散歩が日課である私は、毎週日曜は大きな公園へ出向いて、そこのベンチで本を読むのを習慣としている。その日曜も、日の当たるベンチに腰掛け本を読んでいた。日曜の午前中は子連れが多いように感じる。子供たちのはしゃぐ声も聞こえないほどに集中し始めた頃、赤ん坊を抱いた女性に声をかけられた。 声をかけてきたのは、長い髪を明るい茶色に染めた、若いお母さんだった。その人の顔には見覚えがある。ご近所さんかもしれない。年が近そうだから、もしかすると同級生か何かかもしれない。そうだとすれば誰だろう。思い出せずつい顔を凝視していたら、女性は何か言いたげな顔で口ごもってしまった。それでも、女性は赤ん坊を抱いたまま私の前に立っている。私の顔と私が持つ本へ何度も視線を往復させる。 女性があんまり困った顔をしているものだから、面倒な問題でも抱えているなら関わりたくないなぁと思いつつも「何でしょう」と尋ねてしまった。女性はそれでも言うか言うまいか迷う素振りを見せた。しかし、決心はついたようだ。女性は遠慮がちに、私の手元の本を指した。
「いつも、本を読んでますよね」
読んでいたのは怪談だったので、隠すように閉じて「ええ」とうなずいた。女性は迷いの浮かぶ目で、じっと本を見る。
「それ、難しい本ですか」
尋ねる顔はあどけなく、尋ねる声はなぜだか不安げだ。私は「まさか」と笑顔を見せ、首を振った。
「ホラーが好きなんです。だからここで読んでるのは、怖い話ばかりですよ。今日は怪談でした」 「そうですか」
うなずいた女性は、少し考えるような素振りを見せたかと思うと、私の左隣に腰掛けた。急に声をかけてきて隣に腰掛け、はてさてこの女性の目的は何なのかと少し警戒したが、その警戒はすぐに消えた。女性が、あまりにも思い詰めた顔をしていたのだ。 二人同時に「あの」と口を開く。何度かの譲り合いを経て、女性が話すことになった。
「怖い話がお好きなら、少し、聞いてもらえませんか」
女性はこちらの了承を得る前に、小学三年生の時の体験を語り始めた。
***
子供の頃――確か、小学三年生の時でした。事情があって、当時の私は学校が終わってもまっすぐ家に帰れなかったんです。かといって、遊ぶ相手もいなくて……私はいつも、町外れの小さな森で時間を潰していました。ええ、もちろん一人きりです。家に帰れない事情のせいで、私には友達がいませんでしたから。 森で時間を潰していましたが、遊んでいたわけではありません。いつも森の入り口すぐで、適当な大きさの石に座り込んで、空の色が変わるのを待ってました。一人でどう遊べばいいか、あの頃の私は知らなかったんです。 ある日、その森の奥まで分け入りました。一度家に帰ったんですが、その日は特に家の中に入れなくて、しょうがなくて、もっと時間を潰すために、森の奥まで行ってみようと思ったんです。
今思えば、その森はおかしなところでした。
昼日中に入っても暗くって、夏でも鳥肌が立つほど寒くて、いつも誰かの視線を感じていました。誰もいないのはわかってました。だって、一人で寂しいから、その視線の方角へ声をかけたことがあるんです。返事がないから、その方角へ足を向けたこともあります。でも、藪の中にも、木の陰にも、誰もいませんでした。 そんな森に入って、ある程度奥まで進んだところで、急に視界が開けました。そこには一本の木がぽつんと立っていたんです。ほかの木々がその木を避けているように見えました。だって、それまでは鬱蒼としてたんです。なのに急に、あんな円を描くように……いえ、それはどうでもいいですね。ごめんなさい。 円の中心に、避けられてるように立っていた木は、蔦に覆われた枯れ木でした。暗い森なのに、そこだけ不思議と光が当たっているようで、私は吸い寄せられるように見つめていました。見つめて、いたんです。目を離した瞬間なんてありません。なのに瞬きをしたら、木の下に人が立ってたんです。 人……なんでしょうか。 木の下の|人《ヒト》は、髪の量が異常でした。前を向いているのか後ろを向いているのかわからないくらい、伸ばされていました。足下の地面についてもなお広がるくらい、長かったんです。そんな長さの、そんな量なのに、髪に隠れた体が枯れ枝のように細いとわかりました。体なんて、指の先、足の先すら見えなかったのに。 私は立ち竦み、踵を返すことも進むこともできず、ただじっと、黒髪の|人《ヒト》を見つめていました。また瞬きをすると、黒髪の|人《ヒト》は木の下から消え、私の目の前に立っていました。どうやら黒髪の|人《ヒト》は、音もなく動いている瞬間を見せず動くことができるようでした。 白目がちの大きな目が一つ、髪の下からぎょろりと覗いていました。声がなくとも、黒髪の|人《ヒト》が「なぜここにいるのか」と私に問うているとわかりました。
「家にいられないの」
