見張る、瞠る、見合う

 秒針の進む音がうるさい。そう感じるほどに、事務室は静かだった。一日分の業務を終え、夜勤の人たちとの交代を待つばかりの時間だった。  私の勤める運送会社はやたらアナログ好みで、時計はおろか、書類も未だガラスペンで書かせる。ガラスペン! ボールペンすら使い捨てのこの時代に、ガラスペンで書類を作成⁉ 馬鹿らしい!  けれど、うちの会社は給料がいい。古く小さな運送会社なのに、給料だけは大企業並みだ。

「あー、そういえば」

 息を潜め身を潜め、目立たないよう帰り支度をしていた時だ。椅子にもたれかかった先輩が、何気なさを装い声を上げる。

「今日、見張りの日だっけ」

 体が強張る。私が硬直したのを知ってか知らずか、優雅に腰掛けている先輩方は「そうだった!」とわざとらしく喋り続ける。

「そろそろ見張りの時間ねえ。なのに夜勤の人、遅くない? 今日の夜勤って誰だった?」 「あー、夜勤で見張りは矢野さんっすね」 「あ、矢野さんなら今日遅れるって連絡ありましたよ。見張りのこと何も言ってませんでしたけど……」 「やだ、嘘でしょ? あの人また忘れてるのかしら」 「時間に遅れたら大変っすよね。誰が見張りに行きます?」 「私昨日夜勤させられたんで、パスしていいですか」 「それ言うなら私も今月夜勤多いんだけど」 「私はパートだから、夜勤手当てが増えすぎるのは困るわぁ」 「夜勤の人急がせても間に合わないっすよね」 「どうしましょう?」

 この波に乗らなくてはいけない。でないと、また押しつけられる。私こと深山ハルは、椅子を弾き飛ばすように立ち上がり、その勢いで手を挙げた。

「わ、私もあの、無理です!」 「あらっ、ハルちゃん! よかったぁ、まだ帰ってなかったのね」

 先輩の反応に、自分がしくじってしまったとわかった。息を潜めておくべきだった。でも黙っていたらまた押しつけられてしまうだろう。気づかれてしまったが最後、「無理です」で押し通すしかない。  しかし、先輩方の先制パンチが私を制す。

「ハルっちさぁ、最近夜勤少なくない?」 「いや少なくはないですよ。先週なんかほとんど私が残って見張りしてましたし」 「そうそう、そうよねぇ! ハルちゃんってぇ、夜勤少ないわよねぇ」 「いえあの、少なくはないんです。今週は確かにまだやってないですけど、トータルで言うと――」 「昨日だって定時で帰ってましたよね」 「あれは祖父のお見舞いに間に合わないからで、」 「それじゃあ今日は、ハルちゃんに見張ってもらいましょっか」 「それがいいですね」 「ハルっち今夜の見張り決定ぇ~」

 見事に押しつけられてしまった。  すべてが終わるのを待っていたかのように、夜勤の人たちがぞろぞろと入ってくる。先輩たちは引き継ぎをして、さっさと帰ってしまった。私はと言うと――。

「――ってことがあったんですよ! ひどくないですか⁉」

 見張りの〝対象〟に、事務室での出来事を包み隠さずぶちまけていた。〝対象〟は床に肘をつき頭を支え、横たわっている。  私の話を聞いた〝対象〟は、愉快げに含み笑いをこぼした。

「そんなやり取りがあったんだねぇ」 「そうなんですよ、いつもなんですよ‼」

 社内一大きな倉庫に、私の声が響き渡る。三階建ての倉庫は吹き抜けで、大きな声を出せばよく響く。  この倉庫に荷物はない。備品もない。あるのは見張りの〝対象〟、見上げるほど大きな〝人〟――らしきものだ。私はそこでパイプ椅子に腰掛け、〝人〟らしきものを見張らされている。

