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【恋患い/コイワズライ】
名(スル) 誰かに恋をして気が塞ぐ、または悩んでいる様子。 名 十四歳以下の子供を噛む小さな生き物と思われるもの。噛まれた者は一週間以内に恋をすると噂されている。
1
校内合唱コンクールが終わり、期末試験が近づいた十月末のこと。 二年三組の教室で、|進《すすむ》マナカは幼馴染みの|瑠璃川《るりかわ》スバルと向かい合って座っていた。赤点を取って課題を出されたが、その出来があまりに悪く突き返されたマナカのため、スバルは部活を休んでまで課題再提出に付き合うことになったのだ。 課題の回答を見たスバルは、ずり落ちる眼鏡を押し上げ、気の強そうな眉を跳ね上げた。
「課題の再提出なんて聞いたことないわ。何、このトンチンカンな答えは」 「国語は得意なんだけど……」
沈む夕日が、マナカのミルクティー色の柔らかな髪を、蜂蜜色の瞳を、透けるような白い肌を、ノスタルジックに染め上げた。しょんぼりしてなお絵画のような幼馴染みに、スバルは大きなため息をついた。
「まずは自分でやりなさい。チェックはしてあげるから」
そう言われ、マナカは課題に取り組んだ。問題に躓くたび、スバルはヒントを出した。そのお陰で、マナカ一人よりも時間をかけずに課題を終えた。 スバルによる再チェック中、手持ち無沙汰なマナカは外へ目をやった。窓越しに見えるのは赤の強い夕空と黒い影と化した植木だけだ。何も面白いものはない。そろそろ運動部もグラウンドから撤収する頃だ。 ぼんやり外を見ていたマナカは、スバルの小さな悲鳴で我に返った。 振り返ったマナカが見たのは、スバルの右手人差し指からぽたぽた垂れる赤い雫だ。赤い血が、机と課題に水玉模様を作る。指先の傷口は人が噛んだように丸い。人が噛むにしてはあまりに小さい円だ。
「コイワズライだわ」
指を押さえながら、憎々しげにスバルは呟いた。
「コイワズライに、噛まれたわ」
マナカは息を呑んだ。「まさか」と否定しようとしたが、スバルは編んだお下げを揺らし「違わない」と目の前の現実を受け入れた。
「この傷、マナカの指にできたものと同じよ。私はあの日のこと全部覚えてる。これはコイワズライの噛み跡よ」
コイワズライとは、蠅や蚊ほどの小さな生物だと考えられている。主に指先に丸い傷ができることから『噛まれた』と表現するが、その姿を見た者はいない。あらゆる《《不思議》》がなくなったと思われる昨今で、コイワズライは唯一の未知なるものだった。 コイワズライについてわかっていることは三つ。
コイワズライが噛むのは、五歳から十四歳の児童のみ。 コイワズライに噛まれると、一週間以内に恋に落ちる。 コイワズライに噛まれた者が恋をした瞬間、恋に落ちる音が聞こえる。
たったこれだけだ。 不都合があるわけでも、健康被害が出たわけでもない。そのため、出現から十年以上が過ぎた今もコイワズライについては不明なことが多かった。 これ以上血で汚さないよう課題を脇へ退けると、スバルは鞄から絆創膏を取り出し指へ巻いた。巻かれた絆創膏は、ファンシーな動物が印刷されたものだった。 スバルの行動は早かった。チェックを済ませた課題を手に立ち上がり、マナカを急がせ職員室へ向かった。マナカに課題を提出させ、さっさと職員室を後にする。下駄箱で靴を履き替え、校舎から出たスバルは、お下げを浮かせてくるりとマナカを振り返った。
「どうしようマナカ。私、恋しちゃうの?」
その目は泣きそうだった。マナカに救いを求めていた。それをわかっていながら、マナカは答えられなかった。
「マナカ。マナカは恋をしなかったでしょう? どうすればいいの? どうしたら恋をしないの? 一週間しかない。私、一週間しかないわ」
女の子らし過ぎるくらい《《女の子》》らしい懇願に、マナカは八の字に眉を下げた。 マナカは五歳の時、コイワズライに噛まれた。このとき《《恋に落ちなかった》》ということになっているが、どうすればいいと聞かれても、マナカには答えられなかった。 困り顔のマナカと怯えるスバルの前に、同じクラスのナナオが現れた。運動部の彼女は体操着に身を包んでいる。部活の最中か、後片付けを終え帰宅するところなのか。ともかく彼女はマナカを見つけ、「進君!」と嬉しげに駆け寄ってきた。マナカしか見えていなかったナナオは、スバルに気づくと「うげ」と声を漏らした。
「瑠璃川。あんたいつ見ても進君のそばにいんだね」
つい数秒前まで気弱な表情をしていたスバルは、ナナオの発言にキッと目を吊り上げた。
「またマナカのこと進《《君》》って言ったわね。マナカは女の子よ。男の子扱いするのはやめなさいって何度言わせるの!」 「進君ほど《《王子様》》って子いないじゃん。背ぇ高いし。優しいし。ハカナゲだし」
ナナオの言うとおり、マナカの背は高い。今や学年一と言える。マナカの腕に抱きつき「ねー」と同意を求めるナナオを見て、スバルはさらに目を吊り上げた。
「だから……そういうのをやめなさいって言ってるの! 女の子に《《王子様》》を求めるなんて失礼よ!」 「あーしが進君のこと王子様だって思うのはぁ、思想の自由? だし? 瑠璃川に関係ないじゃん」 「言葉の意味をわかって使ってないでしょ!」
指を突きつけ怒るスバルに、ナナオは舌を出す。ますます怒り狂うスバルの形相に、マナカは慌てて「怒らないで」と仲裁に入った。
「スバル、僕はいいよ。気にしてないから」 「そもそもマナカが悪いのよ、自分のこと僕なんて言うから!」
スバルの指摘に、マナカは口をつぐんだ。マナカが言い負かされる気配を察し、ナナオは「そんな言い方ないでしょ」と気色ばむ。
