十七になった秋。補習を終え、石ころ転がる田舎道を自転車で走る。畑の向こうに見える大きな古い家が、父の生家で僕の家だ。 僕が生まれる前、両親は事業が失敗して、六つの姉を連れてこの家に転がり込んだ。お腹を膨らませた母とボロボロの絵本一冊しか持たない姉を連れ帰った父を見て、祖父は何も言わず、家に迎え入れた。泣き腫らした顔をした母の肩を抱き、体温を移すように撫でてやりながら、祖母はこう言ったらしい。
「うちには座敷童がおるんよ。これからは何も心配いらん。全部うまいこといくさかいに」
祖母の言葉通り、父は仕事を得て、母は無事僕を産んだ。それが座敷童のお陰かどうかは、十七になった今もわからない。 帰宅し、自転車を片付けて玄関に走る。外はもう薄暗い。あまり遅い時間に帰宅するのは好きじゃない。引き違い戸を開け、「ただいま」と奥に呼びかける。優しい声で「おかえり」と応じてくれるのは祖母だ。
「晩ご飯、できとるよ」 「うん」
靴を脱ぎながらうなずく。去年までは、祖母の「おかえり」の次に祖父の濁声が「今日はどうやった」と聞こえた。しかし先の冬、祖父は帰らぬ人となった。消えた姉の行方を心配し、畳の上で息を引き取った。看取ったのは僕と祖母だ。両親は、仕事だった。 母は僕が五つになると、祖父母と幼稚園に僕を預けて働き出した。母の社会進出を手放しで喜んだのは父だけだったが、僕も喜ばなかっただけで嫌がりはしなかった。祖父母と、大好きな姉がいたから、寂しくなんかなかったのだ。 姉は七つ年上だった。艶やかな黒髪に、つるりとした白い肌。切れ長の涼しげな目に、赤い唇。その横にぽつりと控えめに存在するほくろ。笑うとき必ず口元に添えられる、細い指。いつでも穏やかで耳に心地よい声は、笑うと心底楽しそうに弾ける。 姉は、たおやかな人だった。僕は姉が好きだった。しかし大好きな姉は、もう十年以上行方が知れない。 靴を脱いだ足を、廊下に置く。
「たーくん、おかえりぃ」
姉の声が、床板の隙間から聞こえた。幻聴だと自分に言い聞かせ、僕は廊下を歩く。姉は行方不明だけれど、この家に《《いる》》。姉は僕の目の前で姿を消した。以来、誰も姿を見ていない。姿を消した瞬間を、僕は見た。姉は引きずり込まれたのだ。この家の隙間に、《《あいつ》》の手によって。
初めてあいつを認識したのは、五歳の誕生日を過ぎた頃だった。七つ上の姉は十二歳。あいつもちょうど、そんな年頃に見えた。気の強そうな、意地が悪そうな、吊り上がった目をした青い着物の男の子。それがあいつの見た目だった。 あいつは隙間や影に潜んでいて、大人がいなくなるとぬるりと現れた。僕の前ではなく、姉の前に。 僕はあいつが嫌いだった。姉にそう訴えると、姉は悲しそうな顔をする。
「そんなこと言わんといて、たーくん」
姉は優しい。優しい姉が悲しむから、姉の前であいつのことを悪く言うのはやめた。けれどこっそり、祖父母にあいつの存在を教えた。家の隙間から、影から、変な子が現れては意地悪をするので怖いと訴えた。二人は――特に祖父は――初の男孫である僕を可愛がっていてくれたので、どうにかしてくれると思った。しかし二人は僕の期待を裏切り、笑い飛ばした。
「そらぁこの家の座敷童やな。いっつも男の前には顔見せへんし、男が嫌いなんやろ」 「しょがないわ」と祖父は呵々と笑い、祖母も「遊んでもらえんで残念やね」ところころ笑う。 違う。 違うのに。 僕はそんな理由であいつを嫌っているわけではないのに。 あいつの、じっとりした目が嫌いだ。嫌な重みのある視線で、姉を刺すから。影の中から、隙間の中から、いつでも姉を見ているから。 あいつは、姉が好きだ。大好きな姉を僕以外の誰かも好いているだなんて、姉もその思いを返すかもしれないだなんて、我慢がならない。 嫌いな理由は、それだけではない。 あいつはいつも、姉の前で僕を貶める。 姉にくっつく僕を突き飛ばし、冷ややかな目で僕を睨む。
「お前だけは、仲間に入れてやんねえ」
それがあいつの口癖だった。抵抗もできず突き飛ばされた僕を睨みつけそう言うと、姉をどこかへ連れていこうとする。 そんなとき姉はいつも、あいつより僕を優先してくれた。 尻餅をつく僕を助け起こし、悪くもないのに「ごめんなぁ」と謝り、拗ねた顔をするあいつを咎めた。
「そんな冷たいこと言わんといて。あたしの弟なんやから」
