会議室の空気が一瞬で冷えたのを、俺は肌で感じ取っていた。発言の直後、沈黙。その沈黙の濃度が高まるほどに、俺の中にある「またやってしまった」という声が、鼓膜の内側で響くようだ。
「……それ、前にもやってましたよね?」
同僚の声は冷静だったが、それが余計に胸に刺さった。苦笑いで誤魔化しながら目を伏せると、会議は何事もなかったかのように次の議題へと進んでいく。惨めだった。俺が何も発言しないまま会議は進み、終わった。
***
帰り道、夕暮れの空の下、俺はとぼとぼ駅に向かって歩いていた。手に埋め込まれたチップを改札にかざす。ちょうどそのタイミングで、駅構内の巨大モニターからAIのアナウンスが始まった。
「明日は、月例の、廃記憶回収日です。不要な記憶は、チップに保存の上、各所に設置された、専用ポストへ、指定された時間までに、お持ちください」
モニター前を通り過ぎる人々の多くが、薄いケースを頭から取り出し、その内容を確認している。その姿が、自分の中に溜め込んだ嫌な記憶の存在を無理やりに思い出させてくる。 廃記憶回収。 人間の脳が完全電子化されてからしばらくして始まったものだ。かつて行われていた廃品回収やゴミ回収と同じだ。 不要と判断した記憶を専用チップへ移し替え、ポストへ出す。そうすることで気持ちを新たに次の日へ踏み出す――というのが謳い文句だったか。昔は賛否両論だった。
「嫌だから、不快だからとすぐに忘れては成長できない」
そう訴える派閥も今は沈黙し、『廃記憶回収』推進派が多い。それだけみんな、嫌な記憶を捨てたがっているということだ。 俺はまだ、廃記憶回収に記憶を出したことはない。俺の親が「お前は忘れると同じことを繰り返す」と小さい頃から言っていたせいだ。その言葉は呪いのように俺の中に留まって、俺に記憶を捨てさせない。 そんな俺が記憶を捨てることを決めたのは、その晩、久しぶりに会った友人と話したからだった。 友人は電子ビールを呷りながら言った。
「まぁたやらかしたのかよ」 「またって何だよ」 「お前ほんとすぐやらかすよな。やらかしのこと忘れてんの?」 「忘れてたら毎回落ち込むわけないだろ」 「いや忘れてても落ち込むわ」
友人はケラケラ笑い、給仕ロイドにビールのおかわりを頼みながら「出しちまえよ」と頭を指さした。
「廃記憶回収、ちょうど明日だろ? もう出しちまえよ」
俺は言葉を飲み込んだ。これまで何度も「消してしまいたい」思ったことはある。けれど忘れたら、また同じことを繰り返す――お前は絶対に繰り返す、親にそう言われ育ってきた。だから、チップの分別方法などが書かれたファイルは脳内フォルダの奥に仕舞ったままだ。
「軽くなったよ、俺は」
友人はそう言って幸せそうに息を吐いた。
「嫌な記憶はぜ~んぶ出してる。月イチで」
その言葉の軽さに、俺はごくりと喉を鳴らした。 友人はその後も俺に廃記憶回収を勧め、あまりのしつこさに気圧される形で俺はうなずいた。 帰宅後、俺は奥の奥に仕舞い込んだフォルダを立ち上げた。そこには不要な記憶の移行方法と、タグ付け方法、その他個人情報の削除のやり方などがまとめられている。 それらを読みながら、電子化された脳内検索で消したい記憶を検索する。引っかかったのは十数件。どれも似たような分類だ。「羞恥」「社会的不適応」「自己矛盾」。そのうちの数件を選び、削除のための作業を進める。
『この記憶を削除・リサイクルに出しますか?』
無機質なAI音声ガイドの問いに、「出す」と答え、うなじにあるチップ差し込み口へチップを差し込む。数秒と待たず、薄い板状の記憶チップが音もなく吐き出された。それを手のひらに乗せると、不思議と心が落ち着いた。
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その夜、俺は人通りの少ない路地の回収ポストに向かった。街灯に照らされ、ポストはぽつんと佇んでいる。 俺は誰にも見られていないかとやたらキョロキョロ辺りを見回して、それからやっと、ポストへチップを投入した。手のひらにチップを置いたときよりもさらに、心が軽くなった気がした。
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翌朝。目覚めは驚くほど爽快だった。鏡に映る自分の顔が、いつもより少しだけ明るく見える。会社に向かう足取りも軽い。同じような場面でまた軽く空気を読まずに発言しても、同僚の苦笑をさらりと受け流す余裕があった。 けれど、それは本当にいいことなのかと疑問に思う瞬間もある。 同僚が、俺に問うてきた時のことだ。
「そういえばさ、前に話してた家族と喧嘩した話、どうなった? 謝れたか?」
俺は言葉に詰まった。思い出そうとしても、ぼんやりとした嫌な感情だけが空回りする。肝心の記憶映像は出てこない。ただ、「ごめん」「そんなつもりじゃなかったんだ」「本当はそんなこと思ってないよ」と膝をついて謝りたいという感情だけが噴き出してくる。 何だった? 俺は家族に何を言ったんだった? 思い出せない。思い出せるわけがない。嫌な記憶の中にあったんだ、捨ててしまったんだ、俺は。
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もやもやとしながらも時は過ぎ、週末になった。俺は実家に帰る気も起きず、ふらふら街をさまよっていた。 そこで見つけたのはフリーマーケットだ。あらゆる電子化が進んでなお、こういったアナログなやり取りは廃れない。きっと人間の遺伝子のどこかに、人と人との繋がりを断ち切れない感情があるせいだろう。 何か買う気もなく見て回っていて見つけたのは、『思い出市』と掲げた小さなブースだ。
「何だ、これ……」
呟くと、同じくブースを覗いていた若者が「知らねーの?」と笑う。
「廃記憶回収に出された記憶で、毒にも薬にもなんねー記憶はこうやって出されんだよ。規約にも書いてあるだろ? だから個人情報の消去はちゃんとやっとかなきゃいけないってわけ」
若者の言葉も耳に入ってこない。俺の目は、机に並ぶ記憶チップに吸い寄せられていた。
『空気を冷やした発言(会議)/分類:軽羞恥』 『家族への暴言/分類:自己嫌悪』
覚えていない。けれどわかる。それは確かに俺のものだった。 そばでチップを試聴していた別の若者が、笑いながらチップを引き抜く。
「やべーよこいつ。調子乗ってて、めっちゃ滑ってんの! 空気読まなさすぎで笑えてくるわ」
血の気が引く音が聞こえた。あれは、俺にとって捨てたいほどに重かった。けれど今、他人にとってはただの笑い話になっている。 それは滑稽で、同時に虚しかった。