「瑠璃川さぁ、進君と幼馴染みだからってそんな言い方なくない? 進君が傷つくじゃん」 「だからこそよ。それに、マナカがこんな程度じゃ傷つかないこと、私はわかってるわ」
ナナオが「あんたねぇ」と前に出ようとするのを、マナカは必死に止める。しかしそうすると正面のスバルがナナオに噛みつこうとする。 乱闘が勃発するかと思われたそのとき、声変わりを終えたばかりのかすれた声が空気を変えた。
「|津田《つだ》ぁ。後片付けの最中だろ、サボんなって鈴木先生怒ってんぞ」
声をかけたのは、よく日に焼けた|円木《つぶらぎ》少年だった。彼もまた、マナカたちと同じクラスだ。 ナナオは「えぇー」と声を上げ渋々マナカの腕を解放した。
「しょおーがないなぁ。つか何で円木が呼びにきたわけ?」 「さー。名前近いからじゃね?」 「部活に出席番号とか関係ないじゃん」
気怠そうに歩くナナオを連れ、円木は苦笑しながらグラウンドへ戻っていく。勢いを削がれたスバルは二人の後ろ姿を見送り、マナカに目をやった。
「……帰りましょ、マナカ」 「うん。帰ろう、スバル」
暗くなり始めた帰路を、二人は並んで歩く。黒々した影を引き連れ歩きながら、マナカは幼少期を思い出していた。
2
二人が出会ったのは、保育園に通い出す前だ。 当時のスバルは名前も相まって、まるで少年のようだった。いつも戦隊ヒーローのシャツやズボンを身につけ、一人称は《《おれ》》だった。彼女はマナカにとってヒーローだった。近所に住む二人は、近くの公園で出会った。 その日、一人で遊んでいたマナカは、年上の子供たちに色素の薄さでからかわれた。
「お前ガイジンなんじゃねーの」 「でもおかーさんの髪黒いじゃん」 「じゃーウワキだ、フリンだ!」
言葉の意味をほとんど理解できなかったマナカだが、そこに込められた悪意は感じ取れた。言い返せずしくしく泣くマナカの前に現れたのは、夕日を背負ったスバルだ。
「こらぁ! 女の子をいじめるわるいやつはだれだぁ!」
この日、スバルはお面をつけていた。もちろん、Tシャツに印刷されたヒーローのお面だ。戦隊ヒーローを見ていなかったマナカは、本物のヒーローが助けに来たのかと勘違いした。 スバルを見て「げ」と声を上げたのは、最初にマナカを揶揄した子供だ。走って逃げ出す彼に続き、ほかの子供もわっと逃げ出す。スバルは彼らを追い回し、正座させ、大人のように「わるいコトバを使っちゃいけません!」とお説教した。そして、ぽかんと口を開け立ち尽くすマナカの前に戻ってきた。 仮面の下からは、走り回ったせいで息を切らす女の子の顔が現れた。
「名前はっ?」 「え? わ……わたし?」 「そう! おれ、スバル!」
ずいっと顔を近づけられ、マナカはとっさに一歩後ずさった。目を逸らし、もごもごと名乗る。
「わた……わたし、マナカ」 「マナカの髪、ミルクティーみたいな色ですっごくきれいだ!」
キラキラ光る目でそう言われ、嬉しいやら照れるやら、マナカはうつむいてしまった。その顔を挟んで上を向かせたスバルは、輝く両目でマナカを見つめる。
「目の色は、ホットケーキにかかったハチミツの色だ! くちびるが赤いのは、つやっつやのイチゴみたいだな?」
鼻と鼻がくっつきそうな距離で、スバルはマナカが揶揄された箇所を褒める。マナカは自分の心臓が、今にも外に飛び出しそうなほど脈打っていることに気づいた。マナカの高鳴る鼓動なぞ知らず、スバルは西日の眩しさに負けない笑顔を見せた。
「どこもかしこもきれいなマナカは、おひめさまになるためにうまれてきたんだな!」
――本当にそうだったら、どれだけ良かっただろう。
思い出を反芻し、マナカはため息をついた。マナカのため息にスバルが顔を上げる。マナカは「何でもないよ」と首を振った。
「ごめん、ため息つきたいのはスバルだよね」 「いいのよ。マナカだって疲れたでしょ。課題も、私たちの言い合いも」
答えづらさにマナカが口ごもると、スバルは申し訳なさげに眉を下げた。
「マナカは優しいから、言い争いなんて見たくないわよね。ごめんなさい、すぐ熱くなっちゃって」 「平気だよ。スバルが僕のために怒ってくれてるって、わかってるから」
申し訳なさそうな顔のまま、スバルは弱々しく笑って見せた。 それから二人は、ぽつりぽつりと談笑しながら家路を歩いた。 マナカの家の門前で二人は別れることになった。立ち止まり、スバルが手を振る。
「明日は私、朝練なの。一緒に登校できないけど、寝坊しちゃだめよ」 「だ、大丈夫だよ。たぶん……」 「心配ねぇ」
苦笑するスバルの顔は、黄昏時の薄暗さでぼんやりしている。足下が不安な中一人で帰ろうとするスバルを心配し、マナカは「家まで送ろうか」と申し出た。だがスバルは断った。
「マナカ、暗いのだめでしょ。私は平気よ。慣れた道だし」
そう言ってお下げを揺らし、スバルはさっさと歩き出した。その歩みには、不安も躊躇も一切ない。 去りゆくスバルの背中を、マナカは見えなくなるまで見送った。その間、マナカはずっと右手の人差し指を押さえていた。
3
スバルがコイワズライに噛まれた翌朝。 一人で登校したマナカは、ぼんやりしながら階段を上がった。階段を上がりきり廊下を歩いていると、後ろから軽快な足音が聞こえた。追い抜かすのかな、と気を遣ったマナカが道を空けると、後ろから来た誰かは強く床を蹴り、マナカの腕をぐいと引いた。
「進君、おっはよぉー」
駆け寄ってきたのは、昨日スバルと揉めたナナオだった。マナカの腕をもぐかのような勢いで引いた彼女は、自分の腕を絡め、マナカの腕をぎゅうと抱きしめる。 ナナオの勢いによろめいたマナカは辛うじて踏み止まり、「おはよう」と弱々しい挨拶を返した。ナナオはハッと気づいた顔で「ごめん!」と謝る。