当時の私は、震えながら答えました。黒髪の|人《ヒト》が恐ろしくて仕方なかったせいもあります。でも、震えていたのは目の前の|人《ヒト》が怖いだけではありません。黒髪の|人《ヒト》よりも恐ろしいものが家で待っていたせいなんです。
「家に、怖い人が来るから」
当時、私の家は父の借金により、後にも先にも行けないような状況になっていました。借金取りは毎日のようにやってきて、父や母を恫喝し、私のような子供相手でも容赦なく大声で威嚇し、時に手を出すこともありました。まだ幼く〝借金取り〟という概念も理解できていなかった私ですが、あの人たちがどれほど怖い人かはわかっていました。 黒髪の|人《ヒト》に「帰れない」と訴え瞬きすると、黒髪の|人《ヒト》はまた、木の下に戻っていました。ぎょろりとした目は、もう見えませんでした。森に来るのを、あの枯れ木だけが立つ広場にいるのを、許されたような気がしました。 それから私は、毎日あの森で時間を潰しました。続けて通うと、森のあの|人《ヒト》から小さなプレゼントがもらえたんです。それが嬉しくて、森の中が少しくらい寒くても、森に入った途端見つめてくる視線の数が恐ろしくても、私はあの|人《ヒト》が待つ枯れ木の広場へ通えました。 プレゼントは葉っぱに|包《くる》まれて、長い長い黒髪を編んだ紐で縛られて、手渡されました。中身はつやつやでピカピカなどんぐりだったり、小さいけど甘酸っぱく美味しい木の実だったり、角が削られ丸くなった半透明のきれいな石だったりで、毎日決まったものがもらえるわけではありませんでした。けれど大体この三種類のどれかが、前日私が何を言ったかによって、黒髪の|人《ヒト》は枯れ枝のような手で差し出してくれました。 お腹が空いたと呟けば、翌日のプレゼントは木の実です。退屈だと呟けば、翌日のプレゼントはおはじき大のきれいな石です。どちらでもないときは、どんぐりを渡されることが多かったように思います。 ぎょろ目のあの|人《ヒト》は、私が欲しがるものを何とか叶えようとしてくれているようでした。だから私は、木の下に佇むあの|人《ヒト》に「お金がほしい」と言ってしまいました。
言い訳をさせてください。
怖かったんです。あの借金取りが。 嫌だったんです。あの薄い布団が。 怖かったんです。両親の言い争いが。 嫌だったんです。級友から不潔だと罵られるのが。
次の日、息を弾ませ森へ行くと、あの|人《ヒト》からぱんぱんに膨れた財布を差し出されました。血がべっとりついた地味な色の財布は、黒髪でぐるぐるに縛り上げられていました。 後から思えば、そんな不気味と不穏を足して掛け合わせて混ぜ合わせてこね合わせたような財布、絶対に受け取れません。でもあのときの私は、怖いとも気味が悪いとも思いませんでした。むしろ、財布と黒髪が金色に輝いて見えました。これを持って帰れば何もかもが好転すると思ったんです。 財布を受け取った私は、お礼もそこそこに踵を返して家に帰りました。そして暗い顔の両親に、財布を差し出しました。私が差し出した財布を見て、両親は顔色を変えました。けれどそれは喜びの色ではなく、驚愕と恐怖の色でした。青ざめた両親に財布の出所を聞かれ、私はとっさに嘘をつきました。知らないおじさんにもらったと言うと、両親は私の手を引き外へ連れ出しました。道すがら、新聞の集金係のおじいさんが何者かに襲われて怪我をしたと聞かされました。その際、集めたお金が入った財布を奪われたことも、聞きました。その財布の特徴は、私が持つ財布と見事合致していました。 交番に連れて行かれ、おまわりさんに財布を差し出しながら、私は震えました。あれは〝してはいけないお願い〟だったと、ようやく気づくことができたのです。あれは親切なものではないと、ようやく理解できたのです。あれはやりすぎるものだと、ようやく、わかったのです。 青ざめ震える私を見て、両親は何か察するところがあったようです。さすがに私が財布を奪った実行犯だとは思っていなかったようですが、知らないおじさんとやらに何か言ったのかもしれないとは思ったようでした。 立ち行かない家計。悪化する家庭環境。自力ではどうにもできないと思った両親は、夜逃げを決意しました。交番から帰った日の夜、私は誰にも言うなという前置きの後、夜逃げの決行日時を教えられました。言う相手などいませんでしたが、人でないなりに私の世話を焼こうとしてくれたあの|人《ヒト》にお礼は言うべきかと、考えてしまいました。もしあの|人《ヒト》がくれたピカピカのどんぐりやきれいな石を家に持ち帰っていなかったら、きっと、そんなこと思いもしなかったでしょう。今でも、あの森でもらったものは森の外で捨てておけば良かったと、後悔しています。
