目次
冒涜コラージュ・改
そこは暖かな暗闇だった。悪臭と湿気に満ち、人であれば五分と滞在できない空間だった。そんな暗闇に、少女の声が反響する。
「ねえ、カナエ? こんな話、アナタは知ってる?」
小鳥が囀るような美しい声で尋ねられているのに、カナエと呼ばれた相手からの返事はない。暗闇に、問いを発した少女の含み笑いが響く。声はあちこちに反響し、まるで暗闇そのものが少女のようだ。 ひとしきりおかしそうに笑っていた少女は、「知らないでしょう」と〝カナエ〟に語りかけた。
「知らなくて正解よ。知るはずないもの。だからワタシが話してあげるわ。これはね、とある生き物の話よ」
仔猫がミルクをねだるような愛くるしい声で、少女はカナエが知らないであろう生物について語り出した。それはおぞましく、醜く、地球に生きる生き物は皆遭遇したくないものだった。
***
――ぶよぶよして、ねばねばした体表。体色はあらゆる色を混ぜたような気味の悪い黒。それがこの生き物の特徴よ。
ちゃんと生きてるの。だってその生き物は、遙か彼方からこの星に産み落とされたんだもの。産まれさせられたなら、立派な生き物よ。そうでしょう? その生き物は目も耳も鼻も口も見当たらなかったけれど、間違いなく生き物。手も足も尻尾もない。でもこの生き物は動けたわ。体の表面をぐよぐよと蠢かせて、這いずり回って移動していたの。 この生き物の外見は、〝冒涜的〟と表すのが適当らしいわ。この星の生き物は、その生き物を見ると敵意を抱かずにいられないの。冒涜的異臭を放つ相手を、敵と見做さずにいられないわよね。
牙を持つ獣は噛みついて、爪を持つ獣は引っ掻いて、この星の生き物は、己が持つあらゆる武器を以てその生き物を傷つけたわ。 傷つけられた生き物は、いつも逃げ出してた。戦うための武器は何一つ持っていなかったから。いつもいつも、この星の生き物にとっては奇妙で不快で不気味で冒涜的な泣き声を上げて逃げ出してたの。鳴き声じゃないわ。泣き声よ。その生き物はね、泣いてたの。痛くて苦しくて、人間の赤ん坊のように泣いてたわ。 怪我を負わされたその生き物は、どろどろして悪臭を放っていて虹色に輝く黒色の体液を流して逃げてた。その体液を浴びた獣たちは、自分の舌を噛みちぎったり、自分の体を食い破ったり、被った体液を落とすために水に沈んでそれきりになったりして死んでいったわ。逃げるのに必死だったから、当時のその生き物は、自分を傷つけた者たちの末路なんて知らなかった。傷つけられるだけ傷つけられて、ただただ怯えながら逃げて、泣いて、隠れて暮らしてたの。
その生き物はね、姿を見られては敵意を向けられていたから、食べるものは何にも口にできなかった。精々が泥水を啜っていたくらいね。でも不思議なことに、飲まず食わずでいても、その生き物はたちまちのうちに死んでしまうことはなかったわ。だからって、食べ物が不要ってわけでもなかったけれど。 その生き物は日を追うごとに弱っていったわ。日に日に這う速度は遅くなり、泣き声も弱々しくなっていった。その生き物は、緩やかに死を迎えつつあったの。 忍び寄る死の速度はその生き物が這うよりも遅くって、とても残酷だったわ。お陰でその生き物は何年も何年も生き延びて、人に見つかるほど長く生き延びてしまった。
初めてその生き物を見つけたのは、ランドセルを背負った三人の子供だったわ。小学校の帰り道に、国道脇のガードレール下でうずくまっているその生き物を見つけてしまったの。 運の悪いことに、彼らはいじめっ子と呼ばれる集まりだった。 いじめっ子たちはその生き物を、一目見て醜悪で愚鈍な生き物と見做したわ。正解だけど、腹が立つわよね。弱者をいたぶる者って、どうしてあんなに察しがいいのかしら。弱者って、弱いにおいでもするのかしらね?