「進君、か弱いんだった。ごめんごめん、ついうっかり」 「平気だよ。受け止められなくて、ごめんね」
穏やかに首を振るマナカを見上げ、ナナオはきょとんと目を瞬かせた。その表情のまま、ため息交じりにうなずく。
「進君て、そういうとこがかっこいいんだよねぇ。うんうん、あーし絶対進君に恋してる」
ナナオは三日前、コイワズライに噛まれた。よく見れば人差し指にうっすらと丸い跡がある。それ以来ナナオはますますマナカに執心していた。マナカはうーんと困ったような声を上げ、苦笑しながら歩き出した。その隣でナナオも歩き始める。 マナカの腕を抱いたまま、ナナオはきょろきょろと前後を気にした。マナカが「どうしたの?」と尋ねると、ナナオは照れ笑いを浮かべ白状した。
「瑠璃川が怒鳴ってこないなぁって……。今日は一緒じゃないんだねぇ」 「ああ、今日は朝練に出てるんだ」
ナナオは「ふーん」とうなずくと、「あいつ何部?」と首を傾げる。スバルはバレー部だ。マナカがそう答えると、ナナオは「あー」と納得した。
「瑠璃川、根性ありそうだもんねぇ。ていうか運動全般得意なんだっけ。授業でもさぁ、簡単そうにやってるよねぇ。この前の授業でダンク決めてんのびっくりした」 「僕と違って、スバルは運動神経がいいから」
しょんぼり落ち込むマナカを、慌てたナナオが「進君はそのままでいいよぉ!」と励ます。
「進君はさ、線が細いって言うの? そこが儚げでさぁ、守ってあげたくなるんだって!」 「王子様は守る人だよ。守られてちゃだめだ」
マナカの口から出た『王子様』に、ナナオは目を丸くした。
「進君、王子様って呼ばれるの実は気に入ってる?」 「そうでもないけど……僕は、お姫様になれないから」
諦めた声音に、ナナオは「何でぇ?」と心底不思議そうに首を傾げる。
「進君には王子様でいてほしいけど、お姫様も似合うと思うよ。髪伸ばしたりしてさぁ」
そのままマナカに似合う服装や髪型を挙げ連ねるナナオを、マナカは驚いた顔で見下ろした。そしてはにかみ、「ありがとう」と笑顔を返した。 笑顔を向けられ、ナナオは顔を赤くしてマナカを見上げた。足を止めてしまったナナオの横に立ち、マナカはどうしたのか尋ねる。もじもじ何か言いたげにうつむいていたナナオが決意したように顔を上げたとき、廊下にスバルの声が響いた。
「ちょっと! 朝からマナカを男の子扱いしてるんじゃないでしょうね!?」 「うっわ来た。はっやぁ」
しおらしい表情は一瞬で消え、普段教室で見せる表情がナナオの顔に戻った。鬱陶しげな声はスバルにしっかり届いており、駆け寄ったスバルは目尻を吊り上げナナオに指を突きつけた。
「何度言っても聞かないわね。マナカは、女の子なの! 男の子扱いしないで!」 「はぁ? 何で瑠璃川の言うこと聞かなきゃなんないの?」
鼻先が触れんばかりに顔を近づけ喧嘩をする二人。マナカはそこへ割って入り、細腕で何とか二人を引き剥がした。マナカを間に挟んでもなお、二人は言い合いを続ける。マナカは二人を宥め賺し、歩くよう促し、どうにか教室まで移動させた。 教室に入って一番、スバルは喧嘩相手のナナオを自分の席へ向かわせた。よりによってスバル指図されたナナオは不満を露わにしたが、鞄を置くため渋々自分の席へ向かう。腰に手を当てナナオを見送ったスバルは、その勢いのままマナカを振り返る。
「マナカがそうやって何も言わないから、最近じゃ男子までマナカのこと男の子扱いするじゃない。嫌なら嫌って言いなさい!」
いつもなら、マナカはスバルに言い返したりしない。「気にしてない」と首を振り、スバルを宥め席へ戻す。だが今朝のマナカは、わずかに眉をひそめスバルを見下ろした。
「無理してるのは、スバルじゃないの?」
返された言葉に、スバルは虚を突かれた。見開かれた目いっぱいに自分が映るのを見ながら、マナカは苦い顔で続ける。
「そんな《《女の子》》らしい喋り方、昔はしてなかった。スバルらしくない。変だよ。無理してるのはスバルだ」
スバルは一瞬唇を噛んだ。その目にチラリと炎が宿ったが、すぐに消えてしまった。スバルは力なく首を振る。
「無理してないわ。昔がおかしかったのよ。ヒーローになろうとして、自分のことを男の子だと思い込んで……《《あの人》》の言うとおりだっただけよ」
マナカが口を開く前に、二人の間を「ちょっとごめん」とクラスメイトが通った。その隙に、スバルはマナカに背を向け自分の席に戻っていった。 スバルが自分から離れていくのを引き止めたくて、マナカは手を伸ばした。しかし、すぐに手を下ろした。うつむき、マナカも自分の席に着く。 やがてチャイムが鳴った。担任が入ってくると同時に、日直が号令をかける。生徒たちの椅子が後ろに引かれる。それらに紛れる小さな声で、マナカはぼそりと呟いた。
「うそつき」
呟いた声は、低く、重かった。
4
マナカの脳裏に、スバルがヒーローだった頃の思い出が投影される。 かつてのスバルは、見た目だけでなく行動までもが《《男の子》》だった。 スバルはおままごとなんてしなかった。男の子に混じって走り回っていた。 先に公園に着いていれば、後からやってきたマナカを自分たちの輪に加えた。マナカが先に公園に来て男の子たちに泣かされていれば、公園に駆け込むなり相手に跳び蹴りをお見舞いしていた。 スバルは《《ヒーロー》》だった。マナカにとって、自分だけの《《王子様》》だった。 しかし、《《魔女》》がスバルに呪いをかけた。
「あなた、女の子なのに《《おれ》》なんて言ってるの? へーんなのぉ」