翌日、私は一人であの森に入りました。鳥肌が立つほど寒くて、棘のような視線を感じるあの森に入り、あの|人《ヒト》にどう挨拶するか考えながら歩きました。 枯れ木の広場に着くと、あの|人《ヒト》はすでに木の下に立っていました。あの|人《ヒト》は私を見るなり音もなく近寄り、今までにないくらい近く――鼻先が触れそうなくらいすぐそば――まで来ると、私に何か言いました。 私は、あの|人《ヒト》と言葉を交わしました。確かに、交わしました。なのに、どんな声で何を言っていたか、ちっとも思い出せません。けれど、何か大事なこと、とてつもなく後悔するようなことを約束したのは、確かです。
***
語り終えた女性は、腕の中の赤ん坊の後頭部へ顔を押しつけた。
「何を約束したか、覚えてないんです。でも、向こうは覚えてる。覚えてるから、期限が迫ってるから、私に思い出させようとしてるんです。思い出したら……思い出したら私、きっと……」
女性は、声までも震わせ絞り出すようにそう言った。黙って話を聞いていた私はと言えば、何と返事をすればいいか見当もつかず、気まずさを感じながら手元へ視線を下ろすしかできなかった。 しばらく女性は、赤ん坊の後頭部に顔を押し当てたまま、震えていた。泣いていたのかもしれない。慰めの言葉をかけてやれたらどれだけ良かったか。私はただ、喃語を呟く赤ん坊を見つめていた。 震えていた女性が、ゆっくりと顔を上げた。かすれた声が「見てください」と私に手のひらを見せる。広げられた手、その左手の薬指に、長い長い黒髪が巻きついていた。ぎょっと目を剥くと、女性は乾いた声で笑った。
「夜逃げして、しばらく忘れてたんです。髪が巻きつくようになったのは、夫と出会ってからでした」
最初は部屋のどこかに、長い髪が落ちているだけだったそうだ。夫となる男性は気にも留めなかったようだが、女性はその異様に長い髪が人のものに思えず、気味が悪くて見かけるたびに捨てていたらしい。そうしているうちに、その黒髪が女性の体のどこかにくっつくようになってしまったと、女性は語る。
「この子が生まれる頃には、指に巻きつくようになりました。解いても解いても、気がつくと巻きついてる。捨てても捨てても、どこかで異様に長い黒髪が見つかる」
巻きついていた髪を解き、地面に落とし、足で遠くへやりながら、女性は今にも泣きそうな声で子供を抱きしめた。
「私には、夫も子供もいます。どうしたらいいんでしょう。こういうのって、お話の中だとどうやって解決してるんですか?」
ようやく、合点がいった。女性は私を神霊トラブルに慣れた霊能者か何かと混同しているようだ。だが生憎、私は怪談話を好むだけの一般人だ。霊感のれの字すら持ち合わせていない。アドバイスを求められても困るばかりだ。 しかし勇気を出して話しかけた彼女の心境を思うと、むげにもできない。私はない知恵を絞り、寺か神社へ行ってみるよう言った。宗教によっては教会もありかもしれないが、その辺の判断は住職さんや宮司さんに任せたい。私ができるのは、単なる一般人ではなく本職の方を頼るよう説得することだけだ。 私のアドバイスに感激したのか失望したのか――恐らく後者だろう――女性は涙のにじむ目で一礼し、赤ん坊を抱いて去って行った。天気はいいし気温もちょうど良かったのだが、私はもう、本を読む気が失せてしまっていた。女性の姿がもう見えないのを確認し、大きく伸びをしてから、公園を後にした。 近所に住まう若い奥さんが失踪したというニュースを聞いたのは、それからしばらくのことだった。夫と子供を残して忽然と姿を消したのだと、近所の口さがない奥様方が噂していたのを耳にした。
「旦那さん、けっこうひどい人なんですって」 「借金こさえてて、酒癖も悪かったそうね」 「そもそも結婚だって、子供ができたから仕方なくしたそうじゃないの」 「その子供もね、どうやら若い頃の旦那さんが無理矢理……」
定められた場所へ定められたゴミを捨てながら、井戸端会議を横目に見やる。ああいう噂はどこで仕入れるのだろうと不思議に思いながら、挨拶する私に気づきもせず会議に熱中する奥様方の横を通り過ぎる。その日は夜勤だったため、散歩をしてから一眠りしようと決めていた。公園へ行くなら本を鳥に戻ろうかと考え歩き出す私の耳に、井戸端会議に熱狂する一人の声が刺さった。
「きっと、何もかも嫌になっちゃって逃げたのよ」
それは違うだろう――と私は思わず振り向きかけた。それを自分で押しとどめ、再び散歩ルートへ足を向ける。てくてくと歩きながら、声に出さず「それは違う」と私は繰り返した。だって彼女が失踪した家に、夥しい量の髪が見つかったと聞いたのだ。 一本一本が人の背丈より長く、人間の頭から抜けるとは思えない量が、床や壁に貼り付いていたらしい。布団で眠っていた夫も、ベビーベッドで眠っていた赤ん坊も、この黒髪でぐるぐる巻きに縛り上げられていたそうだ。
――あの女性が交わした約束は、何だったんだろう。
気になるが、知ることは叶わない。残念だなぁと思いつつ、私は散歩ルートであるあの公園へと足を向けた。