目次
登場人物紹介
- 丸木千穂
- 病弱すぎて祖父母の元で静養することになった高校生。病弱なのはいろいろ引き寄せてしまうから、というホラーのお約束設定を背負っています。
- 和泉祐輔
- 霊感ビシビシのシスコンでマザコンな高校生。生母が早逝したため異母兄弟の妹を何より大事に思っています。早逝した母を思い出させる千穂が腹立たしくもあり気になる存在でもあります。
- 和泉珠恵
- 神様に気に入られた子供。無邪気さで兄と神様を慰めています。
- 神様
- 筆の達筆だった誰か。歴史に名が残っているわけでもなく、神社にも大した資料もありません。それでも祀られた者の使命として尽力はしてくれます。
丸木千穂と不穏な町~黄昏~
夕焼けがこれ以上ないほど赤い、黄昏時。私はクラスメイトの和泉君と、帰り道を歩いていた。明るいけれど、時間は遅い。こんな時間になったのは、私も和泉君も、補習を受けていたからだ。互いに、小テストの日に休んでしまった。私は体が弱いせいで、和泉君は公欠扱いになる大事な用事のせいで。 端のかすれた声が、私を呼ぶ。
「丸木ぃ。早よ歩けや」 「ご、ごめん和泉君」
和泉君は背が高い。だから一歩が大きい。対する私は中肉中背。和泉君の一歩が一歩半に相当する。……ちょっと大げさかな? 小走りで和泉君に追いつき、隣に並ぶ。波打つ黒髪の下にある切れ長の目が、私を見下ろす。薄い唇が「おっそいやっちゃなぁ」と冷たい言葉を投げかける。和泉君の口ぶりは決して優しくないけれど、私は気にならない。和泉君が優しいことを、私はよく知っている。今だって、私が追いつくまで立ち止まって待っていてくれた。一緒に帰ってるのだって、家の方角が同じだからじゃない。「女子一人で夜道は歩かせられんやろ」と言い出してくれたからだ。 和泉君は優しい。体が弱くて気も弱い私を、何かと気にかけては助けてくれる。ちょっと雑だったり、乱暴だったりもするけれど。 古い家が建ち並ぶ住宅地を、二人で歩く。夕焼けの赤い光に照らされ、どの家も黒々して見える。何だか、影に囲まれているような気分だ。少し怖くなる。怖さを忘れるために、楽しい想像をしよう。 生け垣の向こうには、どんな人がいるんだろう? 屋根瓦の古さや生け垣の長さから、広い庭があると想像できる。庭で水浴びなんかもできちゃいそう。私じゃすぐに風邪を引いちゃうけど、健康そうなおじいさんだったら覗かれても恥ずかしくないよね。暑がってるおじいさんに後家さんが「水でも浴びてきぃな」なんて促したりね。おじいさんは桶を持って庭に出て、井戸水を汲もうとしたんだろうな。井戸はどれくらい深かったんだろう。少なくとも、おじいさんが転がり落ちたら溺れちゃうくらいだったんだろうな。だから後家さんは、おじいさんが井戸のそばに立ったときに、そっと忍び寄ったんだろうな。井戸を覗き込むおじいさんの背中を、押したんだろうな。おじいさんが最後に見た景色は――。
「丸木」
は、と息を呑んで我に返る。気づけば和泉君は数歩先まで進んでいた。反対に私は立ち止まって、生け垣に向き合いぼんやりとしていた。 他人の家の前で、何て失礼な想像しちゃったんだろう。頭の中に浮かんだ光景の怖さと、根も葉もない失礼な想像に、はたはたと手で顔を扇ぐ。 この町に来て以来、楽しい想像をしようとしても怖い想像ばかりしている。せっかく、静養しなさいねって送りだしてもらったのに。この町で、元気にならなきゃいけないのに。送ってくれる和泉君に、迷惑かけちゃいけないのに。 怪訝そうな顔をして戻ってくる和泉君に、言い訳をしなきゃいけない。なのに頭に浮かんだ光景が恐ろしくって、私の頭はいい具合の誤魔化しを思いついてくれなかった。
「ご……ごめん。ちょっと、立ちくらみ……しちゃって」 「立ちくらみぃ?」
私の前に立った和泉君は、体は私に向けたまま、ちらと横目で生け垣を見た。ああ、と納得したようにうなずいている。
「道が悪かったな。忘れとったわ」
こともなげに、和泉君はそう言った。道が悪いって、何が、どういう意味なんだろう? 和泉君の意図がわからず返事をできずにいると、和泉君は生け垣から私へ視線を移した。切れ長の目が、私を睨むように見下ろす。和泉君は普通に私を見やっただけ。わかってるけど、背の高さと目つきの鋭さから、今のように睨まれたと感じることは少なくない。たじろぐ私を一瞥して、和泉君は「まあええわ」と肩を竦めて踵を返した。
「早よ帰んで。俺まで遅なるわ」
歩け、と身振りで急かされる。私は急ぎ足で和泉君の隣に並んだ。そのまま歩いて、まだ続く生け垣を横目で見る。さっきの想像が尾を引いていて、何だか、生け垣の向こうからじっと見つめられている気分だ。やだな、と思いながらも生け垣から目を離せずにいると、和泉君が「見たあかん」と私を諫めた。
「いやなもん見せられるだけや。見んとけ」
生け垣から視線を剥がし、隣の和泉君を見上げる。癖毛の下にある切れ長の目が、少しだけ心配の色を浮かべながら、私を見ていた。気恥ずかしさに思い切り顔を逸らすと、私は目を伏せた。和泉君は私のこの仕草をどう受け取ったのか、さっきよりも歩幅を狭め、私の歩調に合わせてくれた。 黒々とした影の合間を、会話もなく歩く。楽しいことを考えようとしても怖いことばかり浮かぶから、すれ違う電柱の数を数える。一本、二本、三本。そのうちの一本は木で造られていて、通り過ぎる瞬間、頭上から虫の羽音に似た不快な音がした。顔を上げると、それは電柱じゃなく、スピーカーを取り付けた柱だった。 ぶつ、ぶつっと嫌な音を響かせてから、スピーカーから木琴で奏でられた音楽が流れ出した。羽音のような不気味な音が混ざり、古びて割れた女性の声が子供たちに帰宅を促している。
「六時か」
和泉君がぽつりと呟く。住宅地は静かで、私と和泉君以外、生きてる人はいないかのようだった。生きてる人がいないなら、この放送は誰に向けたものだろう? ああ、また怖い想像をしそうになってる。考えない、考えない。 スピーカーに向けた視線を、足下へ戻す。夕焼けを浴びて、私の影が地面にくっきりと浮かび上がっていた。とぼとぼ歩く私と同じ形だった影が、うにょりうにょりと伸び縮みする。反射的に、ひっと息を呑んだ。
「い、和泉君っ」
足を止め、和泉君を呼ぶ。和泉君が「ああ?」と面倒くさそうに返事をする。私は叫ぶように、自分の影が変だと告げた。
「影が、影の形が変っ」
立ち止まった和泉君が、振り返り、私の足下を見る。そして一言、「気にしなや」と呆れた声で言った。
「影は動くもんやろ。それよか前見て歩けや」 「で、でも……」
和泉君が見ている前で、私の影は伸び縮みを続ける。自分のものでなくなりつつある影から、私は目が離せないでいた。 膨らんで、細くなって。伸びて、縮んで。私の影は、私の形からどんどん離れていく。 そして。 ぷつりと音を立て、私の足から離れていった。
「あ」
間の抜けた声が出た。体は動かない。どうしていいかわからない。影は嘲るような笑い声を上げ、手を振り足を振り、私から逃げていこうとする。それを防いだのが、和泉君だ。
「せやから言うたやろ」
和泉君の、呆れ返った声。同時に長い足が大きく伸びて、逃げて行こうとする私の影を思い切り踏みつけた。踏みつけられた影は、じたばたと藻掻きながらもそれ以上進まない。私の影を踏んだまま、和泉君が振り返る。
「丸木。お前も早よ踏め」
切れ長の目で睨まれ、ようやく私の体は動き方を思い出した。ぎこちなく足を踏み出し、言われたとおりに影を踏む。
「影踏んだ。復唱」 「か、かげふんだ!」
私の声に、影はぶるりと震え、舌打ちをした。藻掻くのをやめた影が、私の形となって足下へ吸い込まれるように戻ってくる。元に戻った影を見つめ、何がどうなっているかわからず、私は立ち尽くすしかなかった。 一方で、和泉君は何事もなかったかのようにすたすたと歩き出した。
「|暗《くろ》なる。早よ帰んで」 「う、うん」
赤い空が、紺色へ変わりつつある。暗くなる前に帰らなきゃ、おじいちゃんたちが心配しちゃう。 歩き出した私を、和泉君のちょっとかすれた声が諫める。
「あんま足下ばっか見んとけ。横も見んでええ。前だけ見て歩いたらええねん」 「はい……」
返す言葉もなく、私はしゅんとしょげてうなずいた。 この町はちょっと怖くて、少し不思議。 和泉君はちょっと怖くて、ちょっと粗雑で、とっても優しい人。 私はこの町で、高校を卒業するまでのほんのわずかな時間しか過ごせない。体が弱くて休みがちだし、たくさんの友達は望めない。だけど、和泉君ともっと仲良くなりたい。 どうしたらいいかなぁと悩みつつ、先を行こうとする和泉君の後を、小走りで追いかけた。
