※ AIに手伝ってもらいました。
昔々、その山には神がいた。神は蛇の姿を取り、時に麓の人里を守り、時に荒ぶり人里に害をなしていた。 それもこれも、すべては神が孤独であったためだった。 麓の村々から集まった人々は額を突き合わせ、神の孤独を埋めんと花嫁という体で生贄を捧げることを決めた。問題は、誰が蛇に嫁ぐかだった。手を挙げる者はいない。誰も彼も俯きがちに顔を見合わせる中、一人が手を挙げた。
「私で良ければ嫁に参りましょう。神様の寂しさを埋めてあげられるか、自信のほどはありませんけども」
お冬という名前の、心根の優しい娘だった。村の誰もが彼女を慕っていた。彼女ならば山の神の孤独を埋め、村々に豊かさをもたらすだろうと信じられていた。 しかしその優しさが、いけなかった。 神はお冬に夢中になった。お冬と過ごすことにばかり夢中になって、麓の人里のことなど忘れてしまった。 天気は荒れ、土地は痩せ、一家族また一家族と村を捨てて出て行く。残った村人たちは「これはいかん」と立ち上がった。
「もはや神にあらず」
そう言って村の人々は、神をただの蛇として討ち取ることに決めた。 神は――蛇は抵抗した。巨大な体を持つ蛇であったが、数の力には勝てなかった。
「お冬、お冬。お前もおれと死んでおくれ」
蛇はそう言うが早いかお冬を飲み込み、そのまま崖の下へと落ちていった。以来、山の天気は落ち着き、痩せた土地は肥え、離れていった人々も戻ってきた。村人たちは「お冬が神を鎮めた」と言って、お冬と蛇を祀る社を建てた。 それが、今の××町にある『お冬と蛇』伝説である。
***
「……何でそんな怖い話の人と私を同じ名前にしたの!?」
十五歳になる前夜。冬は母親に地域に伝わる昔話をされ、お冬と自分の名前がほぼ同じであることを怒った。母親は困り顔だ。
「だって……夢の中で、そうしなさいって何度も言われたんだもの」 「時代に即してないよねその理由! 科学の時代にさぁ!」 「実際、わかりましたって言うまであんたを何度も流産しかけたのよ。だからもう、冬って名前にするしかなくて……」 「しかも明日神社行かなきゃいけないのに、何でこんな話聞かせるかなぁ……」 「明日で終わりだから、ちゃんとお参りしてきなさい」 「はぁい」
冬は明日、十五歳になる。生まれてこの方、冬は毎年誕生日に神社へ参らされていた。年齢を報告する、ただそれだけのために。
「十五で終わりって、何でなんだろ。途中で終わっていいなら報告自体しなくていいじゃん」 「十五になったら昔は大人だったのよ。だからじゃない?」 「ふーん」 「まぁとにかく、明日は朝から行きなさいね。朝練ないんでしょう?」 「そう! テスト期間中だから、朝練なし!」 「じゃあもう寝なさい。動画ばっか見てちゃだめよ」 「はいはい」 「はいは一回!」 「はぁーい」
自室へ向かいながら、冬はぽつり「めんどくさいなぁ」と呟いた。けれど今年で終わりなのだからと、仕方なしに就寝準備をする。
「明日はお参り終わらせたら、美咲んちでテスト勉強かぁ。美咲、数学苦手だからなぁ。私がしっかり教えてあげなきゃ!」
変わらぬ明日が来る。理由もなくそう確信している冬は、楽しみにしていた動画も後回しに、部屋の明かりを落として目を閉じた。
***
翌朝。冬は朝ご飯を食べるとさっさと神社へ行こうとした。それを、母親が止める。
「冬」
名前だけ呼んで、母は何を言ったものかと逡巡している。冬は「どうしたの?」と首を傾げ、母が続きを言うのを待つ。しばし悩んだ母は、手に握っていたものを「これ」と言って差し出した。
「これ、持って行って。お母さんがおばあちゃんからもらったお守り」 「お守り? 何で?」 「何だか今日、嫌な予感がするから……。ほら、あの神社って人気がないし、木や藪が多いでしょ? 変な人に会うかもしれないから、よく気をつけて、変だと思ったらお参りせず帰ってきなさい。お父さんが仕事から帰ったら、一緒に行ってもらうから」 「あはは、お母さんったら心配性」
お守りを受け取りながら、冬はカラカラと笑った。
