目次
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《《それ》》は暗闇を漂っていた。 《《それ》》には自我がなかった。 だが《《それ》》は、自分が何かに呼ばれているとわかった。 光差す方へ吸い込まれながら、《《それ》》は呼ぶ者の望みを反映して、自我と姿を形成していった。 やがて光と煙に包まれ、《《それ》》は人の住まう世界に降り立った。肩にかかる長い髪と立ちこめる煙が鬱陶しい。細い手で両方を払いながら、《《それ》》は自身が何者かを理解した。呼び出した者が|魔術書《グリモア》を持っているのを感じる。《《それ》》は召喚者によって、サキュバス――淫魔として呼び出されたのだ。煙の中で淫魔は自身の体を確認し、なるほどと納得する。 艶やかな髪、白い肌、華奢な体躯、控えめな胸。これが召喚者の望む少女なのだ。煙が徐々に晴れてゆく。淫魔は生意気な目つきで召喚者を睨みつけた。
「それで、あんたあたしを呼び出してナニしたいわけ?」
自身が美少女であることを理解し、召喚者が望む声、望む態度をとったつもりだった。煙の向こうで召喚者が息を呑む。淫魔が完全に人の世界に馴染むと、煙は消えた。今や召喚者の姿がはっきりと見える。 召喚者は、眼鏡をかけた長身の女だった。 身ぎれいにすれば美人なのだろう、と淫魔は自身に流れてくる世界の情報と照らし合わせながら思った。だが女の格好はお世辞にもきれいとは言えなかった。ボサボサの頭に眼鏡の向こうの濃い隈。肌には潤いがなく、何よりくたびれたYシャツとスラックスという格好では、せっかくの容姿も無駄というものだ。 女が一歩動く。淫魔は先ほどの生意気な口調と目つきを後悔した。女と比べれば、淫魔の体格はあまりに頼りない。それでも虚勢を張って身構える淫魔に対し、女が取ったリアクションは眼鏡の向こうの瞳を揺らがせただけだった。
「まひる」
女はふらりと体を傾がせ、床に倒れ伏した。淫魔は慌てて女に駆け寄ると、抱き起こし「ちょっと!」と叫ぶように呼びかける。呼吸はある。しかし目を開ける気配がない。淫魔は困った。まだ契約を交わしていない。それに女は背が高い。淫魔の体では、女を介抱したくても抱えるだけで精一杯だ。淫魔はすぐに諦め、女が自然に目を覚ますのを待つことにした。 することもなく、淫魔は今いる場所を見回した。 狭い部屋だった。閉じられたカーテンから橙色の光が差し込む。近寄り、そっとカーテンを開ける。外では真っ赤になった太陽がビル群に沈んでいくところだった。窓を開けて一歩外へ出る。手すりに赤錆が浮いている古いベランダだが、掃除は行き届いていた。 手すりに手をかけ辺りを見渡す。狭く、汚く、うるさい場所だ。治安も良くない。暴力のにおいがした。 繁華街がすぐそばにある、と淫魔はまたも流れてくる情報で理解した。そして、今いる場所がアパートと呼ばれるものだとも理解した。築年数までは流れてこなかったが、古いことに間違いはない。 淫魔が見下ろす地面を、着飾る女が男と歩いてきた。どちらも派手な格好だ。二人はアパートの向かいにあるビルの影に消えた。あの向こうが繁華街なのだろうと当たりをつけ、淫魔は男女が消えた向こうを睨みつけた。今度は柄の悪い男がビルから出てきた。先の二人に比べれば地味な服装だが、装飾品の悪趣味さが職業を物語っている。ビルから出た男も、ポケットから出した煙草をくわえながらビルの向こうへ消えた。
それから何人もの男女が通った。老いも若きも関係なく、淫魔が見下ろしていることに気づきもせずビルの向こうへ消えた。 太陽が傾き、淫魔の正面にやってきた。夕陽の眩しさに目をすがめ、淫魔は部屋へ戻ることにした。 部屋に入り、窓を閉める。カーテンは開けたままにしておいた。女はまだ目を覚まさない。淫魔は腰に手を当て息を吐く。そうしていても女は起きないし、淫魔の退屈も紛れない。次は部屋の中を探索することにした。
女が借りているのは1Kと呼ばれるタイプの部屋だった。フローリングに今朝殺された鶏の血で魔方陣が書かれている。その周りに並べられているのは月の光を浴びた石だ。魔方陣に指で触れる。血は乾いていた。女を振り向く。女の指先に血はついていない。拭ったのではなく洗い落としたと見える。つまり女は魔方陣を書いてから、本当に実行するのかと悩んだのだろう。そして、女は淫魔を呼び出した。成功したのに、女は淫魔を見て気を失った。 女のそばに転がる|魔術書《グリモア》を手に取る。気をつけなければページが破れてしまいそうだ。
どうやって女は本物を入手したのか。 そこまでしてなぜ淫魔を呼び出したかったのか。 なぜ|インキュバス《男》ではなく|サキュバス《女》を望んだのか。
女を駆り立てたものを、淫魔は知りたかった。女の口から直接理由を聞きたかった。
「早く目を覚ましてよ」
淫魔の呟きに女は答えない。淫魔はため息をつき、|魔術書《グリモア》を女の手元に戻した。 再び、淫魔は部屋の探索を始める。部屋の真ん中に魔方陣が書かれている以外、何も置かれていなかった。テレビという人間界においてあって当たり前のものすらない。食事を取るために使う食卓というものもない。女がこの部屋で生活していることは、流れ来る情報からぼんやりと知っていた。だが、淫魔ですらこの部屋の生活感のなさに驚かされた。
ふと、淫魔は目を留める。ドアの一つがクローゼットだということに気づいたのだ。いそいそと近づき、取っ手に手をかけた。せめて雑誌か何かあるだろうと期待したのだが、中にあったのは一着のコートと衣装ケースだけだった。コートはくたびれ、色あせ、まるで大昔の旅人が着るもののようで、女性らしいとはいえないものだった。「変なシュミ」と呟いて、淫魔は衣装ケースに手を伸ばした。 衣装ケースは三段だった。まずはその一段目を引き出す。中にはほんの数枚の服と下着が入っていた。几帳面にたたまれてはいるが、下着も服も同じ場所に片づけるのはいかがなものかと淫魔は顔をしかめた。 続けて、二段目を引き出す。ここにも服と下着が几帳面に詰め込まれていたが、そこにあるのは男物だった。思わず淫魔は勢いよく引き出しを押し戻した。あまりに勢いよく閉めたため女を起こしてしまったかと振り向いたが、女は相変わらず床に倒れたままだった。ホッと息をついて、淫魔は衣装ケースに向き直る。 二段目に驚かされたため、三段目を開ける手は慎重だった。そろりそろりと開けたそこには、女のものにしては可愛らしすぎるデザインのパジャマのみが仕舞われていた。淫魔は女のシュミがわからなくなり、『統一感のない衣装ケースだ』と胸の中で呟きながらクローゼットを閉じた。
次はドアの向こうの台所だ。ドアを開け、薄暗い廊下兼台所に立つ。風呂とトイレもあることはわかったが、何も面白いものはないだろうと決めつけた淫魔はそちらを見る気はなかった。 まずシンクを見る。きれいだったが、掃除が行き届いているというより、ほとんど使われていないというほうが正しいようだ。普段はインスタントや外食で済ませているのだろう。シンク横の冷蔵庫には、はたしてどれだけ食糧があるのやら。と、冷蔵庫へ視線を移しかけて、淫魔は玄関の下駄箱に目が釘付けになった。薄暗いせいでそこに置かれているものが奇妙な置物に見えたのだ。しかしそれが伏せられた写真立てと気づき、淫魔は小躍りした。女の衣装ケースにあった男物の服。そして写真立て。きっと女の恋人、もしくはそれに近い人物の写真があるに違いない。 淫魔は近づき、写真立てを手に取った。写真の中にいたのは、淫魔を召喚した女と、髪色の明るい美少女だった。少女は写真を撮る直前、女に抱きついたのだろう。ツインテールがぶれている。少女は女に腕を絡ませ、眩しい笑顔を見せていた。女も穏やかに微笑んでいる。淫魔は肩にかかる髪と少女の髪色を見比べた。色も長さも同じだ。写真と肌の色も比べてみた。こちらも同じように見える。鏡で確認していないが、きっと顔も同じだろう。きっと、この少女が〝まひる〟なのだ。女の姉妹か友人か、はたまた恋人か。淫魔は写真を見つめ考える。
突然、背後からぬぅっと手が伸び、淫魔の手から写真立てを奪った。
「勝手に|他人《ひと》の部屋を漁っちゃいけないよ」
耳元で、静かな声がささやくように注意した。怒りも焦りも感じない、静かで落ち着いた声だった。 淫魔が振り向くと、気絶していた女が立っていた。夕陽を背負っているせいで、淫魔を見下ろす女の顔は影になっている。だが、その顔に感情らしい感情が浮かんでいないのはわかった。写真立てを下駄箱に伏せ、女は淫魔を手招いた。
「おいで。こっちで話をしよう」
女に呼ばれるまま、淫魔は部屋に戻った。 魔方陣を踏まないよう、女と淫魔は部屋の隅に腰を下ろした。「さて」と女が淫魔を見る。手には|魔術書《グリモア》を持っていた。
「きみはどうしてまひるの姿をしてるんだい?」 「サキュバスだもん。呼び出した人間が望む《《女》》の格好してるのは当たり前でしょ」
淫魔の台詞に女は眉間にしわを寄せた。
「私は、悪魔を呼んだんだよ」 「そんなの知らない。あんたがそのつもりでも、この魔方陣はあたしを呼び出すものだもん」 「本物は本物でも、別物だったか……」
女は|魔術書《グリモア》の表紙を撫で、考え込むように魔方陣を見つめた。しばらくそうしてじっとしていたかと思うと、女は顔を上げ、淫魔に「名前は」と尋ねた。
「きみにも、名前はあるだろう。リリスだとか、そんな名前が」 「名前なんてない。そんな上等じゃないもん。小悪魔? みたいな?」 「それじゃあ、名前を使っての強制送還もできないか」 「そ。だからね、あんたはあたしにお願い事して、契約しなきゃなんないの」
淫魔は猫のような仕草で女に這い寄り、膝に片手を置いて物憂げな顔を覗き込んだ。そのまま伸び上がり、女の耳元に唇を寄せる。
「あたしに何してほしい? それともナニしてほしい? どっかのカップル破局させてほしい? 嫌いな上司にハニートラップ仕掛けてあげようか。それとも憎い誰かの精気を吸い殺しちゃう? ねぇ、何してほしい? どうしてほしい?」
男ならば淫魔のささやく声の甘さにとろけただろう。淫魔の誘惑はとても魅力的だっただろう。だが女は淫魔を一瞥すると、首を横に振った。断る女の声は静かだったが、心の底から淫魔の申し出を拒絶していた。
「きみにしてほしいことは何もない。悪いけど、契約は結べないよ」
淫魔は困ってしまった。女は淫魔を呼び出した。だが何もしない、何もしてほしくないと言う。むりやり追い返されることもできなければ勝手に消えることもできない。女は淫魔の体を押しのけ、立ち上がった。淫魔を追い出すつもりだろうか。いくら淫魔といえど、目的もなく放り出されてはたまらない。女の足にすがりつき、途方に暮れた顔で女を見上げた。
「それじゃああたし、どうすればいいの?」
意図せず、泣きそうな声が出た。気づくと涙もにじんでいた。淫魔は決して女の同情を引こうとして演技をしたわけではなかったが、それでも女の気を引くことには成功した。女は不意を突かれたような複雑な顔で淫魔を見下ろした。女の瞳が揺らぐ。女は目を閉じ、またすぐに開くとしっかりとした目で淫魔を見た。淫魔に目線を合わせるためにしゃがみ、細い肩に手を置く。
「ごめんよ。契約はしないけど、きみが元の場所に戻れるまでここにいていいから」
女はポケットに手を入れ、携帯端末を取り出した。
「薄暗いと思ったら、もう黄昏時だ。とりあえず夕飯にしよう」
携帯端末を操作しながら、女は「何が食べたい?」と微笑んだ。 女は|小夜《さよ》と名乗った。食事をしなくてもいい淫魔が「何でもいい」と言うと、携帯端末でどこかに電話をかけたかと思えば、一方的に話をしてすぐに切ってしまった。携帯端末をポケットに入れながら「直にデリバリーが来るよ」と告げた小夜の横顔は、楽しげだった。小夜の言葉で〝宅配〟〝店屋物〟といった単語が淫魔の中に流れてくる。食事を買う仕組みの一つを理解した淫魔はふぅんとうなずいた。相手の返事を待たない話しぶりからして、よほど馴染みの店なのだろう。
それからしばらく、二人は何をするでもなくぼんやりと時間が過ぎるのを待った。 外から微かに人の声や車の音が聞こえた。部屋に差す夕陽がますます弱くなる。とうとう部屋に灯りが必要になった。「暗いね」と呟いて小夜が立ち上がる。それとほぼ同時に、チャイムが鳴った。弱々しい音だった。部屋の灯りをつけながら、小夜は「来た」と淫魔に笑いかけて廊下を進んだ。淫魔も小夜の背中にくっついて廊下に出た。ドアの向こうの配達員を一目見ようと、ドアノブを回す小夜の隣にわくわくしながら立つ。 ドアを開けた向こうに立っていたのは、どう見ても堅気に見えないドレッドヘアーの男だった。小夜も長身だが、男も小夜より頭一つ分背が高い。体格も良く、淫魔ならば男に飛びかかっても跳ね返されてしまうだろう。袖をまくったたくましい腕に、刺青がちらりと覗いている。手にはコンビニ袋を提げ、眉間には深いしわを刻んでいた。男を前に、淫魔はつい思ったままを口走ってしまった。
「何なのその頭。オシャレなの? レゲエなの? 和風レゲエってジャンル開拓しようとしてんの? もしかしてもうあるの? あるからそんな格好なの? 友達とかから何も言われないの? 言われない環境だからしてんの? すごくない? すさまじくない?」 「おい小夜、何だこのクソガキ」 「クソガキってなに? あんた他人のことクソガキとか言える立場、」 「ごめんよエージ。この子は知り合いの子なんだ」
眉間のしわを深くした男から隠すように、小夜は淫魔の口を塞ぐと自分の背後に押しやった。小夜が淫魔の代わりに謝っても、エージと呼ばれた男は淫魔を睨むのをやめず、淫魔もまた男を睨みつけるのをやめなかった。小夜が苦笑する。
「怖いもの知らずの子供なんだ。代わりに謝るから、許してやってくれないかな」 「使いっ走りさせられた上、ガキに生意気な口きかれるなんて割に合わねえ」
舌打ちをしながら、エージは小夜に袋を突き出した。財布を出そうとする小夜の手を邪魔するように、エージは袋の持ち手をむりやり小夜に握らせる。ほかに用でもあるのか、小夜が袋を受け取るとすぐに帰ろうとした。だが小夜の後ろで淫魔が舌を出しているのを見たせいで足を止めた。怒ったかと淫魔が慌てて小夜の背中に隠れたが、怒ったわけではないようだ。エージは淫魔を指さし、「そいつ」と何か思い出したように口を開く。
