とある地方に、地元の者ですら名を知らない山があった。その裾には、町と呼ぶには寂れた、小さな集落があった。町と山の間には塗装の剥げかかった鳥居があって、鳥居をくぐり石段を登れば、今にも崩れそうなお社があった。かつては氏子たちが節目節目に祭りなんかを催していたが、ずいぶん長い間、境内は静かなままだった。 それもそのはず。石段を登らずとも参拝できる町の中央へ、ご神体はとうに遷座されていた。遷座祭以降、氏子たちは新しい境内で祭りを行っていた。 そうとは知らず、氏子が来るのを待つ者がいた。社の裏に隠れるように存在する石段を登ると、《《それ》》が眠る岩屋に着く。岩屋に眠るのは、大きな蛇だ。祀られていた神が蛇だという話は集落の者も聞かないが、祀られる前の姿が神だったのかもしれない。とにかくその蛇は、かつて神社に祀られていて、氏子やその子供たちが境内で遊ぶのを見て楽しんでいた。もうやってこない氏子たちをまだかまだかと待ちながら、静かだが幸せだった日々を夢見て、蛇はまどろんでいた。
蛇がまどろむ山の裾、麓の集落に梢という子供がいた。出戻りで帰ってきた女の一人娘で、まだ五つにもならない女の子だ。引っ越してきたばかりの新参者であることに加え、幼い梢と遊びたがる子供は、その集落にはいなかった。人が減りつつあった集落にいる子供は、誰も彼も梢より三つから五つは年上だったのだ。 小さな梢と遊ぶには制限が多い。遊び盛りの子供たちは遠慮してのびのび遊べないことを嫌がり、梢が姿を見せても逃げ回った。梢自身、自分がほかの子供から嫌がられていることを察していたが、昼の間は母親が仕事に出ており、祖父母も梢を熱心に構おうとしなかった。梢はひとりぼっちが嫌で、小さな足をとてとてと動かしながら、「おいてかないで」と泣きながら子供たちについていった。 集落の中にいては梢がついてくる。それを学んだ子供たちは、わざと古びた神社で遊び、梢がそこまで追いかけてくると、梢を置いて散り散りに山へ入った。彼らにとっては神社の周囲など庭のようなものだが、梢にとっては複雑な迷路だ。梢はあっという間に迷子になり、山の中に一人置き去りにされた。 蛇が梢と出会ったのは、このときだった。まどろんでいた蛇は、梢の泣き声に目を覚ました。子供の泣き声が止む気配がないと知ると、蛇は長い体をずるりずるりと引きずり、岩屋を出た。そして、梢の前にぬうっと姿を現した。 目の前に現れた蛇を見て、梢が火のついたように泣きだしたのも無理はない。 ひっくり返るほど見上げてようやく全貌が見える大きな体。梢の体ほどもあろう大きな頭に、金色に光るぎょろぎょろした目。その中の縦長に割れた瞳孔。耳まで裂けた口からちろちろと出入りする真っ赤な舌。 五歳にもならない子供が、自分を丸呑みしそうな大蛇に出会って泣くなというのが酷というものだろう。震えながら泣く梢を見下ろし、蛇は大いに戸惑った。よくよく思い出してみれば、蛇は、子供の前に姿を現すのは初めてだった。 わんわん泣く梢を見下ろし、うんうん頭を捻って考えた蛇は、しゃがれた声でも精一杯優しく聞こえるように「見てみろ」と梢に話しかけた。話しかけられ驚いた梢が、ほんの一瞬、ぴたと泣き止む。その隙に蛇は頭を下にしてくるりと回転し、また頭が上に来る頃には、青年の姿に変化していた。 蛇の鱗と同じ、地味な色の文様が織られた着物。神社同様手入れのされていない髪は青みがかっており、好き放題伸びている。髪に覆われた目は蛇のまま金色で、吊り上がった眦が梢に「ひっ」と小さな悲鳴を上げさせた。
「迷い子ならば、送っていこう」
しゃがれた声のまま、蛇が化けた青年は梢に手を差し出した。しかし梢は怯えきっており、蛇の手を避けるようにサッと一歩下がった。蛇は悲しそうな顔をしたが、「ついておいで」と穏やかに言うと、梢を先導するように山道を歩き出した。梢は蛇の後を追うのをためらったようだが、山に置き去りはもっといやだったのだろう。蛇が振り向いても手が届かない距離を保って、小さな足で後ろを歩き出した。
