祖父母の家に預けられた、四歳の夏。過疎に片足が入っている状態のその村では、ちょうど夏祭りの時期だった。帰省してなお少ない子供らの娯楽になればと、辛うじて執り行われているような規模のお祭りだった。
「スイちゃん、お祭りに行こうか」
私を祭りに誘ったのは祖母だった。 スイちゃんとは私の名だ。家の片隅で絵本を読んでばかりの私を、祖母は何かと気遣ってくれた。 祖父母の家には私以外にも帰省した子供が数人いたが、いとこたちは皆、私を遠巻きに見るだけだった。当時の私はあまり構われたくなかったので、彼らの距離感はちょうど良かった。しかし祖父母の目にはそう映らなかったらしい。 差し伸べられた手を無視するには、私は幼すぎた。祖母と手を繋ぎ玄関へ向かうと、いとこたちが祖父と一緒に待っていた。
「それじゃあ、行こうか」
すぐそこに見えている山の麓、名も知らぬ神社で行われている祭りへ向かった。
「これ、なんの神様のお祭り?」
そう問うたのは、祖父と手を繋いだいとこだ。年が近いのは覚えているが、名前は忘れた。 彼の問いに、私と手を繋いだ祖母が首を傾げる。
「さぁ、何だったかねぇ」 「じいちゃんが子供の頃には、もう何を祝ってるか祈ってるかわからん状態だったなぁ」
この過疎地で行われているのは、形しか残っていないお祭りだ。年々規模が縮小し、いずれ消えゆくことが定まっている。参拝者が減り、店が減り、住民が減り、寂れていく一方だった。 それでも、山の麓の神社で執り行うことだけは変わらない。無事に着いた神社では、少ないながらも出店が並び、明かりを放つ提灯がいくつもぶら下げられていた。 はしゃいだいとこたちが、祖父の話も聞かず好き勝手に出店へ駆けていく。それを祖父が追いかけ、祖母が「元気ねぇ」と苦笑気味についていく。 祖母は、一番幼い私から目を離さなかったはずだ。はぐれてはいけないと、よくよく気をつけていただろう。けれど私はどうやったのか、祖母の手をするりと抜けて、いとこが祖父にお小遣いをねだる横を通り、鎮守の森を抜け、山に入っていった。 どんな道を歩いたのかはわからない。覚えていないのではなく、わからない。それでも記憶に残ったのは、さわさわ揺れる葉っぱの音、さらさら流れる川の音、そして、気温。
「あつい」
森の中は涼しいかと思いきや、意外とそうでもなかった。夕方といえど昼間の暑さがまだ残るような猛暑だったせいだろうか。 戻ろうかな、どうしようかな。 悩む私に、誰かが声をかけた。
「こっち、こっち」
幼いような、ただ甲高いだけのような、そんな声だった。私を招いているらしい。少なくとも、私にはそう感じられた。 声の聞こえる方角へ足を向けると、川の音が大きくなった。そして声も、よく聞こえるようになった。
「こっちだよ」
足下を見ると、沢蟹がいた。私は沢蟹と目が合った。確かに、視線が交わった。 沢蟹は短い足を動かし、私の先を行く。私は後をついて行く。川の音が大きくなる。川が近づいている。もう見えている。沢蟹は足を止めない、私も足を止めない。 沢蟹が、ぽちゃん、と川に飛び込んだ。涼しそうだ。川の流れは穏やかだ。足を浸せば気持ちかろう。
「冷たいよ」
沢蟹が呼ぶ。
「気持ちがいいよ」
沢蟹が笑う。 私もあの中へ入りたかった。冷たい水に包まれたかった。 川縁に近づき、覗き込む。そのとき誰かが私の後ろに立った。
「危ないよ、おちびちゃん」
その誰かは、私の襟首を掴んだ。ぷらん、と体が浮く。「あれ?」と思う暇もなく、私の体は地面に下ろされていた。 見上げると、狐のお面を被ったおじさんがいた。
「ここらの沢蟹は意地が悪い。大人も連れず川へ近づいちゃいけないよ」
諫める声は優しい。しかしそれよりも、私はおじさんの格好に目を吸い寄せられていた。 藤色の着物と、草色の羽織がきれいだった。真っ白な面に引かれた鮮やかな赤が、印象的だった。 おじさんの忠告に返事もせず、私はお面を指差した。
「おじちゃんも、おまつり?」
私の問いに、おじさんは気を悪くする風もなく「いや?」と笑う。
「きみらが怖かろうと思って被ってるだけさ」
