目次
私はしがないアルバイター
1
小さい頃から本に囲まれて育ったら、活字中毒になるのも仕方ないんじゃないかな……と思う。私こと早川久美子は、読書家だった祖父に育てられ、小学生の頃にはすでに活字に飢えていた。 中学を卒業する頃には祖父の本棚の本を読破し、新たな活字を求め、高校進学とともにアルバイトを始めた。本当は本屋で働きたかったけれど、私が通う本屋は高校生を雇ってくれなかった。だから私は、コンビニバイトで本を買うための資金を稼いでいた。 バイト中ずっと考えていたのは、早く大学へ進学して、気兼ねなく本屋で働くことばかりだ。 高校卒業後すぐ本屋で働かないのかって? そうすれば社員割りが使い放題じゃないかって? それは私も考えたけれど、社会人になると活字に触れられる時間が極端に減るというのが祖父の教えだった。社会に出るまでの猶予はできるだけ長い方がいいと言って、祖父は私が進学できるよう、できるだけのサポートをしてくれた。お陰で念願叶い、高校卒業後すぐ私は大学生になれた。家から通える範囲で一番蔵書の多い大学なんて条件だったから、一浪する覚悟はしていた。ストレート合格できたのは、教員免許を持つ祖父のお陰だ。お礼は袴姿と卒業証書と言われたので、見せられるように頑張らないと。 さて望み通り大学生になった私は、友達と喜びを分かち合うのもそこそこに、履歴書を持ってあの本屋へ駆け込んだ。面接希望の電話を受けて待っていてくれた店長は、苦笑いを浮かべ私を採用してくれた。
「噂には聞いてたけどね。きみ、本当にこんな小さい頃から今までここに通ってたんだってね」 「このポイントカードが証拠です!」 「うん、そうだね。じゃあ明日から早速お願いしようか」 「お願いします!」
小さい頃から通っていたから、本屋の店員さんが細かい事務作業から力仕事まで幅広い業務を担っているのは知っていた。けれど、知識と経験は別だ。あっという間の一年だった。腰痛や腱鞘炎などで辞めるパートタイマーやアルバイターを何人も見送って、それでも私はここに残った。 大学生活初めての冬を越え、二度目の春を迎え一ヶ月が過ぎた頃だっただろうか。夜シフトにも入るようになった私に「頼もしいね」と笑いかけたのは、店長だった。レジに立つ私の隣で、優しげに下がった目尻をさらに下げながら、店長は私を褒めちぎった。
「一年もここにいてくれたんだ、早川さんももう一人前扱いしないと失礼だね」 「そんな、私なんてまだまだ……」 「いやいや、きみももう立派な戦力だよ。仕事はどれもしっかり覚えてくれたし、その知識を継承していく立場になる頃だ」 「そ、そうですか?」 「うんうん、そうだよ」 「そうでしょうか……。じゃあ、頑張ります」 「早川さんならうなずいてくれると思ってたよ。それじゃあ今日から、《《新人君》》の教育を頼むよ」 「えっ?」
突然投げかけられた新人教育に、私は素っ頓狂な声しか上げられなかった。店長は構わず、私の肩をぽんぽんと叩く。
「有田君っていうんだ。ほかの社員たちも手を焼いててね。早川さんでダメなら辞めてもらうから」 「えっ⁉」 「じゃあ、よろしく」 「ええ~……」
責任重大であることをほのめかす店長に断りを入れることもできず、翌日、私は採用から半月らしい有田君と引き合わされた。 有田君を一言で表すならば……怖い。何が怖いか。一番は彼の目だろう。三白眼を越えて四白眼と呼ぶべき、白目がちの目。顔に浮かぶ表情の無さも加わり、何を考えているか全くわからない。次にピアス。片手で足りない数のピアスが耳たぶを、そして耳殻をも貫いている。染めているにしてはきれいな金髪とパステルグリーンのパーカーは、アンバランスでありながら彼の肌の黒さを際立たせている。さらには彼の背丈は私より頭一つ分高いものだから、圧迫感が凄まじい。 無表情で、眼力が強くて、何を考えているかわからないのに、ピアスの数は夥しく、髪の色は異様に明るく、服装はストリート系。 異様で、怖い。救いは彼の性格が大人しいことだろうか。大人しいと表すのも正しくない。彼はほとんど話さない。無口という言葉は彼のためと言ってもいいだろう。彼の口から出た言葉は、私の聞いた限りでは二言だけ。
「マジすか」 「ヤバいっすね」
有田君の首は私にかかっていると思うと、頭の痛い話だった。彼の教育係に任命されて、二人一緒のシフトに入るようになって、一ヶ月が過ぎた頃だっただろうか。その日は彼も有田君も、学校帰りから閉店までの夜シフトに入っていた。雑誌の入れ替えを任された私たちは手分けして本棚を右往左往していたのだけれど。
「なぁ、なぁ、おい、姉ちゃんって」
声をかけられ、私だけでなく有田君まで手を止めた。声をかけてきたのは中年男性だ。酒臭さを感じないのが不思議なくらい、目が据わった人だった。
「あのよ、ちょっと探してほしい本があんだけどよ」 「どんな本で、わきゃあ⁉」
静かな本屋にあるまじき奇声を発してしまったけれど、許してほしい。何せ、いきなり、ノーモーションで、突然、尻を掴まれたのだから。予想だにしない行動に思考がフリーズする。何をされたかは理解できた。けれどそこからどう対処すればいいかわからない。声もなく口を開閉する私に、中年男性は下卑た笑みを向ける。すぐそばにいた有田君はと言うと――。
「セクハラ」
私の前で初めて「マジすか」「ヤバいっすね」以外の言葉を発し、中年男性の手首を掴んでいた。中年男性は「おわっ」と野太い声を上げ、尻を掴んでいた手を広げた。しかし、有田君は中年男性の手を離さない。 顔色一つ変えないけれど、手には満身の力が込められているようだ。中年男性の手首から先が、見る見るうちにどす黒い青に変わっていく。中年男性が「痛い」「離せ」と喚いても、有田君は手を離さないし眉一つ動かさない。ただ、もう片手で天井を指さした。
「カメラ、回ってるんで」
浅黒い指が指し示すのは、防犯カメラだ。そういえば、あったっけ。店員である自分でも意識していなかったものを、有田君は覚えていた。そしてそれに証拠があるぞと、この中年男性に伝えている。
「早川さん」
今日は有田君の初めてだらけだなぁと思いつつ、ひっくり返った声で「はいっ」と返事をする。四白眼が、私をじっと見つめている。
「店長さん、呼ばなくていいんすか」 「えっあっ、あえっ? そうだねっ? よ、呼ぶね!」
中年男性は、もう何も言わない。血の気がなくなった手は白くなっている。私が店長を呼ぶまで、有田君は手を離さないだろう。 店長をここに呼ぶよりこの人を店長のところへ連れていった方がいいに決まってる。けれどパニックに陥っていた私は、有田君に言われるがまま、バックヤードでポップ作成に頭を悩ませている店長を呼びに走った。顔色を変えた店長に心配され、それから大急ぎでフロアに入った店長を見送り、私は呆然とバックヤードに残った。その結果を言うと、中年男性は店長によって事務室へ連れて行かれ、私と有田君は休憩を与えられた。
「後で話を聞かせてもらうけど、それまで休憩しててね」
スタッフルームに、私と有田君がぽつんと残される。私物はロッカールームにあるから、携帯電話で家族や友達に連絡を取ることもできない。手持ち無沙汰だなと思った瞬間、有田君にお礼の一言も言っていないことに気づいた。慌てて姿勢を正し、長机の正面に座る有田君に向き直った。