「そのガキ、《《死んだんじゃねえのか》》」
エージの言葉に淫魔は目を丸くする。小夜はエージの指を掴み、むりやり下ろさせた。
「指で人を差しちゃいけないよ、エージ」 「はぐらかすんじゃねえよ、小夜」 「はぐらかしてなんかない。この子はまひるじゃない。まひるは確かに、死んだんだ」 「他人にしちゃ似すぎだろ。双子か?」 「他人の空似さ。今日はありがとう、エージ。明日は十時だったね。よろしく頼むよ」
自分よりも大柄なエージをドアに向き直らせ、小夜は「またね」と笑顔で押し出した。にこやかに手を振る小夜を渋面で睨むと、渋々エージは帰っていった。ドアを閉め、小夜は淫魔に袋を渡す。受け取りながら、淫魔は「死んだの?」と小夜を見上げた。
「まひるは死んでたの? だからこの姿を望んだの?」
小夜はそっと、淫魔から目を逸らしながら「さてね」と答えた。さらに質問を重ねようとした淫魔に何も言わせず、小夜は「好きなものを選んでいいよ」と形ばかりの笑みを見せた。
「私は余ったものでいい。きみは好きなものをお食べ」
食べる必要のない体だが、淫魔は小夜にそれを伝えなかった。必要ない体だと知ると、小夜が悲しむ気がしたのだ。袋の中を覗き込み、むむ、と淫魔は眉を寄せる。エージの好みで選んだのか、それとも小夜の体を気遣ったのか。中に詰め込まれた弁当や惣菜は、健康志向のものばかりだった。への字に唇を曲げる淫魔を眺め、小夜が口を開いた。
「きみの、名前」 「え? なに?」 「〝サキ〟でどうかな。名前がないと不便だから」
諭す声で「今度はケンカしないでね」と言った小夜の目は楽しそうに笑っていた。小夜のそんな顔を見ると、淫魔はなぜだかホッとした。「うん」とうなずき、淫魔――サキは軽くなった袋を小夜に返した。
そうして夜は更け、いざ眠るとなった頃。小夜は面白がる顔で、サキは怒った顔で床の魔方陣を消していた。クローゼットの上段、サキの背丈では見えない位置に寝具はあった。しかしそれは一人用だ。そこで出してきたのが寝袋だ。魔方陣を消しながら、小夜が言う。
「サキ。寝袋と布団、どっちがいい?」
小夜の言葉にサキは「はぁ?」と顔を上げる。
「ぜぇったい布団。布団じゃなきゃやだ。寝袋じゃ寝ないから!」 「そう。じゃあ私が寝袋かな」 「それもやだ! 一人で寝るのもイヤ!」 「でもねぇ。布団は一人用だから、二人じゃ狭いよ」 「詰めたら十分でしょ。私たちがくっついて寝たら余裕じゃん!」 「近所迷惑だよ。静かに」 「じゃエージに布団もう一組持ってこさせて!」 「別にいいじゃないか。私は寝袋、サキは布団。これで問題ないだろう?」 「そもそも何で寝袋なんか置いてんの? 普通お客さん用にもう一組用意しとくもんでしょ? なのになんで寝袋なの!? サバイバルが趣味なわけ!? そんなにサバイバルが好きなら外で寝たら!?」 「そう悪い寝心地でもないんだけどね。いい寝袋だよ、それ」 「文化的な生活してよお願いだから!」
サキがキィキィとがなり立てる間、小夜はくつくつ愉快そうに笑っていた。 血を拭き終え、寝るためのスペースを作り終えた二人は布団と寝袋を目の前にして、黙り込んだ。どちらかが寝袋で寝なくてはいけない。ふくれ面のサキを横目で見て、小夜はたまらずといった様子でふきだした。サキがムッとして小夜を見ると、小夜は「チャックを開けてごらん」と促した。言われるまま、持ち手をつまんでファスナーを引く。サキの手が導くまま動き、ファスナーはぐるりと一周して一枚の敷き布団に変身した。 ぽかんと口を開けて寝袋を見つめ、次に小夜を見る。小夜はサキの様子を見て、口元を押さえて笑いをこらえていた。見る間にサキの顔が赤くなる。「もう!」と声を上げたかと思うと、サキはそのまま小夜の薄い体をポカスカ叩いた。それでも小夜は笑うのをやめない。
「言ってよ! そういうことは!」 「いや、本当にそれで寝るつもりだったんだよ。サキがあんまりにも寝袋を嫌がるから広げてもらっただけさ。袋状じゃなかったらいいんだろう?」 「そういう問題じゃないから! もういい、もう寝よ! 早く!」 「その前に歯を磨かないと」 「そんなの一日くらいしなくてもいいでしょ!」 「ダメだよ。ほらおいで、サキ。歯を磨こう」
ジタバタと暴れるサキを引きずり、小夜は洗面所へ向かう。引きずられてしまっては仕方ない。サキもおとなしく歯を磨き、そしてようやく布団に入った。小夜は寝袋の上、サキは布団の上だ。だがサキは横になった小夜をすぐさま自分の布団へと引き込んだ。
「そんなので寝ちゃダメだからね。あたしがいる限り、ちゃんと布団で寝かせるから!」 「それは頼もしいね。きみの寝相がいいことを祈るよ」 「淫魔なんだからベッドでのマナーはいいに決まってるでしょ! ……呼ばれたの初めてだけど」
最後の小声は聞こえなかったふりをして、小夜は電気を消した。「おやすみ」と言うなり小夜は背を向ける。サキは暗闇の中、そろりと小夜の足に自分の足を絡ませた。びくりと小夜の体がこわばる。だがサキは足をほどかず、そのまま小夜の背に自分の体を密着させた。
「ねぇ」 「何だい」 「……寝たふり、あたしには通じないから」 「そうだろうね」 「あのね。……あの、あのね」 「どうしたの」
サキの足から逃れ、小夜はサキと距離を取りながら振り向く。もじもじと爪先をこすり合わせながら、サキは「あのね」と繰り返した。
「さよちーって、呼んでいい?」
小夜の鳶色の瞳が、暗闇の中で見開かれる。サキ自身なぜそんな申し出をしてしまったのかわからない。だが小夜のことをそう呼びたかったのだ。友人のような対等な立場で、そう呼びたかった。 小夜の表情が和らいだ。布団の中から手が伸び、サキの髪にもぐってゆく。
「見れば見るほど、そっくりだ。記憶とまるで違わない」 「だって、さよちーの望む姿だもん」 「そうだろうね」
髪から手が離れる。サキは小夜の目に涙がにじむのを見て、離れていく手を捕らえた。
「まひるを、生き返らせてほしかったの?」
サキの問いに、小夜は「違うよ」と呟いた。
「生き返らせてほしいなんて、悪魔に頼まないさ。そんな願い、神様にだって叶えてほしくない」 「だったら、何で……」
――あたしはこの姿なの?
サキがその疑問を最後まで口にすることはできなかった。小夜の細い指が、サキの唇を押さえたのだ。「もうおやすみ」と暗がりで微笑む。
「明日は忙しくなる。もう寝よう、サキ」
そう言って、小夜はまたサキに背を向けた。サキがどれだけ呼びかけても、返事はない。もう今夜は話すつもりがないのだろう。サキはおずおずと手を伸ばし、小夜のパジャマの裾を掴んだ。
「……追い出したりしないでね、さよちー」
サキのか細い声に小夜の肩がぴくりと跳ねる。だが結局、その夜に小夜がサキに話しかけることはなかった。
2
サキは水音で目を覚ました。体を起こし、雨が降っているのかと外を見る。カーテンが開けられた窓から見える空は青だった。首を傾げているうちに雨音は止んだ。かと思えば今度は違う音が聞こえる。ぼうっとしてサキがドアを見つめていると、音が止み、ドアが開いた。開けたのは、昨夜よりもかなり薄着になった小夜だ。髪から水滴をしたたらせている。タオルで髪の水気を拭きながら、ぼんやりしているサキを見て小夜は小さく笑う。
「おはよう。今日もエージが来るから、そろそろ着替えてくれるかい」
サキはうなずき、布団から這い出た。 ぺたん、と床の上に座り込み、パジャマを一枚ずつ脱ぎ捨てていく。放り投げたパジャマは光る粒子となり、サキの肌は新たな衣服に隠された。着替えが終わると、光の粒子がサキの髪を覆う。淡い光が消えると、サキの髪型はまひると同じツインテールになっていた。 現実離れした着替えが完了すると、小夜は驚く様子もなくドアの向こうへ消えた。ドライヤーの音を聞きながら、サキはゆっくりと意識を覚醒させる。サキがはっきりと目を覚ましたのは、小夜が朝食の準備を始めた頃だった。用意といっても、昨日エージが買ってきたものを温め直す程度だ。昨日食べなかったおにぎりと、インスタントの味噌汁が朝食になる。電子ケトルでお湯を沸かしながら、小夜はふらふら台所にやってきたサキにマグカップを二つ出させた。
「コーヒーとお茶、どっちがいい? お茶ならほうじ茶しかないけど……」 「ほうじ茶でいい」 「わかった」
サキがお茶と味噌汁を作っていると、小夜の携帯端末が鳴りだした。床に置いているせいで、音楽と同時に振動音が狭い部屋に響き渡っている。小夜はサキをちらりと見ると、苦笑しながらケトルを渡した。朝食の用意はサキが引き継ぐことになった。 部屋に戻った小夜は震える携帯端末を拾い上げた。音が止み、ぱたんとドアが閉じられる。サキは耳を澄ましたが、閉じたドアとひそめた声の小ささが壁となり、会話は断片的にしか聞こえなかった。わかったのは、昨日言った通り小夜は十時に出て行くこと。そしてサキは留守番をしなくてはならないことだ。テレビどころかラジオ、雑誌の一冊すらないこの部屋で留守番。サキは泣きたくなった。 戻ってきた小夜はサキの表情で察したのだろう。困ったように笑うと、「ごめんね」と謝りながらサキの白い頬を撫でた。撫でられた頬を膨らませるサキを見て、小夜は目元を和らげる。
「エージがラジオと一緒に、事務所のゲーム機を持ってきてくれるって」 「やだ。一緒に行く」 「ダメだよ。朝ご飯を食べ終わったら、コンビニに連れて行ってあげるから。そこで雑誌でも何でも、好きなものを買っていいよ」
なだめられ、朝食後にコンビニへ連れて行かれても、サキのふてくされた顔は戻らない。時間通りに来たエージを見て、ますますふくれ面になるだけだった。むくれたサキを見て、エージはまた指を差しながら小夜を振り向く。
「お前、いつからフグを飼い始めたんだ?」 「フグじゃないし!」 「サキと出会ったのはつい最近だよ」 「フグってとこ否定してよ!」 「うるせえフグだな」 「だから! フグじゃないってば!」 「ケンカはよしてほしいな。近所迷惑になる」
小夜に言われ、二人ともそっぽを向くことで矛先を下ろした。その様子を見て小夜が笑うと、エージは居心地が悪そうに舌打ちして「ほらよ」とやや大きめのバッグを突き出した。小夜が受け取り、中身を見て「良かったね」とサキに見せた。携帯ゲーム機と何本かのソフト、それとラジオだった。しかしサキは喜ばなかった。これで小夜が帰るまでの時間を潰さなくてはならないのだ。どうして喜べよう。唇を尖らせ受け取ろうとしないサキに、エージがむりやりバッグを持たせた。
「理由は知らねえが、小夜に世話んなってんだろ。置いてもらってるくせに、ワガママ言ってんじゃねえ」
エージの思わぬ説教に、サキはぽかんとエージを見上げる。エージは青筋を浮かべ怒っているが、隣に立つ小夜は笑いをこらえている。サキは悩んだ。殊勝に反省すべきか、それとも反抗すべきか。エージの怒りようとサキのうろたえように、小夜はこらえきれずふきだした。
「何でお前が笑ってんだ」 「いや、エージがそんなことを言うとは思わなくてね。さすがヤクザだ。筋の通らないことには厳しい」 「馬鹿にしてんのか」 「まさか。私のために怒ってくれたことに喜んでるよ」
エージは「お前のためじゃねえ」「ふざけんな」と青筋を増やしながら否定するが、小夜は耳も貸さずサキに向き直った。
「お昼に帰ることはできないけど、晩ご飯は一緒に食べよう。それで機嫌を直してくれないかな」
小夜の言葉に、サキは「わかった」とうつむいた。 出かける際、小夜は「一人で出かけちゃいけないよ」と言い残した。一人で出かけても意味がない。そう思ったが口には出さず、サキは「いってらっしゃい」と手を振り見送った。
一人になり、サキはバッグからラジオを出した。適当な周波数に合わせてニュースを流す。時計すらないこの部屋でも、これなら時間がわかるだろうと踏んだのだ。次はゲームに手をつけた。古いゲーム機だった。ソフトを起動しながら、パッケージの説明書とチュートリアルで操作方法を覚える。軽快な音楽と一緒に動くキャラクターを操作して、サキはラジオから正午を伝えるまでを過ごした。 空腹は感じないが、セーブしてゲームをやめ、コンビニで買ったパンを食べた。飢えない体では満たされもしないのだが、甘い菓子パンを食べるのはいい娯楽になった。食べ終えればまたゲームだ。今度は違うソフトを差し込む。ラジオから流れるニュースを聞き流し、適当な時間にスナック菓子を放り込む。気泡が弾けるジュースよりも、紅茶のほうがサキの味覚は喜んだ。
窓から差し込む光が赤く変わる。それでも小夜は帰ってこない。手元が暗くなってもサキはゲームを続けた。やがて画面の光が眩しくなり、不快になったので電源を切った。アパートの階段を上がってくる足音が何度か聞こえたが、どれも小夜ではなかった。
とうとう真っ暗になった。サキは灯りのない部屋で寝転がり、ラジオに耳を傾ける。明るい気分になれるニュースは一つもなかった。寝返りを打ち、窓の外を見る。ビルに月がかかっていた。欠けた月だ。 カン、カン、と階段を上がる音が聞こえた。サキは飛び起き、玄関に向かう。鍵が差し込まれた。ドアが開くと同時に、サキは小夜に飛びついた。
「さよちーおっそぉい!」 「ごめんよ、思ったより話が長引いてね」
飛びつくサキを受け止め、小夜は手探りで灯りをつけた。何か言いかけた小夜は、ふと思案顔で黙り込む。考え込む小夜を見上げながら、サキは首を傾げる。サキの細い腕をほどきながら、小夜は「ずいぶん私に懐いているね」と眼鏡の向こうで鳶色の瞳を訝しげに細めた。
「私たちはまだ、出会って二日だ。なのにきみはどうして、そんなに懐くんだい?」 「そんなの決まってるじゃん」
サキはほどかれた腕をまた小夜の胴体に回した。
「だってあたし、さよちーが望んでる格好と性格なんだよ? んふふ、さよちーはこういう積極的なのが好みなんだ?」 「好みというより、まひるにそっくりだ」
小夜は後ろ手でドアを閉め、鍵をかけた。そして「ごめんね」と眉を下げる。