マナカがスバルと出会ってどれほど経った頃だろうか。 夕暮れの公園で、影のように真っ黒な少女の台詞に、公園内の時間が止まった。名前を言わずとも、それがスバルのことだとわかった。《《変》》と言われた本人は、目を見開き硬直していた。 心ない言葉を放ったのは、見知らぬ中学生だった。黒いセーラー服は、マナカの目には魔女の服に見えた。 赤いリボンをもてあそび、《《魔女》》はスバルに呪いの言葉を吐く。一歩一歩スバルに近づき、意地の悪い声でスバルを呪う。
「女の子なら女の子らしくしてなきゃ、将来お嫁さんにもらってもらえないよ。なぁに、そのトレーナー? コスプレ? 子供っていいよねぇ、そんなの着ただけでヒーローになりきれちゃうんだもん。空想の中で生きてくのはたのちいねぇ?」
魔女はスバルの前で立ち止まり、見下ろし、公園内に響く声で笑った。嘲笑する魔女の前で、スバルは震えながらうつむいた。その顔は青ざめていた。手はトレーナーの胸元を握りしめていた。 隣にいたマナカは魔女に言い返そうとした。しかし、目が合っただけで「何よ」と低い声で言われ、震え上がった。結局、マナカはスバルのために言い返すことができなかった。 魔女が公園に来たのは、弟を家に連れ帰るためだった。その弟はマナカたちと遊ぶ男の子だった。 男の子は魔女の背を押し、公園から追い出した。そのまま自分も公園から出て行く。去り際、男の子は振り向きスバルに謝った。
「ごめんな」
スバルは返事をしなかった。 公園にいた子供たちが、気まずそうにスバルから離れる。どうしていいかわからない顔で、遠巻きにスバルとマナカを見る。マナカも、スバルに何と言葉をかけていいかわからなかった。 スバルがゆっくりと顔を上げ、隣にいるマナカを見た。
「レッドの服……着てちゃ、だめ?」 「そっ……」
――そんなことない、似合ってる、スバルはわたしのヒーローだよ!
マナカは、そう言いたかった。けれど声はかすれて言葉にならず、言葉は喉に貼りついた。 マナカは必死に首を振った。だが、マナカの思いはスバルに届かなかった。 スバルはまたうつむき、背中を丸めた。泣いているのかとマナカは焦ったが、スバルは泣いていなかった。ただ、小さな声で「帰る」と言った。マナカはうなずき、スバルの手を取った。 マナカは初めてスバルの家に行った。マナカが送り届けてもらったことは何度もあったが、スバルを送り届けるのは初めてだった。 チャイムを鳴らすと、スバルの母が出迎えた。スバルは無言で母にしがみついた。戸惑う母に、マナカはつたない言葉で公園での出来事を説明しようとした。
「公園で、黒い服の、お姉さんが……」 「この子に何かしたの?」 「し、してない……。でも、あの、変なのって……」
険しい顔をしたスバルの母に首を振り、魔女がどれほど酷い言葉をかけたかを話した。話を聞き終えてもスバルの母は困り顔で、スバルも母にしがみついたままだった。 マナカがいると、スバルは泣けない。 ようやく気づいたマナカは、帰ることにした。
「あ……明日、また、遊ぼう、スバル。わたし、来るから。スバルのおうちに、迎えに来るからね」
スバルから返事はなかった。スバルの母に「気をつけて帰ってね」と手を振られ、マナカはうなずき、家路に就いた。 夕暮れの道を歩き、マナカはドクドクと脈打つ左胸を押さえた。
――スバルが、王子様じゃなくなったらどうしよう。
マナカにとってそれは一大事だった。しかし、マナカにできることはない。どうにもできない。マナカの励ましは、思いは、スバルに伝わらなかったのだから。 それから、マナカは毎日スバルを迎えに行った。遊ぼうと誘っても、スバルは家から出なかった。スバルの母に申し訳なさそうに断られ、マナカは毎日公園で一人ぽつんとスバルを待った。 一週間と、何日が過ぎた頃か。一度マナカの誘いを断ったスバルが、西日が照らす公園にやってきた。髪は短いままだったが、スバルの服装は、可愛らしい色合いに変わっていた。
「す、スバル」
よろよろと近づくマナカに、スバルは照れ笑いを浮かべた。
「来てくれてたのに、ごめんね、マナカ」
また遊ぼ、と笑う仕草は《《女の子》》だった。そこに、ヒーローの面影はなかった。
――あ。 ――あーあ。 ――あーあぁ。
王子様は呪いをかけられた。 もう王子様は駆け回らない。姫のために敵をやっつけてはくれない。マナカを『お姫様』だと思ってくれない。
――でも、それでも、スバルが好き。
差し出された手を握り返しながら、マナカは胸の中で呟いた。ブランコへ誘われ、言われるがまま歩きながら、マナカの頭の中は違うことでいっぱいになった。
――もうスバルは王子様じゃない。王子様になってくれない。私だけのヒーローになってくれない。スバルは、お姫様になる。
だったら、どうすればいいのか? マナカが出せる答えは、一つしかなかった。
――スバルがお姫様になるなら、私が王子様になろう。
入れ替わるようにマナカは一人称を《《ぼく》》に変えた。髪を短く切り、スカートを選ばなくなった。小学校を卒業する頃には、マナカは美しい《《少年》》として扱われるようになった。 そんなマナカに、スバルは一度だけ尋ねたことがある。
「どうしてマナカがそんな格好するの? マナカはお姫様なのに」
お姫様同士は友達にしかなれないんだよ、と正直に打ち明けられたなら、マナカは楽になれただろう。だがマナカの中には、選択肢は常に一つしかない。
「こういうのも、似合うでしょ?」