「あ、あの……ありがとう、有田君」
有田君は黙ってうなずいた。かと思うと扉をちょいと指差し、いつもの平坦な声で「ヤバいっすね」と言った。本当に、いつもと変わらない声だった。痴漢の現場を押さえた誇らしさなんて微塵もなく、恩に着せるような様子も欠片すらない。短い一言に込められていたのは、ただただ、事実だけだった。なぜだか私はその声に、態度に安心して、涙をこぼしてしまった。 いつも無表情な有田君が、ぎょっと目を見開いた。申し訳なくて涙を止めようとしたけれど、止めようと思って止まるものでもない。「ごめんね」と「ありがとう」を繰り返しながら目元を拭う私に、有田君はちょっと困った顔をしたかと思うと、パーカーのポケットで何かを探した。
「ん」
短い言葉とともに差し出されたのは、オレンジ色の飴。私が好きなメーカーの、好きな味だった。思わず「あ」と声が出る。
「それ、私の好きな味」
差し出された飴は、微動だにしない。目元を拭う手を止め、恐る恐る、有田君に手のひらを見せた。オレンジの飴玉は、ころんと私の手のひらに転がった。
「知ってる」
有田君がそう言った――ような気がした。言い切れないのは、スタッフルームにバイト仲間のテンさんが駆け込んできたからだ。
「グミちゃん、だいじょぶ⁉」
変なあだ名をつけるのが好きなテンさんは、私をグミちゃんと呼ぶ。そして、テンさんは声が大きい。私を心配するテンさんの声にかき消され、有田君が何と言ったのかは聞き取れなかった。有田君に「何て言ったの?」と聞き返しても、有田君は軽く肩を竦めるだけ。気のせいかなと首を傾げながら、私に痴漢した中年男性への怒りを露わにするテンさんを落ち着けるため、私は愛想笑いを浮かべた。
2
そうして有田君に助けられて、目の前で泣いてしまって、気まずい数日を過ごしてから、私は有田君に対して気安さを感じるようになった。何て単純なと思われるだろうが、実は自分でもそう思っている。こういう心理現象を何て言うんだったっけ……と講義の内容を思い出そうとしながら、私は有田君とスタッフルームに入った。 その日は日曜の午後。私と有田君は、昼のシフトだった。返本作業が一段落し、ようやく休憩を得た私たちは、スタッフルームに入るなり定位置に腰掛けた。有田君はいつも通り無表情だけれど、それなりに疲れているようで、いつもより背もたれにもたれる角度が深い。私はと言えば、長机にだらしなく突っ伏していた。
「疲れたねぇ、有田君」
ひんやり冷たい机に頬を押しつけながら見上げると、有田君がこくりとうなずくのが見えた。大好きな本に携われるだけで幸せだ。けれど、疲れるかどうかはまた別問題。水分補給もせず、私たちは机と椅子に体を預けながら、だらだらと世間話に花を咲かせた。話すのは私だけでも、世間話の花は咲くのだ。
「サークルの先輩なんだけどね」
有田君は返事こそしないものの、ちゃんとこっちを見て、うんうんとうなずいてくれる。その上、話した内容を誰かに言いふらしたりしない。だから私は王様の秘密を地面の穴に打ち明ける床屋よろしく、誰にも言えない愚痴を有田君にこぼすのだ。
「私のサークル、文系なんだけどさ……飲み会とか、多いんだぁ。一人の先輩が仕切ってるっていうか、言い出すからっていうか……」
入学案内や入学前に調べた情報では、大人しいサークルだった。しかし入ってみると、文学は酒と煙草でできていると言って聞かない先輩がいて、その人のせいでやたらとお酒や煙草を勧められるようになってしまった。純粋に文学が好きで入った友達のうち、何人かはこの先輩に辟易してサークルを辞めてしまった。
「その人さえいなかったらね、たぶん、みんな普通なんだよ。でもね、その先輩……井上さんっていうんだけど。その人、いろいろ繋がりの多い人らしくって。過去問を融通してもらったり割のいいバイト先紹介してもらったり、恩を売ってもらってる人が多いんだって」
ため息が出る。私はただ、本が好きな人と語らいたいだけなのに。
「井上さん、病気か怪我で入院でもしないかな……」
ため息とともに物騒な発言をしてしまった。慌てて起き上がると、有田君はいつもと変わらない無表情で私をじっと見ていた。 何を考えているかわからない、無表情。見つめられているはずなのに、私を通り越して別のところを見ているような目。 同じ人間なのにどこか違う生き物のように感じさせられる視線に、私は乾いた笑いを漏らした。
「あ……あはは。だめだよね、そんなこと言っちゃ。井上さんのお陰で試験通ったって人もいるし、見ようによっては面倒見のいい人だよね。自分がお世話になったことないからって、こんなこと言っちゃ、だめだよね……」
段々と、声が小さくなっていくのがわかった。有田君の感情が全く見えない目が、顔が、私だけを見ている。次第に有田君の視線に耐えられなくなり、私はゆっくり顔を伏せた。 全神経が耳に集中する。有田君に非難されたらどうしよう。非難されても仕方ない発言だったけど、有田君の口から聞いたらショックで泣いちゃいそうだなぁ。静かなスタッフルームに、私と有田君の呼吸だけがやけに大きく響く。衣擦れの音がして、有田君が身動いだのがわかった。そして少し、息を吸う音。何か言われる――と身構えたとき、廊下から元気のいい足音が聞こえた。そして間を置かず、勢いよくドアを開ける音も。
「聞いてよグミちゃん!」
スタッフルームに駆け込んできたのは、パートのテンさんだ。顔を上げると、憤慨した様子のテンさんが腰に手を当て今にも愚痴を言いたげなポーズを取っている。正面に座る有田君を横目で見ると、有田君の目は、テンさんに向けられていた。私から目を逸らされたことに安堵を覚えつつ、すでに有田君の隣に座って私に向かって「聞いて!」と怒るテンさんに、「どうしました」と引きつった笑みを向けた。
3
この日のことをすっかり忘れる頃には、季節は移ろい、冬になっていた。 今日も有田君と同じシフトだなぁと思っていた冬のある日。私はサークルに残った友達から、井上さんが怪我で入院したと告げられた。一人で飲み歩いた夜、通り魔に遭ったらしい。バットで殴られた井上さんは、今のところ全治三ヶ月だとか。怪我を心配するよりも先に「しばらく井上さんと会わなくていいのかな」と思ってしまった私は、どうしようもない。そのせいで思い出したのは、有田君にこぼした愚痴だ。
『井上さん、病気か怪我で入院でもしないかな……』
古くから「人を呪わば穴二つ」という言葉がある。私が井上さんに対しあんなことを思ったから、井上さんは本当に怪我をしてしまったんだろうか。だとしたら、私は井上さんを呪ったことになるんだろうか。であれば、井上さんの怪我は私のせいだろうか。青ざめる私を友達が心配する。私は「大丈夫」とだけ返して、この日、授業を終えて早々に井上さんの入院先へ向かった。しかし冷たく面会謝絶と告げられ、お見舞いすることすら叶わない。急いで買った花とフルーツを手に、とぼとぼとバイト先である本屋へ向かった。
「私が、悪いのかなぁ」