一人がニヤニヤと笑って、一緒に歩いていた二人に石や枝を拾うよう言ったわ。それだけで二人は彼の意図を理解して、同じようにニヤニヤ笑いながら、よく尖った枝や、なるべく重く大きい石を拾った。子供って本当に残酷。ぞっとするわ。 彼らは動く力もなくなったその生き物を石で潰して、虹色に輝き悪臭を放つどろどろした体液を止めどなく流させた。その生き物はもう泣く力も残ってなかった。弱り切った可哀想な生き物を、いじめっ子たちは不快で冒涜的な体液を浴びながら、金切り声を上げて責め苛んだ。 そこを通りがかったのが、いじめっ子たちと同じくらいの年頃に見える女の子だった。その子は目を丸くして足を止め、彼らが突き刺し潰して遊ぶ対象を見たわ。そしてそれが冒涜的外見の生き物だと知るなり、彼女は丸い目をキッと吊り上げ突進していったの。
「何してるの、こんな子いじめて!」
度を超した攻撃性を見せるいじめっ子たちにこんなこと言えるなんて、とても勇敢よね。いじめっ子たちは自分たちの邪魔をするその女の子に、ゆっくり顔を向けたわ。その顔はもう人と呼べないほどに憎悪や敵意に溢れていたけれど、その子はまだ、醜い感情なんてわからなかったはずだわ。 それでも彼らが相当頭に血を上らせてるって理解できたみたい。いじめっ子たちは彼女にも枝の先や重い石を向けようとした。けれど彼女はそれらを掻い潜って、息絶えようとしている生き物に駆け寄ったの。
「怖くないよ」
耳もないその生き物は、確かに、彼女の優しい声を聞いた。女の子は体液に塗れて悪臭を放つその生き物を、ためらいなく自分の胸に抱えたの。いじめっ子たちは自分たちから〝おもちゃ〟を取り上げようとするその子を許さなかったわ。女の子を取り囲んで、女の子も〝おもちゃ〟にしようとしたわ。 さて、クイズよカナエ。この子はどうやってこのピンチを切り抜けたと思う? アナタだって知ってるわ。きっと答えられる。三秒待ってあげるから答えて。
……時間切れ。教えてあげるわ。その女の子はね、いじめっ子に体当たりをして転ばせて、その隙に逃げたの。女の子は生き物を助け出すことにも、自分の命の危機から脱することにも成功したのよ。 その転んだいじめっ子が代わりの〝おもちゃ〟になったから助かった、とも言えるんだけどね。ほかの二人は地面に転がった友人をすぐさま弱者と見做して、手にした枝や石を使って湧き上がる怒りや衝動を発散したわ。もちろん、転んだ子も抵抗した。
彼らは互いに互いを傷つけ合って、自らをも傷つけた。女の子は振り向きもしなかったから、代わりにその生き物が彼らの最期を見届けた。金切り声を上げて傷つけ合ういじめっ子たちを、存在しない目で見ていたわ。 反対に、女の子は腕の中の生き物しか見ていなかった。大きくて丸い目は、真剣な輝きを冒涜的で醜悪な生き物に向けていたの。「大丈夫だよ」って、優しい声をかけ続けてくれたわ。
「大丈夫だよ、大丈夫だからね。ひどいことされたね。かわいそうにね。かわいそうに」
敵意や害意以外の感情を向けられるなんて、その生き物には初めての経験だったわ。自分に優しい声をかけてくれて、守るため動いてくれて、安全な場所まで走ってくれていることは、理解できた。でも、信じられなかった。 女の子のあたたかく柔らかい腕に守られながら、その生き物は声も上げずに泣いたわ。透明な涙は出なかったけど、周りの生き物を狂わせる体液は滲まなかったけれど、不快な声は出なかったけれど、その生き物は確かに泣いたの。そうとは知らず、女の子は一生懸命に走っていたわ。
それから家に帰った女の子は、この生き物をどうするか悩んだ。とりあえずと自分の部屋へ連れて行って、親に見つからないよう、段ボールと毛布で仮の寝床を作ってあげたの。優しい子よね。 柔らかな毛布の上に下ろされてしまって、その生き物は慌てたわ。女の子と出会って少ししかたっていないのに、もうこの子が大好きになっていたの。置いてかれると思って、ぶよぶよしてねばねばして虹色の光沢を放つ体を伸ばして、女の子の手に絡みついた。この生き物は言葉を持たなかったから、そうやって寂しさを伝えるしかなかったのよ。
