目次
今夜は窓を開けておいてね
小学四年生になった秋。おともだちが引っ越した。 わたしの村は過疎化が進んでいて、あの子が引っ越してしまったらもう、わたし以外にこどもはいない。 おともだちがいない毎日はとても退屈で、わたしは一人で石を蹴ったり、田んぼのあぜ道を無意味に歩き回ったり、神社の境内でどんぐりを集めたりして毎日を過ごした。 一人で遊んで、一人で帰る。そんな毎日がどれだけ味気ないか、想像してみてほしい。 空が赤くなるのをひとりぼっちで見たって、寂しさが増すだけ。 黒々した影を見つめ歩くのだって、ひとりぼっちじゃ寒さに似た恐ろしさを感じるだけ。 つまんないなと呟いて、引っ越しちゃいたいなと夢を見て、わたしはとぼとぼとおうちに帰る。
***
わたしの家は田んぼと畑と原っぱに囲まれている。原っぱは家の裏手にあって、ススキの尾花が海のように広がっている。 わたしの部屋はちょうど原っぱに面していたが、部屋の窓は磨りガラスで、窓を開けないと外なんか見えやしない。 寝る前にはいつも窓を開け、ススキの海をぼんやり眺めていた。 ススキの向こうには山がある。大きな大きな山だ。おじいちゃんたちの言うことには、大きな熊や猪、狐に狸、それに猿や鹿が住んでいるらしい。 山は朝焼けの光を浴びて金色に光っていたり、昼の光を浴びて青々とそびえていたり、夕日に照らされ赤々と燃え上がっていたり、様々な顔を見せる。その山に向かって、わたしは窓から紙飛行機を飛ばした。ただの紙飛行機ではない。紙飛行機を広げれば、わたしの思いが綴られている。
「まいにち まいにち たいくつです だれか いっしょに あそんでください」
わたしの思いを乗せた飛行機は、夜、月が山にかかる頃、風もないのにまっすぐ飛んでいった。まっすぐまっすぐ、吸い込まれるように、ススキの上を飛び、山に向かって――。
***
あの子と出会ったのは、手紙を飛ばした翌日だ。 学校帰りに境内で遊んでいたら、知らない男の子がやってきた。紺色のパーカーに、生成り色の半ズボン。背はわたしと変わらないくらいで、髪はもじゃもじゃとくせっ毛だった。その子はずぅっと笑っていて、吊り上がった目は、開いているのか閉じているのか、わからないくらい細かった。 にこにこ笑う見知らぬ男の子は、パーカーのポケットから取り出した手紙を見せた。
「これ、きみの?」
折り目がついた手紙は、間違いなくわたしが飛ばしたものだ。「うん」とうなずくと、男の子は「退屈って、ほんと?」と尋ねた。また「うん」とうなずくと、男の子は笑顔になった。
「じゃあ、僕と一緒に遊ぼ!」
わたしは大きくうなずき、彼と一緒に遊んだ。彼はあまり遊びを知らなかったけれど、それでも、一人きりじゃない遊びはとても楽しかった。夕方五時のサイレンが鳴る頃には、別れるのが惜しいと感じたほどだ。けれど、帰らなくてはならない。夕方五時のサイレンには帰宅するのが母たちとの約束だった。
「五時のサイレンだから、帰んなきゃ」
地面に放り投げていた鞄を手に取り、帰り支度を始める。名も知らぬ男の子は、わたしの手を掴んで引き止めた。
「もう少し遊ぼうよ。まだ明るいよ」
細い目は閉じられたまま、眉だけが感情豊かに動く。男の子の八の字になった眉を見ながら、わたしは首を振った。
「明るいけど、すぐ暗くなっちゃう。影が長くなったら帰りなさいって先生も言ってた」 「長くないよ、このくらい」
男の子が、ちら、と足下を見た。わたしは、男の子の影がしゅるしゅる縮んでいくのを見た。けれど見なかったふりをして、また首を振った。
「だめ。お母さんがご飯作って待ってる」 「僕の家にもご飯はあるよ。油揚げを炊いたの、好き? いなり寿司もあるよ」
男の子の影に、長くてふさふさした尻尾が生えた。これも見ないふりをして、わたしはなおも首を振る。
「だめったら、だめ」
男の子はしゅんとしょげて、わたしの手を離した。諦めてくれたようだ。男の子の顔にぴょこんと髭が生えるのが見えたけれど、わたしは気づいていないふりをして手を振った。
「それじゃ、ばいばい」 「待って」
男の子は、わたしの上着の袖を掴んだ。男の子の目が、ぱちりと開く。意外とつぶらな瞳だった。夜の暗闇でも光りそうな、金色のぴかぴかした目だった。彼はきんきらの目でわたしを見つめた。
「お手紙のお返事、今夜届けるよ」
かさ、と音がした。彼がポケットで手紙を触ったのだ。 今夜、ということは今日の夜だ。夜のお客さんを、わたしの家族は喜ばない。 夜に来る客は良い知らせを持ってこない、と猟師の祖父が言っていた。 夜にやってきた客の怖い話を、祖母は寝物語に聞かせてくれた。 夜にやってくる客は非常識だと、母はいつも怒っていた。 夜にやってくる客は大概面倒な問題を抱えていると、村役場に務める父が言っていた。 わたしは「明日じゃだめ?」と男の子に尋ねた。男の子は「だめ」と首を振った。
「今日の夜、お山に月がかかる頃、持って行くから。お山が見える窓を開けておいて」
玄関から来ないということか、と考え、わたしはうっかりうなずきそうになった。しかし既の所で母の言いつけを思い出し、慌てて首を振った。
「夜に窓を開けちゃだめって言われてるから、だめ」
断っても男の子は諦めない。「ほんのちょっとでいいから」と食い下がる。
「ちょっとでいいよ。ほんのちょっと。お手紙が差し込めるくらいでいいから」
男の子があんまりしつこいから、わたしは「それくらいなら」とうなずいてしまった。早く帰りたかった。見る見るうちに日が沈むのを見ていたから。 男の子の手を振り払い、急いで帰ろうとして、思いとどまり足を止める。
「ねえ、おなまえは? わたし、楓」 「僕? 僕は……紺」
男の子――紺くんはそう言うと、糸みたいに目を細くして笑い、顔の前で招き猫のように手を添えると、「コン」と一声鳴いた。わたしは目を見張るも返事をせず、家に向かって走り出した。 とっとことっとこ走りながら、紺くんの言っていたことを思い出し、首を傾げる。
「何で家の場所も、窓の向きも、知ってるんだろう」
その答えが出ることはなく、わたしは家まで一度も止まらず走り続けた。
***
帰宅後。 夕食時も、お風呂に入る前も、歯磨きをしているときも、「おやすみなさい」を言うときも、幾度も言うチャンスはあった。なのにわたしは紺くんが来ると家族に言えなかった。 部屋に入り、窓を見る。紺くんは窓を開けておいてと言ったけれど、母は真逆のことを言う。 窓を開けっぱなしにして寝ると風邪を引くから。夜に窓を開け放しておくと悪いものが来るから。そうでなくとも不用心だから。 こんな風に、その時々で理由を並べ立てる。物心ついた時分から窓を開け放したまま寝ないよう言われていたわたしは、紺くんが望むまま窓を開け放しておくことに抵抗があった。母に見つかったら叱られるだろうな、と思うからでもある。 でも。
「……お返事、ほしいもん」
お返事をもらうだけだから。少しだけだから。 そう言い聞かせて、細く細く、手紙を差し込むだけで精一杯なくらい、窓を開けた。防犯用のウィンドウロックをつければ、母への言い訳も成り立つ。 月が山にかかる頃って、何時ぐらいだろう? そんなことを考えながら布団の上で座っていたら、わたしはうつらうつらと眠り込んでいた。眠り込んでいても、風がススキの上を走る音や、走る風にススキが揺らされる音は聞こえていた。生まれたときからこの音で眠っているわたしには、子守歌のように、当たり前に聞こえる音だ。 そこに、何かがススキを掻き分ける音が聞こえた。時々、山から降りてきた狐が家の裏を歩く音がある。その音かしらとうとうとしていて、ハッと目が覚めた。ススキを掻き分け進む音は、こっちに近づいてきている。きっと、紺くんだ。 布団から出て、わたしは窓に近づいた。窓から外を見て、わたしは首を傾げた。 広がるススキの原っぱを見て、ススキの背はあんなに高かったかしら、と考える。 山にかかる月を見て、月はいつもあんなに大きかったかしら、と考える。 月を背負った山を見て、山はいつもあんなに黒々していたか、と考える。 考えているうちに、ススキを掻き分ける何かは窓の下までやってきた。ススキの海から、ぬぅっと手が突き出される。
「お手紙、持ってきたよ」
紺くんの声だ。昼間と同じ紺色のパーカーを着た手が持っているのは、木から摘んだばかりに見える瑞々しい葉っぱだ。ちょうどわたしの手のひらくらいの、可愛らしい葉っぱだった。ススキの間から生えるように伸ばされた手は、肩から向こうを露わにせず、目一杯伸ばして窓の隙間に葉っぱを差し込んだ。 葉っぱはひらりひらりと踊りながら、わたしの部屋の床に落ちる。わたしは落ちた葉っぱを指で掴んだ。見えていたかのように、窓辺から手がすすすと離れていく。わたしはそれを視界の端で見るでもなく見ながら、拾った葉っぱをくるりと裏向きにした。 何か書いてある。そう思った瞬間、部屋の中の景色が変わった。 さわさわ揺れる木々の葉。きらきら降り注ぐ木漏れ日。さらさら流れる水の音。頬を撫でるそよ風が、部屋に満ちる。わたしの部屋が山そのものになったような錯覚に陥った。 遠くで狐の鳴く声がしたかと思うと、夢が覚めるように、部屋の中に広がっていた山の景色がかき消えた。 元通りになった部屋で目を瞬かせていると、窓の向こうで紺くんが言った。
「明日、月がお山にかかる頃、また来るよ。明日はもう少し、指が入るくらいに窓を開けておいてね」
まだ夢を見ているような心地で「わかった」とうなずくと、ススキが揺れ、ガサガサ掻き分けていく音がした。 窓から外を覗いて見送ったけれど、紺くんの姿は見えないままだった。
***
翌日。 学校帰りに境内へ行くと、紺くんはもう着ていた。昨日と同じ紺色のパーカーに、生成り色の半ズボン。ポケットに手を入れたまま立っていた紺くんは、わたしに気づくとにこにこして振り向いた。
「今夜、お手紙を持って行くからね」
昨日も言ったのに、今日もまた念を押すように紺くんは言う。うなずくのを一瞬ためらったけれど、わたしは「うん」とうなずいていた。紺くんは細い目をますます細めて笑った。
「窓はちゃんと開けておいてね。今夜は、指が入るくらい」 「……うん」
昨日より大きく開けないといけないことにためらいを覚えつつ、わたしはうなずいた。うなずかないと、紺くんはぷいとそっぽを向いて帰ってしまうような気がした。紺くんが帰ってしまったら、わたしには遊び相手がいない。それだけは、嫌だった。 この日わたしと紺くんは石蹴りをして遊んで、夕方になると互いの家に帰った。今日は、紺くんに引き止められることはなかった。 そして、夜。 言われた通り、指が入るくらいの隙間は開けておいた。だけど何となく心配で、ウィンドウロックも昨夜に続きセットしておいた。 紺くんを待ち、うとうとと眠りそうになったとき。ススキの揺れる音で、わたしは目を覚ました。目をこすりながら窓辺に近づく。ススキの海から、にょっきりと腕が生えた。
「お手紙、持ってきたよ」
窓はほんのわずかに、指が入るだけ隙間が開いている。そこまで紺くんの手が伸びたかと思うと、紺くんのわたしと変わらない小さな手が、窓枠を掴んだ。 ガタガタと窓が揺れる。手は執拗に窓を揺らし、こじ開けようと試みる。わたしの心臓はドクドクと脈打ち、跳ね回った。 紺くんの手は手そのものが意志を持つように動き、窓を押し開けようとしている。わたしはウィンドウロックが壊れないことを祈った。祈りが通じたお陰か、生産会社が誠実だったお陰か、窓を押さえるこの金具は、紺くんの手が侵入することを許さなかった。 ウィンドウロックのせいで窓が開かないとわかった紺くんは、諦めたように手を引いた。そして、隙間から何かをころんと差し入れた。 部屋の床に落ちたのは、木の枝に巻かれた葉っぱの手紙だった。しゃがんでそれを拾い、するするほどく。何か書いてあると思った瞬間、部屋いっぱいに春の山が広がった。 花の香りが部屋に満ち、あたたかな風が髪を揺らし、舞い踊る蝶々が鼻先を飛んでいく。わたしはそれらに、うっとりと見入ってしまった。 遠くで狐の声が聞こえたかと思うと、春の山はすっとかき消えた。夢から覚めた気分で、わたしは床に座り込んだまま磨りガラスを見上げた。 磨りガラスの向こうには、大きな大きな、狐の影が映っていた。磨りガラス越しに、紺くんの声をした狐が言う。
「明日も月が昇ったら、お手紙を持ってくるよ。明日は、握りこぶしが入るくらいに窓を開けておいてね」
どうしようかと悩みながら、わたしは手紙が見せる風景に魅せられ、答えを出すより先に「わかった」とうなずいていた。
***
翌日。 学校帰りに境内に行くと、紺くんは境内でわたしを待っていた。パーカーのポケットに手を突っ込んだまま、にこにこ笑って立っている。 糸みたいに細い目で笑いながら、紺くんは言った。
「今夜、またお手紙を持って行くからね」
夜、窓から入ろうとしたあの手を思い出す。磨りガラスに映った、大きな影を思い出す。 怖いのに、なぜか嫌と言えない。 それは今、紺くんが目をしっかり開いているせいかもしれない。 それは今、見開いた紺くんの目が金色に輝いていて、瞳の奥では青い炎がちらちらと揺れているせいかもしれない。 とにかくわたしは、「うん」とうなずいてしまった。わたしがうなずくと、紺くんは上機嫌で「それじゃあ遊ぼう」と話題を変えた。
「今日は何をして遊ぼうか、楓ちゃん」 「……おままごと」 「いいよ。僕がおとうさんで、きみがおかあさんね」
紺くんとおままごとをしていても、わたしの気はそぞろだった。紺くんは気にする様子もなく、上機嫌でおままごとをしてくれた。夕方五時のサイレンが鳴って「帰る」と言っても、にこにこ上機嫌で見送ってくれた。
「窓を、開けておいてね」
握りこぶしが入る分だけ、と言い足して、紺くんはにこにこ笑って手を振っていた。わたしは無言でうなずいて、家までの短くない距離をたかたかと走った。 この日の夜も、わたしは紺くんに頼まれた通りに窓を開けておいた。ウィンドウロックも忘れない。忘れられない。 月が山にかかるのを待ち、布団にくるまり座っていると、ススキが揺れる音がした。窓に近づくと、窓の真下に来た紺くんの手が、ススキの間からにょきっと生えるのが見えた。 今夜の紺くんは窓をこじ開けようとはせず、こぶしほどの石を差し出す。
「お手紙、持ってきたよ」
手のひらに落ちた石を見つめながら「ありがとう」とお礼を言って、それから「あの」と目を上げた。相変わらず、窓の向こうの景色には、紺くんの姿がない。見えるのはススキから生えた手だけ。 言い淀むわたしに紺くんが「なぁに?」と聞き返す。わたしは意を決し、気になっていたことを尋ねた。