おじさんはお面を浮かせて、私にお面の下の顔を見せた。酷い顔だった。どんな、と聞かれれば思い出せない。ただ「可哀想」と思ったことは、覚えている。「かわいそね」と、彼の酷い顔に手を伸ばしたことは覚えてる。 届きもしないのに手を伸ばす私を見下ろし、おじさんはきょとんとしていた。
「可哀想。ははは、そうか。可哀想か」
おじさんはしゃがみ込み、「優しいね」と頭を撫でてくれた。そしてそのまま、私と目を合わせぽつりとこぼした。
「おれはね、寂しい。寂しいんだ」 「そなの?」
おじさんはうなずき、立ち上がった。何も言わず、さも当然のように手が差し出される。私も、それが当たり前だという顔でおじさんの手を握った。 歩幅を合わせ、おじさんはゆっくり歩き出した。
「祭りもあんなに小さくなって、おれのところへ来る子らもずいぶん減った。昔はもっと、賑やかだったのに」
ぽつりぽつりと、おじさんは語る。 寂しい。その気持ちは、わかった。母を亡くし、父が仕事ばかりで家に寄りつかなくなって、祖父母の家に預けられた私は、寂しかったのだ。
「さびしいの、やだね」 「いやだね。きみも、寂しかろう」 「うん」
私の手を握る手に、力が込められた。私も、おじさんの手をきゅうと握り返した。 それから私たちは黙って歩き、気づけば鎮守の森の出口に着いていた。祭りの様子が見える。すぐそこなのに、遠く感じた。 おじさんが、私の手を離す。離れてようやく、おじさんの手はあたたかったのだなとわかった。
「またおいで、優しい子」
背中をそっと押される。私は足を踏み出しながら、おじさんを振り向きうなずいた。
「さびしかったら、よんでね」
そう、返してしまった。同じ〝さびしんぼ〟だからと、約束してしまった。 だから私は呼ばれるようになった。昼であろうと、夜であろうと。
「スイ、スイ、こっちへおいで」 「ほらおいで、沢蟹たちと遊ぼう」 「約束したろう。慰めに来ておくれ」 「おいで、さあ、こっちへ」
窓の外から。草むらの奥から。木々の間から。川の底から。 狐面を被ったおじさんの声が、姿が、私を招く。 幸いにも、私は村で一番幼い子供だった。一人でふらふらと歩くのはとても目立ち、大人たちが慌てて捕まえてくれた。そのときの私はどうも、魂が抜け出たようにぼんやりしていたらしい。 これはおかしいと思った祖父母は、私を隣村の拝み屋へ連れて行った。
「忘れ去られてしまえばよかったんだ、あの《《神》》は」
私たちを出迎え、話を聞いてくれたのは、死んだ母よりも若いお姉さんだった。ぴんと背筋を伸ばして正座したお姉さんの声は、静かだがよく通った。
「あれでも神だ。あんたらの村全体へ何かをする力は失っても、一人に執着し集中すれば彼岸へ連れ去るくらい簡単だろうさ」
私はお姉さんの声ではなく、顔ばかり気にしていた。お姉さんの右目は、ぽっかりと穴が開いていたからだ。 あるはずのものがない。それは覚えていないはずの、あのおじさんの顔を思い出させた。 わたしがぽつり「かわいそね」と言うと、お姉さんは心底嫌そうに顔をしかめた。
「善意だろうが、その言葉は好かない」
お姉さんの言い回しは四歳の私には耳慣れなかったけれど、不快にさせたことはぼんやりわかった。「ごめんなさい」と謝れば、お姉さんは呆れたような、困ったような顔になった。 ため息をついて、お姉さんは私に言い聞かせた。
「お前はその言葉で《《あれ》》に魅入られたことを意識せねばならないよ。素直な子供は愛らしいが、それゆえに執着されやすい」 「あい」
私が理解していないのを察したのだろう。お姉さんは深々とため息をつき、私ではなく祖父母へ向き直った。
「子供の間は、私が|呪《しゅ》によって守りましょう。けれどこの子が成人すれば、私の|呪《しゅ》は及ばない。そういうものなのです」
祖父は何度も頭を下げ、お姉さんにお礼を言った。祖母は私を抱きしめ、どうかどうかと祈った。何もわかっていない私に、お姉さんが再び目を向ける。
「強くなりなさい。そして、大人になりなさい」
