今日は娘の誕生日だ。リビングへ行くと、四歳になったお姫様が、スーツを着込んだ俺の足にまとわりついた。
「パパ、きょうおそい? はやい?」 「早いよ。だって今日はお姫様のお誕生パーティーじゃないか!」
小さなお姫様を抱き上げると、娘は声を上げて笑った。頭より高く抱き上げフィギュアスケーターよろしく回転する。自分の目が回ったところで下ろすと、娘も目を回しよろよろしていた。それでも、顔には弾けんばかりの笑顔が浮かんだままだった。 微笑む妻が、キッチンカウンター越しに声をかける。
「出る時間も早くなっちゃったんでしょ? 遅刻したら大変。早く食べちゃって」
そうだそうだ、とカウンターに並べられたさらをリビングのテーブルへ運ぶ。手伝いたがる娘にもトーストの皿を渡した。 家族三人での朝食を終えると、二人は玄関まで見送りに来てくれた。靴を履く俺に娘が何度も「はやくね、はやくかえってきて!」と念を押す。ぴょこぴょこ跳ねる寝癖を整えてやりながら「わかってるよ」とうなずき、妻から鞄を受け取る。
「それじゃ、行ってくるよ」
二人に手を振られ、満員電車へ乗るため青空の下を歩いた。天気予報アプリでは、単なる雨・渇き雨ともに降水確率は0だった。
「娘の誕生日なんです」
出勤して一番、俺がするべきことは上司への休暇申請だった。座ったままの上司は、休暇取得書を見もせず、苦い顔をして俺を見上げる。俺は構わず続けた。
「以前から申請した通り、今日は午後から早退させていただきます。印鑑、いただけますか」
しばらく、俺も上司も無言で睨み合った。先に口を開いたのは上司だ。大きな大きなため息をつき、朱肉の蓋を開いた。
「渇き雨対策だ……仕方ない。家族団らんの時間、大いに満たされたまえ」
休暇取得書に上司の印鑑が押された。これで今日の午後はフリーだ。娘と妻の笑顔が浮かぶ。そのためにも、今日一日の仕事を半日で終わらせなければ。 娘の笑顔のため、家族との時間を作るため、俺は休憩どころかトイレにすら立たず働いた。お陰で昼休みのチャイムが鳴ると同時に席を立つことができた。 昼食のため立ち上がった同僚たちがぽん、ぽん、と俺の背中を叩いていく。渇き雨対策に理解のある同僚たちばかりで、ありがたかった。
会社を出て、すぐ近くのデパートに入った。娘へのプレゼントはオモチャ売り場で予約済みだ。カウンターで名前を告げると、店員はすぐに予約の品を持ってきてくれた。娘へのプレゼントは、ゴールデンレトリバーのぬいぐるみだ。犬好きの娘が欲しがっているのは本物の犬だが、我が家にはまだ大型犬を飼う余裕がない。 会計と包装を担当してくれたのは愛想のいい中年女性だった。運がいい。この前予約しに来たときは、心が渇ききった若い女の店員に対応された。今思うと、心の渇いた店員に対応されたにも関わらず予約が処理されていたのは、奇跡といえる。
「娘さん、きっと喜ばれますよ」
この店員にも俺と同じように愛する家族がいるんだろう。彼女のような人に太鼓判をもらえると、心強かった。 丁寧にラッピングされたぬいぐるみを抱え、デパートを出る。万が一を考えタクシーを拾うか逡巡したが、歩くことにした。電車が来るまで時間がある。降水確率は0だったから、万が一なんてないだろう。 そう思っていたら、急に空が曇りだした。鼻先に水滴が当たる。ぽつりぽつりと落ちてきた水滴は、ばらばらと数を増やし地面に水玉模様を描き、バケツをひっくり返したような大雨になった。 ただの雨であってくれと祈りながらデパートにUターンした。軒先を借りようと思った。ただの雨でないなら、雨宿りだけで十分だ。だが、俺の足はデパート前で止まった。あまりの乱痴気ぶりに、この雨が渇き雨だと確信した。 渇き雨。愛情友情思いやりその他諸々の優しくあたたかなものを心から奪う雨。渇き雨に打たれた者は、心が渇き暴力的な衝動に支配される。 先月も渇き雨対策を怠った社員がフロアの社員全員をバットで殴り歩くという事件が起きたばかりだ。 目の前のデパート前では、身なりの良い者とそうでない者が取っ組み合って乱闘騒ぎに発展していた。身なりのきちんとした人ほど劣勢だ。