた。そしてまた次のナイフが取り出され、手入れが始まる。素っ気ない返事にしょげることなく、ジョンはモリーを見つめ続けた。  長い沈黙が、部屋の中に広がっていく。たっぷり長い間を置いた後、モリーはゆっくり、何かを思い出すように『ジョン』の由来を話した。そもそもそれは、名付けと呼べるものでもなかった。

「男ならジョン・ドウ。女ならジェーン・ドウ。名前のない奴は、そう呼ばれる」

 かつてのモリーがそうであったように。モリーの脳裏に、初めて殺しの仕事を持ってきた男の顔が蘇る。男はモリーがモリーと名乗るようになった頃、自分が属する組織のごたごたに巻き込まれて殺された。殺したのはモリーだ。モリーを雇ったのは、男と敵対する派閥だった。『ジェーン』という仮初めの名を与えた男だったが、モリーは何の感慨もなく、男の喉笛を切り裂いた。

「名前のない人は、みんな?」

 ジョンのしゅんとしょげた声で、モリーは過去から戻ってきた。モリーの素っ気ない返答にはしょげないのに、皆同じだという返答には元気をなくす。モリーはジョンの問いに対し、ナイフにうっすらと付着した脂を丁寧に拭いながら「そうだ」とうなずいた。

「私も、モリーと名乗るまではジェーン・ドウだった」

 今度の答えには、ジョンの目が再び輝きだした。「じゃあっ」とモリーの腕に飛びついたせいで、モリーはナイフで指を切りそうになった。ジョンのつむじに、再びモリーの拳が落ちる。だがジョンは瞳の輝きを失わなかった。

「じゃあおれの名前、モリーとおそろいだね」

 珍しく、モリーは目を見張り感情の揺らぎを露わにした。それを見たジョンの目はますます輝く。ジョンのそんな様子を景色のように見慣れたものとして目に映しながら、モリーは『おそろい』という言葉について考えた。  今でこそモリーはモリーと名乗っている。しかしそれ以前はジェーン・ドウだった。名無し同士、ドウ同士、おそろいと呼ぶのは間違っていない。確かにそうだなと考えたモリーは、こくんとうなずいた。ジョンは嬉しそうに、頬を紅潮させて笑った。

「ジョン。ジョン・ドウ。おれは今日から、ジョン・ドウだ」

 名前くらいでそんなに嬉しいものだろうか――とモリーは不思議でたまらなかった。しかし次の瞬間にはもうそんな感情は消え去り、モリーは再びナイフへ意識を向けた。  その日の昼食はもちろん、夕食までもが手の込んだものばかり並んだことから、ジョンの喜びようは相当なものだとわかる。にこにこ笑うジョンと向き合って食事をしながら、モリーは胃がもたれるななどと作り甲斐のないことを考えていた。

***

 あるとき、モリーはヘマをした。こんな治安の悪い街でも、正義や倫理を掲げる組織は存在する。モリーは組織の一人に、現場から去るところを見られてしまった。モリーを偶然見かけたのは、この街に暮らしてなお正義の炎を絶やさない刑事だった。  刑事はモリーのアパートを探し当て、真っ昼間にチャイムを鳴らした。そのとき部屋にいたジョンが胸騒ぎを覚えたことを、モリーは知らない。ジョンは母親が死んだ日も、自分の直感を信じて隠れ、難を逃れた。モリーにも危険が迫っているのやもしれないと不安に駆られたジョンは、モリーに応対しないよう言った。だがモリーはジョンの気持ちも知らず、ドアを開けた。  素直にドアを開けると思っていなかった刑事は、姿を現したモリーがかなりラフな格好をしていることにも驚き、言葉が出なくなった。ジョンが洗濯したお陰で真っ白なTシャツ、ジョンがしわを伸ばして干したお陰でかなり履き心地が変わったホットパンツ。いくら病的に細く凹凸のない体とはいえ、突然そんな姿を見せれば、誰でもたじろいでしまう。言葉に詰まる刑事を、モリーはじっと見つめた。感情の見えないモリーの目は、刑事に虫を連想させた。その目のお陰で、刑事は自分の目的を思い出し、話せるようになった。

「突然すみませんね、お嬢さん。ちょいと話を聞きたくて」

 刑事が話したのは、とある小さな組織のボスが殺されたという事件だった。犯人はもちろんモリーだが、モリーが話すわけもない。モリーは嘘が苦手だった。殺し以外のすべてが不得意なモリーは、作り話や世辞の類を言うのも苦手だった。だからこそモリーは無口となったのだ。  無言で佇むモリーを、刑事は訝しんだ。揺さぶればボロが出るのではないかと思った刑事がさらに追求しようとしたとき、二人の間に割って入ったのはジョンだった。

「《《姉さん》》は口がきけないんです。親父が酒癖の悪い奴で、酔ったときに姉さんののどを潰してしまったから」

 モリーは視線を下げ、ジョンを見た。モリーからはジョンのつむじしか見えない。対する刑事は、ジョンの顔がよく見えた。刑事と《《姉》》の間に立つジョンの真剣な顔は、幼いながら姉を思う良き弟に映った。  刑事はジョンの言葉を丸々信じたわけではなかったが、情に流され判断を誤った。目の前に犯人がいるというのに、自ら別れを告げてしまった。