正直に伝えても、あの日、スバルにマナカの思いは伝わらなかった。それ以来、伝えようとするとマナカの喉は凍りつく。だからマナカは誤魔化すしかなかった。 公園でのトラウマからか、スバルはマナカが少年扱いされると極端に怒るようになった。マナカは何度も気にしていないと言うが、スバルは聞き入れない。自分より背が高くなったマナカを庇い、マナカを少年扱いする周囲に言い放つ。
「マナカは女の子よ、男の子扱いしないで!」
その瞬間、マナカは何より幸福だった。かつて王子様だったスバルが戻ってきてくれたようだった。 中学生になった今、マナカの制服はスカートだ。それでも、今では誰もがマナカを《《少年》》もしくは《《王子様》》として扱う。それらからスバルに庇われるのが嬉しくて、マナカは振る舞いを直すことができなかった。
5
朝の言い合いの後、ナナオは何度もマナカの元へ来たが、スバルはやってこないどころかマナカを見もしなかった。 マナカは悔やんでいた。スバルに嫌われるのは何よりも耐えがたい。昼休みを待ったマナカは、給食を食べ終えるとスバルの席へ出向いた。
「あの、スバル……」
もじもじと指先を合わせては回すマナカに一瞬目を向け、スバルはぷいとそっぽを向いた。露骨に無視されたマナカはあまりのショックに泣きそうになったが、その涙はすぐに引っ込んだ。そっぽを向いたスバルが、我慢できないというように笑い出したからだ。
「もー。変なとこ素直じゃないわよね、マナカって」 「変、かな。ごめんなさい……」 「私もごめん。いつも偉そうにしてる」 「そんな、気にしてないよ」
座ったら、とスバルは隣の席をぽんと叩いた。スバルの隣にいた生徒は、食べ終えるなりどこかへ遊びに行ったようだ。マナカは遠慮がちに隣の席に座った。
「昨日の怪我、どう?」 「少し痛いけど、平気よ」 「そっか。よかった」
そのまま、マナカは何か言いかけてはやめるを繰り返した。はっきりしない様子に、スバルは大きなため息をつく。
「言いたいことがあるならさっさと言いなさい」
うう、とマナカは呻いた。重いものを無理矢理詰められたような呻きに、スバルは片眉を跳ねさせる。マナカは憂鬱そうに、スバルに尋ねた。
「恋は、しそう?」
悲壮感の滲む問いに、スバルは目を伏せた。
「……さあ、どうかしら。女の子らしくって頑張ってるけど、やっぱり私なんかが恋したら変でしょ?」
弱々しい声で首を傾げられ、マナカはどう返していいか悩んだ。 スバルの恋の相手が自分なら、マナカは腕を広げてスバルを受け止める。しかし、もし違う相手だったなら。その先を想像してマナカが顔色を悪くしている間に、スバルは弱々しさを払拭して顔を上げた。
「でもマナカは恋をしなかったものね。もしかしたら私も、恋しないかも」
晴れやかな表情を前に、マナカはすぐにはうなずけなかった。傷一つない指を押さえ、小さく、微かにうなずく。
「そう……だね。僕が噛まれたとき、まだ小学生にもなってなかったから」 「あのときはびっくりしたわ。噛まれて血が出たと思ったら倒れちゃうんだもの。顔は真っ赤で熱っぽくて……このまま死んじゃったらどうしようって、泣きそうになったんだから」
思い出を語るスバルの顔には、何年ぶりかと思われる柔和な笑みが浮かんでいる。スバルの笑みに、マナカの鼓動が高くなる。つられるように頬が熱を持つのを感じ、マナカは「やめてよ」と恥じるふりをした。
「実際泣いたのは、僕じゃないか。思い出すのはやめてよ、スバル」 「あら。恥ずかしがらなくていいじゃない。あんなに痛いんだもの、小さい子なら泣いて当然よ」
懐かしみ、何度もうなずくスバル。穏やかな表情に刺激され、マナカの脳裏に再び過去が投影された。
6
マナカがコイワズライに噛まれたのは、魔女がスバルに呪いをかけるほんの数日前だった。夕空の下スバルに手を引かれ、公園内を駆けていたマナカは、指先に走る痛みに足を止めた。 噛まれたのは人差し指。痛みが走るそこには、丸い噛み跡が深く深く刻まれていた。 指先から流れる血を見て、マナカは息をのみ、大声で泣きだした。驚いたスバルはマナカの指の傷を見て、慌ててハンカチを引っ張り出すと、傷口を押さえた。 公園の隅へ行き、しゃがみ、スバルに慰められながら、マナカは泣き続けた。しばらくして、マナカは急に泣き止んだ。スバルから受け取ったハンカチがぽとりと落ちる。スバルが怪訝そうにマナカを見ると、マナカは見る見るうちに顔を赤くし、うつむき、ぱたりと倒れた。 砂埃まみれになったマナカに触れ、スバルは思わず手を引っ込めた。マナカは発熱していた。 スバルは助けを求めるように周囲を見渡したが、助けてくれる者はいない。スバルはもう一度マナカを見て、覚悟を決めた。 えいっと体の下に手を差し込む。ぐったりしているマナカをどうにか背負うと、スバルは公園を飛び出した。目指すのはマナカの家だ。スバルはマナカの家までひた走った。
「マナカ、マナカがんばれっ」
ぐったりと脱力しきったマナカに、スバルは声をかけ続けた。
「もうすぐ、家だからっ。マナカのお母さんにっ、びょーいん連れてってもらえるからっ」
砂埃のにおい。鉄棒の錆のにおい。知らない柔軟剤のにおい。スバルのにおい。体の重さに動けないマナカの胸に、それらはじんわりと染みこんでいく。
マナカの胸の中で、何かがことん、と音を立てた。
7
それより、とスバルは荷物をまとめ立ち上がった。突然現在に引き戻され、マナカは目を瞬いてスバルを見上げた。
「次、移動よ。準備できてる?」 「え? あっ。ま、まだ」
マナカも立ち上がり、次の教科の用意をしに席へ戻った。これでもない、あれでもないともたもた準備をするマナカに呆れながら、スバルは教室の出入り口に立った。横滑りするドアは、今はまだ閉められている。
「急いで。先生より遅いと後片付けさせられちゃうんだから」 「待って、今行くから」