山に置いていった梢が無事戻ってきたのを見て、子供たちはどこかホッとした顔を見せた。疎ましくは思うものの、自分たちより小さな子供を山へ置いていったことに罪悪感を抱いていたのだ。そして梢が怪我一つせず下りてきたのを見て、彼らは梢を山に置き去りにしても大丈夫だと思ってしまった。 それから梢は、いつも神社に置き去りにされるようになった。置き去りにされた梢が泣いていると、蛇は岩屋から神社まで這って移動し、その姿を現した。人に化けても目だけは蛇のままで、梢にはそれが恐ろしかったが、次第に蛇が来ても泣かないようになった。蛇への恐ろしさよりも、いつもいつも近所の子たちから疎まれる悲しさが強かった。遊びの一つも知らない蛇でも、ひとりぼっちで神社にいるよりはずっとマシだった。 境内の石をいくつも積み上げお城を作ってみたり、木の枝を組んで重ねて櫓を作ってみたり、砂利を退けてその下の地面に絵を描いてみたりと、梢と蛇は遊びを知らないなりに時間を過ごした。梢と蛇二人きりの時間は、梢が小学校に通い出すまで続いた。 小学生になった梢は、集落の異なる友達ができた。しかし互いの家が遠いせいで、学校帰りに気軽に遊ぶことができない。運の悪いことに、梢も友達も、住む集落は学区の両端だった。仕方なく二人は校庭で遊び、時間になると手を振り別れた。 平日はそうして遊べたが、休日はそうもいかなかった。母は休日も出勤し、祖父母は車を持っていない。休日の梢と遊ぶ年頃の子供は、もうこの集落にいなかった。 そうなると、梢はいつも神社へ行く。大きくなった梢は、以前のように石でお城を作ったり、枝で社を作ったりしなくなった。地面に絵を描くことだけは続けたが、蛇はそれを眺めるだけで、一緒に描くことはしない。梢はいつも、退屈そうにため息をついていた。
休日のある日、梢がいつものように一人神社で絵を描いていたときのことだ。いつもはすぐ姿を現す蛇だが、この日はなぜか、ためらうように境内の外で佇んでいた。木陰に隠れるように立ち尽くす蛇を視界の端に入れながら、梢は気にせず、一人で絵を描いていた。 砂利を踏む音が聞こえたのは、どれほど時間がたった頃だったか。顔を上げた梢は、知らない中年の男がやってくるのを見た。知った顔だったかもしれないが、梢は集落にいる大人の顔を、あまり覚えていなかった。 よれたポロシャツに古びたジーンズという格好の男は、ポケットから個包装の飴玉を出し、梢に近づいた。
「お嬢ちゃん、飴ちゃんをあげようか。それともアイスがいいか?」
梢はちら、と蛇を見た。蛇はまだ、悩んでいる様子で木陰に隠れている。梢は男を見上げ、遠慮がちに首を振った。
「いらない。知らない人から、もらっちゃだめって」
首を振ると、さらさらした黒髪が揺れた。男は梢のふっくらした頬にかかる黒髪をじっと見つめながら、猫撫で声でうなずいた。
「そうかそうか。お母さんの言うこと覚えてて、いい子だねぇ。いい子だから、おじさんが飴ちゃんあげよう」
男は梢の手を掴み、むりやり飴を握らせようとする。梢は「いらない!」と声を張り上げ手を振りほどこうとするが、大人の力に敵うわけもない。梢の手を掴んだ男は、そのまま梢を引きずりどこかへ連れて行こうとする。梢は泣き叫び、蛇を探した。蛇の姿は木陰になかった。蛇はすでに、男の目の前にいた。
「その子に何をする」
しゃがれた声がそう言ったかと思うと、蛇はくるりと回転し、青年から本来の蛇の姿に戻った。男は驚き、梢の手を離した。梢はその隙に、ついさっきまで蛇がいた木陰へ走った。 蛇の真っ赤な口が、大きく開かれる。何をしようとしているか察した男は逃げようとしたが、蛇に睨まれた蛙のように足が動かない。男に許された自由は、体を震わすことだけだった。 ばくりと、蛇の大きな口が男の頭が飲み込む。男は藻掻き、腕を振り、蛇の口から逃れようとする。蛇は上向き男を持ち上げ、ごくり、ごくりと飲み込んでいった。梢はそれを、木陰でじっと見ていた。 男をすっかり飲み込んで、蛇はようやく梢の視線に気づいた。その視線にある感情が読み取れず、蛇は恐る恐る梢に声をかけた。
