平成三一四年。『人生百年』すらもはや古い言葉になってしまった。人類は死という概念を克服した。生まれ、生き、終わりなき老いが待っている。勝手に死ぬことは許されない。国民の命は大切な〝資源〟だからだ。死にたければ安楽死の申請を出して順番を待ち、そこに|理想の死《オプション》を望むならポイントを貯めなければならない。 ポイントとは、身につけた極小の端末に溜まってゆく〝模範国民ポイント〟だ。政府は正しいと疑わず、隣人を愛し、国を愛し、国民同士で助け合い、必要とあらば自らの財産をも差し出す。国が理想とする国民の姿に近ければ近いほど、ポイントを獲得できるのだ。このポイントをどれだけ貯めるのか。それはどんな〝理想の死に方〟を選ぶかによる。僕の理想はとても高いポイントを必要とする。『政府が正しい』と信じ、百回の書き取りをするだけで毎日1ポイント獲得するが、二百年生きてようやく目標に手が届くかどうかだ。 その上〝死〟を望むには順番も待たなければならない。僕が申請を出した時点で、順番は四桁を越えていた。端末に安楽死までのカウントが表示される。これがゼロになるまでに、僕は理想に届くだけのポイントを貯める必要がある。 僕は模範国民となるべく努力した。ああそうだ、努力したんだ。困っている隣人を助け、町に出ては人助けをし、施し、国が招集をかける〝ボランティア〟にはすべて参加した。それで職を失った回数は指では足りないほどだが、それすらもポイントに還元される。国のために苦労をすればするほど、ポイントがもらえる。僕はポイントのためなら死ねると矛盾した思考すら持つほど、理想の死に固執していた。 苦労が報われる日が近づいている。ポイントは順調に貯まっていった。これなら当日にはぴったりになるだろう。苦労が報われる日がやってくる。これほど嬉しい日があるだろうか。生まれたときから僕の人生は散々だった。糞溜まりで生まれたハエたちのほうがまだ楽しい人生を送っているだろう。幼少期を思い出すことも、思春期を思い出すことも、青年期を思い出すことも、ましてやそれらを語ることすらしたくない。誰も僕を救えやしない。僕を救えるのは〝死〟のみだ。ああ早く、早く僕を迎えに来てくれ。僕を救ってくれ。死を以てして僕の魂を救済してくれ! カウントが減ることだけが生きる糧だ。理想の死を迎える日を夢想することだけが僕の楽しみだ。施設前で死が近づく同志の数を数えることが日々の安らぎだ。そんな僕が、端末のカウントを勘違いするはずがない。カウントは減るはずだ。なのになぜ、増えてる? こんなことありえない。なぜこんなことになった? 決まってる。賄賂だ。まさか本当にやる奴がいるなんて。賄賂で自分の意思を通すだなんて、数世紀前に廃れたはずなのに! 怒りに燃えた僕は、施設前へ走った。メロスもかくやという勢いで、減りつつある同志たちがたむろする施設へ走った。見覚えのない顔が、嬉しそうに施設へ入ろうとするのを見た。足に力を込め、ドアをくぐる前のそいつの肩を掴んだ。
「おい、待てよ」 「何だ。何の用だ」 「お前、順番を守らなかったろ」 「はあ? なぁにを根拠に」 「僕はなぁ、死ぬことだけが楽しみなんだ。死だけが僕を救ってくれるんだ。そんな僕が、カウントを間違うわけないだろ。今までここに通ってすらいなかったお前が、僕より先に死ねるわけないだろ!」 「言いがかりだ! 皆が皆ここで自分の番を待つと思ってるのか? とんだ暇人だなきみは!」