「紺くん、どうしてススキから顔を出さないの?」
紺くんは、お手紙を持ってきてもススキから手を伸ばすだけで体を見せない。顔すらも、見せない。震えながら答えを待っていると、紺くんは低い声で笑った。
「窓が高いからそう思うだけだよ。もっと大きく開けて、そこから顔を出してくれたら、きっと僕の顔もよく見えるよ」
開けてごらんと言われても、開けられない。ウィンドウロックを目で確かめながら、わたしは首を振って拒否した。
「お風呂入ったあとは……外に出ちゃだめって、言われてるから」
紺くんは「ふうん」と生返事をして、「それよりさ」と手紙を読むよう急かした。
「それより早く、お手紙読んで」
ああそうだ、早くお手紙読まなくっちゃ。手のひらの石を転がして、何か書いてあると思ったときにはもう、部屋の中に夏の山が広がっていた。 しゃわしゃわ鳴く蝉の声が耳をくすぐる。涼しい山の空気が体を包む。眩しい日差しが降り注いで、辺りの茂みで猪がふごふごと鼻を鳴らしているのがわかる。 遠くで狐が鳴く声が聞こえたと思ったら、すでに夏の山はかき消えていた。
「今度は、楓ちゃんからのお返事がほしいな」
ぼんやり立ち尽くしているわたしに、紺くんがそう言った。確かに、わたしは紺くんに一度もお返事を書いていない。それはとても失礼だなと思い、わたしは「わかった」とうなずいた。
「明日、お返事書くね」
紺くんは嬉しそうに「それじゃあまた明日」と言って、山の方角に駆けていった。ガサガサ揺れるススキを見つめていたら、一度だけ、「コン」と狐の声が聞こえた。
***
翌朝。 起きて一番に、わたしは母にレターセットを出してもらった。引っ越したあの子に書くと思ったのだろう、母が出してくれたレターセットには、薄い色で描かれた花の絵が敷き詰められていた。 こんな可愛いレターセットで嫌がられないかなと思いながら、学校へ持って行き、休み時間に紺くんへの手紙を書いた。 学校帰りに神社へ走ると、紺くんはいつものように境内でポケットに手を入れたまま立っていた。わたしを見た紺くんはポケットから手を出し、大急ぎで駆け寄った。鞄から手紙を出し「お返事」と紺くんに手渡す。紺くんは大喜びで手紙を広げたけれど、皿のようにまん丸に開いた目で読むにつれ、あからさまにしょんぼりした。
「……これ、お返事じゃないね」
その通りだった。これは今まで紺くんにもらった手紙へのお返事ではない。何せ、紺くんがくれた手紙に何が書いてあったのか、さっぱりわからなかったのだ。
「ごめんね。紺くんのお手紙、何て書いてあるかわかんないから」 「そっか……」
わかんないか、と呟いた紺くんは残念そうだった。けれど、紺くんはすぐに目を糸のように細めて笑った。
「じゃあ、今晩もう一度持って行くね。今度はもう少しわかりやすいと思うから」
今晩、と聞いてわたしは困ってしまった。毎晩こうして手紙を持ってきてもらって悪いから、という理由もあったけれど、一番はいつ母に見つかるかわからないせいだった。わたしが「明日、ここでもらっちゃだめなの?」と聞いても、紺くんは無視して夜に来ると話を進めた。
「月が昇ったら、持って行くね。今夜は、きみの顔が入るくらい開けておいてほしいなぁ」
紺くんはにこにこ笑って、しかしわたしが嫌だと言えない圧力を以て、そう言った。わたしは渋々うなずいた。この日は何だか遊ぶ気がしなくて、家でお手伝いがあるからと適当な理由をつけて家に帰った。紺くんは引き止めず、にこにこ笑ってわたしを見送った。
***
そして、夜。 顔が入るくらいと言われたけれど、それほど大きく開けるのが怖くて、私の顔も入らないくらい、あの大きな狐の鼻先もねじ込めない程度にしておいた。 ウィンドウロックがしっかりセットされていることを確認して、紺くんらしきあれが来るのを待つ。そわそわと落ち着かない気持ちのまま布団を被り、ぼんやり見える月を眺めていた。 窓の隙間から、ススキが揺れる様が見えた。紺くんが来たのだ。 にょっきり突き出た手が、手紙を差し出す。
「お手紙だよ、楓ちゃん。手を伸ばして」
差し出される手紙に、手を伸ばせなかった。怖くて一歩下がってしまったのを察したのか、ススキが揺れ、何かが窓の真下にやってきた。 ぬぅっと伸び上がる、黒く大きな影。月を背負った影がどんな顔をしているかはわからないけれど、窓の隙間から見える目が、ぴかぴか金色に光っているのはよくわかった。
「……顔が入るくらいって、お願いしたのに」
紺くんが恨みがましく言う。わたしは母を言い訳に使った。
「あ……あんまり、開けると……お母さんに、怒られるから」
月の光が、窓の向こうにいる何かがどんな姿をしているか、克明に映し出す。大きな影は、尖った耳を頭に生やしていた。大きな影には、ふさふさした尻尾が何本も生えていた。大きな影は、大きな大きな狐。あの夜からずっと、変わらずこの大狐が来ている 震えるわたしに、紺くん――狐は「ふうん」と生返事をして、それから部屋に向かって手紙を放り投げた。 ごろん、と床に転がったのは、わたしの顔ほどの木片だ。荒いけれど、丸く削られている。よく見ればそれは、顔のように見えた。 恐る恐る拾い上げる。くるりとひっくり返すと、わたしの部屋に、夜の山が広がった。 吐く息が白くなるほどの寒さは冬のもの。空いっぱいに輝く星は手を伸ばせば届きそうなほど近い。囲む木々で、ほぅ、ほぅ、と鳥が鳴く。ガサガサと近くの茂みが揺れるのは、鹿のせいだろうか。 狐の鳴き声が聞こえたかと思うと、部屋から山は消え、そして外は朝になっていた。覚えはないが、わたしは布団の上で仰向けに転がっていた。手にはしっかりと木片を持っている。それは、お面のようだった。顔のよう、と思ったのは間違いではなかった。 お面はどことなくわたしに似ている気がして、何となく嫌な気分になり、お面をひっくり返した。 裏には尖ったもので引っ掻いたような、ひどく汚い読みにくい文字があった。そこにはこう書かれていた。
「××××してください」
してください、は辛うじて読めた。けれど××××の部分は、字であるかすら定かではない。何て書いてあるんだろうと思いつつ、わたしは布団から起き出し、学校へ行く準備を始めた。
***
学校が終わって神社に行くと、紺くんはいなかった。きょろきょろ見回しても、姿は見えない。今日は来ないのかも、とホッとしていたら、誰かが走ってくる足音が聞こえた。紺くんだ。いつも通り、紺色のパーカーと生成り色の半ズボンでやってきた紺くんは、「返事は!?」と勢い込んで尋ねてきた。またも何が書いてあるか読み取れなかったわたしは、苦し紛れに「また今度」と返事を先延ばしにした。
「今度、口で言うね」
きょとんとした紺くんは、すぐにぱぁっと顔を輝かせた。
「わかった。じゃあ今夜、またきみのところに行くよ」
思わず「えっ」と声が出た。紺くんは目を糸にしてにこにこ笑っている。わたしはおずおずと、夜は嫌だと訴えてみた。
「夜じゃなくて、もっと明るい時間がいいな……」
けれど紺くんは、わたしの言葉をまったく無視して「今夜行くよ」と話を進める。
「今日の夜、月が昇った頃に行くから。ね、約束だよ。今日は窓を開けておいて。ううん、閉めていてもいいよ。だけど鍵は開けておいて。お願いだよ。ちゃんとお返事が聞きたいんだ」
紺くんの目が開く。金色の目がきらきら光る。青い炎がちらちら揺れる。頭がぼんやりして、気づけばわたしは「うん」とうなずいていた。
「じゃあ……窓を、ノックしてね」 「うん!」
大きくうなずいた紺くんは、嬉しさにぴょんと跳ねた。そして「準備があるから!」と大急ぎで来た道を引き返していった。跳ねるような足取りで帰って行く紺くんの後ろ姿には尻尾が何本も生えていたけれど、わたしは見えないふりをして、見えなかったと思い込んで、見えるはずがないと否定して、ゆっくりした足取りで家に帰った。
***
そして、夜が来た。 約束のことを考えないようにして、今日は窓を開けずに布団に潜り込んだ。眠り込んでしまえば、紺くんがノックしたって聞こえない。聞こえなければ、開けなくていい。開けなくてすむように、寝ていなくちゃいけない。 早く、早く。眠って、寝かせて、眠らせて。 呪文のように口の中で呟きながら、睡魔がわたしを連れて行ってくれることを祈る。けれどこの夜はやけに時計の音が気になって、やけに風の音が気になって、やけに家鳴りが気になって、ちっとも眠れる気配はなかった。 眠れ、眠れと固く目を閉じ祈っていると、控えめに窓を叩く音が聞こえた。布団を被ったまま、うっすらと目を開ける。音を立てないように、そろり、そろりと布団を下げる。ゆっくり、ゆっくり窓を振り向く。 小さい手が、こんこんと窓を叩いていた。 今日はウィンドウロックをしていない。どうしよう、無視してしまおうかと布団の中で迷っていると、待ちきれなかった紺くんが、囁き声でわたしを呼んだ。
「ねえ、開けて。返事を聞かせて。僕のお手紙の、返事を」
紺くんの声があまりに切羽詰まっていて、何だか可哀想になって、わたしはしょうがないなぁと渋々立ち上がった。 足音を立てないよう、そろそろと近づき、静かに、そぉっと、窓のクレセントを外す。 途端、窓が大きく開け放たれた。
「やあやあやあ。ようやく……ようやく開けてくれたねぇ」
ぬうっと入ってきたのは紺くんではなく、大人の背丈ほどあろう大きな大きな狐。耳まで裂けた口いっぱいに笑みを浮かべ、目を炯々と光らせて、わたしを見下ろし狐は言った。
「毎夜毎夜、きみに求婚したけれど、きみは焦らすばかりだったね。さて今夜は、僕の求婚にどんなお返事をしてくださるのかな? 手紙だなんてまどろっこしいと思ってたんだ。さあおいで、僕の花嫁。聞かせておくれ、『嫁入りします』の一言を!」
そう言って、狐はわたしをひょいと抱えると、笑いながらススキの海から山へと駆けていった。 風のように遠ざかる原っぱと我が家を見ながら、わたしは悲しみと諦めが混じる感情を抱いた。
「もうわたし、おうちに帰れない」
その後のわたしがどうなったかは、お山と狐しか知らない。
祭りがあるのはないしょだよ
村の小学生は楓一人になった。たった一人で過ごす、小学四年の夏休み。刺すような日差しの下、麦わら帽子を被った楓は、膨れっ面で未舗装の道を歩いた。 楓が住むのは、山間にある過疎地だ。コンビニへ行くにも車が必要な村を、若い家族は次々見限った。楓はいつも見送る側だ。楓の父は村唯一の郵便局員だったし、母は村の小学校教諭。猟師である祖父も、その妻である祖母も、楓の両親との仲は良好。楓の家族が村を出る理由は一つもなかった。 最後に見送りをしたのは、六月のことだ。「一緒に卒業式をしようね」と約束した親友が両親とともに村を出た日だった。親友は「ごめんね」と「夏休みに帰ってくるから」を繰り返し、母親に手を引かれ車に乗り込んだ。青い車の窓から身を乗り出し、母親に止められながらも「帰ってくるから」と叫び続けた親友の顔を、楓は昨日のように思い出せる。 今まで村を出た誰も彼もが、夏休みには村に残った祖父母たちの家に帰ると約束した。だが、その約束がこの夏に果たされることはない。付け加えれば、この夏は楽しみもない。 流行病により、人々は生活圏から出ることを許されなくなった。山を下り都会へ出た親友をはじめとした級友たちは、年老いた祖父母を流行病から守るため、この夏は誰一人帰らないことになった。 そしてもう一つ。過疎化が進んだことにより、毎年行われていた夏祭りの中止が決まった。ひとりぼっちになった楓の唯一の楽しみだ。それが奪われ、楓はもちろん大きな声で抗議した。だが、楓一人の意見が通るわけもない。
「そもそも、夏祭りは神様のために執り行うもんだ」
楓を諭す役目は、猟師である祖父に托された。中止を聞かされた夜。土間に敷いた茣蓙の上に楓を座らせた祖父は、害獣駆除用の罠の手入れをしながら、夏祭りは子供のためのものではないのだと語った。加えて、年寄りばかりのこの村では祭りの運営も手が回らない、とも。 祖父の言うことも、親友たちが帰ってこない理由も、小学四年生の楓には理解できる。だが納得できるかどうかは、また別問題だった。 ふて腐れた楓は翌朝、たった一人のラジオ体操を終えると、冒頭の通り未舗装の道を歩いた。向かう先は唯一の遊び相手、紺が待つ神社だ。 紺と楓は天気が許す限り、いつも一緒に遊んでいる。鎮守の杜でかくれんぼをしたり、長い石段でグリコをしたり、砂利を退けてその下の地面に絵を描いたり、その時々で遊びは変わる。紺はいつも、楓がしたい遊びを優先する。そのいつもはいつからか。楓は足を止め、浮かんだ疑問を解消しようと足下を見つめた。
――紺君と、いつから遊んでるんだっけ。学校に来てないけど、どこの子なんだっけ。
いつから遊んでいるのか。紺はどこの家の子か。楓が一生懸命思い出そうとしていたら、急に眠気が襲った。目をこすり大きく欠伸をすると、眠気とともに疑問も晴れた。いつからだろうと、どこの子だろうと、紺が紺であることに変わりはない――と、楓は考えるのをやめた。
「まぁいっか」
呟いて、楓は長い長い石段をぴょんぴょんと駆け上がった。 石段を上がり、石造の鳥居を抜けて、参道を半ばで逸れると、遊具が置かれた区画がある。小さな滑り台、小さなジャングルジム、半分埋まった大きなタイヤ。楓の遊び相手である紺は、いつも楓より早くこの区画にやってきて、ジャングルジムに寄りかかって楓を待つ。名前と同じ紺色のパーカーに、生成り色の半ズボン。紺はいつもこの格好だ。この日も、ジャングルジムのすぐそばには紺色と生成り色があった。 生成りのポケットに手を入れぼんやりしていた紺は、楓を認めると「楓ちゃん」と背筋を伸ばした。くしゃくしゃの癖っ毛を揺らし、ポケットから出した手を大きく振った。
「今日も暑いね、楓ちゃん」
そう言って、紺は目を細め笑った。しかし紺の目はいつも糸のように細められているので、楓は口元の変化にしか気づけない。玉砂利を蹴るように駆け寄った楓は、紺のくしゃくしゃでもしゃもしゃの髪をわしわしと整えた。
「紺君、いっつも髪もしゃもしゃだね。だめだよ」 「直してもすぐこうなっちゃうんだ」
