狐と地蔵と泣いてる子

 わたし、ここな。何て字でここなって読むかは知らない。学校とか行ってないから。  突然だけど今わたし、住んでる町のすみっこの、ちっちゃな森の前にいるの。家にいたら怒られるし、学校には行かせてもらえないから、ここにいるしかないの。  ちっちゃな森(雑木林と呼ぶことを、今のわたしは知らない)の壊れそうな小さなおうち(それを祠と呼ぶことを、今のわたしは知らない)の隣。そこがわたしの、唯一静かに過ごせる場所。近所の子たちが学校に行ってる時間とか、おかあさんが家で寝てるときなんかは、いつもここにいる。  小さなおうちの中には、お地蔵様がいる。赤い前掛けはボロボロで、顔はすり切れたみたいにぼんやりしてる。お地蔵様の前には茶色く汚れたお皿が置かれてるけど、そこに何か載せられているところなんて、わたしは一度も見たことない。  ここにいることを許してくれるお地蔵様に、何かお供えしてあげたい。だけどわたしはお金もお菓子も持ってない。だから時々ちっちゃな森の中に入っていって、つやつやのどんぐりやきれいなお花、ぴかぴかのきれいな石をお地蔵様の前にそっと置いている。  その日もわたしは、お地蔵様のちいさなおうちにやってきた。この日のわたしは家からお地蔵様のところまでずっと、泣きながら歩いてた。何で泣いてたかって? 寝ているおかあさんを起こしてしまって、ひどく怒られたから。ライターを持ったおかあさんに、《《しつけ》》をされたから。  ライターで《《しつけ》》をされると、背中がじくじく痛くなるから、すごくいやだ。でも家の中で泣いていたらもっと痛いことをされるから、わたしは泣くのを我慢して家を出た。外に出て、道の上に立って、わたしはようやくしくしく泣いた。  泣いても、歩いても、背中は痛い。お地蔵様の前にやってきたってそれは変わらない。お地蔵様のおうちの隣に座り込んで泣いてたら、じゃり、と何かが小石を踏みつける音がした。顔を上げると、知らない男の子がお地蔵様のおうちに寄りかかっていた。  青いパーカーに、白い半ズボン。もしゃもしゃした癖っ毛に、閉じてるみたいに細い目。そして、意地悪そうにニヤニヤ笑う薄い唇。

「何で泣いてるの?」

 意地悪そうなのに、声だけは優しい。だからわたしは、いつもなら誰にも言わないことをするりと口に出してしまった。

「おかあさんに、いたいことされるの」

 男の子は「ふうん」とうなずくと、お地蔵様のおうちをぽんと叩いた。

「きみ、道祖神ってわかる?」

 どおそじん。聞いたこともない。首を振ると、「じゃあ地蔵菩薩は?」とまた聞かれた。後ろのぼさつは知らないけど、前の地蔵はわかる。

「おじぞうさまのこと?」

 尋ねるわたしに、男の子はうなずいた。

「お地蔵様ってのは元々、地蔵菩薩というとってもえらぁい神様なのさ。それからさっき言った道祖神。これはざっくり言うと、村と村の境目や道、子供にその他いろんなものを守ってくれる神様で、こっちも昔々、きみが思いつくよりもっと昔から、人間に祀られてる。だけど」

 男の子はそこで区切って、おうちの中のお地蔵様を指さした。

「今じゃどっちも同一視され、この町じゃこんな有様さ」

 自分で指さしたお地蔵様を覗き込み、男の子は「それにしても古びてるなぁ」と失礼なことを言った。顔を上げた男の子は、変わらず意地悪そうなニヤニヤ笑いを浮かべてる。

「で、だ。地蔵菩薩も道祖神も、どちらも子供を救うものだ。子供のきみが必死になって助けを求めれば、ここにいる寂れた寂しい神様は、きみを救ってくれるかもしれないよ」

 すくうって、すくってくれるって、どういうことだろう。  首を傾げるわたしに、男の子は「きみでもわかるように言うなら」と人差し指を立てた。

「この祠にいる神様とも呼べる何かは、子供を何より大切に思ってる。だからきみが『助けて』と頼めば、助けてくれるかもね。……ってことだよ」 「でも……」

 おかあさんに《《しつけ》》されるのは、わたしがおかあさんの言うとおりにできないから。それなのに「たすけて」なんて、誰かに言えない。言っちゃいけないって、おかあさんに言われた。  困り果て口をもごもごさせてると、男の子はお地蔵様のおうちから離れて、わたしの前にやってきた。座り込んだままのわたしを、男の子が見下ろす。わたしも、男の子を見上げる。影みたいにぼうっと立っていたかと思うと、男の子はしゃがみ込んで、わたしと目を合わせた。細かった目がすぅっと開いて、金色のぴかぴかした目が、わたしを見た。

「本当にきみが悪いなら、ここにいる〝何か〟はきみの願いを聞き届けようとしない。頼むだけ頼んでごらんよ。ダメで元々ってやつさ」

 金色の目で見つめられると、意地悪そうな顔とは正反対の優しい声で言われると、頭がぼうっとして、言うとおりにしたくなった。  わたしは男の子の言うがまま、お地蔵様のおうちの前まで回って、そこで両手を合わせて、ぺこりと頭を下げた。ぎゅっと目を閉じ、お地蔵様にお願いする。

「おかあさんが、わたしにいたいこと、しなくなりますように」

 おうちの中のお地蔵様が、ごとりと動いた――ような気がした。男の子が揺らしたのかな? そう思って閉じていた目を開け顔を上げたけど、男の子はお地蔵様のおうちの屋根に肘をついているだけだった。