ノート類を抱えスバルの隣へと急ぐマナカを、男子生徒のグループが追い抜いた。「もたもたすんなよ王子様」と笑う男子たちを軽く睨んだスバルがドアに手をかけた瞬間、ドアはカラリと音を立てて開いた。開け飛び込んできたのは、スバルの隣に座る男子生徒だ。 慌てて駆け込んだ彼は、勢い余ってそのままスバルにぶつかった。跳ね飛ばされたスバルを受け止めようとマナカが手を伸ばす。それより先に、マナカを追い抜いた男子グループの一人がスバルを受け止めた。片腕でスバルを受け止めたのは円木だ。円木は「何やってんだよ里中ぁ」とからから笑う。
「お前でけーんだから、女子じゃなくても跳ね飛ばされるって。前見ろ前」 「悪い、ごめん、急いでた!」 「んで、瑠璃川は大丈夫か?」
ことん、と可愛らしい音が微かに響いた。 目を限界まで開いたスバルは、弾かれるように円木から離れた。ずり落ちかけた眼鏡を掛け直す手が微かに震えている。
「あ、ありがとう、円木」 「気にすんなよ」
そう言って円木は「お先」と二人の脇をすり抜け廊下へ出た。その後に男子生徒たちが続く。スバルにぶつかった里中は「ごめんな」ともう一度謝り、席へ戻った。 マナカはつい今し方聞こえた音を『聞き間違いだ』と言い聞かせながら、スバルのそばにそっと立った。
「だ……大丈夫、スバル?」 「今、今の、聞こえた? ねえマナカ、今っ、音がしたわよね?」
聞こえなかった、と答えたかった。だが、目の前のスバルは確信を持っている。マナカは嘘をつけなかった。 マナカがうなずくと、スバルは顔を真っ赤にして頬を押さえた。
「どうしよう……。私、円木に恋しちゃった」
真っ赤な顔を扇ぎながら、スバルは「とりあえず行きましょ」と細い声で言うと、渋い顔のマナカを連れて廊下へ出た。円木たちの姿はもう見えない。廊下は自分の教室や特別教室を目指す生徒であふれ、誰もスバルやマナカの様子に注意を払わない。 まだ赤みの引かない頬を押さえ、スバルは戸惑いを露わにした。
「ねえ、あの音、円木は聞こえたかしら? 聞こえてたら恥ずかしいわ。あんなの公開告白じゃない」
それに対し、マナカの返事は素っ気ない。
「大丈夫だよ。特に反応してなかったし、別の音だと思ったんじゃないかな」
マナカの拗ねた顔にも返事の素っ気なさにも気づかず、スバルは興奮して話し続ける。
「コイワズライに噛まれて恋に落ちると、あんな音がするのね。あら? 私、あの音を聞いたことがあるかも」 「……田村さんと沢井君のときに聞いてるよ」
少し間を置いたマナカの返事に、スバルは「ああ!」と手を打った。
「そうだったわ、あのとき二人同時だったのよね!」
コイワズライに噛まれると、恋に落ちた瞬間に音が聞こえる。それは本が倒れるときのような、積み木が一つ落ちたような、ようやく何かが噛み合ったような、そんな音だ。 マナカとスバルは去年、この音を図書室で聞いている。授業の一環で、マナカたちのクラスは図書室で調べ物をすることになった。そのとき同じ班になった田村と沢井が、音の発生源だった。 本を探し終えたマナカとスバルは、机に座って内容をノートに写していた。まだ本を探す二人は別々の棚にいたが、本を探すうちに同じ棚の前に立っていた。それはマナカとスバルが使う机の真後ろにある棚だった。 田村と沢井は同じ本に手を伸ばし、指先が触れ合った。 その瞬間、ことん、と小さな音が二人の胸から聞こえた。 覚えのある音に、マナカは振り向いた。スバルもつられて振り向く。指先を触れ合わせたまま、田村と沢井は顔を真っ赤にして見つめ合っていた。 色恋に疎いスバルでも、二人の様子から察することができた。真っ赤な顔でうろうろ視線をさまよわせるスバルに、同じくらい顔を赤くした二人が「秘密にして」「誰にも言わないで」と迫る。マナカもスバルも、言いふらすつもりは毛ほどもない。マナカたちが首を振ると、二人はホッと息を吐いて顔を見合わせた。 そのときの二人の、満たされた横顔。いつ思い出しても、マナカは二人を羨ましく思う。 マナカの隣で、スバルは「そうだったわ」と何度もうなずいた。
「何で忘れてたのかしら。あのときの二人の顔ったら、真っ赤だったわ。きっと、今の私と同じ気持ちだったんでしょうね」
楽しそうなスバルを見て、マナカは打ち明けたくなった。
――スバルが初めて聞いた《《恋に落ちる音》》は、私の胸から響いたものだよ。私はあのときから、スバルのことが好きなんだよ。
だが、マナカは何も言わなかった。初めての恋に浮かれるスバルの声に、じっと耳を傾けていた。
8
翌朝、顔を合わせて一番のことだ。
「円木の好みに少しでも近づきたいの。お願いマナカ、手伝って!」
反射的に「嫌だ」と答えかけたのをこらえ、マナカはぎこちない笑みで「いいよ」とうなずいた。恋は盲目と言うが、今のスバルもそうだった。マナカの表情に気づかず、嬉しそうに「ありがとう!」と声を弾ませマナカの手を握る。マナカの頬に、ほんのり赤みが差した。 手伝ってと頼まれたものの、スバルから具体的な指示はない。恋の応援なんて頼まれたことのないマナカは勝手がわからず、とにかく円木に話しかけてみることにした。 休み時間、円木は同じ運動部の男子生徒と話していることが多い。男子生徒と喋ることなんて滅多にないマナカは、緊張した面持ちで円木に近づいた。
「あの、円木。ちょっといいかな」 「お? 何だよ王子サマ。モテるコツでも教えてくれんの?」
マナカに声をかけられ、円木はからから笑いながら振り向いた。クラス一高いマナカの背と、円木の背はほとんど変わらない。振り向くなり予想外の話を振られ、マナカは面食らった。