「トータル私が一番残ってるんですよ、なのにまた見張り押しつけるってひどくないですか⁉ もう来月は一回も見張りしないで帰りますからね私‼」

 まくし立てる私の声は、壁に反響して何倍もの大きさに聞こえる。だだっ広い倉庫で、物も少ないのだから当然だ。そんな広い倉庫なのに、あの〝人〟は、狭そうに横たわっている。  おおよその姿こそ人型だが、人ではない。巨人と称すのがふさわしい体格に加え、頭にはねじれた角が二本も生えているし、指先は恐ろしく尖った長い長い爪がある。「あれが人間だと認められたら自分が人間辞める」が、夜勤で見張りを経験した者が共通して持つ意見だ。  入社時の説明曰く、《《あれ》》はうちの会社が祀る商売繁盛の守り神――らしい。大きいのは神様だからいいとして、黒光りするねじれた角や、鈍く光る鋭い爪は、神様よりも悪魔に見える。  《《あれ》》は本当に、神様なんだろうか――なんて疑いは、入社一年目で捨てた。  そんな守り神の顔を覆う艶やかな黒い髪は、女性的だ。けれどその身に纏う黒い着物……着物なのだろうか? あの〝人〟が着る衣服は男性的だ。  いつ見ても変わらないのは長い黒髪、身に纏う衣服、そして角と爪だけ。たまに煙管をふかしているけれど、それを持つ手はたおやかな女性のものだったり、骨張った男性の手だったり、枯れ枝のような老人の手だったりと、様々に変わる。ちなみに今日は、若い男性の手だ。  声も手同様、その日その日でころころ変わる。今日は柔らかい男声だけど、この前の見張りでは涼やかな女声だった。明日は年寄りめいたしゃがれ声か、愛くるしい子供の声になっているかもしれない。  あの〝人〟――仮に倉庫さんと呼ぼう。倉庫さんは、柔らかな声で私の|話《ぐち》に相槌を打つ。

「そうやって嫌がってるわりに、ハルちゃんはいつもわたしに話しかけてくるよねぇ」 「だって沈黙に耐えられませんし! 人型なのが逆に怖いんですよ‼」 「そうかぁごめんねぇ」

 うふふ、と倉庫さんが笑った。この人が笑うとろくなことがない。

「ねえハルちゃん。わたしのことで気になることってなぁい?」 「ええ~別にないですよぉほんと全然ありません」 「ほんとにぃ?」 「ほんとほんと」 「ほんとかなぁ」

 倉庫さんは頬杖をついている手、その先の鋭い爪に、長い長い黒髪をさらりと巻きつけた。

「いつも隠してるわたしの顔とか……気にならない?」

 頬杖をついていない手が顔へ伸びる。ばさりと音を立て、前髪が払われる。私はすんでの所で顔を伏せ、倉庫さんの顔を見ずに済んだ。  視界に、倉庫さんの長い黒髪が入り込む。黒髪は揺れている。倉庫さんが笑っているせいだ。

「ああ残念。目と目を合わせるいい機会だと思ったのに」

 んふふ、と邪気に満ち満ちた笑いに私は「やだなぁ」と愛想笑いを返す。

「失礼だから顔を見ちゃだめって上司から散々言われてるんですよ。からかうのはやめてくださいよぉ」 「失礼じゃないよぉ安心して」 「とにかくだめって言われてますから、勘弁してくださ~い」

 本当は、失礼だなんて教えられてない。顔を見たら二度と家に帰れなくなる、と聞いただけだ。どうなるのか、詳しくは聞いていない。どうなるのか、誰も知らない。ただここで倉庫さんを見張れば、嫌でもわかる。

 ――顔を見たら、死んじゃうんだろうな。

 こんなに友好的な態度でこちらを殺そうとしてくるのだから、油断ならない。倉庫さんは絶対に神様ではない。私はそう断言できる。……誰かに向かって断言する勇気はないけれど。  倉庫さんの前髪がまた顔を覆った気配がする。恐る恐る顔を上げると、頬杖をついたままの倉庫さんは、心底嬉しそうにこちらを見ていた。

「こんなやり取り、あと四十年は続けたいねぇ」

 ――不景気でお給料下がったら絶対に辞めてやる‼

 固く決意しながらそれを口には出せず、私は愛想笑いと曖昧な返事でお茶を濁した。

***

 それから、不況は何度となく訪れた。しかしなぜだかお給料は下がらず、時には上がることさえあった。十年、二十年と過ぎても、会社は倒産もせず、畑違いの業種に手を出しては成功し、ぬるま湯に浸っているような運営を続けた。  会社が成長し続ける一方で、私の人間関係はことごとく上手く行かなかった。  職場の人間関係は悪くない。問題はプライベートだ。特に、恋愛面。  気になる人がいない訳ではなかった。友人や先輩に誘われ出掛けた先で、多少なりとも出会いはあった。紹介を頼んだこともある。  けれど、友人以上の関係に発展しようという頃になると決まって仕事が立て込んだ。一ヶ月、ほぼ毎日夜勤を頼まれ、会社に寝泊まりした回数なんて指では足りない。  忙殺され連絡もまともに取れず、フェードアウトしてしまうこと数知れず。それでもめげず、私は縁を求めた。結果、友人たちに頼らずに素敵な人と出会うことができた。この人となら、苦楽をともにできると思った。  なのに携帯端末の故障が相次ぎ、夜勤をするはずだった人たちの欠勤が相次ぎ、結果その人とは音信不通になってしまった。あのときほど涙を流した時期はなかったし、倉庫さんに八つ当たりをしたことはない。  考えれば命知らずなことだ。振り返れば、あの頃の私は「死んでもいい」と思っていたのだろう。涙を流して愚痴をこぼし八つ当たりをする私を、倉庫さんは存外優しく受け止めてくれた。