女の子は粘つきながら伸びるその生き物の体を不思議そうに見ながら、「怖がらなくていいよ」と撫でてあげた。優しく撫でられるなんて、もちろん初めてだったわ。その感触の心地よさといったら、ねえ、カナエ。想像してみて。痛みしか知らなかったのに、突然そんな優しさを与えられたら――アナタなら、どうなっていたかしら。 その生き物はね、ぶるりと体を震わせたの。それからもっと、もっともっと撫でられたいと思ったわ。でもさっき言ったように、その生き物は言葉を持たない。女の子にどう伝えればいいかわからなくて、もどかしさを抱えて女の子の手に絡むしかできなかった。
ねばねばしてどろどろしてぶよぶよした冒涜的外見の奇妙な生き物が腕にまとわりついても、女の子はちっとも嫌がりはしなかった。ただ、やっぱりこの生き物を不思議には思っていたみたい。 女の子は自分に絡みついてくる生き物の体を自分なりに調べてみたわ。遠慮がちに引っ張ってみたり、毛布の上にある体を引っ繰り返してみたり、あちこちまさぐってみたり。
結局、まだ小学生の彼女にこの生き物が何なのかはわからなかった。それでも優しいこの子は、生き物が怪我をしてるってわかってくれたわ。手当ての仕方は、わからなかったみたいだけれど。 悩んだ末、女の子は近所に住む頼ることにしたの。このお姉さんは獣医さんを目指していて、この生き物のことも知ってると思ったのね。当然、そのお姉さんにもこの生き物が何なのかはわからなかった。
女の子は冒涜的外見の生き物を段ボールに入れてお姉さんの家に行ったの。女の子がチャイムを押すと、疲れた顔の小母さんが応対してくれたわ。女の子の用を聞くと、「二階へどうぞ」とだけ言ってすぐ台所へ戻っていったけれど。それでも女の子は丁寧にお礼を言って、段ボールを抱えて慎重に階段を上がっていった。 小母さんの言うとおり、お姉さんは部屋で勉強机に向かっていた。女の子が呼びかけると、お姉さんはくるりと椅子を回転させて振り向いた。お姉さんの顔も、小母さん同様疲れていたわ。女の子はそれに気づかず、あの生き物がうずくまる段ボールをお姉さんに差し出した。
「この子ね、いじめられて怪我してるの。でも何の動物かわかんなくって」 「んん? 何連れてきたの」
人のいいお姉さんは、ずり落ちた眼鏡をペンで押し上げながら段ボールの中を覗き込んだ。そして、中にいるぶよぶよしてねばねばしてあらゆる色を混ぜたような気味の悪い黒色の生き物を見るなり、「くさっ!」と叫んで仰け反った。
「何これ、くさっ。何これ? 生き物? これが? んなわけないじゃん。これが生き物なら洗濯のりで作ったスライムも立派な生き物だわ。くっさ。こんなの生き物って呼ぶなんて地球上のあらゆる生命体に失礼。この世の生き物すべてに失礼」
失礼、失礼、失礼と繰り返すお姉さんは、手元を見もせず持っていたペンでノートに何かを書き殴り始めた。黒で書き殴られる文字とも呼べない意味不明の何かは、ノートに収まりきらず机にまで広がっていったわ。 お姉さんのただならぬ様子に、女の子は「ごめんなさい」と謝った。悪いのはお姉さんを狂わせる生き物で、女の子じゃないのにね。知らないから、自分の質問が悪いと思ったのかしら。本当にいい子よね。
女の子は、段ボールの中の生き物に「帰ろっか」と言ってお姉さんの家をそっと出ていったわ。女の子が外に出たとき、お姉さんがいる二階から金切り声が響いた。驚いた女の子は振り向いて二階を仰ぎ見たけれど、玄関からはお姉さんの部屋は見えななかったの。だから女の子は、お姉さんの金切り声を気にしないことにしたわ。段ボールをよいしょと抱え直して、ゆっくりした足取りで自宅へ歩き出した。その道中、女の子は優しい声で冒涜的外見の生き物に話しかけた。