「どうやら間が悪かったようだ。また出直しますよ」

 言い残し、刑事は丁寧にドアを閉めた。足音が聞こえだすと、ジョンはすぐさまドアに駆け寄り鍵をかけた。そしてモリーを振り向き、まだ幼い丸みの残る頬を膨らませた。何やら拗ねている。  ジョンが何か言いかけるのを、モリーは手で塞いで止めた。刑事の気配はまだドア越しにあった。モリーはジョンの口を塞ぎ、刑事の気配が完全に消えるのを待った。刑事は長い間モリーたちの様子を窺っていたが、ゆっくりとアパートを後にした。  刑事が立ち去ったのを確かめ、モリーはようやくジョンから手を離した。ジョンの頬はさっきよりも大きく膨らんでいた。モリーの虫のような目がジョンをじっと見つめる。その目は「何を拗ねているのか」と問うていた。モリーに見つめられ、ジョンは少しだけ頬から空気を抜いた。それでもまだ、拗ねた顔は戻らない。

「モリーのこと、姉さんって言っちゃった」

 ぽつりと答えるジョンに、モリーは首を傾げた。あの言い訳のどこが悪いのか。モリーの仕草はそう語っている。首を傾げるモリーを見て、ジョンは唇を尖らせた。

「おれはモリーの弟じゃないのに」

 それもそうだ。モリーは納得し、うなずいた。

「お前と私は、他人だものな」

 さらりと同意するモリーに、ジョンは「そうだよ」と力強くうなずいた。

「おれとモリーは他人だ。血の繋がりのない、赤の他人。おれだって男だよ、モリー」

 大きく見えるよう、ジョンは目一杯背伸びしてそう言った。そんな台詞や仕草が幼く見える原因だが、当の本人はそれがわからない。珍しく、モリーはため息のように微かな笑い声を立てた。そして爪先立ちでぷるぷる震えるジョンの頭を軽く叩き、洗面所へ戻っていった。  洗面台には、血まみれのナイフが乱雑に突っ込まれていた。刑事が来る直前まで、モリーはナイフを洗っていた。白いシャツを脱いで血が跳ねても気兼ねない格好になると、モリーはナイフの洗浄を再開した。

***

 刑事は何度もアパートにやってきた。モリーは二度目からは応対せず、あとをつけられても撒いていた。しかし刑事はしつこくモリーを追い、モリーが行くところに必ずその姿を見せた。モリーが刑事に嗅ぎ回られているのはすっかり有名になってしまった。同業者は「熱心なファンをお持ちで」とモリーに軽口を投げかける。それだけなら、モリーは肩を竦めるだけで終わらせた。だが依頼主にまで「大丈夫なんだろうな」と念を押されると、何かしら対応する必要に迫られた。  依頼が減る前に刑事を殺すかと考え始めていた折、刑事はぱったりと姿を消した。油断させるため姿を見せないだけだろうか、それとも追うのを諦めたのだろうかとモリーが訝しみ警戒する中、ジョンはご機嫌で、連日ご馳走作りに励んでいた。  その日も、ジョンはたくさんの食材を買い込んでアパートに帰ってきた。不用心にも、ドアを開ける前から「モリー!」と名を呼んで。ナイフの手入れをしていたモリーは、飛ぶように玄関へ走った。玄関にやってきたモリーが出迎えの言葉ではなく拳を脳天に落としても、ジョンは平然と笑っている。

「今日もごちそうだよ、モリー」

 キッチンで、ジョンは得意げにモリーを振り返った。モリーはテーブルに着き、再びナイフの手入れを始めていたが、手を止めた。白目がちの不気味な目がきょろりと動き、ジョンに「なぜ連日こんなに豪勢なのか」と問いかける。モリーの無言の問いかけに、ジョンは食材を並べながら問い返した。

「モリーをつけ回してた刑事のこと、覚えてる?」

 モリーは無言でうなずいた。羽虫のように鬱陶しかった刑事を、モリーが忘れるわけもない。モリーがうなずいたのを感じたのか、ジョンは野菜に目を落としたまま続ける。

「あいつね、もう来ないよ」

 くるりとジョンが振り向く。熱の籠もった目が、モリーを見つめた。モリーもまた、冷めた目でジョンを見つめ返した。

「あいつ、モリーのこと、おれにしゃべらせようとしたんだ。お菓子とか持ってきてさ、子供扱いするんだ。買い物中のおれに、どこかでパフェでも食べながら話をしないか、なんて言うんだよ。笑わせるよね。おれはそんな子供じゃないのに」

 目つきを鋭くしたジョンは、苛立ちを露わに刑事のことを話す。モリーはうなずきもせず、黙ってジョンの話を聞いていた。モリーの無反応に慣れっこのジョンは気にせず喋り続ける。ただ聞いていてくれるだけで十分とばかりに、笑顔を浮かべていた。

「でもね、そんなばかだから簡単だったよ。ついてくふりしてさ、車の多いところで突き飛ばして終わり。おれは知らない顔して帰ってくるだけ。おれ、子供に見られることがすごく嫌だったけど、今日だけは子供っぽくてよかったなぁって思ったよ」

 にこにこと、ジョンは人懐っこく笑った。

「あいつ、モリーを捕まえる気だったんだ。そんなの許せないよね。モリーは俺のたった一人の〝人〟なのに。だめだよね、連れてくなんて。だめだよ、おれからモリーを取るなんて。だから、あいつを押してやった」

 それからジョンは、突き飛ばした刑事がどんな顔でジョンを見たか、どんな断末魔を上げたかを語った。熱く語るジョンを、モリーは短い時間、あの少し困った顔で見つめた。しばらくして諦めたように手元へ目を戻すと、モリーはナイフの手入れを始めた。  モリーが耳だけは向けていると知っているのか、ジョンはまだ熱く語っている。モリーは鏡のように磨き上げたナイフを見つめ、ぼんやりと考えた。

 ――こいつもいつかは、|ジョン・ドウ《名無し》から名を持つ誰かに変わるのだろうか。

 商売敵になったら厄介そうだ。モリーはそう考え、頭痛に近い憂鬱を覚えた。モリーがちらとジョンを見ると、ジョンは嬉しそうに、照れくさそうに、モリーを見つめていた。