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骨を食む人
某月某日。某居酒屋チェーン店で忘年会が開かれた。|簾《すだれ》で仕切られた座敷を借り、総勢二十名での宴会だ。 人の声、食器が触れ合う音、スピーカーから流れる音楽。音と音の重なりで店内は騒がしい。その騒がしさに、新入りの調子っ|外《ぱず》れな歌が混じる。
「お前ぇ死んでも寺にはやらぬ、焼いて粉にして酒と飲むぅ」
べべん、と三味線の音を口真似し、何がおかしいのか新入りはけたけたと笑った。笑いながら手酌で熱燗を|注《つ》ぎ、ぐいと飲み干しまた笑う。酔っているのだ。 入社三年目にして某課に配置換えされた新入りは、酒が入ると普段の物静かさから一転、陽気な笑い上戸になる。そうなると新入りは歌ったり吟じたり、時に語ったり兎角やかましい。最初は同僚たちも付き合うのだが、酒の席で堅苦しい話に付き合いきれず、五分と立たぬうちに離れていった。今日も新入りがテーブル一台を占領し、ほかの社員はもう一台のテーブルを囲んで酒を酌み交わしていた。 新入りが全く意に介さないのは、上司のお陰である。笑い、歌い、吟じる新入りに最後まで付き合うのは、この課の長だけだった。この日も、新入りが都々逸を口ずさむのを正面で聞きながら「上手だね」と微笑んでいた。 眼鏡の奥の瞳が優しく細められるのを見て、新入りはますます調子づく。その様子を見て、上司もさらに目を細めた。いひひ、と新入りが笑う。
「課長、課長課長課長課長」 「何だい」 「お酌しやすよ」 「ありがとう。でもねぇ、まだこんなにあるんだ」
新入りと同じく、彼も日本酒を飲んでいた。新入りとの違いは、ぬる燗という点だ。「気遣ってくれてありがとう」とゆったり微笑みながら断られ、新入りは残念そうに唇を尖らせた。しかしすぐ機嫌を直し、自分のお猪口に酒を注ぐ。「骨なんてぇ」となみなみ注いだ酒を見つめ、新入りは笑う。
「骨なんて粉にしちゃったら、じゃりじゃりですよねぇ」
へらへら笑う新入りに、上司はただ笑みを向ける。照明の黄色が勝った光を受けた白髪は、定年間際の彼をさらに老け込ませて見せている。新入りは笑いながら「じゃりじゃしてんのにさぁ」と続ける。
「いっくら惚れた相手でも、粉にした骨を飲むなんて無理っすよ。きんもちわりーと思いませぇん? のどごしとかさ、舌触りとかさ、ぜぇったい良くないですって。ねぇ?」
新入りの生意気な口ぶりにも、上司の笑みは絶えることがない。穏やかに笑んだまま、上司は目を伏せ「それはね」と一口酒を含んだ。
「きみが、本物の愛を知らないだけだよ。真の愛をその身に受ければわかる。先だった愛する人を墓に入れるなんて、我が身を引き裂かれるようなものさ」
むむ、と新入りはまた唇を尖らせた。お猪口を口元に運びながら、その手でピッと上司を指す。
「んじゃあ課長は、骨飲んじゃおって思ったんすか」
不謹慎極まりない質問だ。だが上司は気を悪くする様子もなく、「思ったよ」
上司はうなずいた。「思ったとも」と力強くうなずいた。それでも新入りを見つめる目は、変わらず優しいままだった。
「だけどねぇ、やっぱり触れて、いつでも存在を感じていたいじゃないか。だから、やめたよ」
彼は先月、伴侶を亡くしたばかりだった。そのときの憔悴ぶりを、新入りはまだ覚えている。 黒々とした髪が一晩で白くなり、肌は潤いと張りをなくし、体はやつれ、立つのがようやくという様子で妻の遺影を抱えていた。式に参列した誰もが「妻の後追いをするのでは」と心配したほど、彼は妻の死を悲しんでいた。そんな彼が今も生きているのは、亡き妻との約束があるからだ。目線を下げ、胸元で輝くタイピンに視線を移す。今日のネクタイは、彼の亡き妻が選んだものだ。そしてそのネクタイをシャツに留めるピンで輝くダイヤは、彼女の遺骨でできている。輝く妻を、上司は愛しげに撫でた。
「きみが一人前になるのを、妻は楽しみにしていたよ。僕も頑張るから、早く一人前になっておくれ」
そう言ってまた新入りに目を向けた上司の顔は、驚くほど血の気が失せて見えた。