「あの辺は事件も事故も起きたことないじゃん。大丈夫だって。怖い蛇だけど、案外ちゃんと守ってくれてるんじゃない?」 「そうだと……いいんだけど」 「それよりさ、私神社行ったら帰りに美咲んち行ってテスト勉強してくるから。お昼は……どうしよっかな。美咲と何か食べに行くかも!」 「わかった。……お参りが終わったら電話して! ワンコールでもいいから!」 「んもー、わかったわかった。ちゃんと電話して、それから美咲んち行きますー」
ひらひらと手を振り、冬はリビングを出た。母は心配そうに玄関までついて行き、外へ出て行く冬を見送った。
「ちゃんと、帰ってきてね……」
見送り、そして自分も家のことをせねばと思い出した母は、三人分の食器洗いから手をつけた。
***
神社への山道は、いつもより静かに感じられた。普段なら鳥の囀りや虫の音が聞こえるのに、今日はまるで山全体が息を潜めているようだった。冬は少し不気味に思いながらも、足を止めることはしなかった。
「今年で最後だもんね。来年からは来なくていーんだから、さっさと終わらせちゃお」
独り言をつぶやきながら、石段を上っていく。母親から渡されたお守りが、ポケットの中で軽く揺れていた。 十五分ほど歩くと、見慣れた鳥居が見えてきた。朱色の塗料は剥げかけ、木材も朽ちかけている。決して立派とは言えない神社だが、地元では『お冬と蛇の神社』として親しまれていた。 境内に足を踏み入れる。そこに人の気配はない。冬以外に参拝者が来ることなど、滅多にないのだ。
「神様、今年もお参りに来ました」
本殿の前で手を合わせ、冬はいつものように年齢の報告をした。
「今年で十五歳になりました。これで最後のお参りです」
そう言って頭を下げた時、背後から声が聞こえた。
「そうか、じゃあもう嫁入りできるなぁ」
低く、地の底から響くような声だった。冬は振り返ろうとしたが、その瞬間、何かが腕を掴んだ。 人間の手ではない。鱗に覆われた、太く強靭な何かが冬の腕に巻きついていた。
「な、何これ」
状況が理解できない冬は、硬直して身動きが取れなくなってしまった。息が浅く荒くなる冬の耳元で、再び声が響く。
「待ってたぞ、お冬……」
囁くような声に、冬は我に返り抵抗を始めた。
「わっ、私はお冬じゃない!」
冬は叫び、藻掻いた。しかしその声は山の静寂に吸い込まれ、藻掻く力は腕に巻きつくしなやかなそれによっていなされる。 腕を掴んでいたそれが、さらに力を強めた。見ると、自分の腕に巻き付いているのは巨大な蛇の尻尾だった。暗緑色の鱗には金色の模様が入り、その太さは人間の胴体ほどもある。
「昔話の、蛇……?」
こんな巨大な蛇は、母から聞かされたあの蛇しかいない。けれどまさか、昔話の蛇が実在しようとは思いもしなかった。 蛇の尻尾が冬の体を持ち上げた。足が地面から離れ、宙に浮く。冬は必死に抵抗しようとしたが、蛇の力は圧倒的だった。
「離して! お母さん、誰かぁ!」
冬の叫び声が境内に響く。しかし、この山には冬と化け物しかいない。 冬の目の前に、巨大な頭が現れた。人間の胴体ほどもある蛇の頭で、口からは長い舌がちらちらと出ている。 そして、その目。 金色に光る、縦に割れた瞳が冬を見つめていた。その瞳には人間には理解できない古い知性と、そして執着の炎が宿っている。
「きれいだ。相変わらずお前はきれいだなぁ、お冬」 「私はお冬じゃない!」
冬は必死に叫んだ。しかし恐怖か、それとも人外の力か、体が徐々に動かなくなっていく。
「おれは待っていたんだ、お前の魂が戻ってくるのを。何十年も、何百年も」
蛇の神の瞳が、だんだんぼやけていく。怖いはずなのに、蛇の声を聞いていると眠気が襲ってくる。蛇の目を見ていると、頭が蕩けるような心地になる。
「今度こそ、永久に一緒にいようなぁ、お冬」
最後に冬が覚えているのは、自分が巨大な蛇に巻きつかれながら、どこかへ運ばれていく感覚だった。 そうして、冬の意識は暗闇の中に沈んでいった。彼女の平凡な人生は、この瞬間に終わりを告げた。
***
――冷たい。
それが、最初に捉えた感覚だった。頬に当たる岩の冷たさが、まるで氷のように肌を刺す。背中に当たる石の感触が、徐々に痛みとなって体に訴えかけてくる。
――ぽたり、ぽたり。