どう強くなり、どう大人になれと言っているのか、私にはわからなかった。うなずかなければいけない空気だけは感じ取り、わからないなりに「あい」とうなずいた。お姉さんはまたあの困り顔で、私に|呪《しゅ》を施した。 それから、昼夜を問わず私を呼ぶ声は聞こえなくなった。お姉さんの|呪《しゅ》はよく効いているらしい。 しかし季節がおじさんと出会った夏になると、おじさんの声は私を呼んだ。いや、きっと夏以外も呼ばれているのだろう。お姉さんの|呪《しゅ》で、聞こえなくなっているだけだ。 夏の間、私は一人になれなかった。祖父が、祖母が、いとこが、あるいは近隣住民が、私を一人にさせなかった。一人にすれば、神に呼ばれて隠されてしまうから。 夏の記憶は朧気だ。小学生になる頃には、祖父母の家から父の元へ戻された。
「地元の神様だもの。遠くへ行けば、忘れてしまうでしょう」
祖母はそう言って、拝み屋のお姉さんから受け取ったらしいお守りを私に持たせてくれた。
「じいちゃんたちが会いに行くから、寂しくないよ」
祖父はそう言って、父の車に乗せられる私の頭を撫でてくれた。 母の死後あまり家に寄りつかなくなっていた父だったが、私が家へ戻ると、子煩悩のシングルファザーになった。 母の忘れ形見である私が神様に連れ去られそうになっているのを信じたわけではない。私がストレスから危険な行動をしていると思ったのだ。あながち間違いでもない。 母の分も父から愛情を注がれ、大型連休の度に祖父母が会いに来てくれて、私の寂しさはずいぶんと埋められた。あのおじさんと出会った時のように、寂しさを分かつためにおじさんの手を取るようなことはしないだろう。 けれど、あの《《人》》を可哀想と思うのは変わらない。
成長するにつれ、私は図書館で熱心に調べ物をするようになった。祖父母の村のあの神社に、何が祀られているかを調べた。なぜ祀られるようになったか、調べた。 あの《《人》》は、神様の前は■■■■■だった。神様にされて、神様になったのに忘れられていって、あんな顔になって、それでも人を愛して、怖がられないようにとお面を被って、見守っていた。 見守ってくれているのに、誰も顧みない。それはとても寂しく――。
「可哀想」
資料をめくり、ぽつりと呟く私を、|呪《しゅ》を通してお姉さんが責める。けれど、やはり私にとってあの《《人》》は〝可哀想〟だ。 その思いは、成人しても変わらなかった。
「お前はまだ、《《あれ》》を可哀想だなんて言うのか」
成人式前日、日付が変わろうという真夜中。私は部屋で一人、今まで調べたあの《《人》》の資料を見返していた。 私の背後には、お姉さんがいる。正確には、お姉さんの|呪《しゅ》だ。もう少し、あと少し時計の針が進めば、お姉さんの|呪《しゅ》は消えてしまう。私のことを守れなくなってしまう。 だから答えを誤ってはいけない。いけないのに、私は。
「あの《《人》》は、可哀想だと思うよ」 「そうか。……そうか」
残念そうにうなずいたお姉さんの気配が、ふっつりと消える。代わりに、嬉しそうなあの《《人》》の気配が濃くなった。 上からふわりと布でも被せられたかのように、周囲がぼんやり暗くなる。周囲の物が消え失せる。周囲の音が、遠くなる。 そして、あの《《人》》が姿を現した。あのときと変わらない声が、私を呼ぶ。
「スイ」
草色の羽織。藤色の着物。額から生えた角。裾から覗く、鱗が並んだ長い尻尾。 神様じゃなくなったあの《《人》》が、私を連れにやってきた。
「スイ、スイ、おれの優しい子。きっときっと、おれの元へ来てくれると思ってた」
おいで、とあの《《人》》が手を差し伸べる。 誘う手は闇より深い黒に染まって、指先は刃物のように尖っていた。迷子を送り届けてくれたあの優しい手は、面影の欠片もない。 狐の面が音もなく剥がれ落ちる。あのときの、可哀想なほど酷い顔はない。けれど、神様と呼べる顔でもない。
「きみさえ手に入れられるなら、神と祀られなくていい。祭りもいらない。氏子もいらない。ただきみさえ、きみさえそばにいるのなら」 「……可哀想にね」
墨のように真っ黒な手に手を重ねると、ぐいと引かれ、草色の羽織に抱きすくめられる。 羽織からは、息の詰まるような、夏の森の匂いがした。