丸木千穂と不穏な町~金魚~
影に逃げられそうになった翌日。私はまた、和泉君と二人で帰り道を歩いていた。
「またあんな目に遭われたらかなんから、一緒に帰ったるわ」
教室でそう言われたときの私の心境たるや! 体力さえあれば、一日中スキップで過ごせた嬉しさだった。 そんなわけで、私は今日も和泉君と帰っている。隣を歩く和泉君は不本意そうな顔で、一緒に歩く私は嬉しさを隠しきれないにやけ顔。嬉しくて嬉しくて、私は和泉君がむすっとしているのにも構わず「ありがとう」と話しかけた。
「一緒に帰ってくれてありがとう、和泉君」
癖っ毛の下の切れ長の目が、虚を突かれたように見開かれる。和泉君は横目で私を見やると、大きな手をひらと振り「しゃーなしや」と素っ気なく返した。
「丸木が変なのに引っかかりやすいから、一緒に帰れ言われたんや。せやからしゃーなし帰ったってんねん。礼なんかいらん」 「それでも、ありがとう」
和泉君が「む」と呟く声が聞こえた――ような気がした。唇を尖らせた横顔は、何だか幼い。和泉君はしばらく黙り込んでいたかと思うと、居心地が悪そうにスラックスの両ポケットへ手を入れた。
「ほっといたら寝覚めが悪いってだけや。丸木のこと心配しとるんとちゃうんやから、礼なんかいらん」 「でも……」 「でもやない」
ぴしゃりと遮られ、つい口を閉じる。口を閉じても疑問が浮かぶのは止められない。『言われた』って、誰にだろう? 和泉君の横顔を窺う。怒ってるわけじゃない。さっきから気まずそうにしてるだけ。怒ってないなら、話しかけられる。
「誰が、私のこと送ってあげてって言ってくれたの?」
クラスの子だと思ってた。だけど予想は外れたみたい。和泉君が心底嫌そうな顔をしたからわかる。和泉君は嫌なことはやらない人だけど、面倒見がいい一面もある。だからもしクラスの子に頼まれたなら、さっき「しゃーなし」と言ったような顔をする。 和泉君はぼそりと、私と帰るよう言った人の名前を告げた。
「神さん」 「かみさん?」
発音の違いで、それが〝神様〟のことだとはすぐにわからなかった。 神様。 神様? この町の神社は、歴史が古いらしい。小さい頃連れられた夏祭りで、おじいちゃんが嬉しそうに語るのを聞いた覚えがある。そういう町に小さい頃から住んでる和泉君は、ああ見えて信心深いのかもしれない。和泉君自身が信心深くなくても、お父さんやお母さん、おじいちゃんおばあちゃんが信心深いのかも。だから『神様がそう言った』なんて理由が出てきたのかも。 そういうことかぁ、と納得した私は、「じゃあ神様にもお礼を言わなくちゃ」とうなずいておいた。 また話題が途切れ、私たちはてくてくと田舎道を歩いた。今日は昨日のあの住宅地ではなく、また別の、少し遠回りな住宅地を通っている。辻で数えると、昨日の道は三つほど向こう。今日通っている住宅地はやや新しくて、生け垣よりも塀が多い。塀すらない、庭と道路が地続きの家もあった。 庭から道へ転がった砂利を見て、この砂利にもお金がかかってるんだなぁとぼんやり考えていたら、視界の端をひらひらと動くものが通っていった。 顔を上げると、私の頭二つ分はありそうな大きさの金魚がいた。目は金色で、鱗は夕日のように赤い。長い尾を優雅に振りながら、金魚は宙に浮き、静かに泳いでいる。驚く私の目の前で、金魚は砂利を一粒、ぺっと吐き出した。私は声も出せず、金魚が突き当たりの丁字路を右へ曲がる後ろ姿を見送った。 金魚が見えなくなり、私はようやく「えっ」と声を上げ立ち止まった。その隣で足を止めた和泉君が、面倒くさげにため息を漏らす。
「まー……夏祭りが近いでな。そら金魚も浮かれよるわな」 「それと金魚が浮くことにどう関係あるのっ? しかもあんなに大きくて、ぎょろっとしてて、赤くて!」 「金魚は赤くてぎょろ目やろ。いちいち気にすな。そうやってすぐ気にすっから寄ってきよんねん」
何が寄ってくるの!? そう思ったけど、和泉君の面倒くさそうな横顔を見ると尋ねづらい。「ええから歩け」と促され、渋々歩く。金魚が曲がった丁字路を、私たちは左に曲がる。丁字路を曲がりながら、金魚が曲がった反対方向をちらりと見やる。 ちょうど金魚もこちらを振り向いていて、私と目が合った。ぎょろりとした大きな目が、にや、と細められた。
丸木千穂と不穏な町~謎~
浮いて笑う金魚を見た、その翌日。授業の合間の休み時間のことだった。次の授業の用意をしながら友達と話していたら、斜め前に座る一人が身を乗り出して尋ねた。
「まるきちと和泉って、何で仲ええの?」 「えっ」
まるきちとは、私こと丸木千穂の愛称。自己紹介のときに噛んでしまったことから、名字と名前を繋げてまるきちと呼ばれるようになった。
「めっちゃ仲良しやん、二人とも」 「何で何でー?」
席を立って遊びに来ていた一人までも、こんな調子で乗ってしまった。私は「仲良しってほどでも……」と口ごもりつつ、照れていた。周りから見て、私と和泉君は仲が良さそうと思えるらしい。そう思われるくらいには、和泉君、私に気を許してくれてるのかな。 嬉しいなぁと思いつつ、謙遜混じりに照れていたら、斜め前のあの子は「あっそぉ」とにやにやして、廊下側の席に着いた和泉君を振り返った。
「和泉ぃ。何で最近まるきちと仲ええのー?」
頬杖をついてうとうとしていた和泉君は、名前を呼ばれ「んああ?」と不機嫌そうな声を返した。聞くところによると、和泉君は家事と育児とアルバイトを一手に引き受けているらしい。ここへ学業も加われば、和泉君が日中眠気を感じているのも仕方なく思える。
「和泉はぁ、何でぇ、まるきちと仲良ぉなったんー?」 「仲良ぉ?」
眉をひそめる和泉君を見て、私はハッと気がついた。和泉君が、そんな質問されて素直にうなずいたりするわけがない。寧ろ否定するに決まってる。否定されるのはいいとして、せめて、私がいない場所で否定してほしい。けれど「待って」と言うより早く、和泉君の口から仲良し説は否定されてしまった。
「仲良ぉなんかしてへんわ」 「バッサリ切るやん」 「和泉ひどぉ」 「うう、ほんとにひどい……:」
肩を落としてしょげ返る私とは正反対に、二人の友人は楽しげに笑っている。どんな表情を浮かべているか、見るまでもない。二人はにやにや顔が浮かぶ声で、さらに問いかける。
「ほんならさぁ、何でまるきちと一緒に帰ったってるん? あんたんち逆方向やん」 「バイトの都合や」 「あれー? 和泉がバイトしとるスーパーって、まるきちのばーちゃんちよりだいぶ学校寄りやなかったっけー?」
その一言に、和泉君の切れ長の目がきりりと吊り上がった。頬杖をやめた和泉君が、苛立ちを露わに友人を睨む。
「何が言いたいねんお前ら」 「はー? 何怒ってるんー?」 「和泉が女子と絡むん珍しなー思ただけやけどー?」
しばらく無言で、友人二人と和泉君は睨み合った。先に諦めたのは、和泉君だ。面倒くさげにため息をつくと、「しゃーないやろ」と答えてくれた。
「丸木のことよぉ見とけ言われてんねん」 「誰に」 「神さんに」
その答えは私も聞いたものだった。この町ではそんな答えは当たり前のもの。だから二人も納得するだろうと思っていた。だけど……。
「あー」 「ふーん」 「何やねん、その反応」
私も同じ訛りを使えたら、和泉君と同じ台詞を言っているところだった。普通じゃないの? この町って、信心深い人が多いんじゃないの? あれ? 斜め前のあの子が、椅子を後ろの机に傾けながら「そーゆーとこよなぁ」と含み笑いをする。
「意外と信心深いんよなぁ、和泉って」 「神も仏もおらん思ってそうな顔してんのにんな」 「仏は知らんが神さんはおるやろ」
神社とかあるんやし、とぼそり付け足す和泉君。少しの間を置いて、私と和泉君以外の全員がどっと笑った。
「それなら寺にも仏さんおるやろがい!」 「何言うてんねん和泉ぃ」
けらけらと笑う、級友たち。笑わないのは当人である和泉君と、私だけ。和泉君は「受験で散々神社通たりしたくせに」とぼやき、再び頬杖をついた。大きな手が口元を隠す。そのときの和泉君がどんな目をしていたか、見たのはきっと、私だけ。 私たちの向こう、窓の向こう、ちょうど私の家がある方角。和泉君は射竦めるような怖い目で、私の家がある方角を見ていた。
丸木千穂と不穏な町~滴る~