規則正しい水音が、静寂を破って響いている。その音は洞窟の奥へと伝わり、やがて壁に反響しまた戻ってくる。冬はまぶたを重く感じながら、ゆっくりと目を開けた。 視界に飛び込んできたのは、薄暗い岩肌だった。ごつごつとした天井が頭上にあり、遠く向こうに小さく、とても小さく光が見える。外の光だ。けれどそれは絶望的なまでに遠く、手を伸ばしても決して届かない距離にある。
「ここは……」
かすれた声が、思わず口から漏れた。そのとき、鼻を突く湿った土の匂いと、生き物特有の生臭い匂いが冬の嗅覚を襲った。カビ臭さも混じって、胃の奥がむかむかしてくる。起き上がろうとして、冬は異変に気づいた。 体が、重い。 腰のあたりに、何か太くて長いものが巻きついている。ひんやりと冷たく、しかし確実に生きている何かが、冬の体を優しく、しかし確実に拘束していた。
「何、これ……」
恐る恐る視線を下に向けた冬は、息を呑んだ。 暗緑色の鱗に覆われた、人間の胴体ほどもある太い何かが、自分の腰に巻きついている。金色の模様が鱗の表面で鈍く光り、触れている部分からは確かな鱗の冷たさが伝わってくる。それがどこから続いているのかを確かめようと、冬は震える視線を辿った。 そして、見てしまった。自分のすぐ側で、とぐろを巻いて眠る巨大な蛇を。 その巨体は洞窟の半分を占めるほどで、一つ一つの鱗が冬の手のひらほどもある。分厚いまぶたを閉じた頭部は冬の体ほどもあった。呼吸するたびに鱗が岩を擦り、ずるりずるりと不快な音を立てている。
――ああ、夢じゃなかった。
冬は目の前が真っ暗になったような気がした。 昔話の蛇は、確かに実在していた。そして今、冬はその蛇と同じ洞窟の中にいる。 声にならない悲鳴が、冬の喉から漏れる。体の震えが止まらない。逃げなければ。逃げなければいけないと頭では分かっているのに、体に巻きついた蛇の尻尾の重さと圧迫感で身動きが取れない。息をするたびに、肋骨が蛇の体に押しつけられ、呼吸が浅くなる。
――だめだ、こんなところにいちゃだめだ。
冬は必死に体をよじったが、蛇の尻尾はびくともしない。それどころか、冬の動きに反応するように、巻きつく力が少し強くなった。
「うっ……」
圧迫感が増し、冬は小さくうめいた。そのとき、洞窟の奥からずるりという音が響く。鱗が岩肌を滑る音だ。蛇が目を覚ましかけているのだ。 恐怖で体が硬直した冬は、息を殺してじっと動かずにいた。もしかしたら、蛇がまた眠ってくれるかもしれない。そうしたら隙を見て逃げることができるかもしれない。 しかし、その淡い期待は無残に打ち砕かれた。 ゆっくりと、蛇の巨大なまぶたが開いた。現れたのは、あの金色に光る縦に割れた瞳。古い知性と、そして異常なまでの執着を宿したその目が、まっすぐに冬を見つめていた。
「おはよう、お冬」
地の底から響くような低い声が、洞窟に響いた。蛇の口元が、人間には理解できない笑みの形に歪む。 冬は、自分が置かれた状況を完全に理解した。 ここは崖の近くの洞窟。外の光は遥か遠くにある。そして自分は、昔話の化け物に捕らえられ、逃げ場のない場所に閉じ込められている。 絶望が、冬の心を真っ黒に染めていった。
***
「やっと目覚めたな、お冬」
蛇の神の声は、洞窟の奥深くから響いてくるような低音だった。冬は身を縮めて震えながら、必死に声を絞り出した。
「わ、私はお冬じゃありません、冬です! ただの、ただの高校生です!」
しかし蛇は、まるで冬の言葉など聞こえていないかのようにうっとりとした調子で語り始めた。
「美しい。相変わらず美しいなぁ、お冬よ。その顔、その声、その匂い……何もかもが昔のままだ」
巨大な頭がゆっくりと冬に近づいてくる。金色の瞳が、愛おしそうに冬の顔を見つめていた。
「ちが、違います! 私はお冬なんかじゃない!」 「おれはな、お前を愛していたよ」
冬の抗議を無視して、蛇は一方的に語り続ける。
「村の連中がお前を差し出した時、おれは嬉しかった。ようやく、ようやく愛する者を手に入れることができると思った。お前は優しかった。おれの孤独を理解し、慰めてくれた。おれたちは愛し合った……」 「やめて! そんな話聞きたくない!」
冬は両手で耳を塞ごうとしたが、腰に巻きついた蛇の尻尾がさらに締まり、身動きが取れなくなった。蛇の声は、まるで冬の頭の中に直接響くかのように聞こえてくる。