スタッフルームで有田君と二人きりになるなり、私は震える声で呟いた。尋ねた、つもりでもない。有田君から返事があるなんて思っていない。求めてもいない。黙りこくる有田君に、井上さんの怪我の程度や入院、そして面会謝絶についてぽつぽつと語る。話し終えても、有田君は何も言わない。私はため息をつき、机に突っ伏した。 身動ぐ微かな音と、ビニールが触れ合うカサカサした音が耳につく。硬い音と同時に、いつかと同じ飴が目の前に置かれた。私の好きなメーカーの、好きな味。起き上がると同時に、有田君の声が聞こえた。
「早川さんが悪いわけ、ない」
いつも通り、平坦な声。焦ったりだとか、怒ったりだとか、そういう感情がうかがえない声。だけどこっちの情緒が不安定なときに聞くと、妙に落ち着く声。 有田君はもう一つ飴を取り出して、私に押しやった。有田君、この飴好きなのかな。
「もらっていいの?」
有田君がいつものように無言でうなずく。けれど今日の有田君はうっすら、本当にうっすらと、笑っていた。有田君も笑うんだ……そんな風に思って見つめていて、有田君の口元に気づいた。
「有田君、口にもピアス穴開けたんだね」
耳だけだったピアスが、口にも増えている。私が指摘すると、有田君は笑みを消していつもの有田君に戻った。しかし、まだいつも通りとは言えない。それは口ピアスのせいじゃない。 いつもまっすぐ私を見る有田君が、気まずそうに目を逸らしている。 触れてほしくない話だったのかと思い、私は慌てて話題を逸らした。
「あっそっ、それより! そろそろ、休憩終わろっか! ごめんね、暗い話なんかしちゃって! 返本作業だよね、次は! 行こう、有田君!」
立ち上がり、有田君をバックヤードへ連れて行くべくパーカーの裾を掴む。有田君の四白眼が、大きく見開かれた。それを見て、私は自分が何をしたか思い知り、「ごめん!」と謝って掴んだばかりのパーカーを離した。有田君は無言だ。 私は耳まで熱くなるのを感じながら、「ごめんね」を繰り返し、スタッフルームのドアを開けた。
「ごめんね、もう引っ張ったりしないから! と、とり、とりあえず、行こ!」
無表情に戻った有田君が、こくんとうなずく。立ち上がった有田君が、私が開けたドアをくぐり、フロアへ続く廊下へ出る。このとき有田君の耳がうっすら赤くなっていたのだけれど、私はそれに気づかないまま、スタッフルームの扉を閉めた。
俺はしがない……
1
俺こと有田|大夢《ひろむ》は、親に半分放置され、何となく生きてきた。 父親譲りらしい浅黒い肌と四白眼、母親譲りの金髪と上背のせいで、周りから奇異の目で見られる機会には事欠かなかった。
|金《かね》という概念を理解するようになった頃から、母親が家に男を連れ込むたびに追い出されるようになった。片手には青いお|札《さつ》が一枚。これはまだ運がいい。ひどいときには茶色の硬貨数枚しか持たせてもらえなかった。 夏ならば外に放り出されてもどうにかなるが、冬は厳しい。それでも俺は死なずに小学校を卒業し、中学生になった。俺の背丈が伸びるのと反比例して、家にいられる時間は減っていった。
中学三年の秋だった。母親が男と旅行に出た。知ったのは放課後、帰宅してすぐのことだ。俺の手には前日持たされた、青みがかったくしゃくしゃのお札が二枚。何日で母親が帰ってくるかわかれば空腹も耐えられるが、先の見えない飢餓は耐えがたい。二枚のお札でどう食い繋いでいこうか。 悩みながら長屋前の公園ベンチに座り、行き交う人を眺めていたら、高そうな制服――後になって知ったが、俺が通えそうもない私立高校のものだった――を着込んだ男子が数人、気弱そうな男子一人を囲むように連れてきた。俺が見ている目の前で、制服の男子が中心にいる気弱そうな男子を小突き始めた。どうやら俺がいることに気づかなかったようで、気弱そうな男子がうずくまった頃、一人が俺を指さした。 とりわけ性格の悪そうな奴が、俺に近づいてくる。
「何見てんだよ」
何をと聞かれれば、見ているものは一つ。目の前で始まった暴行事件の現場だ。だが当時の俺にそんな語彙力もコミュニケーション能力もなく、ただ黙って、意地の悪そうな吊り目を見ていた。 吊り目の男子が、その長い足で俺の脇腹を蹴りつけた。俺の母親はろくでもない人間でまともな教育なんか一つも施さなかったが、いくつか役立つことは教えてくれた。
『やられたらやり返せ』 『殴られたら相手をとことん殴れ』
この二つのお陰で、俺は小学校でも中学校でもいじめの対象にならなかった。 蹴りつけてきた足を掴み、地面へ倒す。吊り目の男子は強かに頭を打ちつけたが、知ったことじゃない。まずはと馬乗りになったところで、邪魔が入った。ほかの連中が、あの気弱そうな男子でなく俺をターゲットにしたせいだ。小学生の頃はリーダー格一人を相手にすればどうにかなったが、相手が高校生ともなれば、そうもいかないものらしい。袋叩きに遭った俺はどうにか逃げ出し、追いかけられては殴られ、殴り返して逃げ回った。 何とか一人ずつ相手にできないかと身を潜めたのが、この学区に一つしかない高校、そのそばにあるコンビニだった。このコンビニのいいところは、すぐ近くに交番があるところだ。あいつらも交番の目と鼻の先で俺を袋叩きにしないだろう。かといっていつまでもここにいるわけにもいかないが。 さてどうするかと考える俺の耳に、誰かの驚いた声が聞こえた。
「わぁ、びっくりした」
振り向くと、裏口から出てきた店員が立っていた。羨ましくて仕方ない黒髪に、俺とは正反対の白い肌。どんぐりのような大きくて丸い目は、俺を見てさらに丸くなっている。
「あれ、怪我してる? え、きみ怪我してるよね? わぁ大変、入って入って!」
裏口に隠れていた俺を怪しむこともせず、その人は躊躇なく俺の手を取ると、コンビニの中へ引っ張り込んだ。 母親から「お巡りを見たら隠れろ」と言われ育った俺は、生まれてこの方、このコンビニを利用したことはない。そもそも、少ない金で食べ物を得るに向かない店だ。コンビニの中ってこんな風になってんだなと、怪我の痛みも忘れて見回した。俺の手を引いた店員は、胸に『早川』と書かれた名札をつけていた。 案内されたのは、畳の敷かれた小さい部屋だ。真ん中には丸くて小さな机。これを卓袱台と呼ぶなんて、当時の俺は知らなかった。
コンビニ店員の早川は、俺を座らせると「店長」と店内へ駆け戻った。しばらくして戻ってきたのは、店員の早川だけだった。店員早川の手には、消毒液とガーゼがある。早川は丁寧に、俺の傷を消毒してくれた。時折触れる手は、ひんやりと冷たく、熱を持った部位に心地よかった。 一通り手当てし終えると、早川は満足げに俺の顔や腕に貼られたガーゼを眺めた。「見様見真似でも何とかなるね!」と誇らしげな顔で胸を張る早川に何と返せばいいかわからず、俺は黙りこくっていた。 静かな和室に、俺の腹の音が響き渡る。走り回ったせいで余計に腹が減ったらしい。早川のは丸い目がきょとんとして俺を見つめる。俺は黙ったままでいた。早川は少し悩むような素振りを見せると、「待ってて」と残し部屋を出て行った。 今度は、人を連れてきた。白髪頭の皺の多い男は店長のようだ。俺を見てぎょっとした店長は、「困るよ」と早川を見た。