「うんうん、大変だったねぇ」

 柔らかな声で相槌を打たれると、少しずつ、本当に少しずつだったけれど、どうしようもなくささくれた心が落ち着いていった気がした。  音信不通を経験した次の年からだ。私はクリスマスすらも会社の倉庫で迎えるようになっていった。身内に病気や怪我のない限り、ほぼ毎年、クリスマスには夜勤を申しつけられた。独り身だからいいだろうと、口にこそ出さないものの、上司はそんな態度で私を夜勤へ駆り出した。  倉庫ではいつも、倉庫さんがにこにこ笑って私を待っていた。

「いやぁハルちゃん、ご機嫌斜めそうだね」 「斜めすぎて真っ直ぐですよ!」 「お酒飲む?」 「そんなどす黒くなっちゃった御神酒飲みません‼」

 クリスマスを皮切りに、お正月、バレンタイン、ひな祭り、七夕――と数々のイベント期間を倉庫で過ごさせられた。それどころか、倉庫さんへのお供えまで任されるようになった。お供えは役員たちが朝礼前に総出で|行《おこな》っていたというのに。  夜勤に加え、早朝手当てもつくようになった。お陰で貯金だけは貯まっていく。お金だけが、私の手元に残っている。

「老後の心配がなくていいんですけどね」

 ぼやきながら、倉庫外に設置された祭壇へ御神酒を置く。倉庫内から私を見ているらしい倉庫さんが、「うふふ」と笑うのが聞こえる。暗がりへ目をやると、髪で表情なんか見えやしないのに、にこにこしているのがわかった。

「ハルちゃんが供えてくれたお酒が一等美味しいなぁ」 「それはよぉございました」

 お供え物はお酒がほとんどだけれど、お肉を一緒に供えることもあった。倉庫さんがそれらに手を伸ばすことはない。自分では食べも飲みもしないのに、やたらと私には勧めてきた。

「ハルちゃん、食べていいよ」 「生肉はちょっと無理ですね」 「お肉は嫌い?」 「人間は生のお肉食べたら体壊しちゃうんです」 「そっかぁ」

 残念そうな声だった。その日以降、倉庫さんのお供え物から生肉は消え、代わりにお菓子が加わるようになった。

「ハルちゃん、これなら食べられる?」 「食べられますけど……」 「食べていいよ」 「いやいや。せっかくお供えしたんですからご自分で食べてくださいよ」 「え~ハルちゃんと一緒に食べたいな~」 「ハルちゃんは夜勤明けで疲れたから帰りたいです」 「じゃあ御神酒はどう?」 「供えたてほやほやを横流ししたら社長たち泣いちゃいますよ」

 倉庫さんへのお供え物に手を出したら、社長たち役員にどれだけ叱られるか。そう思って断る度、倉庫さんはしゅんとしょげる。その姿は叱られた仔犬に似ていた。  だからって、勧められたお供え物に手を出すことはなかったけれど。  こんな調子で、私は倉庫さんと多くの時間を過ごし、定年を迎えた。

***

 結局、誰かと縁を結ぶことはなかった。まぁそれも人生かと思える程度には、寂しくない日々を過ごしてきた。  退職前日のことだ。私はまた、倉庫さんの見張りを押しつけられていた。半べそをかきながら「今日だけは交代してください」と新人ちゃんに頼まれては断れない。  それにしても、と椅子に座り倉庫さんと向かい合う。

「こんなおばあちゃんになってまで見張りをさせるなんて、どう思います?」 「おばあちゃん? 僕にはいつまでも柔らかく光る魂しか見えないなぁ」 「さすが人ならざるもの。見てる世界が違いますねぇ」

 今日の倉庫さんは、声も手も男性だ。新入りにはいつも、しゃがれた声に枯れ枝の手を見せているらしい。彼女が驚くのを見て楽しんでいるようだ。性格が悪い。あんなに怯えて、可哀想だ。  明日でおさらばなのだし、一言くらい文句を言ってもいいんじゃなかろうか?  そんなことを思う私に、ゆったり横たわる倉庫さんが「きみと出会って」と懐かしげに口を開いた。

「ハルちゃんと出会って、結構な時間が過ぎたねぇ。何夜になるんだっけ?」 「日数で数えるのはちょっと……年単位なら答えられますけど」

 年数を挙げると、倉庫さんは「そうかそうか」とうなずいた。

「もう数十年も付き合ってくれてたのか。ありがとうねぇ、ハルちゃん」

 思わぬ言葉をかけられ、最後に文句の一つでもと勇み足だった気持ちが急速に萎んでいった。同時に、緊張感も解れた。

「それも今日で最後ですけどね」 「そっかぁ。明日で|定年退職《テイネンタイショク》だもんねぇ」 「一ヶ月ほど旅行に出たら、またどこかで働くんでしょうけど……ひとまずは、悠々自適の気ままな隠居生活です」 「そっかあ。うんうん、そうかぁ」

