人間が己の体一つでは決して潜れないような、どこかの海の深い深い底での話。 そこではピアノの音が響いていた。音を辿れば、海底の平らな場所に立派なグランドピアノが沈んでいるのがわかる。このピアノを弾いているのは、ガイコツだ。皮も肉も失い骨が剥き出しになっているのに、なぜか仕立ての良い燕尾服だけは白の蝶ネクタイまで残っている。 ガイコツが弾くピアノの音は歪だ。海底に沈んでいるのだから当然だ。ピアノは音を聞かずとも、外観だけでずいぶん長く海水に浸かっているとわかる。とうの昔に狂っているであろうピアノを、ガイコツは人の耳でも辛うじて聴くに堪えうる演奏をしていた。 海底にて音楽を嗜むのは、このガイコツだけではなかった。ピアノのそばでは、豊かな金の髪を持つ人魚が丸くなって眠っていた。海水にたゆたう金の髪は、今やガイコツが見ることの叶わない陽の光に似ていた。 ガイコツが弾くピアノの音が、異様な跳ね方をした。耳に不快さを残すその音で人魚の目がぱちりと開く。限りなく黒に近い、|海底《うなぞこ》色の瞳がガイコツを見た。
「いつもと違う音だわ」
|陸《おか》で聞けば小鳥の囀りと評されそうな、愛らしい声だった。一方ガイコツの声は、|陸《おか》の上ならば甘やかなテノールと評される声だ。
「音律が狂ってるんだ」
長く海水に浸かっているからねと、ガイコツは細く長い指で鍵盤を軽く叩く。ガイコツの台詞に、人魚の喉横に並んだ鰓がひゅっと海水を吸い込んだ。|緑玉石《エメラルド》とよく似た色の下半身をくねらせ、同色の鰭をはためかせ、人魚は椅子に腰掛けるガイコツの隣へ泳いだ。|海底《うなぞこ》色の瞳が、悲しみを隠しもせずガイコツを見つめる。
「何とかならないの? このまま変な音ばかり歌わせるなんて可哀想よ」
声に浮かぶ悲壮感や無機物への思いやりに満ちた台詞は、自身も歌う者だからだろうか。悲しげに歪められた顔を見て、ガイコツは「そうだね」と顎へ手をやった。
「調律師がいればね」 「なぁに、それ?」 「音を正しく直してくれる人間さ」
ガイコツの説明に、人魚は|海底《うなぞこ》色の目を瞬かせ、理解したようにうなずく。
「《《また》》連れてくればいいってことね?」
人魚の嬉しそうな声音で、ガイコツの今はなき脳裏に、きらびやかな世界が走馬灯のように蘇った。 眩しいほどの明かりを放つシャンデリア。 人々の間で交わされる、さざ波のような会話。 ゆったりと深みのある演奏。 割れんばかりの喝采。 揃いの燕尾服に身を包んだ仲間たち。 舌の上でとろけるような美酒の味。 寒気を覚えるほどの美しい歌声。 聞こえる雷鳴。 吹き荒ぶ風の音。 悲鳴と怒号。 襲いかかる波の冷たさ。 ガイコツの歯が、カチカチと音を立て触れ合う。ガイコツは自分が意識するより早く、人魚に向かって「だめだ」と厳しい声をかけていた。ガイコツの声に優しさがないのを感じ、人魚は「どうして?」と不思議そうな顔をした。ガイコツは、改めて目の前の人魚を見つめた。 水中に広がりたゆたう金の髪。上等なミルクのような肌。|海底《うなぞこ》色の瞳に、呼吸のために動く鰓。エメラルドグリーンの鱗を持つ下半身。 空っぽの眼窩で確かめるように人魚を見つめると、ガイコツは徐に首を振った。
「|陸《おか》の者は、|海底《ここ》では息が続かない」 「あなたと《《同じ》》にすれば問題ないわ。あなたもそうだったでしょう?」
皮も肉も失い、今や己の名前すらも失ったガイコツは、人魚から見れば《《そちら側》》だろう。しかしガイコツは、未だそちらへの境界線を踏み越えていないつもりだった。骨だけでピアノを弾き続ける自分の心だけは、人のままでいるつもりだった。 ガイコツはもう一度「いけないよ」と首を振った。
「私は仲間が増えるのを望まない。やめておくれ、人魚姫」
人魚の頬に、ぽっと赤みが差した。長い付き合いであるガイコツは、人魚がこう呼ばれることを好むと知っていた。ガイコツが人魚に「人魚姫」と呼びかけると、たちまちの内に機嫌が良くなるのだ。ダメ押しとばかりに、ガイコツは音律の狂ったピアノを弾き始めた。人魚が何度もねだった曲を、丁寧な指運びで演奏する。人魚はお気に入りの場所まで泳ぐと、砂の上で丸くなって目を閉じた。ガイコツの演奏に夢中で、ついさっきのやり取りも忘れてしまったようだ。目を閉じたまま、人魚が小さな声で歌う。歌い出せばもう、人魚はほかのことなど考えられない。このまま演奏を続ければ、今日のことなど忘れるだろう。ガイコツは人魚が満足するまで、手を止めることなく演奏を続けた。
調律師のことなど忘れただろうと安堵したガイコツ自身も、そんな会話をしたことすら忘れた頃。人魚がふらりと姿を消した。餌の魚でも探しに行ったか、それとも仲間の声でも聞いたのだろうと、ガイコツは気にしなかった。しかし帰ってきた人魚を見て、ガイコツはあのとき人魚に声をかけていればと後悔した。 上機嫌で帰ってきた人魚の手には、膨れ上がった水死体の手が握られていた。
「探すのに苦労したわ。もう少し待てば、この|調《チョウ》|律《リツ》|師《シ》もあなたと《《同じ》》になる。そうすれば、|ピアノ《この子》の音は治るわよね?」
笑顔の人魚と表情の判別も難しい水死体を見比べ、ガイコツは深く落胆した。
――やはり|人《サカ》|魚《ナ》とはわかり合えないか。
己の一言が原因で海底へ引きずり込まれた|同《なか》|種《ま》に申し訳ないと思いつつ、ガイコツは水死体に群がる魚を見つめた。人魚の声で集まった魚たちが、同胞の体に群がり肉を食み取る。《《今度は》》仲間になるだろうか。空っぽの眼窩からは、そんな期待がにじみ出ていた。