「毎日、毎晩、おれたちは睦み合った。お前の柔らかな肌に、おれの体を巻きつけて……お前の唇に、おれの舌を絡めて……」 「いやあ!」
冬の絶叫が洞窟に響いた。しかし蛇は満足そうに目を細めるばかりで、やめる気配はない。
「おれはお前だけを愛していた。だからこそ、村のことなどどうでもよくなった。お前さえいれば、他には何もいらなかった。それなのに……それなのに、村の連中はおれたちを引き離そうとした」
蛇の瞳に、怒りの炎が宿った。
「『もはや神にあらず』などと、おれを蛇呼ばわりしおって。愛するお前を奪おうとしおって。許せん、絶対に許せん……」
蛇の体が震え、洞窟の空気が一気に重くなった。冬は恐怖に、体が石のように硬くなるのを感じた。
「だから、おれたちは一緒に死んだ。お前をおれの体に仕舞い込んで、あの崖から飛び降りた。永遠に、永遠に一緒にいるために……」
蛇の声が、急に優しくなった。その変化が、却って冬に恐怖を抱かせる。
「そしてやっと、お前は戻ってきた。おれの元に、ちゃんと戻ってきてくれた。ああ、なんと長い時を待ったことか。何十年、何百年も、お前の魂が生まれ変わるのを待っていたよ」 「違う! 私は生まれ変わりなんかじゃない、別人です!」
冬は涙を流しながら叫んだ。しかし蛇は、まるで恋人に語りかけるような甘い声で続ける。
「今度こそ、誰にも邪魔させはしない。おれたちだけの世界で、おれたちだけの時間を過ごそう。そしてまた、睦み合おう……お冬」
その言葉に、冬の全身に鳥肌が立った。蛇が何を言っているのか、その恐ろしい意味を理解してしまったのだ。
「やだ……やだやだやだ! そんなの絶対やだ!」 「案ずるな。最初は怖くても、すぐに慣れる。前のお前も最初は怖がっていたが、やがて心を開いてくれた。愛とはそういうものだ」
蛇の巨大な舌が、ちろりと口から覗いた。それが冬の頬を軽く舐める。
「ひっ……」
冬は恐怖で声も出なくなった。舌の湿った感触が頬に残り、全身が震えて止まらない。
「今度は逃がさない。今度こそ、永遠にお前と一緒にいる。おれの愛しいお冬よ……」
蛇の瞳が、異常なまでの愛情と執着で燃えていた。その目を見つめていると、冬は自分が深い沼に引きずり込まれていくような感覚に陥った。 対話も理屈も、一切通用しない相手。歪んだ愛情に支配された、人ならざる化け物。 冬は初めて、自分がどれほど救いのない状況に落ちてしまったかを、完全に理解した。
***
蛇が語り終えた後、しばらく洞窟に静寂が戻った。冬は震えながら、俯いて息を殺していた。涙が地面に落ちて、小さな音を立てる。
「泣くな、お冬。もう怖いことは何もない」
蛇が慰めるような声をかけながら、尻尾の先で涙を拭う。しかしその声自体が冬にとって悪夢そのものだ。 そのとき、蛇の体がゆっくりと動いた。冬の腰に巻きついていた尻尾が、わずかに緩んだ。蛇は洞窟の奥の方へ体をずらしていく。何をするつもりなのか、冬には分からない。だが一つ、確実に言えることがあった。 ー今だ。今しかない。 冬は顔を上げ、洞窟の入り口を見つめた。遠くに見える小さな光が、今まで以上に眩しく見えた。 外の世界。自由な世界。元の生活。 自分に巻きつく蛇の尻尾が完全に緩んだ瞬間、冬は弾かれたように立ち上がった。
「あっ」
足がもつれそうになったが、踏ん張って走り出す。 一歩、二歩、三歩。 足音が洞窟に響く。後ろから蛇の驚いたような声が聞こえたが、振り返らない。振り返ったら、きっともう走れなくなってしまう。
「お冬!」
蛇の呼び声が後ろから響く。だが冬は走った。走り続けた。蛇に攫われた時に脱げてしまったのだろう、靴を履いていない足が痛い。締めつけられていたせいで、息を吸っても吐いても胸が苦しい。でも止まれない。止まったら、また捕まってしまう。また、あの恐ろしい言葉を聞かされてしまう。 光がだんだん大きくなっていく。 十メートル。九メートル。八メートル。 外の光が、洞窟の入り口を照らしている。青空が見える。雲が流れている。風の音が聞こえる。鳥の声も聞こえる。あと少し。あと少しで外に出られる。
「お母さん!」
冬は泣きながら叫んだ。
――お母さん、助けて。迎えに来て。もう二度と一人で神社になんか行かない。もう二度と母親に反抗したりしない。だから、だから――!