「店員でもないのに入れちゃだめだよ、くみちゃん」 「でも店長、この子怪我してたんですよ。まだ中学生なのにこんな怪我ですよ」 「そこの交番に連れてってあげれば良かったじゃない」 「お腹も空いてるみたいなんです」 「じゃあ表から入ってもらって。好きなの買ってくれればいいから」
買うことはできない。俺に残された金は、頼りないお札が二枚だけだ。やいのやいのと言い合う二人に、俺は首を振った。
「金、ないんで」
店長が明らかに嫌そうな顔をした。早川は眉を八の字にして、「どうして?」と尋ねた。今日はよく喋らされる日だ。しかし、答えなければしつこく話しかけられる気がする。短く「親が出ていった」と答えると、早川は何を勘違いしたのか、棘でも刺さったような顔をした。どう勘違いしたか確かめてみたい気もしたが、面倒なので黙っていた。早川は勢いよく店長を見上げた。
「店長、この子にお弁当あげましょう!」 「だめ」
早川の勢いに反し、店長は静かに――というよりとてつもなく嫌そうに――却下した。すげない返事にも早川はめげない。「でも!」と力強く店長に食い下がる。
「今日中なら食べられるのに捨てるじゃないですか。そういうの、もったいなくないですか?」 「そういうのはだめって決まってるからね」 「じゃあ私が買います。それならいいですよね? 今手持ちないんで、時給から引いてください!」 「ああもう、わかったわかった! 大学のために金貯めてるんじゃなかった? 無駄なお金使うんじゃないよ!」
シャツを掴んで、文字通り食いつきそうなほどの勢いに、店長が根負けした。「好きにしなさい」と言い残し、ため息をついて和室から出て行った。その背中に、早川が「店長ありがとう!」と元気な声で礼を言う。店長は肩を落とすだけだった。早川は声を潜め「こっち」と俺を呼ぶと、廃棄する弁当などが置かれるスペースに俺を連れて行った。
「これは今日中なら大丈夫。あ、こっちは昨日だからだめだね。あれ、意外とダメなの多いね……」
食べられるものを袋に詰めると、早川はそこそこ膨らんだ袋を俺に持たせた。そしてまた潜めた声で「こっちこっち!」と俺の手を引き、裏口へ案内した。裏口から表へ回ると、さっきの店長が入り口そばのゴミ箱から袋を取り出していた。早川の大きな声が「店長!」と元気よく呼ぶ。
「お金、ちゃんと払いますから!」 「わかったから声は小さく!」
ぴしりと叱られ、早川はしゅんとしょげながら俺の背中を押してコンビニから離れた。辺りをきょろきょろと見回してみたが、俺を追いかけてきたあいつらの姿はなかった。それもそうか、と暗くなった空を見て納得する。すでに日も暮れ、月が出ている。店員早川は俺から手を離すと、「じゃあね」と笑顔を見せた。
手に持つ重みで思い出すのは、小学三年の夏だ。あのときも、母親が帰ってこなかった。しかも金も残さずにだ。腹が減ってしょうがなかった俺は、スーパーで食傷を調達しようとした。包み隠さず言えば、万引きをしようとした。 当然、失敗に終わった。見知らぬおっさんに「ボウズ」と手を掴まれ、現場を押さえられた。あのときのおっさんも、俺に代わって金を出した。そして金を出して買った食べ物を、俺に持たせた。あのときのおっさんは、何と言っていたか。
「何かしてもらったら礼を言えよ、ボウズ」
俺の頭を撫でたあの大きな手。見上げるほど大きかったおっさんの、静かな声。十数年生きてきて、誰かに礼を言うのは二回目になる。
「飯……買ってくれて、ありがとう。早川……さん」
礼を言うのに相手を呼び捨ては失礼であることくらい、俺にもわかる。慣れない言葉に慣れない敬称は、舌がもつれそうになった。口にして初めて、気恥ずかしさと気まずさを感じる。礼を言われた本人は、きょとんとしていたかと思うと肩を竦めて照れくさそうに笑った。
「困ってるときはお互い様! 何かあったらまたおいでね」
手を振り笑う姿は、夜だというのに輝いて見えた。その日から俺は、早川《《さん》》に恩返しをすべく機会を窺った。
あるときは、離れた交番近くから、コンビニで働く早川さんの様子を窺った。コンビニに入る早川さんを見ていて、早川さんが通う高校を知れた。 あるときは、バイト上がりの早川さんの後をつけて、家に帰るために使うバス停を調べた。早川さんが帰る時間はいつも暗く、変な奴に狙われないか心配になった。 あるときは、早川さんが使うバス停近くに佇んで、早川さんが何曜日の何時にバイトに入るか調べた。土日は早川さんが来ないと知り、月曜日が待ち遠しくなった。 何日か食事を抜いて貯めた金で、バスに乗った早川さんがどこで降りてどの家に帰るのかを調べた。俺が住む古い長屋と違い、早川さんは庭付きの一戸建てに住んでいた。優しい人は金を持ってるから優しいんじゃないかという俺の持論は、早川さんの存在で証明された。
ここまでしておいて、あれ以来、俺は一度も早川さんと話していない。あのコンビニに足を踏み入れてもいない。コンビニで使えるほどの金はもらえないし、早川さんに頼るのも嫌だった。早川さんに金のない俺を見てほしくなかった。 客として会えないならせめて、後輩として早川さんに会いたかった。同じ高校へ行けば会えるだろうか。もう一度礼を言って、その後は普通に、対等な立場で話せるだろうか。 しかしそれにはいくつもの壁が立ち塞がる。一番の壁は俺の頭の悪さだ。早川さんが通う高校は偏差値が高い。俺の頭じゃ、到底合格できない。確か早川さんは、大学に行くとか何とか、店長が言っていた。今から死ぬ気で勉強すれば、大学に行けるだろうか。同じ大学に行けたら、早川さんと正面から会えるだろうか。言葉を、交わせるだろうか。
そんな夢を見ながら、俺は地域で最も偏差値の低い高校へ進学した。こんな高校でも、一人くらいは頭のいい奴がいるだろう。せめて、クラスで一番の奴。そいつに頼んで勉強を教えてもらおうと、俺はクラスメイトの観察を始めた。 頭のいい奴は、すぐに見つかった。クラスで唯一、動きが違う奴。クラスで唯一、高そうなニットを制服の下に着込んでる奴。名前も知らないそいつにどう声をかけるか悩みつつ、俺はそいつをただ見るだけの日々を過ごした。
「なあ」
悩んでる俺に、向こうから声をかけてきた。意地の悪そうな吊り目。ニヤニヤ笑う顔。明らかに染めているであろう茶色い髪は肩の上まで伸ばされている。 そいつは俺の机に腰掛け見下ろしてきた。
「お前さ、何で俺のことそんな見てんの?」 「勉強が、できそうだから」 「は?」
茶髪は、虚を突かれたような顔で俺を見た。聞こえなかったのか、それとも意味が通じなかったのか。判断できなかった俺は、茶髪を見ていた理由を重ねて答えた。
「塾に通う金がない。だから教えてくれそうな、頭のいい奴を探してる」 「それが俺って? このバカ校に来てんのに?」
うなずくと、茶髪は盛大に笑いだした。
「マジかよウケる。何か|眼《ガン》つけてくんな~と思ったら、理由それかよ!」
正直に理由を打ち明けて、こんなに笑われるとは思わなかった。反応に困っていると、茶髪はさらい笑い転げた。
「無表情クンそんな顔できんのかよ! 腹痛ぇわ!」
ひとしきり笑うと、茶髪は俺の机から降りて、空いた椅子を引き寄せ座った。長い足を組み、そこに肘を載せ、茶髪は俺に人差し指を突きつけた。