「お姉ちゃんね、疲れてるの。じゅけんのいろーぜっていうんだって。すごく、すっごく難しい勉強してるの」
女の子は空を見て、うーん、と困り果てた声を出した。この生き物の怪我をどうするべきか、ない知識を使って一生懸命考えてくれたみたい。
「とりあえず家に帰って、お風呂でその黒いの流して、ご飯食べてからにしよっか」
帰宅してすぐ、女の子は黒くてねばねばしてぶよぶよしてどろどろしたこの生き物を風呂場へ連れて行った。 人肌に設定したシャワーで、女の子はこの体液を落とそうと試みた。彼女の努力に反し、虹色に輝く黒い体液は次から次へと溢れ出た。どれだけ流しても、落とし切ることはできなかった。その上、ひどい悪臭が浴室に充満した。 さすがの女の子もこれにはちょっと顔をしかめたわ。しょうがないわね。きっとこの子じゃなかったら、狂い死にするほどの悪臭だったもの。
浴室の窓を開けて換気しながら、女の子はこの冒涜的な生き物の体を洗い続けたわ。生き物はか細い声を上げて、慣れない温度に戸惑ってた。今までは冷たい水しか知らなかったから。 この変な温度の水を使って、虐げられるのかもしれない。この優しい女の子も、自分に敵意を持ったのかもしれない。 そう不安に思って、生き物はしくしくと泣いたわ。生き物が何か悲しんでると察したのか、女の子は「大丈夫だよ」と言って、ねばねばしてぶよぶよする不快な体表を撫でてくれた。
「怖くないよ。ちょっと洗ってるだけ」
それからちょっと考え込んで、女の子は「気にしないでね」と笑顔を見せた。
「私んちのばあちゃん、寝たきりなんだ。おむつ交換とか手伝うから、このくらい平気だよ」
女の子の気遣いは生き物の不安をまったく理解していないものだった。けれどその優しさは、冒涜的不快さを持つ生き物にも伝わった。生き物は泣くのをやめて、大人しく女の子に洗われていた。 撫でてもらうのも、優しい声をかけてもらうのも、初めてのことだった。初めてのことでも、その生き物は嬉しさを感じることができたわ。このままこの女の子といられたら――なんて、知性らしい知性もないのに考えることすらできた。 女の子は根気強く虹色に光る黒い体液と格闘していたけれど、体液が尽きるよりも彼女の体力が尽きるほうが早かった。女の子は体液を洗い落とすのを諦め、ずぶ濡れになったその生き物を抱いて脱衣場へ出た。バスタオル一枚が冒涜的体液でだめになったけれど、女の子は気にせず、体液の発生源を抱いて自分の部屋へ戻ったわ。
毛布を敷いた段ボールに下ろされ、その生き物はどろりと広がった。洗われる心地よさと、抱いて運ばれる心地よさに文字通り溶けてしまったの。自分がずいぶん気を抜いていることに気づいて、生き物は慌てて広がっていく体を縮こめたわ。 体を縮ませ固形を維持しながら、その生き物は目とも呼べない目で女の子を見上げた。見上げられているとも知らず、女の子はしばらく何やらぶつぶつ呟いていた。今までの動物みたいに、狂気に蝕まれていたわけじゃないの。ワタシ――いいえ、その生き物が何を食べるか、考えてくれていたみたい。女の子は何かひらめいた顔で目を輝かせると、「ご飯取ってくる!」と元気に部屋を飛び出して行ったわ。
女の子が部屋に持ち込んだのは、一口大に切ったバナナと何枚かのハムだった。薄い黄色と淡いピンクを手に乗せて、女の子は「食べれる?」と不安げに尋ねた。 女の子が差し出す食べ物を、その生き物は鼻とも呼べない鼻で匂いを嗅いだ。危険な香りはしなかった。
その生き物が初めて体に取り込んだのは、バナナだった。初めての食事とその甘さに、生き物は甲高い声を上げたわ。それは喜びの声だったけれど、ほかの生き物が聞いたら、不快で苛立ちを感じる耳障りな音にしか聞こえなかったでしょうね。 けれど女の子はにこにこ笑ったままで、不快な音を発した生き物が夢中でバナナを貪るのを見守っていたわ。 甘いバナナを食みながら、その生き物は考えたの。