考えるよりも先に動いていた。僕はそいつの顔を思い切り殴っていた。倒れたそいつに馬乗りになって、何度も拳を振り下ろした。痛かった。痛いのは手じゃない。心だ。こんなことをしては僕のポイントはすべて没収だろう。安楽死の申請もなかったことになるだろう。やり直せるだろうか。きっと無理だ。もう僕の心は折れた。せめて僕の人生を棒に振ったこいつをしこたま殴るしか憂さを晴らす術はない。泣きながら殴る僕を同志たちが取り押さえる。取り押さえてない奴は殴られ血だらけで喘ぐあいつを介抱している。こいつら、こんなときまでポイント稼ぎか。ちくしょう、ちくしょう、自分たちだけ死のうとしやがって。 僕は暴れ、かつて同志として語らい合った彼らをも殴った。拳が血だらけになった。彼らの血だけじゃない、僕の拳からも血が出ていた。憲兵がやってきて僕を取り押さえる。抵抗する僕に何か薬を打ち、彼らは僕をどこかへと連れて行った。 暗闇の中で目が覚めた僕は、冷たく固いベッドの上で頭を抱えた。ここはどこだ、なんて疑問に思うまでもない。ここは処罰房だろう。僕は処罰を待たされているのだ。暗闇の向こうですすり泣きや呻き声、怨嗟の声が渦巻いている。政府の意に沿わない国民はここに連れてこられ、死ぬよりもつらい労働を罰として与えられる。死は救済だ。そう簡単には与えられない。死ぬことも許されず、僕は働かなくてはいけないのか。誰のものとも知れないすすり泣きに、僕の声も混ざりそうだ。 そのとき、神の声とも呼べる知らせが暗闇に響いた。
『本日、新たな命が我が国に生まれた。めでたいことに新たな命は双子である。これにより政府長から特別の温情として、諸君らの罪を恩赦とすると発表がなされた。今から順に諸君らを解放する。ただし暴れた場合、恩赦はなかったものとなる。肝に銘じるように』
神は、僕を見捨てなかった。祈ったことなど一度もないが今回ばかりは祈り、感謝しなくてはいけない。僕はその場に跪き、見たことも教えられたこともない神にありったけの感謝の言葉を並べた。 ガチャン、ガチャンと鍵が開き人が連れ出される音がする。僕がいる房のすぐ隣でも音がした。次は僕かとうずうずする僕の前を、鍵束を揺らした誰かは通り過ぎた。「は」と声が出る。「どうして!」と叫ぶ僕に、遅れてやって来た誰かが「騒ぐな」と鋭く声をかけた。
「お前には特別に、ここから安楽施設へ連れて行く。だから外へ出すのは後回しだ。待っていろ」 「そんな、いったいどうして……。僕のポイントも、申請も、なくなるんじゃ……」 「安楽死施設長特別の計らいだ。お前を哀れみ、恩赦があるのなら施設からもと訴えてくださったのだ。感謝しろ、短気な非国民め」
ガン、と房のドアを蹴られた。けれどどうでも良かった。気にならなかった。何せ、僕は安楽死を認められたのだ。予定よりも早く! 神はいる。それは天空高くではなく、あの施設に! 浮き足立つ僕を房から出した憲兵の一人は、呆れたようにため息をついていた。 施設に着いた。正面からではなく、裏口から通された。温情とはいえ、ほかの国民に見られるのはマズいようだ。薄暗い廊下を指示通り歩き、青のランプが灯る部屋に入る。そこにはぼんやり光るディスプレイがあった。端末をかざすと、僕の個人情報が表示される。本人確認を済ませると、安楽死についての説明、遺体の使い道、意思確認が次々表示された。それらに目を通し、イエスを選択し、|理想の死《オプション》の選択画面にたどりついた。いよいよ、僕は理想の死を迎えられる。わくわくして指が震える。押し間違えないよう慎重に画面を押した。僕の理想の死は『理想の少女に看取られること』だ。これは意外にも多い死らしい。数世紀前に開発され娯楽として使われていたVRにAI技術が加えられ実現した。少女の口調、声音、性格を選び終え、いよいよ外見に取りかかる。 きれいな曲線を描く頭部、耳の下で切り揃えられた一度も染めたことなんてない艶やかな黒い髪、くりくりしたどんぐり眼、少し困ったような下がり眉、つんとした小さめの鼻、小さくも愛らしいつやつやの唇、うっすら赤みが差す頬、シミ一つない滑らかで白い肌。背丈は僕より頭一つ分小さく、胸のサイズも控えめ。