迷惑な怪談話

 秋の夜のこと。  春から正社員になった俺は、夜のシフトに入っていた。夜シフトに入りたがるのは決まった顔で、その日も顔なじみのおばちゃんと向かい合ってラインに立った。  コンベアの音に紛れ、やたら甲高い笑い声が聞こえる。明るいトーンでなければ、幽霊かと勘違いしそうな声だ。顔を上げると、三つ離れたラインに知らない若い顔を見つけた。俺の視線に気づいたのか、尋ねてもいないのに、向かいのラインで手を動かしていたおばちゃんが「最近入った子」と教えてくれる。

「茜ちゃんって言ってね、学費の足しにって面接に来たのよ。芭蕉くんが来たときと同じねぇ」 「はあ、そすか」

 その茜ちゃんとやらも、周りのおばちゃんたちに絡まれ、世間話に興じているようだ。甲高い声は、笑っていなくてもフロアに響く。  話し方といい、振る舞いといい、軽そうな子だ。ああいう子は苦手だなと思いつつ、おばちゃんたちの話に適当な相づちを打って手を動かした。

 無心で手を動かしているうちに時間は過ぎ、深夜シフトの人たちがやってきた。肩を叩いて「交代」と言われ、我に返る。会釈と挨拶を交わしてフロアを出た。  帰ったら風呂より先に明日の飯の準備かなと予定を組みながら着替える。ロッカールームを出ると、廊下では同じ夜シフトだったおばちゃんたちが俺を待ち構えていた。  何事かと驚く俺に、おばちゃんの一人が言う。

「茜ちゃん、来るはずだった迎えが来れなくなっちゃったんですって」 「はあ」

 どうでもいい。何でそれを俺に言うのか。

「バスで帰ろうにも、財布忘れちゃったんですって」 「そりゃ災難すね」 「芭蕉くん車でしょ、乗せてったげてよ」 「はあ」

 語尾が上がりそうになるのを、どうにか抑える。

 ――面倒くさい。俺じゃなくておばちゃんの誰かが送ってやればいいのに。

 そう思いつつ、おばちゃんの後ろに隠れるように立つ茜ちゃんを見る。当の本人に悪びれた様子もしょぼくれた様子もなく、にこにこ笑って立っていた。

「お世話になりまぁす」

 ――送るとは言ってねえよ。

 と喉元まで来ていた台詞を飲み込む。おばちゃんたちの『当然送ってあげるだろう』という顔が、目が、そんな台詞を許さなかった。

「家、どっち方面?」

 俺がそう尋ねると、おばちゃんたちはにこにこ笑って茜ちゃんを残していった。

 駐車場まで、茜ちゃんとは特に会話もなく歩いた。街灯に浮かび上がる黄色の前で鍵を取り出して解錠する。俺と車を見比べ、茜ちゃんはにやにや笑った。

「かぁいい車に乗ってんですねぇ」 「新車買った姉のお下がり。俺、金ないからね」

 茜ちゃんは「へー」とうなずき、躊躇なく助手席のドアを開けた。

「お邪魔しまーす」

 俺も運転席に乗り込み、煙草を取り出す。吸わなきゃやってられない。そう思ったのに、茜ちゃんが「あー」という嫌そうな声を出した。

「すいませぇん。私たばこ苦手なんですよねぇ」 「あそぉ……」

 火をつける寸前だった手を止め、ドアを開ける。  吸わずにいられない。吸わずにこの子の相手なんかできやしない。  閉めたドアに寄りかかり、一本丸々吸い終わるまで茜ちゃんを待たせた。  夜風の冷たさとニコチンで頭を冷やし、茜ちゃんが待つ車内へ戻る。俺が乗り込むなり、茜ちゃんは「たばこくさっ」とけらけら笑った。謝る謂れはないはずなのに、俺はつい「ごめんね」と謝りながらエンジンをかけた。

 駐車場を出ても、門をくぐっても、俺たちは互いに口を開かなかった。音楽すら流れない車内が賑やかになったのは、海沿いの県道に出てからだ。  窓に貼り付いた茜ちゃんが、海面を見てにわかにはしゃぎだした。

「すごぉい、今日は波高いですねー。窓に飛沫かかってますよぉ芭蕉さん。ほら、ほぉら」

 別に珍しくもないだろ、と思いつつ「そだね」と短く返す。あまり窓にくっついてほしくない。どう注意するか悩んでいる矢先、茜ちゃんが窓を開け始めた。言い回しを考える暇もなく、俺は「ちょっと待て!」と乱暴に声をかけていた。

「窓開けんのはやめてくれる? シートが濡れるのヤなんだよね」

 運転中だ。前を見ながらしか注意できない。茜ちゃんの顔は見ていないけれど、拗ねているのは空気でわかった。窓を閉める音を最後に、車内から音が消える。  しんとする車内には気まずさしかない。だからといって俺は茜ちゃんに話しかける気も起きず、無言で海沿いを走った。  二度目の沈黙を破ったのは、茜ちゃんだ。