楓が手櫛で直しても、遊び回っているうちにすぐ紺の髪はくしゃくしゃに戻る。わかっていても、祖母から「身なりはきちんとなさい」と躾けられた楓は、会うたびに紺の髪を直さずにいられなかった。楓に髪を直されながら、紺はにこにこと笑っている。いつでも、どんなときでも、紺は細筆一本で書いたような目で笑う。こんなに目を細めたままでよく見えるなぁと、楓は会うたび感心していた。 手櫛で直しても、紺の髪はまだ頑固に跳ねている。気持ち程度に整った髪に触れ、嬉しそうに笑った紺は、まだ跳ねる髪を軽く揺らした。
「それで、楓ちゃん。今日は何して遊ぼうか」
にこにこと嬉しそうな紺に尋ねられ、楓は自分が膨れっ面でここまでやってきた理由を思い出した。紺の手を引きタイヤの上に二人で腰掛けると、楓は夏祭りが中止になったことと、村を出た親友たちが流行病のせいで帰ってこなくなったことを話した。 頬を膨らませ唇を尖らせた楓がすべて言い終えるのを待って、紺は「うーん」と考え込んだ。そしてためらうような素振りを見せ、見えているかもわからない細い目で楓を見ると、唇の前に人差し指を立てた。
「大人には、楓ちゃんには言っちゃだめって言われてるんだけど」
ひそひそ声で、紺は楓に「内緒にできる?」と尋ねた。楓が唇を真一文字に結んで何度もうなずくと、紺は「実はね……」と話し出した。
「夏祭りが中止なのはね、嘘なんだ」 「うそ? どうしてっ?」 「この村にはもう楓ちゃんしか子供がいないから、驚かせたいんだよ」
身を乗り出して理由を尋ねる楓に紺が語った内容は、こうだった。 大人たちは、村でたった一人の子供になった楓のために、サプライズを目論んでいる。まず、いつもは村の中央広場で行う夏祭りを、本来の開催場所である神社に変更する。毎年本部テントで焼きそばを振る舞う程度だったが、今年は参道いっぱいに様々な屋台を並べる。子供が喜ぶ金魚すくいやヨーヨーすくいだけでなく、射的や食べ物の屋台までも並ぶと紺は語る。加えて、例年古びたカセットラジオから流すだけだった祭り囃子が人による生演奏に変更される。櫓の上に太鼓が運ばれる日程まで聞かされ、楓の瞳には太陽にも負けない輝きが宿り、膨れた頬から空気が抜けた。
「すごい、すごいすごい!」
興奮して立ち上がり、楓はその場でぴょんぴょんと跳ねた。大喜びする楓に、紺は殊更大げさに「しぃっ」と人差し指を立てて見せる。
「僕から聞いたってことは、内緒だよ。家族にも、ほかの大人にも、楓ちゃんがお祭りのこと知ってるって気づかれないようにね。せっかく内緒にしてくるのに楓ちゃんに知られてるなんてわかったら、みんな、がっかりしちゃうよ」
紺の真剣な声音に、楓は神妙な顔で声を潜めてうなずいた。楓の素直な返事を聞いて、紺は最後に、夏祭りの日程を楓に耳打ちした。紺の癖っ毛が触れるのをくすぐったがりながら、楓は夏祭りが行われる日時をしっかり心の夏休み予定表に書き込んだ。 夏祭りの日程を聞かされてから、楓は素知らぬ顔で夏休みを過ごした。夏祭りが行われることを知らないという体を保つため、大人の前で未だ夏祭り中止に対し不満を持っている小芝居を打つこともあった。そのお陰で、楓が神社で夏祭りが開かれると思っているなんて、村の大人の誰も――楓の両親、勘の鋭い祖父さえも――気づかない。 朝起きるたび、楓は自分の部屋でこっそりとカレンダーに×印をつけ、ぴょんぴょんと跳ねた。花丸印が近づくにつれ、楓は神社に行くたび「浴衣は着せてもらえるかな?」「わたしも太鼓叩けるかなっ?」と紺に尋ねた。はしゃぐ楓に、紺は困った顔で人差し指を立てる。
「楓ちゃん、大人の前でそんなにはしゃいじゃだめだよ。僕が神社に案内する日まで、知らない顔しててね」 「うん。うんっ。大丈夫、わたし、ちゃんと知らないふりしてるよ!」 「心配だなぁ」
紺の心配をよそに、楓は紺の前以外では夏祭りの「な」の字さえ口にしなかった。ようやく迎えた当日の朝すらも、本当は「浴衣はいつ着せてくれるのっ?」と祖母や母に尋ねたいのをぐっと堪えて大人しく朝ご飯を食べた。 その日の宿題を終え、家の手伝いを終え、そわそわしながら神社へ遊びに行き、祭りの気配のないことを怪訝に感じつつ紺と遊び、昼になれば昼食のため家に戻り、そしてまた紺と遊ぶために外へ飛び出した。
「ねえ、ねえねえ、紺君」 「なぁに、楓ちゃん」 「わたし、家に帰ってからここに来たほうがいいんじゃないの?」 「ううん、夕方までここで遊んでていいんだよ。浴衣はね、神社に着いてからのお楽しみだから」
訝しみ「そうなの?」と尋ねる楓に、紺は「そうだよ」といつもの狐のような顔でうなずく。楓は「本当に?」と聞き返したかったが、やめた。眠気が襲ってきたのだ。あまり深く物事――特に紺が関わること――について考えようとすると、眠気が襲うのだ。下手をすると、その場で倒れて眠りかねない。楓は考えるのをやめ、日が傾くまで鎮守の杜で遊び回った。 日が暮れ影が伸び、日陰のない石段でグリコに興じても熱中できるほどになった頃、村唯一の古びたスピーカーが不気味に音割れした夕焼け小焼けを流し出した。追いかけっこをしていた二人は足を止め、神社の方角を見上げた。
「そろそろ行こっか、楓ちゃん」
紺が紺色のパーカーの下の手を、楓に差し出した。その手を躊躇なく取ると、楓と紺は二人、神社へと石段を登った。 神社が近づくにつれ、祭り囃子と人々のざわめきが聞こえてくる。わくわくし出した楓が石段を駆け上がろうとしても、手を繋いでいる紺は急ぐ素振りすら見せない。
「紺君、早く行こうよ」 「焦らなくったって、お祭りは逃げないよ」
のんびりした紺の返事に、楓は唇を尖らせた。楓の拗ねた顔を見て、紺はおかしそうに笑う。ぷくりと頬を膨らませた楓は、紺の手を離し、一人で石段を駆け上がった。 石段を上がりきると、神社はいつもと様子が違っていた。 木製の赤い鳥居から拝殿まで、数え切れないほどの提灯が吊されている。つり下がる提灯は、どれも不思議な色を発し夕闇を照らしていた。 提灯に照らされる参道いっぱいに並んだ屋台は、あるところでは食欲を刺激する匂いを漂わせ、小気味よい破裂音を響かせ、己が屋台へと客を誘惑している。 参道の上を歩く人々は、楓の知る顔も、知らない顔もいた。知る顔の中には、村を出て行った大人たちもいる。その中には、楓の親友の両親もいた。誰も彼も村を出るときと違い、楽しげな笑顔を浮かべている。 そして、鳥居の前には浴衣や甚平を着た子供たちがいた。どの子も楓を見て、楓を待っていたかのように手を振っている。彼ら彼女らは、この夏この村に帰ってこられないはずの級友、そして親友たちだった。誰一人欠けず、鳥居の向こうに並んでいる。
「何で? どうしてっ?」
思わずそう尋ねながら、楓は最後の一段を蹴り、鳥居の向こうへ飛び込んだ。親友だった少女が楓を受け止め、その小さな手をぎゅうっと握る。親友は、糸のように目を細めにこにこと笑った。
「紺君がね、呼んでくれたの」 「楓ちゃんのためにね!」
ひょっこりと顔を出したもう一人の友人の台詞に、楓は胸がいっぱいになった。紺が自分のために友人たちを招いてくれたなんて、一言も聞いていない。けれど、紺ならば大人たち同様にサプライズを考えそうだと、楓は納得した。 お礼を言おうとして、楓は後ろを振り向いた。赤い鳥居の向こうは、真夜中のように真っ暗だった。あれ、と楓は首を傾げた。
――紺君、まだ上がってきてない。
確かに、楓は紺を置いて一人で駆け上がった。けれど夏祭りの様子に呆けた時間、友人に飛びついて話した時間を考えると、紺はもう顔を見せてもいい頃だ。首を傾げた楓は、もう一つ、おかしなことに気づいた。 鳥居は石造のはずだった。昼間見たときには確かに、灰色だった。しかし今くぐり抜けた鳥居は木造の赤い鳥居だ。どうして石造の鳥居が数時間で木造に変わるのだろうか。楓が「ねえ」と友人たちを振り返ると、彼ら彼女らは皆、目を糸のように細くして笑っていた。
「ねえ、楓ちゃん」
級友の一人が楓を呼ぶ。楓はびくりと肩を跳ねさせ、「な、なぁに」と尋ねた。別の級友が、耳まで裂けるのではと不安になるほど口角を持ち上げ、楓をかくれんぼに誘った。
「紺君がね、かくれんぼしようって」 「かくれんぼするの? ここで? 危ないよ」
明かりがあるといえど、参道から外れれば周りは暗い。夕焼け小焼けが聞こえたら、大人の目の届かない場所で遊ぶなと両親祖父母から厳しく言いつけられている。楓が首を振っても、級友たちは了承しない。
「危なくないよ、大丈夫」
気づけば、紺に招かれたという級友たちは輪になって楓を囲んでいた。逃がさないとでも言うように、親友はぎゅうと手を掴んでいる。その顔には、三日月のように細い目と吊り上がった口で作られた笑みが貼り付いていた。同じ笑みを浮かべた級友たちに囲まれ、楓は身動きすらできない。輪になった級友は、異口同音にかくれんぼの開始を合図した。
「楓ちゃんが鬼ね」 「おれたちみんな、屋台とか、どんぐりの木の裏とか、そういうとこに隠れるから」 「みーんな見つけたら、最後に見つかった人と交代するんだよ」 「頑張って探してね、楓ちゃん」 「目を瞑って、百数えてね」
楓が反論する暇も与えず鬼役を押しつけると、級友たちは無理矢理楓の目を閉じさせ、一斉に駆け出した。親友が耳元で「ズルしちゃだめだよ」と残して走り出す。楓は仕方なしに、その場にしゃがんで百まで数えた。
「きゅーじゅきゅ、ひゃーく。……もぉ、いーかい」
立ち上がり、楓は恐る恐る呼びかけた。途端、参道を歩く客たち、屋台の店主までもが楓を振り向き、「もういいよ」と間延びした声で答えた。誰も彼も、皆一様に糸のように細い目で笑っている。楓は参道に足を乗せるかためらった。このまま踵を返し、神社の外へ逃げようかと考えた。けれど結局、楓は「えいっ」と参道に飛び込んだ。 屋台や木の裏。級友たちが隠れると言っていた場所を思い出しながら、楓はきょろきょろと辺りを見回した。隠れ場所である屋台に立つ店主たちは、一人の例外もなくまともな人間ではないようだった。 わたあめの屋台にいる店主は、頭に短い角が一揃い生えていた。射的の屋台にいる店主は、黒い鼻から細長い髭が数本飛び出していた。金魚すくいの屋台では、白くて細長い尻尾を生やした店主がどっかと座っている。たこ焼きを焼く店主は、紺と同じ細い目で笑顔を浮かべ、きつね色の尻尾をふさふさと揺らしていた。 級友たちは、そんな屋台の陰や裏に隠れていた。そのうちの数人なんて、店主の足に抱きついてまで身を潜めていた。見つかると皆、どこに隠していたのかお面を取り出し、それで顔を隠してしまう。狐の顔を模したお面を見て、楓は「紺君そっくり」と思ったが黙っていた。 言い訳のように、お面を被った誰もが同じことを言った。
「見つかったよってわかるように、お面を被るんだ」
そんなルール、楓は聞いていなかった。もし鬼を交代したとして、事前にルールを知らされていなかった楓はお面を持っていない。お面のない楓はどうすればいいのだろうか。楓が「わたし、お面持ってないよ」と不安そうに言うと、級友や友人はけらけらと笑った。
「楓ちゃんは、お面なんていらないの」 「どうして? お面を被るのがルールなんでしょ?」 「楓ちゃんは大丈夫。見つかったってすぐわかるから」
首を傾げる楓に、級友・友人たちはお面をずらして笑いかけた。かくれんぼを始める前と同じ、皆同じような細い目に裂けそうな口。同じ顔で笑う彼らを見て、楓はますます首を傾げた。
――あきちゃんの頭、狐みたいな耳が生えてる。しょー君の顔、狐みたいな髭が生えてる。かっちゃんのお尻、ふさふさの尻尾がある。
気づいたそれらを指摘するのが怖くて、楓は見ないふりをして、参道の外に隠れた友人を探しに出た。 参道の外、鎮守の杜にまで足を伸ばして、楓は残りの級友たちを見つけた。墨で塗りつぶしたように真っ暗な木々の間、級友たちは木のうろの中に不自然なくらい丸くなって隠れていたり、楓の腕よりも細い木と同じくらい細くなって隠れたりしていた。一人なんて、不気味に拗くれた枝と同じように拗くれて隠れていた。彼らも、参道に隠れていた子らと同じように「見つかっちゃった」と笑ってお面を被る。楓は物言いたげな顔で、お面を被り終えるのを待った。 紺を除いた最後の一人を見つけると、どこで見ていたのか、友人、級友たちがぞろぞろと集まってきた。お面を被ってしまうと、誰が誰やらまったくわからない。いつの間にか、皆同じ浴衣に身を包んでいたからなおのことだ。 得体の知れない子供たちに囲まれ、楓はぞわりと背筋を寒くした。楓の悪寒を知らず、集まった子供たちは楓を参道へ押し戻し始める。
「あとは紺君だけ」
長い長い参道の向こう、明かりの一つも灯っていない拝殿を、誰かが指さした。
「紺君はあっちにいるよ」 「一人だけあんなところに隠れちゃって、ズルいんだ」 「早く見つけてあげて、楓ちゃん」
そう言う彼らの声には、笑いが含まれている。楓はもう帰りたいと思っていたが、何人もの手で背中を押され、仕方なしに参道に足を乗せた。楓が参道の上に立つと、お面を被った子供たちもわらわらと参道に戻った。お面越しでも、楓は彼らがにたにた笑っているとわかった。 いやいやながら、楓は紺君を見つけるために拝殿に向かった。 行き交う見知った顔、見知らぬ顔とすれ違い、客引きする屋台の店主から距離を取りながら、楓は一人で考える。今歩く参道は、楓の記憶の中ではこんなにも長くはなかった。けれど今、参道は記憶の中の二倍ほどの距離がある。赤くなった鳥居といい、長くなった参道といい、この神社はどうしてほんの数時間のうちに様変わりしてしまったのか。眠気が襲ってこなければ、きっと楓は、玉砂利が敷かれた拝殿に着いても頭を捻って考えていただろう。 玉砂利を踏みしめる音で、楓は長い参道を一人で歩いていた理由を思い出した。明かり一つない拝殿前は、参道を一歩出ただけなのにやけに静かだった。背後から聞こえる祭り囃子がずいぶん遠くに聞こえる。 あまりの寂しさに、楓は参道を振り返った。屋台や提灯の明かりに混じり、ついてきたらしいお面の彼らの姿が参道の上にあった。楓をじぃっと見つめる彼らの姿は、楓の目に、やけに滲んで映った。 目をこすり、再び拝殿に向き直り、楓は玉砂利を踏みしめ歩き出した。進むにつれ暗闇に目が慣れ、拝殿前で一人ぽつんと佇む影を見つけた。 暗闇と同化する紺色のパーカーに、ぼんやり浮かび上がる生成り色の半ズボン。パーカーよりも暗闇に沈んでいるくしゃくしゃの黒髪。見間違うはずもない、紺の後ろ姿だ。けれど、その後頭部には明るい色の紐が見える。かくれんぼで見つかった子らが被ったお面も、同じ色の紐で結ばれていた。 玉砂利を踏む足音を聞いても、人影はぼうっと佇んだままで動かない。今や人影は手を伸ばせば届く距離までに近づいた。楓は恐る恐る、紺であろう人影に呼びかけた。