「俺さぁ、伝説作りたいんだよね。こういうバカ校から超難関大学に進学~みたいなやつ。俺一人のがかっこいいって思ってたけど、お前面白いから俺の伝説に加えてやるよ」
でも、と茶髪は俺に向けた指を天井へ向けた。上を見ると茶髪は「ちげーよ」と呆れた声を出した。
「条件が一つ、って意味だよ」
ああそうか、今のは一を表す指だったのか……と納得しながら、茶髪が条件を言うのを待つ。
「何で勉強してーの?」
何でそんなこと知りたいんだ? 疑問に思いながら、「同じ学校に行きたいから」と正直に答える。「誰だよ」と問われ、今度は口ごもった。
「……助けてくれた人。その人と、同じ学校に行きたい」
茶髪は「ふーん」とうなずいて、猫のように目を細めた。
「じゃあ条件追加。その助けてくれた人、俺に教えろよ」
別に、教えてもいい……はずだ。なのに俺は、とっさに「嫌だ」と言いそうになった。黙り込んでいると、茶髪はまた愉快そうに笑った。
「いやお前、ほんとウケるな。普段もそんくらい顔に出せよ」
ゲラゲラ笑う茶髪を、不本意だが、放課後に交尾にまで連れて行くことになった。歩いて、バスに乗って、あの交番近くのコンビニ前に立つ。時間的に、早川さんはすでに店内にいるはずだ。外から指を差し、「あそこの店員」と教えた。
「あそこで働いてる、早川さん」 「女?」 「女」 「年上?」 「年上」 「惚れてんの?」
茶髪の言葉がすぐに理解できず、時間を要した。惚れるだとか、好きだとか、耳に挟んだことはある。だがそれを、理解したことはない。誰かにそんな感情を持ったことはない。早川さんに対して持ってるのは、感謝だけだ。なのに、茶髪に「違う」と言えない。 首を傾げていると、茶髪は今日何度目かの大笑いを見せた。腹がよじれるほど笑うと、茶髪は「じゃあ見てくるわ」と言ってスタスタとコンビニに入っていった。俺も追いかけたかったが、早川さんの前に姿を見せる勇気がない。 おろおろと立ち尽くす俺の視線の先で、茶髪が自動ドアの向こうに消えた。しばらくして、茶髪は戻ってきた。手にはコンビニ袋がある。俺のそばまで来ると、茶髪は俺の背中を思い切り叩いた。
「めっちゃ頭いい高校行ってんじゃねーかよ! そりゃお前の頭じゃ行けねーわ!」
そうだ。早川さんが通う高校は頭がいい奴しか通えない。つまり早川さんは、とても頭がいい。 すごいだろ、と知らず胸を張ると、茶髪の拳が「何お前が威張ってんだよ」と脇腹にめり込んだ。茶髪はこの短時間で、レジに立つ早川さんから志望校まで聞き出したらしい。
「志望校も結構レベル高いしなー。お前、受験前のテスト平均点どんなもんよ」 「……30」 「あったまいて~わ! そんなお前に難関校合格させなきゃなんねーって、金取りてーレベルだわ!」
それでも茶髪は、翌日から俺の勉強を見てくれた。自分の勉強もしながら俺に教えるのは、骨が折れただろう。だが茶髪は文句も言わず、初日のような暴言の数々も抑え、俺が理解できるまで辛抱強く付き合ってくれた。図書室で勉強していた夏の放課後。茶髪が思い出したように俺の名前を呼んだ。
「なぁ、有田。お前さ、俺の名前ちゃんと覚えてんの?」 「茶髪」 「お前俺のことそんな覚え方してるのかよ⁉ ぶん殴るぞ⁉」
俺の頭に茶髪の手刀が飛んでくる。甘んじてそれを受け入れると、茶髪は「日比野な」と名乗った。
「日比野でも日比野先生でも日比野様でもいいから。もう茶髪って呼ぶなよ、心ん中でも」
わかった、とうなずいた俺は、日比野との付き合いが高校卒業後まで続くなんて、思いもしなかった。
日比野は勉強合宿も兼ねて、よく家に泊めてくれた。きっかけは、俺の母親が鍵をかけて旅行に出たときだ。弁当も持たず登校した理由を聞いた日比野は、その日から俺を家に呼んだ。 突然泊まりに来た俺に、日比野の両親は優しかった。日比野の妹たちも両親同様に優しかった。庭付きの家に住むとみんな優しくなるんだなと、俺は確信した。早川さんも優しいわけだ。きっとあのおっさんも庭付きの家に家族と住んでいるだろう。 こんな風に優しい人たちに囲まれても、つらいものはつらい。勉強漬けの毎日に疲れると、俺は早川さんが働くコンビニを眺めに行った。ほとんどの場合俺の後ろにはニヤニヤ笑う日比野がいて、コンビニの中に入るのは日比野だけだった。俺は外から、レジに立って日比野と話す早川さんを眺めるだけだった。
「中に入るなら、早川さん、困ってることないか聞いてきてくれ」
たまにこういった頼み事もする。日比野は大概の頼み事は引き受けてくれるが、こんな頼み事をしたときは、奇妙な顔をする。
「自分が話しゃいいじゃん。何で行かねんだよ」
自分で行けと発破をかけられることもある。だが、俺がうなずいたことはない。俺の返事はいつも決まっていた。
「俺はまだ、早川さんと話せる立場じゃない」
俺の返事に、日比野は「何だそれ」と笑う。笑いながら「しょうがねーな」と呟いて、俺の代わりにコンビニへ入っていくのが常だった。 その年の夏、俺が泊まり込んでいた夏休みのある日。日比野が突然、ピアス穴を開けた。ピアッサーは二つあって、そのうちの一つが俺に差し出された。
「安いので良けりゃ買ってやるからさ、有野もピアスつけよーぜ」
断る理由もなく、うなずいて俺も耳に穴を開けた。体に穴を開けるのは、人に殴られるのとはまた別の痛みがあった。痛みはさほど顔に出なかったらしい。日比野は笑顔を引きつらせた。
「お前ほんと、そういうのは顔に出ないのな」
顔に出ないだけだ。俺の中には、日比野にも見せたくない、早川さんに見せるなんて言語道断な欲がある。
早く早川さんと対等な立場になって、同じ目線で話したい。 早川さんに堂々と会える身分になって、早川さんの視界に入りたい。 早川さんと同じ学校の生徒になって、早川さんに名前を呼ばれたい。
そう思うたびに、俺は耳に穴を開けた。
見た目が変わってるからといじめられて泣く度に、飯を与えられず腹が減って泣く度に、家に入れず泣く度に、母親は俺を殴って躾けたものだ。 痛みは教育。母親はそう言っていた。 俺の欲を知るのは俺だけ。俺を教育できるのは俺だけだ。だから俺は、耳に穴を増やすのをやめなかった。日比野は呆れながらも、俺が穴を増やすたびに適当なピアスをくれた。
ピアス穴が片手の指では足りなくなったのは、高二の夏、早川さんがコンビニに来なくなった。俺は自分のやる気というものが見る見る萎れていくのを感じた。萎れる俺に反し、日比野は元気だ。元気のない俺をニヤニヤと見下すほどに。
「俺、何でバイトに来ないか知ってるぜ」
教えてほしいと頼んだら、日比野は珍しく、俺に向かって両腕を交叉し、大きな×印を作った。「タダじゃ教えられねーなぁ」と、意地の悪いニヤニヤ笑いが俺を見る。
「土下座したら教えてやるよ」
土下座が何か、俺は知らなかった。幾分冷めた顔になった日比野は、携帯電話を操作し、インターネットに載せられた土下座の画像を俺に見せた。ああこれか、と声に出さずうなずく。いつだったか母親が、やたら声のでかい黒服のおっさんにやっていた。これをやると、金を払わなくて良くなる。便利なポーズだ。 俺はためらいなく母親と同じ|土下座《ドゲザ》を日比野に見せた。自分から言い出したくせに、日比野はずいぶんと白けたようだった。