どうしたら、自分に尽くしてくれるこの生き物に近づけるだろうって。 どうすれば、自分に食べ物を与えてくれるこの生き物と一緒にいられるだろうって。 どうすれば、自分に親のごとく愛を注いでくれるこの生き物と同じになれるだろうって。 どうすれば――この生き物とつがえるだろうって。
……カナエは、この生き物を不快に思った? こんな生き物がそんな思考を持つなんて、冒涜的だと思った? 教えて、カナエ。聞かせて、アナタの気持ちを。 ……教えてくれないのね。意地悪ね、カナエ。いいわ、続きを話してあげる。
その生き物はね、答えを知っていたの。教えられていなくとも、答えは本能として備わっていたわ。だからその生き物は、待った。待ったのよ、自分に体力と気力が戻るのを。 カナエに――ごめんなさい、間違えたわ。女の子に甘やかされ、庇護されて、その生き物はゆっくりと休養を取った。お陰で半月もしないうちに、いじめっ子たちに傷つけられた体が癒えたわ。そうして元気になった生き物は、女の子が目を離した隙を突いて、女の子の庇護下から出て行った。その生き物はもう、生まれ落ちたことに戸惑い泣いているだけの弱い生き物ではなくなっていたから。
女の子の元から離れた生き物は、人間物を観察し始めた。体を薄く薄く伸ばせば、あらゆる隙間に潜むことができた。それができると知ってから、この生き物が傷つけられることはなかった。隠れて、潜んで、その生き物は人間たちについて学んでいった。そして〝近づく〟機会を待っていた。 その生き物が女の子と同じ生き物になる第一歩は、唐突に訪れた。奇跡も偶然も、そういうものよね。何かしらの兆しなんてないものよ。
|細長い石造りの建物《とあるマンション》に潜んでいたその生き物は、重いものが水分を撒き散らしながら潰れる音を聞いたの。時間は夜明けだったかしら。薄く伸ばしていた体を戻して、その生き物は建物の外へ這い出た。
外では、あのときの女の子よりも少し年上に見える少女が、血や内臓を撒き散らかして死んでいたの。 死んでいるのは、その生き物が最近観察していた〝優れた個体〟だった。人の言葉を覚えたその生き物は、死んでいる個体がよく『|賢い《カシコイ》』と褒められているのを知っていた。|賢い《カシコイ》が何なのか、それを知りたければどうするべきかも知っていた。
――取り込め。食らい、啜り、飲み込んで、己のものとせよ。
本能か、産み落とした者からの命令かはわからない。けれどその生き物は命令通りに行動した。死んだ個体に近づいて、体を広げ、こぼれた脳をあっという間に取り込んだ。 こうして、この冒涜的な生き物は知性と|賢い《カシコイ》脳を手に入れたの。死んだ個体――受験ノイローゼで飛び降りた高校生の脳を手に入れてから、その生き物は次々にほしいものを取り込んだわ。
あるときはストーカーに絞殺されかけていた少女を救って、その優れた容姿を手に入れた。
あるときは小鳥のように愛らしい声で笑う少女を襲って、その愛くるしい声を手に入れた。
あるときは夢を胸に努力を重ねていた陸上部の少女を襲った不意の交通事故を利用して、そのしなやかな足を取り込みもした。
あるときは夜空いっぱいの星を見上げ星々に負けないほど目を輝かせる少女を襲い、きれいなものだけを映した瞳を手に入れた。
あるときは烏の濡れた羽のような美しい黒髪を持った少女に足下から忍び寄り、その髪を自分のものにしたわ。
あるときは愛しげに花を摘む少女の頭上に降り注ぎ、そのほっそりした白い手を自分の手にした。
取り込んだものは、その生き物の血となり肉となり、力となった。そしてその生き物は、〝ワタシ〟になったのよ。