「紺君?」
ぼうっと佇んでいた人影が、くるりと振り向いた。やはり、顔はお面で隠されていた。真っ白なお面に描かれた狐の顔を見て、楓は「紺君の顔そっくり」と思った。
「やあ、見つかっちゃった」
狐面の向こうで、紺はちっとも残念そうでない声で言う。隔たれ隠され見えないのに、楓は紺の目が糸より細くなっているとわかった。
「今度は、僕の番だ」
紺が一歩、楓に近づく。狐面の、ちょうど目の辺りには切れ込みがあり、細い細い隙間から、ギラギラと光る金色の目が見えた。楓の体がぶるりと震える。楓の頭が「怖い」「逃げなきゃ」で埋め尽くされる。人気のある場所へ逃げようと、楓は紺に背を向け駆け出そうとした。 明るい参道、行き交う人々のざわめきが、首を巡らせた楓に安堵を与える。しかし走り出そうとした楓が足までも向けた途端、吹き消すように明かりが落ちた。参道に建ち並ぶ屋台が、吊された提灯が、行き交う人々が、並んで待っていたはずのお面の子らが、たちまちのうちに気配すらも消した。 真っ暗闇に、紺と楓だけが残された。 うなじに生ぬるい風を感じ、楓は息を呑んだ。ごわついた毛皮の感触が、楓の肩に優しく乗せられた。
「今度は僕が鬼役だ。百数えたら見つけに行くよ」
冷たく湿った感触が、楓の耳たぶの裏をつんとつついた。それを合図に、楓は弾かれたように走り出した。 一、二と数える紺の声を背中で聞き、楓は懸命に足を動かし参道を走る。数秒前に見ていた光景は夢だったとでも言うように、参道には明かりの気配も、人の気配もまったくなかった。 長い長い参道を、楓はひたすら走った。しかしどれだけ走っても、あの赤い鳥居は見えてこない。紺の声は遠くならない。息が乱れ、目には涙が滲み出す。声も出せない楓が胸の中で母を求めたとき、足がもつれ、楓は一瞬宙に浮いた。 ごろごろと転がり、楓の体は参道の外へ飛び出した。転んだ勢いと自重で、楓の頬や膝に玉砂利が食い込む。痛みに呻きながら楓が立ち上がると、足の下は石畳だった。楓の口から「え」と声が漏れる。「何で」と呟き、百へのカウントアップを聞きながら、楓はそろそろと参道の外へ足を伸ばした。 玉砂利を踏みしめたはずの足は、外を向いていたはずの体は、気づけば石畳を踏みしめ、参道の内を向いていた。「何で」と繰り返す声は震え、ほとんど悲鳴に近かった。 足を止めてしまった楓の背後で、百を数えきった紺の声が聞こえた。
「もういいかい」
耳元には紺の声、背中には小さな手が添えられる感触。息を呑む楓に、紺の笑いを含んだ声が交代を告げる。
「次は、楓ちゃんが鬼」
紺の声が合図だったかのように、敷地内に明かりが戻り、屋台や客、お面を被った友人たちが当たり前のように姿を現した。お面を取った友人たちが、行き交う客たちが、角や牙、尻尾を持つ屋台の店主たちが、楓に笑みを向ける。楓の背後にいた紺が、ぴょんと飛び出し友人たちの列に加わる。糸のように細められたいくつもの目が、楓に目を閉じるよう促す。声なき声が「かくれんぼを続けろ」と楓を急く。じくじく痛む頬と膝に手をやりたいのを堪えながら、楓はきゅうと唇を結んだ。
――わたしもう、ここから出られない。
悟ったところで、誰も楓を助けはしない。楓を家に帰してやろうなんて思わない。諦めの滲んだ目で、楓は自分をあざ笑うように揺れる提灯の明かりを見つめた。
大きくなるまでかくれんぼ
待ち合わせ場所に知らない子
楓が住む地区は、その広さから学区を四つに分けられていた。どの地区も過疎が進み、子供の数は減り続けている。その結果、学校は統合されることとなった。老朽化した小学校は廃校となり、地区中の児童を集める校舎は新設されることに決まった。五年生に進級した春から、楓は新築の小学校に通えるようになった。 春休み中、楓は忙しかった。宿題よりも難しい課題があるせいだ。バスの乗り方や定期券の使い方、時刻表の読み方は、楓に馴染みのないものだった。楓のためにと、両親と祖父母は何度も畑と木に囲まれたバス停までともに歩き、時に小学校のある地区まで、時に麓の町まで付き添って、バスの使い方を教えた。 家族四人の尽力により、楓はどうにか始業式当日には小学校へ通えるようになった。 始業式当日、楓は下駄箱前であっけにとられた。 楓の目が釘付けになっているのは、クラス分けの名簿だ。四クラス分貼り出されている。楓が住まう東学区は、特に子供が少なかった。楓を含め三人しか児童のいない東学区では、全員が同じ教室にいた。名簿を見るに、楓のクラスは三十人は児童がいる。今までの十倍だ。人の多さに尻込みする楓の後ろから、明るい声が聞こえた。
「南小はね、い組だけだったのよ!」 「北小はろ組まであったもんな!」
楓が振り向くと、楓の後ろから覗き込むように、四人の少年少女が立っていた。気の強そうな女子二人に、ガキ大将の性分がうかがえる男子が一人、大人しそうな男子一人が楓越しにクラス名簿を見ている。大人しそうな一人が口を開いた。
「西小も、ろ組までだったな。ねえ、そっちは?」
急に話を振られ、楓は心臓をどきりと跳ねさせながら、小さな声で答えた。
「東は、みんな一緒だった……」 「すっくね! 優勝だな!」
ガキ大将に見える少年が笑いながら楓の肩を叩いたのを合図に、女子二人が楓を挟むように立った。
「ねえねえ、何て名前?」 「か、楓」 「楓ちゃん? あ、この字?」
一人が指差したのは、楓の名前だった。うなずくと、女子二人は嬉しそうに笑った。
「あたしたちとおんなじ!」 「仲良くしようね、楓ちゃん!」 「あっ、勝手に仲良くすんなよ。おれらとも仲良くしろよな!」 「そうだよ。せっかく同じろ組になれた仲間なんだからさ」
男子二人も加わった四人組が、楓を押し流すように歩き出す。流れに翻弄される木の葉のように、楓は四人と一緒に教室までの短い距離を歩いた。 この短い距離で、ガキ大将気質の少年は、南学区から来た|敦《あつし》だと判明した。気の強い女子二人は、北学区出身の|伊織《いおり》と|蒼海《うみ》だとわかった。物静かな少年は、西学区の|栄太《えいた》と名乗った。 人懐っこい彼らは瞬く間に楓と心の距離を詰め、放課後、互いの学区へ遊びに行こうと約束をするほどの仲となった。それぞれの学区へは、一日交替で行くことになった。楓の住む東学区で遊ぶのは、三日後だ。約束の日は、あっという間にやってきた。 楓が住む東学区――ほとんど山と呼べる――で遊ぶ日。待ち合わせ場所はバス停だ。楓が住む村のバス停は、坂の下にある。急な坂を急いで上り、楓は家に駆け込むなり鞄を投げ出して、再び家を飛び出した。目指すのはもちろんバス停だ。 まだ小学生の楓は、家に帰らずに遊びに行ったりしない。ほかの四人も同様だ。だからすぐに待ち合わせ場所にやってこないとわかっていたが、楓はバス停まで走らずにいられなかった。 息を切らせ走っていると、バス停の庇の下に、小さな人影が見えた。目を凝らすと、知らない男の子が標識に寄りかかっているのがわかった。 背は楓より少し高いくらい。服装は紺色のパーカーに生成りの半ズボン。くしゃくしゃの黒髪の中に、一瞬、きつね色の尖った耳が覗いていたが、男の子が楓の足音に振り向いたときには消えていた。何かを見間違えたのかもしれない。そういうことにして、楓は男の子に感じた違和を気にしないことにした。 男の子は楓をちらと見て、糸のように細い目をさらに細くして笑いかけた。近くで見ても、知らない顔だった。誰だろうと思いながら、楓はおどおどと軽く頭を下げ、男の子より少し離れたところでバスを待った。男の子はにこにこと笑ったまま、ずっと楓を見ていた。 やがてバスがやってきて、楓の新しい友達四人を東学区の地に降ろした。一番乗りで下車した敦が、「あれっ」と声を上げる。
「そいつ、誰だ?」
首を傾げる敦の後ろで、伊織と蒼海も不思議そうな顔をして楓と少年を見比べる。一番冷静な栄太が、「友達?」と楓を見た。男の子の名前さえ知らない楓は、正直に「知らない」と首を振った。 目の前で行われる五人のやり取りを見ている間も、男の子は笑顔を崩さなかった。笑ったままの少年が、口を開く。
「僕、|紺《コン》っていうんだ」
楓が「紺君?」と聞き返すと、紺と名乗った男の子は「うん」と嬉しそうにうなずいた。
「紺君、どこの子?」
尋ねたのは、気が強く面倒見の良い伊織だ。伊織の問いかけに、紺は糸のような目を三日月型にした。
「どこの子だと思う?」
尋ねられても、他学区の四人は当然わからない。四人の視線が、楓に集まる。見つめられても、生まれて十年東学区にいる楓ですら知らない子だ。わかるわけもない。 首を傾げる五人の前で、紺がすぅと腕を伸ばした。伸ばされた指先が、坂の上にそびえる山を差す。楓を除く四人が、ぼんやりした声で納得した。
「なぁんだ、東の子かぁ」
紺が差す山は、東学区に分類される。事実、楓が通った東小学校も山の中にあった。だが、紺なんて名前の男の子は、学校どころか村の中ですら会ったことがない。納得している四人に異を唱えるのは勇気が必要だったが、楓は意を決して「紺なんて子、いなかったよ」と伝えようとした。しかしそれを遮るように、紺が「僕も混ぜて」と言い出した。
「僕もみんなと遊びたいな。仲間に入れてよ」
後ろ手に手を組み、にこにこと紺が笑う。お面のように貼り付いたままの笑みに、楓はとっさに「やだな」と思った。それは声に出てしまったが、口の中でもごもごと不明瞭だったため、誰の耳にも届かなかった。そうして楓が口ごもっている間に、ほかの四人が「いいよ!」「遊ぼ!」と元気にうなずいた。 この日を境に、楓たち五人組に紺が加わり、放課後は六人で遊ぶようになった。五人の約束では、一日置きにそれぞれの学区を行き来するはずだった。だが紺が加わってからは、毎日東学区で遊んでいる。楓は楽だが、ほかの四人はバスで往復する必要がある。心配に思った「いいの?」と楓が尋ねると、四人は笑顔で「いいよ!」とうなずいた。
「山で遊ぶの、楽しいもん」 「紺君と遊ぶなら、東に来ないとね」
四人がそう言っても、楓は本当にそれでいいのか疑問だった。なのに紺が「近くで遊べて良かったね」と話を終わらせるものだから、それ以上何も言えなかった。 楓は今日も住み慣れた東学区で、紺を交えた六人で遊んでいる。
紺君と天狗の木倒し
バスを降りるなり「山ん中探検しようぜ!」と言い出したのは、敦だった。「ええー」と不満そうな声を上げたのは伊織だ。蒼海が「靴が汚れちゃう」と伊織に同調し、栄太が「おれ探検に一票」と手を挙げる。紺と連れ立って四人を出迎えた楓は、困ってしまった。楓の祖父は猟師だ。その祖父から、楓はいやというほど山の恐ろしさを教えられている。だからといって、盛り上がっている男子二人に水を差すのも気が引けた。
「やめときなよ」
二人をやんわりと窘めたのは、紺だ。定位置である楓の隣に立ち、いつものように閉じているのかいないのかわからないくらい目を細めて笑ったまま。だが声には有無を言わせない何かが漂っている。 それを気にしないのは敦だ。「何でだよ」と唇を尖らせ、楓と紺に向かって人差し指をびしりと突き出した。
「お前ら二人とも東住みだろ? じゃあ山なんて庭みてーなもんじゃん!」 「そんなこと……」
ないよと言いかける楓を、敦は「あるだろ!?」と大きな声で遮る。
「楓のじーちゃん猟師じゃん! 山入ってんじゃん!」 「山に入るのは、おじいちゃんだけだもん」
祖父が猟師だからこそ山では遊ばないのに……と思うものの、それをどう説明すればいいかわからず、楓は眉を八の字にして困り果ててしまった。楓は助けを求め、ちらと紺を見た。すると糸のような細い目がうっすら開き、覗いた瞳が敦を睨んだ。
「いいよ」
覗いた瞳、金色の目が、敦をまっすぐに見つめる。紺の目を見た敦はたじろぎ、半歩後ろへ下がった。敦の動きを気にせず、紺は続ける。
「そんなに入りたいなら、山に入ろうか」
いつもの優しい声とは正反対の、石のように冷たい声だ。楓を含めた女子はその冷ややかさに寒気を感じたが、発案者である敦はそうもいかない。下がった半歩を取り戻すように一歩踏み出すと、紺の前で胸を反らした。
「おう、今から探検だ!」
とは言うものの、時間が時間だ。そう奥深くへは分け入ることもできない。三人は坂を上り切ったその先、神社を抜けて山へ入ることにした。 鎮守の杜に挟まれた石段を上がって、石造りの鳥居をくぐる。神社の敷地を抜け、六人は山の領域に入っていった。 敦と栄太の二人が、あとの四人を振り切るように先へ先へと進む。後ろを歩く伊織と蒼海が「もっとゆっくり歩いて!」と怒ってもお構いなしに道なき道を進んだ。 楓と紺は、その四人の後ろをゆっくりと歩いていた。山のそばで育った楓だが、運動神経は十人並みだ。加えて、山道に慣れてもいない。足下を見ながら、前を歩く四人をちらちらと確信しながら、楓は転ばないよう一歩一歩踏みしめて歩いた。 そうして歩いていたら、いつの間にか、楓は紺と二人きりになっていた。楓があれっと辺りを見回すと、周囲には目隠しするように木が立ち塞がっていて、今来た道すら見えなくなっている。まるで、木々が楓たちに意地悪をしているかのようだ。怖くなった楓は、隣にいる紺を振り向いた。
「こ、紺君……」
皆まで言わずともわかるのか、紺はにこにこ笑顔のままうなずき、手を差し出した。
「怖かったら、手を繋ごうか」
そうではない――が、紺の申し出はありがたかった。木々に囲まれたせいで辺りは暗いし、人の気配どころか動物の気配すらない。楓はここにいるのが怖くて怖くて仕方なかった。 なのに、紺の申し出に首を振った。
「ううん……大丈夫」
手を繋ぐのが嫌だったわけではない。ただ、恥ずかしかった。小学一年生の頃ならば、恥ずかしげもなく紺の手を取れただろう。しかし五年生ともなれば思春期。もしもほかの四人に見られたらからかわれてしまうと思った楓は、素直に紺と手を繋げなかった。 首を振る楓を見て、紺は残念そうに手を引っ込めた。それが申し訳なくて、気恥ずかしくて、楓は紺より一歩前に出ると、四人の名前を呼びながら歩調を強めた。
「敦くーん。伊織ちゃーん。蒼海ちゃーん。栄太くーん」
呼んでも、返事はない。それどころか同じ場所をぐるぐる回っている気がしてきた。不安になる楓に、紺は「そんなことないよ」と笑みを向ける。
「大丈夫だよ。ちゃんと戻れるから」
本当かな、と楓が思ったそのとき、頭上でミシミシと嫌な音がした。とっさに見上げると、楓の頭の真上で、太い枝が揺れていた。
――折れちゃう!