「自分が一人前になったら、課長、死んじゃうんすか」
寂しそうに、新入りはぽつりと呟く。店内の騒がしさにかき消されそうなほど小さな声だったが、向かい合っている距離の近さも相まって、上司の耳にしっかり届いていた。「どうだろうねぇ」と上司は肩を揺らす。
「自殺はするなと、妻から言われているから」
――言われてなかったら死んでるんだろうなぁ。
酔った頭で考えながら、新入りは「課長、課長」と彼を呼ぶ。「うん?」と首を傾げ返事をする彼の表情は、親が子を見るそれと似ている。
「何だい。今日はいつもより呼んでくれるねぇ」 「課長が死んだら、課長の骨、ちびっともらっていいっすか」
予想だにしなかったのだろう。骨をくれと言われ、上司は目を|瞬《しばたた》かせた。そしておかしそうに大きな声で笑った。
「構わないけど、本当に少しにしてくれよ?」
妻と同じ墓で眠りたいんだから、と上司はまだ笑う。新入りはわかってますよと頬を膨らませ、お猪口の中の酒を揺らした。ゆらゆら揺れる水面を見ながら、さて、と考える。 もらった骨をどうするか。約束を取りつけたものの、骨の行く末は決まっていない。 飲むのだろうか。 愛でるのだろうか。 そのときが来るまで本人すら答えはわからない。だが新入りは、自分は彼とは違う答えを出すのだろうと予感していた。
骨を食む人・改訂版
幼い頃から、自分の〝性〟というものに違和感があった。生まれは〝女〟なのだが、自分を〝私〟と呼ぶのは違う気がした。だからといって〝俺〟や〝僕〟も違和感がある。試しに〝おいら〟や〝あたし〟そのほかにも〝それがし〟なんてのも試してみたけれど、どれもしっくり馴染まない。 だから中学生の頃から、自分のことは〝自分〟と呼ぶようになった。髪を伸ばすのも嫌で、本当は野球部の男子のように丸刈りにしたかった。しかし親が泣いて止めるから、ベリーショートと呼ばれる長さで我慢した。三年間その髪型にしていたからか、高校生になる頃には丸刈りへの欲求も薄れ、ベリーショートでも悪くないと思うようになった。 部活は運動部だった。陸上部で長距離選手になった。特にこだわりがあったわけではないが、何もかも忘れ、走ることにだけ集中できるのが心地よかった。 心地よさは部に漂う空気のせいもあっただろう。自分のことを〝自分〟と呼んでも「体育会系だからな」と流してくれる鷹揚さはありがたかった。 中高と長距離を続け、何となくで大学へ進学してまた長距離走を続け、自分の〝性〟に対し曖昧なまま過ごしても許される日々を送っていた。 許されなくなったのは、就職活動を始めてからだ。 面接で「スカートを穿かない理由は」と尋ねられた。「化粧すらできないとはマナーがなってない」と鼻で笑われた。病院で診断でも受ければ良かっただろうかと悩む日々が増えた。「内定がもらえない」と暗い顔でうつむく友人知人たちに相談することもできず、鬱々とした気分で彼らと同じようにエントリーシートを埋め、面接へ向かう日々を繰り返した。 とある小さな企業で面接まで漕ぎ着けたときのことだ。代替わりしたばかりらしい若い社長が自ら面接に臨み、そのサイドを何らかの役員らしい壮年男性らが挟んでいた。社長は溌剌とした笑顔でこちらに質問し、今までの企業と同じようにパンツスーツである理由や化粧をしない理由を尋ねてきた。答えることすら飽きたなと頭の隅で思いながら、正直に答えた。 社長はからからと笑い、そういった〝問題〟には理解があるよと胸を張った。
「今までの面接で苦労してきただろう。だけどねぇ、僕はそういった小さな問題にはこだわらないんだ。きみがどんな問題を抱えているかなんて関係ない。きみがどれだけの能力を持っているか、どれほど我が社で働きたいと思っているかを重視するよ」
はぁそうですか、とうなずきかけたそのとき、社長の隣に座る壮年男性の一人が「社長」と声をかけた。
「彼女の個性を問題と呼ぶのは適切ではありません。何も問題ではありませんから」