「無理させてるなら、ごめん。早くきみを送り返せるよう、方法を探すから」
「夕飯にしよう」とサキを中へ促す小夜。なぜだかサキは、小夜の言葉に胸がチクリと痛んだ。味わったことのない感覚に戸惑い、サキは胸を押さえて立ち止まる。「どうしたんだい」と小夜に尋ねられ「何でもない」と笑って答えたが、胸の痛みはチクチクと、徐々にわだかまりへと変化しながら、サキの胸に残り続けた。
翌日、そのまた翌日も小夜はサキを置いてエージと出かけた。帰るのは日が暮れてから。小夜が帰るまでサキはアパートから出ることはできない。サキが出歩けるのは、朝食後にエージが来るまでの間。行き先はすぐ近くのコンビニのみだ。 それでも不満を言わず出迎えれば、小夜は飛びつくサキを受け止め、長い時間一人にさせたことを謝る。しかし留守番四日目にして、サキの不満は爆発した。
エージが持ってきたゲームはクリアした。小夜に買ってもらった雑誌は読み飽きた。キャスターが話すお昼のニュースは暗いものばかりだ。サキはうんざりして床に大の字になった。
「もう知らない!」
外出用の靴を出すと、玄関ドアから飛び出した。
「さよちーも好きに出かけてるもん、あたしだって好きに出かけていいでしょ!」
そう息巻いたサキは、鍵もかけずアパートの外へ繰り出した。向かったのは、ビルの向こうの繁華街だ。 初めての繁華街はサキに多くの情報をもたらした。この通りにあるのはアミューズメント施設、飲食店、小さな屋台のようだ。道行く人々とすれ違いながら、サキは物珍しげに通りを歩いた。そうして歩きながら、サキは気づいてしまった。店に入って人間の文化を楽しもうにも、サキは一文も持っていない。できることはせいぜいゲームセンターでたむろする若者を眺めるくらいだ。 唇をとがらせ、サキは仕方なしにアパートへ戻ることにした。頭が冷えた今、勝手にアパートから出たことがサヨにバレたら叱られると思ったのだ。くるりとアパートの方角へ振り返ったサキは、後ろから歩いてきた集団とぶつかった。「うわっ」とよろけたサキ同様によろめいたその人間は、「あれ?」と声を上げた。
「まひるじゃん。なぁんで生きてんの?」
正面で首を傾げる人間を見て、サキも首を傾げる。集団の人間は皆サキと同じく少女と呼ぶべき外見だ。加えて同じ服を着崩していることから、学生であることがわかる。ぶつかった少女の隣にいる棒キャンディを食べている少女が、一歩前に出た。サキのつむじからつま先までを見て、「ほんとだ」と眠たげな目を見開いた。
「マジでまひるじゃん」
少女の言葉をきっかけに、後ろで様子を見ていたほかの少女たちがわらわらとサキを囲む。口々に「うわっ」「ほんとだ」と気味の悪いものでも見たかのような声をあげながら、無遠慮な目でサキを眺めた。
「え、あのさ、まひるの葬式ってしてたよね?」 「してたしてた」 「んじゃ何で生きてんの?」 「知らなぁい」 「ドッキリだったんじゃね?」
それぞれ好き勝手に喋りながら、じわりじわりとサキを囲む輪を縮める。突然現れた少女たちに圧倒され硬直し、気づいた頃にはサキに逃げ場がなくなっていた。通りすがる人々は目を向けるだけでサキたちに関わろうとしない。少女たちの目に好奇の色が浮かぶ。
「ね、マジでドッキリだったの?」 「おじさんたちガチ泣きしてたじゃん、マジ演技派」 「学校とか何で来ないの?」 「なぁんで喋んないの?」 「黙ってちゃわかんないじゃん」
どう返事をするべきか。小夜と同じく他人の空似だと言い張るか、それとも知らないと言い張ってこの輪から強行突破するか。サキが悩み、少女たちが伸ばす手を避けようとしたその時だ。サキや少女たちよりも頭二つ分は高い位置にドレッドヘアーが見えた。ドレッドヘアーの下には、青筋を浮かべ苛立った顔がある。 「エージ」とサキは呟いた。少女たちがサキの視線をたどって振り返る。少女たちの頭上から、エージが腕を伸ばした。
「面倒見てもらってる分際で、迷惑かけんじゃねえ」
髪ではなく、サキの頭を掴むエージ。サキが大げさに痛がっても構わず、「帰るぞ」とサキを引き寄せると、踵を返し大股で歩き出した。少女たちはサッと広がり、エージに道を譲る。少女たちはそのままエージとは反対方向に逃げていった。サキは引きずられるように歩きながら、逃げ去る少女たちを見てにんまりと笑った。
「エージ、エージ」 「あ? エージさんだろ」 「そのセンスない格好も役に立つね」 「ぶっ殺すぞお前」
エージに頭を掴まれたまま、サキは小夜のアパートに戻った。エージが道中で連絡したお陰で、小夜とサキはアパート前で再会することができた。帰ったサキを見た途端、小夜はサキを抱きしめた。何も言わず抱きしめる小夜に戸惑いながらも、サキも小夜を抱きしめ返す。
「ごめん、さよちー」
サキの小さな謝罪で、小夜はサキを解放した。サキの後ろで気まずそうにしていたエージに向き直り、小夜は「ありがとう」と感謝を表した。
「ごめんねエージ。世話ばかり焼いてもらって」 「すぐそこの繁華街にいた。世話にもなんねえよ」 「本当に、ありがとう」
小夜の礼にそれ以上何も返さず、エージは軽く手を挙げ立ち去った。繁華街とは反対方向へ去るエージの背中を見送り、「私たちも中に入ろう」と小夜はサキの背を押して促した。 サキを部屋に入れ、鍵を掛けながら小夜は「ごめん」と謝った。なぜ小夜が謝るのか。振り返ったサキを見下ろす小夜表情は、光の届かない玄関では読めなかった。
「退屈させて、ごめんね」
サキは返事に窮した。小夜だけが出かけサキは留守番をさせられていることに怒った。留守番に飽き飽きしアパートを飛び出した。小夜の言葉は事実だ。だが見透かされ言葉にされると、サキは何も言えなくなった。小夜はサキの表情の変化が見えないのか、縋るような口調で続けた。
「だけどこれからも、きみ一人で出かけたりしないでほしいんだ。私はきみが心配なんだ、サキ。どうかお願いだから、もう一人で出かけたりしないで」
声の向こうに、小夜の本心が見える。サキはアパート前でしたように、小さな声で謝った。
「ごめん、なさい」
サキの小声を合図に、小夜は灯りをつけて困り顔をサキに見せた。緩やかなカーブを描いていた眉が、八の字に下がっている。ふ、と微かな息を吐いて小夜は言う。
「私の〝願望〟が読めるから、記憶も読んで何もかもわかってると思ったんだけどね」 「そんなことない」
小夜の言葉を、サキは慌てて否定した。
「望みはわかっても、記憶は専門外。私は悪魔じゃなくてサキュバスなんだから」
慌てたサキの声に、小夜は「そう」とどこか上の空に聞こえる声でうなずいた。空気が重い。サキは努めて明るい声を出し、別の話題を持ち出した。
「ねぇ、さよちーってエージと付き合ってるの?」 「ええ?」
小夜は冷蔵庫のドアに伸ばしかけた手を止め、サキのわくわくした表情を見て、昨夜のように笑った。くすくすと笑いながら「まさか」と小夜は否定する。しょうがない、と言いたげな顔は年の離れた妹を相手にしているようだ。
「エージは私のやりたいことの橋渡しをしてくれているだけだよ」
明るく笑った小夜に安心し、サキもつられて明るい表情になって小夜にまとわりついた。 「うそつき」と笑いながらじゃれつくサキを、小夜は「嘘なもんか」と穏やかに笑って軽くあしらう。ぐしゃぐしゃに髪を撫でる手を甘んじて受け入れながら、サキはにぃっと口角を上げる。
「嘘ついたってダメ。サキュバスだからそういう感情もわかるんだから。ねぇ、さよちーってああいうのがタイプなの? いっがーい」 「想像は自由にしてくれて構わないよ」 「あ、そういうこと言っちゃっていいの? 明日エージにも聞いちゃうから!」 「エージだって否定するさ。ただの腐れ縁、とでも言うんじゃないかな」
最後の締めだと言わんばかりにポンとつむじに手を置き、小夜は再び冷蔵庫に手を伸ばした。取り出されたのは白い箱だ。洒落たカリグラフィーが印刷されている。甘い香りに、サキは自然と目が輝いた。
「わぁ、何それ? いい匂い!」 「来たばかりのきみに退屈ばかりさせたからね。歓迎とお詫びに、ケーキを買ってきたんだ。気に入ってくれるか自信がなかったけど、喜んでくれて良かった」
ケーキの情報はすでに流れ込んできている。サキにケーキを運ばせ、小夜は紅茶の用意を始めた。食事を取る机に箱を置き、サキは小夜が運ぶ紅茶を待った。お湯が沸く音。注がれる音。漂う茶葉の香り。サキにはそれが懐かしく感じた。
「さよちー、聞いていい?」 「何だい?」 「まひるとも、こうやってお茶したりした?」
音が止まる。外の音すら聞こえるほど、室内の音がぴたりと止んだ。
「……まひるは、紅茶もコーヒーも、ストレートで飲めなかったよ」
その一言で十分だった。小夜は紅茶の準備を再開した。さらさらと砂が落ちるような音。砂糖を入れているのだ。サキは、自分は紅茶をストレートで飲めるかわからなかった。だが小夜が運んだ甘い紅茶を飲み、その疑問は解決した。
「おいしいね、さよちー」 「ケーキはもっと美味しいよ。たくさんお食べ」
優しく笑った小夜は、サキの向こうを見ているようだった。だがそれでも良かった。小夜が幸せを感じているなら、自分を通してまひるを見ているのだとしても、サキは一向に構わなかった。 そうして短いお茶会を終え、小夜は明日の予定を話し始めた。
「明日は今日より早く帰ってくる予定なんだ。何かしたいことはあるかい? どこへでも連れて行ってあげるよ」
何か、と言われても急には思い浮かばない。うぅん、と悩むサキに小夜が「繁華街はもうダメだよ」と茶化すように笑う。サキは頬を膨らませて拗ねながら、さてどこへ連れて行ってもらおうかと考える。何が、と希望はないが、小夜と出かけたかった。サキはようやく自分が小夜のそばにいたいのだと気づいた。小夜とゆっくり話したい。今のように何か美味しいものを食べながら、楽しい話をして、友達のように過ごしたい。だがサキは思い出す。自分は淫魔なのだから、そんなことは言えない。気づいた自分の中の願望を押し込んで、サキは「えっとね」と無邪気を装って明るい笑顔を見せた。
「自分で服出すのってケッコーめんどくさいの。だからね、服とか見に行きたいなっ」 「わかった。明日は服を見に行こう。靴も、いいものがあれば買ってあげるよ」 「うん、ありがと。楽しみに待ってるね!」
笑顔のまま、サキはエージと小夜の話を蒸し返した。
「それで、さよちーはエージみたいなのが好みなの?」 「ご想像にお任せするよ」 「何それぇー」
けらけらと笑う声が響く。まどろむ黄金色の午後は、溶けるように夕陽に混じって過ぎていった。
3
翌朝のことだった。起きた二人が朝食を食べ終わった頃、小夜の携帯端末がオルゴールの音色を奏でだした。「兄さんだ」と呟くと、小夜はサキに食器をシンクへ運ぶよう頼み、携帯端末を持って外へ出て行った。ドアを開けながら、小夜はまだ部屋にいるサキに少し大きな声で言い聞かせる。
「鍵をかけていくから、エージが来たら入れてあげてね」 「あたしが聞いたらダメな話でもするの?」 「そうだよ。エージが来たらよろしく」 「はぁーい」
サキの拗ねた返事を聞き、小夜は苦笑しながら鍵をかけた。遠ざかる足音に耳を澄ませながら、サキはほうじ茶を飲み干し、使った食器を重ね台所へ運ぶ。食器を水に浸すと、小夜が戻るまでの暇を潰すためまた部屋に戻った。サキに食器を洗うつもりは毛ほどもなく、小夜もまたサキが食器を洗うことを期待していなかった。 部屋に戻り、サキはゲームを起動した。エージに借りたゲーム機だ。借りたソフトはすべてクリアしたが、小夜に「一周しただけではクリアしたと言えない」と言われ、再度プレイすることにしたのだ。スティックでキャラクターを動かし、ボタンで行動する。暇つぶしに始めたゲームに意識を集中しかけたその時、チャイムが鳴った。サキの眉間にしわが寄る。ポーズ画面にし、不承不承ドアを開けるため立ち上がる。ドアを開けるなり、サキはエージに文句を言った。
「あたし今ゲーム中だったんだけど?」 「知るかよ。小夜はどうした」 「ニーサンから電話だって。その辺にいなかった?」 「そうか。じゃあ上がるぞ」 「勝手に上がんないでよ。あっ、スリッパ履きなさいよスリッパぁ!」
ずかずかと上がり込む背中に来客用スリッパを投げながら、サキは部屋に入るエージを追いかけた。エージはサキに構わず、部屋に入るといつも小夜が座る位置にあぐらをかいた。サキはむっとむくれた顔をしたが、エージは気づかないまま自分の携帯端末をいじりだす。サキもポーズ画面にしたままのゲーム機に手を伸ばそうとして、はたと昨日小夜にはぐらかされた話題を思い出した。膨れっ面から満面の笑顔に変わり、サキは「ねえねえ」と正面に座るエージに顔を向けた。
「エージってさよちーと付き合ってんの?」 「ガキくせえこと聞くんじゃねえよ」
顔すら上げない返事だが、サキはめげない。ニヤニヤとからかうような笑みを浮かべて机に頬杖をつく。
「じゃあ何で毎日迎えに来てんの? お世話もしてるじゃん」 「俺が仲介してんだ。当然だろうが」 「何でチューカイしてあげたの? あんたヤクザじゃん」
声音だけで笑っているとわかるサキにエージは青筋を浮かべて顔を上げたが、すぐに怒りを鎮めた。エージはあぐらを崩すと、片足だけ三角座りをするように膝を立てた。膝に腕を乗せ、またその上に顎を乗せ、見つめていれば答えでも出るかのように、黙って、じっと机を見る。やがて親に言い訳でもするかのような気まずげな表情で、ぼそりと答えを口にした。
「……あいつは、ほっとくと何するかわからねえ」
エージの言葉に、サキは素直にうなずいた。以前の小夜を知らないサキだが、それでも今の小夜から危うさは感じ取っていた。サキが反論もせず素直にうなずいたことに驚いたのか、エージはちらとサキの顔を見て、また目を逸らして続けた。
「それに、|若頭《かしら》の女も沼上に殺されてる。だから小夜と手ぇ組んでんだ。共同戦線ってやつか?」
なぜ小夜と手を組みメリットを得られるのか。黒魔術に頼るような一般人に何を期待しているのか。黒魔術のことは伏せてサキが疑問を口にすると、エージは訝しげに眉間にしわを寄せ、「あいつ警察だろ」とサキの知らない事実を告げた。