「そ、そうじゃなくて。円木に聞きたいことがあるんだ」 「おっ前、ノリ悪いなぁ! 今のは何それ~とかばかじゃないの~とか返すとこだろ!」
大げさに仰け反る円木に同調し、周りの男子生徒が「そーだそーだ」と囃し立てる。そこに悪意は皆無だが、マナカはますます戸惑った。
「そうなの? ごめん、男の子と話さないから、ノリとかわかんなくて」 「そもそもお前、男子どころか女子とも喋んなくね? 向こうが一方的に話すばっかで、お前相槌打ってるだけじゃん」
そうだろうか、とマナカは一瞬考え込んだ。しかし今はそこに着目すべきではないと気づき、先ほどの円木の台詞を思い出した。
「えっと……じゃあ円木は、ノリがいい子が好きってこと?」 「へぇっ?」
マナカの問いに、円木は素っ頓狂な声を上げた。周りで囃し立てていた男子たちが、囃し立てる声のトーンをさらに上げる。
「おいおい進、円木が好みかっ?」 「ううん、全然」
マナカが躊躇いもなく首を振ると、その場の男子たちは「全然って!」「もう少しマイルドに言えよ!」「さすがの円木も凹むだろ!」とゲラゲラ笑った。円木は困り果てた顔で、しかし顔を赤くしながら「もー黙れよ!」と男子たちを諫めた。
「お前らがそういうこと言うから答えたんだろ、ばか!」 「なんだよ、顔が赤いぜ円木!」 「モテ期かもとか思ったくせに!」 「思っ……てねーよ! ばーか! ばーかばーか!」
その場は完全に小学生男子たちの輪となってしまった。円木をいじっては円木に小突かれる男子たちのノリについていけず、マナカはそっとその場を離れた。 全然情報を得られなかった、としょんぼりするマナカが席に着くと、誰かがマナカの前に立った。スバルだ。その顔は、拗ねた子供もかくやというほど膨れている。
「マナカが協力してくれてるってわかってるのよ、わかってるけど!」
スバルは赤くなった頬を押さえながら、ちら、と円木たちを見た。相変わらず円木たちは悪ふざけをしていて、周りの生徒たちも彼らに注目していた。 彼らの笑い声にかき消されるほど小さな声で、スバルは「妬いちゃう」と呟いた。マナカはチクチク痛む胸を押さえたくなるのを耐えながら、「妬かなくていいよ」と微笑んだ。
「僕は円木のこと、何とも思ってないから」 「そう……そうよね。でなきゃ協力してくれないわよね」
ぶつぶつ自分に言い聞かせるスバルは、ふと首を傾げた。
「そういえば、マナカってどんな人が好きなの?」
思いも寄らない質問に、マナカは「えっ」と声を上げた。その声は、少女らしい声だった。眼鏡越しにじっと見つめられ、マナカは「僕は……」と視線を下げた。下がる視線と同調するように、声も尻すぼみになる。
「か……かっこよくて……強い、ひと」
マナカにとって、それはスバルへの告白に等しかった。けれど当然スバルに伝わるわけもなく、スバルは「ハードル高いのね」と当てを探すように考え込んだ。伝わらない思いに、マナカはこっそり肩を落とした。
「でも、マナカにはそういう人がいいわね。ぽやぽやしてるから、引っ張って守ってくれる人じゃないと不安だわ」
――それは、スバルがよかったよ。
そう言いたくても、マナカにはとても言えなかった。
9
そして、放課後。 マナカは円木の言うとおり一人で体育館裏に赴いた。所在なさげに立っていた円木は、マナカが一人で来たことを認めると安心したように息を吐いた。 円木はマナカに大股で近づくと、「あのさぁ!」と大きな声を出した。恥じるように片手で口を押さえた円木は、今度はいつもの声量で「あのさ」と繰り返した。
「お……俺、進に恋してんだ!」
マナカはきょとんと目を丸くした。円木の顔が徐々に赤くなり、目はマナカからゆっくり逸らされる。
「去年、好きな本を紹介する授業あっただろ? 俺のときに泣いたの進だけで、それが、印象に残って……」
とうとううつむいた円木は、もごもごと不明瞭な声で続ける。
「いつも女からキャーキャー言われてるけど、とろくせーし鈍くせーしぽやぽやしてるし、その上涙もろいしで……見てれば見てるほど、ほっとけねーって思ったんだよ!」
円木に淡い感情の欠片も持っていなかったマナカだが、その台詞には少しばかり胸がときめいた。円木の台詞は、スバルがマナカに言った台詞と同じだった。だが、円木はスバルではない。 マナカはゆっくりと首を振った。
「ごめん」
うつむいていた円木の顔が、マナカに向けられる。目が悲しげに細められた。罪悪感を抱きながら、マナカは謝罪の言葉を続けた。
「僕なんかを好きになってくれて、嬉しいよ。でも、その……ごめん」
何度か口を開閉した円木は、何とか口だけで笑みを作ってみせた。
「すっ……好きな奴でも、いんの? 進は、噛まれたって聞かねーけど……」 「小さいときに噛まれたけど……それより前からずっと、好きなんだ」 「ど……」円木の喉が、緊張を孕んで上下した。「どんな奴?」 「どんな、って……」
――私にとって、スバルは。
そう考えているうちに、マナカの頬は熱を持った。ぽかぽかとあたたかな気持ちが胸に広がる。マナカは照れくさそうに微笑んだ。
「王子様、みたいな人」
マナカの答えに円木は表情を引きつらせ、吹き出した。
「王子様? 王子様みたいな人? お前、自分が王子様扱いされといて……お前もそいつも王子様なら、ホモじゃねーか!」 「ばか!!」
二人だけだったはずの体育館裏に突如、女子生徒の声が響いた。地面を蹴る足音、そして乾いた音と響く同時に、円木の頬に赤い手形が浮かんだ。
「ばか」と叫んだのは、駆け寄ったのは、円木の頬を平手で打ったのは、スバルだった。涙がいくつも浮かんでは頬を滑り落ちていく。