批難するでもない、優しく、諭すような声だった。その男性は総務部の部長であるらしい。穏やかな声と同じ、穏やかな目。フレームの太い眼鏡は落ち着いたブラウンで、彼自身が持つ穏やかな雰囲気に知的さをプラスしている。目元や口元の皺は、重ねてきた年月がどれだけ素晴らしかったかを表している。 総務部長は「失礼しました」とこちらへ頭を下げた。年上の部下に諭され気分を害した顔の社長も、一応はこちらへ頭を下げた。 このとき生まれた感情を恋と呼ぶには、ためらいがある。しかしこの壮年男性に対して好感を持ったのは、紛れもない事実だ。 社長の中に良い印象は残らなかったと思うが、詫びのつもりかそれともほかの二人からは良い印象を持ってもらえたのだろうか。後日、内定通知書が届いた。あの総務部長と働けるのならばと、一も二もなく内定承諾書を送り返した。自分が働く先は、この企業に決まった。 それから数年が過ぎ、新人社員から若手社員へランクアップした自分は、雪がちらつく年末のある夜、総務部全員での忘年会に出席していた。 小さな企業の一つの部で執り行われる忘年会だ。参加人数は、居酒屋の小さな座敷を借りれば十分な数だった。 机は二つ。自分がいる机には、部長以外誰もいない。ほかの出席者はもう一つの机にすし詰め状態で座り、こちらとは正反対に大盛り上がりを見せている。こちらは手酌で飲む部長と、同じく手酌で飲む自分が都々逸なんかを吟じるばかりだ。
「お前ぇ、死んでぇも、寺にはやらぬぅ。焼いてぇ粉にして、酒と飲むぅ」
べべん、と口で三味線の真似をする。正面に座る部長は「情熱的だねぇ」と穏やかに微笑む。酒が入った自分は、舌が妙に滑らかになり、誰に習ったわけでもないくせに詩歌を吟じる癖がある。文学を嗜んだ者がやるならば格好もつこうが、授業で最低限を聞きかじった程度。部長以外がこの机に残らないのも納得だろう。 へへんと笑い、空になったお猪口に酒を注いでぐびりと飲んだ。
「骨なんてジャリジャリっすよね。飲んでも口に残っちゃいそうっすよねぇ」
部長は「そうだね」とうなずく。同意を示されたと思った自分は、酒の力でさらに回る舌でいらぬことを口走る。
「そもそも飲んだところで排出されちゃうじゃないすか、下から。昔の人は自分の体から垂れ流すもんを何だと思ってたんすかねぇ」
隣の机で、お局さんが眉をひそめこちらを睨んだ。夜が明ければ何てことを言い出したんだと猛烈に自省することになるのだが、今の自分に先のことを考える思考回路はない。へらへら笑い、さらに酒を呷り、不謹慎な持論を部長に聞かせる。
「残ったもんに魂は残っちゃいないんすよ。骨を砕いて飲んだって、側に置いとくってことにはならないんじゃないんすかねぇ」
自分が入社してたった数年。すでに部長の頭髪は真っ白だ。真っ白に、なってしまった。昨年奥さんを亡くされ、部長は一晩で髪を真っ白にした。人は悲しみでここまでやつれ、老いるものなのかと、驚いたものだ。 部長の奥さんとは、部長に連れられて行ったお見舞いで面識を持った。病名は忘れたが、長く入院されていたらしい。部長との会話で頻繁に名前が出たせいで、奥さんは自分に興味を持ち、会いたがった。それを部長から聞かされ、お見舞いという名目で会いに行ったのだ。 病室で出会った奥さんは、部長と同じく優しそうな人だった。部長を月とするならば、奥さんは太陽だった。ベッドの上から動けなくても、奥さんの表情や声音は明るく、鈴を転がすように笑う様は可愛らしかった。 奥さんはなぜだかこんな自分を気に入ってくれて、見舞いを口実に自分を病室へ呼んでは二人の子供のように扱い、「かわいい」と笑顔を見せてくれた。「かわいい」という言葉は嫌いだったけれど、奥さんの口から出る「かわいい」は好きだった。奥さんのことも、大好きだった。 だから、部長の気持ちを踏みにじりたいわけではない。奥さんが亡くなられたことを茶化したいわけでもない。自分の中でも未だ感情の整理がつかず、部長にどういった言葉をかけたいのかわからない。わからないまま喋ろうとして飲む酒のせいで、いらぬ方面に舌が回ってしまうのだ。 部長に嫌われたくないのに、なぜだか舌は止まらない。口調と裏腹に悪くなる顔色を見て察したのか、部長は優しく微笑んだ。
「きみはまだ、誰かを愛したことはないだろう?」