「今は謹慎中でも、あいつは警官だし、兄貴は刑事だ。あいつ自身それなりに人脈もあるから、いろいろ引っ張れる情報があんだよ。|若頭《かしら》は親父に言われて勝手に動き回れねえんだ」 「さよちーって警察だったの?」
驚くサキにエージはますますしわを深くし「そんなことも知らねえのか?」とまたサキを睨んだ。「知り合ったの最近だもん」と軽さを装いながら、サキは動揺していた。|若頭《かしら》の女《《も》》ということは、まひるを殺したのはその沼上という人間なのだ。サキはふつふつと自分の中で何かが沸き立つのを感じながら、沼上のことを尋ねた。
「沼上ってどんなやつ?」
サキの声がわずかに固くなったことにエージは気づかなかったようだ。「教えてよ」と身を乗り出すサキから距離を取りながら、エージは片膝に乗せていた手で顎に手を触れた。エージがどれだけ沼上のことを知っているのか、サキにはわからない。だが少なくとも、サキよりはよく知っているだろう。その証拠に、エージは吐き捨てるように言葉を吐いた。
「親の金で好き勝手する、羨ましいくらいのクズだよ」
――ああ。
サキはエージに気づかれないよう、息を吐いた。そんな気はしていた。そんな人間だろうと、察していた。
「まひるは、沼上にどう殺されたの?」
とうとうサキの様子にエージは気づいたようだ。言ってもいいものか、と考えあぐねているのが表情でよくわかった。それでもサキは「教えて」と食い下がった。
「あたしそっくりの子が殺されたんでしょ。じゃああたしも狙われるかもしれない。だから気をつけたいの」
その言い分に納得したわけではないだろう。だがサキの真剣な眼差しに仕方なく、エージなりに言葉を選んでまひるの死因を教えた。
「あいつはの殺し方はいつも同じだ。むりやり《《ヤ》》って、絞め殺す。ただ、|若頭《かしら》の女とまひるは……酷かった、って話だ。まひるを見つけたのは小夜だ。二人で出かける予定だったらしい」
それからだ、とエージは呟いた。
「それからあいつは、ああなった。自分のこと構いもせず、沼上を追い詰めようとしてる。最初は殴り込みだった。すぐにつまみ出されたけどな」
髪をぐしゃりと掴むと、エージは顔を伏せ、大きく息を吐いた。伏せる直前に見えた顔に表情はなかった。だからこそ、エージの心に広がる雲の分厚さを、サキは容易に想像できた。
「小夜とは腐れ縁だ。あいつがまひるとつるむ前から知ってる。あいつは……おかしくなっちまってんだ。鶏を殺すような女じゃねえんだよ。悪魔呼び出して復讐するなんて言い出すタマでもねえ。神も悪魔もいねえからヤクザと手ぇ組むなんて、あいつの正義が許すはずねえんだよ。あいつ、目を離したら今にも……」
そこでエージは言葉を切った。だが口にしなかった言葉は、サキの胸にしっかりと届いた。黒魔術の用意も、エージは手伝ったのだろう。復讐なんてやめろと言うこともできず、黒魔術なんて信じられるかと一蹴することもできず、小夜の望むままに与えてやることしかできなかったのだろう。サキは何と声をかけていいかわからなかった。大柄なエージが無言でうつむいているのを見つめ、こんな男でも悲しむのか、と胸の片隅で考えた。 湿っぽい空気はいつまでも続かなかった。沈黙に満たされた部屋に、電子音が鳴り響く。エージの携帯端末だった。エージはのろのろと顔を上げ、手にある携帯端末の画面を見た。表示されている名前は小夜なのだろう。「俺はもう行く」と呟き立ち上がった。サキも「うん」とうなずき、鍵をかけるため廊下へ出る。外へ出て通話ボタンを押しながら、エージはサキに指を突きつけた。
「今日は勝手に出かけるんじゃねえぞ」 「うん」 「小夜が午後には帰れるようにしてやる」 「うん。……ありがと、エージ」 「エージさんだって言ってんだろ、フグ」 「いつまで引きずってんのよそれ!」
地団駄を踏むサキを鼻で笑い、エージは後ろ手にドアを閉めようとした。その手を掴み、サキはエージを引き止めた。エージの瞳に、サキの真剣な顔が映る。
「さよちーのこと、ちゃんと見ててね」
エージは目を丸くしたが、それも一瞬だった。すぐ険のある目つきに戻り、「言われるまでもねえ」とサキの手を振り払った。引き止めた仕返しか、エージは振り払った手でサキの額を小突く。
「お前こそ、小夜に迷惑かけんじゃねえぞ」 「うん、……わかってる」
サキが素直にうなずくと、エージもうなずき、今度こそドアを閉めた。ドアの向こうの廊下で、エージが話している声が反響する。小夜、と名前が聞こえた。名前だけでサキの胸に安堵が広がる。あたたかな気持ちの理由を曖昧にしたまま、サキは閉じたドアに鍵をかけた。そしてサキは、ポーズ画面にしたままのゲーム機を再び取り上げた。
昨日と変わらず、午前は退屈の一言で終わった。小夜に言われて渋々やっていたが、クリアしたゲームに周回要素はなく、ただ同じ道筋をなぞるだけだった。すでに読んだテキストを連打で送るのにも飽きたサキは、ラジオの電源を入れた。キャスターが読み上げる原稿で、今が春であることを知った。春だから何か良いことがあるわけでもない。このアパートに学生がいる気配はなく、またあの繁華街で出会った少女たちも季節休日関係なしにあの辺りでたむろしていそうだ。サキにとってラジオから流れる春の訪れを喜ぶニュースは、現れた日に拾いきれなかった情報を補足するだけのものだった。 ニュースが正午を告げる。退屈の極まったサキはラジオを拾い上げ、寝転がったままつまみをひねった。何度もひねり、ノイズの少ないチャンネルに合わせる。ノリのいい音楽と明るい男性の声が響いた。
「たくさんのメールありがとう」 「××にお住まいの**さんからリクエスト」 「今日の音楽は、……! ……!」
イントロを背景にメッセージを読み上げる男性の声。それを聞きながらぼんやり窓の外を見上げる。青空が広がっていた。サキの頭に、小夜を午後には帰すと約束したエージの声が蘇る。「まだかな」小さく呟いて、サキは幸せそうに表情をほころばせた。 しかし数曲のリクエストを流し、ヘビーローテーションを流し、CMを挟んで再びリクエスト曲を流しても、小夜が帰ってくる気配はない。正午は回っている。てっきり午後ぴったりには帰ると思っていたサキは、ほころんでいた表情を引き締め、リクエストコーナーが終わる頃には不機嫌そうに口をへの字にゆがめ、やがて次の番組が始まる頃には、寝返りを打って起き上がった。カラカラと窓を開く。窓枠をまたぎ、コンクリートがむき出しのベランダに足を乗せた。ぺたり、と素足を置く。サキは不機嫌そのものという顔で手すりを掴むと、地上を見下ろし大きく息を吸い込んだ。
「エージの大嘘つき!」
繁華街に向かって叫んでも、サキを見上げる歩行者もベランダに出て「うるさい」と怒鳴る隣人もいない。叫んでもサキはまだ気が収まらず、荒く息を吐くと眼下の歩行者を見下ろした。歩いているのは地味な色のスーツを着た大人ばかり。エージのドレッドヘアーも、小夜のボサボサ頭も、近づいてくる姿すら見えない。サキは唇を尖らせた。約束は守るものではないのか。約束を破るのは悪魔の所業ではないのか。サキはこのまま日干しになることにした。帰った小夜に心配させると決心した。ベランダに座り込み、降り注ぐ陽光をこれでもかと浴びた。風は冷たく、日差しはあたたかい。アパート前を通る人々をじっと睨み、サキは小夜の帰りを待った。
待った。 待った。 待った。
しかし小夜は帰らない。サキは一度部屋に戻り、ラジオを持ってベランダに出た。ラジオの進行役は女性になっていた。届いたメッセージを読み上げる柔らかな声に耳を傾け、サキは時間を計る。ころころと笑う声、軽快な音楽、時折合いの手のように入るチップチューン。番組を聴き終えても、小夜は帰ってこなかった。 小夜に心配をかけないと約束したばかりだが、また繁華街に出て泣きながら探させてやろうかと考えたそのとき、空っぽの部屋にチャイムが鳴り響いた。隣から響く音ではない。この部屋のチャイムが鳴らされた音だ。サキは目を丸くして振り返った。当然だが、振り返ってもドアの外にいる客は見えない。サキはラジオに耳を傾けていた時間を思い出す。ぼんやりと聞いていたが、それでもアパートに近づく人影には気を配っていた。小夜が帰ってきたら、あのドレッドヘアーが見えたら、大きな声で「遅い」と怒るためだ。部屋の外にいるのはあの二人ではない。では誰なのか。 サキは音を立てないよう、そっと部屋に入った。足音を消し、そろりと廊下へ出て、ドアの前に立つ。ドアスコープを覗いても、客の顔どころか廊下に人影があるようにも見えない。いったいなぜチャイムが鳴ったのか。サキは静かにドアチェーンをロックすると、サムターンを垂直に回した。途端、勢いよくドアが引かれチェーンが耳障りな音を立てて引っ張られる。空いた隙間から見えたのは、ランドセルを背負った二人の子供だった。
「小夜さんっ、何で交番来てくんないんだよ!」 「さよさん、あけてっ。おはなしきいてっ」
一人は頬に擦り傷のある少年、もう一人はおかっぱの少女だ。どちらも十に満たない年齢に見える。兄妹なのだろうか。少年のほうが、少女よりややしっかりした口調だ。サキは目を見開き、思わず声をかけてしまった。
「あんたたち、誰?」
子供たちがサキを見る。子供たちもまた、サキを見て目を丸くした。
「《《まひる》》だ! まひるも何で交番来ないんだよ、寂しかったんだぞ!」 「まひる、さよさんちにいたの?」
この子供たちも、小夜と同じくまひるの知り合いのようだ。サキはドアを開けたことを悔やんだ。そして小夜に叱られるのでは、とサキはぶるりと震えた。子供たちはサキの心中など知らず、「寒いのか?」と聞く。それだけでなく、まひると勘違いしているせいだろう、中に入れろとドアノブにぶらさがって乱暴に揺すりだした。古いアパートなのだ、下手をすればドアノブが壊れて子供たちも怪我をするかもしれない。サキが慌ててチェーンを外すと、二人はサキに礼も言わず、歓声を上げてなだれ込んだ。
「おいマド、くつ脱げるか?」 「ぬげるよぉ。マド、いちねんせいだもん」 「そっか。おれ三年だけどな!」
マドと呼んだ少女が靴を脱ぐのを手伝ってやり、少年は自分の靴を脱ぎ捨てランドセルを放り投げ、廊下に上がった。「すっげぇ!」とはしゃぐ少年の後ろで、マドは自分と少年の靴を揃え、ランドセルを端に置いた。サキは嵐のような来客に困り果てた。しかし自分が二人より、少なくとも外見は年上であることを思い出し、短く咳払いをした。腰に手を当て、叱るような口ぶりで二人に「あのねぇ」と声をかける。
「あんたたち、勝手に人の家に入っちゃダメでしょ。それとあたしはまひるじゃなくて、サキ。よく間違われるけど別人なの。わかった? 返事は? あと勝手に入ってごめんなさいは?」
二人は顔を見合わせると、サキを見上げ首を傾げた。
「何言ってんだよ、まひる。ばぁっかじゃねーの?」 「まひるはまひるだよ? さきじゃないよ?」 「それよりさぁ、小夜さんは? おれら小夜さんに会いに来たんだ」 「マトもね、マドもね、さよさんとおはなししたいの」
少年はマトというらしい。二人はサキが理由を尋ねるより先に、自分たちがなぜこのアパートに来たかを熱く話し始めた。
「あのな、おれらいつもみたいに小夜さんに会いに交番行ったんだ。そしたら小夜さんいなくてな、パトロール行ってんのかなーって、そのまま待ってたんだ。でも小夜さん帰ってこねーし、暗くなって交番にいたおっちゃんに家まで送られるし。そのおっちゃんに聞いたら小夜さん、キンシンチューって言ったんだ」 「キンシンチューってなぁにってきいたらね、おやすみなんだって」 「小夜さん風邪かと思ったんだけど、おっちゃんはそうじゃないっていうしな? おれら、小夜さん来るの毎日待ってたんだ。でも小夜さん来ないし、まひるも来ねえし! ずるいぞまひる! おれらだって小夜さんとこ来たかったのに!」 「まひる、ずるっこさん」
マトとマドは声をそろえてずるいずるいとサキを責め立てた。ぷっくりと頬を膨らませた可愛らしい非難の声にたじろぎながら、サキは勢いに飲まれまいといっそう語気を強くした。
「だから、あたしはまひるじゃないの。あたしはサキ。さ・き。わかる?」 「まひる、エイプリルフールはもう終わってんだぞ? わかるか?」
サキの口ぶりを真似るマトに、サキはエージのごとく青筋を浮かべそうになった。その顔を見て、マドが両手を口元に当てくすくす笑う。マトも嬉しそうに笑って、「そういうとこ」とサキを指さす。む、とサキは唇を尖らせた。それを見て、マトとマドはけらけら笑ってころんと床に転がった。サキが「何笑ってんの!」と怒っても、二人は返事もできないほど笑い転げる。
「まひるはすぐ怒るんだよなぁ」 「まひるがおこって、さよさんがダメだよって、いつもいうの」 「もっとおしとやかに! ってな」
うくく、と二人は転がったままで楽しそうに笑う。これ以上怒っても効果はないと諦め、サキはため息をついて二人の前に腰を落ち着けた。二人のきらきら輝く目がサキに向けられる。
「なぁなぁ、小夜さんここに住んでんの? 一人暮ししてんの?」 「ひとりぐらしって、ドラマみたいだね」 「だよなぁ! ケーサツしてて、一人暮しして、かっこいいな!」 「かっこいいねぇ」
二人でかっこいいと言い合いながら、マトがサキを見上げてぱたぱたと床を叩く。意味を汲み取れずサキが首を傾げると、「まひるも!」とマトは眩しい笑顔を見せた。サキも床に寝転がれ、という意味だったようだ。サキは逡巡し、すぐにマトの言うとおり床に寝転がった。二つに結われた髪が、さらりと床に広がる。サキの髪にマドが小さな手を伸ばした。結われた髪をもてあそび、「ふわふわ」と微笑む。
「まひるは、ふわふわでいいねぇ」 「そう? あんたは髪さらさらじゃん」
羨むマドに手を伸ばし、サキもマドの髪に触れる。肩の上で短く切りそろえられている髪は、重力に逆らわずマドの小さな肩に垂れている。おっとりと笑うばかりだったマドが、サキの言葉に初めて拗ねたような表情を見せた。子供らしいぷっくりとした頬を少しばかり膨らませ、愛らしく唇を尖らせる。
「マドもふわふわがよかった」 「何で? さらさらでいいじゃん。あたしこの感触好き」 「んんん、でもマドはまひるのかみがいい」