姉は優しかった。あいつは優しくなかった。僕は姉が大好きで、あいつが大嫌いだった。 大人が近くにいると、あいつは影や隙間から出てこない。出てこられないのかどうかは、知らない。大人がいるとあいつは姉に触れられなかったのは事実だ。僕はこれ見よがしに姉にしがみつき、姉を見るあいつの前で、勝ち誇った気分でいた。しかし姉は、そんな僕を咎めた。姉は僕にも、あいつにも優しかった。
「たーくん、わざと意地悪したらあかんよ」
そう言う姉の目は、あいつが潜む隙間に向いていた。姉はあいつの視線に気づいているようだった。あの粘つく不快な視線に気づいていながら、あいつを拒まなかった。
季節が過ぎ、月日を重ね、姉は小学校を出て、中学生になった。あいつの外見も、姉同様年に成長していった。姉と変わらなかった背はぐんと高くなった。なのに相も変わらず、指も入らないような隙間に潜んで姉を見つめる。 分け隔てなく優しかった姉の天秤があいつに傾き始めたのは、姉が十四になった冬の頃だっただろうか。
吹き荒ぶ雪と風の音に眠れなかった夜のことだ。トイレに行こうと自室を出た僕は、その帰り、ひそひそと誰かが話す声を聞いた。 長い長い廊下の向こうから声は聞こえる。僕は夜の廊下が嫌いだった。あいつ以外にも、何か想像もできないような醜悪な化け物がうずくまっているような気がするのだ。 その廊下の向こうから、ひそひそ声は二人分聞こえていた。一人は姉だ。もう一人は誰か。それは、認めたくなかった。 古い家だ、歩くだけで床は軋む。幸いまだ幼く体重の軽かった僕は、静かに、息を殺して歩くことで床の軋みを抑えられた。 荒れ狂う天候は、僕の味方だったのだろうか。それとも、あいつの味方だったのだろうか。廊下を渡り、食堂を抜け、そっと、台所を覗き込む。
暗がりの中、姉がいた。
流し台に手をついて寄りかかり、湯気の立ち上るマグカップを片手に、冷蔵庫の隙間に話しかけていた。姉の声に相づちを打つ、あいつの声が聞こえる。あいつの声に潜めた笑い声を立てる、姉の声が聞こえる。 僕の前で見せる笑顔と、違う。 あいつにしか見せないであろう、幼い僕でもわかるような、好意と媚びを滲ませた笑顔だった。 僕に聞かせる声と、違う。 あいつにしか聞かせないであろう、幼い僕でもわかるような、恋慕と甘えを含んだ声だった。 隙間にいるあいつの手が、姉に伸びる。姉は流しに寄りかかるのをやめ、あいつの手をぴしりと叩いた。ざまぁみろと胸の空くような気になったけれど、すぐに胸はもやもやで満たされる。 姉の白く細い指と、あいつの影のようなぺらぺらした指が、絡み合う。指を絡めては解き、追いかけてはまた絡め、逃げるように解く。訳のわからない手遊びに興じる姉の横顔は、とても楽しそうだった。
***
姉が十七になった夏のことだ。夏休みは目前で、僕も姉も半日で帰宅できる日々が続いていた。当然、父と母は仕事に出ている。祖父母も野良仕事に出ていた。家には僕と姉の二人きり――あいつを入れるなら三人きりか――である日が増えた。 あの日のお昼はそうめんだった。僕より先に帰っていた姉は、制服のまま、そうめんを茹でてくれていた。鞄を下ろした僕は、「ただいま」も言わず姉の背中を見つめた。その頃の姉は、すっかり僕に構ってくれなくなっていたのだ。姉が高校生になったということもあるが、主な原因は《《あいつ》》だ。 姉が十五になった頃から、あいつは大人がいようと関係なしに姉に話しかけるようになった。あいつの声を聞くと、姉は何もかもを放り出し、あいつと話せる場所へ移動する。僕の宿題を見てくれている最中だろうと、祖母の手伝いをしている最中だろうと、食事をしている最中だろうと、お構いなしに。 このままではいつか、姉はあいつに取られるのではないか。 そんな不安を覚えた僕は、姉に手紙を書いた。渡したのは梅雨時の晴れ間、洗濯物を干しているときだ。あいつが隠れるような影も隙間もない庭に姉がいるのを見計らって、僕は姉に手紙を手渡した。
「姉ちゃん、これ」
僕が差し出した手紙を、姉は受け取った。僕はうつむき、手紙が開かれるかさかさという音を聞いていた。 手紙に書いたのは、たった一言だ。
『姉ちゃん どこにも 行かんとって』
微かに「あ」と姉が呟くのを聞いた僕は、恐る恐る顔を上げた。顔を上げた僕を見た姉は、困ったように、少し恥ずかしそうに笑い、僕の前にしゃがみ込んだ。
「姉ちゃんはどこにも行かへんよ。ずっと|家《ここ》におるよ」
――本当だろうか。