「こ、怖かったか?」
蛇の問いかけに答えず、木陰から出てきた梢は、蛇から離れたまま問い返した。
「蛇さん、ひと、食べるの?」 「た……食べない、ことも、ない」
蛇の答えに、梢は「ふうん」とだけ返した。そしてじりじりと、蛇から離れるように後ろへ下がる。
「……おうち帰る」 「お、送っていこうか」 「いらない。一人でへーき」
そう言って、梢は蛇を振り向きもせず、てててっと走り去っていった。蛇は「あ、ああ……」と情けない声を漏らし、長い体を地面に体をべしゃりと放り投げた。人間の姿だったなら、膝から崩れ落ちていただろう。
――怖がらせてしまった。もうあの子はやってこない。二度とやってこないだろう。
金色の目からぼろぼろ涙を落とし、長い長い体を重たそうに引きずって、蛇は岩屋へ帰って行った。翌日以降、梢は神社へやってこなかった。蛇は「ああやっぱり」と涙をこぼし、寂しい寂しいと泣き暮らした。
蛇が泣き暮らして何日目のことか。神社に近づく足音に、蛇は頭をもたげた。梢の足音は、姿を見ずとも聞き分けられる。しかしそこに、知らない足音もあった。またあの子に悪さをする輩がいるのだろうかと、蛇は慌てて岩屋から出た。 神社まで下りて、人に化けるなり木陰に隠れる。こっそり境内を覗いてみると、梢は同じくらいの年頃の男の子を連れていた。何かを探すようにきょろきょろする梢は、手に口を当て、蛇を呼んだ。
「蛇さん、蛇さん」
――あの子は神社に来てくれただけでなく、自分を呼んでくれた!
蛇は大喜びで木陰から出ようとしたが、梢の隣にいる男の子の台詞で、ぴたりと足を止めた。
「そんなでっけー蛇、いるわけねーだろ。梢はやっぱ、とろくせーしばかだし、おれがいなきゃしょうがねーなぁ!」
腹の立つ物言いをする男の子だった。それに、今まで蛇が知らなかった梢の名を、あっさりと呼んでいる。蛇は今、ようやく知ることができたのに。 蛇が木陰で向かっ腹を立てているのと同じように、梢も男の子の物言いにムッとしたらしい。尖った唇と眉根の寄った目が、男の子に向けられる。それを合図にしたかのように、蛇は二人の前にぬうっと姿を現した。声をかけることもせず、くるりと回転して蛇の姿に戻る。男の子はぽかんと口を開けて驚いたが、梢は平然として蛇を見上げた。
「蛇さん」 「何だ、梢」
こんな坊主が名を呼んでいるのだから、自分とて梢の名を呼んでもいいだろう――と子供じみた対抗心で、蛇は梢の名を呼び返事をした。梢は気にする様子もなく、ぐいと男の子を蛇へと突き出した。
「この子、食べて」
目を見開く男の子に向かって、蛇は大きく口を開けた。悲鳴を上げる隙すら与えず、小さな体を飲み込む。ついこの前の男を飲み込むよりは、遙かに簡単だった。それでも、腹は膨れる。蛇のぽっこり膨れた腹を見ながら、梢は不思議そうに首を傾げた。
「蛇さん、お腹壊さない?」 「平気だ。おれは、神様だから」
梢は興味がなさそうにまた「ふーん」とうなずくと、くるりと踵を返し「またね」と残して帰って行った。梢がさっさと帰ってしまったことは寂しかったが、「またね」と言って次を約束してくれたことは嬉しかった。 蛇は梢が来るのを待ち続けた。梢がやってくる頻度はずいぶん減ったが、それでも、梢は|二《ふた》月か|三《み》月に一度はやってきた。 梢は、自分の気に食わない者を蛇に食わせるときだけ神社に来るようになった。 梢が差し出した人間を、蛇が丸呑みする。その様を、梢は楽しむでもなく恐れるでもなく、花の観察でもするように退屈そうに眺めた。
「ねえ、蛇さんって結局何なの? 人食い蛇なの?」 「そんなんじゃ、ない」
梢が差し出した人間を飲み込み終えた蛇は、苦しい腹を抱えながら首を振った。
「おれは神様だ。昔はここで、祀られてたんだ」 「ふうん。まあ何でもいいけど」 「でも今は、梢だけの神様だ。梢の願いだけを叶えてやる、たった一人のための神様だ」 「それじゃあこれからも、私が連れてきた人、食べてね」