七メートル。六メートル。五メートル。 冬は足音が自分一人の分だけではないことに気がついた。後ろからずるずると何かが滑ってくる音が聞こえる。でも振り返らない。振り返ったら負けだ。 四メートル。三メートル。 あと少し、あと少しで外に出られる。 そんな折だ。足首に、何かが巻きついたのは。
「きゃっ!」
冬は前のめりに倒れた。膝と手のひらが岩に擦れて痛い。だがそれよりも、足首に感じる冷たくて強い拘束のほうが恐ろしかった。
「どこへ行く」
低い声が、冬の真後ろから響いた。振り返ると、蛇が冬の足首に尻尾を巻きつけたまま、金色の瞳でじっと見下ろしていた。その目には失望と、確固たる意志が宿っている。
「お前の居場所は、ここだろう」 「やだ……やだあ!」
冬は必死に手を伸ばした。洞窟の出口まで、あと三メートル。手を伸ばせば届きそうな距離に、自由がある。外の世界がある。
「離して! 離してったら!」
爪を立てて岩にしがみつこうとするが、蛇の力にはかなわない。ずるずると、冬の体が洞窟の奥へと引きずられていく。手のひらと膝が岩に擦れて血がにじんだ。しかし冬は痛みなんてどうでもよかった。ただ、引き戻されることが怖くて怖くてたまらなかった。
「やだ、やだ、やだあああああ!」
冬の絶叫が洞窟に響く。しかし蛇は容赦なく、冬を元の場所まで引きずり戻した。そして再び、冬の腰にしっかりと尻尾を巻きつける。今度は、さっきよりも強く。
「無駄なことはするな。ここから出ることなど、おれが許さん」
蛇の声は、さっきまでの優しげな調子とは打って変わって、冷たく威圧的だった。
「次にそんな真似をしたら、もっときつく締め上げるぞ」
冬は震えながら、うつむいた。手のひらから血が滴っている。外の光は、また遠くに見えるだけの、手の届かない希望になってしまった。
――逃げられない。この化け物から、逃げることなんてできない。
冬の心に、深い諦めが忍び込み始めていた。
***
脱出に失敗した冬は、蛇の体に巻きつかれたまま俯いていた。掌の傷がじんじんと痛む。でも、体の痛みよりも心の痛みの方がずっと大きかった。
――あと少しだったのに。あと三メートルで外に出られたのに。
悔しさと恐怖で、また涙がこぼれる。しかし冬は必死に唇を噛んで、泣き声を上げるのを我慢した。この化け物の前で泣き声など上げたくなかった。これ以上、惨めになりたくなかった。
「泣くな、お冬」
蛇が優しい声をかけてくる。その声を聞くだけで、冬は身を縮めた。
「おいで」
蛇の体がうねり、冬を自分の顔の近くへと引き寄せた。巨大な頭が、冬の顔のすぐ近くまで迫ってくる。
「ああ、お前は暖かいな……」
蛇の巨大な体が冬に頬ずりをするように擦り寄せる。ひんやりとした鱗の感触が頬に触れ、冬は息が詰まりそうになった。
「離して……」 「そう怖がるな。おれはお前を愛しているのだ」
蛇の巨大な頭が、冬の顔のすぐ近くまで寄ってきた。金色の瞳が、愛おしそうに冬を見つめている。
「お前の匂いは昔と変わらぬな」
蛇の鼻先が、冬の髪にそっと触れる。そして長い舌がちろりと出て、涙で濡れた冬の頬をなめた。
「ひっ……」
冬は反射的に顔をそらそうとしたが、蛇の体に囲まれて身動きが取れない。舌の湿った感触が頬に残り、全身に鳥肌が立った。
「こんなに泣いて……ああ、変わらぬ。この味だ。お冬の味だ」
蛇の声に、陶酔したような響きが混じっていた。舌が再び伸びて、今度は冬の額をゆっくりとなめる。
「やめて……やめてください……」
冬の声は震えていた。恐怖と嫌悪で、体が石のように硬くなる。しかし蛇は、まるで愛撫でもするかのように、冬の顔を舌でねっとりとなめ続けた。
「いやああ!」
冬は叫んで顔を両手で覆った。しかし蛇は止まらない。今度は冬の腕を、手の甲を、指先を舌でなめていく。
「美しい……何もかもが美しい……」
蛇の声は、まるで恋人に囁くようだった。その歪んだ愛情表現に、冬は吐き気を覚えた。
「お前と出会えて、おれは幸せだった。そして今、また出会えた。これ以上の幸福があるだろうか」
冬は答えなかった。答えられなかった。ただじっと耐えるしかなかった。
時間が経つにつれ、冬は別の問題に気づき始めた。お腹が空いているのだ。そして喉も渇いている。神社に向かったのは朝だったが、今は何時なのだろう。もう夕方なのだろうか。それとも夜?
