目次
1
遮断機に通せんぼされ、列車の通過を待っていた。すると、ぽつりと足下に何かが落ちた。それは数を増し、やがて音を立てて大量に降ってきた。渇き雨だ。天気予報は見ていたつもりだが、どうやら予報よりも早く雲が流れてきてしまったようだ。 渇き雨。 それは人の心から潤いを奪う。心から愛が抜け落ち、残るのは気が狂わんばかりの渇きと、焦げるような衝動のみ。渇き雨が降ってきたら屋内に避難しなければならない。外出したければ、雨傘ならぬ|渇傘《かわきがさ》を差さなければならない。 だが渇傘は高価だ。その材料は愛に満ちて生きた人間の皮である。渇き雨に悩まされる現代にそのような人間は滅多といない。故に値段は貧乏人では持てないほどにつり上がり、一部の金持ちのみが渇き雨の下を渇傘を差して歩く。貧乏人はどうするかというと、急な渇き雨を避ける手段は一つ、屋内待避しかない。 しかし雨が凌げる建物は、線路の向こうにしかない。引き返せば職場の軒下くらい借りることもできるが、濡れるのは確実だろう。今ここにあるのは、カンカンとやかましく鳴る遮断機だけだ。私は惨めにも、この叩きつけるような渇き雨に濡れるほかない。 渇く。 渇く。 心が渇く。 心を渇かされ、私は焦げるような衝動に駆られた。何でもいい。無機物でも生き物でも、問いはしない。この衝動をぶつけさせてほしい。社内の気にくわないあいつが今そばにいたら、渇き雨を理由に殴ってやる。だが先にも述べたように私の周りには何もなく、誰もいない。体を突き動かさんとする衝動を発散させられず苛立ち、苛立つことでさらに衝動に駆られる。身を焦がされているうちに、列車がやってきた。
――今この瞬間、遮断機を越え列車の前に飛び出せば楽になれるだろうか。
外に向いていた衝動が内に向き、私の頭に霞がかかった。遮断機の音が遠い。近づいてくる列車の音も、膜を隔てたかのようにくぐもる。この衝動から解き放たれたい。楽になりたい。ふらりと踏み出した一歩を、可憐な声が引き留めた。
「傘がないんですか?」
目の前で、列車が大きな音を立てて通過した。しとどに濡れた髪が風に揺れる。人を乗せた箱がいくつも通り過ぎる。頭上で雨が傘を叩く音がする。頭の霞が晴れ、遠くなっていた世界の音が戻ってきた。振り向くと、見知らぬ少女が私に傘を差し掛けている。学生のようだ。白いセーラー服と紺のスカートが、少女が持つ可憐さを強調している。少女が首を傾げると、|艶《つや》やかな黒髪が肩の上で揺れた。少女のアーモンド色の目に、濁った色をした私の目が映る。清楚な印象を受けるこの少女に不思議と色香を感じるのは、口元のほくろのせいだろうか。 少女は私を見上げ、桃色の唇を花のように綻ばせた。
「これ、渇傘です。良かったら使ってください」
少女は私の返事も待たず傘を握らせると、叩きつける渇き雨の中を走っていった。彼女は渇き雨に打たれて平気なのだろうか。礼を言うことも名前を訊くこともせずにそんなことを考えながら、私は少女の背中をぼんやり見送った。 いつまでそうしていたのか、渇き雨が傘を叩く音で我に返る。もう少女の背中は見えない。早く帰らなくては。渇傘の柄を握り、安アパートへの道を急いだ。 踏み切りを越え、シャッター街を抜け、貧相な我が家にたどり着く。|部屋《我が家》に帰るには、赤錆まみれになった階段を上がらなくてはならない。ただでさえ疲れて気分が塞いでいるのに、帰る場所がこうではさらに気が塞いでしまう。 陰鬱な気分で階段を上り、鬱々とした考えに耽る。すべては私が悪いのだ。こんなアパートに住まなくてはならないのは、安い賃金でしか働けない私が悪い。愚痴をこぼす相手がいないのは、私の社交性皆無の内向的性格が悪い。両親すらいないのは、両親のために何もしてこなかった私が悪い。すべては私が悪い。文句を言う権利などない。私が悪い。私が、悪い。 