「……芭蕉さぁん。世間話してもいーですかぁ?」 「あ? ああ……」

 いいとも悪いともつかない俺の返事を了承と受け取ったらしい。夢を見るんですよと、茜ちゃんは潜めた声で語りだした。

「むかぁし……私の小さい頃、そですねぇ……幼稚園くらいのときからですかね」

 茜ちゃんの夢はいつも、遠くに山が見えるような、広い原っぱから始まる。幼い子供の胸まである、背の高い草が生い茂る原っぱだ。  茜ちゃんは自分が夢に馴染むのを待つように、しばらくそこに立ち尽くす。そして突然「帰らなきゃ」という思いに駆られ、草をかき分け走りだす。  道とも呼べない道を走っていると、段々人が踏みしめた道に出る。しかし、人とすれ違わない。そのうち、ぽつんと建つ家の前を通りがかる。茅葺き屋根の、今じゃ滅多とお目にかかれない古い家だ。周囲に家は見当たらず、一軒だけが寂しげに建っている。  その家の前で、幼い茜ちゃんは足を緩める。呼ばれた、と感じるからだそうだ。

「でも、行かないんですよ。自分からは絶対に」

 だってそこは、怖いところだから。  入ってはいけない、恐ろしい場所だから。  けれど茜ちゃんは家の中に入ってしまう。自分の意思ではない。家の中の〝何か〟に引っ張られるせいだ。

「おいでおいでって、〝いろんなもの〟が私を呼ぶんですよ」

 その〝いろんなもの〟に手を掴まれ、腕を掴まれ、服を掴まれ、幼い茜ちゃんは家の中に引きずり込まれる。  園児の頃は、そこで目が覚めた。怖い夢だなと思って、それで終わり。夢を見る頻度も、その頃は年に数回だけだった。けれど成長するうちに頻度は増し、引きずり込まれた家に滞在するようになっていく。

「家に入って終わりだった夢が、家の中で知らない誰かと過ごす夢になってくんです」

 夢の家は、いつも薄暗い。  引きずり込まれた茜ちゃんは、玄関の土間で体を起こす。すると玄関で、男の子が出迎えてくれる。出迎えてくれる男の子は、茜ちゃんが成長するにつれ少年、青年へと育っていく。  夢の中で会う彼の顔を、茜ちゃんは一度も思い出せたことがない。顔は確かにそこにあるのに、思い出せるのは濡れたような長い黒髪と白い肌、かすれた色の着物だけだった。だが不思議と、記憶の中ののっぺらぼうの彼を、茜ちゃんは怖いと思わなかった。  引きずり込まれた家の中、出迎えた彼は、茜ちゃんを広い座敷へ通す。幼い頃はそこでお手玉やおはじきなんかで遊んだが、そのうち遊びもせず、ひたすら彼に愛でられるようになっていった。  髪を梳いたり、豪奢な着物を着せたり、頬を撫でたり、櫛を飾ったり、愛おしげに見つめたりと、彼はまるで茜ちゃんを我が子か人形のように扱う。だがその目には、恋慕の感情が浮かんでいる――と、茜ちゃんは感じていた。

「まだ、まだ早い。もう少し。もう少しだけ。待とうねぇ」

 涼やかな声がそう告げる。ひんやりした手で触れられても、茜ちゃんはちっとも嫌じゃなかった。  顔を思い出せない彼を見上げ、幼い茜ちゃんは尋ねた。

「もう少し待ったら、どうなるの?」

 顔を思い出せない彼は、茜ちゃんを見下ろし薄く笑う。

「ここ。ここで。僕と、二人きり。ずっと。ずぅっと、一緒だよ」

 それは何だか素敵だなぁと思ったところで、茜ちゃんは目を覚ます。そうなった頃には、茜ちゃんは小学三年生になっていた。  今までは怖いだけの夢だった。しかし今では、彼と会うようになって、彼と過ごすようになって、夢は素敵なものに変わっていた。だから茜ちゃんは、「今日はこんな素敵な夢を見たんだよ」と家族に教えたくなった。話そうと決めたのは朝食の場だった。食卓ではすでに両親と姉がいて、座ったのは茜ちゃんが最後だった。