「あの……」
冬は恐る恐る口を開いた。
「お腹が、空きました……」
蛇は首をかしげた。
「腹? ああ、食べ物のことか。お前がいい子になったら、何か取りに行ってやる」 「お水も……喉が渇いて……」 「水ならここにある。たんと飲め」
蛇が顔を上に向けると、洞窟の天井を指した。見ると、岩の隙間からぽたり、ぽたりと水滴が落ちてきている。
「ほら、あそこだ」
蛇は冬を水滴の落ちる場所の真下まで運んだ。そして巻きついたまま、冬の頭上に水滴を落とし始めた。 冬は口を開けて、落ちてくる水滴を受けた。一滴、また一滴。わずかな水分が喉を潤す。だがそれだけでは全然足りない。もっと飲みたいのに、水滴はゆっくりとしか落ちてこない。 こんな惨めな方法でしか水を飲めない自分が情けなくて、また涙がこぼれそうになった。
「そうそう、そうやっていい子にしていろ」
蛇が満足そうに言いながら、冬の髪を舐めた。冬が水を飲もうと必死になっている間も、蛇は冬の体のあちこちに頬ずりし、舐め回していく。
「いい子だ、お冬。おとなしくしていれば、何も怖いことはない」
首筋を舐められて、冬は身を縮めた。でも水が欲しいから、その場から動くことができない。水滴の落ちてくる場所から離れたら、喉の渇きに耐えられない。 そんな冬の状況を理解しているのか、蛇はより一層愛撫のような行為を続けた。まるで、冬が逃げられないのを良いことに、好き放題にしているようだった。
空腹と渇きが、冬の体力を徐々に奪っていく。それに加えて、精神的な恐怖と嫌悪感が冬を追い詰めていく。眠ろうとしても、蛇の存在が怖くて眠れない。眠ったら、その隙に何をされるか分からない。 だんだんと頭がぼんやりしてきた。集中力が続かない。体も重くて、少し動くだけで息が上がる。
「お冬、顔色が悪いぞ」
蛇が心配そうに言った。しかし、その原因を作っているのは蛇自身だということに気づいているようには思えない。 冬は答える気力もなく、ただ俯いていた。体も心も、限界に近づいていた。
***
冬の母親は、警察署の待合室で項垂れていた。娘が行方不明になってから、もう三日が経っている。
「山の中は全て捜索しました。神社の周辺も、麓の集落も、考えられる場所は全て」
刑事の言葉に、母親は顔を上げた。目の下には深い隈ができ、顔は青白くやつれていた。
「でも、まだ探していない場所があるはずです。もっと山奥とか、崖の下とか……」 「お気持ちは分かりますが、あの山は地元の方々も熟知しています。隠れるような場所は……」 「それじゃあ冬はどこへ行ったんですか! 突然消えたりするわけないでしょう!」
母親の声が上ずった。刑事は困った顔をして、曖昧に首を振る。
「引き続き捜査は続けますが……事件性は低いと思われます。家出の可能性も含めて……」 「家出なんてするわけない! あの子は真面目で、友達も多くて、学校も嫌がらずに通ってたんです!」
しかし刑事の表情は変わらなかった。十五歳の少女の失踪。統計上、大半は家出か自殺。それが現実だった。 警察署を出た母親は、力なく歩いていた。行く宛もなく、足は自然と神社へと向かっていた。娘が最後に向かった場所。何か手がかりがあるかもしれない。 石段を上る足取りは重かった。三日前、娘を送り出した時の記憶が蘇る。「お参りが終わったら電話して」と言ったのに、電話は来なかった。嫌な予感がしていたのに、なぜ止めなかったのか。 境内に着くと、社務所に明かりが灯っているのが見えた。宮司がいるようだった。最後の望みをかけて、母親は社務所の戸を叩いた。
「すみません……」 「はい、どちら様でしょうか」
現れたのは、六十代ほどの宮司だった。穏やかそうな顔をしているが、その目の奥に何か深いものを秘めているように見えた。
「実は、三日前にうちの娘がこちらにお参りに来たきり、帰ってこないんです。冬という名前の、十五歳の女の子で……」
母親の言葉に、宮司の表情が変わった。それは驚きではなく、諦めにも似た深い理解だった。
「ああ……やはり」 「やはり、とは?」 「お入りください」
宮司は母親を社務所に招き入れた。そして座布団を勧めると、静かに口を開いた。