鍵を開け、部屋に入る。渇き雨は普通の雨同様、湿気をもたらす。部屋の湿気臭さにまた気分が落ち込んだ。 狭い部屋だ。真ん中に腰を落ち着ければ十分に見渡してしまえる。汚い部屋だ。物こそ少ないが、埃がうっすら積もっているのが見える。こんな部屋にあと何年住まなければならないのだろう。あと何年生きなければならないのだろう。生きることにぼんやりと恐怖し、衝動的に台所に立った。包丁を持ち、刃を手首に押し当てる。数秒ほど、じっと手首を見つめる。手首に当たる刃が妙に熱い。死ぬのはやめた。死ぬのは怖い。私は使わなかった包丁をシンクの中に放り込んだ。 窓の外で街灯が嫌な音を立てて光を放った。渇き雨はまだ降っている。カーテンを閉め、服を乱暴に脱ぎ捨てた。食欲もない。今日はもう、シャワーを浴びて寝てしまおう。濡れた服をまと洗濯かご放り込み、浴室を開ける。コックをひねり、熱いお湯が出るのを待つ。待っている間、ぼんやりと形のない思考に耽る。気づくと水温が上がりすぎていや。慌てて水を増やして適温にした。そのとき、慌てすぎてシャワーヘッドを落とし、派手な音を立ててしまった。隣人が壁を叩いて抗議する。 隣人は気難しく神経質だ。今のように私が派手な音を立てると、こうして壁を叩いて苦情を訴えてくる。彼は先月首を括って死んだのだが、死んでも性格は変わらなかったようだ。もし私が決心をつけて死んだとしたら、彼のように性格が変わらぬままこの世に残ることになるのだろうか。この世が嫌でたまらないから死ぬというのに、彼のように居座り続けることになるのなら、私は死ぬこともできない。 ぼうっとしていたら、また壁を叩かれた。彼は何が気に入らないのか。私が隣人であることか? 私が存在することか? 考えても答えは出ないだろう。なるべく静かに体と髪を洗い、そそくさと風呂から出た。 体を拭き、寝ることだけを考える。夢だけが私の安寧の場所だ。睡眠を求めるこの体は、もはや立っていることもままならない。這うようにして部屋に戻り、万年床と化している煎餅布団に潜り込む。ああ、ようやく逃げられる。ほっと息を吐いた私に襲いかかったのは、悪夢だった。
――何かに追いかけられ、もつれる足で逃げた。 ――蛇に巻きつかれ、必死にもがいた。 ――獣に組み伏せられ、力の出ない手で抵抗した。
そんな気がする。気がするだけで、こんな夢だったとはっきり言い切ることはできない。確かなのは、汗だくの私はシャワーを浴びなければ、出社してすぐ眉をひそめられてしまうということだ。布団から這い出し、隣人の機嫌を損ねぬよう静かに浴室のドアを開けた。 朝から風呂に入ることで、同僚のことを思い出してしまった。はっきりとした日時は忘れたが、同僚が朝風呂に入るのが日課だと話しているのを耳に挟んだのだ。あいつと同じ行為をしていると思うと吐き気がするが、汗にまみれたまま出社するわけにもいかない。仕方ない、仕方ないと言い聞かせ、心地よい温度のお湯を浴びる。 同僚は、陰気な私と違って気さくで、人付き合いが良く、仕事のできる男だ。何が原因かは知らないが、あいつは私を目の敵にする。心当たりはない。なのにあいつは私を嫌う。嫌われることには慣れている。だが、嫌う人間をなぜ構おうとするのだろう。放っておいてくれればいいのに。そうすれば私も、目立たぬよう刺激せぬよう、息を潜めて隅でうずくまっているのに。 コックをひねりお湯を止める。その小さな音でまた壁を叩かれた。あれだけ神経質なのは、もはや才能だ。私は小さくため息をついて浴室を出た。
2
汗にまみれていようがいまいが、会話もろくにできない私は職場で疎まれる運命にある。しかしそれも楽しい会話を提供できない私が悪いのだ。何の話題を振ることができないなら、黙々と仕事に勤しむしかない。妬ましい疎ましいなどと考えてはならない。余計なことを考えず、手を動かさなければならない。そうするしかない。それすらできなくなったら、私の価値なんて――。 ドン、と大きな音が立つ。びくりと動きを止めて顔を上げると、同僚がニヤニヤ笑って私を見下ろしていた。