咄嗟に身構えたが、枝は揺れるだけで落ちてくるようなことはなかった。だが、嫌な音は依然続いている。いつ枝が折れて落ちてくるか気が気でなくなり、楓は上を見ながら歩かなくてはならなくなった。 どれだけ歩いても、ミシミシ、ミキミキと嫌な音が付きまとう。楓は怖がり、びくびくしながら歩く。その隣を歩く紺は、しばらくの間黙っていた。しかし、楓が「ひっ」と声を上げ肩を竦めたところで、黙るのをやめた。怯える楓の肩を、紺が優しく二度叩く。
「楓ちゃん。上ばっかり見てると危ないよ」
紺が指差したのは、足下だ。紺の指からその先へ視線を向け、楓は文字通り跳び上がった。 真っ白な手が草陰から、土の中から生えてきて、楓の足を掴もうとしていた。 楓は悲鳴を上げて紺にしがみついた。紺は満足げに笑うと、楓の手を握った。
「上は僕が見ててあげるから、楓ちゃんは下を見てて。大丈夫。ちゃんと見てたら、足を掴みはしないから」
紺の台詞が本当かどうか、楓に気にする余裕ははない。紺の手をぎゅっと握り、楓は下を注視して歩き出した。 白い手は楓の足に触りたそうに伸びてくるが、紺の言う通り、決して掴みはしなかった。足下に注意して歩いているうちに、頭上の音は聞こえなくなっていた。白い手の数も少なくなってゆき、やがて見えなくなった。どちらの変化にも気づきながら、楓は足下から目を逸らせなかった。油断すればまた白い手が出てくるかもしれない。そう思って、楓は紺の手を強く握ったまま、ゆっくり山道を歩いていた。 足下への注意が逸れたのは、「あーっ」と大きな声が聞こえたときだ。驚いて顔を上げると、そこは神社だった。いつの間にか、山を抜けて鎮守の杜を越え、神社の敷地に出ていたらしい。ニヤニヤするのは伊織と蒼海で、指を差しているのは敦、ポケットに手を突っ込み口笛を吹くのは栄太だ。声を出したのは、敦のようだ。
「紺と楓、手ぇ繋いでやんの!」
今にも囃し立てそうな声に、楓は慌てて紺の手を離した。慌てすぎて声も出せない楓に代わり、落ち着いた態度の声が平然と答える。
「楓ちゃんが転びそうだったからだよ」 「えーっ。ほんとかよぉ?」
拾ったらしい長い枝で、敦が紺をつんつんとつつこうとする。その横で、伊織と蒼海が「そういえば」と思い出したように背後の森を振り返った。
「変な草、多かったよね」 「輪っかみたいに結ばれたやつ。危ないよね」
二人の会話に、栄太が乗っかる。
「石も多かったよ。躓きそうな大きいの」 「ああ、そうだそうだ。さっきまでなかった場所にあったりな!」 「あれあぶねーよなぁ」と敦が頭の後ろで手を組んだ。「山の中だもん、仕方ないよ」と栄太が落ち着いた声で言う。「でも怖いよねぇ」と伊織が続き、「怪我しなくてよかったね」と蒼海が胸を撫で下ろす。そのまま四人は、どんな変な草、妙な石を見たかで盛り上がり始めた。 楓と紺は置いてけぼりだ。怖い思いをした楓は戸惑い、紺は何とも思っていない顔で平気そうにしている。
「怖かった?」
尋ねる紺の目は、金色だ。先ほどの白い手よりも、楓は紺の金色の目のほうが怖かった。もちろん、そんなこと紺に直接言えるわけもない。
「怖く、なかったよ」
目を逸らしながら答える楓に、紺は「そっか」とうなずいた。その声は、思いのほか優しかった。
紺君と狢
神社を越えて山に入った日以来、四人は山で遊ぶのを殊の外気に入ったようだった。嬉々として山に分け入る四人の背中を追いながら、楓は「やめようよ」と言い出せずにいた。またあんな目に遭ったら……と思うと怖かった。なのになぜ言い出せないのか。楓自身、この面子で遊ぶときに限って控えめになってしまう理由をわからないでいた。 後ろで楓が怯えながら歩いているとも知らず、先を行く四人はそれぞれに盛り上がっている。
「今日はいい枝探そうぜ!」 「いいの見つけたら?」 「優勝!」 「よっし探そ!」
男子二人が盛り上がる後ろで、女子二人は冷めた目をしている。
「枝なんかで優勝したって、面白くないよねぇ?」 「花を探すなら楽しいけど……」 「じゃあ給食のデザート賭けようぜ。優勝したら明日のオレンジゼリーな!」 「えっ、何それっ」 「ちょっとぉ、勝手に決めないでよぉ!」 「おれ一番乗り!」と敦が石段を駆け上がる。間を開けず、栄太も走り出す。給食のデザートを奪われてはたまらないと、伊織と蒼海も二人を追いかけた。デザートを賭けられても、紺は涼しい顔をして走る素振りすら見せない。山での恐怖とデザートを天秤にかけ、楓は恐る恐る、四人の後ろ姿を追いかけた。 神社を駆け抜け、四人は一目散に山へ入る。そのまま好きな方向へ散らばり、優勝するべく大きな枝を探し始めた。神社から離れたくなかった楓だが、敦に「まじめにやれよな!」と人差し指を向けされ、仕方なくうつむいて枝を探し始めた。同じように指を差された紺は、枝を探すでもなく楓のそばにいた。 五人が黙々と枝を探していると、遠くから「おーい」と呼びかける声が聞こえた。最初は風が木のうろでこだました音かと思ったが、耳を傾けているうちに、風ではなく誰かが発する声だとわかった。 楓の頭に浮かんだのは、村に住む山田のおじいさんだ。つい最近、彼は山菜採りに分け入って遭難した。あんなに注意されたのに、また入ったのかな……と楓は顔を上げた。ほかの四人も、同じタイミングで顔を上げていた。 見上げた先、木の上。枝に引っかかるように、ぬらりと白い月が浮かんでいた。
「お月様だ」と蒼海が呟く。眠たげな声で「こんな昼間なのに」と栄太。「真っ白いね」と伊織。敦の瞼は、半分閉じかかっている。 呼びかけているのは、この月だ。木の上から「おーい」「おーい」と何度も呼びかけてくる。月の声を聞いていると、楓は頭がぼうっとした。ほかの四人も同じなのだろう。敦が、握っていた木の棒を手放した。ことん、と軽い音を立てて木の枝が地面を転がる。
「呼んでる」
敦がそう言うのを皮切りに、四人はふらふらと月に向かって歩き出した。四人が歩き出すと、月は先導するように木の枝から離れる。楓も、四人と月を追って歩き出した。 ここまで静観していた紺が、初めてムッと顔を歪めた。後ろ手に組んでいた手を解き、すぅと息を吸う。
「……ムジ! ネタ!」
びくん、と月が跳ねた。真昼の月がどろんと消える。ほぼ同時に、何かが落ちる重い音がした。「ぎゃっ」と獣めいた悲鳴が後に続く。その声で、楓たちは夢から覚めたように我に返った。
「何だ今の?」と敦が首を振る。
「狢だよ」と渋い顔をして紺が言う。まだ頭がぼんやりしている楓を振り返り、紺は微笑んだ。
「危なかったね、楓ちゃん」
何が、どう危なかったのか。はっきりし始める頭で、楓は紺に尋ねた。
「……あのままついて行ってたら、どうなったの?」
はっきりし出す頭とは反対に、舌はうまく回らない。むにゃむにゃと寝言のような質問に、紺はさらりと答えた。
「谷に落っこちるか、取って食われたんじゃないかな」
紺の答えで、今度こそ全員の目が覚めた。伊織と蒼海が肩を寄せ合い抱きしめ合うのを横目に見ながら、紺は楓だけに「大丈夫だよ」とあっけらかんとした笑みを向けた。細い目が、すぅっと開く。
「僕、狢って嫌いなんだ。だから楓ちゃんには近づかせないよ」
一瞬開いた目をすぐに糸のように細め、紺はにこにこと背中で手を組んだ。楓は「わたしだけ?」と引っかかりを覚えたが、聞き返せなかった。紺の台詞に何の疑問も感じなかった敦が「すげーな!」と紺に飛びついたからだ。
「紺ってすげーな! あんなこえーやつ退治できんだな!」
敦に続き、抱き合っていた伊織や蒼海も「すごいね」「ありがとう」と褒めそやし、栄太も「紺君がいたら怖くないね」とはにかむ。盛り上がる四人に水を差すこともできず、楓はもやもやとしたものを抱え黙り込んだ。
紺君と見越し入道
紺を含めたいつもの六人で遊んだある日。鬼ごっこが白熱し、帰りがずいぶん遅くなってしまった。石段を下りた頃には夕日もてっぺんしか見えておらず、夜の帳が道を見えにくくしている。 バス停までは六人で歩けるが、四人を送った後、楓は一人で帰らなくてはならない。暗い道を歩くのは怖いなぁと思っている楓に、紺が「送るよ」と言い出した。
「僕も同じ方向に帰るんだ。だから四人を見送ったら、一緒に帰ろ」
紺の申し出を、楓はありがたく受けることにした。しかしまずは別の学区に住まう四人をバス停まで送らなくてはならない。迫るバスの時刻に追われ、六人は大急ぎで坂を駆け下りた。 バス停では、目を刺すような光を放つバスが待っていた。定期券をかざし乗り込む四人に手を振って、楓は去りゆく友人を見送った。エンジン音を響かせるバスが消えると、過疎の進んだ東学区は、恐ろしさすら覚えるほど静かだった。 薄暗い中にぽつんと残された二人は、坂を上って帰路についた。 長い坂を半分ほど上ったときだ。頂上に、ふらりと人影が見えた。落ち切った夜の帳よりもさらに色濃い人影は、楓に「お坊さんだ」と直感させた。だが、坂の上に立つ僧侶の背格好は、村に住まう僧侶とは似ても似つかない。僧侶を見上げた楓は、ぽつりと呟いた。
「誰だろ」
楓の声に、紺も坂の上を見上げた。坂の上を見つめているのに、楓は紺が目を細めたとわかった。その証拠に、隣にいる紺の声は楽しげだ。
「あーあ。見ちゃったね、楓ちゃん」
楓が「え?」と振り向こうとしたとき、僧侶がぐぐっと伸び上がった。紺を振り向けないまま、楓は伸び上がる僧侶を見つめ続けた。楓の視線を引きずるように、僧侶の体がぐんぐん伸び上がる。 視線の先にいるのが人間ではないとわかっても、楓は目が離せなかった。逃げ出したいのに、足は凍ったように動かない。伸び続ける僧侶を、首が痛くなっても見上げてしまう。 後ろに倒れそうな楓の体を、隣にいる紺が支えた。
「そのまま見てると死んじゃうよ」
いつもと変わらない声だから、楓は紺が言った意味を即座に理解できなかった。だが理解すると、その内容と声の差に楓は「えっ」としか言えなくなった。何度も「えっ」を繰り返し、パニックに陥った楓は自分を支える紺にしがみついた。視線を未だ坂の上に向けたままの楓を、紺は優しく「大丈夫」と諭す。
「僕と一緒にこう言って。見越した、って」
紺の指が、すっと僧侶を差す。視界に僧侶以外のものが入り込み、楓は初めて安堵を覚えた。 耳元で、潜めた声が「せーの」と合図する。楓は息を吸い、紺と息を合わせた。
「見越した!」
叫ぶように、言葉を音の塊としてぶつけるように、二人は声を揃えた。二人分の声が夜空に響く。その瞬間、僧侶は空気が抜けたように萎んで縮んで消え失せた。 体から力が抜け、へたり込みそうな楓を、紺が抱えてしっかりと立たせる。
「もう大丈夫」
黄昏時を越えた暗闇に、金色の目が、月のように浮かび上がった。紺の手が、楓の手をそっと包む。
「僕がいてよかったね、楓ちゃん」 「……うん」
――紺君がいてよかった。 ――紺君がいれば怖いものと出会っても大丈夫。
ぼんやりした声でそう繰り返し、楓は紺の手を握り返した。 頼りになる紺と手を繋ぎ、明かりの少ない夜道を歩く。楓は、帰り道で紺と何を話したかをほとんど覚えていなかった。けれど、繋いだ手がやたら毛深くあたたかかったこと、家の前で別れた紺の影にふさふさした六本の尻尾が生えていたことは、眠る直前まで忘れなかった。
紺君と狐の嫁入り
学校が終わって、東学区のバス停で待ち合わせをしていたある日。 雲一つない晴れた空は、外で遊ぶにはもってこいの天気だ。バスを降りた楓は、いつものように鞄を置くなり家を飛び出した。今日こそ、バス停に一番乗りするつもりだった。しかし楓がバス停に着くと、すでに紺が標識に寄りかかっていた。 一番乗りでなかったことを残念に思いつつ、楓は「紺君」と声をかけようとした。その瞬間、雲もないのに雨がぱらぱらと降り出した。顔を上げた紺が、楓に気づいて手招きする。
「楓ちゃん、急いで」
手招きされ、楓は大急ぎで庇の下へ入り込んだ。 二人並んで、庇の下から空を見上げる。何度見ても空には雲一つない。なのに、雨は止まない。 降り出す雨に周囲の畑の土が濡れ、雨降り特有の匂いが辺りに立ちこめる。バス停を隠すようにそびえる木々の、青々とした葉っぱが降り注ぐ雫で揺れる。雫を纏った若葉は、陽の光を浴びてきらめく。庇の下から雨に彩られた世界を見て、楓は目を輝かせた。
「きれー……」
呟く楓の横顔を、紺は黙ったままにこにこと見つめる。雨の世界に夢中な楓を満足げに見つめていた紺は、ふと、思い出したように空を見上げた。
「花嫁行列が過ぎるまでの雨だから、もうすぐ止むよ」
紺の台詞に、楓は外から紺へと視線を移した。雨の話はともかく、行列のくだりは意味がわからない。首を傾げる楓を、紺は手招いて肩が触れるほどまで近寄らせた。紺の両手が狐の形を作る。狐の形をした両手が組み合わされ、小さな覗き窓ができあがった。
「ほら、見て」
言われるまま、楓はおずおずと小さな窓を覗き込んだ。覗き窓からバス停前を見ると、そこには、和服を着た狐の行列があった。楓は驚き、体を仰け反らせた。覗き窓を介さない目の前の景色は、ただの天気雨だ。しかしもう一度、深呼吸の後に覗き窓から見た世界では、白無垢を着た狐がしずしずと歩いていた。
「遠くの山にお嫁に行くんだ」
紺の説明に、楓は何も不思議に思わず、ただ「狐も白無垢を着るんだなぁ」と感心していた。紺はそれ以上何も言わない。楓も、厳かな花嫁行列を黙って見送った。 和装の狐たちが目の前を通り過ぎると、紺は覗き窓を作るのをやめた。厳かな空気は霧散し、天気雨に見舞われた田舎の景色が戻ってくる。 いつの間にか目を開いていた紺が、金色の目でじっと楓を見つめた。
「ねえ、楓ちゃん」
金色の目でじっと見られると、楓は居心地の悪さを覚える。いつもの細い目のほうがいいな……と思いつつ、楓はそろりと目を逸らした。それでも紺は、楓だけを見つめる。
「楓ちゃん、お嫁においでよ」 「ど……どこに?」 「僕んち」
おどおどした楓の問いかけに、紺はやや食い気味に、きっぱりと言い切った。いつもの優しげな声と違う固い声に、楓は縮こまる。怖がられたと気づいた紺は、いつもの優しい、穏やかな声で楓に嫁入りを願った。
「姉さんがお嫁に行っちゃって、母さんも寂しがってるんだ。楓ちゃんのこと、娘みたいに可愛がってくれる。弟は人間嫌いだけど、僕が守るから怖がらなくていいよ。親戚はちょっとうるさいかもしれない。でも僕が絶対黙らせるから、楓ちゃんは何も心配しなくていいからね」 「う、うぅん……」
諭すというよりも、もはや言いくるめる勢いだ。楓はますます縮こまり、言葉が出なくなってしまった。紺は口を閉じ、楓の返事を待った。金色の目は楓から逸らされない。楓はちらと、紺へ視線を戻した。
「……おと、大人に、なったら……お嫁に行ってもいいよ」
煮え切らない返事だが、紺は嬉しそうに「うん」とうなずいた。金色の瞳は、糸のように細められたせいでもう見えない。いつもの紺に戻った。ほっとした楓は、ようやく紺を正面から見ることができた。
「あのね、紺君」 「なぁに、楓ちゃん」 「……金色の目、ちょっと怖い」
だから、と楓はまた目を伏せていく。
「ずっと、そうして笑ってて」
下がっていく楓の視界の中、きょとんとする紺の目は、再び金色の瞳が露わになっていた。その金色が怖くて、楓は完全に足下へ目をやった。紺が笑ったのは、何となく、空気でわかった。
「楓ちゃんが言うなら、そうするね」
紺の台詞を信じるには、勇気が必要だった。意を決した楓が顔を上げると、楓のお願い通り、紺の目は細められ、金の瞳は隠れていた。 楓がほっとするのとほぼ同時に、雨が止んだ。
紺君とかくれんぼ
狐の花嫁行列と入れ替わるように、四人の友人を乗せたバスがやってきた。バスから降りてきた四人が、輝く笑顔で早速「何して遊ぶ?」と楓と紺を遊びに誘う。一番に答えたのは紺だ。「かくれんぼ」と言って、坂の上を指で差す。
「神社でかくれんぼしようよ。山に入らず、神社の中だけで」
普段、紺は「何して遊ぶ?」と水を向けられても「何でもいいよ」と笑うだけだった。楓から尋ねられても答えは同じだ。そんな紺が言い出したかくれんぼに、男子二人は考え込み、女子二人は乗り気になった。
「紺君、いつもいいよって言ってくれてるもんね」 「たまには紺君がしたい遊びでもいいでしょ?」 「うーん」と唸るのは敦だ。隣の栄太が「かくれんぼでもいいけど」と女子二人に賛同すると、「しょーがねぇなー!」と大きな声でかくれんぼに同意した。その代わり、と敦はにやりと笑った。
「かくれんぼする代わりに、一番遅かったやつが鬼な!」
そう言って、敦は坂を駆け上がった。栄太が「ずっる!」と叫んで走り出す。伊織と蒼海も「ちょっとぉ!」と怒りながら二人を追いかける。出遅れた楓が「待ってぇ」と走り出す後ろを、かくれんぼの提案者である紺が、のんびりと歩いていた。 坂を上り、灯籠に挟まれた石段を駆け上がり、頂上の赤い鳥居をくぐって、敦、栄太、伊織と蒼海、楓、紺の順番で参道に立った。
「最初の鬼は紺だな!」
嬉しそうな敦に、紺は「いいよ」とうなずく。
「それじゃ、僕が鬼で始めようか」
どこに持っていたのか、紺は真っ赤な鬼のお面を取り出すと、顔を隠した。
「鬼はこのお面をつけようよ。わかりやすいでしょ?」
お面をつけながら紺が説明したルールは、三つだ。 一つ。誰かが見つかるたびに隠れ場所を変えても良い。 二つ。鬼は必ずお面を被ること。 三つ。探し始めるときは、必ず「もういいかい」と呼びかけて合図すること。 変なルール、と楓をはじめとした五人全員が思ったが、反対する理由もなく、紺の言うルールを受け入れた。 五人がうなずいたことで、かくれんぼが始まった。大きな神木の根元で、紺が五人に背を向け数え始める。百を数えるまでに、五人は隠れなければならない。紺が振り返らないのを確かめて、楓たち五人は、それぞれ思い思いの隠れ場所へ散らばった。 木の裏、灯籠の影、境内に置かれた遊具の後ろ。 楓が隠れたのは、境内に置かれた遊具の影だ。 神木の方角から「もういいかい」と紺の声が聞こえる。自分の姿が見えないよう祈りつつ、楓はそっと顔を覗かせた。目を凝らし、耳を澄ませ、紺の動向を探る。 様子を窺っていたら、紺が敦を名指しした。楓が目をすがめて見た先では、紺が|銀杏《いちよう》の木の上を見上げていた。葉の陰から、にょっきりと足が生える。「ちぇっ」と心底残念そうな声も聞こえた。敦は銀杏の木の上に隠れていたのだった。 木から下りた敦に、紺が鬼のお面を差し出す。受け取ったお面を素直につけると、敦は決められた数を数え始めた。楓の隠れ場所から、敦の立つ銀杏の木は近い。ここにいたら見つかるかもしれないと、楓はそっと、遊具の影を離れた。 誰かが見つかる様子を見るたび、楓は隠れ場所を変えた。次から次へと隠れ場所を求めるたびに、楓は自分が本殿に近づいていることに気がついた。自ら隠れ場所を決めているはずなのに、楓は本殿に追い込まれているような気分になった。木々に囲まれた薄暗い本殿へ近づくにつれ、段々と、楓は怖くなってきた。 というのも、先ほどから「もういいかい」と尋ねる声が、知らない太い声に変わっているのだ。振り向くたびに見える鬼の後ろ姿が、子供の小さな影でなく、大きな人影に変わっているのだ。その大きな影を、楓は〝大人〟と言いたくなかった。服すら着ていない、真っ赤な肌を持つ人のようなものを、成長した自分がなるはずの〝大人〟と呼びたくなかった。 赤い人影は、誰かを見つけるたびにその子を隠れ場所から引きずり出した。引きずり出された子は、その場ですぅっとかき消える。もし見つかったら。楓もああして消えるのかもしれない。消える自分を想像し、楓は震え上がってしまった。 息が乱れ、楓は胸が苦しくなる。このまま隠れ場所から飛び出して、神社の外へ逃げ出したい衝動に駆られた。恐慌状態の頭が走り出してしまおうと決めたそのとき、楓の肩を、小さな手がぽんと叩いた。 楓はひゅっと息を呑み、叫び声を上げかけた。楓の悲鳴をくぐもった声に変えたのは、紺の手だ。口を塞いでいない手で楓の背をぽんぽんと撫で、紺は楓を落ち着かせた。 息を乱した楓が落ち着くと、紺は潜めた声で「こっち」と本殿を指差し、その裏へ楓を連れていった。本殿の下、子供ならば座っていられる小さなスペースに二人で潜り込む。狭い狭い隠れ場所で、二人は肩を寄せ合いくっつき合った。
「鬼もまだこっちまで来ないだろうから、ここで隠れてようね」
耳元で聞こえる紺の声は、いつもと変わらない。ほっとしつつ、楓の体はまだ震えていた。震える声で、楓は紺に尋ねた。
「紺君……あれ、なに?」 「鬼だね。本物の」
こともなげに、紺はさらりと答える。
「お面をつけて誰が誰だかわからないようにするから、本物が混じっちゃったんだ」 「それはっ……」
――紺君が言い出したのに!