「何でそんな躊躇ゼロで土下座できんの? 引くわぁ。恥ずかしくねーのかよ」
昔から、恥ずかしいだとかみっともないだとか、そういった感情を持ったことはない。こんなポーズだけで自分の願いが叶うなら、安いものだろう。
「早川さんに会えるなら、できる」 「これでまだ好きじゃねえとか言うんだからお前、マジ|怖《こえ》ーわ」
そう言いつつも、日比野は早川さんの行き先を教えてくれた。早川さんはコンビニバイトを辞め、塾に通い始めたそうだ。今までコンビニまではバスと徒歩だったが、塾は祖父に送迎してもらっているらしい。四六時中見知った誰かといるなら、早川さんは安全だ。安心した俺は、勉強に対する情熱を取り戻した。 早川さんが通う塾は俺が持つ交通手段では気軽に迎える場所ではないため、今までのように息抜きに早川さんの様子を見に行けないのが少し残念だ。早川さんを見に行こうとしない俺を、日比野は心配した。
「勉強頑張れんのか? つか受験する大学マジで同じにすんの?」 「する」 「あ、そう……まあ俺はいいけど……」
それでも、ひたすらに勉強ばかり続けていると、どうしようもないくらい早川さんの姿を見たい日もあった。耐えて耐えて、まだ耐えて、とうとう我慢できなくなった日には、早川さんの家まで行った。 住宅地の中の、庭付きの一軒家。二階の一角が、たぶん、早川さんの部屋。遅くまで明かりがついていて、窓際にうっすら影が見える。早川さんも頑張って勉強しているはずだ。早川さんの努力を見てやる気を蓄えたら、日比野の家に行って、ピアス穴を増やした。
2
夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が終わり、春が訪れた。早川さんは無事に志望校に合格したらしい。日比野が教えてくれた。俺はますます勉学に励む気になったが、その前に日比野がもう一つ、新しいニュースを教えてくれた。
「早川さん、本屋でバイト始めたってよ」
その本屋は、早川さんの家から少し距離があった。大学との距離を考えても、近くはない。なぜそんなところでバイトを始めたのか疑問に思いつつ、俺は日比野に早川さんの様子を見てきてくれるよう頼んだ。日比野の返事はつれなかった。
「自分で見てこいよ」 「合格したら行く」 「合格したその日に面接受けるなら見てきてやる」
少し悩んで、うなずいた。合格して、晴れて同じ大学生になったら、早川さんと対等な立場だ。だから話してもいいはずだ。同じバイト先で働いて、早川さんの視界に入ってもいいはずだ。俺がうなずくのとほぼ同時に、日比野は本屋に入っていった。帰ってきた日比野は、ニヤニヤしていた。
「早川さん、本が好きなんだとよ」 「本」 「本屋でバイトしたかったけど、高校卒業してからって言われて仕方なくコンビニで働いてたっぽい」
早川さんの好きなもの。コンビニで働く早川さんを眺めていたとき、食べ物の好みは知った。よく見るメーカーのオレンジの飴。どこのコンビニにも置いてるサンドイッチ。コンビニどころかスーパーや自販機でも見るレモンティー。早川さんの好きな食べ物は、優雅だった。しかしそれ以外、俺は何も知らない。
早川さんは本が好き。どんな本が好きなんだろう。俺が読む本なんて、教科書くらいだ。早川さんと話せるようになったとき、困らないよう少しくらい本も読むべきか。日比野にそう尋ねると、日比野は笑いを堪えるような、困り切ったような、妙な顔をしながら「今度テキトーに選んでやるよ」と請け負った。
勉強の合間に本を読む日々を過ごしているうちに、あっという間に季節は移ろい、俺と日比野の受験日がやってきた。早川さんの大学合格を聞いた翌春、俺も日比野も、志望する大学に合格した。俺よりも日比野よりも、日比野の両親が俺の合格を喜んでくれた。優しい人は他人のことでもこんなに喜べるのか。不思議なものだなと思いながら、今まで世話になった礼を言った。その足で、俺はあの本屋へ足を運んだ。手には履歴書を持っている。
「ついてってやろーか?」 「いらない」
飛び込みの面接を、店長は嫌な顔せず受け入れてくれた。定型文であろう質問に、自分の言葉で答える。「最後に」と言って、店長は柔和な笑みを浮かべ動機を問うた。優しい声と柔らかな笑顔を見て、脳裏に早川さんが浮かぶ。自分でも気づかないうちに両手を軽く組みながら、俺はゆっくりと、この本屋で働きたい理由を答えた。
「恩人が、本好きで……俺もその人みたいになりたいから、ここに来た。……んです」
慣れない敬語、慣れない面接。上手くできた自信なんて欠片もない。けれど店長は、俺に採用を言い渡した。
「明日から来てもらえるかな?」
声も出ず何度もうなずくと、店長は「頼もしいね」と笑った。採用されて、俺は正社員の藤本――さんから仕事を教えられることになった。今まで日比野以外とまともに話したことはない。緊張で上手く話せないでいたら、俺の教育係は次々変わり、最後には早川さんになった。
「早川さんと組んでも上手くいかなかったら、悪いけど、辞めてもらうね」
上手くいかないとは、どういうことだろう。仕事は覚えているつもりだ。ということは、会話か。 正社員藤本さんや、パートのテンさんとも上手く話せなかったのに、早川さんと話せるはずがない。せっかく同じ職場にいるのに、また遠くから見るだけになってしまうのか。残念に思いながら、早川さんと同じシフトに入れる日々を噛み締め過ごした。早川さんは緊張して無口になる俺に、気を遣って何かと話しかけてくれる。俺はといえば、話せた言葉は二言だけ。
「マジすか」 「ヤバいっすね」
日比野が年上と話すときそのままの口調に、自分でも呆れ返る。これじゃ、俺じゃなく日比野と話しているようなものだ。どうすれば早川さんの前でも、日比野と話すような気楽さで言葉を交わせるのか。
悩んでも悩んでも答えの出なかった夜シフトの日。俺の目の前で、早川さんが痴漢に遭った。クソじじいの手を見つめながら、目まぐるしく頭をフル回転させる。女性店員が男性客から暴行を受けそうになったとき、どう対処するんだった? 証拠保全が大事だなんて言ったのは、正社員だったか、それとも日比野と見ていたドラマの役者だったか。 答えが出る前に、俺の手がクソじじいに伸びた。――逃げられたらおしまいだ。その一心で、俺はクソじじいの手首を掴んだ。喚く声を無視し、渾身の力を込めて手首を握りしめながら、天井に取り付けられた防犯カメラを指さす。
「カメラ、回ってるんで」
クソじじいが大人しくなったところで、早川さんに店長を呼んできてもらう。俺が行くべきだったなと思いながら、俺はクソじじいを逃がさず、店長に引き渡した。 萎れるように諦めたクソじじいと店長が事務室に消えて、俺と早川さんはスタッフルームで二人きり。せっかく二人きり、しかも真正面で向かい合ってるのに、黙ってるなんてもったいない。何か会話の糸口はないかと悩んでいると、早川さんが急に姿勢を正した。
「あ、あの……ありがとう、有田君」
礼を言われるほどのことはしていない。それより、早川さんの張り詰めた様子が心配だ。場を和ませようと、あれほど嫌だった日比野の真似をしてみることにした。 軽い調子を意識して、事務室があるであろう方向を指さす。