「暇だろう? これを倉庫に持っていってくれよ」
段ボール箱いっぱいに詰め込まれた書類の束。目の前の同僚はまだ笑っている。両親が生きている頃、こんな風に笑う猫がいる絵本を読んだな。そんなことを思い出しながら、黙って箱を持ち上げた。途端に底が抜け、書類が床に散らばる。何が起こったのか理解できず硬直する私を見て、彼はゲラゲラ笑う。先輩は見えない聞こえないというふりをし、後輩はクスクスと隠し切れない笑いを漏らす。お局は眉を吊り上げ私を見た。
「ちょっと。この忙しい時期に、何やってるの」
この顔も絵本で見たことがある。人食い鬼だ。私は食べられてしまうのか。頭から、バリバリと、絵本に出てくる愚かな登場人物のように。 言葉も出ない私に助け舟を出してくれたのは上司だ。先輩の名を呼び、新しい箱を持ってくるよう言いつけ、お局には構わず仕事をしろと命じる。さすがの彼女も、上司には逆らわなかった。不満そうな顔で先輩が出ていく。お局は自分の仕事に戻る。上司は冷めた目で私を一瞥すると、早く書類を拾うよう言って仕事に戻った。床に散らばった書類を集めていると、まだ後輩がクスクス笑っていた。 世界が暗転する。暗闇で、音だけが聞こえる。私を笑う声だ。私を嗤う声だ。書類はどこへ? 仕事をしなければ、終わらせなければまた笑われる。いつから私はこんな風になったのだろう。祖父母の死後、それとも両親の死後? 私がこんな出来損ないになったのは、はたしていつからなのか――。 ハッと我に返る。遮断機が警報を鳴らしている。いつも通る踏切だ。知らぬ間に私は家路に立っていた。書類は? 同僚は? 上司は? 私はなぜここに? 半ばパニックに陥るも、空の色で私は自分が定時退社したと判断した。あまりに仕事ができないから、上司に今日は帰れと言われてしまったのだろう。そうでなければ、具合が悪いからと退社したのだろう。しかし、覚えていない。今までからぼんやりすることが多かったが、半日分の記憶をなくすほどぼんやりしたのは初めてだ。 ごうごうと音を立てて列車が通過していく。ふと寒気がした。本能がこの場から逃げだしたがる。だが目の前の遮断機がそれを許さない。早く早くと急く私に、背後から声がかけられた。
「大丈夫ですか?」
振り向くと、昨日の少女がそこにいた。隣に立ち、心配そうに私を見上げている。なぜ、と疑問が浮かんだ。なぜ、私の心配をする。なぜ、そんな目で私を見る。 口にしていないつもりだったが、私の口は言葉を発していたようだ。少女は困り顔で笑みを浮かべた。
「こんなに具合の悪そうな方を見て、心配しない人なんていませんよ」
少女はそう言って私の手にそっと触れた。
「荷物、私が持ちます。お|家《うち》はどこですか」
そこまでしてもらわなくても結構だ。そう言おうと思ったが、私は少女の言うとおり具合が悪いのかもしれない。世界が回り、足下が揺れた。めまいを起こし倒れかかった私を、少女が慌てて支える。華奢な体をしているのに、意外にも少女は私をしっかり受け止めてくれた。私の手から鞄が消え、少女の手に渡る。
「帰りましょう」
少女が笑う。夏の日の下で咲くひまわりのようだ。私はこくりとうなずき、遮断機の上がった線路を渡った。歩きだしてから私は気づく。楽しいおしゃべりと縁遠い私が、少女と二人で歩く。線路からアパートまで、あの長いシャッター街を抜けなくてはならない。気まずさに貧血を起こしかけたが、少女に支えられた私は歩くほかない。道中、何を話しかけよう話しかけたところで会話は続くだろうかそもそも話しかけて気色悪いと思われないだろうか、と出口のない思考に捕らわれたまま歩くことになってしまった。 そうして考えるも明るい出口の見えないまま、少女に連れられアパート前に到着してしまった。ボロアパートを少女に見られるのは恥ずかしかったが、少女は何も言わず赤錆の浮いた階段を上がった。鍵は上着のポケットにある。ポケットを探り、鍵を取り出す。頼りないのは足だけでないようだ。いつもならば鍵くらいさっさと開けることができるのに、今日に限って手が震えてうまくいかない。冷や汗を流す私の手を少女がそっと包む。