喉元まで出た台詞を、楓は押し戻した。今ここで頼れるのは紺しかいない。紺の機嫌を損ねて見捨てられたくはなかった。代わりに、楓は「どうしたらいいの」と紺に縋る。紺色のパーカーを掴む楓を見て、紺はにっこり微笑んだ。
「わかんない」
呆然とする楓とは反対に、紺はいつまでもにこにこしている。
「大丈夫。このまま見つからなかったら、鬼も飽きて消えちゃうよ。それまでここで、僕とここで隠れていよう?」
本当だろうか。疑わしく思っても、楓は紺を信じるしかない。信じるしか、道はない。震えながらうなずく楓に寄り添い、紺は楓の小さな手をぎゅっと握った。紺の手を握り返しながら、楓は日陰に紛れる自分たちの影に目を落とした。光の加減か、寄り添う影は一匹の大きな狐に見えた。 楓たちが鬼から隠れている一方で、神社の外では大人と子供が大騒ぎをしていた。 鬼に見つかり消えた四人の子供たちが、わんわんと泣きながら大人に訴えている。大人たちの前で、泣きじゃくりながら説明したのは伊織だ。
「わ、わたしたち、知らない神社で、かくれんぼしてた」
いつも遊ぶ神社は、石造りの鳥居が出迎えてくれていた。なのに今し方かくれんぼをしていた神社は、木製の赤い鳥居が待ち構えていた。石段は木々に囲まれていた。しかし今までいた石段は、灯籠が並んでいた。 鬼のお面を被っていた敦が、泣きながら素顔を晒す。
「学校でも見たことないやつが、かくれんぼしようって言い出したんだ。楓がまだ、そいつといるんだ」
紺なんて男の子、廊下ですら見たことない。思い返せば、東学区出身の楓も「知らない」と言っていたはずだ。 震えながら、すすり泣きながら、蒼海が自分の見たものを大人に訴える。
「楓ちゃんと一緒にいる子……尻尾、生えてたの。六本も、尻尾があった。狐とおんなじ尻尾だった!」
涙を拭い、泣き止もうと努力しながら、栄太が震える唇を開く。
「楓ちゃん、そいつにずっと、手、握られてて……逃げられないんだと思う」
栄太の説明を皮切りに、子供たちは一斉に泣き出した。 神社の外で、子供が泣き叫び大人が困惑しているとも知らず――そもそも、ここがいつもの神社と違うことにも気づかず――楓は息を殺し、ぴったりと紺にくっついていた。鬼から目を離せない楓に、紺がこっそり耳打ちする。
「このままずっと、ずーっとここにいたら……楓ちゃん、そのうち大人になるかなぁ?」
思わず鬼から目を離し、楓はすぐ隣にいる紺を見た。目の前に、金色の瞳があった。金色の中に映り込む自分を見つめ、楓は目を見開いた。 笑みを湛えたままの紺が、静かに片手を持ち上げる。
「大人になるまで、ずーっとここに隠れてようね」
持ち上げられた手が、狐の形を作る。手で作られた狐の鼻先が、楓の鼻先にちょん、と当たる。狐の口が、かぱ、と開いた。
「コン」
紺が言うのと同時に、楓の瞼は重くなった。意識が暗転する寸前に楓が見たものは、六本の尾が生えた、金色の目を持つ大きな狐。
花嫁は雪の色 花婿はきつね色
秋の夜。夏の夕。春の昼。連れ去られたのはいつだったか、楓は思い出せない。いや、思い出そうという遺志すら持てない。 楓の意識がはっきりするのは冬の間だけ。それ以外は、楓は大きな屋敷の大きな座敷でぼんやりと過ごす。 十を過ぎた子供だった楓は、今や背丈も伸び、成人も近そうに見える。だが楓は自分の年を答えられない。冬になれば、越した年を数え自分の年齢を自覚するかもしれないが。 楓がいる大きな屋敷は、楓の住まいの裏手にある山を越え、さらに山を越え、耳鳴りがする静寂を越えたところにある。そこは狐ばかりが住む小さな村だ。狐たちは皆着物を着て、それぞれに小さな家を構えて暮らしている。 楓を連れ去ったのは、大きな狐だった。子供の姿に化けて楓の友達となり、機を見て楓を連れ去った。 最初こそ泣いていた楓だが、山を一つ越え二つ越え、静寂を通り過ぎる頃には泣き疲れたか化かされたか、ずいぶん静かになっていた。 狐たちの村に入ったとき、楓の頭にあったのは強烈な眠気だけだ。これを眠気と表すのが適当か、楓にはわからない。眠いかと問われれば眠いと答えられるが、眠くないかと問われれば眠くないと答えられる。 思考がまとまらない。そう答えるのが適当な状況だった。狐に抱えられながら、楓は「化かされてる」と思った。そうでなければ、泣き疲れているとはいえこんな眠気、説明がつかない。そう思った。 大きなお屋敷の前で、狐は止まった。楓を玄関前で降ろし、素早く宙返りを打つ。狐と入れ替わるように現れたのは、見慣れた友達――黒髪の癖っ毛に糸のような細い目、紺色のパーカーに生成りの半ズボンがトレードマークの、紺少年だった。
「着いたよ、楓ちゃん」
紺の台詞を待っていたかのように、玄関の引き戸ががらりと開いた。出てきたのは、着物や作務衣に身を包んだ狐たちだ。どの狐も、楓や紺より頭一つ分背が高い。 着物を着た狐たちは、屋敷の中からぞろぞろ出てきて、楓をも取り囲むように紺のそばへ控えた。
「おかえりなさいませ、坊ちゃん」 「うん、ただいま」 「そちらが花嫁様で?」 「そうだよ。大事に扱って」 「奥様がお待ちですよ」 「楓ちゃんを案内してから行くね」
楓とそう変わらない背丈の紺は、大きな狐たちに臆すことなく返事をし、楓の手を引き屋敷に入る。長い廊下を何度曲がり、何度襖を開けて部屋を横切ったか。化かされていなくとも数え切れなかったであろう回数を越えて、楓はがらんと広い座敷に出た。 藺草の香る畳はその青さが新しさを語っている。部屋には家具らしい家具もなく、座り心地の良さそうな大きな座布団が一枚だけだ。見ただけでざらつきのわかる壁は聚楽塗で、そこに格子のはまった円い窓が外の景色を内へ見せる。格子の向こうで揺れるのは、桜か、百日紅か、紅葉か。 ぼんやり立ち尽くし窓の向こうに見とれる楓を、紺は恭しく、宝物を扱うようにそっと、部屋の中央に置かれた座布団に座らせた。楓には大きすぎる座布団は、寝そべることもできそうだった。
「ねえ、楓ちゃん」
糸のように細い目が開かれ、金色の目が楓を捉える。
「大人になったらの〝大人〟って、いつ?」
何のことか、と問いかけるより早く思い出したのは、紺から「お嫁においで」と希われた天気雨の日のこと。楓は自分が「大人になったら」と帰したのを思い出し、働きたがらない頭で〝大人〟の定義を考えた。 思い出すのは、猟師の祖父だ。顔を赤くするほど酔った祖父を見たのは、楓が幼稚園に通っていた頃のことだ。楓が幼稚園児だったあの頃は、まだ親戚も近くに住んでおり、正月になれば宴会に近い酒盛りが催されていた。 大人たちが美味しそうに酒を飲む中、楓をはじめとした子供たちはジュースしか許されない。祖父に一際可愛がられていた楓は、よちよちと祖父の膝元へ行き、酒をねだった。当然、祖父が飲ませるわけもない。周りの大人も微笑みながら楓を窘めた。
「大人が飲むものだから、子供が飲んでも美味しくないよ」
美味しそうに飲む大人にそう言われて、納得できるわけもない。ぷくりと頬を膨らませる楓を、祖父は大きな声で笑いながら皺だらけの手でわしわしと撫でた。 そんな記憶が、楓に〝大人〟の定義を浮かばせた。
「おとそ……」 「おとそ?」
首を傾げる紺の向こうに祖父の幻影を見ながら、楓はぽそぽそと呟くように答えた。
「お正月、お酒、おいしく飲めたら……おとな……」
金色の目を二、三度瞬かせ、紺は「わかった」とうなずいた。その目は炯々と輝き、三日月のように細くなっていた。 それから楓は、屋敷で正月を迎えるたびに酒を飲まされる。 場所は楓の住まいと異なる座敷。そこは正月衣装に身を包んだ狐たちが、宴会さながらに飲んで騒いでを繰り返す。 宴会場での楓の席は、上座、それも紺の隣だ。狐たちに無理矢理着物を着せられ、化粧を施され、花嫁もかくやというほどに飾られ、宴会に参加させられる。狐たちばかりの宴会に人間として放り込まれる心細さといったら。隣に人の姿をした紺がいるとはいえ、中身が狐とわかっているのだから、何の支えにもならない。 楓たちが目に入らないかのように騒ぐ狐たちが、不意に、しんと静まり返る瞬間がある。誰かが合図したのか、時間を計っているのか、それはわからない。確かなことは、静かになった瞬間、飲酒を迫られるということだ。 静かに席を立った狐が二匹、一升瓶と赤い|杯《さかずき》を手に紺のそばにやってくる。両脇に控えた狐たちは、紺の手に瓶と杯を手渡す。少年らしい小さな手が杯に酒をなみなみと注ぐのを、楓は見つめることしかできない。立ち上がろうにも、糸で縛られているかのように体は動かないのだ。楓にできることは、できるだけ口を固く閉じておくことだけだった。
「楓ちゃん、飲んで」
差し出された杯からは、強い酒気が立ち上る。においだけでのどが詰まりそうになり、楓は息を止め小さく顔を背ける。紺が悲しそうな声で「飲んで」と繰り返しても、楓は唇を結んだまま。紺の両隣に控える狐たちが立ち上がる気配を見せても、楓は頑固に口と目を閉じる。
「楓ちゃん、お願い。一口でいいから」
唇に触れそうなほど近くに、杯が差し出される。それでも楓は酒を拒む。まだ〝大人〟ではない楓に、紺が差し出す杯の酒気は強すぎた。 狐たちが固唾を呑んで見守る中、紺と楓は酒を飲む飲まないの攻防を繰り返した。根負けしたのは楓だ。 赤い杯に、ほんの少し唇を当てる。そろりと傾けられた杯から、透明の酒がゆっくり楓の口内へ流れ込む。感じたのは苦みと辛み、息が詰まるような酒臭さと、冷たいのに焼けそうな熱だ。 一口分も嚥下できず、楓は咳き込み、酒を吐き出した。慌てた紺が、自分の着物が濡れるのも構わず楓の背中をさする。控えていた狐たちが肉球のついた手のひらを二度打ち鳴らし、小豆色の着物を着た狐たちを呼んで、楓を座敷へ下がらせた。 異郷で迎えた初めての正月と、初めて口に含んだ酒の味。水を飲んでも甘い栗金団を頬張っても消えない不快な味に、楓は「大人になれなくていい」と思った。 こんな風に、紺の目論見は失敗した。だが紺は諦めず、季節が巡り再び正月になる頃には、昨年よりも甘く飲みやすい酒を調達してきた。翌年にはまたさらに飲みやすいものを、翌年はさらに甘いものをと、楓が飲み干せる酒を苦心して用意している。 果たして何度正月を迎えたか――冬が来ないと、楓は自分が超した年を数えられない。冬以外、楓は連れ去られたあのときのように、頭に霞でもかかったようにぼんやりして、まともな受け答えすらできない。水の中をたゆたっているような、分厚い膜越しに見聞きするような、そんな気持ちで柔らかく大きな座布団に座って――時に転がって――いる。化かされるってこんな感じ――と、楓は一人になるたび、そう思っていた。 広い屋敷に、紺以外に狐は大勢いる。牡丹色の着物を着た狐は、紺の母だ。紺が攫ってきた楓を我が子のように可愛がり、下働きの狐たちに混じって、嬉々として世話を焼いている。下働きの狐たちは、男は黒い作務衣を、女は小豆色の着物を身に着けている。紺の指示で働くのは作務衣の狐たちで、紺の母狐の指示で働くのは小豆の着物の狐たちだ。 彼女らは、人形を手に入れた子供のように楓を愛でる。着物や簪、白粉や紅を持ってきては楓を飾る。無抵抗の楓に化粧を施し、母狐が「あらまぁ」と明るい声を上げた。
「ほら見て。よぉ似合ってるわぁ」 「本当に。よくお似合いですぅ」 「さすが私の息子。見る目があるわぁ。ええ子連れてきたもんやわぁ」
母狐はよく磨かれた鏡を取り出すと、「楓ちゃんもよぉ見て」と楓に鏡面を見せた。映り込む自分を見ると、楓はいつも泣きたくなった。思い出すのは母の顔。勝手に化粧道具を使って叱られた記憶すらも、家族と会えなくなった今では愛おしい。
「かえらなきゃ」
そう呟いて、楓はもぞもぞ動いて着物を脱ごうと試みる。だが、着付けられた着物は心得のないものではそう簡単には脱げない。仕方なしに、楓はよろよろ立ち上がり。屋敷からの脱出を試みる。狐たちは楓の抵抗を微笑ましそうに――あるいは哀れみを込めて――見つめるだけだ。
「おやおや。楓ちゃん、どこへ行くのん」 「いえに、かえるの」 「そうなん。おうちはどこ?」 「……わかんない」
わからない。そう呟いて、楓は覚束ない足取りで座敷を出る。覚束ない足取りに加え、長すぎる着物の裾が楓の歩みを邪魔する。転びそうになるたびに、座敷からついてきた狐たちが「危ない危ない」だの「お戻りくださいまし」だの「あんよが上手」だのと声をかける。笑いを含んだ声にむくれつつ、楓はなお進もうとする。 けれど結局、着物の重さに体力を奪われ、方向感覚のなさに気力を奪われ、どこともわからない廊下の途中で膝をつく。そうなると、狐たちはわらわらと楓を囲み、小さな手を取り、元いた座敷へ楓を連れ戻す。
「楓さま、お座りくださいな。新しい座布団と取り替えましたので、ほぉら、ふかふか。お昼寝だってできますよ」 「あら、楓さまは退屈なのでは? 楓さま、こちらでお手玉をしましょう。お歌はご存じですか?」 「お手玉なんて幼稚くさい。楓さまはもう十を過ぎてらっしゃるのよ。ねえ楓さま、こちらの歌留多で遊びましょう」
誘われても、楓は重たい頭をゆっくりと振る。楓の心にあるのは一つだけ。望むことはたった一つ。
「かえりたい」
こんなやり取りを、季節に何度繰り返しているだろう。家族が泣いている。そんな気がする。だから帰りたいのに、せめて自分が元気であることを伝えたいのに、たったそれだけなのに、ここにいる狐の誰も許してくれない。 どうして帰らせてくれないんだろうと、楓はむぅと唇を尖らせる。
「いじわる」
非難の言葉も、ため息のような呟きにしかならない。着物に埋もれるようにして拗ねる楓を見下ろし、狐たちは「可愛いお人」と目を細め笑った。
***
そうやって、朦朧としながら日々を過ごす内に、視界が晴れていくのを感じる日がある。冬が訪れた日、化かされているはずの楓は、自分を取り戻す。 楓の意識がはっきりしているとわかると、楓を愛玩していた狐たちはさっと下がり、代わりに紺が楓につきっきりとなる。 紺は楓を人形のように愛でたりしない。防寒を最優先とした格好をさせると、紺はいつも楓を外へ誘う。