小さな手に触れられる感触にくすぐったさを覚えながら、サキはマドの髪を撫で続ける。そこへマトが「おれも!」と加わり、三人は互いをくすぐり合いながらきゃらきゃら笑い転げた。初対面のサキをまひると思い込んでいるからこんなにもじゃれ合うのだろう。だが不思議と、サキは二人に対して距離を感じなかった。こうしてじゃれ合うのが楽しくて、懐かしくて仕方なかった。 ひとしきり笑い、疲れて荒い息を吐く三人。息を整え口を開いたのは、マトだった。
「なぁなぁ、小夜さんいつ帰ってくんの?」 「んー、午後には帰るってエージが言ってた」 「エージってだれ?」
二人はエージのことは知らないようだった。ヤクザが交番に寄りつくわけがないのだから、当然だろう。「こんな顔した変な頭のやつ」とエージの目つきを真似しながら説明すると、二人はまたけらけら笑った。よく笑う子供だと呆れながら、サキは自分の口が笑みを浮かべているのを感じた。 それから三人は、小夜が戻るのを待ちながらサキが中断したゲームをしたり、ラジオから流れるニュースに勝手なコメントをしたり、ベランダに出て小夜の名前を呼んだりと賑やかに時間を過ごした。真上にあった太陽が傾き、青い空がオレンジ色に染まるまで、三人は小夜の部屋で笑い声を絶やさなかった。 小夜が帰ってきたのは、マトが面白可笑しく学校のことを話してサキとマドが笑い転げているときだった。慌ただしく階段を駆け上がる音と、飛びつくようにドアを叩く音。サキが驚いて「なに?」と声を上げると、切羽詰まった声で小夜が尋ねた。
「ここに、子供が二人来てない?」 「さよさん!」 「小夜さんだ! 小夜さんおっせーよ! おれら昼からずーっと待ってたんだぞ!」
返事はなかった。サキが急いで玄関に向かいドアを開けると、小夜は力なく壁に寄りかかっていた。サキは慌てて廊下に出て小夜を支える。サキの背後にいる二人を見た小夜は、「良かった」と震える声を絞り出した。
「良かった……|雅仁《まさひと》と、|円香《まどか》までっ……」
サキに遅れて玄関に来たマトとマドは、小夜が涙を一粒落としたのを見て体を強ばらせた。先に動いたのはマドだ。「ごめんなさい」と泣きながら小夜に抱きつく。
「ごめんなさい。マトとマド、さよさんとしゃべりたかったの。さよさんがこーばんにこなくて、さびしくて」
泣き出したマドにつられてマトも涙声になりながら、懸命に目元をこすって小夜に言い訳をする。マトはこのアパートを知るに至った経緯を語った。昨日も交番前で小夜を待っていたら、知らない男に声をかけられたと。その男は二人に何をしてるのか聞くと、小夜の家を知っていると言ったと。電車の乗り方まで紙に書いて教えられ、学校が早く終わる日にでも行くといいと。それが、今日だったのだ。小夜は顔を上げ、しがみついて泣くマドと、涙をこらえるマトの頭を優しく撫でた。
「二人に何もなくて良かったよ。でもこれからはちゃんと家に帰って、お母さんたちにどこへ行くか言ってからここに来るんだよ」 「ごめんなさい……」 「でっ、でもなっ! その兄ちゃんがなっ、内緒にしなきゃ教えないって!」 「知らない人の言うことを信じちゃいけないよ。本当に私のアパートだったから良かったけど、危ない場所だったらどうするんだい? 誘拐されたら、私に会えないどころか家にも帰れなくなるんだよ」
しゅん、と二人はしょげかえった。優しく叱る小夜の目にもう涙はない。サキが居心地の悪さを感じながら説教が終わるのを待っていると、小夜がサキを見た。びくりと背筋を伸ばし、サキは小夜の説教に備える。だが小夜は、少し寂しげに笑って「ありがとう」と礼を言った。
「二人をここで見てくれて、ありがとう」 「べ……別にぃ。あたしただ、遊んでただけだし……」 「それが良かったんだよ。二人が私を探して動き回ったら、今日中に見つけられなかったと思う。だから、サキがここにいてくれて良かった。ありがとう、サキ」
思わぬ言葉にサキはくすぐったくなり、笑えばいいのかそっぽを向けばいいのか、さっぱりわからなかった。もじもじするサキを見て、それから小夜を見て、マトとマドは首を傾げた。
「小夜さん、何でサキなんだ? まひるなのに」 「この子はまひるじゃないよ」 「まひるだよ。すぐおこるし、すぐわらうもん」 「よく似てるけど、まひるじゃないんだ。ね、サキ」
見上げる小夜の言葉に、サキはとっさに声が出ず、何度も首を縦に振ることで返事とした。二人は納得していないようだが、小夜が「この子はサキだ」と繰り返すので、渋々それを認めた。小夜はドアを大きく開け、二人にランドセルを持って外へ出るよう促す。「帰ろう」と二人を見つめるその顔は、柔らかなオレンジに照らされていた。 バスと自らの足を駆使し、小夜たちはマトとマドを自宅へと送り届けた。初めての道を大人に頼らず二人だけで歩いたせいだろう。家が見える頃には二人ともすっかり眠っていた。小夜がマトを背負い、サキがマドを抱えて運ぶ。両親たちは何度も頭を下げ、小夜に礼を言う。小夜はそれに首を振りながら、背中で眠る二人を引き渡し、来た道を引き返した。 すでに太陽は沈み、月が照っている。冷たい色の月とは反対に、あたたかな夜風が二人を包むように吹く。小夜が空を見上げた。屋根にかかる月を見て目を細める。目元に見える光は、眼鏡に反射する月光か、それとも。
「サキ」
小夜に名前を呼ばれ、サキはハッと我に返る。小夜の目元に光る粒はない。それにホッとしながら、「どうしたの」と愛らしく首を傾げる。小夜は柔和に緩め、サキに謝った。
「ごめんね、今日も約束を破って」 「いいよ。マトとマド探してたんでしょ? しょうがないじゃん」 「ありがとう。明日は約束を守るよ。きみの服を買いに行こう。きみが見たいものを見て、きみが食べたいものを食べて、きみが満足するまで、遊び尽くそう」 「うん、ありがと」 「今日は疲れただろう。早く帰ろう。バスが行ってしまっても困るしね」
手を引かれ、夜風を切って歩き出す。サキは握られた手を見つめながら、朝エージに聞いた話を思い出した。そしてマトとマドに小夜のアパートを教えた兄ちゃんとやらについて考えた。もしかして、と思った。しかし口に出せなかった。うなずかれるのも、その考えに至った理由を聞かれるのも怖かった。だが、小夜には伝わってしまったようだ。前を向いたまま、小夜は「エージに聞いたんだね」と静かに言った。
「沼上のことと、まひるのこと。エージがね、喋っちまったって、会うなりすまなそうに言ったんだ」 「聞いた……けど、何となく、想像ついてたし。あたしが教えてって、せがんだから」 「知る権利はあるよ。聞かせたくはなかったけどね」 「もいっこ、聞いていい?」 「うん。何だい?」 「マトとマドにさよちーの家教えたのは、」 「沼上だろうね」
ためらいもない答えに、サキは続ける言葉を失った。歩みが遅くなるサキの手を引き、小夜は歩き続ける。
「私が動いていることに気づいたらしくてね。あの子たちに家を教えることで、私に牽制してるつもりらしい」
これ以上沼上に関して動くと、マトとマドに危害が及ぶ。サキは二人の笑顔を思い出し、ぶるりと震えた。小夜は振り返り、「大丈夫だよ」と言い聞かせた。
「二人に手出しなんかさせないよ。エージの弟たちに頼んだし、交番に不審者情報として、伝えてあるからね」 「でも……もし、また、沼上が来たら」 「大丈夫。もうすぐ決着がつく」
また前を向き、小夜は歩幅を大きくして歩き出す。足がもつれないよう必死に歩きながら、サキは「ねえ」と小夜に呼びかける。「あのね」とサキが口を開く前に、「いらないよ」と小夜は冷たい声で遮った。
「きみには何もしてほしくない。明日も、きみはアパートにいてくれればいい。それだけで十分なんだ」 「だって……だって、さよちー」
小夜の腕を握り、サキはむりやり小夜を立ち止まらせた。サキが泣きそうな顔をしているのを見ても、小夜は冷たい声のまま、涙で揺らぐサキの瞳を見つめた。
「きみが言いたいことはわかるよ。きみをまひるの代わりにすれば、私のやりたいことはすぐにできる。でもそれじゃダメなんだよ」 「どうして? いいじゃん、あたしサキュバスだよ。まひるじゃないよ。人間でもないんだから、囮にでも何にでもすればいいじゃん。ねぇ、しちゃえばいいじゃん、そんなに苦しむくらいならさぁ!」 「きみがまひるにそっくりだからじゃないか!」
初めて、小夜が声を荒げた。住宅地に響く声にサキは口をつぐむ。肩で荒い息をしながらサキの肩を掴んだ。だが小夜は、何も言わなかった。強くサキの肩を掴んだまま、黙り込んだ。震えている手を見て、サキはうなだれる小夜を見つめる。何かをこらえる姿は朝のエージと似ていた。違うのは、その姿を見たサキの反応だった。サキは小夜の頭を優しく抱いた。
「ごめん」
抱きしめ、髪をすくように何度も撫でる。小夜は何も言わない。サキはまた謝った。
「ごめんね。あたし、まひるそっくりだもんね。嫌だよね、ごめんね、ごめん、さよちー」
サキの腕の中で小夜が微かに頭を振る。違う、と小さな声も聞こえた。それでもサキは小夜を離さなかった。
「あたしね、さよちーが苦しいのはヤなの。早く元気になってほしい。元気になってくれるなら何でもする。今は嫌だろうけど、いつか言ってね。それまではあたし、あのアパートで待ってるから」
ゆっくりと小夜の手がサキの肩から離れた。顔を上げた小夜は、今にも消えそうな顔で笑っていた。
「ありがとう、サキ。今日はもう、帰ろう」
うなずいて、今度はサキが小夜の手を取った。 通った道順を逆に思い出しながら、あの繁華街すぐそばにあるアパートへ帰るべく、サキは強く一歩を踏み出した。
4
アパートに帰り、寝支度を整えた小夜とサキはそれぞれの布団に横たわっていた。静かな部屋を、潮騒のような喧噪と月明かりが満たす。サキは部屋の静けさに耐えきれず、ゆっくりと身を起こすと小夜を呼んだ。だが小夜は動かない。サキはもう一度、小声で小夜を呼ぶ。
「ねぇ。まひるのこと聞かせて」
沈黙が二人の間に横たわる。サキが待っていると、小夜は背を向けたまま、ため息をついた。そのままサキを振り向かず、小夜はまひるとの思い出を、ぽつりぽつりと語り出した。
「初めて夜のパトロールで、補導したのがまひるだったんだ。まひるはこの辺じゃ有名な家出少女でね。行く当てもなく家を飛び出しては補導されてたらしい」
日をまたいだ深夜に、まひるはコンビニ前で一人ぽつんと寂しげに立っていた。赴任したばかりの小夜は先輩に尋ねるよりも先につい、声をかけてしまった。
「こんな時間に一人で出歩いてちゃ危ないよ。きみ、家はどこ?」
そう尋ねた小夜に、まひるは寂しげな表情から一転、キッと目をつり上げ小夜を睨んだ。
「なに? 点数稼ぎしたいの? 警察って普段ほっとくくせに、そういうときだけこっちのこと構うのね。それで? 補導すんの? 家に電話すんの? どっちでもいいからさっさとすれば?」
まひるの口まねをして、小夜はおかしそうに笑い声を漏らした。サキはどこが面白いのかさっぱりわからなかったが、小夜が楽しそうなので黙っていた。 ひとしきり笑うと、小夜はまた思い出話を続けた。
「とにかく時間が時間だから、そのときは交番に連れて行って、親御さんに連絡して迎えに来てもらった。これが、初めて私とまひるが出会った日だよ」
二度目に二人が出会ったのは、昼間のことだった。近所に住む男性や子供たちから、コンビニ前でたむろする学生が邪魔だ、怖い、どうにかしてくれ、と頼まれた。小夜と先輩警官が|件《くだん》のコンビニに行くと、訴え通り、地面に直接座り込んで歓談する複数人の高校生がいた。先輩警官が声をかけると、彼らは痛い腹があったのか、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。残ったのは、まひるただ一人だった。再び出会ったまひるを見て、小夜は苦笑してまた声をかけた。
「きみ、退屈なのかい?」
小夜がそう言うと、まひるは驚いたように目を丸くした。感情がすぐ顔に出る素直さに、小夜はまひるを放っておけないと感じてしまったらしい。 だがまひるの愛嬌ある表情はすぐに消え、眉根をぐっと寄せるとまた二人を睨みつけた。
「何も悪いことしてないじゃん。万引きもしてないし、人に怪我もさせてない。ただここでおしゃべりしてただけなのに捕まえるの? それって横暴じゃない?」
まひるの言いように、小夜の隣にいた先輩警官が「口達者な子だなぁ」と呆れたそうだ。小夜はこのとき何と返したのか、よく覚えていないと言った。だが何かを言って、まひるはそれに納得して交番まで来たらしい。親が迎えに来るのを待ちながら、二人で話をした。そのとき、小夜はまひるに退屈ならと交番に誘った。
「家出したり、一緒にいても楽しくない仲間といるくらいなら、ここにおいで。話し相手くらいにはなるし、たぶん、あの子たちといるよりは楽しいんじゃないかな」
それからまひるは本当に交番へ通うようになった。翌日から来ると思わなかった小夜が目を丸くすると、まひるは少し照れたようにそっぽを向いて言い訳をした。
「ここに来いって言ったのあんたじゃん。あたし、いつも退屈なの。あんたといれば楽しいんでしょ。だったら何か面白いこと話してよ」
まひるの生意気な言い方にサキは眉をひそめたが、自分も同じような話し方をしていたことに気づき、もっと柔らかな話し方を心がけるべきかと悩んだ。背中越しにサキが悩んでいるとも知らず、小夜は続ける。 まひるは今まで、家でも学校でも人間関係がうまくいかず居場所を求めて毎日あちこちをさまよっていた。それが小夜に出会い、交番に居場所を作ることができた。小夜たち警官と交番にやってくる人々と話したり、近所の子供たちと遊んだりと過ごすうちに、まひるは人と関わることがまた楽しくなったと小夜は言った。交番だけでなく学校もサボらずに通い、渋りながらも暗くなる前には家へ帰るようになった。そのことを、小夜は先輩警官に褒められたことがあった。面と向かってまひるに感謝されたこともあった。だが小夜は、褒められることではないと今でも思っている。