「焦らなくていいんですよ」
微笑まれ、私は少しばかり落ち着くことができた。しっかりと鍵を握り、鍵穴に押し当てる。ようやく手応えがあった。ドアを開け、少女に付き添われ中に入る。鍵を開けるのに手間取ったのはそんなにうるさかっただろうか。隣人がドンと壁を叩いた。少女が驚き、壁を振り向く。私は潜めた声で隣人が神経質であること、既に死んでいるので実害はないことを教えた。少女は悲しそうな顔で壁を見つめる。
「死んでなおこの世に、このアパートにとどまるのは、なぜなんでしょうか」
壁を見つめぽつりと呟く少女に、私は気のない返事しかできなかった。 少女は私に横になるよう言ったが、着替えもせず布団に入ることに抵抗がある。もう大丈夫なので帰るよう少女に言ったが、少女は頑としてうなずかない。
「そんなに顔色で大丈夫なんて言われても信じられません。一人で暮らしてるんでしょう? だったらなおさら心配です。もし悪化したらどうするんですか?」
私は友人を頼るとでも言えば良かった。嘘でもいい、何か少女を安心させるようなことを言うべきだった。しかし私はこの少女を目の前にすると、いつも以上に頭が回らなくなってしまうようだ。流されるまま少女がこの部屋に残ることを許し、今晩の食事を世話されることになってしまった。 少女は私に風呂に入るように言った。素直にうなずいたが、少女は心配なのか一緒に脱衣所に入ろうとするので困り果ててしまった。ドアを一枚隔てた向こうで、少女は何度も大丈夫かと私に確認する。シャワーを浴びるだけだから溺れることはない。だから心配するなと何度も言って、少女が不承不承ドアから離れた隙に、浴室に飛び込んだ。シャワーを浴び、体も髪も洗ってさっぱりさせる。いい気持ちで脱衣所に戻って、着替えがないことにはたと気づく。少女との押し問答で用意するのを忘れていた。赤の他人の前で裸体を晒すことはできない。体にタオルを巻き、脱衣所からこそこそと室内を窺う。脱衣所の外――つまり廊下兼台所には、食欲を刺激する匂いが漂っていた。懐かしい。両親が生きていた頃、腹の虫をなだめながら帰った時代を思い出す。もちろん、台所に立っているのはあの少女だ。立ち尽くす私に気づいて振り向き、笑みを見せた。「食欲はありますか」と言いかけ、少女は私の格好を見て言葉を切った。ふふふと少女が含み笑いをする。
「その前に、服ですね」
少女は火を止め、「タンスはどれですか?」と部屋に入ろうとする。私は慌てて少女を止め、すぐに着替えて食卓の準備をするから、食事を作ってしまってくれと頼み込んだ。少女は残念そうな顔をしたが、すぐ笑顔になり、「はい」と気持ちの良い返事をしてくれた。再び台所に立った少女が振り向かないことを確認し、私は服を着るため部屋に入った。 髪を拭きながら服を着て、狭い部屋を見渡す。客が来るなん考えたこともなかったものだから、掃除もまともにできていない。少女はあとどれくらい台所に立っているだろう。見苦しくない程度に掃除をしたい。拭き掃除をする時間はあるだろうか。いやその前に布団をたたんでしまわなければ。 わたわたと万年床を片づけながら、次は机をきれいにするべきかと考える。少女が食事を運んできてまず見るのは机だろう。台拭きはどこに置いていたか。台所だ。また台所に戻ってうろうろしたら、あの少女に笑われてしまうのではないか。しかしこんな机を見られてしまうのも耐えがたい。どうする、どうするべきだ。 乾ききらない髪からしずくが落ちる。部屋の隅に布団を積み上げ、次なる清掃箇所を選ぶべく振り返る。早く選ばないと、どこもきれいになっていない部屋を少女に見せることになる。 うだうだと考え込んでいる間に、少女は食事を作り終えてしまった。「着替えられましたか」と少女の穏やかな声が私に尋ねる。私は「ああ」とか「うう」とかそんな返事をし、自分の情けなさに頭を抱えた。少女が部屋に入ってくる。頭を抱える私に、少女は聖母のような微笑みを見せた。
