私は黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたものが好きだ。好きになったのは、三歳の頃からだと記憶している。 同好の士を見つけたことはなかったけれど、理解を示してくれる人はいる。両親なんて、その最たる例だ。 同士ではないものの、同級生や学校外の知らない人が時々、私が好きそうだからと黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたものに近い存在を教えてくれることもあった。見せてもらったり見にいったりしたものの大半はまったく違うもので、私ががっかりすることは少なくない。だがごく稀に、理想と差の少ないものが見つかる。 初めて見せてもらった生きた蛸の質感は、理想そのものだった。色と形さえ合致していれば、私は蛸を家まで持ち帰ったかもしれない。 黒くて丸いものは、例えばヒメカツオブシムシなんかは理想に近い。コガネムシもいい線だった。でも、大きさが足りない。もっと、私が抱える必要のある大きさがいい。それに、黒くて丸いものの大半は質感が硬質だ。あれでは理想にほど遠い。 教えられた黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたものが理想とまったく異なるものだった日は、がっかりしながら家路を帰る。 帰宅した私は、しょんぼりしながら荷物を下ろす。そして部屋の真ん中、机の上に鎮座する真四角の木箱に「今日も黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたものはなかったよ」と話しかける。 木箱の中からは返事のように、ぺた、と微かな音がする。三歳の頃に出会った〝あれ〟は、私には優しい。言葉こそ発さないものの、こうやって返事をして、慰めてくれる。 そうあれは、小学生の頃だっただろうか。ランドセルを背負っていたから間違いないだろう。転校生のえみちゃんが、私の好きなものに反応したのだ。
「私もそれ、好きだわ! 気が合いそうね。友達になりましょ!」
えみちゃんは、一人だけランドセルの色が違って、いつも高価なアイドルグッズをぶら下げていて、声が大きくて、貧乏で根暗で大人しい私とは正反対の子だった。そんなえみちゃんが私と同じものを好きだなんて信じられなかったけれど、話してみると意外に造詣が深い。 今まで黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたものを好きだと打ち明けた相手は、ぶよぶよのあたりで顔を引きつらせた。けれどえみちゃんは、ぶよぶよの面白さ、ぬるぬるの心地よさ、ねばねばの神秘について同意し、時に熱く語ってくれた。 初めて、同士を得られたと思った。 だから私はえみちゃんと待ち合わせをした公園に、あの木箱を持っていった。黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばする〝あれ〟が入った木箱を抱え、ヒグラシの鳴く夕暮れ、息を切らせ公園に走った。 えみちゃんを喜ばせたかった。 理想通りのものがここにいるよと教えたかった。 黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばした〝これ〟を見て、目を輝かせてくれると思った。 この黒さを、丸さを、ぶよぶよした感触を、ぬるぬるした手触りを、ねばねばする粘液を、受け入れてくれると思った。 なのに、えみちゃんは。
「きもちわるい」
そう言って、鼻を摘まんで、一目散に公園から出ていった。残された私は、ぽつんと立ち尽くすほかなかった。 蓋を開けた木箱の中で、黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたものが、気遣わしげに私を見上げる。ぶるりと震え心配を露わにする〝これ〟に、私は「大丈夫だよ」と微笑みかけた。 そっと、蓋を閉める。 行きとは反対に、帰りはとぼとぼと、自分の影を見つめ歩いた。 家に帰り、自分の部屋に行き、勉強机に木箱を置いて――私は少しだけ、泣いた。 悲しみは、一晩と続かなかった。湧き上がるのは裏切られた怒りだった。とっておきの宝物を否定された怒りだった。 その怒りも、五分と保てなかった。 次に湧いたのはさて何だったのか。今の私は、あれを義務感だと定義する。 あれからえみちゃんは、私とめっきり遊ばなくなった。それどころか、話しかけもしない。顔を見てもぷいと逸らしてしまう。放課後はいつも、アイドル好きの女の子たちと運動場で語らうようになった。
だから私は、えみちゃんが知らないうちに、えみちゃんの家に行った。あの木箱を抱えて。