「お嬢さんの名前は、冬さんとおっしゃいましたね」 「そうですが、何か……」 「その名前で、十五歳になられたということは……」
宮司の声は、まるで死者を弔うかのように静かだった。
「お嬢さんは、神の花嫁になられたのです」 「神の……花嫁?」
母親は意味が分からず、首を傾げた。宮司は深くため息をついて、続けた。
「この土地に伝わる、お冬という少女の話はご存知でしょう。あの話は、ただの昔話ではありません。山の神は、今も生きておられる」 「そんな……まさか……」 「お嬢さんのお名前、それは偶然ではありますまい。夢でお告げがあったのではないですか」
母親の顔が青ざめた。確かに、妊娠中に何度も夢を見た。冬という名前にしろと、何度も何度も…… 「神は、お冬の魂が戻ってくるのを待っておられたのです。そして今、その時が来た」 「嘘です! そんなの嘘に決まってる! 迷信よ、そんなの!」
母親は立ち上がって叫んだ。しかし宮司は静かに首を振る。
「お嬢さんを探しても無駄です。神の御許におられるのですから」 「娘を諦めろって言うんですか!」 「ええ、諦めなさい」
宮司の声には、有無を言わさぬ重みがあった。それは長年この土地を見守ってきた者の、動かしがたい確信だった。
「神の意志に逆らうことはできません。お嬢さんは、もうこの世の人ではないのです」 「そんな……そんなことって……」
母親の足に力が入らなくなった。その場にへたり込み、嗚咽を漏らし始める。
「冬……冬……」
娘の名前を呼びながら、母親は泣き崩れた。宮司は何も言わず、ただ静かに見守っていた。その目には、深い悲しみと、そして諦めの色が宿っていた。 山の向こうでは、本当に娘が神の手の中にいるということを、宮司は知っていた。しかし、それを母親に話すことはできなかった。真実は、あまりにも残酷すぎるから。 母親の泣き声だけが、静かな社務所に響いていた。
***
どれくらいの時間が経っただろう。 冬にはもう分からなかった。洞窟の中では昼も夜も区別がつかず、時間の感覚が麻痺していた。空腹のつらさはとうに通り越して、今では何も感じなくなっている。水滴だけでは足りず、唇はカサカサに乾いていた。 もう何度目になるか分からない抵抗も、今では力なく手首を動かすだけだった。「離して」という言葉も、か細い呟きにしかならない。蛇はそんな冬を見て、満足げに目を細めていた。
「諦めたか、お冬」
蛇の言葉に、冬は反応しなかった。反応する気力もなくなっていた。ただぼんやりと洞窟の天井を見つめているだけ。 涙も、もう出なかった。 最初の頃は、母親のことを思い出すたびに泣いていた。友達のことを思い出して泣いた。失った日常を思って泣いた。でも今は、涙腺が枯れてしまったように何も出てこない。 感情そのものが、どこか遠いところに行ってしまったようだった。
「いい子になったな」
蛇が冬の髪を撫でながら言った。その巨大な舌が、冬の頬をゆっくりと舐める。以前なら身を縮めていたのに、今は何も感じない。体は蛇の好きにされるままになっていた。
「最初はあんなに嫌がっていたのに、今はこんなに大人しい。やはりお前は賢い子だ」
蛇の声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。冬の頭はもう、ぼんやりと集中できていない。
「お母さん……」
小さく呟いた冬の声を、蛇は聞き逃さなかった。
「まだ母親のことを考えているのか。もうそんなことは忘れろ、お冬」 「お母さん……迎えに来て……」 「誰が迎えに来るものか。お前の居場所は、ここだ」
蛇の言葉が、冬の胸に重く響いた。そうだ、誰も来ない。お母さんも、友達も、誰も冬を探していない。もう冬のことなんて、みんな忘れてしまったのかもしれない。そうでなければ、どうしてこんな場所に居続けているんだろう。
「そうそう、そうやって諦めるのだ。もう無駄な抵抗はやめて、おれと共に生きるのだ」
蛇が冬をより強く抱きしめた。冷たい鱗の感触が、冬の体を完全に包み込む。
「永遠に、永遠に共にあるぞ、お冬」