ぴちゃん、ぴちゃんと音がする。授業の一式を抱えた私は、足を止めて音の方角を振り返った。外は雨が降っていて、ざあざあという雨音は、おじいちゃんのラジオから聞こえるノイズのようだった。 強まったり弱まったりを繰り返す雨音の向こうで、ぴちゃん、ぴちゃんと、滴り落ちる音は続いている。音の出所は、振り向いた先、廊下の向こう。天気が悪いせいで、廊下は薄暗い。あの方角に水道はなかったから、雨漏りでもしているのかもしれない。 確認しなきゃいけない、と使命感が湧いた。私は次の授業があることも忘れ、音の方角、暗さを増す廊下の奥へと歩き出した。 そうだ、雨漏りしてたら大変。水たまりができてたら、知らずに通った誰かが足を滑らせてしまう。そうなる前に、雨漏りを直さなきゃ。雨漏りを直す前に、雨漏りの程度を確認しておかなきゃ。だって〝私〟は用務員。生徒のために、先生のために、校舎の不具合は把握しておかなくては――。
「丸木」
和泉君だ。 そう思った途端、水音が消えた。雨音も急速に遠のき、廊下に明るさが戻ってきた。そうだ、今日はそもそも雨なんか降ってなかった。熱中症に気をつけましょうって、ニュースで聞いたくらいだ。 混乱する私のそばに、和泉君が大股でやってきた。恐る恐る振り向くと、和泉君は癖っ毛の下で、切れ長の目を吊り上げていた。
「次行くんは生物室やろ。どこ行くねん」
怒られるだろうなと思いながら、私は正直に打ち明けずにいられなかった。小さな子供みたいに肩を落とし、廊下の奥を指で差す。
「雨漏りみたいな、音がしたから……」 「音がするからて、ほいほい覗きに行こうとすなや。幼稚園児でももう少し落ち着きあるわ」
ぐうの音も出ない。しょんぼりする私を見下ろし、和泉君は大きなため息をついた。
「あれは誘とるだけや。無視せえ」 「誘ってるの?」 「丸木みたいなぼーっとしとる奴を待ち構えとんねん」
何が、と聞くまでもない。 この町は少し不思議で、少し怖い町。影が逃げようとして、金魚が空中を泳いで、神様が干渉してくる町。そういうものが学校にまでいるとは、思わなかった――思いたくなかった――けれど。 和泉君は踵を返し「それよか」と歩き出した。
「早う行くで。遅れるわ」 「あ、うん。ごめんね」
和泉君の一歩は大きい。私は慌てて足を動かし、和泉君の隣に並んだ。私たちのほかに廊下を歩いている生徒は、いないようだった。 授業に遅れちゃうかもと不安に思った瞬間、「残念でした」と笑うように予鈴が鳴った。和泉君は「遅刻決定やんけ」とぼやきつつ、私に合わせ歩幅を狭めてくれた。 それが嬉しくて、私はつい「探しに来てくれたの?」尋ねてしまった。 和泉君の切れ長の目が、じろりと私を睨む。
「ふらふら歩く背中が見えたから、しゃーなしな」
そう言って逸らされた目は、前だけを見ている。素っ気ない態度だけど、和泉君の優しさは伝わった。胸がぎゅうと締めつけられるのは、体の不調じゃないはず。たぶん……たぶん。心臓に異常はなかった、まだ。 ふふ、とつい笑みをこぼしてしまった。和泉君は眉をひそめて私を見やり、「何笑とんねん」と低い声でぼやく。そんな和泉君に「ありがとう」とお礼を言いながら、私は少しだけ歩調を早めた。
丸木千穂と不穏な町~線香花火~
学校から帰ると、おばあちゃんが得意満面で私を居間へ招いた。何だろうと思って敷居をまたぐと、長机の上に紺色の布が敷いてあった。それは敷布ではなく、線香花火を描いた浴衣だった。深い紺色に、鮮やかな色で火花が弾けている。思わず上げた「わぁ」という声は、私がこの町に来て一番明るい声だった。
「お母ちゃんに見したげなぃ」 「うんっ」
今日は金曜日。毎週金曜の夜は、向こうで暮らす二人とビデオ通話で話す日だ。お父さんは残業かもしれないけれど、お母さんは定時で帰るはず。お母さんが退社する時間まで、おばあちゃんと私は夕飯の用意をして過ごした。
「千穂にはもっと淡い色のほうが似合うんじゃない?」
ビデオ通話を繋いで一番、お母さんは「うーん」と渋い顔をしながらそう言った。カメラの前で浴衣を宛がっていた私は、お母さんの残念そうな声に肩を落とした。隣でカメラを覗き込んでいたおばあちゃんが、「何でぇな」と首を傾げる。
「あんたも着とった色やがな。何があかへんの」 「あかんわけやないけどぉ。可愛い娘には可愛い色の服着てほしいやん」
おばあちゃんの一言で、お母さんは子供のように唇を尖らせた。いつも口元を引き締めているのに、おばあちゃんの前では〝母〟ではなく〝娘〟になってしまうらしい。珍しく訛りまでも出てしまっている。 この町は、お母さんが子供時代を過ごした町だった。体が弱くて中学を休みがちだった私は、静養のためこの町の高校へ進学した。 連なる山があり、大きな川があり、いくつもの田んぼがある、お手本のような風景を持った町。影が逃げたり、金魚が浮いたりするような不思議な町だとは思いもしなかったけれど、この町に来てから体調は見違えるほど良くなっている。少なくとも、入院する必要に迫られたことはない。
「元気そうで何より」
母親の顔に戻ったお母さんが、唇微笑みを浮かべた。おばあちゃんも隣でうんうんとうなずいてくれている。
「お盆にはお父さんとそっちに行くからね」 「うん。待ってるね」
それからお互いの近況報告をして、通話は終わった。残念なことに、通話中にお父さんが帰ってくることはなかった。見せ終えて横へ避けていた浴衣を、おばあちゃんは丁寧に畳んで箱の中へ戻した。
「今度の夏祭りに着ていきなぃね。おばあちゃんが着せたげるさかいに」 「ありがとう、おばあちゃん」
浴衣を押し入れに仕舞い込むと、おばあちゃんは台所へ戻った。私も用意を手伝うため、連れ立って台所へ行く。今日の夕飯はメインの焼き魚に、ピーマンの煮浸しとタマネギ入りのお味噌汁を添えている。お味噌汁は私が用意した。出汁の取り方が上手くなったとおばあちゃんに褒められた。 晩酌用のグラスと瓶を食卓に並べても、おじいちゃんはまだ帰ってこない。座りながら「遅いねぇ」と話していたら、玄関のガラス戸が滑る音がした。
「千穂、西瓜と花火買うてきたで!」
ただいまもそこそこに、おじいちゃんは食堂へ駆け込んできた。にこにこ笑った顔の横に、ビニールで包装された花火を掲げ持っている。反対の手には西瓜が一玉ぶら下がっていた。
「晩ご飯食べ終わったらやろな!」 「おじいさん、手ぇ洗たんかいな」 「まだや!」 「早よ洗てきなさいよ」
おばあちゃんの呆れ顔を見ても、おじいちゃんはにこにこしたまま。西瓜と花火を置いて、ばたばたと手を洗いに行くおじいちゃん。その姿を見て、私もついにこにこしてしまう。おばあちゃんだけが「いつまでも子供みたいに……」とぼやいていた。 そして、食後。私は庭先で花火をすることになった。それも、一人で。 小学生でもないから、一人で花火をしてもそこまで楽しくはない。だけどおじいちゃんもおばあちゃんも縁側に座って嬉しそうにしているから、しないわけにもいかなかった。 一人は寂しいなぁと思っていたら、暗がりから子供の声が聞こえた。
「にーちゃ! はなび!」 「たま。よそんち覗いたあかん言うてるやろ」
子供の声に続いた声には、聞き覚えがあった。聞き覚えどころか、間違えるはずのない声。だってそれは、和泉君の声だったから。
「和泉君!」
暗がりに向かって名前を呼ぶと、たかたかと足音がして、小さな子供が庭に飛び込んできた。白地に桃色の朝顔が浮かぶ甚平と、耳の下で切り揃えた黒髪が印象的な女の子だった。遅れて、背の高い人影ものそりと入ってくる。もちろんそれは、和泉君だった。 和泉君の私服は白いTシャツに水色のパーカーを羽織ったラフな格好だった。長い脚は紺色のスラックスに包まれている。思わず顔を覆い隠しそうになったけれど、手に持った花火のお陰でどうにか踏み止まれた。
「あー……ここ、丸木んちやったな」
気まずそうな顔をする和泉君。そのそばに駆け寄った小さい子は、元気な声で私たちに「こんばんわ!」と挨拶した。おじいちゃんたちは目を細め、その子に「こんばんは」と返す。和泉君は珍しく、申し訳なさそうな、恥ずかしそうな、そんな顔をした。
「すんません。連れて帰りますんで」 「構へん構へん」
おじいちゃんはそう言って、庭に下りてきた。
「千穂も一人で寂しかったやろうしな。一緒に花火したってや」 「いや、そんでも……」
花火を差し出されても、和泉君は遠慮して固辞しようとする。私がおじいちゃんに加勢して「ぜひ!」と言う前に、子供から援護があった。
「たまもはなびする!」
和泉君のそばにいた子供はぴょんと跳ねると、和泉君の手を握り何度も揺らした。
「にーちゃ、はなびしよ!」 「たまぁ、そんなこと言うなやぁ」
弱り切った声に表情。学校では見たことない表情に、私の胸がきゅうと苦しくなる。苦しくたっていい、もっと和泉君と過ごしたい!