「私がまひると同じくらいの頃、してほしいと思ったことをしただけだ。話し相手になって、仕事をしていただけ。大人なら誰でもやれることだ。私は私の理想を演じた。それだけなのに、あの子は感謝してくれたんだ」
小夜とまひるが交番以外でも会うようになるまで、それほど時間はかからなかった。マトとマドも加わり、四人で公園に行って遊んだこともある。まひると二人、カフェでケーキを楽しみながら、学校生活の話に耳を傾けたこともある。 そんな穏やかな暮らしを変えるきっかけは、小夜とまひるが長いティータイムを過ごした日のことだった。その日のティータイムは昼過ぎから始まったのに、気づけば夕暮れになっていた。小夜は赤と紺の混じる空を見上げて、すっかり遅くなってしまったと苦笑した。そのまま一人で帰らせては、まひるが家に着く頃には真っ暗だろう。夜道を子供一人で歩かせることは小夜の正義に反する。小夜はまひるを家まで送り届けることにした。この日、まひるは特に落ち込んでいたわけでも、何か嫌なことがあったわけでもない。だというのに帰り道で急に小夜の手を引くと、家と反対方向に走り出した。小夜はまひるを止めきれず、手を引かれるまま走り、あの繁華街に着いた。急に走り出したことと繁華街へ来たことを咎めると、まひるは拗ねた。
「だって、あたしたち友達なのにプリクラも撮ったことないし、公園とカフェ以外で会ったこともないんだよ。たまにはいいじゃん、こういうとこ来たって!」
そう主張するまひるに、小夜はどう諭せばいいのかと悩んでしまった。小夜はまひると一滴の血もつながらない他人だ。そんな他人が未成年を連れて繁華街を歩くのは、警官云々以前に大人としてどうなのか。至極真面目なことを言う小夜に、まひるは「大丈夫だって!」と根拠もなく否定した。
「今は夜だし、知ってる人に見られてもバレないって! だから行こっ、さよちー」
まひるの強引な説得に、小夜は「正直呆れた」と言った。だがその声に本物の呆れなんてかけらもなく、内心では小夜も楽しんでいたのだろう。事実、小夜はそう語った。「興味は欠片もなかったけど」と前置きをして、あの場でまひるがどれだけ楽しそうだったか、懐かしむ声で語る。
「ゲームをすることも、プリクラを撮ることも、そんなに興味はなかったんだ。でも、サキもあの繁華街でゲームセンターや並ぶお店を見ただろう? まひるはああいう場所が好きだったんだ」
だから興味がなくとも、小夜はまひると撮影機の中に入りフレームを選んだ。その後まひるに「古い」と笑われながら、携帯電話のバッテリー蓋にシールを貼った。二人でゲームセンター内を歩き、F1カーの運転や悪の組織との銃撃戦に勤しんだ。財布の中から硬貨がすっかり消え去るほど、小夜とまひるはゲームを楽しんだ。両替機を探し、小夜はまひるをクレーンゲーム機の前で待たせた。景品を交換するためのカウンターが目の前にあり、まひるが一人でも店員の目が届くから安全だと思ったのだ。だが小夜の考えは甘かった。 両替を済ませた小夜がゲーム機を振り向くと、まひるが若い男たちに絡まれていた。その中心人物が、沼上だった。小夜は沼上の親が市会議員であることも、そうでなくとも融資であちこちに顔を利かせていることも知っていた。だが小夜は警官だった。小夜の正義感は、沼上の親のことなど気にしなかったのだ。むりやり連れて行こうとする沼上と、連れて行かれまいと抵抗するまひるとの間にするりと割って入る。
「そんな乱暴な誘い方は感心しないね」
割って入った小夜を見ても、このときの沼上は顔色一つ変えず、むしろ小夜の口調と態度を小馬鹿にして笑ったそうだ。
「何だ、王子様気取りか? 男にもてそうにないもんな。だからって女を狙わなくたっていいだろ。何ならこいつとお前、二人とも遊んでやろうか?」
まひるの手を掴んだまま笑う沼上の手に、小夜は自分の手を重ねた。そしてまひるの手から引き剥がすと、そのままひねり上げた。思いがけない攻撃に沼上は怯み、情けない声をあげ背中を丸めた。小夜は沼上の手をひねり上げたまま、冷たい目で見下ろす。
「きみのお父様はずいぶん悲しんでいらっしゃるよ。長男のきみが自分のものでもない金と権力にものを言わせてワガママ放題だから、妹にまで悪影響を及ぼさないか心配だそうだ。そろそろ長男の自覚を持った方がいいんじゃないかい?」
小夜の言葉に、沼上は小夜を睨みつけた。瞳の奥に燃え上がる炎を見ても、小夜は容赦しなかった。取り巻きがおろおろと沼上を心配し、まひるが小夜の上着を弱々しく掴んだ。「さよちー」と不安げに小夜を呼び、店員も小夜たちの様子に異変を感じてカウンター越しに窺っていた。それらの状況をゆっくりと見回し、小夜はため息をついて、放るように沼上の手を離した。沼上は口をゆがめ、小夜の名前を噛みしめるように呟いた。
「サヨか。お前の顔、覚えたからな」
取り巻きたちが息を吞む。小夜は言葉は返さず笑みを見せることで返事とし、背を向けて立ち去る沼上たちを見送った。そして、さぞ怖い思いをしただろうとまひるを振り返った。小夜の上着を掴んでいたまひるは、きらきら輝く目で小夜を見上げていた。ため息のような声が「すごかった」と呟く。小夜が口を開く前に、まひるは「すごい!」と小夜に飛びついた。
「すごい、すごい! さよちーかっこいい! 今の少女漫画のヒーローみたい!」 「ヒーローって……まぁ、警官だからね」 「さよちーが男だったら、あたしたちカップルになって映画化してるって!」 「そうかなぁ」
――輝く目で見つめられるのは、満更でもなかった。憧れてもらえるのは、こそばゆくも嬉しかった。
照れくさかったよ、と小夜は小さく付け加えた。その照れを誤魔化すように、当時の小夜はまひるを外へ連れ出した。騒がしい繁華街から離れ、今度こそまひるを家へ送り届けようとしたのだ。 夜道を歩く間、まひるは興奮していた。何度も小夜の口真似をし、沼上の手をひねり上げた動作を繰り返す。もうやめて、と小夜が頼んでも「なんで?」と無邪気に笑ってやめなかった。そのうち熱も落ち着き、まひるはくすくす笑って小夜によりかかって歩く。
「さよちーが男だったら、こっから恋とか始まってたのになぁ」 「始まらないと思うよ。きみは学生で、私は警官だ」 「わっかんないじゃん。そういう漫画あるもん!」 「私たちは漫画じゃないよ」
他愛もない『もしもの話』をして、二人は翌日からも普段通り穏やかな日々を過ごした。小夜は交番で務めに勤しみ、まひるは高校に通い、放課後や休日には遊びに出かけ、時に小夜の家に泊まった。変わらないはずの日常が崩れ去るきっかけは、二駅離れた場所にショッピングモールができたことだった。開店した翌週、まひるは交番に来ていた。オープンしたモールに、友達ではなく小夜と一緒に行きたいと頼みに来たのだ。ちょうどその時期、小夜は夜勤続きに加え、パトロール先で何度も少年たちのトラブルに巻き込まれ、上に出す報告書や始末書の処理に追われていた。すまなく思いながらも忙しいからと断っても、まひるは引き下がらなかった。むしろ忙しいと言うほど意固地になって食い下がる。困り切った小夜の顔を見たまひるは、泣きそうになっていた。
「さよちーにまでパパたちみたいなこと言われたら、あたし、どうすればいいの?」
泣きそうな声と瞳に負け、小夜はうなずいた。このことがどうして沼上に伝わったのかは今でもわからない、と小夜は言った。モールへは駅で待ち合わせをして行くことになった。小夜が夜勤明けであることをまひるなりに考え、待ち合わせ時間は午後だった。 余裕を持って家を出た小夜は、待ち合わせ時間よりも早く到着した。まひるはいつも時間ギリギリにやってくる。今日はどんな言い訳をするのか、と小夜はくすりと笑って大慌てでやってくるであろうまひるを待った。その小夜の前に現れたのは、泣きじゃくる子供だった。小夜を見上げ、親とはぐれたと訴える。小夜は子供と腕時計を見比べた。余裕を持って出た。駅員に迷子を届けても、まひるが来るまでに戻れると考え、小夜はしゃくり上げる子供の手を引いて駅に入った。
子供が泣き止まず駅前に戻るまで時間はかかったが、それも数分だ。大した時間を駅構内で過ごしたわけではない。だが小夜が待ち合わせ場所に戻ると、携帯端末が画面を下にして落ちていた。見覚えのあるケースに、知った顔が映ったシールが貼られていた。拾い上げ、画面を見るためひっくり返す。画面は割れていた。落とされて間もないのだろう。画面は電話をかける直前で操作を待っていた。表示された連絡先は、『さよちー』とあった。背筋を走る嫌な予感に、小夜はすぐさま自分の携帯電話でまひるを呼び出した。だが震えたのは拾ったばかりの携帯端末だった。続けて、まひるの家へと電話をかける。誰も出なかった。まひるの携帯端末から連絡先を呼び出し、片っ端から電話をした。誰もまひるの行方を知らなかった。ゲームセンターで沼上が吐いた捨て台詞が蘇る。小夜は走り出した。 沼上と付き合いのある素行不良の少年たちは簡単に見つかった。だが肝心の沼上が見つからなかった。小夜は少年たちに沼上の居場所を尋ねた。だが彼らは薄ら笑いを浮かべるだけで答えない。沼上が起こした暴行事件を知っている小夜は、まひるを助けるための手段は選ばなかった。少年らが知らなければ、ほかに沼上のことを知っている誰かの居場所を吐かせた。沼上が繁華街の奥にある廃工場を『舞台』と呼んで愛用していることを知ったのは、空が赤くなる頃だった。沼上の番号を手に入れて電話かけたが、どれだけコールしてもつながらない。小夜は歯がみし、繁華街へ急いだ。勤務中の先輩警官に連絡を入れ、応援を要請した。
「だけど結局、沼上を見つけることはできなかった。見つけたのは、変わり果てたまひるだけだったよ」
小夜は沼上が犯人であると主張したが、目撃者はおらず、沼上が近辺にいたという証拠すら見つけられなかった。その後の小夜の動向は、エージから聞いた通りだ。語り終えた小夜は、背中を丸めて小さくなった。声の調子は変わらないまま、小夜は「さぞや恨んでるんだろうね」と呟いた。
「あのとき迷子を放っておけば、まひるはさらわれなかった。駅員に預けてすぐ戻っていれば、沼上を引き剥がせてた。まひるは私を、恨んで怨んで死んだんだ」
小さくなった小夜の背中に、サキはぴったりと寄り添う。背中ごと抱えるように抱きしめて、「そんなことない」と小夜を慰めた。
「まひるはさよちーを恨んだりしない。だって友達だもん。さよちーが逆だったらまひるを恨むの? 恨まないでしょ? まひるだって同じに決まってるじゃん」
まひるは小夜を恨まない。恨んだりしない。唯一無二の親友がこれだけ苦しんでいるのに、どうして恨んだりできようか。サキがそう言っても、小夜はサキの頭を撫で、礼を言うだけだった。
「ありがとう。その姿で言われると、少しだけ気が楽になるよ」
――ちっとも楽になんかなってないくせに。
小夜の嘘に気づきながら、サキは小夜にしがみついたまま夜を明かした。
5
どれだけ暗い気分になろうとも、朝日は昇り一日の始まりを告げる。小夜は昨夜のことなどまるで夢だったかのように普段と変わらない様子で朝食の準備をしていた。「おはよう」と笑顔で言われ、サキも笑顔を返して必要のない朝食を食べた。 食器を片づけても、エージが来るまで時間があった。小夜に誘われ、コンビニに行くことになった。服を着替え、靴を出し、部屋を出る。外はいい天気だった。よく晴れた青空を見上げながらアパートの敷地から出ると、ブロック塀前に学生然とした格好の青年が立っていた。小夜と変わらない長身で、モデルのように塀にもたれかかりながら携帯端末の画面を見ている。その表情は優しげだ。どう見ても好青年であるこの男を見た瞬間、サキは目の前が真っ赤になった。同時に、エージの話を聞いたときとは比べものにならない黒い熱が湧き上がる。
「あんた」 「ん?」
青年は顔を上げ、サキを見た。青年の目が丸くなる。青年に掴みかかろうとしたサキはすぐさま小夜に押さえられた。小夜はサキを自分の後ろへ押しやり、自分は青年の前に立つ。
「ずいぶん早起きじゃないか、沼上章平」 「お前の顔を見に来た、とでも言えば嬉しいか? 残念だがお前の顔を見るのはついでだ。どうせあのガキ程度じゃお前の顔はゆがまないだろ?」
小夜に名前を呼ばれ、沼上は優しげな表情を消し、底意地の悪さを感じさせる笑みを浮かべた。携帯端末をポケットに入れ、沼上は小夜と向かい合う。
「昨日のガキはどうだった? ちゃんと迷わずこのボロアパートに着いたか?」 「誰かの親切な道案内のお陰でね。次からは保護者と来るよう言い聞かせたよ」 「ガキどもがまた秘密の冒険に出たら困るだろ? もう子供の《《遊び》》を邪魔してくれるなよ、熱血警官」 「学生の本分は学業じゃないか。《《遊び》》も過ぎると身を滅ぼすよ」 「時にはガス抜きも必要だろ?」
二人のやり取りの間、サキは何度も小夜の後ろから飛び出そうとした。しかし小夜にキツく手首を握られているせいで、小夜の背中から前に出られない。できることは沼上を睨みつけることだけだ。サキの視線に気づいた沼上は小夜の背後を覗き込んだ。
「まひるは確かに死んだよな? じゃなきゃお前が俺の家まで来るはずがない。なのに何でいるんだ?」 「この子を見るたびみんなそう言うけどね。その台詞、まひるが死んだことを誰より知ってるきみに言われたくないな」 「ああ、葬式にはちゃんと顔を出したからな。棺桶の中までしっかり見せてもらったさ」
のどの奥で低く笑い、沼上はサキを見下ろす。サキが犬であればそのまま噛みついただろう。だがサキは淫魔であり犬ではない。そしてサキよりも、小夜のほうが先に沼上へ手を出した。
「わざわざ顔を見に来てくれたお礼だ、私も忠告してあげよう」
シャツにしわができるほど強く胸倉を掴み、微笑を浮かべ沼上を引き寄せた。
「準備は整いつつある。あとはきみのお父様だけだ」 「親父がお前らなんかの話に乗るとは思えないが、やれるものならやってみろ」 「次にきみと会うのが楽しみだよ、沼上章平」 「次があるといいな、十朱小夜」
小夜の手を振り払い、沼上は繁華街の方角へ消えた。サキは小夜の背中に何度も拳を打ちつける。