 予備動作も、衣擦れの音もなく、瞬きの間に倉庫さんの手が私へ伸びた。大きな手が、私の体をたやすく掴む。首が揺れるほどの勢いで引き寄せられ、倉庫さんの長い長い前髪の下へ、私の体は引き込まれた。

「ばあ」

 いたずらっ子のような声。見せられた顔は、見せられた大きな大きな目は――。

***

 深山ハルが、夜勤から戻ってこない。  そう報告を受け、総務課長は社内一を誇る巨大な倉庫へ足を向けた。その足は、震えている。  倉庫の扉は閉じられていた。しかし、鍵はかかっていない。一目瞭然だ。恐る恐る、課長は扉を開けた。  太陽はすでに昇っており、外は明るい。なのに、倉庫の中はまだ夜中であるかのように暗かった。明るさに目の慣れた課長は、目を凝らし倉庫内に人影を探した。  あるのは、うずくまって動かない大きな大きな人影だけだ。深山ハルらしき人影は、ない。

「あの」

 課長の声が、うわんうわんと倉庫に響く。うずくまっていた人影が、もぞりと動いた。顔が自分へ向けられた気がして、課長は慌てて目を逸らした。

「なに」

 不機嫌そうな、鬱陶しげな、若い男の声だった。課長は今にも泣き出しそうな自分に気づいた。  怖い。今すぐここから逃げ出したい。  けれど自分の役職上、深山ハルの無事を――守り神の機嫌を確認せねばならない。  今にも震える体を叱咤し、課長は倉庫の怪物に問うた。

「深山ハルが戻ってこないので、確認に来たのですが……」 「ああ、うん。ハルちゃんはもう、そっちに帰らないよ」

 ――帰らない? 返さないの間違いでは?

 そう思ったが、もちろん口に出す課長ではない。  もぞり、もぞりと影が動く。そろそろ課長の目も暗闇に慣れてきた。うっかり相手の顔を見ないよう、課長は床を見つめる。  うつむく課長のうなじに、巨大な怪異の声が墜ちてくる。

「もう見張りはいらないよ」

 ――しくじったか、あのババア!

 課長は全身の毛穴から汗が噴き出すのを感じたが、すぐに安堵した。続く化け物の声が、満足げだったからだ。

「ようやく《《花嫁》》を捕まえたからね」 「そ――」

 そうですか、とうなずくことは許されなかった。課長は最初、誰かから襟首を掴まれたのだと思った。そう勘違いするほどの勢いで、課長の体は倉庫の外へ弾き飛ばされた。  仰向けに転がった課長は、慌てて起き上がった。その目の前で、倉庫の扉が閉ざされる。  叩いても、押しても、引いても、扉は開かない。課長の顔から、音を立てて血の気が引いていく。しかし、それどころではない。

 ――見張りがいらない? それじゃあもう、商売繁盛の加護もなくなってしまうのか?

 経営が傾き始めたら、責任は誰が取るのか。そんなこと、考えたくもない。  課長は必死に扉を叩き、倉庫に引きこもった化生の者に商売機運の加護を問うた。切羽詰まった声が鬱陶しかったのか、内側から扉が叩き返される。その衝撃で、課長はまたも仰向けに倒れた。  倒れる課長に、倉庫の中から安堵できる言葉が投げられた。

「あと五十年は守ってやるよ。でもその後は知らないよ。もうずいぶん長くいてやっただろう?」

 五十年。課長は考えた。五十年も過ぎれば、自分はとっくに退職している。そんな頃にこの会社がどうなろうが、一向に構わない。  気味の悪い、薄気味悪い、妙な会社だ。何に手を出しても上手くいく。化け物が憑いていると聞いて、ようやく納得がいったくらいだ。馬鹿みたいな高給でなければ、すぐ辞めているところだ。  このことは自分だけの秘密にしようと決め、課長は礼を言って倉庫を離れた。行きと違い、帰りの足取りは軽い。事務員たちには「深山ハルは花嫁になった」と告げればいいし、役員たちには「花嫁を得たから良いと言われるまで見張りは不要」と報告すればいい。

「いやぁ、それにしても」

 社内に入り、倉庫が見えなくなったところで、課長は足を止めた。何度も倒れたせいで埃のついたスーツを払い、誰にいうでもなく独り言つ。

「定年直前のババアが花嫁だなんて、あの化け物、趣味まで気色悪かったな」