「あ、あの」
和泉君と子供の視線が、私に向く。暗くて良かったと思いながら、私はようやく和泉君たちを花火に誘った。
「私はっ、和泉君たちが一緒に花火してくれたらっ、嬉しい!」
子供の表情が、ぱぁっと明るくなる。和泉君は子供を見やって、それから私を見て、渋々「そんなら……」と花火の輪に加わってくれた。 おばあちゃんも縁側から庭に下りてきて、子供の面倒はおじいちゃんと二人で見てくれることになった。
「火ぃの扱いは気ぃつけんとなぁ」 「あっちっちだから?」 「そうそう。たまちゃん賢いねぇ」
子供の名前はたまちゃんというらしい。妹にしては年が離れてそうだし、親戚の子かな。そう思いつつ、気まずそうな、申し訳なさそうな顔で佇む和泉君に、袋から抜き出した花火を一本差し出す。
「えっと……あの、たまちゃん? って、親戚の子なの?」 「いや、妹」
差し出した花火を受け取り、和泉君はさらりと言った。
「再婚相手とおとんの子や。ちょうど、一回り下やな」
再婚相手。一回り下の妹。 衝撃的なフレーズに、私は言葉も思考も固まってしまった。動かず無言になった私に、和泉君は「何ちゅう顔すんねん」と露骨に嫌そうな顔をした。
「そんな顔せんでも、町中知っとることや。気まずいことでも、触れてほしないことでもないわ。気ぃ遣うなや」
そう言って和泉君はしゃがみ込み、地面に立てた蝋燭から花火に火をつけた。白い火花が真っ直ぐに噴き出し、地面を焦がす。和泉君は目を焼きそうな光を見ながら、何でもなさそうに家庭の事情を語った。
「俺が幼稚園通てる頃におかんが死んで、小学校通てる間におとんが再婚した。今のおかんは……ええ人や。たまもかわええしな」
切れ長の目が柔和に細められ、おじいちゃんたちと花火を楽しむたまちゃんに向けられる。その表情を見て、私はつい「いいなぁ」と口走りそうになった。 いいなぁ。私も、和泉君からあんな目で見られたい。 胸の中で呟いて、ようやく自分の気持ちに気づいた。自覚するとこの気持ちはどうも気恥ずかしく、耳まで熱を持つのを感じながら、新しい花火を取ろうとたまちゃんたちの方へ目をやる。 花火の袋は、いつの間にかほとんど空になっていた。めぼしい花火は、たまちゃんがおじいちゃんたちと遊び尽くしてしまったらしい。残っているのは線香花火ばかりだ。
「〆の花火しか残っとらんなぁ」
同じく袋へ目をやった和泉君が、「妹が悪いな」と笑った。今夜は学校で見たことのない表情ばかり見せられている。自分の脈拍が早まるのを感じながら、今が夜で良かったと一人安堵し、線香花火を取りに立ち上がった。 和泉君も立ち上がり、私たちはたまちゃんたちと一緒に線香花火に火をつけた。
「ぱちぱち」 「せやなぁ、ぱちぱちいうとるなぁ」
おばあちゃんに支えられ、たまちゃんは線香花火を持って、ご機嫌な様子。和泉君は目を細め、楽しそうなたまちゃんを見ながら線香花火を持っている。そして私は、そんな和泉君の隣で、どぎまぎしながら線香花火を見下ろした。今にも落ちそうな赤い玉から、火花が絶えず弾けている。
「誰が最後まで残るかな?」
照れ隠しの一言に、たまちゃんが「たまいちばん!」と元気な一声を上げた。それに対し和泉君が「せやなぁ、たまが一番やな」と目元を蕩けさせる。この短時間でわかったのは、和泉君が相当なシスコンであること。でも、そんな俗っぽい表現はすぐにかき消える。線香花火に照らされ浮かぶ表情の柔らかさだとか、優しい声音だとか、そういったものが、和泉君の中の家族愛の深さを示していた。
「和泉君、妹さんが大事なんだね」
潜めた声で言うと、和泉君が「そらな」とぽつり呟いた。
「家族仲良ぉ暮らすんが、夢やったからな」
今までの明るく優しい声音とは一変、寂しそうな声と横顔だった。私は返事に困って、うつむきながら「素敵だね」と返すのがやっとだった。
和泉祐輔と不穏な町~筆~
和泉祐輔は、神社に祀られた氏神から使命を課せられていた。 一つは、町のあちこちにある綻びに氏神の祠を造ること。これはさほど難しいことではなく、決まった大きさの石を積み上げるだけでいい。 もう一つ、これが最も重要で、綻びから入り込んだ〝悪いもの〟から、町の人を守ることだった。それも、氏神の名を使って。 氏神は今や、信仰の希薄さから力を失いつつあった。以前の扱いを受けられなくなった氏神は神としての形を保つのが精一杯。社から出ることは到底叶わぬ状態の氏神に代わって、そのお役目を受けたのが祐輔だった。 祐輔がそれを受け入れたのは、高校入学の一月前。ようやく草花芽吹く春の頭だった。
「時に寄り添い、時に庇い、誰かを助ける。今時の若いもんにしてはいい名じゃのう」
そう言ったのは、人の子ほども背丈のある猫だった。白い毛に、墨汁をこぼしたようなぶち模様がある。目は月をそのままはめ込んだような金色だ。猫は、人間のように後ろ足だけで立ち上がり、浮かせた前足で古びた紙を持っていた。そこには祐輔の名が記されている。 場所は氏神を祀る神社。時刻は虫も眠る丑三つ時。そんな時期のそんな時間に、祐輔は妹の珠恵と二人、境内に立っていた。珠恵は参道の途切れた拝殿前でぺたりと座り込み、祐輔は参道の上で仁王立ちになっていた。 猫が立つ拝殿のさらに奥には、本殿との仕切りであろう格子が立っている。その隙間から、一枚の紙がすぅと滑り出た。そこに書かれているのは珠恵の名前。筆で書かれたであろう紙は、今にも墨が滴り落ちそうだった。
「珠のような子であれ。恵まれた子であれ。いい願いが込められとるのう」
再び猫が人語を操るが、祐輔も珠恵も驚きはしない。そも珠恵は魂を抜かれたようにぼんやりと座り込んでおり、祐輔は怒髪天を衝く勢いで猫を睨みつけている。
「何で珠恵の魂を抜いたんか、説明してもらおうやないか。話次第でその皮ぁ剥いで三味線にしたるからな」 「おお、怖い怖い。睨まれるなんていつぶりかのう。百年ぶりかのう」
けたけた笑う猫を、祐輔は睨みつける。それしかできなかった。握った拳を振り上げることも、玉砂利を蹴散らし拝殿に上がることも、できなかった。祐輔は動きを封じられていた。猫は余裕綽々といった態度で、二人の名を記した紙を掲げる。
「この神社が何の神を祀っておるか、お前は知っておるか?」 「……えらい字ぃの上手な神さんが祀られてる」 「その通り! 祀られたのは達筆な男でのう。悪筆では伝えられる思いも、願いも、伝わりはせん。転じて、大願成就の神社として扱われるようになった」
しかぁし、と間延びした声とともに、猫は床に紙を落とした。
「近頃の氏子どもは、信心が足らん。氏神に産後の報告にも来ん。わしら悲しゅうて悲しゅうて、せめて子供たち自ら社に来るよう仕向けとるわけじゃ」 「その紙に魂縛り付けといて、どの口で言うとんねん。早よ珠恵の魂返せや」
猫の目が、すっと細くなった。「ひどいのう」としょげた声で、太い尻尾を大きく振る。気づけば祐輔の目の前に、猫はいた。 大きな猫とはいえ、背の高い祐輔の胸元ほども背丈はない。猫は鋭い爪の生えた指先を、祐輔の胸にとんと立てた。
「確かに、珠恵の魂は体から抜ける寸前じゃ。しかしそれはわしらのせいではない。神社を蔑ろにする氏子のせいじゃ」
七つになるまで、子供の魂は不安定なもの。いつ魂が抜け、寿命を全うせず昇天するかわからない。だからこそ、産後は氏神に報告するのだ。新たに生まれたあなたの氏子を、どうかお守りくださいとお願いするために。私たちの子供を、私たちと同じようにお守りくださいと頼むために。
「あとは綻びから入った悪しきもののせいじゃな。わしら蔑ろにされとるからなぁ。力もなくなっていくわなぁ。追い払っておった悪しきものどもも入り放題じゃわなぁ」
祐輔の体に、わずかに自由が戻った。足はまだ、根が生えたように動かない。祐輔は動く腕を持ち上げ、猫の手を掴んだ。
「珠恵と俺をここに呼んで、それを俺に言うんは、何やさせたいことがあるんやろ」
切れ長の目が、炎を揺らしながら「言え」と命じた。
「俺の魂差し出せ言うなら差し出す。何かしろ言うなら何でもやり遂げる。焦らすな。さっさと言え」
猫はにんまりと笑い、祐輔に一つの役目を背負わせた。それが、冒頭に挙げた二つの使命だった。 胡散臭いと思われようと、妙な宗教家扱いをされようと、人ならざるものから人を助ける。役目を果たすことで、珠恵の魂は少しずつ珠恵の体に戻っていく。 人助けでは目下のところ、丸木の孫娘である丸木千穂の庇護が最優先とされていた。 千穂の体が弱いのは、珠恵と同じく、千穂の両親が産後の報告を怠ったせいだった。昨今の医療はめざましい進歩を遂げており、氏神の加護がなくとも早々に死ぬことはない。 ならば助ける必要なぞなかろう――と祐輔は思ったが、そう簡単な話でもないらしい。
「加護を得ずとも生き延びた、強運の持ち主じゃ。悪しきものにとって、あの娘っ子は極上の餌なんじゃよ」
人ならざるものは、二つに分けられる。魂を欲するもの、器である体を欲するもの。そのどちらにとっても、千穂は魅力的な〝餌〟だった。 加えて、千穂本人にその自覚がない。人ならざるものへの危機感がない上に子供並みの好奇心を持っている。人ならざるものたちに呼ばれては不用意に近づいていく。 祐輔は何度、「こんな奴知ろかい」と放り出そうとしただろう。ふらふらと怪しいものに近づいていく千穂を放っておこうとしただろう。そのたびに祐輔は、珠恵ではなく、亡き母のことを思い出した。