つがいたかったのに、どうして少女の姿なのかって思ったでしょう。カナエは優しいけど、ちょっぴり意地悪なところがあるから、そう思ったでしょう。 思ってない? 嘘なんかつかなくていいわ。ワタシも正直、失敗したなって思ったもの。アナタのことを思うあまり、カナエに〝近い〟ものになりたいと思うあまり、性別まで近づけちゃった。そこは近づけちゃだめだったのね。でも、性別まで同じだからこそわかることもあると思うの。ワタシは、カナエに〝近い〟――いいえ、〝同じ〟になりたかった。
そんなワタシが見た目だけは人形のように完璧な美少女となったのは、カナエもご存じの通りよ。でもね、目に見える継ぎ目こそないものの、この体と心は継ぎ接ぎだらけなの。普通の人間なら、ワタシを見て違和を感じ害意を持ち、後に発狂してしまうわ。かつてワタシを虐げたいじめっ子たちのように。ワタシを診断したお姉さんのように。 不安だったわ。あのときの女の子は、発狂しないかしらって。ワタシの声を聞いて、敵意や害意を持たないかしらって。
――あの子が壊れる様は見たくないけれど、どうしてもあの子に会いたい。
結局ワタシは、どれだけ人に近づこうとも欲に忠実な〝動物〟のままだった。知性のかけらもなかった頃の記憶をたどり、カナエに拾われた場所まで行ったわ。そしてカナエの|家《スミカ》まで、記憶を辿り辿り足を伸ばした。 記憶そのままの家が見えて、私は物陰に隠れた。そうして、カナエが出てくるのを待った。元の体に戻れば、薄く伸びて家の中に入り込むこともできたわ。だけど、そのときのワタシは〝人〟としてカナエに会いたかった。
男の姿なら通報されてそうなほどの時間、カナエが現れるのを待ったわ。待ってる間、ワタシはとにかく不安だった。何が不安だったかなんて、言い切れないほどたくさんのことが不安だった。 あの子に会ったところで、どう声をかければいいのか。何から説明して、どうやって想いを伝えればいいのか。
ワタシの姿はずいぶん変わったし、取り込んだ人間がカナエよりも年嵩な子がほとんどだったものだから、カナエよりも大人に近かった。 こんな姿のままカナエと会っても、ただ戸惑わせてしまうだけ。それだけならいいわ。怖がられたり、嫌われたりしたら? そんなの、考えただけで今まで受けた傷が痛んでしまう。
あのぶよぶよしてねばねばして虹色に光る黒い体に戻ろうかしら。それともこのまま待っていようかしら。どうするべきかと悩んでるうちに、ワタシの耳に「いってきまぁす」と元気な声が聞こえた。カナエが住まうはずの家に意識を戻すと、ちょうどカナエが家から出てくるところだった。 ワタシね、アナタの前から姿を消して、それほど年月は過ぎていないと思っていたの。でもアナタは成長して、ワタシの今の姿と変わらないほどになっていた。嬉しくて震えたわ。ワタシ、アナタに近づけてたのね。
物陰でワタシが胸を撫で下ろしているとも知らず、カナエは紺色のセーラーをひらめかせて駆けていった。行かないで、と無意識に声が出そうになったのをすんでの所で飲み込んだわ。カナエの行動は、今まで見た個体と似ていたから。アナタが学校へ行くとわかったから、ワタシは静かにアナタを追いかけたわ。
カナエが向かった先は、入っていった建物は、|中学校《チュウガッコウ》と呼ばれる施設だった。思った通りだったことを喜び、ワタシはその場でどろりと溶けて、元の体に戻った。そして伸びて、薄くなって、中学校のあちこちに体を張り巡らせた。 床の隙間、壁の割れ目、窓の継ぎ目に滑り込み、静かにカナエの様子を窺ったわ。アナタを再び見たことで、ワタシの中に新たな欲が生まれてしまったの。
――ワタシ、アナタの特別になりたい。
その欲を満たすには、出会い方が普通じゃいけない。賢い脳がそう教えてくれる。〝ドラマ〟のある出会いじゃなきゃ、あの子の心は射止められない。
――〝ドラマ〟のある出会いのために、いつ、どうやってあの子の前に姿を現そう? いつ、あの子に声をかけよう? どんな格好であの子の前に出ればいいかしら?