「ヤバいっすね」
早川さんの緊張が和らいだのはわかった。ほっとするのも束の間。早川さんの丸い目から、ぽろぽろと透明な雫がこぼれ落ちた。
失敗だ。泣かせてしまった。
焦る俺に、早川さんは泣きながら謝り、泣きながら礼を言った。礼を言われたかったわけじゃない。俺が嫌だから、助けただけだ。 やっぱり俺は話すのが下手だなと思いながら、どうにか泣き止ませようとポケットを探る。ポケットにあるのは、早川さんの好きなものを俺も好きになりたいという欲の一つ、飴玉だ。 個包装されたオレンジを、早川さんに差し出す。早川さんはぴたりと泣き止み、俺の手の上で転がるオレンジを見つめた。
「それ、私の好きな味」
泣き止んだことにほっとする。日比野の妹たちが泣いたとき、日比野はよく、飴だのチョコレートだのを見せて泣き止ませていた。日比野の真似をすると上手くいくのは癪だが、今日は日比野に感謝するべきだろう。ほっとして気が緩んだせいか、俺は余計な一言を口走った。
「知ってる」
黒くて丸い目が、きょとんと俺を見上げる。しまった、と後悔しても遅い。どう言い繕うか焦る俺を助けたのは、テンさんだ。
「グミちゃん、だいじょぶ⁉」
早川さんを心配して駆け込んできたテンさんの大声に、早川さんの注意が向く。「何て言ったの?」と聞き返されても、少し誤魔化すだけで済んだ。次のバイト代で新しいピアスを買おうと決めて、俺はまくし立てるように心配するテンさんと、困りながらも笑顔を浮かべる早川さんを眺めていた。 助けたことが功を成したのだろうか。何日かは俺の顔を見るたび気まずそうに目を逸らしていた早川さんだが、もう何日か過ぎると、以前よりも頻繁に俺に話しかけるようになった。
「疲れたねぇ、有田君」
机に上半身を預けながら、早川さんが間延びした声で言う。その日は返本作業に追われ、確かに疲れた。だがそんな疲れも吹き飛ぶほどに、早川さんと同じ疲れを共有できたことが嬉しかった。 うなずくと、早川さんはいつものように世間話を始めた。とは言え、俺はただ相づちを打つだけ。大学に通いながら、俺は未だに友人の一人もできていないし、サークルにも入っていない。早川さんと同じサークルに入りたいと思っているが、今はバイト先が同じというだけで我慢している。
「サークルの先輩なんだけどね」
早川さんのサークルは、確か、文学の歴史について研究してるとか何とか、早川さんから聞いた気がする。そのサークルの先輩がどうしたのかとうなずくと、早川さんは幾分元気のない声で続けた。
「私のサークル、文系なんだけどさ……飲み会とか、多いんだぁ」
早川さんの言うことには、そのサークルにいる先輩の一人が、やたらと酒や煙草を好むらしい。その先輩の主張によれば、文学は酒と煙草で構成されているんだとか。 早川さんに相づちを打ちながら、おかしいな、と内心首を傾げる。俺が読んだ本は、紙とインクでできていた。酒と煙草を使った本なんかなかったはずだ。俺が的外れな思考に陥ってるとも知らず、早川さんは机に顔を伏せながら、先輩の愚痴を続ける。
「井上さんっていうんだけど。その人、いろいろ繋がりの多い人らしくって」
過去の試験問題の融通。割のいいバイト先の紹介。OBとの橋渡し。ほかにもまあ、いろいろとお世話になった者は多いらしい。早川さんが世話されたかどうかは知らないが、どうやら、早川さんはそいつを邪魔に思うらしい。
「井上さん、病気か怪我で入院でもしないかな……」
そう呟いた早川さんは、ハッと息を呑んで起き上がった。俺を見る目にあるのは、焦りと不安。|井上《イノウエ》という先輩は、そんなに早川さんに影響を与えているのだろうか。 そいつに嫌なことをされても、そいつを嫌いだと感じても、早川さんは井上を殴ったりしないらしい。早川さんは優しい上にお上品だ。俺なんて、俺をいじめようとする奴らは大概殴ってきたというのに。 小学生時代に思いを馳せていたら、早川さんは裏返った笑い声を漏らした。
「だめだよね、そんなこと言っちゃ」
徐々に声を小さくしながら、早川さんは井上のいいところをちらほらと挙げる。まるで言い訳だ。早川さんでも言い訳をするのか。早川さんを少し身近に感じた。
「自分がお世話になったことないからって、こんなこと言っちゃ、だめだよね」
早川さんは、井上の世話になっていない。世話になってないなら、早川さんは井上がいなくなっても、困らないんじゃないか? 脳内で、早川さんの声が繰り返される。
『井上さん、病気か怪我で入院でもしないかな』
井上がサークルに顔を出さなくなったら、早川さんは、喜ぶだろうか。 喜ぶ早川さんを想像したら、左胸の辺りがそわそわした。思わず、身動ぐ。尋ねてみようか。確認してみようか。早川さんは、井上が怪我をすれば嬉しいのか。早川さんは、井上が入院すれば嬉しいのか。早川さんは、井上に消えてほしいのか。
そのとき、廊下から賑やかな足音が響いた。それから、突き破るようにドアを開ける音が続く。
「聞いてよグミちゃん!」
飛び込んできたテンさんが早川さんに愚痴る勢いは、立て板に水だ。この勢いの半分でも話せたらと思いつつ、早川さんとテンさんのやり取りを眺めた。
3
早川さんの口に上った井上について調べて、行動範囲を探る内に、季節は冬になっていた。 吐く息が白くなってきたある日。その日は井上が一人で飲み歩く日だった。その日俺は、日比野の家に泊まらせてもらった。持ち込んだ少ない荷物には、ずいぶん昔に公園で拾ったバットがある。 荷物を日比野の部屋に置くと、日比野は目ざとくバットを見つけた。
「それ何すんの」 「殴るのに使う」 「誰を」 「井上を」 「誰だよ井上⁉」
井上についてしつこく尋ねる日比野に、仕方なく、早川さんが困らされていることを説明した。早川さんが飲みたくもない酒を飲まなくていいように、吸いたくもない煙草を吸わなくていいように、井上を入院させるべく闇討ちしに行くと話す。自分から尋ねたくせに、日比野は俺の話を信用していないようだった。夕飯をご馳走になったあと、日比野家全員が風呂を上がった頃に出掛ける準備をする俺を見て、日比野は「は?」と声を出した。
「いや……いやいやいや。バット持ってどこ行くんだよ」 「井上のところ」
一人で飲み歩く井上がどのルートで居酒屋やバーを巡るか、日比野に教える。帰りが何時頃になるかまで言い終えると、日比野はまずいものを食べたときのような顔をした。
「えー、お前マジで行くの?」 「行く」 「しょーがねぇなぁ……。ちょっと待てよ」
言うとおりに待つ俺を部屋に置いて、日比野は玄関から家を出た。戻ってきた日比野の手には、新品の軍手と使い古した雑巾があった。
「軍手つけて、んでバット拭いて。使い終わったらバットは捨ててこいよな」
うなずいて、日比野の言うとおりに軍手をはめた手でバットを拭いた。バットはどこに捨てるようか。終わってから考えればいいかと、バット片手に日比野家を出た。 今日だけは、服装に気をつけた。宵闇に紛れる紺色と黒で身を包み、目立つ頭はフードで隠す。防犯カメラの位置を気にしながら歩くのは、万引きをおっさんに見つけられてからだ。なるべくカメラの死角を歩き、どうしてもカメラに姿が映るときはうつむく。半笑いの日比野が「車に気をつけろよ」と言っていたのを思い出しながら、井上が店に入るのを見送った。 吐く息の白さが邪魔だと思っていたら、鼻先が冷たくなっているのを自覚した。昔から、風邪を引いたことはない。馬鹿だからかなと考えながら、井上が一人になるのを、寂しい道を歩くのを、ひたすらに待つ。