「おい、丸木」
そしてその日も、祐輔は手ぐすね引いて待ち伏せる人ならざるものから、千穂を守った。 祐輔に名前を呼ばれ、千穂は我に返って立ち止まった。この日千穂は、用もないのに暗がりの倉庫へ入ろうとしていた。切れかけた電球が虫の羽音に近い音を立てている。祐輔は不快そうに電球を睨み、千穂を手招きで呼び寄せた。
「移動教室のたんびに変なもんに引っかかるんやめえや」 「うぅ、ごめんね和泉君……」
しょげる千穂にため息だけ返し、祐輔は日の差す廊下へと足を向けた。
「次選択やろ。どこ行くねん」 「えっと、私は美術室。和泉君は?」 「音楽室」 「ああ、じゃあ逆だね……階も全然違う……」 「またふらふらされたらたまったもんじゃないからな。送ってったるから早よ歩け」 「う、うん! ありがとう!」
隣を歩く千穂の嬉しそうな顔を、祐輔は複雑な気持ちで見やった。 千穂の体の弱さは、先にも述べたように、祐輔に亡き母を思い出させる。千穂の体が弱いと知ったのは、入学後初めての体育の授業だった。麗らかな日差しの下、準備体操中に倒れたのは祐輔にとって衝撃的だった。
「おかんより体の弱い奴がおんのか」
そう、口に出してしまいそうなほどだった。この日倒れた千穂を保健室へ運んだのは、祐輔だった。たまたま保健委員であったことと、家事と妹の面倒と学業を両立させる体力そして腕力を買われてのことだった。 そんな理由から運ばされたが、祐輔は千穂の体の軽さよりも、魂の軽さが気になった。病みがちで死んだ母も、魂が薄かった。祐輔の母は己の体の弱さを呪い、祐輔に人並みの母として何もしてやれないと何度も謝った。
――こいつもそんな風に、自分の体の弱さを呪って、悔いて、泣いて死ぬのだろうか。
赤の他人であれど、母と同じ境遇にある者を放っておけるほどの薄情さを、祐輔は持ち合わせていなかった。
「難儀やなぁ」
思わずぽつりと呟いて、祐輔は現実の今日へ引き戻された。隣を歩いていた千穂はきょとんとして祐輔を見上げている。祐輔が「何でもない」と言う前に、千穂がにこりと笑顔を浮かべた。
「今日も、神様が言うから助けてくれたの?」
今まで何度も繰り返した台詞を、今このとき、祐輔は言えなかった。「あー」と短く唸り、期待を浮かべる千穂から目を逸らした。
「せやせや。そーゆーこっちゃ。変なもんから助かるんは神さんのお陰や。神社にお礼しに行けよ」
投げやりにうなずくと、千穂は「そっか」とうなずいた。 今までは、こんな返答をすれば胡散臭い目で見られた。「和泉の息子は宗教家にでもなるんか」などと噂されることもあった。妹の命に比べればと形振り構わずにいたお陰で、陰口にも異物を見るような目にも慣れた。 だが千穂からの真っ直ぐな眼差しには、慣れなかった。千穂はいつでも、祐輔に助けられたことを眩しくなるほど純粋な目で喜ぶ。
「じゃあ、神様に感謝しなくちゃ」
こういう奴ばかりなら、珠恵の魂が取られることもなかったろうに。千穂の親がこんな心を持っていたら、千穂の体はもう少し頑丈であっただろうに。そう思わずにいられなかった。 やるせなさを感じると同時に、千穂のような心を持つ者がわずかながらいるお陰で、珠恵の魂が戻りつつあることを思い出す。
――どうせ助けるなら、丸木みたいな奴ばっかやとええなぁ。
声に出さず呟き、祐輔は「ん?」と首を傾げる。祐輔の胸に、何かが芽生えかけている。しかしそれに注意を払うことなく、祐輔は「お礼すんなら神社で言えよ」とだけ告げて、急かすように大股で歩いた。
和泉珠恵とすてきな神社~天の川~
たまは神社が好き。ふしぎなものを見せてくれるから。 神社にいるおじさんは、神さまらしい。おじさんと、猫ちゃんが言っていた。初めて会ったとき、ひげがぼーぼーで真っ黒い着物のおじさんに「神さまだよ」と言われても、信じられなかった。
「ほんまにぃ?」
ぜぇったいうそ、と思いながらおじさんを斜めの向きで見る。おじさんはぼさぼさで長い髪の下で困った顔をしながら、「本当だよ」と言った。
「今は髭も髪も好き放題伸びてこんな有様だけれど、おじさんは本当に神様だよ」 「おじちゃ、せんにんみたい!」 「珠恵は難しい言葉を知ってるねぇ」
たまが名前を言ってないのに、おじさんはたまの名前を知っていた。神さまは何でも見てるってお母さんが言ってた。だからこのおじさんが神さまなのは本当なんだろうなと信じられた。 伸び放題の髪や髭に隠れても、おじさんの顔が優しげなのはわかった。時々見る怖い人は、あんな風ににこにこしない。だからお兄ちゃんにダメと言われても、たまは神社に通った。知らない怖い人と一緒にいるのはだめだけど、優しい神さまだったら、一緒にいてもいいもん。 神社には、一人では行けない。たまの足は速くないし、すぐ疲れちゃう。だから、お迎えを待つ。 保育園の庭で遊んでると、猫ちゃんが来る。
「お呼びじゃ」
猫ちゃんが「ほれ」と背中を見せるのが合図。たまが猫ちゃんの背中に乗って、よく伸びる皮をぎゅっと掴む。猫ちゃんは何回か軽く体を揺すって、それからぴょいと壁を飛び越える。壁の向こうには田んぼと畑がある。なのに猫ちゃんに乗って飛び越えると、そこはおじさんがいる神社。 猫ちゃんの背中から下りて、神社の鈴をがらんがらんと鳴らす。そうすると、おうちのドアが開いて、その奥にあるドアも開く。おうちの一番奥で、嬉しそうなおじさんが両手を広げて待っていた。
「いらっしゃい、珠恵」 「おじゃまします!」
よそのおうちに行くときは、元気にご挨拶。こうすると、だいたいの人が褒めてくれる。おじさんもその一人。にこにこ笑って、大きな手で頭をわしわし撫でてくれる。 おじさんの前でちょこんと座ると、おじさんは黒い着物の袖のところから筆を一本取り出した。
「今日は天の川を見せてあげよう」
真っ白な筆の先から、ぽたぽたと、ぼたぼたと、どぼどぼと、真っ黒い墨が落ちる。床の上を流れていく墨は、たまが目をぱちぱちさせる間に夜の空になって、ドアが開いてるのに真っ暗けっけになった。たまは真っ暗な部屋で寝ることができない。いつもオレンジの電気をつけてもらってる。だけどここで真っ暗けっけになっても怖くない。だってほら、もうあっちこっちに、お星さまが光ってる。
「きれい!」 「珠恵は素直ないい子だなぁ」
おじさんはほろりと涙をこぼし、真っ黒い着物の袖で涙を拭った。おじさんの着物はぼろぼろで、あっちこっちすり切れて、穴が開いている。
「にーちゃに、ぬってもらう?」
たまのお兄ちゃんは、お母さんより縫い物が上手。ご飯を作るのだって、お母さんの前で言っちゃだめだけど、お兄ちゃんのほうが上手。お兄ちゃんは何でもできる。たまの保育園バッグも、お兄ちゃんが縫ってくれた。ひらがなのアップリケで書かれた名前が可愛いと、いつも先生に褒められる。 たまのお兄ちゃんは、自慢のお兄ちゃん。おじさんも「祐輔は繕い物もできるのか」とびっくりしてくれた。
「あの子は本当に、えらいね。何でもできる。いや、何でもできるようにならざるを得なかった、気の毒な子か」
どこか遠いところを見ながら、おじさんがお兄ちゃんのことを褒める。褒めながら、褒めてないようなことを言う。おじさんの言うことは難しい。むむ、と顔をしかめると、おじさんは難しい話をやめてしまう。
「珠恵には、まだわからないね。代わりに、七夕のお話をしてあげよう」 「おはなし、だいしゅき!」 「だいしゅきかぁ、そうかぁ」
そう言って目元を蕩けさせる顔は、何だかお兄ちゃんみたい。お兄ちゃんもおじさんになったらこうなるのかな。ひげぼーぼーのお兄ちゃんをもやもやと想像する。おかしくって、くすくす笑ってしまった。
「登場人物は、織り姫と、牛飼い、それに白鳥だ」
お星さまに照らされて、おじさんの筆がさらさらと動く。たくさんの星でできた天の川の反対に、着物を女の人、その反対に、おじさんとも女の人とも違う着物を着た男の人が描かれた。
「それでは、彦星と織り姫の話をしよう」
女の人や男の人が、おじさんが話すおはなしに沿ってふよふよと動く。内容はちっともわからないけど、きらきら光る星々や、着物がゆらゆら動くのだとか、牛ののろのろ歩くのだとか、鳥がばさばさ羽を動かすのを見るのは、とっても楽しい。 おじさんが優しい声でしてくれるお話は、中身がわからなくったって楽しめる。夜におうちに来てくれたらいいのに、といつも思う。何度かせがんでみたけれど、おじさんはうなずいてくれない。おじさんは神社から出られない。だから、しょうがない。 お兄ちゃんに頼んだら、おじさんを神社からおんぶして連れてきてくれないかなぁ。そんなことを思いながらおじさんが描いた人たちを見ていた。
「おっと。話し込んでしまったね。お迎えが来てるよ、珠恵」
おじさんの手が止まる。同時に、女の人たちも動かなくなった。お星さまも、人も、動物も、全部が墨になる。床を流れた墨は掃除機で吸い込まれるように、おじさんが持つ筆に戻っていった。 お迎えって、誰だろう? 耳を澄ませても、猫ちゃんのあくびすら聞こえない。「しょなの?」と首を傾げると、おじさんは「しょうだよ~」と目尻に皺を作った。溶けたような目と甘えんぼみたいな声は、たまと話すときのお兄ちゃんと丸っきりおんなじだった。 おじさんが、ぱん、と手を鳴らして猫ちゃんを呼んだ。音もなくやってきた猫ちゃんは、大きな欠伸をして、それからうーんと伸びをした。
