猫と煙と罪な人

 僕は、猫が好きだ。猫は可愛い。それにふわふわと柔らかい。甘えた声で鳴きながらすり寄ってくるときの無防備さといったら、この上ない愛くるしさだ。  日の当たる、家具の少ないだだっ広いアパートの一室で、開け放していたベランダから侵入した野良猫を撫でてやる。人懐っこい茶トラだった。この辺で誰かが餌をやっているのかもしれない。あたたかく柔らかな背中を撫で、後頭部をかいてやりながら、実行する気のない〝もしも〟を考える。

 ――今もし、この柔らかく小さな首を締め上げたら?

 猫は全力で抵抗するだろう。僕の手を引っ掻き、牙を立て、逃げようとするだろう。逃げ延びた猫は、二度と人に近寄ろうとしないだろうか。それとも、僕から受けた暴力を忘れ、餌目当てに再び人に近づくだろうか。  断っておくが、想像するだけで実行することはない。だって猫に罪はないのだから。  僕の物騒な考えは声に出ていたらしい。日の当たらないベッドから出てきた|花純《カスミ》が、忍び笑いで日向に姿を現した。

「罪があるなら実行するの?」

 青白い肌、黒い髪、赤い唇、黒目がちな目。柳のような体はたおやかで、対面する者の庇護欲をかき立てる。花純の容姿は、僕がかつて恋心を抱いた相手とよく似ている。小学校の担任だった、たおやかな先生。中学校で同じ委員会に所属した、色白の肌が印象的だった二つ上の先輩。高校の頃に付き合った、うなじのきれいな同級生。  花純は、大学に進学してから初の恋人だ。そんな花純は数日前、見知らぬ男と腕を組んで歩いていた。僕に見られたと知らず、花純は男と駅の構内へ消えた。そして昨日、僕のアパートに泊まりに来た。

「近くまで来たし、泊めてよ」

 邪気のない、断られるなんて微塵も考えていない笑顔。僕は「どうぞ」とドアを開け、花純を狭いワンルームへ招いた。  茶トラは花純を一瞥すると、僕の手をするりと抜けてベランダへ駆けていった。どうやら茶トラのお客様は、僕の恋人が気に入らないようだ。

「嫌われてるのかな」と呟いた花純が、首を巡らせ茶トラの後ろ姿を追う。細い首筋が日を浴び、眩しいほどに白い。首筋を辿り横顔へ目をやると、そこに浮かぶ表情は、ちっとも残念そうではなかった。僕は「どうだろうね」と微笑み、手についた柔らかい毛を払った。

***

 陽だまりの午後から季節は移り変わり、冬になったある日のことだ。吐く息は白く鼻先は赤くなるような夜。僕らは夜景を見に行くことになった。静かな丘の上まで、白いワゴンを走らせる。助手席に座るのは、もちろん花純。窓の外へ顔を向けながら、花純は車での移動を喜んだ。

「やっぱり車はいいわね。バイクじゃ寒いもの」

 言い終えて、花純はハッと口を噤んだ。花純の浮気相手は、移動手段にバイクを使うようだ。花純の知り合いだとかいう、三つ編みの女の子が言っていたっけ。

「先輩は、あの子に騙されてます」

 呼び止められたのは、食堂への道すがらだった。

「あの女は性悪です。先輩以外に、何人の男がいると思いますか?」

 眼鏡をかけた目は、気の強そうな吊り目だった。しかし、白くて細い、きれいな首筋をしていた。うなじもきれいだったなと思い出しながら、口の中で「知ってるよ」と呟く。僕の呟きが聞こえながらも意味を汲み取れなかったのか、花純が不安そうな目で僕を見た。僕は優しく、横顔だけで微笑んだ。

「バイクに乗るなら、厚着をしなくちゃね」 「そうね。乗るときは、そうする」

 わかりやすく安堵の感情を醸しだしながら、花純はまた窓に向き直り、鬱蒼と茂る木々と夜の闇に目をやった。  丘に着くと、花純は目を輝かせて街を見下ろした。生活の明かりが、夜を彩る電飾が、星のように輝いている。車のライトは、さながら流星と言うべきか。花純の青白い肌に血が通い、桜色に染まった。

「連れてきてくれてありがとう。きれいね。とってもきれい」

 目を潤ませる花純は、心の底から喜んでくれている。わかるんだ。僕には彼女の心の機微が、よくわかる。  花純がこんなに喜んでくれるのが嬉しくて、僕はそっと手を伸ばし、桜色の頬に触れた。花純は猫のようなしなやかさで僕の手に頬ずりした。両手で頬を包むと、猫のようにうっとり目を細めた。思い出すのは、いつかの陽だまりの午後。猫を撫でていたあの日。うっかり心の声を漏らしてしまったあの日。花純の声が、脳裏に蘇る。

 ――罪があるなら実行するの?

 僕は自分の口角が、緩やかに上がっていくのを感じた。

「罪があるなら、実行してもいいだろう?」

 手を滑らせ、花純の細い首を包むように握る。そして花純が察する前に、親指で潰すように押さえつける。引っかかれようが、蹴られようが、僕は決して花純の首を離さなかった。  やがて花純はぐったりと力を失い、地面に崩れ落ちた。花純の猫のような目は、もう何も見ていない。しゃがみ込み、つい今し方手折った花純の頬を撫でる。傷だらけの手が痛いけれど、胸に満ちる喜びが|勝《まさ》った。

「きみが浮気をしても、僕は怒りも悲しみもわかなかった。ただ、嬉しかったよ」

 こうする理由ができたからね。

 僕の口から、白い息が立ち上る。花純の唇からは、吐息ひとつもこぼれない。これでいい。これでいいんだ。自分の唇が弧を描いたまま戻らないことを自覚しつつ、手を滑らせ、花純の首を何度も撫でた。

「今にして思えば、僕はきみ自身じゃなく、きみのこの首に|恋を《執着》していたのかもね」

 ゆらゆらと揺れながら天に昇る水蒸気は、花純の魂のように僕にまとわりついた。