「散歩に行こう、楓ちゃん」
楓が成長するに連れ、紺も同じように成長していく。かつて癖っ毛と半ズボンが目印だった少年は、今や仕立ての良い着物がよく似合う好青年になっている。 二人の散歩は、屋敷の敷地内か、狐しかいない村のどちらかだ。屋敷からも村からも、楓が紺に連れられ越えてきたあの山が見える。 散歩の道すがら、紺は道々に咲く花やそびえる木の名を楓に教える。並ぶ家々を差して、そこに住む狐の名やどんな|狐柄《ひとがら》か教えることもある。だが決して、紺は山を指し示さない。見えていないかのように、山のことを口にしない。山へ足を向けることすらない。そんな紺の隣を、楓はいつも、浮かない顔で歩く。 隙を突いて逃げ出そうにも、今や物事を明瞭に捉えられる頭では、着物や下駄で山を抜けるなんて到底不可能だとわかってしまう。わかっているのに、わかっているからこそ、楓が考えるのは、山の向こうにいる家族のことばかりだ。
「帰りたい」
ぽつりと呟いた本音に、紺は泣きそうな顔をするだけで、楓に言葉を返そうとはしなかった。
***
広い屋敷を囲む広い敷地を二人きりで散歩していたある日。楓は成長した自分の手を見つめながら、隣を歩く紺に尋ねた。
「おじいちゃんたち……まだ、元気なの?」
南天の木について話していた紺は、口をつぐみ、ぴたと足を止めた。ゆっくり歩いていた楓も、紺に合わせて立ち止まる。自分の手だけを見つめていても、紺が自分を凝視していると、楓は痛いほどわかった。
「どうしても、知りたい?」
空気がぴんと張り詰める。自分の手から目を上げられないまま、楓はうなずいた。
「だって私、もうこんなに大きくなったんだよ。何年ここにいるかわからないけど……私だけが年取ってるわけじゃ、ないでしょ?」
紺は答えない。楓はおずおずと、手から紺へと目を上げた。 楓を見つめる紺は、悲しそうな、身を切られるような顔をしていた。この狐の村に来てから何度も見た表情に、楓は胸が痛むのを感じた。
「……楓ちゃんが、お嫁さんになったら教えてあげる」
それだけ言うと、紺は「行こ」と手を差し出した。かつて楓と大差なかった手は、今や骨張り、〝大人〟の手になっている。少年に化けていたように、青年に化けているだけかもしれない。それでも紺の手は、楓に年月の流れを感じさせた。 楓が手を取るまで、紺はてこでも動かない。楓は仕方なく、差し出された手を取った。ゆっくりと手を繋ぎ、楓の体温を確かめてから、紺が歩き出す。並んで歩きながら、楓は声に出さず「お嫁さん」と繰り返した。その単語で思い出すのは、楓を人形のように可愛がる狐たちの声だ。
「きっとこの子、きれいな白狐になりますよぅ」
そう言ったのは、小豆色の着物に深緑の帯を巻いた狐だ。
「白狐の嫁御なんて何代目以来か。お父が生きとったらなぁ」
そう喜んだのは、母狐だ。 化かされぼんやりした頭でも、そのやり取りはよく聞き取れた。自分は狐になるのだろうかと、不安を覚えたことは記憶に新しい。
「狐になるの?」
白い息を吐きながら、楓は何の前触れもなく紺に尋ねた。唐突な質問にも、紺はもう立ち止まらない。そして、否定もしない。
「嫌なら、狐にならなくてもいいよ」
紺の手が、楓の手をきゅうと握った。
「僕のお嫁さんになってくれるなら、楓ちゃんが狐じゃなくたって構わない」
その割に――と、楓は紺の横顔をちらと見た。寂しそうな横顔は、まっすぐ前を見ている。糸のように細かった目は涼しげな切れ長の目となり、金色の瞳が常に覗いている。 金色の瞳は、相変わらず楓に漠然とした恐怖感を抱かせる。しかし寂しそうな横顔は、楓に、前回の正月を思い起こさせた。 楓に杯を差し出す、不安そうな、泣き出しそうな、縋るような、あの顔。 楓は狐になりたくない。自分が人以外のものになるなんて、想像すらできない。山向こうにいる家族だって心配だ。楓は祖父母にとって初めての、息子の孫だった。祖父母は楓を、目に入れても痛くないほどに可愛がってくれた、両親は祖父母を見て、自分たちは初めての子供を甘やかしすぎないようにしようと厳しく接した。それでも、可愛くて仕方ないという気持ちは隠せていなかった。
――家族に会いたい。 ――家に戻りたい。
強く願うと同時に、胸の片隅で小さく「でも」と呟く自分がいるのも確かだった。
「お嫁さんになったら、紺君、笑ってくれる?」
楓がこの屋敷に来てから、紺は一度も笑っていない。楓の前で浮かべるのはいつも、寂しそうな、困ったような、悲しそうな、こちらの胸が痛むような表情ばかり。一緒に遊んでいた頃のあの笑顔は、久しく紺の顔に浮かんでいない。 楓の問いに、紺はきょとんとして足を止めた。楓も一緒に立ち止まると、紺は困ったように目を逸らし、困り顔のまま弱々しく笑った。
「嬉しくて、泣いちゃうかもね」
――きっと私、化かされてる。でなきゃ家族よりも、紺君の笑顔を見たいなんて思わない。思うはずない。思うはず、ない……。
狐に化かされたとき、どうすればいいかは祖父から聞いている。意識がはっきりしている今の楓なら、たやすく実行できる。だが、できなかった。楓の胸の内で、家族と紺が秤にかけられる。いつも紺を天高く掲げていた秤はいつしか、家族を掲げようとしていた。 紺を笑顔にしたい。その思いを胸に抱きつつ、楓は紺の手をぎゅうと握り、「行こ」と呟いて歩き出した。
その後の話をねだる子狐たち
秋の夜長のことだ。空に大きな満月が浮かぶ、明るい夜だった。 とあるお山の、狐ばかりが住まう集落の中。ほかの家と少し違う、古めかしくもどこか異国情緒あるお屋敷があった。明かりが漏れ出す窓へ近寄れば、ゆったりしたワンピースを着た雌の狐がのんびり繕い物をしているのが見える。その周りには、七匹の子狐がいた。 その屋敷の中では、優しい声の母狐が、一匹の狐と一人の女の子の馴れ初めを語っていたのだった。狐は四季折々に女の子を拐かすが、拐かした女の子とその後どうなったか、肝心要の部分は語られない。 母狐の優しい声が、狐がいかにして秋、夏、春と女の子を攫ったか語り、冬の一匹と一人がどう過ごしたかを語る。女の子が狐に絆されつつある様まで語り終えた母狐はそのままぷっつり黙り込んだかと思うと、手元に集中してしまった。 子狐たちは待った。母狐はきっと、素敵な結末を話してくれるだろうと信じていた。しかしどれだけ待てども母狐は続きを語らない。 一番年嵩の姉狐が、おずおずと母狐に尋ねた。
「――それで、楓ちゃんは狐になったの? 人間のままだったの?」 「教えて、おかーさん!」
ほかの小さい子狐たちも、姉狐に同調する。縫う手を止めない母狐は、「さてねぇ」とゆったり笑って子狐たちを見やった。
「お前たちの中で、人に化けるのが得意な子は何匹だい?」 「おれ!」 「ぼく!」 「わたし!」
手を挙げたのは、三匹の子狐だ。残る四匹は、黒い手をもじもじと弄んでうつむいてしまう。母狐は子狐たちの顔を順番に見回すと、「それじゃあ」と微笑んだ。
「不思議なものを見せたり、風より速く走ったり、家にいながらお山のことがよくわかったり、そういうことができる子は何匹だい?」
もじもじしていた四匹が、勢いよく、一斉に手を挙げた。さっき手を挙げた三匹が、「いいなぁ」とぼやきながら四匹を見る。 母狐は穏やかな顔に優しげな笑みを浮かべると、「それが答えだよ」とうなずいて、繕い物に集中してしまった。 話はおしまいのようだ。けれど子狐たちはまだ物足りない。針を扱う母狐にしがみついて答えをねだるが、母狐は笑うだけで答えなかった。しょうがない、と諦めた子狐たちは、父狐のいる書斎へととたとた走って行った。 父狐は、書斎で読書の秋と洒落込んでいた。書斎の天井までひしめく本は、どれもこれも人間が書いたものだ。いや、中には少しくらい、狐が書いた本もあるかもしれない。とにかく父狐が読んでいたのは、人間が作った物語の本だった。 子狐たちは父狐が静かに本を読む書斎へ、嵐のような勢いで飛び込んだ。七匹の子狐たちが口々に自分の要望を話すのを見て、父狐は本を閉じ、鼻先に載せていた丸眼鏡を机に置いた。
「おやおや、どうした我が子たち」 「紺君と楓ちゃんの話ってね、どうなったの?」 「どうなったって、そりゃあお前たち」 「知ってるだろう」と父狐は、耳をぴょこんと立てて笑った。
「紺さまは楓さまをお嫁にもらって、幸せに暮らしたのさ」 「そこじゃないよぅ」
ぷくりと頬を膨らませた子狐が、ぶんぶんと首を振る。
「楓おばあちゃまは、人間のまんまだったの? 紺おじいちゃまとおんなじ、あたしたちとおんなじ、狐にならなかったの?」 「お母ちゃんたら、ひどいんだよ」 「教えてくんないんだ。じーちゃんとばーちゃんの話なのに!」 「おとーたま、おしえて」 「おちえて!」 「わたしたち、おじいさまたちのことちゃんと知りたいの!」
子狐たちの剣幕に面食らいながら、父狐は困った顔をした。何せ義父であり長である紺から、その妻である楓のことを話すことは固く固く禁じられている。 妻の死後、紺はやや偏屈になった。自分以外が妻について話すことが面白くないからと、どの狐にも自分たちの馴れ初めを語らせない。気にしないのは、紺の娘である七匹の子狐の母くらいだ。
「自分の父親だからって、あいつはまったくもう……」
父狐のぼやく声には知らんふりをして、七匹の子狐たちは二人の馴れ初め、そしてその後をせがむ。仕方ないと諦めた父狐は、七匹の子狐を自分のそばに寄せ、「それじゃあ話そうか」と声を潜め語り出した。
「まず紺さまは、お屠蘇を飲み干した楓さまに求婚したんだ。それから楓さまをもらい受けるため、憎いはずの猟師の家へ、人間に化けたまま訪れてね……」
父狐が語るのを、子狐たちは文字通り耳を傾け聞き入った。時折、子狐たちの潜めきれない歓声や不満げな声が書斎に響く。それを隠すように、秋の虫たちが草陰で盛んに恋の歌を歌う。 とあるお山の秋の夜長は、そうして静かに、けれど楽しげに更けていった。
狐が人に恋した話、人が狐に絆された話
聞くも涙、語るも涙。お涙頂戴身の上話。 ことの始まりは名を持たぬ山に住まう化け狐どもの集落。数多の狐を束ねるは、山に倣って名を持たぬ七尾の黒狐。黒狐は三百年もの間山を統べたが、人間の猟銃に呆気なく倒れた。 長の言うがままに慣れていた化け狐どもは、長の不在に右往左往。
「山を下りよう」 「山を移ろう」 「人のいないどこかへ行こう」
てんでばらばら、好き勝手を言うばかり。 うろたえる狐どもの中、しゃんと未来を見据えていたのは一匹ばかり。おろおろする母狐を押しのけ、幼い子狐が皆の前へ出た。
「父の仇は、僕が討つ。だからみんな、落ち着いて。僕がきっと、父のようにみんなを導いてあげるから」
そう言いのけたのは、山の長が息子の一匹、金色の毛並みの、六尾の子狐だ。うろたえ惑っていた狐たちは、この子狐の一声でぴたりと鎮まった。
「ああそうだ、我らが長の若様は、どの狐よりも修行を積まれた」 「我らが長には及ばぬが、若様のお力は山一番だ」 「毛並みこそ黒くないものの、輝く金色の眼は我らが長のもの」 「きっと若様が、我らを導いてくれようぞ」
落ち着きを取り戻した狐どもを前に堂々と言い放った子狐は、その日から山を統べる傍ら、父狐の仇を討つべく、憎し猟師を付け狙った。 しかし相手は猟師。獣の相手はお手の物。子狐はその若さから、猟師に髪の毛一本分の傷もつけられない。 悔しくて悔しくて、子狐は若狐に育った頃、猟師の息子に狙いを変えた。憎し猟師を直接殺められないならば、猟師の肉親を奪い同じ苦しみを味わわせてやろうと考えた。 しかし猟師が獣の浅知恵を読めぬわけもなく。若狐は猟師の息子を、六本の尾の先で撫でることすら叶わなかった。 悔しい、悔しいと歯噛みするが、地団駄を踏んだって仇は討てない。それにもう、若狐は立派な山の主になっていた。死んだ黒狐を思って泣く狐なぞ、集落のどこを探したっていやしない。そもそも黒狐のことすら、身内以外誰も覚えていなかった。 年老いた狐は若狐を主として拝み、年若い狐は長であり主である若狐に奇異の目を向けるだけ。 化け狐のほとんどは、若狐が猟師を追い回すのを見て苦笑いを浮かべる。
「若様は、いつまで先代様の仇討ちにこだわってなさるのか」 「もう良いではございませんか。今はもう、あなたが山の主でしょう」 「ずいぶん昔に死んだ狐の仇を、若様はどうしてまだ討とうとするの?」
身内、それも黒狐のつがいであった母狐すら「もう諦めろ」と言う始末だ。若狐の復讐心を煽る狐がいないでもないが、すでにもう、黒狐は過去の狐となっていた。 誰に何と言われようと、若狐は復讐を諦められなかった。優しかった父、尊敬する師を、鉛玉一つで殺されたのだ。殺した相手に報いを受けさせることを、諦めきれるわけがない。 そんな折だ。猟師の息子につがいができた。 あれよあれよという間に、猟師の息子に娘が生まれた。猟師はこの孫娘を、殊更愛した。
――目に入れても痛くないという言葉は、こういうときに使うのだろう。