その言葉が、冬の心の奥底に突き刺さった。
――永遠に。この恐ろしい化け物と、永遠に。
もう二度と外の世界を見ることはできない。もう二度と母親に会うことはできない。もう二度と友達と笑い合うことはできない。この洞窟で、この蛇と、永遠に過ごさなければならない。 その現実が、突然冬を襲った。 今までぼんやりとしていた頭が、一瞬だけ清明になった。そして、自分の置かれた状況の残酷さを、完璧に理解してしまった。 救いは、ない。 希望は、ない。 未来は、ない。 冬の目から、ふっと光が消えた。 まるで蝋燭の火が風でかき消えるように、冬の瞳から生気が失われていく。体はそこにあるのに、魂だけがどこか遠いところに行ってしまったようだった。 何かが、プツリと音を立てて切れた。 それは冬の心を繋いでいた、最後の糸だった。希望という名の、細くて脆い糸。それが切れた瞬間、冬の中で何かが死んだ。
「そうだ、それでいい」
蛇が満足そうに呟いた。冬の変化に気づいて、嬉しそうに目を細めている。
「もう抵抗などしなくていい。おれがお前を守ってやる。おれがお前を愛してやる。それだけで十分だろう」
冬は何も答えなかった。 答える気力も、答える意味も、もうどこにもなかった。 ただ空っぽの目で、虚空を見つめているだけ。 十五歳の少女、冬の心は、この瞬間に死んだ。
***
洞窟の入り口から差し込む光が、以前とは違う角度で岩肌を照らしていた。 夏の強い陽射しは影を潜め、代わりに柔らかな秋の光が洞窟の奥まで届いている。外からは、時折風に揺れる枯れ葉の音や、南へ向かう鳥たちの鳴き声が聞こえてきた。 季節が、ひとつ過ぎていた。 洞窟の最奥部で、巨大な蛇が静かにとぐろを巻いている。その中央に一人の少女が座っていた。冬だ。 膝を揃えて背筋を伸ばし、両手を膝の上にきちんと置いて。まるで上品な人形のような姿勢で、じっと正面を見つめている。 冬の髪は伸び、頬はこけて、以前より随分と細くなっていた。それでも命を繋いでいられるのは、蛇が時折運んでくる木の実や小動物のおかげだった。約束通り、いい子になった冬に、は食べ物を与えていた。ただし、それは冬の意志ではなく、蛇の都合でしかなかった。 冬の顔に表情はない。喜びも悲しみも怒りも、何もない。まるで魂の抜けた人形のような、空虚な美しさがそこにあった。
「お冬」
蛇が静かに呼びかけた。その声は以前のような執着に満ちたものではなく、穏やかで満足げな響きを帯びている。冬は、ゆっくりと首を動かした。機械仕掛けの人形のように、ぎこちなく、しかし正確に蛇の方を向く。
「……はい」
感情のない、平坦な声だった。まるで魂のない器から発せられる音のような、空っぽの返事。 蛇は満足そうに目を細めた。
「よろしい。いい子だ」
冬の頭を、蛇は優しく撫でた。冬は身を縮めることもなく、嫌がることもなく、ただじっとそれを受け入れている。もはや拒絶する意志も、恐怖を感じる心も、どこにもなかった。
「今日も美しいな、お冬」 「……ありがとうございます」
定型的な受け答え。感情の欠片もない、機械的な応答。しかし蛇にとって、それは何よりも愛おしいものだった。 もう逃げようとすることもない。 もう泣くこともない。 もう母親の名前を呼ぶこともない。 完璧に、蛇の思い通りの存在になっていた。
「おれたちは幸せだな、お冬」 「……はい」 「永遠に、こうして一緒にいような」 「……はい」
蛇は深く満足していた。何百年もの間待ち続けた、理想の関係。愛する者が完全に自分のものになり、二度と離れていくことのない安らぎ。 これこそが、蛇の求めていた愛の形だった。 洞窟の外では、季節が移り変わっていく。人々は日常を送り、時は流れていく。しかし洞窟の中では、時間が止まったかのように、いつまでも同じ光景が続いていた。 巨大な蛇と、魂を失った美しい人形。 それは歪んだ愛の完成形であり、同時に一人の少女の人生の終わりでもあった。 山の神社では今日も、誰かが手を合わせている。お冬と蛇の伝説に祈りを捧げ、平穏な暮らしを願っている。 その祈りが届く洞窟の奥で、新たな「お冬」が静かに微笑んでいた。