何せ相手は獣同然、渇いた衝動に駆られ理性がない。俺たちみたいに理性を持つ者はどうしても手加減してしまう。 上等そうなスーツに身を包んだ男性が、薄汚れたTシャツとジーンズの若い男に引き倒され、奇声とともに振り下ろされる拳の餌食になっている。 上品なワンピースに落ち着いたデザインのネックレスを合わせた中年女性は、ほつれた髪の中年女性にネックレスで首を締め上げられもがいている。 この騒ぎに巻き込まれないよう、ゆっくり後ずさる。気づかれたら襲われる。何せ彼らは、渇かない心を持つ者を妬んで襲うのだから。 一人の老人と、目が合った。松ヤニみたいな粘っこさを感じる小汚い老人だった。にやぁ、と老人が笑った。 走り出す俺の背後から、複数人の奇声で振るわされた空気が追いかけてきた。一切振り向かずに走った。振り向けばペースが落ちる。下手をすれば転んでしまう。転んでしまえば、もう家に帰れない。 靴を落とし上着を引っ剥がされても、ぬいぐるみだけは離さなかった。
気づけば高架下で雨宿りをしていた。幸い、ここがどこかはわかる。普段使う駅の反対にある、もう少し歩けば陰気な商店街がある区画だ。 ボロボロの自分を見下ろしながら、抱いていたぬいぐるみが無傷であることを喜ぶ。よかった、娘の涙は見なくて済みそうだ。 さてこの渇き雨の下どうやって駅まで行くか――と悩んでいて、俺はようやく先客がいることに気がついた。 先客は、やたらと背が高い人間だった。うつむいているせいで長い髪がカーテンとなり顔が見えない。お陰で先客が男か女か、判別がつかなかった。 先客の手には傘があった。渇傘だ。みすぼらしい格好なのに、渇傘のような高級品を持っていることに驚く。渇傘は材料から希少だ。俺は思わず先客に声をかけていた。
「渇傘ですよね、それ。なのに雨宿りですか?」
俺の質問に、先客は顔も上げずわずかにうなずいた。
「ひどい雨なので、傘があっても濡れますから」
声を聞いても、先客の性別はわからなかった。 俺も先客もそれから会話が続かず、気まずい沈黙が辺りを包んだ。雨は止まない。止む気配もない。あちらさんは俺に興味などないようで、じっとうつむいて、雨が止むのを待っていた。 気まずいから何か会話をと思うが、話題は何もない。ちらちらと先客の様子を窺って、首元にある何かに気づいた。 それは人の手、ほっそりとした少女の手だった。 ぎょっとして、先客の首元をまじまじと見つめた。先客の首に抱きつくように交叉する腕は白く、肌はきめ細かい。 腕をたどるように視線を上げていくと、いつの間にか、先客は少女を背負っていた。肩の上で揃えられたショートカットの、優しそうな顔の少女だ。口元のほくろに色気を感じる。さっきまで見えなかったことから、人間ではないとわかる。
「この傘は」
先客が、ぽつりと呟いた。
「とある少女、なんです。こんなどうしようもない人間に、優しくして、愛して、寄り添ってくれた、人間と思えない少女の皮でできてるんです――」
思わず「その子ですか」と少女を指差しそうになった。しかし、少女がこっちを見て「しぃ」と指を立てたから、できなかった。言えばどうなるのか、想像するまでもなく鳥肌が立った。 開きかけた口を閉じると、少女は微笑んで再び先客に抱きついた。さっきよりも少女の姿がくっきり見える。少女には、下半身がなかった。幽霊には足がないと聞くが、下半身がないということもあり得るのだろうか。 ともかく、幽霊であろう少女は、幸せそうに微笑んで先客を見下ろしている。恐らく、傘の材料となったのはこの少女だ。彼女に怨みの念などないのだろう。浮かべている表情から、それはわかる。 しかし。 少女の目に浮かんでいる感情は、愛情や思いやりといった美しいものではない。もっと歪でドロドロして、重く粘ついたものだ。 少女は先客に抱きつき、先客は俺の返事など待たず――そもそも俺という存在を忘れているかもしれない――少女との思い出話をぶつぶつ呟き続けている。 触らぬ神に祟りなし。 知らぬが仏。 俺はくわばらくわばらと声に出さず呟いて、この渇き雨の中、ぬいぐるみを抱えて駅まで走るか思案した。