姉があいつに取られる――連れ去られるという不安は消えなかった。けれど姉が僕の手紙を大事そうに折りたたんでエプロンのポケットに入れたのを見た僕は、その言葉を信じることにした。今はああやってあいつに夢中になっていても、いつかは目を覚まし、こっちを見てくれると信じていた。 だからあのときも、鞄を下ろしても突っ立ったまま、エプロン姿の姉の背を無言で見つめていた。だが姉は、僕を見なかった。悲しかった。だから僕は、二人きりでお昼を食べたあと、流し台で食器を洗っている姉に縋りついた。
「姉ちゃん、遊んで」
姉は驚いたように手を止め、僕を見た。見上げると、優しさに困惑と諦めをひとさじずつ混ぜたような顔が、僕を見下ろしていた。
「何して遊ぶん?」
優しい声で、姉が問う。僕は「かくれんぼ」と即答した。かくれんぼなら、姉が鬼になったなら、姉は僕を見つけるためだけにすべてを注いでくれるからだ。 姉は「ちょっと待ってな」と、また食器に向き直った。
「かくれんぼするなら、お座敷の準備せななぁ」 「僕がする」
そう言って僕は、慌てて座敷へ走った。 僕らにとって、この家でするかくれんぼは座敷から始まる。座敷の襖をすべて開け放ち、庭に面した窓を開ける。明かりを取り込み、風を通らせ、隠れにくくした上でかくれんぼをするのだ。 窓を開け放しても、家からは出ない。 そういう決まりだ。 どうしてそんな決まりを作ったかは、忘れた。 思い返すとあいつが原因だった気がするが、今は思い出さないことにした。 僕が準備を終えた頃、食器を洗い終えた姉が座敷に入ってきた。
「そんなら、姉ちゃんが鬼するでな。たーくんは隠れておいで」 「姉ちゃん、ちゃんと百まで数えてな」 「はいはい。いーち、にーい」
隠れ場所はどこがいいか。考えながら、僕は座敷を出ようとしたその瞬間だ。 あいつが、畳の目の隙間からしゅるりと出てきた。 僕が「あっ」と声を上げる間に、あいつは姉の腕を掴み、伸び上がるように鴨居の隙間に飛び込んだ。 姉が、あいつに攫われた。 蹈鞴を踏んだ僕は踵を返し、鴨居に向かって何度も飛んだ。
「返せ、返せ、姉ちゃんを返せ!」
隙間から、にゅう、と手が伸びた。姉のものではない。その手は汚物でも持つように何かを摘まんでいた。 僕が姉に渡した、あの手紙だった。 手――あいつの手は、僕の手紙を投げ捨てた。
「こいつはもう、おれのもんだ」
そう言い残し、あいつの手は隙間に引っ込んだ。 それからは、僕がいくら喚こうが罵ろうが、隙間からは何の応答もなかった。飛び跳ね疲れた僕は、畳の上にぺたんと座り込み、ただ鴨居を見上げていた。 どれくらいそうしていたか。 僕はゆっくり立ち上がると、ふらふらと外へ出た。夏の日差しがあるときは帽子を被るよう言われていたのに、帽子も被らず、それどころか靴すら履かなかった。何だか、大事な何かが胸から抜け落ちた気分だった。 僕は外へ出て、畑にいる祖父母を探した。麦わら帽子を被った祖母が僕に気づいた。
「あれ、たー坊。どしたん」 「ばーちゃん」 「どないしたんや、たー坊。帽子も被らんと。靴も履いてへんやないか!」
日に焼けた祖父母の顔を見ても、僕の胸から落ちたものは戻らない。ぼんやりした声で、僕は今し方目の前で起きたことを伝えた。
「姉ちゃんが、おばけに連れてかれた」
それから僕の家は大騒ぎになった。 十七歳の少女が忽然と消えたのだ。部屋を見ても家出の痕跡もなく、友人関係に何かがあったわけでもなく、不審者が入り込んだ様子もない。 姉は隙間に引きずり込まれたのだと訴えても、誰も信じない。そのうち、家族も近所の人たちも、姉は神隠しに遭ったのだと言って諦めてしまった。 僕の言うことを信じる人は誰もいない。見たのは僕だけ。姉を隙間から連れ戻せるのは、僕だけだ。 僕は姉を見つけ出し、こちらへ連れ戻すつもりだった。しかしそれは不可能のようだ。 家中が寝静まった夜。家のあちこちの隙間から、姉の忍び笑いが聞こえる。誰かとじゃれているような、楽しげな声だ。 僕が一人で過ごしているとき、時折、刺すような視線が僕を見る。姉を見つめていたあの目が、敵意を持って僕を見ている。 姉を取り戻すつもりだったのに、隙間のあいつに姉との仲を見せつけられ、心が折れそうだった。 あいつだけでも追い出せないかとお札を貼ったり塩を撒いたりしてみたが、効果はなかった。僕はただ、二人が幸せそうにしている声を聞くしかできないのだ。
――姉は、幸せなのだ。
そう思うことで胸を癒やし、僕は十七になるまで、二人が仲睦まじく話す声を聞き流して夜をやり過ごした。きっと十八になっても、成人しても、家を出るまで――姉のことを諦めるまで、二人の声を聞くことになるだろう。