「あのね、夢の中で――」

 そこで茜ちゃんは、大きな音に口を閉じた。不吉な音だった。家族全員、一斉に音の聞こえた方角を見る。ついさっきまでニュースを流していたテレビが、真っ暗になっていた。新聞を読んでいた父が「あれ?」とリモコンを操作しても、イライラした姉が乱暴に叩いても、テレビからの反応はない。母の刺々しい声が「だから安すぎるものはダメって言ったのよ」と父を|詰《なじ》る。  犬も食わない空気が漂う。茜ちゃんは夢の話をするどころではなくなってしまった。  朝食を終えても、茜ちゃんの両親はまだ口論をしていた。食べ終えた姉が「いってきます」とリビングを出ても振り向きすらしない。茜ちゃんも姉に倣い、食器をシンクへ置くと小さな声で「いってきます」と告げた。もちろん両親は、まだ口論に夢中だった。  しょうがないなぁと思いながら、茜ちゃんは玄関で靴を履いていた。そのとき、背後で気配がした。

「誰にも、誰にも、言っちゃだめ」

 夢の中で会う、彼の声だった。しかし振り向いてみても、玄関には茜ちゃん以外誰もいなかった。そのときの茜ちゃんは「変なの」と思うだけで、別段怖がりもせず登校した。  教室に入った茜ちゃんは、先に登校していた友達を捕まえるなり夢の話をしようとした。

「今日ね、すごくいい夢見たんだよ」

 だが、茜ちゃんは廊下から聞こえる悲鳴にまたも口をつぐまされた。廊下を大急ぎで走っていた先生が、転んで窓を突き破って外へ落ちていった、と誰かが詳細に叫んだお陰で、茜ちゃんは何が起きたかを知った。  三年生の教室は二階にあった。幸い落ちた先生の命に別状はなかったけれど、窓を突き破る瞬間を目撃した児童は多く、大騒ぎになった。茜ちゃんは、夢の話どころではなくなった。  落ちた先生を一目見ようと、たくさんの児童がいっぺんに窓辺へ駆け寄る。茜ちゃんも落ちた先生の様子を見ようと、集団に近づいた。  するとまた、背後で気配を感じた。耳元で、涼やかな声が歌うように囁く。

「秘密、秘密、誰にも秘密」

 振り向いても、そこに声の主はいない。さすがの茜ちゃんも立て続けにこんなことが起これば「あの夢は誰かに話してはいけない夢なんだ」と理解した。理解した上で、生来の軽薄さのせいかそれともひねくれた性格のせいか――茜ちゃんは、この夢の話を誰かに聞かせたくて仕方なかった。  何度も何度も、どうにか他人に聞かせようとした。そのたびに誰かが怪我を、もしくは何かが故障した。  人や機械への被害は、回数を重ねるごとにひどくなっていく。次第に周囲の人たちも、事故や故障に茜ちゃんが関わっていると気づき始めた。茜ちゃんは、夢の話をするどころか、そばに寄ることすら厭われるようになってしまった。  茜ちゃんは強かだ。ひとりぼっちになったって、ちっとも気にしない。

「とにかく誰かに話せればいいって、そればっか頭ん中にありましたからね」

 聞いてくれるなら誰でもいい。茜ちゃんはそう思って、知らない人、仲良くない人にまで夢のことを話そうとした。それでもやっぱり、夢の中のことは最後まで話せない。

「言っちゃだめ。だめって、言ってるのに」

 誰かが怪我をするたび、何かが故障するたび、背後で彼の声がする。最近では、彼の声には呆れが滲んでいるらしい。けれど、茜ちゃんはやめられなかった。  次は何が壊れるのか。  次はどんな事故が起きるのか。  いつか人が死ぬことがあるのだろうか。

「それが気になって気になって、試さずにいられなくって」

 相づちを打ちながら、俺は茜ちゃんの性格の悪さに呆れを通り越して感心していた。だからといって、それは口にしない。口にする余裕がない。  先ほどから、対向車線にトラックが見えている。距離はあるが、何度もセンターラインからはみ出しては戻るを繰り返して危なっかしい。居眠りでもしているのかと、何度かクラクションを鳴らしてみた。それでもトラックは蛇行運転をやめない。  舌打ちを我慢している俺の隣で、茜ちゃんは話し続ける。

「でね、いろんな人に話すうちに、気づいたんですよ。私だけは被害がないなって。じゃあもし、私にも被害が及びそうな場所で夢の話をしたら……どうなると思います?」

 知ったこっちゃない。返事をする気すら起きない。  もう一度、クラクションを鳴らす。トラックはとうとうセンターラインを越えたまま戻らなくなった。スピードを落とす様子もない。このままでは正面からぶつかってしまう。だが避けようにも車線は片側に一つしかない。ガードレールを突き破って海に落ちる方がマシだろうか。そう悩んでいる間にも、トラックは迫ってくる。  海の様子を見る一瞬、目を向けた先で茜ちゃんがにたにた笑っていた。

「どうなるか気になるからぁ……芭蕉さんに聞いてもらっちゃいましたぁ」 「ざっけんなよお前……!」

 トラックに潰されるよりマシだとハンドルを切る。しかし、もう遅かった。  トラックのライトのせいで、視界が真っ白になる。白くなった視界の向こうに、着物姿の青年を見た気がした。