「お口に合うといいんですけど」
落ち込む私の鼻孔を、味噌の香りがくすぐる。顔を上げると、少女が机に食事を並べていた。少女が作ってくれたのは雑炊だった。両親と暮らしていた頃、雑炊と言えば鍋の|〆《シメ》だった。雑炊とはそういうものだと思っていたが、違うのか。首を傾げ鍋を見つめていると、少女も戸惑ったように首を傾げた。
「雑炊はお好きじゃありませんでしたか?」
好きも嫌いもないだろうと思ったが、私が知らないだけで雑炊嫌いは存在しているかもしれない。ならば私は少女を安心させるために雑炊嫌いを否定しなくてはならない。私が首を振ると少女はほっとしたようだが、「ではなぜ?」という疑問を湧かせてしまったようだ。私は仕方なく、思い出の中にある雑炊の話をする。私が素直に話すと、少女は安心したように笑った。
「そういえば、最初から雑炊を作ることって、あんまりないですよね」
そうだろう、そうだろう。私はうなずく。
「風邪予防に味噌がいいって、授業で習ったばかりなんです。それでつい……」
だから、雑炊か。なるほど。私がうなずいていると、少女は「どうぞ」とスプーンを差し出した。どうやら私がもたもたしていたせいで、少女は食器も自分で探し出したようだ。ということは、レンゲなんて洒落た物を置いていないことを知られてしまったわけだ。スプーンで代用できるから必要ないと思ったから買っていないのだが、こんなことになるなら買っておけば良かった。私は自身のみっともなさに転げ回りたくなったが、そんなことをすればさらに惨め様を晒すことになる。この感情を一時的にでも忘れるため、少女からスプーンを受け取り雑炊を一掬いした。 味噌の香りと立ち上る湯気。この二つが私の食欲を刺激する。いただきますと手を合わせるのもそこそこに、ぱくりと一口放り込んだ。口いっぱいに広がる、焼けるような熱さ。思わず口を押さえる。少女が慌てて立ち上がり、コップに水を汲んで戻ってきた。それを受け取り水を流し込む。横着をしてはいけない。両親にも口を酸っぱく言われ育ったというのに、私はまったく成長していない。 少女に礼を言い、二口目をスプーンにすくう。今度はちゃんと冷まさなくては。私が口をすぼめると、少女は私の手を掴みぐいと自分の前へ引いた。少女の唇がすぼまる。少女は私の代わりにスプーンの上の雑炊を冷まし始めた。少女が息を吹きかける様子を見て私は、花びらが蕾になってしまった、と馬鹿なことを考えた。 何度か息を吹きかけ、少女は「はい」と笑顔で私にスプーンを差し出した。拒否する理由もない。私は黙って口を開け、差し出された雑炊を受け入れた。ちょうど良い温度だ。食べながら話すなとしつけられてきた私は、もぐもぐと口を動かしながら黙って頭を下げた。少女が笑う。笑われることに良い思い出はないが、不思議と少女の笑い方は嫌な気持ちにならなかった。 それから少女は、親鳥が雛鳥にするがごとく私の口に適温に冷ました雑炊を運び続け、私も黙々と雑炊を平らげた。蚊が鳴くような私の「ごちそうさま」に、少女は「お粗末様です」と柔らかな笑みを返す。 さて、と私は少女を見つめた。名も知らぬ少女をこんなおんぼろアパートに入れてしまった。私は罪に問われるだろうか。しかし私が好きで招いたわけではない。具合が悪いように見える私を心配して自らアパートに上がり込んだのだ。