えみちゃんの家は大きな家だった。お父さんが社長さんで、とてもお金持ちらしい。この家も、奥さんとえみちゃんの希望をたくさん取り入れて建てられたそうだ。 私が忍び込む隙なんてないけれど、木箱の中の〝これ〟には関係ない。開けられる気配のない門の前で、うごめく〝それ〟の入った木箱をそっと傾ける。〝それ〟はでろりどろりと流れ出て、するんと木箱から出た。体を震わせ地面を這いずり、〝それ〟はゆっくり敷地内を横断した。 目指すのはえみちゃんの家の中。そして〝あれ〟は、ほんの小さな隙間から家の中に入り込む。薄く薄く伸びて、家中に広がって、えみちゃんの家族が寝静まるのを待つ。寝静まった一人ひとりに、薄く薄く伸ばした体をそろりと近づける。耳から、鼻から、口から、体の中に入ってく。そうやって、黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたものの良さを教える。 それが、〝あれ〟のやり口だ。 終われば〝あれ〟は、勝手に帰ってくるだろう。初めて〝あれ〟と出会った日のことを思い出しながら、私は空の木箱を抱え家路に就いた。 〝あれ〟と出会ったのは三歳のときの春の夜。 夕飯を残して家の外に放り出されていた私は、生ぬるい風に混じる甘い匂いを感じながら空を見上げていた。そのとき、星空に真っ黒な穴が開いたのを見た。それは落ちてきた〝あれ〟だった。 黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばした〝あれ〟は、星が瞬く空から落ちてきたものだった。 落ちてきた〝あれ〟は私の方へ這ってきた。〝あれ〟は黒いし、丸いし、ぶよぶよしているし、ぬるぬるしているし、ねばねばしているし、何より臭かった。どんなにおいが近いか、表現することは難しい。例えられるほど、私は多くのものを知らない。伝えられるのは、その悪臭を嗅いだ瞬間、脳味噌まで殴られたような感覚に陥ったことだけだ。 そうやって脳を殴られたから、私は黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたものが好きになったのかもしれない。私は黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばした〝あれ〟に「おいで」と腕を広げた。〝あれ〟はうぞうぞと這って、私の腕の中に収まった。 私がまだ外にいることを思い出した両親が、私を中に入れるため玄関のドアを開けた。二人は私が腕に抱く黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたものを見るなり、金切り声を上げた。同時に腕の中の黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたものは勢いよく体を伸ばし、二人に飛びついた。 飛びつかれた二人は腕を振り回し、耳から、鼻から、口から侵入しようとする黒くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばした薄い触手を振り払おうとする。だけど抵抗も空しく、二人はすぐに静かになった。そして黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばした〝あれ〟がぽとりと地面に落ちたときには、すっかり黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたものの虜になっていた。 この日から、私の家では黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばした謎の生き物との共同生活が始まった。木箱はこの謎の生き物の寝床にと用意したものだった。最初は毛布やタオルを敷いていたけれど、黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたこの生き物はどちらも嫌いらしく、気づけばいつも木箱の外に捨てていた。 黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばした生き物が入った木箱は、いつも私の部屋にある。空から落ちてきたこの謎の生き物は、父でもなく母でもなく、ほかの誰でもなく、私のそばを選んでくれたらしい。私はそれが、誇らしかった。 えみちゃんちに放した翌朝。 目を覚まし着替えようとして、机の上の木箱の蓋が閉じられていることに気づいた。昨日の夜は、確かに蓋を開けておいた。もう帰ってきたのか、と驚きながらそっと蓋を開ける。 中にはやっぱり、黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばしたあの生き物がいた。疲れてるの、と言わんばかりに黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばした体がぶるんと震える。
「ごめんね」と謝って、慌てて蓋を閉めた。それからそっと、静かに「おかえり」と声をかける。中からは、挨拶のようにぺとりと濡れた音が聞こえた。 さてそれからえみちゃんがどうなったか。 あれから十年が過ぎたけれど、えみちゃんとの付き合いは今も続いている――と言えば察してもらえるだろう。「きもちわるい」と鼻を摘まんでいたえみちゃんも、今ではこの黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばした〝これ〟がなくては生きていけない。両親もそうだ。 私は――私は。
「離れるなんて、考えたこともなかったな」
木箱の蓋を撫で、呟く。 中でうずくまっている黒くて丸くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばした《《友人》》は、蓋から少しだけ体をはみ出させた。黒くてぶよぶよしてぬるぬるしてねばねばする体が、私の指に絡む。向こうも同じ気持ちだと知って安心した私は、指に絡む異形に微笑んだ。