「聞き届けられるかどうか、楽しみだね」

 そう言って、男の子はぷいとそっぽを向いて歩き出した。雑木林に入っていくつもりらしい。わたしは思わず、名前も知らない男の子のパーカーを掴んだ。男の子は足を止めて、くるりとわたしを振り向いた。振り向いた顔に、金色の目はなかった。あのぴかぴかの目は、もう閉じられている。わたしはとっさに、自分の名前を言った。

「わ……わたし、ここな」 「ふうん」

 男の子は、興味なさそうにうなずいた。

「|今時《イマドキ》な名前だね」

 そう言って、男の子はまたぷいと雑木林を向いた。男の子が行ってしまわないように、わたしは強くパーカーを掴まなければならなかった。

「なに?」

 不機嫌そうな声は、《《しつけ》》をするおかあさんの声を思い出させた。わたしはへどもどしながら「あのね」を繰り返す。

「あの……あの」

 何も言えないわたしに、男の子は不機嫌そうな顔から急に、意地悪そうな、でも何だかご機嫌にも見える顔で笑った。

「僕の名前を聞きたいの? でも残念、僕は人間なんかに教える名前は持ってないんだ」

 自分だって人間でしょ、と思ったけれど、わたしは言うのをやめた。男の子の足下で、異様に長く伸びる影に気づいてしまったから。  伸びた影のてっぺんには、尖った三角の耳。伸びた影のおしりの部分には、ふさふさした四本の尻尾。  わたしは、ぱっと手を離した。青いパーカーがわたしの手からするりと抜ける。男の子はニヤニヤ笑ったまま、雑木林に入って、溶けたかのように見えなくなった。  残されたわたしは、しばらくの間、男の子が消えた雑木林を見つめて立ち尽くしていた。

 男の子と別れた、その夜のこと。  部屋の隅で丸くなっていたわたしは、重いものが落ちる音で目を覚ました。  何か、重いものが落ちている。そしてそれは、近づいてくる。  わたしが頭を上げるのとほぼ同時に、おかあさんも起き上がった。この変な音で起きちゃったみたい。

「うるっさいわね……。久々の休みなんだから寝かせてよ」

 わたしは息を殺し、手足を縮こめてさらに丸くなった。  音を立ててるのはわたしじゃないよ。だからこっちに来ないで。  そう願っていたのに、おかあさんはこっちに近づいてきた。チカッと何かが光る。おかあさんが持ってる、ライターの火だ。

「静かにしてよ、まったく……」

 音が一層大きくなる。おかあさんの手が止まった。わたしはライターの火から目が離せなかった。だから、その瞬間をも見てしまった。ライターを持つ手だけを残して、おかあさんが頭から何かに潰されるところを見てしまった。  いやな音だった。ぐしゃりとも、ぐちゃりとも、はっきりいえない音だった。  頭からぺしゃんこになったおかあさんの手が、べちゃりと床に落ちる。ライターが床に転がったけれど、わたしの目は、ライターからおかあさん《《だったもの》》に釘付けになっていた。  おかあさんの頭の上に、あのお地蔵様が、いつもと変わらない静かな顔で座っていた。

「お……おかあさん」

 返事なんかあるわけないのに、わたしは下敷きになったおかあさんを呼んだ。お母さんの上に載っていたお地蔵様が、誰かが持ち上げたかのようにふわりと浮き上がる。そして容赦なく、勢いをつけておかあさんの上に落ちた。潰れたおかあさんから、赤黒い液体がぴゅっと吹き出る。吹き出たそれはわたしの顔にかかった。生ぬるくて、変なにおいだった。とってもいやなにおいだった。  ぽかんとするわたしの前で、お地蔵様は浮き上がりもせずぐるぐると回った。潰れたおかあさんを、踏みにじっているような動きだった。ぐっちゃぐっちゃと、いやな音が部屋に満ちる。聞いていたくないのに、わたしは耳を塞ぐことも知らず、お地蔵様がすることをただ見て、聞いていた。  何度も何度もそうやってぐるぐる回って、お地蔵様は満足したのか、ふわりと浮いたかと思うと、わたしの目の前でふっつりと消えた。  重い音が聞こえなくなって、おかあさんを潰すいやな音が聞こえなくなって、部屋は静かになった。静かになった部屋に、知った誰かの忍び笑いが響く。

「どうも人間たちの間では、子は宝って言うそうじゃないか」

 昼間に出会った、あの男の子だ。かちん、と硬い音が聞こえた。見ると、男の子がおかあさんのライターを持っていた。部屋の入り口で壁に寄り添う男の子を見て不思議に思うよりも、わたしはあのライターで《《しつけ》》をされないかどうかが気になった。  わたしの不安を煽るように、男の子は目を細め意地悪そうに笑う。尖った歯が並ぶ口が、耳まで裂ける。男の子はケケケと笑った。

「宝を蔑ろにしちゃあ、与えた神様だって怒るよねぇ」

 男の子は足が汚れるのも構わず部屋に入ってくると、手に持っていたライターをわたしに握らせた。

「これはきみの宝になるのかな。それとも思い出したくない記憶の引き金になるのかな。まあどっちだっていいんだけど。僕、人間なんか嫌いだし」

 理解の追いつかないわたしの手をむりやり閉じさせると、男の子は「コン!」と一声鳴いて宙返りを打った。ぴょんと跳び上がったところも、くるりと回ったところもしっかり見ていたのに、男の子が消えた瞬間だけは、見ることができなかった。  部屋に残されたのは、潰れたおかあさん《《だったもの》》と、おかあさんから出た変なにおいのいやな何かで顔を汚したわたしだけ。