罪に問われることはないだろう。ない、と思わなければ私はまた具合が悪くなりそうだ。 私がこんなことを考えているとは露ほども思っていないであろう少女は、私がじっと見つめても笑みを絶やさない。「どうかしましたか」と優しく問いかけてくる少女に、私は生前の母を見た。しかしすぐにその連想はかき消した。母ではない。母よりも一回り、いや二回りは若い少女だ。母と重ねてはうら若い少女に失礼だろう。何も言わずまだ少女を見つめていたら、少女は「あの」と困り顔で私を見つめ返した。
「何か、顔についてますか?」
目と鼻と口、なんて答えては呆れられてしまうだろうか。首を横に振ると、少女は「ではなぜ」と眉を八の字にした。
「どうして、私の顔をじっと見るんですか?」
少女が「何か気に入らないことでも」と不安そうに口にする。少女を不安にさせるのは本意ではない。私は少女を傷つけないよう遠回しに、そろそろ帰ってほしいことを告げた。少女は窓の外を見てハッと息を呑み、慌てて立ち上がる。
「もうこんな時間。お邪魔しました。ゆっくり休んでくださいね。おやすみなさい」
手早く荷物をまとめ、少女が出て行こうとする。その後ろ姿に傘を借りたあの日を思い出し、私は急いで少女を玄関まで追いかけた。靴を履いた少女に、立てかけておいた傘を押しつける。少女は傘を見て、そして私を見て目を|瞬《まばた》かせた。
「返してもらって、いいんですか? 私よりあなたこそこの傘が必要に見えます」
本音を言えば、のどから手が出るほど欲しい。もらい受けることができたら、私はもう二度と渇き雨に悩まずに済むだろう。しかしそれは私の小さなプライドが許さない。未成年からこんな高価な物を受け取れない。 見栄を張る私に少女はどうにかこの傘を進呈しようとしたが、意志薄弱な私が珍しく強い意志を貫き通したため、しょんぼりと傘を手に諦めた。
「必要になったら、いつでも言ってください」
少女はぺこりと頭を下げ、賑やかな足音を立ててドアの向こうに消えた。少女が階段を下りきった頃、隣人が壁をドンと叩いた。私が騒音を立てたわけではない。隣人は、もはや音の発生源もわからないのか。音に反応しただ壁を叩くだけ。そんな亡者に成り果てた。わかってしまえばどうってことはない。笑いがこみ上げてきた。ふすん、と鼻で笑う。笑った自分ですら聞き逃しそうな微かな音だ。それにすら隣人は反応し、ドン、ドン、と二回壁を叩いた。こんな小さな声に反応されたのは初めてで、私は怯え、震え、部屋の隅に押しやった布団の隙間に飛び込んだ。
3
渇く。 渇く。 心が渇く。 渇き雨は梅雨さえ乗り切れば滅多と降らないはずだ。なのに今、渇き雨は降り続いている。もうどれくらいになるだろう。一週間、いや、もっとだ。毎日毎日止む気配もなく降り続く。渇傘がない私は雨傘を差して出社しなくてはならない。濡れなくとも、渇き雨は心から潤いを奪う。元々潤っていない私の心はカラカラだ。 破壊衝動が手をさまよわせる。破滅衝動が足を踊らせる。誰かを傷つける前に死んでしまおうか。祖父母は笑って受け入れてくれるだろう。両親は渋い顔をして私を見るだろう。だがきっとすぐに破顔して私を抱きしめてくれるに違いない。 列車が線路をやってくる。私を家族の元へ送ってくれる列車だ。私はいつ出社した? いつ退社した? わからない。だが乗らなくては。傘を手放し、遮断機に近づく。皆に会いたい。もう一人でいることに疲れた。ダメな私でいることに疲れてしまったのだ。私は邪魔をする遮断機を越えようとした。列車がすぐそこに迫っていたのに、邪魔が入った。
「いけません」