「それじゃあ珠恵、帰るとするかのう」 「うん! おじちゃ、ばいばい」
手を振ると、おじさんも寂しげに手を振り返す。
「またおいで、珠恵」
猫ちゃんの背に乗って、ぴょんと神社の外へ出る。するとそこは、保育園の門の前。もう閉まっちゃってる門に、どうやって入ろうか? 猫ちゃんの背中から下りて悩んでいると、たまに気づいた|保育士《せんせい》が、青い顔してやってきた。
「たまちゃん、どこ行ってたん!」 「じんじゃ!」 「もおぉ、どこから抜け出すんかなぁ……!」
|保育士《せんせい》にこんこんとお説教されても、たまは全然気にしない。きっとまた次も、猫ちゃんが来たら保育園を出ていく。 だって、おじさんが呼んでるから。 おいでおいでって、猫ちゃんを迎えに出してくれるから。 おじさん、今度は何を見せてくれるのかなぁ。次にまた見せてもらえるものを楽しみにしながら、たまは|保育士《せんせい》と手を繋いで、みんなが待ってる保育園に帰った。
丸木千穂と不穏な町~さらさら~
「まるきっちゃん、髪の毛めっちゃさらさらー」 「お手入れめっちゃ大変そー」 「髪くらいしか、自分で手入れできなかったから……」
影に逃げられたり、宙に浮く金魚に出会ったり、廊下で手ぐすね引く怪異に呼ばれたりといろいろあった一週間。その翌週の初日、お昼休みのこと。私は友達二人と一緒に、中庭に出ていた。
「せっかくお天気なんやし、外で食べような」 「中庭行こうな。何かようわからん木ぃが影になるし、座るとこもあるやん」
と言われても、私は自他共に認める虚弱体質。雲一つない空と容赦のない気温が揃った屋外で、倒れない自信なんてない。そう思って一度は辞退したけれど、二人に腕を組まれ、強制的に外へ連れ出されてしまった。 中庭は、思ったよりも過酷な環境じゃなかった。確かに暑いけれど、木陰に入れば、想像よりも涼しかった。
「木の陰で暑かったら壁際に寄ろなー、まるきっちゃん」 「そやそや。あんまし暑かったら教室戻ろなー」 「うん、ありがとう」
木陰のベンチに三人並んで腰掛ける。先に座った二人が両端を取ったから、私は真ん中になってしまった。そして、冒頭のやり取りに戻る。 今日のお弁当は、おばあちゃんと一緒に作った。暑さに負けないようにと、特製の梅干しおにぎりが入っている。 いざ食べようと箸箱に手をかけてから、私はお弁当に一口も手をつけられていない。両サイドに座る二人が、自分のお弁当に触りもせず、私の髪ばかり触っているからだ。
「お弁当、食べないの?」
尋ねても、二人はにこにこ笑うだけ。私の髪を指に巻きつけたり、持ち上げては重力に任せ落としたりを繰り返している。
「ね、ねぇ、お弁当……」 「ええなぁ」
指に巻きつけ遊んでいた一人が、低い声で羨んだ。
「ええなぁ、まるきっちゃんの髪、さらっさらでええなぁ」
急に、寒気がした。なぜだかわからない。とにかく、ここから離れたくなった。途端に日差しは陰り、空気がじっとりと重くなる。立たなきゃと思ったそのとき、二人が私の肩をがっしりと掴んだ。
「なぁ、あたしの髪と交換してぇな」
顔を、両側から覗き込まれる。私を挟む二人は、見覚えのない顔を持つ、全く知らない誰かだった。さっきまで、クラスメイトの顔をしていたはずなのに、どうして。
「あたしらに髪分けてぇな」
知らない顔が、怯える私の目の前で、見る見る黒焦げになっていく。肩を掴む手が、ぐぐ、と爪を立てる。
「あたしら燃えたんよ」 「爆弾落とされて燃えたんよ」 「ろくな手入れができんでも、せめて髪だけはって、頑張ってたんよ」 「お嫁に行くとき、結い上げられるようにしとこうて、頑張ってたんよ。そやのに」
黒焦げの細い手が、髪を、制服をぎゅううと掴む。「分けて」「分けて」と、髪を強く引く。どちらに頭を傾けても、反対から引かれる力で戻される。
「生きてるんやからええやんか」 「また生えてくるやんか」 「や……やだ。痛い、やめて、お願い」
逃げたくても、髪を掴む力が強くて逃げられない。今ここで立ち上がったりなんかしたら、きっとひどい音を立ててちぎれるに決まってる。 でも、私が大人しくしているからって、力を緩めてもらえるわけもない。ぎちぎちと、髪が悲鳴を上げる。あまりの痛みで、目に涙が滲んでくる。黒焦げの顔で覗き込まれるのが怖くて、のどが引きつる。 髪を掴んでいた手が、顔にまで伸びてきた。炭化した爪が、私の目を狙う。傷つけられまいと目を瞑り、腕を上げて顔を守りながら、私は引きつるのどを無理矢理動かした。
「助けて、和泉君」
かすれた声が、届くなんて思わない。だけど呼ばずにいられなかった。 影を踏んでくれた和泉君を。金魚を放っておけと言ってくれた和泉君を。オバケに食べられそうなところを助けてくれた和泉君を。 そして和泉君は、本当に助けに来てくれた。 ばちんと、重いものを弾くような、思い切り引っぱたくような音がした。左側で髪を掴んでいた誰かが「ぎゃっ」と悲鳴を上げたかと思うと、痛みが半分消え去った。 また、ばちん、とひどい音。今度は悲鳴もなく、右から髪を引っ張っていた力が消えた。足下で、かさ、と乾いた音がした。
「死んでる奴が、生きとる奴にちょっかい出すなや」
聞こえたのは和泉君の声だった。 瞼越しに刺すような日差しを感じる。あっという間に空気は軽くなり、夏らしい熱を帯びた。目を開けると、目の前に和泉君がいて、その足下に紙が落ちていた。 細長い、短冊みたいな紙だった。古びて黄ばんだ短冊には、赤い墨で何かが書かれてる。私の目は、それを読めなかった。そもそもあれが字なのかもわからない。
「こんな明るい昼日中に、変なもんに襲われんなや」
呆れ返った和泉君の声は、いつもと変わらない。天気と相まって、ついさっきの出来事が嘘のようだった。 ああ、私、助かったんだ。 そう理解すると同時に、涙が出た。止めどなくこぼれる涙は頬を伝い、ぱたぱたと地面に吸い込まれていく。涙をいくつか見送った和泉君は、座ったままの私と目線を合わすようにしゃがみ込んだ。 和泉君はポケットからハンカチを出すと、ちょっと雑に、涙を拭ってくれた。ハンカチにはひよこの刺繍があった。妹さんのハンカチを間違えて持ってきたのかもしれない。和泉君に似合わない可愛らしさが、何だかおかしかった。
「可愛いハンカチ」
涙は止まらないのに、ふふっと噴き出してしまった。
「泣くか笑うかどっちかにせえ」
呆れながら、和泉君は怒らない。私の目からもう新しい涙が出ないのを見ると、「持っとけ」と私の手にハンカチを握らせた。
「そや、これも持っとけ」
ハンカチとは反対の手に握らされたのは、和泉君の足下に落ちているのと同じ紙。赤い墨で何かが書き込まれた短冊――お札だった。
「神さん直筆や。ないよかマシやろ」
神様が書いた、お札。神主さんやお坊さんじゃなく、神様の直筆。それって、もしかして……。
「これ……お金とか、取る?」 「誰が取るかい」
あほ、と言って、和泉君は私のおでこをぴしっと弾いた。「いたっ」と声を上げながら、私は自分が笑顔になっているのに気づく。
「和泉君に、でこぴんされちゃった」 「何喜んでんねん」
怒ってる顔とも呆れた顔とも違う、ちょっと気味悪がるような、引いた顔。和泉君がそういう顔をするのを、私は初めて見た。和泉君がでこぴんなんて小学生みたいなことをするところも、初めて見る。もしかしたらどっちも、私が初めて見た人だったりして。 和泉君の知らない一面を見てしまい、ついにこにこしてしまう。和泉君はそんな私を見て、おばけでも見るような顔をした。
「そんなに元気なら、さっさと教室戻んで」
ほら立て、と和泉君は私の手を取った。片手で軽々と立たされながら、私は中庭の土を踏みしめた。
「あいつら、えらい心配しとるわ」
和泉君の台詞を校庭するように、校舎のどこからか「まるきちぃ!」と私を呼ぶ声がした。「ほんとだ」と呟くと、和泉君は私の背中をぐいと押した。
「早よ安心させたれ」
押された勢いで、一歩、和泉君より前へ出てしまう。私はくるりと半回転して和泉君に向き直り、後ろを歩こうとする腕を取った。
「和泉君も一緒に!」
腕を引かれた和泉君は、一歩よろめいた。癖っ毛の下の目が丸くなり、それからまたいつものツリ目に戻る。
「しゃあないな」
そうぼやいた和泉君が、大きな一歩を踏み出し、私の隣に並ぶ。私たちは二人、灼熱の太陽から逃げるように校舎へ戻った。
和泉祐輔と不穏な町~団扇~
七月もまだ頭だというのに、ずいぶん暑い夜だった。今日は親が二人とも夜勤。自他共に認める兄馬鹿の俺が妹の珠恵を一人にするわけがない。 食事から風呂、寝かしつけまで済ませたら、予習復習課題が待っている。昼休みに頑張っておくべきだったかと後悔していたら、襖で隔てた隣の部屋から、珠恵の唸り声がした。
「あついぃ」
小一時間前に寝かしつけたはずの珠恵が、すぱんと襖を開けた。
「にーちゃ、あつい!」 「うんうん、聞こえとるで。暑いかぁ。エアコン入れてんねんけどなぁ」