若狐はずいぶん人の言葉に詳しくなった。この頃には猟師はずいぶん老いていて、眼光こそ変わらないものの、若狐への警戒が緩んでいた。だから若狐は、仇討ちに孫娘を使ってやろうと考えた。 長年、親子二代を追い回したのだ。今更幼子をつけ回すなんて、若狐にとっては目を瞑ってもできることだった。 孫娘はすくすく育った。大きくなるにつれ、彼女が自分のいる環境がひどく狭くつまらなく感じていると若狐は知った。 何せそこは山間の小さな村。同級生なぞほとんどおらず、その少ない友人が親の都合で次々と出ていく限界集落だ。十歳になった孫娘――楓は、遊び相手に飢えていた。退屈そうに、寂しそうにしている楓を、若狐は常にそばで見ていた。 いつ拐かしてやろうか。 いつ襲ってやろうか。 いつ肉片に変えてやろうか。 いつ抜け殻にしてやろうか。 そうやってぎらぎらと金の眼を光らせていたのに、いつからだろうか。 退屈そうな楓と、一緒に遊びたくなった。 寂しそうな楓に、寄り添ってやりたくなった。 修行に明け暮れたせいで友ができなかった己と、一人でぽつんと過ごす楓が重なったのかもしれない。|一匹《ひとり》きりで息を殺し楓を見つめる己と、遊具の乏しい公園で日が暮れるのを待つ楓が、重なったからかもしれない。 寂しい同士で仲良くできそうだと思ってしまった若狐は、人に化けて楓の前に姿を見せることにした。 楓に会う前に、若狐は川面で己が取った人の姿を確かめた。そこに映るのは、癖っ毛の黒髪が特徴的な、目が糸のように細い男の子だ。 癖っ毛の黒髪を見て、若狐は笑った。黒い髪、黒い毛並み。それは若狐が、父から譲り受けたかったものだった。 少年に化けた若狐は、いつも楓が遊ぶ公園で、楓を待った。一人でやってきた楓は、年の近そうな少年を見てぱっと目を輝かせた。その瞳の輝きは星の瞬きのようで、若狐の心に小さな明かりが灯った。
「ねえ、お名前は?」
尋ねられ、若狐は一瞬戸惑った。 狐に、人に名乗る名なぞない。けれど楓に呼ばれるのなら――。若狐は自然に、楓のための名を名乗っていた。
「僕は紺。紺だよ、楓ちゃん」
その影が六尾の狐に戻っているとも知らず、若狐――紺は、楓と言葉を交わした。 さてここまでが、若い狐の身の上話。ここからはこの狐と、猟師の孫との恋物語へ話は転じる。 最初こそ己と同じ寂しさ抱えた楓に同情し同調していた紺だったが、その心は次第に恋慕となり、狐の身には大きすぎる執心へと変わり果てる。 紺は楓がほしかった。 一緒にいてほしかった。 ほかの〝人〟なんか見ないでほしかった。 自分だけを求めてほしかった。 それは楓が同じ寂しさを知るから――というのは建前で、ずっとずぅっと見ていた楓を、自分のものだと錯覚してしまったからだ。 けれど楓がほしいのは、狐ではなく人の友。きっと伴侶だって、狐ではなく人を望むだろう。 だから紺は、楓を攫った。 秋の夜更けに。 夏の夜に。 春の夕暮れに。 そして楓を花嫁とするべく、いくつもの季節を過ごした。 紺は楓の「大人になったら」に縋っていた。大人になったならば、お屠蘇が飲めるようになったなら、自分とつがってくれると信じていた。 家族と、友人と、一方的に引き離された楓がすんなりと好意を抱くはずもないのに。 術で惑わしても、楓は家に帰ると言って聞かない。紺が気の短い人間だったならば、癇癪を起こして折檻していたかもしれない。楓のいる場所が長生きする化け狐たちの集落でなければ、今頃楓は息をしていなかったかもしれない。そういった意味では、楓は運の良い子だった。そして紺は本当に、気の長い狐だった。 楓が〝大人〟になるまで待つつもりだった。楓が一言「うん」とうなずくまで、いつまでもいつまでも閉じ込め可愛がり待つつもりだった。 けれど本音を言えば、早く楓に「うん」とうなずいてほしかった。帰りたいなんて言わず、この集落にいてほしかった。 紺はまだ、化け狐の中では若い部類に入る。体だって大きいし、父の跡を継ぎ山の長となるほどの霊力を持つ。しかしまだまだ未熟な部分があった。 狐の姿でいればわかりようもないが、人の姿になった紺は、思っているより感情豊かだ。 楓が首を振り続けることで、紺の顔には焦りが滲む。 楓がお屠蘇を拒むことで、紺の顔には悲しみが浮かぶ。 楓が帰りたいと嘆くことで、紺の顔に苦しみが覗く。 だから楓は、絆された。 寂しいとき、そばにいて遊んでくれたのは紺だった。 攫ったくせに、縋るような目をする紺が気の毒だった。
「お嫁さんになったら、紺君、笑ってくれる?」
そう尋ねた数年後だ、楓は紺が差し出すお屠蘇を飲み干したのは。 飲み干した楓は、ぐっと唇を引き結んで紺を見た。紺はぽかんと口を開け、金色の目を瞬かせて楓を見つめた。それからぶわりと涙を滲ませ、ぽろぽろと涙をこぼし、自分の求婚が受け入れられたことを喜んだ。 銚子を放り投げて楓の手を取った紺は、星のように光る目で「今すぐ行こう」と楓を立たせた。
「楓ちゃんの家に行こう。結婚の挨拶をしなくちゃ!」 「おじいちゃんたち……まだ生きてるの?」 「もちろん!」
うなずいた紺は宴会場の狐どもに「行ってくるよ」と短く告げる。皆承知した顔で「行ってらっしゃいませ」「行ってらっしゃいやし」と頭を下げた。かと思えば楓は大きな狐に抱えられ、風のように山を駆け抜けていた。 目を回す楓が下ろされたのは、懐かしの我が家の前だった。 夕日を浴びて実際よりも古びて見えるが、大きく記憶と変わるものはない。人が住んでいる家特有の温かみが感じられる。家族に会える喜びで涙ぐむ楓の横で、紺は「コン!」と一声鳴いて宙返りを打った。 人間の姿になった紺は、どこで学んだのか、小綺麗なスーツ姿の好青年になっていた。ただ、波打つくしゃくしゃの黒髪だけは少年時代と変わらない。楓は自分の格好を見下ろした。 きれいに着付けられた着物姿で紺と並んでは、何だかちぐはぐだ。何か言いたげな顔の楓に気づかず、紺は緊張した面持ちで楓の家の呼び鈴を鳴らした。古ぼけた音が、横滑りのガラス戸の奥で響く。「はぁい」と返事をしたのは祖母の声だった。 楓は息を呑み、目を潤ませた。磨りガラスの向こうに人影が映る。からりと開いたドアの向こうには、ずいぶん背の縮んだ祖母が立っていた。
「あら……どちら様?」 「楓ちゃんをお嫁にもらうため、ご挨拶に来ました」
え、と固まる祖母の奥で、「何だとぉ」と獣が吠えるような声がした。ほとんど遅れず、重い足音がどたどたと響く。鬼の形相で駆けてきたのは、楓の祖父、元猟師の健三だった。彼の手には、手入れのされていない猟銃がある。
「うらぁ!」 「ぎゃんっ!」 「紺君!!」
祖父の健三は叫ぶなり銃床で紺の頭をぶん殴った。それはもう、かち割る勢いで叩きつけた。 文字通り紺の頭はかち割られ、たらりと赤い血が垂れる。紺の金の目からは、ちかちかと火花が散る。 状況が飲み込めずきょとんとする紺のそばでうろたえるのは、楓とその祖母だ。
「おじいさん、何するんです!」 「紺君、紺君大丈夫っ? この指見えるっ?」 「な、何を騒いでるんだ?」
ここへ帰ってきたのが、楓の父であり猟師・健三の息子である数馬だ。玄関先で血を流す見知らぬ若者と、着物を着た若い娘、猟銃を手に持つ父とうろたえる母を見て、戸惑うなと言う方が無理だろう。 しつこい勧誘かセールスを断り切れない祖母と、祖母を厭わせる来客に父が手を出してしまったのだろう。楓の父・数馬はそう決めつけ、半ば諦めた表情を浮かべた。
「父さん、いったい彼らが何を――」 「こいつが楓を攫った狐だ! ばあさん、楓を早く家に入れろ!」 「おじいちゃん、落ち着い――」
て、と楓が言い切る暇はなかった。荷物を放り投げた父・数馬が、紺の顔に平手をお見舞いしたからだ。 今度こそ紺は、地面に崩れ落ちた。目眩を起こし意識が朦朧とする紺のそばに楓も膝をつく。
「紺君、紺君っ」 「し、しまった、思わず……」
呆然と自分の手を見やる父・数馬と、まだ殴り足りんと鼻息も荒い祖父・健三。楓は二人を見上げ、涙をこぼした。
「おじいちゃんもお父さんも、ひどいよ。私、紺君にひどいことは何にもされてない。痛いことも嫌なことも何にもされなかった。攫っていった紺君だって悪いけど、でも、だからって、こんなになるまで殴らなくていいのに!」
わっと泣き出した楓を見て、祖父も父もようやく血の気が下がったようだ。気まずげな顔を見合わせ、だらりと手を下ろす。 人が少ないとはいえ、狭い集落だ。いつまでも家の前で大騒ぎはしていられない。泣く楓を祖母が、足下の覚束ない紺は祖父と父が抱えて、五人は家に入ることとなった。 遅れて帰宅した母が、すんすんと泣く成長した娘と、頭を包帯で覆われた青年と、しゅんとしょげる舅と夫、困った顔でお茶を出す姑を見て大いに戸惑ったのは、言うまでもない。 家族が揃ったところで、紺は楓を嫁にもらいたい旨を切り出した。当然、誰もうなずきはしない。
「いきなり攫っておいて嫁にもらうだなんて」 「これだけ離れていたというのにまた引き離すつもりか」 「よりにもよって狐が嫁にもらおうだなんて」 「この性悪狐が」
てんで好き勝手を言う家族にどうにか話を聞かせたのは、楓の一言だ。
「私が、大人になったらねって返したの」
おずおずと手を挙げ語る楓に、家族の視線が集まる。肉親とはいえ会うのは約十年ぶり。老いた身内たちは見知らぬ他人にも近い。 一身に視線を受け縮こまりながら、楓は紺を擁護した。
「だから紺君は……悪くない、ことはないけど……私もここまで大きくなって、いろいろ理解してまたうなずいたわけだから、あの、だから……紺君だけを悪者にするのは、その……」
もごもごと、尻すぼみになってゆく楓の声。部屋は一時、しんと静まり返る。 ゆっくりと口を開いたのは、祖母だ。
「私たちはもう、楓と会えないの?」
祖母の目が、真っ直ぐ紺を見る。ここでようやく紺は、自信を持って首を横に振った。
「|妻《楓ちゃん》が望めば、いつでも会えます」
気の早い呼び方に引っかかりを覚えた祖父と父が口を開きかけたが、察した楓が慌てて遮った。
「結婚式にもね、ちゃんと呼ぶから。おじいちゃんもおばあちゃんも、お父さんもお母さんも!」
今度こそ、否定の声は上がらなかった。 こうして、紺と楓はひとまずは両家から祝福されて|夫婦《めおと》になることとなった。 開かれた結婚式は、古風ではあるものの盛大なものだった。化け狐に囲まれ緊張するのか、迎えの狐に連れられた両親と祖父母の表情は硬い。 この結婚式には、楓の希望で親戚たちも招かれている。服を着た狐の迎えに戸惑いつつも、皆が皆、十年ぶりに会う楓の幸せを祝うため駆けつけた。 狐と人がそわそわと待つ中、紺と楓はそれぞれの衣装に着替え、式場とに現れた。 紺も楓も人の姿だった。 狐の下女に付き添われ、花嫁衣装の楓が袴姿の紺に引き合わされる。袴姿の紺の目から、大粒の涙がぼろぼろこぼれ落ちた。
「紺君たら、また泣いてる」
はにかみながら笑う楓の目尻にも、うっすらと涙がにじんでいた。
恋物語は、ここでおしまい。さてそれから月日は過ぎて、紺と楓はどんな結末を迎えたか。出会いがあれば別れがあって、例に漏れず、紺と楓にも別れはやってきた。
いつかの聚楽塗の壁に囲まれた部屋で、楓は布団に横たわっていた。そのそばにいるのは、大きな六尾の狐だ。金色の毛並みには、今や白いものが混じり始めている。紺色の着物から伸ばした前足で、しわくちゃになった楓の手に触れた。
「ずいぶん長い間、一緒にいてくれたねぇ」
楓からの返事はない。微かな呼吸をして眠っている。構わず手を取り、狐は楓の手を愛しげに撫でた。
「僕のわがままできみの時間を奪ってしまった。だけど謝らないよ。僕はきみがほしかった。きみと一緒に寂しさを分かち合いたかった。きみの寂しさを、僕も背負いたかった」
楓の瞼が震える。聞こえているのだろうか。目覚めつつあるのだろうか。狐は楓が聞いていると確信しているように、優しく、優しく語りかけ続ける。
「楓。楓。僕の妻。人の言葉を使うのはくすぐったいけれど、後悔したくないから言うよ。僕はきみを愛してた。今だって愛してる。きみのいない余生は寂しくなるよ」
楓の瞼が、そっと開いた。
「私の夫、私の|金色《こんじき》」
最期の輝きのように、黒い瞳が星の瞬きを放つ。楓はうっすらと笑い、かすれた声で愛を囁いた。
「あなたにたくさんのものを奪われたけど、あなたはたくさんのものを与えてくれた」
弱々しい力で狐の前足を握り返しながら、楓は懐かしむ。狐もそれに、うんうんとうなずく。
「子供は|一匹《ひとり》。だけど孫は、|七匹《ななにん》もできた」 「どの仔も娘に似て、お転婆で困ったものだ。それでも娘によく似て、可愛い仔たちだ」 「たくさんの景色をあなたと見た。たくさんの幸せをあなたと分け合った」 「きみと見た景色は、季節は、どれも輝いていた。きみといた日々はどれも、幸せと呼ぶほかないほど幸せだった」 「あなたを置いていくのは悲しいけれど、また会えるでしょう?」 「もちろん、会えるさ」
金色の目が愛しげに細められる。濁りつつある黒い瞳が、かつては恐ろしくて仕方なかったはずの金の瞳を、愛しげに見つめる。
「最期に見せて、あの日の夕焼け。初めてあなたと出会った日」 「もちろんいいとも。出会った日をやり直そう。きっとまた、僕はきみを攫うだろうけど」
楽しそうに、楓はくすくすと笑った。つられて狐もふふと笑う。 枯れ枝のような手をそっと離し、狐は楓の瞼をそっと撫でた。しっとりした肉球で瞼を撫でられ、目を閉じた楓は「ああ」と嬉しそうな声を漏らした。
「きれいな夕焼け。ああ、見えた、見えた。懐かしい。ねえ紺君、私、ずっと気づいてた」
あなたの影が――とため息のように呟いて、楓はふぅと息を吐いた。それから楓は、再び息を吸い込むことはなかった。吐いた呼気とともに、楓の意識は霧散した。 楓の瞼から前足を退けて、狐はしばらくじっと、じっと楓を見つめていた。抜け出る魂を見つけたら捕まえてやると言わんばかりの鋭い眼光で、穏やかな死に顔をじっと見る。けれど魂は、狐の金色の目に映らない。 金色の目に涙が浮かぶ。けれど終ぞ、涙は落ちなかった。 潤む声を誤魔化すように深呼吸をして、狐は大きな前足を二度三度打ち鳴らした。
「おいで、僕らの娘。おいで、僕らの孫たち。時間をくれてありがとう。お見送りの時間だよ」
とたとた、どたどたと足音が近づいてくる。可愛い仔らの声が自分を呼ぶ前に、涙は消さねばならない。みっともない姿は見せたくないなと独り言ち、狐は旅立った愛しい〝人〟の頬を撫でた。
製本版
和綴じの製本版もピコ通販で頒布してます。→https://picoket.jp/items/22833