腹に圧迫感を覚える。背後から聞こえたのは、可憐だが切羽詰まった声だ。今にも泣き叫びそうな声だった。声の主はぐっしょりと濡れた私にしがみついた。列車に巻き上げられた風が私の傘を吹き飛ばす。ガタゴトと音を立てて走り去る電車に、死んだ家族が乗っていた。祖父は朗らかに、祖母はニヒルに笑い、父と母は二人そろって寂しそうに微笑んでいた。 ぼんやりと電車を見送る。私を止めたのは、あの少女だった。私の背に顔を|埋《うず》め、「どうして」と問う。
「どうして、飛び込もうとしたんです。何がつらいんですか。何が悲しいんですか。教えてください。あなたを放っておけないんです」
体温が伝わる。他人の体温を感じるのは何年ぶりだろう。懐かしく、ほっとした。こんな感情を抱くのは久しぶりだ。私の涙腺は凍っていたのだろうか。少女の体温で溶かされたのだろうか。つんと鼻の奥が痛くなり、見える世界が揺らいだ。
「言ってください。何でもいいです、教えてください。何があなたを追い詰めるんですか?」
頬を伝うものが雨ではないことはその温度でわかった。顔をくしゃくしゃにして泣きだした私を抱きしめ、少女は何度も「大丈夫」「大丈夫ですから」と繰り返した。子供のように泣いた。泣きじゃくった。少女は私が泣き止むまでずっと抱きしめていてくれていた。
***
少女に連れられ、私は安アパートに帰った。泣きながら何を言ったかわからない。辛い、死にたいと訴えたような気がする。会社でのことを支離滅裂に話した気もする。死んだ家族に二度と会えないことが未だ受け入れられないと打ち明けたかもしれない。とにかく私は泣きながら、少女に肩を借りてシャッター街を通り、おんぼろアパートに帰ったのだ。 私のポケットから鍵を抜いて少女がドアを開ける。もつれる足で靴を脱ぎ、部屋に入る。しゃくり上げる私をなだめ、少女は干したままのタオルを取って私の頭を拭いた。それでもまだ私は泣いていた。子供のように泣く私を、少女は決して責めなかった。叱らなかった。ただ優しくうなずき、何度も体をさすってくれた。 ようやく落ち着いた頃には外はとっくに暗くなっており、街灯がじぃじぃ不快な音を立てていた。少女が泣き止んだ私の頬をそっと両手で包む。涙が浮かぶ少女の黒い瞳に、泣き腫らしてとても見られたものでない私の顔が映り込んだ。少女は哀れむ声で言う。
「ひどいことをされてきたんですね。つらいことを我慢してきたんですね。今までずっと一人で耐えて、あなたはえらい人です」
偉い? 私が?
「でも、いつまでも一人で抱えているなんて無茶です。壊れてしまいます。あなたの心が、負けてしまう」
少女の目から、はらはらと涙が落ちた。
「愚痴をこぼす相手すらいないなら、私ではいけませんか? 私ではあなたの友人になれませんか?」
少女の申し出を、すぐに理解できなかった。私を真剣に見つめる少女の言葉を理解し、私は頬に血が集まるのを感じた。この少女が、私の友人に。こんな申し出を受けるのは初めてだ。うろたえ、とっさに少女から目を逸らした。だが少女の手は私の頬を挟んでいる。すぐにぐいと戻された。
「私では、あなたの友達になれませんか?」
――ともだち。
久しく聞いていない言葉の甘美さに酔わされ、私はこくんとうなずいてしまっていた。
4
少女と友人同士になってからも、私の生活はさほど変わらない。私には仕事があり、少女には学校があった。少女も私も携帯電話といった連絡手段を持っておらず、会えるのは私が定時退社した夕方、あの踏切からシャッター街を抜けるまでの数分だ。 そんな短い時間では、長年渇き雨に打たれ続けてきた私の心は潤わない。口下手な私は愚痴を言うこともできない。時々、少女が心配そうに私を見る。だがあの日以降、私は少女をアパートに招かなかった。少女が私の友人になったあの日、少女が自宅へ帰ったあと、私は隣人が壁を叩く音で眠ることができなかった。隣人は、私に友人ができたことが気に入らないのだろう。少女と会い語らうことと、壁を叩かれ眠れぬ夜を過ごすこと。天秤にかけるまでもない。
「渇き雨、止みませんね。いつまで続くんでしょう」