「何で止めるの? 何で止めたの!」 「こっちが聞きたいね。どうしてきみが沼上に怒りをぶつけたがるんだ」 「あいつがあたしを殺したのよ、あいつがあたしを殺して、マトとマドまで狙って!」 「きみじゃない。きみはまひるじゃないんだよ、サキ」 「あたしがまひるじゃないならっ、何でこんなにあいつが憎いのよ!」
振り向いた小夜が、サキの手をまとめて掴む。手を掴まれてもサキはまだ暴れる。
「教えてよ。あたしがまひるじゃないなら、あたしは何なの? あたしの中でくすぶるこれは何なの!?」 「きみが言ったんじゃないか。その姿も性格も、私の願望を映したと」
だからきみはまひるじゃない、と言う小夜の顔があまりにも苦しげで、サキは手に込めた力が抜けてしまった。大人しくなったサキから手を離し、小夜はうなだれるサキの頭に手を置いた。
「ごめんね。沼上が来てびっくりしただろう? 気晴らしにもならないだろうけど、コンビニでお菓子でも買おう。雑誌や漫画も買おうか。私は、サキの笑ってる顔が好きなんだ」
頭を撫でる小夜の手を取り、サキは小さくうなずいた。うそつき、とのどまで出た言葉は飲み込んだ。あたしじゃなくて、と胸に浮かんだ言葉はむりやり沈めた。そしてサキは決意した。
――さよちーのために動こう。死んだまひるのため、マトとマドを守るため、この体を使おう。
それを誰も望まないと知りながら、サキは決意を胸に秘め、小夜と並んでコンビニへ向かった。
6
翌日からサキは準備を始めた。まずは小夜にバレずに武器を手に入れる方法を考えたが、エージに頼る以外の案は浮かばなかった。エージが来る時間を待ち、小夜が食器を洗うタイミングで「エージを迎えに行ってくる」と言って外へ出た。沼上が寄りかかっていたブロック塀を睨み、反対の塀に寄りかかる。思っていたよりも早くエージはアパートにやってきた。エージを見てすぐさまサキは姿勢を正す。サキの様子に嫌な予感を感じたのか、エージは露骨に眉をひそめ、口をゆがめた。
「何だ。小夜に言われて待ってんのか」 「思ってもない質問しないでよ。お願いしたくて待ってたの」 「いやだ」 「聞いてよ! あたし武器ほしいの。だから武器ちょーだい。簡単に使えるやつ」 「ガキにそんなもん渡すか馬鹿」
サキは目の前を素通りしてアパートに入ろうとするエージの腕を掴んで引き止めようとするが、体格差もあり力で敵うわけがない。ずるずる引きずられながら、サキは駄々っ子のようにエージに武器をねだる。
「お願いお願いお願いお願いおーねーがーい!」 「うるせえな、フグの次は抱っこちゃん人形か」
軽く腕を一振りし、エージはサキの手を振り払う。聞き入れられなかったことと自分の扱いの雑さに憤慨し、サキは地団駄を踏んで「意地悪!」と喚く。
「何でよ! いいじゃんちょーだいよ! ヤクザなんだから武器なんていっぱい持ってるでしょ! 一つくらいくれてもいいじゃない!」 「ヤクザだからおいそれと武器なんざやれねえんだよ」
エージの頑なな態度に、サキは出方を変えることにした。なぜ武器がほしいのか、なぜヤクザのエージに頼み込むのか。それは小夜のためを思ってのことなのだと。小夜が苦しむ様子をこれ以上見たくない、だから原因であり諸悪の根源である沼上を自分がこの手で葬りたいのだと。コンビニでお菓子を買うときにカッターをカゴに忍ばせたが、バレて叱られた。復讐はサキのものではなく小夜のものだからサキはアパートで待っていろと言われてしまった。しかしそれではサキの気は収まらない。自分をアパートに置いてくれている小夜への恩返しもしたい。だから武器がほしい。小夜が手を汚さなくていいように。自分が代わりに手を汚すために。 切々と、涙を交えて訴えたが、エージは非情だった。
「そこまで思い詰めるぐらい小夜に恩を感じてるようだが、だったらなおさらそんなことすんな。小夜がそんなこと望んでねえことくらい、わかるだろ」
正論にサキは口をつぐむ。さらに「余計なことしようとするな」と重ねられ、サキはむくれて唇を尖らせた。
「じゃあせめて新しいゲームちょうだい」 「ぶん殴るぞ」 「嘘でしょ女の子相手にそんなでっかいグー作るの!?」
朝から近所迷惑と怒鳴られても仕方ないほどの騒がしさに、小夜が部屋から出てきた。そしてエージに頭を掴まれているサキを見て、呆れたように吹き出す。エージの手をサキの頭から外しながら「何をしたんだい」とおかしそうに笑う顔を見て、サキは恥じらいながら「何でもない」と誤魔化した。 エージに部屋へ放り込まれ、ドアに鍵をかけられ、遠ざかる二人の足音を聞きながらサキは作戦失敗を痛感した。二人がサキに人を傷つけさせたくないと思っていることも痛いほど理解できた。だがサキは諦めなかった。一度も使っている様子を見たことはないが、包丁の一本くらいはあるはずだと台所を物色する。しかし、シンク下の収納スペースは空っぽと言っていいほど何もなかった。包丁どころか、その他の調理器具も見当たらない。あるのはケトルだけだ。道理で手料理が振る舞われないわけだ、とサキは納得した。包丁もなければカッターもない。ハサミはあるが、一つしかないものを武器に選んでは持ち出したときにバレてしまう。仕方なく、サキは食器棚を物色して見つけたフォークを選んだ。これなら数本あるうちの一本が見つからなくてもすぐにはバレないと思ったのだ。心許ない武器を床に置き、サキは知恵を絞って考え込む。
サキの頭にあったのは、包丁を隠し持って沼上を待ち伏せし、背後から刺して逃げるという通り魔を装った方法だった。しかし実際に手に入れられたのはフォーク一本のみ。これを使ってどうやってあの男を殺すか。考えても考えても、サキは確実な方法をひらめかなかった。ため息をついて立ち上がり、ともかくフォークを扱う練習をすることにした。 右手にフォークを握りしめ、三歩先に沼上がいると想像する。アパート前にやってきた沼上の顔を思い出しながら、握った右手を突き出す。手応えもない空虚な練習だが、サキは繰り返した。何度も、何度も、何度も、想像上の沼上にフォークを突き刺した。何度刺しても沼上は血の一滴も流さない。頭の中で怪我すら負わせられないのなら、現実に行動を起こしても無理だろう。サキはそう判断し、また悩んだ。
フォークでは不意を狙わないと怪我すら負わせられないだろう。では不意を狙うにはどう立ち回れば良いか。少なくとも、今のようにフォークをむき出しのまま襲いかかっては返り討ちに遭うだけだろう。フォークは隠さなくてはならない。 そこまで考えて、サキは自分が着ている服を見る。今日の服装は小夜と双子コーデだ。エージに少しでも好印象を与えようと、サキなりに考えた結果だった。しかしこの格好ではフォークを隠す場所がない。服を脱ぎ捨て新しい服を出す。今度はベルスリーブのブラウスとスキニーだ。膨らんだ袖口にフォークを隠した。当然フォークは滑り落ちる。ツインテールの片側からシュシュを外し、フォークをブラウスの下に固定した。少し強く腕を振れば、フォークが袖から飛び出す。これを落とさず掴めるよう、サキは練習を始めた。
何度か繰り返し腕を振っていると、飛び出したフォークが壁に当たってわずかなへこみができた。途端、頭に『敷金』という単語が流れ込む。突然流れ込んだ不動産情報に「何なのよ!」と怒りの声をあげつつ、小夜に迷惑をかけないよう、腕を振る力を弱めた。 そうして夕暮れには、思うタイミングでシュシュを消し、フォークを手のひらまで滑らせるという芸当ができるようになった。だが、まだ掴むまでは至らず床に落としてしまう。握るコツは何なのかを探ってるうちに、小夜が帰ってきた。バレないよう髪型をツインテールに戻し、小夜を出迎えに行く道すがら、食器棚にフォークを放り込んだ。サムターンが回りドアが開く。「おかえり!」と笑顔のサキとは反対に、「ただいま」と返した小夜の顔は暗かった。
「どうしたの、さよちー。何かやなことあったの?」 「エージに聞いたよ」
小夜の一言で、エージに何を聞いたか察することができた。「エージの口軽男」と拗ねるサキに、小夜は鍵をかけながら再度言い聞かせる。
「きみにそんなことしてほしくないんだ。何度も言ってるだろう?」
サキは反論しようとしたが、小夜に背中を押して促され、黙って部屋に戻った。殺風景な部屋で二人、向かい合って話し合う。小夜の目に怒りや呆れはない。ただ、悲しそうだった。
「きみはサキだ。まひるじゃない」 「そんなのわかってるもん。あたしはあたしだもん」 「私はサキに怪我をしてほしくないし、復讐なんて考えも捨ててほしい」 「やだ。捨てない。あたし復讐する」 「これは私の|復讐《もの》だ。きみの復讐じゃない」 「あたしはさよちーが呼び出したサキュバスだもん、あたしのものじゃなくたって、さよちーが復讐したいならあたしはあいつに復讐するの!」 「だからね……」
はぁ、と小夜がため息をつく。呆れ果てたようだ。苦笑いを浮かべ、「話が進まないじゃないか」とこめかみを押さえた。それから小夜はこんこんと説教をし始め、サキはふてくされながら就寝時間になるまで正座をし続けた。しかしサキは懲りたわけではない。小夜がエージとアパートを出れば、すぐに唯一の武器であるフォークを扱う練習に時間を費やした。沼上の顔を思い浮かべ、沼上の背格好を思い出し、何度も同じ動作を繰り返す。
何度も。 何度も。 何度も。
三日が過ぎる頃、サキはフォークをいつでも握ることができるようになった。満足げにフォークを見つめていたが、その表情は数秒の間だけだった。またすぐに引き締め、今度は突き刺す練習を始めた。フォークで突き刺せる部位はそう多くない。狙うのは目か首と決め、サキは狙った箇所へ突き立てる動作を繰り返した。 どれだけ動いても疲れは感じなかった。自分が淫魔だからだろうかと、サキは頭の片隅で考える。 淫魔であるのに淫魔の性質を求められず、契約者の願いを叶えるため人間のように振る舞う。今の自分はどれほど滑稽か。冷静ではないと自覚する頭の中をめぐる思考はやけに客観的で、サキは腕を振りながらくすくすと笑った。
小夜の目を盗んで練習し、サキは自分自身のことについて一つ発見した。体は疲れを感じない。その代わり、服を出す力――サキは魔力と呼ぶことにした――は減っていく。シュシュの出現と消失はじわじわとサキの魔力を削り、練習中、思ったタイミングより早くシュシュが消えたり、どれだけ意識してもシュシュが出てこないことがあった。日を追うごとにその頻度は増す。魔力の回復手段をサキは知らない。フォークを三回落としたら、それを目安に休憩を挟むと決めた。そうすることで魔力が回復するかはわからないが。 そうやって余計なことを考えていたせいで、フォークがサキの手のひらを素通りし床に落ちてしまった。魔力のせいではないが、これも失敗とカウントし、サキは休憩することにした。
練習をすぐ再開できるよう袖にフォークを隠しながらサキはベランダに出る。風を浴び、まだ帰らない小夜の姿を探した。辺りを見渡しても小夜がいないことに落胆し、目線をアパート前へ戻す。 アパートを囲む塀の向こうに、ちらりと赤いものが見えた。目を凝らす。その赤は、最近見た覚えがあった。赤いそれのそばに黒いものもある。サキは手すりを乗り越えた。ぺたりと素足のまま塀の上に降り立ち、アパートの敷地外に出る。
見覚えのある赤と黒。それは数日前にやってきた二人が背負っていたランドセルだった。二つのランドセルには名札がついていた。
『さいじょう まさひと』 『このみ まどか』
名札に記された名前を見るなり、サキは靴を履くのも忘れて繁華街に駆けだした。 サキは息切れのない体に初めて感謝した。繁華街に変わった様子は見られない。だがその裏に二人がいると思うと、サキは足を止めることができなかった。店と店の隙間や、繁華街から伸びる路地のすべてでマトたちの姿を探す。また、通行人を捕まえては小学生の男女二人組もしくはそれを連れた学生のような男を見なかったか尋ねた。通行人は素足で走るサキを見てぎょっとしていたが、サキは自分が素足であることも忘れていた。 沼上は繁華街近くの廃工場にいる。 廃工場は繁華街のどこかの路地を通ればたどり着く。 そこまでわかっているのに、サキは沼上の元へたどり着けない。
「沼上ぃ!」
大声で名前を呼びながら走るサキを、通行人だけでなく、立ち並ぶ店の店員たちまでも奇異の目で見た。 叫び、走り、尋ね、サキはやっと廃工場を見つけた。雑草もわずかにしか生えない荒れた土地だった。工場の壁は雨風に晒され汚れが模様のように走り、窓はガラスも残っていない。そして入口は誘うように開け放たれている。サキは錆の浮いたドアに触れないよう、そっと体を滑り込ませた。足を踏み入れた瞬間、ひやりと冷たい感触が足から這い上る。サキは自分が素足のままだったことを思い出し、スニーカーを出して探索を始めた。 工場内は薄暗く、荒れていた。大小様々な足跡があちこちにあり、どれが沼上のものかわからない。だがサキは迷わなかった。入口同様、開け放たれたドアがあるからだ。閉じられたドアが大半の中、暗がりに通じるドアが大きく口を開けている。ドアをくぐればくぐるほど沼上の悪意に踊らされている気になりながら、サキは逸る気持ちを抑え、足音を立てないよう慎重に歩いた。 誘導されたどり着いたのは、第3倉庫と書いたプレートが貼られたドアの前だ。サキはドアノブに触れ、ゆっくりとノブを回した。ドアはすんなりと開いた。これまでの暗がりとは違い、倉庫の中は弱々しくも怪しい赤みがかった灯りがついている。そして、ドアのわずかな軋みすら響くほど、倉庫内は静かだった。返事がなければいいと願いながら、サキは静かに呼びかけた。
「マト、マド。……いる?」
返事はなかった。足音を立てないようそろりと中に踏み込む。一歩、二歩、三歩と進むうちに、白い紙コップが転がっているのが見えた。オレンジ色の中身がこぼれている。オレンジの軌跡を目でたどると、目を閉じ床に倒れるマトとマドがいた。サキは目の前が赤くなるような気がした。何も言えなくなっているサキに、沼上のひそめた笑い声が高い位置から降りかかる。
「死んではないぞ。寝てるだけだ」 「あんた……あんた!」
倉庫には木製のパレットが壁沿いに積まれている。沼上はパレットの山の一つに座っていた。サキが怒りに声を震わせると、沼上は山を蹴って軽やかに着地した。