愛。愛はまだ、知らない。家族に持つような|感情《もの》ですら、真の愛かと問われればたちまちのうちに自信をなくす。自信のなさとは裏腹に、声は不遜さばかり増す。
「ないっすね。ペットすら飼ったことないっすもん」
部長は「そうなんだね」とうなずくと、愛しげにネクタイピンを撫でた。正確には、ネクタイピン上で輝く黄色みがかったダイヤモンドを撫でた。奥さんの遺骨から生まれたものだ。
「約束さえなければ、妻の骨を飲んで身を投げたかった」
穏やかな表情で放たれた台詞に、隣の机が一瞬、しんと静まり返る。すぐに賑やかになった机をちらと見て、彼らが聞き耳を立てていたことを以外に思った。部長は笑顔のまま続ける。
「理屈はね、関係ないんだ。きみにもいつかわかるよ。愛しい人を亡くしたとき、この世の摂理なんか消え去るんだ」 「んじゃあ」
自分は杯を机に置き、部長の顔を正面から見つめた。部長は優しげな微笑をたたえたまま、自分はできる精一杯の真剣な顔で、互いを見つめた。 一度深呼吸をして、自分は部長に一つお願い事をした。
「いつか気持ちがわかるかもしんないんで、部長が死んだら骨ください」 「ええ?」
部長は自分の唐突な申し出に驚いた顔をして、それから破顔した。「仕方ないなぁ」と肩を揺らして笑う顔は、一年ぶりに見る明るさが滲んでいた。
「全部はだめだよ。僕は妻と、同じ墓で眠りたいんだ」 「じゃあ半分」 「半分かぁ。せめて四分の一」 「三分の一」 「頑固だねぇ。妻そっくりだ」
そう言って楽しそうに笑った部長は、骨の三分の一を譲ると約束してくれた。 そして数ヶ月後。部長はあっさりと亡くなった。 決して自殺ではない。それだけはしないと、奥さんに約束させられていたから。 事故でもない。穏やかに眠る部長の遺体は、自宅で見つかった。 そんな年でもないが、老衰と言えるだろう。穏やかに、眠っているような顔で生命活動を停止していた。 身寄りのない部長の葬儀は、社長が喪主を務めた。もちろん、自分も参加した。部長の親類は一人もいなかったが、部長の人柄を慕う人たちが次から次へとひっきりなしに訪れた。 部長の亡骸を焼くとき、今まで黙っていた自分は、骨をくれと斎場のスタッフに申し出た。
「死んだらもらっていいって言われたんすよ」 「けど、身内でもないのに……」 「もらっていいって言われたんすよ。墓に入れる分以外、三分の一ならもらってっていいって、部長に言われたんす」
困り果てるスタッフに、社会人としてあるまじきしつこさでごねる。助けを求めあちこちへ視線を巡らすスタッフに、社長がため息交じりに頼み込んだ。
「親子のような関係だったんですよ、彼女は。墓に入れない分は砕いて処分しちゃうんでしょう? じゃあほら、ちょっとくらい渡してあげてくださいよ。何て言うんだっけ? 自宅供養でしたっけ? それですよそれ。内縁の子みたいなもんなんです、いいでしょ別に」
社長にまでそう押し切られ、スタッフは「僕の名前を出さないでくださいね」と何度も念押しして、自宅へ持ち帰ることに目を瞑ってくれた。ほかの社員が目を背ける中、持ってきていた小さな骨壺に、詰められるだけの遺骨を詰めた。 目まぐるしい早さで火葬を終え、葬儀は社長の挨拶で締めくくられた。後片付けまで手伝って、ようやく自分は部長の骨とともにアパートへ帰ることができた。 真新しい階段を上がり、ドアを開け、明かりのない我が城に入る。明かりを灯さないまま廊下を進み、リビングとベッドルームを兼ねた部屋へ入る。その中央にある机に、部長を納めた壺を置いた。 布に包まれた骨壺を、机のそばに立ったまま上から眺める。床に座り、横からぐるりと眺める。床に手をつき、下からも眺める。上下左右三六〇度から眺めて満足すると、机に顎を載せた。 ふふふん、と笑みがこぼれる。
「飲んじゃうなんてもったいないっすよ。ダイヤに変えちゃうのももったいない。ずっと、ずーっと、この部屋にいてくださいね、部長」
――ちょっとくらいなら〝私〟といてくれるでしょう?
口に出さずそう呟き、〝私〟はつんと骨壺をつついた。 部長が眠る骨壺を眺めにまにま笑う私の横顔は、クリスマスプレゼントをもらった子供よりも輝いていた。