私の雨傘を差しながら少女が言う。少女の渇傘は私が差している。少女は渇き雨に濡れても平気だから、私の雨傘を差しているのだ。少女の言うとおり、渇き雨は一向に止まない。テレビでも異常だと言っている。原因は何なのか。専門家たちがいくら頭をひねっても、答えは未だに出ていない。 渇く。 心が渇く。 潤いがなくなる。 気が狂ってしまう。 渇き雨が降り続けることは私にとって一大事だが、実のところ、一般人にとってさほど問題ない。心が渇いたなら、愛によって潤せばいいのだ。 例えば家族に労われれば、恋人に甘えれば、友人に愚痴を言えば、ペットを愛でれば、渇いた心は癒やされる。普通の人間はそれで渇き雨を凌いでいる。だが、それができない者はいつまでも渇いたままだ。やがて渇きは気が狂いそうなほどの苛立ちに変わる。誰かに当たり散らしたくなり、何かを壊したくなる。 いつもこの踏切で思うのだ。死んでしまえば楽になるだろうと。悩む必要はなくなるだろうと。だが遮断機に触れる直前、見計らったように少女が私に声をかける。 渇傘を差し出し、少女は笑う。私に傘を貸すせいで少女はいつも渇き雨に濡れる。それなのに、少女は平気な顔で歩く。私と同じように濡れているのに、少女は渇いた様子がない。ちっとも苛立ちが見えない。どうしてこの少女は渇き雨に打たれても平気なんだ。身を焦がす衝動に襲われないのはなぜなんだ。 羨ましい。妬ましい。……憎い。 私の前を踊るように歩くこの少女が、幸せそうに笑うこの少女が、私を慈愛に満ちた目で見るこの少女が、憎くてたまらない。 黙り込む私を、少女が振り向く。
「どうしたんですか?」
私は手を伸ばし、少女の白い首を両手で掴んでいた。少女は私の勢いを受け止めきれず、渇き雨が叩きつける地面に倒れ込む。少女に馬乗りになり、私は少女の首を絞めた。折れてしまえと憎しみを込めて締めた。だが、少女の目には変わらない慈愛が浮かんでいる。なぜだ。なぜ、どうして、きみは。
「可哀想に」
可哀想? これから死にゆく少女に、なぜ哀れまれなきゃならないんだ! 頭に血が上り、なお力を込める私の手に少女の手が重なった。少女は愛しげに私の手を撫でる。殺人を企て、実行しようとする私の手をだ!
「渇いて渇いて、いつまでも満たされない心を持っているのなら」
急に力が入らなくなった。首からするりと離れた手を少女は逃がさない。だらりと力の抜けた私の手を引き寄せ、少女はその花弁のような唇で私の手の甲に触れた。
「私の愛で、満たしてあげる」
少女の言葉に涙があふれ、渇き雨に交ざって混じってぽたりと落ちた。
5
あれから、少女は私のアパートで暮らしている。自分の家に戻らなくていいのかと尋ねても、少女は「ここが私の家です」と笑うだけ。家に戻るよう説得しようとしても無駄だった。私は決して少女にかなわない。年上ぶって言い聞かせようとしても、少女のあの白い指で唇をなぞられたら黙るしかない。少女は、私の部屋に住み着いた。 出勤の際には少女に「いってらっしゃい」と見送られる。昼休みには少女が作った弁当を食べる。帰宅すれば少女が「おかえりなさい」と出迎える。あたたかい食事が小さな食卓に並び、熱い湯が張られた風呂が用意されている。万年床だった煎餅布団は毎日干されてふかふかになっていた。 ふと考える。 これでいいのだろうか。 この少女に愛され、管理され、私はそれでいいのか? 少女に迎えられ、玄関の戸を閉めながら考える。少女に促され、少女の料理を食べながら考える。少女に勧められ、風呂に入りながら考える。少女にのしかかられて布団に転がりながら、天井を眺めて考える。だが、答えが出ることなんてないのだ。
「何を考えているの?」
とろけそうな笑みを浮かべて、少女が私の唇をなぞる。こうなっては私の頭はもう働かない。少女の冷たい指の感触に、私の思考は溶かされた。