服装は白いワンピース。足下は飾りのないサンダル。 これが、僕の理想の少女だ。選び終えたら億のドアが開く。真っ暗だ。闇よりもさらに濃い暗闇が口を開けている。安楽死が本当かどうか、確かめた奴はいない。もしかしたら僕は騙されているかもしれない。けれど、ここまで来たら踏み出すほかないのだ。震える足を叱咤して、何も見えない暗闇の部屋へ踏み出した。 部屋に入ると、背後でドアが閉まる音がした。視界が利かず、音も聞こえない。無音の暗闇に恐怖がむくむくと広がる。声を上げ暴れようとする僕に、頭上から誰かが声をかけた。
『そのまままっすぐお進みください。部屋の中央までゆっくり前進してください』
ノイズ混じりの機械音声だ。この施設のAIだろう。僕は落ち着きを取り戻し、見えないながらもまっすぐ進んだ。頭上から止まるよう指示が降ってくる。その通りに止まると、キャスターが転がりながら迫ってくる音が聞こえた。また頭上の機械音声が僕に指示を出す。あの音は、僕に薬を投与するためのベッドらしい。すぐそばで止まった気配を確認し、おそるおそる横たわる。キュルキュルとやや耳障りな回転音が聞こえたかと思うと、僕は拘束され、腕にアルコールを塗布された、冷たく細いものが押し当てられる。待て、待ってくれ。まだ〝彼女〟が来てないぞ!
「すみません、お待たせしましたっ」
花を揺らす風のような、清涼感のある優しくも幼い声が僕の鼓膜を震わせた。ぱたぱたと軽い足音が近づいてくる。ひょっこりと僕の前に現れたのは、僕の理想の美少女だった。僕の視界が滲んだ。熱い涙が頬を伝った。僕を見下ろし、少女は何度もうなずいた。
「私を待っていてくださったんですね。つらい思いをして、私に会いに来てくれたんですね。もう大丈夫ですよ。もうつらいことはありませんよ」
少女は微笑み、僕の頬を撫でた。
「ずっと見ていてあげます。聞こえなくなるまで、こうして心臓の音を聞いててあげます。だから怖くないですよ。私はここにいます。あなたのそばにいます。あなたは最期まで、一人じゃありませんよ」
ちくりと冷たい痛みが腕に走る。しかしすぐに痛みは消えた。暗くなっていく。声が遠くなっていく。魂が肉体から解き放たれていく。ああ、そうだ。この安らぎに抜け落ちるところだったけれど、僕は彼女に言いたいことがあったんだ。残る力を振り絞り、口を開いた。
「ありがとう」
少女が息を呑んだのがわかった。彼女の表情はもう見えない。けれどその瞳に、涙が光っていることは感じられた。
…… ………… ………………
節足動物型の掃除ロボットが老人の死体を運んでいく。彼の亡骸は国民の生活を支える〝資源〟になるだろう。髪の毛一本、皮膚の一片、肉の一欠片まで。亡骸とロボを見送る少女は、今にも泣きそうに目に涙をたたえていた。
「ありがとう、だなんて……」
少女の唇は震えている。白いワンピースを握る手も震え、裾に皺が走った。
「本当に、勝手。私を置いて死んでいくくせに」
宝石のような涙が、はらはらとこぼれ落ちる。ほのかに赤みを帯びた頬に涙の跡が生まれる少女は顔を覆って嘆いた。
「私だって老いてしまうのに、あなたたちは私を看取ってはくれない。朽ちていく私を、誰が見送ってくれるの? 誰が私の魂の安らぎを願ってくれるの? あなたたちばかり、一人で気分良く死んでいくなんて、ずるい。生み出した私の苦しみなんて顧みず、自分たちの苦しみばかり見て。ひどい、ひどい、ひどい」
落ちた涙は、床に当たる寸前で霧散した。その事実に少女はまたさらに大粒の涙を流す。自分がただの幻影であると実感し、それなのに確かに胸には痛みがあることを痛感し、少女は泣くしかできなかった。 少女を照らすように当たっていたライトが徐々に狭まっていく。少女の微かな泣き声だけを残して、部屋は完全に真っ暗闇となった。