日比野はなかなか人通りの少ない道を歩かなかった。四軒の店をはしごしてふらふらになった頃、井上はようやく家路についた。早川さんのことを知りたい一心で身に着けた尾行術を駆使し、見知らぬ酔っ払いにぶつからないよう歩く。 井上が人混みから離れて寂しい路地に入っても、俺はまだ、井上に声をかけなかった。機会を窺って、待って、待って、街灯の感覚が寂しくなって、俺はゆっくりとバットを握る手に力を入れた。
目に痛いほど白い光を放つ街灯の下。嘔吐く井上に背後から声をかけた。
「井上」 「あ?」
脂汗を浮かべ、井上が振り向いた。俺より背の低い井上は、背を丸め、さらに小さくなっている。酔っていなくとも、俺より力はなさそうだ。バットを持つ俺が返り討ちに遭う心配はないだろう。
「井上だな?」
もう一度確認する。井上は「誰だお前」と返したようだが、酔って呂律の回らない舌では判別不可能だった。とりあえず、否定はしていない。ほっとしながら、拾いもののバットを振りかぶった。
一撃目で倒れ、二撃目で体を丸め、それ以降、井上はただただ小さくなっていた。 人を殴るのは、意外と疲れる。少し息が上がった頃に手を止め、道路にうずくまる井上を見下ろす。死にはしないだろう。何せ頭は狙ってない。体を庇う手足を重点的に狙ったから、怪我《《だけ》》で済んでるはずだ。
少しだけ、気分が高揚する。今すぐ早川さんの家に行って、呼び鈴を押して、出てきた早川さんに報告したくなった。
「早川さんのために、あいつぶん殴ったよ」
報告するのは、妄想の中だけ。そんなことを報告したら、早川さんに怖がられるかもしれない。いや、《《かも》》じゃない。怖がられる。 せっかく痴漢を捕まえて以降仲良く会話もできてるのに、余計なことをするのはダメだ。余計なことを言う前に、自分で《《教育》》する必要がある。 うずくまる井上を放置し、拾ったバットを道中で投げ捨て、俺は日比野家に帰った。 玄関ポーチに人影がある。俺が近づくと、人影は「お」と声を上げた。耳にはイヤーマフ、首にはマフラー、手には手袋をつけた完全防寒の日比野が座っていた。
「おせーよ、有田」
うなずくと、日比野はドアを開けて俺を家に入れた。「軍手は」と短く尋ねられ、パーカーのポケットを軽く叩く。日比野は俺に三角関数を教えてくれたときのような顔をした。
「明日……焼却炉で燃やすかぁ」
どこの焼却炉か、あえて聞かない。「部屋に行こうぜ」と促す日比野の後に続き、泊まり慣れた部屋に向かった。 部屋に入るなり俺の目はピアッサーを探す。視線だけでわかるのか、日比野は呆れた声で「また開けんの?」と尋ねた。もちろんだ。黙ってうなずくと、日比野は「なあ」と問いかけた。
「有田さ、早川さんに好きとか言わねーわけ?」
前にも、こんな問いかけをされた気がする。あのときは何と答えただろうと考えつつ、首を振る。なぜ言う必要があるのか。俺にはその必要が見出せない。
「言わない」
短く答える俺にピアッサーを差し出しながら防寒具を外した日比野は、「へー」とベッドに腰掛けた。
「じゃあそれ、愛だな」 「愛?」
愛。愛。聞き慣れない言葉、言い慣れない言葉の筆頭だ。早川さんを知りたくて読んだ本の中にも出てきたが、辞書を引いても実感の湧かない言葉だった。
「愛って何だ?」
思わず口に出た俺の問いに、日比野はやっぱり、と言いたげな顔で答えた。
「無償の愛とか言うだろ、有田はさ、早川さんのためにやったんだろ? 井上って奴殴りに行ったの。前に痴漢も捕まえたよな。あれだって、早川さんのためだろ。違うか?」
早川さんのため、というのは少し違う。俺のためだ。早川さんと話してみたいという、俺の欲。早川さんに見てもらいたいという、俺の欲。それ以外の理由はない。
「早川さんじゃなくて、俺のためだ」
日比野の言う〝愛〟は、見返りを求めないものだ。だから俺の持つ《《これ》》は、愛じゃない。そう呟いて、俺はまた一つ穴を増やした。早川さんに余計なことを言いそうになる、この口に。
4
井上を殴った翌日のことだ。早川さんは喜ぶどころか、落ち込んでいた。
「私のせいだ」
早川さんが言うには、早川さんが井上の怪我や病気を願ったせいらしい。 人を呪わば穴二つ。 そんな言葉を、日比野に教えられた気もする。ある意味では、早川さんのせいか。早川さんの愚痴を聞かなければ、俺は井上のことを知らずに過ごした。だが、俺は俺の意思で、井上をバットで殴った。早川さんは俺に愚痴をこぼしただけだ。早川さんが手を下したわけじゃない。早川さんが命令したわけじゃない。俺が、勝手にやったことだ。 思わずすべて話しそうになったとき、増えたばかりのピアス穴がぴりりと痛んだ――気がした。余計なことを言うなと、昨日の俺が警告してる。俺は口を噤んで、代わりに、ポケットに入れていた飴玉を取り出した。早川さんがよく選ぶメーカーの、好んで食べる味。前にも渡したことがある、オレンジの飴だ。
「早川さんが悪いわけ、ない」
机に飴を置くと、早川さんは顔を上げた。もう一つ取り出して押しやると、早川さんは俺を見上げきょとんとした。
「もらっていいの?」
うなずき、早川さんが飴を取るのを待つ。早川さんは俺をぽかんと見上げていたかと思うと、「あ」と声を上げた。
「有田君、口にもピアス穴開けたんだね」
――気づかれた。
体が軋みながら動きを止める。 早川さんに、気づかれたくなかった。けれど、気づかれたかった。
今まで早川さんに言いたいことを我慢するたびピアス穴を増やしてきた。自分の欲を押さえつけるたび増えたピアス穴が、早川さんに認識された。 思いに気づけてもらえたようで嬉しい。思いを見透かされたようで恥ずかしい。
胸の奥底から、目まぐるしく感情が湧き上がる。思わず早川さんから目を逸らすと、早川さんは何をどう思ったのか、急に話題を変えた。
「返本作業だよね、次は! 行こう、有田君!」
そう言って、早川さんの手が俺のパーカーを掴んだ。 早川さんに触れられている。 認識した途端、心臓が止まりそうになった。やはり俺の思いは見透かされていたんだろうか。そう考えているうちに、早川さんは何度も謝りながら手を離し、ドアに飛びついた。
「ごめんね、もう引っ張ったりしないから! と、とり、とりあえず、行こ!」
ついさっきまで俺に触れていた手は、もうドアノブを握っている。残念に思いながらうなずき、立ち上がった。 耳が熱い。ピアス穴が炎症を起こしているんだろうか。 ちらと早川さんを見下ろす。スタッフルームに忘れ物がないかチェックしてる早川さんに、知らず手を伸ばしそうになった。気づかれる前に手を引っ込め、自分の中に形を成しつつある感情について考える。
愛とは異なる、しかし恋とも言いがたいこの感情。わかっていることは、今夜もまた、穴を増やさなければいけないということだけだ。