「お前までこのガキたちを大事にしてるのか? こんなガキ、他人だろ?」
沼上の靴の先がマドの頬を軽くなぞる。サキの頭に冷静な思考などなかった。あれほど練習したにもかかわらず、サキは怒りのまま地面を蹴り、フォークを握り、沼上に向かって突き出した。
「あんたなんかにはわかんないわよ!」
だが直線の動きでは沼上を驚かせることすらできず、沼上は笑ってサキの腕を捕らえた。腕を掴まれてもなおサキは前へフォークを突き出す。 力比べで沼上にも勝つことはできなかった。腕をひねられ、床に引きずり倒される。フォークを握る手を踏みにじられ、手から離れたフォークは遠くへと蹴飛ばされてしまった。それでもまだ抵抗しようとするサキに、沼上は馬乗りになって顔をしたたかに殴った。サキは痛みを感じないが、その衝撃でサキの脳裏に今と似た光景がスパークした。 暗闇の中、赤みがかった電球を遮る黒い影。覆い被さる影が、首を圧迫する。 サキは無意識に呟いていた。
「――また絞め殺すの?」 「あ?」 「あの日みたいに、また、あたしを殺すの?」
沼上は呆けた顔をしたかと思うと、邪気しかない顔で唇をゆがませた。
「はは。ああ、そうだな。それもいいな。二度もお前の死に顔を見て、あいつがどんな顔をするか見てみたい」
あれほど熱されていたサキの思考が、急激に冷えていく。サキは胸の中で、ああ、とため息をついた。
――やっぱりあたし、人間じゃない。
サキはいびつに笑う沼上に向かって、挑戦的に笑ってみせた。
「やってみれば? 一度死んだ人間が、二度目も同じ方法で死ぬのか」
サキが言い終えるのも待たず、沼上の手がサキの首を握る。交差した親指が気管を潰そうと力を加えるが、サキは息苦しさも感じない。
「ほらほらどうしたの? もっと強く絞められないの? あたし、こんなおしゃべりする余裕もあんのよ?」
ムッと機嫌を損ねた子供のような顔で、沼上はさらに力を込めた。だがサキは何も感じない。気管を塞がれても、呼吸ができなくても、サキは喋ることができた。サキは自分が今まで沼上がしてきたであろう表情と同じものを浮かべているのを感じながら、沼上を煽る。
「そんな力じゃ子供も殺せないんじゃない? 諦める? ここまでしといて手を離す? そしたらあたし、怖くて怖くてヤクザに助けを求めちゃうかも」
初めて沼上が余裕のない顔を見せた。首を絞める手を離し、サキを黙らせるため拳を握った。その拳が鈍い音を立ててサキの顔に当たる。手加減の一切ない殴打さえもサキを黙らせることはできない。サキの顔は腫れ上がる様子も、痣ができる様子もなかった。 小夜がサキに平穏を望む限り、サキは怪我をしない。 小夜がサキの無事を望む限り、サキが人間のように傷つくことはない。 サキの高笑いが倉庫に響く。
「絞め殺せないから殴り殺そうって? それとも殴って怖がらせて黙らせようとしたの? どっちにしてもこれじゃ失敗ね? あはは、かっこわるぅい」
サキにこれ以上喋らせまいと、沼上は何度も何度も拳を振り上げる。避けることすらせず殴られるまま、サキは沼上を煽った。 煽り、詰り、追い詰めた。 遊び半分の殺意が本気の殺意に変わる。拳を握るのをやめた沼上は、再びサキの首に手をかけた。今度は首を絞めるだけではない。へし折るつもりで、ちぎるつもりで、サキの首に全体重をかけた。もしも首が折られ胴体と離れてしまっても、喋ることは可能だろうか。サキは冷めた頭でそんなことを思っていた。 沼上越しの灯りに影ができた。黒い影は目に怒りの炎を輝かせている。そう見えた輝きは、眼鏡に反射した灯りだった。
――さよちー。
小さな声で呼んだ名前は、確かにこの場に存在する者の名前だった。
「きみにはがっかりだよ、沼上」
重く鈍い音が響いた。同時に、沼上がうめいてサキの上に倒れ込む。沼上の重さを邪魔だと感じる間もなく沼上は引っ張り上げられ、床に放り投げられた。仰向けに倒れた沼上に小夜が馬乗りになる。痛みにうめいた沼上は小夜を見るとまた余裕を取り戻した顔で笑った。
「誰かと思えばお前か。がっかりだって? 何の証拠もなく俺を殺人犯呼ばわりして、謹慎を食らうようなマヌケが俺にがっかり? 何様の、」
つもりだ、と沼上は続けたかったのだろう。だが続けることはできなかった。沼上の口に、黒光りする銃が突っ込まれたのだ。安全装置が解除され、沼上の体がびくりと跳ねる。小夜はあくまで冷静だと主張するように静かな声で沼上に反論した。
「謹慎なんてもう関係ないさ。私はもう、正義を執行する側じゃないんだよ」
沼上に銃を突きつけたまま、小夜は片手でサキに携帯端末を放り投げた。それでエージに連絡するよう頼む。
「使い方、わかるだろう? エージに連絡して。現場に一人だと言えばわかる」
サキがエージに連絡をしているわずかな時間で、小夜は沼上を縛り上げて無力化した。その手際の良さに、さすが警察だな、とサキはさっきまでの緊迫感を忘れ感心した。 手際が良いのはエージも同じだった。連絡して数分もたたないうちに数人のチンピラを従えて倉庫へやってきた。その中に二人、ぼんやりとだが見覚えのある顔があった。顔は腫れ上がり、手は縛られ、エージが連れているチンピラに小突き回されるようにして歩いている。沼上が目を見開いて縛られた二人を見た。沼上の驚いた顔を見て、エージがただでさえ凶悪な顔をさらに凶悪にゆがめ、鼻で笑った。
「ご自慢のトモダチだったようだが、残念だったな。場数踏んだヤクザに勝てるわけねえだろ」
エージが短く指示すると、手の空いたチンピラが沼上を立ち上がらせ、顔の腫れ上がった青年らと一緒に倉庫の外へと連れて行った。倉庫内に残ったのは、眠るマトたちと、サキら三人の五人だけになった。部下らしいチンピラが出て行ったのを確かめると、エージが大きなため息を吐き出した。
「余計なことすんなって言われてただろ、フグ」 「ちょっとマジでその呼び方やめてくんない? あたし頑張ったじゃん!」 「他人に心配かけてまでやったことは頑張ったなんて言わねえんだよ」 「何よ見てなかったくせに!」
早速ケンカになりそうな二人を、疲れ切った顔の小夜が間に入ってなだめる。「今回だけは」とサキを見逃すよう頼みながら、小夜はサキの頭を撫でる。小夜に頭を撫でられ満悦のサキを見て舌打ちをしながら、エージは床の上ですやすや眠る二人を顎でしゃくった。
「チビたちはどうする。車ならもう一台用意できるぞ」 「いや、いいよ。私とサキで家まで送るから」 「そうか」
電子音を響かせる携帯端末をポケットから出して操作しながら、エージは小夜に「無理すんなよ」と指を突きつけて倉庫から出て行った。遠ざかっていくエージの声を聞きながら、小夜はマトとマドを優しく揺り起こす。まだ寝惚け眼の二人は、小夜を見て何度も|瞬《まばた》きをする。
「あれ、さよさん……」 「さっきの兄ちゃんは?」 「もういないよ。さあ、帰ろう」
アパートでランドセルを回収し、二人を送り届けるためまたあの日の道をたどる。 バスの中、眠い目をこすりながら、マトは一生懸命小夜に沼上についていった理由とジュースまでもらったことの言い訳をしている。マドは言い訳を諦め、サキに全体重を預けてすやすやと寝ていた。小夜にマトに誘拐の危険性を説き、サキは時折目を開けサキの髪を「おひめさま」と遊ぶマドの頭を撫でた。 二人の家で小夜が話す間、サキは外で待っていた。今にも住宅街に怒声が響くのではと内心ビクビクしていたが、意外にも静かなまま話は終わり、小夜はあっさりと出てきて「帰ろうか」とサキに微笑んだ。
二人を送った帰り道。アパート方面に向かうバスに揺られながら、サキは小夜をこっそり盗み見る。 エージの前ではああ言ったが、本当は泣くほど心配してあの現場に来たのではないだろうか。だから内心ではサキのことを叱りたいのではないだろうか。 サキの目線がそう語っていたのだろう。小夜はちらちらと自分を見るサキの目を正面から捕らえた。優しい声が「ねえ、サキ」と呼ぶ。サキは姿勢を正した。
「明日、私と出かけよう」
突然の申し出だった。しかしサキに断る理由はない。声も出せないサキは、何度も何度も首を縦に振ることで返事をした。
7
翌朝の小夜はもうボサボサ頭ではなかった。きちんと化粧をして、カジュアルだが女性らしさを忘れない服装でアパートを出た。目的地はサキの強い要望から、まひるが行けなかったあのショッピングモールに決まった。オープン直後の時間帯だというのに、モールはすでに人で賑わっている。小夜は到着早々にサキの服を見に行こうとしたが、サキに強く腕を引かれ、足を止めた。サキは小夜と腕を組み、「せっかく来たんだから!」とモール内の店舗に片っ端から飛び込んだ。 雑貨屋から始まり、メンズや靴下専門店、本屋にペット用品店とサキに見境はない。サキに引っ張られて歩きながら、小夜は愉快げに笑った。
「その勢いじゃあ、フードコートも全店回ると言い出しかねないね」 「何言ってんの、全部回るに決まってるじゃん!」
サキの元気な返事にぎょっとし、小夜はサキの本気具合がわからず困ってしまった。小夜の困惑を知ってか知らずか、サキは一軒一軒を楽しそうに見て回る。サキの笑顔に小夜も次第に笑顔になり、今までサキが見た中で一番の明るい表情になっていた。 お昼までの時間をそうして過ごし、フードコートで軽食を取って二人は本命に向かった。サキはぐいぐい小夜を牽引し、気になるブランドすべてを見て回った。自分好みの服を見ながら、小夜にも普段と違うテイストの服をあてがうのを忘れない。サキがどれだけ勧めても、小夜は「可愛すぎる」と首を横に振り断固として着ようとはしなかった。サキが選んだ服を着ない代わりに、小夜はサキが「可愛い」と言った服はすべて買おうとした。そのたびサキは慌てて小夜を止めなくてはならず、うかつに服を褒めることができなくなった。そうなっても、サキも小夜も、二人でモールを歩くのが楽しくて仕方なかった。 買ってもらった服にその場で着替え、装いを新たにしたサキは小夜の腕を取るとアイスクリームショップに入った。小夜が「冷えるよ」と笑っても「平気!」と言って聞かず、愛想良く笑って注文を促す女性店員にラムレーズンを頼んだ。しょうがない、と苦笑しながら小夜もコーヒー味を頼む。
服を買った。 アイスを食べた。 おそろいの髪留めを買った。 カフェでパンケーキを分け合った。
サキはモールでのすべてに満足し、「冷えちゃったから帰ろ」と小夜にくっついた。 電車に乗ってもサキははしゃいだままで、入った店一つひとつの思い出をまくし立てるように話す。小夜が震える携帯端末を取り出そうとすると、「あとでいいじゃん!」とその手を止めてまで話した。話して、笑って、話のネタが尽きて。アパート最寄りの駅に着く頃には、サキは何か話題はないかと頭を抱えていた。小夜はサキの様子を慈しむように見ながら「降りよう」と促した。 空も町も赤く染まっている中、二人は歩いてアパートに向かった。サキは紙袋をガサガサ鳴らしながら、まだ何か話題をと悩んでいた。小夜はおかしそうに笑っている。だがサキは笑わなかった。悩みに悩んだ末、「もうダメ」と暗い顔になった。「さよちー」と悲痛な顔をするサキに、小夜は「ん?」と優しく振り向く。
「あたしね、やっぱり人間じゃなかったみたい」 「知ってるよ、最初からね」
小夜の返事に、サキは「そうじゃなくて」ともどかしそうに言葉を探す。
「あたしね、少しだけ、ほんのちょっと、思ってたの。さよちーが望んだから、あたし、生き返ったんじゃないかって。あたしはまひるなんじゃないかって。でも、でもやっぱり……そうじゃ、なかった」
うつむき、サキは足を止めた。紙袋の中には朝着ていた服を入れていた。当然、サキから離れた服は消えている。空っぽの紙袋をぎゅうと抱きしめ、サキは胸の内にもやもやとはっきりしない言葉を形にしようとする。
「あたし、さっきから気を抜いたら服みたいに消えちゃいそうなの。沼上……もう死んだんだと思う。さよちーの願い、叶っちゃった」
予想できていたのか、小夜に驚いた様子はなかった。うなずく声は、落ち着いていた。
「私が今から、きみと一緒にいたいと願っても、ここに残ってはくれないの?」 「うん、ダメ。ダメなの。あたしも一緒にいたい。だけど、だけど……」
泣きそうなサキを、小夜は強く抱きしめた。紙袋がぐしゃりと潰れる。小夜の腕に抱きしめられたサキは、もう半分以上透き通っていた。腕はサキを失うまいと強く抱いているのに、小夜の声は、サキを失うことを覚悟していた。
「きみは」
抱きしめ、愛しげに髪を撫でながら、小夜はしっかりとした声で言った。
「きみは私の、二人目の妹だよ、サキ」
ほとんど泣いている顔で、サキは「嬉しい」と小夜を抱き返した。
「さよちー、あたし本当にさよちーが大好き。だから、ちゃんと生きてね。まひるを追いかけて、死のうとしたりしないでね」
抱きしめた感触を強く残したまま、サキは淡く輝いたかと思うと、跡形もなく消えた。残ったのは潰れた紙袋だけだった。 小夜とサキの別れを待っていたかのように携帯端末が震える。小夜が通話を選ぶと、電子に変換されたエージの声が流れた。
「終わったぞ、小夜」 「こっちも、終わってしまったよ。サキが帰っちゃった」 「何だ、あのフグようやく家に帰ったか?」
エージはサキのことを人間だと思っている。小夜は否定せず「そうだよ」とうなずいた。サキは家に帰った。次はいつ会えるかわからない。 ぽつりぽつりと小夜が語ると、エージは「そうか」とうなずいた。小夜はサキが落とした紙袋を拾いながら、「雨が」と呟く。
「雨が、降ってきたんだ」 「あ? 寝ぼけてんのか。今日は全国的晴れだぞ、晴れ」 「通り雨だよ。地面が濡れてるもの」
黙り込むエージに、小夜は「ねえ」と続ける。
「今日だけは、アパートに帰りたくないんだ。泊めてくれないかな」
数秒、携帯端末から沈黙が流れる。しかし沈黙はエージの大きなため息で終わった。「歯ブラシは持って来い」と言い残し、エージは通話を切った。小夜はふふっと小さく笑うと、紙袋を丁寧に畳んで歩き出した。ぽつりぽつりと地面に水滴が落ちる。それを見つけると、小夜は空を見上げた。
「こんなに晴れているのになぁ」
流れる涙を拭いもせず、小夜は歯ブラシを求め、コンビニへとのんびり歩いた。