梢が言うならばと、蛇は梢が言うままに人を丸呑みした。梢が中学生になっても、高校生になっても、それは続いた。 セーラー服を着ていた梢は、同じ服を着た女の子を連れてきた。 ブレザーに身を包んだ梢が、白衣に身を包んだ男を連れてきた。 蛇は梢に逆らえないまま、人を飲み込んだ。いやだと拒めば、梢がもう神社に来てくれないことはわかっていた。ひとりぼっちは寂しいからなぁと、蛇は半ば自棄になって、梢が連れてくる人間をその腹へ納め続けた。
あるとき、蛇は梢が連れてきた人間を丸呑みしている最中に、足音が近づいてくるのに気づいた、梢は気づかなかったようで、蛇がハッと振り向いてもなぜ明後日の方向を見るのは理解できていなかった。口から人の足をはみ出させる蛇と、その傍らに平然と立つ梢を見た集落の者が悲鳴を上げてようやく、見られたと気づいた。
「追いかけて、早く!」
梢に追い立てられ、蛇は急いで集落の者を追った。しかし人を丸呑みしたばかりの蛇は体が重く、あっという間に距離は開き、逃がしてしまった。追いついた梢に途方に暮れた目を向けると、梢は蛇の巨体を物怖じすることなく引っぱたいた。
「何で逃がすのよ、愚図! のろま! 走ればいいじゃない。人になればいいじゃない。何で蛇のまま追いかけちゃうのよ、ばか!」
何度平手で打たれようと、蛇には痛くもかゆくもなかった。けれど、これから梢がどんな目に遭うかと考えると、胸が痛んだ。 梢が蛇に人を食わせていたことは、すぐに集落中に知れ渡った。男たちは「性悪娘め」と吐き捨て農具を手に取り、女たちは自分の子や家族に累が及ばないようにと、しっかり家を守った。 梢は家に入れてもらうこともできず、農具を持つ男たちから逃げるため、山に入った。男たちは構わず梢を追った。山の中で梢が走れるのは、神社に繋がる道だけだ。梢は神社を目指し、ひた走った。 神社に駆け込んだ梢は、声をからして蛇を呼んだ。蛇はその声に応え、のそりと姿を現した。追いついた集落の男たちは、蛇の巨体に怯んだ。それを見て、梢は自分を追う男たち全員を指差し蛇に命じた。
「食べてよ、食べちゃってよあいつらみんな! 人食い蛇でしょ、私だけの神様なんでしょ、だったら言うこと聞いてよ!」
梢の言うとおりに、蛇は口を開けた。しかし飲み込まれたのは、梢だった。蛇の口の中、梢はまだ何か叫んでいる。くぐもった声が、男たちの耳に届く。蛇にも聞こえているだろうが、蛇は構わず梢を自分の腹に収めた。 飲み込まれた梢の姿が、蛇の腹に浮かび上がる。蛇はぼそりと、しゃがれ声で呟いた。
「梢は、おれのものだ」
重い腹を引きずって、のそり、のそりと岩屋へ帰って行く蛇を、男たちは追いかけなかった。農具を持つ手が、境内の砂利を踏みしめる足が、震えていた。その震えが収まったのは、蛇の這いずる音が聞こえなくなってからだった。 先頭にいた一人が、ぽつりと言った。
「……帰ろう。やっぱりこの山は、俺たち人間が触れちゃいけない場所なんだ」
その言葉に皆がうなずき、のろのろした足取りで男たちは神社から引き上げた。
梢の家族は、夜逃げ同然に集落を出た。梢を知る者は、一人、二人と集落を出て行き、蛇に人を食わせた性悪娘のことを知る者は、段々と減っていった。 風の強い日、それも山から吹き下ろすような強い風の日は、その風にすすり泣きが聞こえるらしい。その声は「帰りたい」「ここから出して」と訴えるが、耳を貸してはいけない。山を歩いている最中は、特に。下手に返事をすると、返事をした者の前に大きな蛇が現れるのだ。
「この子はおれのものだ。誰にも渡さない」
そう言って、蛇が襲いかかってくるとか、来ないとか。これが作り話かどうか、確かめようと思う者はいない。 確かめたいのなら、季節の変わり目の風が強い日に山に入るといい。石段を登って、境内に入って、性悪娘の名前を呼ぶといい。 ただし本当に蛇が現れたら、そのときは丸呑みにされる覚悟を。