冷房の温度は28度。1度くらいならいいかと下げるが、珠恵にはまだ暑そうだ。甚平を着せてやるべきだったかと、もう一度着替えさせてみる。少しは涼しくなったようだが、珠恵がすぐに寝付く気配はなかった。
「はらまき、とったあかん?」
桜色の腹巻きを、紅葉みたいな小さな手がぐいぐいと引っ張る。「あかんあかん」と優しく宥めながら、俺は珠恵にタオルケットを掛け直した。
「腹巻きしとかんとなぁ、ぽんぽん痛なんで」 「どんくらい?」 「へそが取れるくらい」 「いやー!」
けたけた笑った珠恵は、腹巻きを引っ張るのをやめた。素直な妹で助かる。
「まだ暑いか?」 「あちゅーい」 「寝るまで兄ちゃんが扇いでたるから、もうちょい我慢しぃ」 「えぇー。しょがないなぁ」
頬を膨らませながら、大人のようなことを言う。いつの間にやらそんな台詞を覚えるほど成長したことに、まるで親のような喜びを感じる。 部屋から団扇を取ってきて、珠恵の横に転がりながら、はたはたと扇ぐ。珠恵は面白がって、「しらはどり!」と言って団扇を止めようとする。これも保育園で覚えたんだろう。 可愛い妹といえど、我が必殺の団扇を止めることは許されない。涙を呑み、断腸の思いで、可愛い珠恵の可愛い鼻先を団扇でぺしぺしとくすぐる。珠恵は笑い転げ、何度も団扇を白刃取りしてみせた。
「にーちゃ、おはなししてー」
笑い疲れた珠恵が、珍しいおねだりをした。叶えてやれるものなら叶えてやりたいが、俺は読み聞かせが苦手だった。昔話なら読んでやれる。だが子供向けとして作られた話は、居心地の悪さを感じてしまう。 扇ぐ手を止め、「うーん」とわざとらしく悩む。
「にーちゃん、お話苦手やねん。怖い話でもええか? 影が逃げてく話」 「やっ!」 「せやなぁ、いややなぁ」
ほかに注意を逸らせなければ、珠恵はいつまでも寝ない。仕方ないかと、俺は適当な話をでっち上げた。
「昔々、あるところに……」
どこかで聞いたような、でたらめな昔話だ。それでも珠恵は喜び、相づちを打ち、ときに突っ込む。その間隔は徐々に空き、欠伸が混じるようになった。
「めでたし、めでたし」
こんな言葉で締めくくる頃には、すやすやと健康的な寝息が聞こえていた。部屋の温度はさほど涼しくない。もう少し扇いでてやるかと、俺は団扇を扇ぎ続けた。 寝苦しい夜のたび、自分が扇がれる側だった夜を思い出す。今は亡き母が、月明かりに青白い腕を浮かび上がらせながら、蛍の描かれた団扇を振っていた。
「ゆーちゃんは、大きぃなったらどんな人になるんやろなぁ」
俺とは似ても似つかん優しい目が、俺を見ていた。その眼差しのありがたさを知らなかった俺は、難しい顔をして「わからん」と答えた。
「おかーちゃんは、どんなおとなになってほしい?」 「せやなぁ。体が丈夫で、優しい人になってくれたら、そんでええなぁ」 「そんなんでええの?」
あの頃、まだ幼稚園に通っていた幼い俺は、母の希望をほぼ叶えていた。風邪も引かない丈夫な体。いじめっ子を張り飛ばすくらいの正義感と優しさ。首を傾げる俺に、母は愛しげな眼差しでうなずいた。
「そのまんま、大人になって。お金持ちやなくていいの。立派でなくていいの。毎日元気に、いろんな人と仲良ぉしてくれたらええなぁ」
仲良く、というのは少し難しかった。当時の俺は時々、周りの子から嘘つき扱いをされていた。俺の目は、ほかの子と違うものが見えたから。 『ゆーすけくん、だれもおらんとこでしゃべってる』 『なぁんもないとこに、おばけがおるってゆうてる』 嘘なんか言ってなかった。ほかの子と自分が違うものを見えることを、理解できていなかった。 黙り込んだ俺を、母は優しく抱き寄せた。
「ゆーちゃんは優しい子やから、困ってる人を助けてあげるんよ。誰かを助けて、誰かに助けてもろて、そうやって生きていってなぁ、ゆーちゃん」
このとき俺は、素直にうなずけただろうか。生意気に首を振っただろうか。思い出せない。思い出せないのに、母の生ぬるい体温と、虫の鳴く声だけはハッキリと思い出せた。 母が死んだのは、それから程なくしてだった。元々体が弱い人だった。俺を迎えに来た夏の日差しの下、急に胸元を押さえたかと思うと、病院にかかる間もなく、呆気なく死んだ。ほかの保護者や保育士が慌ただしく動く中、母が寝てるだけだと思い、何度も何度も「おかあちゃん」と呼び、揺さぶっていた。 眠れない夜のたび、母の不在を思い知らされた。父が俺を見ようとしない現実を突きつけられた。扇風機の風に頬を撫でられながら、ぼんやりとしか見えない天井板を見つめ続けた。 『誰かを助けて、誰かに助けてもろて、そうやって生きていってなぁ』 「……おれなんか、だぁれも助けてくれへんわ」
声に出し一人で泣いたあの夜、俺はいくつだっただろう。
「にーちゃ」
我に返り、思い出さなくていい記憶を意識の外へ閉め出す。珠恵はいい夢でも見ているのか、ごろりと寝返りを打つと、うふふぅと笑った。扇いでやっているが、まだ暑いらしい。短い足が何度も動き、タオルケットを蹴飛ばす。仕方ないなと、足を少し出してやった。
「……体の丈夫さだけは、おとんに似てくれよ、たま」
返事のように、珠恵は「んー」と唸った。頬が緩むのを感じながら、俺は珠恵を起こさないよう、静かに自室へ引き上げた。
丸木千穂と不穏な町~クラゲ~
寝苦しい夜が明けた。「いってきます」と家を出て、いつもの道を歩く。和泉君と帰ることはあっても、朝から一緒に歩くことはない、いつもの道。和泉君と家が近かったらなぁなんて思いながら、畑と家に挟まれた田舎道を歩く。 家から一つ、二つ、三つの辻を越えたとき。四つ目の辻から、背の高い人影が出てきた。少し猫背気味になっていたけれど、私の目はそれが和泉君だとわかった。
「おはよう!」
とっさに、大きな声が出た。和泉君は眠そうな顔をこちらに向けて、短く「お」とうなずいた。和泉君も、昨日は寝苦しかったのかな。 私と和泉君はそのまま、一緒に登校することになった。
「和泉君、この道通るんだね」 「用があったから、たまたまや」
素っ気ない返事でも、嬉しくなる。和泉君と一緒に歩けたらいいなって考えていたけれど、まさか叶うなんて思わなかった。このまま時間が止まって、ずっと一緒に歩いていられたらいいのに。……そんなことになったら、私の体力じゃすぐ倒れちゃうだろうなぁ。 昨日は暑かったね。今日は現代文で当てられちゃう日だね。今日のお弁当はちょっと凝ってるんだよ。和泉君は今日バイトあるの? 和泉君の返事は短い。だけど「たまも寝付けんかったわ」や「適当言えば当たるやろ」みたいに、聞いた上でちゃんと返してくれる。面倒くさそうな声なのに、そっけないのに、和泉君はしっかり私の話に耳を傾けてくれている。このギャップが嬉しいから、私は和泉君に話しかけるのをやめられないのかもしれない。 気づけば私たちは、大きな川に架かる橋まで来ていた。学校に行くには、この橋を渡る必要がある。初めて端を渡ったときは、橋下を流れる川との距離に目眩を覚えたものだった。今では慣れて、目眩は起きないけれど。 何気なく欄干から川を見て、私は「あれ」と声が出た。 川の真ん中に、大きなクラゲが浮かんでる。クラゲが一カ所に浮かんでいられるほど、川の流れは穏やかじゃない。 立ち止まり、クラゲを凝視する。どれだけ見つめても、クラゲは消えない。見間違いじゃない。 私が立ち止まったことに気づいて、数歩先に進んだ和泉君が「どした」と立ち止まった。私はクラゲを指差し、「クラゲがいるの」と和泉君を振り返った。
「あそこに、クラゲが」
そう言ってまた川面へ目を戻すと、クラゲどころか魚の影すら見えなかった。
「あれぇ?」
首を傾げる私の隣に、和泉君がやってくる。同じように川を見下ろした和泉君は、難しい顔をした。けれどすぐ眠たげな顔になって、川を見るのをやめてしまった。
「気にすな。気にすると寄ってくんで」 「寄ってくるの?」 「こっから見えるようなでっかいクラゲ、川におるわけないやろ。忘れえ」
和泉君がそう言うなら、そうしたほうがいいんだろう。でも、あれは何だったんだろう。金魚はお祭りですくわれる金魚だとして……クラゲは? オバケに理由を、意味を求めるのは間違っているかもしれない。こうやって考えているから、ああいうものが寄ってくるのかもしれない。だけど、気にしないなんて私には難しい。 なるべく考えないようにしつつ、私は和泉君と一緒に学校に向かった。 そして、何事もなく一日を終えた放課後。私は一人で朝と同じ道を歩いていた。和泉君は昨日、バイトを休んだらしい。その分今日はたくさん働きたいから、掃除を終えるなり飛ぶように教室を出ていった。寂しいけれど、部活に入っていない私は一人で帰るほかない。怖い想像だけはしないようにしながら、家までの道をとぼとぼ歩く。 夕飯は何かな。手伝いが終わったら宿題をしなくちゃ。明後日のビデオ通話はお父さんも出てくれるといいな。再来週には夏休み、和泉君と会える日が減っちゃうな。夏期講習、和泉君も来ないかな。 そんなことを考えていたら、気づけばあの橋の上に来ていた。朝のクラゲを思い出し、恐る恐る欄干の下を覗き込む。 当然、クラゲなんかいない。あんな大きなクラゲ、海にしかいるはずない。ビニール袋か何かを、見間違えたんだ。きっとそう。 見間違いを受け入れるよう自分に言い聞かせ、私は小走りで橋を渡った。 その夜のこと。 明日の予習を終えて、もう寝ようかなと立ち上がったとき。ふと窓を見たら、カーテンの向こうがいつもより明るかった。時計を見ると、短針は10を示していた。近くに街灯もないのに、こんな明るさありえない。 何だろう、と小さくカーテンを開ける。隙間から見えたのは、やけに大きな青白い月だった。