「マナカは女の子よ。誰よりも繊細な心を持った、とっても可愛いお姫様よ。だからあなたも恋したんでしょ、違う!?」 「瑠璃川? お前、何で」 「恋した相手にそんなこと言うなんて、最っ低」
ぽろぽろと涙を落とし、スバルはもう一度円木の頬を張った。円木は頬を押さえるだけで、何も言わなかった。 スバルはマナカの手を取り、踵を返して体育館裏から連れ出した。手を引く後ろ姿は、マナカが恋い焦がれて止まない、王子様のものだった。
10
マナカを連れ出したスバルは、そのままマナカを家へと送り届けた。しかしスバルの涙は未だ止まらず、マナカはスバルを自宅へ上げた。素直に上がり込んだスバルは、マナカの部屋に入るなりしゃくり上げて座り込んだ。
「あんな奴だと思わなかった! マナカのこと好きだって言っておいて、その口であんなこと言うなんて、最低! 最低よ、あんな奴!」
百年の恋も冷めたスバルは、親友を傷つけられた怒りをピンクの丸いクッションへぶつける。スバルの怒りを受け止めるクッションを見つめながら、マナカは「気にしてないよ」と微笑んだ。
「それより、嬉しかった。スバルが助けに来てくれて」
マナカの喜びに、スバルは気まずげに目を逸らした。「信じてるから」と言ったこと、なのに体育館裏にいたことを恥じたのだ。だが、マナカはそんなこと気にしない。円木のことすら、もう頭にない。 スバルの手を両手で包み、マナカはスバルを見つめた。スバルはゆっくり、マナカを見上げた。花開くように笑みを浮かべ、マナカはスバルへの思いを告げた。
「小さい頃から、さっきみたいに僕を助けてくれるスバルが好きだったんだ。慰めて、励ましてくれて、引っ張ってくれるスバルが、ずっとずっと……好き」
す、とスバルの顔から血の気が引いた。スバルの手が震えだす。
「好き? 好きって……ずっと、好きって……嘘でしょ」
青ざめたスバルは、急いで手を引き抜いた。じりじりと後ずさり、何度も「嘘でしょ」と呟きマナカから距離を取る。
「いつから好きだったの? 公園で噛まれたわよね。あのときから? ずっとそんな目で見てたの? そんな目で見ながら私の隣にいたの? いつも、いつも、いつもいつもいつも」 「す、スバル? 待って、落ち着いてよ」 「触らないで!」
落ち着けようと伸ばしたマナカの手は、スバルに拒否された。円木の頬を張った動きと同じ勢いで、マナカの手は振り払われた。スバルの目には嫌悪しかない。
「気持ち悪い」
今度はマナカから血の気が引いた。 スバルは何か誤解している。そう思ったマナカは、自分の思いがいかに純粋か伝えようとした。けれどスバルは聞く耳を持たない。耳を塞ぎ「気持ち悪い」と首を振り続ける。マナカの声を聞かず、拒否の言葉のみを繰り返す。 そのとき、マナカの手にクッションが触れたのは偶然だった。マナカはクッションを握りしめ、スバルの顔に押しつけた。マナカは、拒絶の言葉を聞きたくなかった。 もちろんスバルは抵抗した。普段のマナカなら、スバルが抵抗した時点で我に返っている。だが今のマナカは、押さえつける力をますます強くした。暴れるスバルに馬乗りになり、クッションを押さえ続けた。 クッション越しにくぐもった声が聞こえる。 聞きたくない、とマナカは何度も力を込めた。 スバルの手が、足が、マナカの顔や体を打つ。 それでもマナカは手を止めない。 やがて、クッションの向こうから声は聞こえなくなった。マナカはまだ、手から力を抜けなかった。 物音でマナカの母が部屋に来た。動かないスバルと、馬乗りになったマナカを見て血の気を失った。母は突き飛ばすようにマナカをスバルから下ろし、クッションを剥がした。 スバルの胸が上下することはなかった。 夕空にサイレンの音が響いたのは、それから数分後のことだ。
11
コイワズライに噛まれた児童は、好意も拒絶も、等しく激しい感情となる。それはコイワズライが傷口から送り込む成分が原因だった。成分は脳に作用し、感情の暴走を引き起こす。ひとたび強いマイナス感情を向けられると、異常なほど攻撃的になる。それは文字通り《《恋の病》》だった。 これらは後年、研究の結果判明した。今ではコイワズライに噛まれた児童は《《コイワズライ罹患者》》として隔離され、治療を受ける。 ある日のよく晴れた昼下がり。 とある大学のカフェコーナーで、雑誌記者が事前に得た資料を必死に読み込んでいた。そろそろ現れるであろう津田研究員への取材のためだ。
「お待たせしました」
そう言って現れた白衣の津田を見て、記者は慌てて机を片付けた。レコーダーのみをテーブルに置き、膝に手帳を置く。
「今日は取材を受けて下さり、ありがとうございます」 「いいえぇ。研究成果を知ってもらわないと、支援が得られませんからねぇ。じゃんじゃん答えるんで、いっぱい宣伝して下さい!」
冗談めかして笑う津田につられ、記者も笑みをこぼす。二人の前にカップが置かれたところで、取材が始まった。事前に資料を読み込んだ記者による鋭い質問と、コイワズライ研究の最前線に立つ津田による丁寧な回答により、三〇分の取材は濃密なものになった。 時間切れを迎え、記者は礼を言ってレコーダーをオフにした。取材道具を片付け、何を思いついたのか、再びレコーダーに手を伸ばした。
「ご迷惑じゃなければ、津田さんの言葉で自己紹介を頂けますか。できれば、コイワズライへの熱意の理由を添えて」
事前に聞かされていなかった質問だが、津田は「いいですよぉ」とうなずいた。承諾を受けた記者はレコーダーを再びオンにして、津田に自己紹介を促した。津田はにこりと微笑んだ。
「私はナナオ。津田ナナオ。思い人のお姫様になれず、せめて《《彼女》》の無実を証明する王子様になろうとこの世界に飛び込んだ、恋する乙女の成れの果てです」