「え?」
恐る恐る、カーテンを開ける。何度見ても、月は大きい。違う。大きいんじゃなくて、近づいてきてる。 どうして月が近づいてくるの? 何かの見間違い? 目をこすったり、頬をつねったりしているうちに、月はますます近づいた。大きな大きな月が近づいてきたと思ったら、その向こうにひらひらとたゆたう長いものが見えた。レースのようなそれを見て、ようやく何が近づいているのかわかった。
「そっか。クラゲって、海の月って書くんだっけ」
そうだったそうだった、と納得しながら、箪笥に向かう。中から薄い上着を出して、パジャマの上から羽織る。窓を振り返ると、クラゲはお行儀良く待っていた。 窓に手をかけ、からから小さな音を立てて開ける。窓枠に足をかけ、えい、と外へ出る。ぶよんぶよんとおかしな柔らかさが、私を受け止めた。
「行こっか、クラゲさん」
大きな大きなクラゲに乗って、私は何もかも青く見える夜の中へ泳ぎだした。
和泉祐輔と不穏な町~緑陰~
丸木が消えた。家から忽然と姿を消したらしい。丸木の家のじいさんばあさんを中心に、あの一帯は大騒ぎになっている。組の異なる我が家でも、父が仕事を休んで捜索に加わることになった。
「お前は学校行けよ、祐輔」
一緒に捜すつもりでいた俺は、釘を刺され捜索の輪から外された。大人たちの騒ぎように、珠恵が不安そうに俺たちを見る。母が「どうもしんよ」と安心させ、珠恵と一緒に保育園へ出勤した。 そして俺は、弁当を携え一人で登校し、丸木が消えた理由について考えていた。 窓が開いていたらしい。だが丸木の運動神経で窓から外へ出ることはまずありえない。何より、丸木の部屋は二階にあったそうだ。自分の意志で外へ出たとは考えにくい。丸木は妙なもの、悪いものを引き寄せる質だ。何かを引き寄せたのは確かだろう。
「クラゲが……何とか言うとったな」
登校中、川の中にクラゲを見たとか言っていた。橋の上から見えるほどの大きなクラゲ、いるはずがない。スマホで淡水に生きるクラゲを調べてから、俺は「よし」と空を見た。
「行くか、神社」
学校をサボり、神社に御座す神を働かせることにした。 学校と反対方向、どちらかといえば丸木の家がある方角。そこに、あの達筆な神がいる。石段を駆け上がり、鳥居をくぐる。境内には青々とした葉が茂る木々が、そよともいわず佇んでいた。 木々が作る影の中、一匹のぶち猫が朝からのんきに寝ている。その首根っこを掴んで、ぶらんとぶら下げた。
「丸木がおらん」 「いきなり何じゃ」
じたばたと暴れながら、猫が抗議する。「わしゃあ知らんぞ」と喚くが、別にこいつが犯人だとは思っていない。
「丸木がおらん」 「わしゃ知らんと言うて……」 「丸木が、おらん」 「あーあーわかったわかった!」
猫の足が俺の手を蹴り、思わず手を離す。きれいに着地した猫は、ぶちぶちと文句を言いながら俺を拝殿へ案内した。 猫が尻尾を一振りすれば、拝殿の扉が音もなく開き、その奥にある扉が鈍い音を立てて開いた。本殿に繋がる扉の向こう。そこには格子がはめ込まれ、筆を持つ神が座していた。 髭と髪の向こうで、穏やかな声が俺を褒める。
「札は渡したんだね。祐輔はお遣いのできる子だ」
俺の返事も待たず、神は筆を取り出した。穂先から、青い雫が滴り落ちる。
「水の怪が丸木の子を連れて行ったね。ああでも、心配はいらなさそうだ」
止めどなく滴る雫は瞬く間に床を覆い尽くした。床一面の深い青は水に変わり、水面に立っているような感覚に陥った。 いや、これは本当に水面なんだろう。水の中に、何かが見える。目を懲らすと、何かは影となり、徐々に形を浮き上がらせた。 それはゆらゆら揺れる、大きなクラゲだった。クラゲの上には、丸木が猫のように丸くなって眠っている。健やかな寝顔に、俺の肩から力が抜けた。
「こいつ……人の気も知らんと寝こけとるやんけ」
俺のぼやきに、神は当然といった様子でうなずく。
「そりゃあね。彼女にとって今はまだ、夜だから」 「どういうやつやねん、このクラゲ」 「明日が来なければいいと願うものが凝って、あの水の怪になったようだ。今なら、このまま引っ張り上げられそうだよ」
金魚すくいにでも誘うような調子で「やるかい」と言われ、大きなたも網を手渡された。持ち手も網も真っ黒なのは、この神が墨で描いて出したものだからだろう。断る理由はない。受け取ったたも網の持ち手を握り、クラゲのいる辺りに向かって差し込んだ。 さほど抵抗なく、網は水に潜っていった。しかしその後が大変だ。クラゲが動いていないから、中に流れなんかないように見える。ところがどうして、差し込んだたも網はあっという間に流れゆこうとする。うっかり手放しそうになり、齧り付くように握り直さなければならなかった。
「おいおい、あのクラゲどないなっとんねん……!」
俺の様子を見て、神は首を傾げたあと、「ああ、そうか」と手を打った。
「いやぁすまない。あのクラゲは明日が来なければいいと願い。あそこにとどまっている。時間の流れを無視しているんだ。これは祐輔といえど荷が重いかなぁ」 「重かろうがやるしかないやろがボケぇ……!」
柄を掴む手に、床を踏みしめる足に、力を込める。人でもない生きてもないやつに、好き勝手させてたまるか。とはいえ、人である俺には限界というものがある。クラゲのそばまで網を寄せられたが、それ以上がどうしても動かない。あとは、助ける本人の協力が必要だ。
「丸木、早よ起きろ!」
ここ最近一番の大きな声でマルキを呼ぶが、当人に起きる気配はない。気を抜けばすぐ流されそうになる網を、必死でクラゲのそばにとどめる。
「起きろ、網に飛び込め丸木!」
丸木の寝顔は健やかだ。いい夢でも見てるのか、珠恵のように穏やかな顔をしている。それが今は、腹が立って仕方ない。何回起きろと言わせるつもりか、この寝ぼすけは。
「起きろっつっとんねん、まるきちぃ!」
ぱちっと音が聞こえるような勢いで、丸木の目が開いた。その目が、真上にいる俺を見る。白い顔が、見る間に赤くなっていく。
「いっ……和泉君っ? 今、今っ」 「ごちゃごちゃ言うてる暇あったらぁ! 早う網に入れや!」 「網っ!? 網って、わぁクラゲ! ここどこ!?」 「マジで早よせぇ丸木、俺の腕がもげる。三つ数える間に網に入らんかったらもう知らん」 「ええっ!?」
一つ、と数えたそばから丸木は「わぁ!」と叫んで網に飛び込んだ。丸木が入ったたも網を、仰け反るように持ち上げる。水中から飛び出した丸木は水の一滴も身につけず、薄暗い拝殿の床に転がり出た。 俺と丸木、それぞれが違う格好で床に倒れ込む。途端に床一面の青は消え、拝殿の中にいるのは俺と丸木のみになった。 本殿への扉は閉められ、中にいるあの神は見えなくなっている。何も知らない丸木だけが、何が起きたか理解できずきょろきょろと辺りを見回していた。見回した程度で、ここで起きた出来事がわかるはずもない。丸木は助けを求めるように俺を見た。 どう説明してやればいいか。いや、そもそも説明するべきなのか。 どうするのが正解かわからない俺は、起き上がりながら丸木に手を差し伸べた。
「とりあえず……帰んで、丸木」 「う、うん」
手を掴んだ丸木を立ち上がらせ、拝殿の外へ出る。外は嫌になるほど晴れていた。
「丸木のじーさんらが心配してたわ」 「えっ、どうして?」 「朝起きたら可愛い孫娘が消えてんねんぞ。ほら心配するわ」 「かわっ……!?」 「いや今のは俺の意見ちゃうわ。何赤なっとんねん」
ぺし、と肩をはたくと、丸木は「そっか……」と肩を落とした。素直すぎる反応に、つい小さく噴きだしてしまう。すると丸木の目が、まん丸になった。
「和泉君、笑うんだね」 「……俺かて人間やからな」
きらきらした目と、嬉しそうな声。噴き出した程度で喜ばれると、笑ってしまったことが恥ずかしくなる。
「ええから早よ帰んで」 「うんっ」
のんきに笑う丸木は知らないだろう。 自分を捜す捜索隊がいること。突然消えた理由をしつこく尋ねられること。学校をサボった俺がこってり絞られること。 サボりの俺と消えた丸木は、二人並べて叱られ絞られることになる。ふて腐れる俺の横で、丸木はきっと、しゅんとしょげて自分が悪くもないのに反省する。その様を想像し、今度は丸木に気取られないよう、俺はこっそり、静かに笑った。
後書き
元々「超シスコン霊感兄ちゃんのお祓いあり甘酸っぱさありの高校生活書こ!」と思って練っておいたキャラクターたちです。長編になるよなぁ、長編向けだよなぁと思いつつ、エピソードが全然思いつかなくてああでもないこうでもないとメモをこねくり回す日々……。そんなときに企画を知り、このキャラクターたちで11日間書きました。30日続けるものだったんですけど11日で一区切りついちゃったので一先ずここまで。いつかちゃんと本編を、しっかり本編を書きたいな……って思ってます。