そんなことばかり考えて、ワタシは隙間という隙間に潜んでいた。
数日かけて様子を探ったワタシは、カナエと関わりのなさそうな子供から制服を奪った。ああ、心配しないで。脱いだ服をロッカーとかいう箱に置きっぱなしにしてたからよ。着ている服を剥ぎ取るなんて乱暴な真似しないわ。ワタシ、アナタと〝同じ〟になったんだから。 制服をもらったのはね、この中学校内でアナタと会う前に、ほかの子供に姿を見てもらうため。フレアワンピースなんて着て校内にいたらおかしいでしょう? 知ってるのよ、ワタシ〝賢い〟から。
友達もいない、いつもひとりぼっちでいるような個体がワタシのターゲット。天敵から隠れるように人気のない廊下を歩く個体を見つけては、ワタシは人の姿を見せた。 思った通り、カナエと同じ年頃の子供たちは皆、継ぎ接ぎだらけのワタシの姿を見るなり例外なくひどく不快そうな顔をして、剥き出しの敵意を向けてきた。苦労して用意したこの体を、昔のように傷つけられちゃ困るわ。泡を飛ばし激昂する子供の目の前でどろりと溶けて、ワタシは隙間という隙間に逃げ込んだ。 後にこの中学校でワタシのことが怪談として語られるけれど、それはどうでもいいことね。
子供たちの反応は何度試しても同じだった。あの頃のワタシは隙間に潜みながら、途方に暮れたわ。カナエにまであんな攻撃的な顔をされたら、ワタシはもう、どんな生き物も好きになれないもの。 それにもう一つ問題があったの。カナエは誰にでも優しいから、いつだってそばに誰かがいた。アナタの隣は、いろんな人が代わる代わる歩いていた。
隣はワタシが立ちたいのに。 カナエの隣は、ワタシが歩きたいのに。 人間に生まれたってだけであの子の隣にいられるなんて、人間はずるいわ。ずるい。ずるい。本当に、ずるい。
……あ。油断するとすぐ体が溶けちゃう。だめね、一度諦めちゃうと。ふふ、あのときもそうだったわ。カナエの隣を歩く子供を見て、ワタシ、どろどろでぶよぶよの体をじゅくじゅくと泡立たせてた。嫉妬のあまり、体を元の形にすら維持できなくなってた。
せめてカナエが一人になれば、一人になってさえくれれば。
そう考えていた頃、ようやくワタシとカナエが出会える機会が訪れたの。それはアナタたちが、|放課後《ホウカゴ》と呼んでる時間だったわ。
ねえ、カナエ。覚えてる? アナタはあのとき、一人で廊下を歩いていたの。退屈そうに、時間を持て余しているように、校舎の中をふらふら歩いてた。 滅多とない機会にワタシがどれだけ喜んだか! 薄く伸ばしていた体を慌てて引き戻して、アナタの前へ現れるべく姿を整えたのよ。アナタの背後で継ぎ接ぎの〝美しい〟姿を作った。どこもおかしくないしらって、窓を鏡代わりに確認して、必要もないのに何度も酸素を吸って、吐いて、ようやくアナタに声をかけたの。
「ねえ」
振り向いたカナエを見て、ワタシ、泣きそうになったわ。ワタシを拾ってくれた頃は髪なんて短く切り揃えていたのに、あのときのアナタは長く伸ばして、編んで垂らしてた。姿は大人になりつつあったのに、アナタの笑顔はちっとも変わっていなかった。本当に、ほっとしたわ。
「なあに? 私?」
にこにこ笑って、アナタはワタシに近づいてきた。今までの子供たちはワタシを見て不快そうに顔を歪めて泡混じりにワタシを罵倒したけれど、カナエはそんなことしなかったわね。 思うのよ。カナエってきっと、純真で鈍感なんだわ。鈍感って、悪い意味じゃないの。悪意や敵意、害意に疎いという意味よ。アナタは優しさと善意しか持ち合わせていないのね。だから、歪で継ぎ接ぎだらけのワタシを見ても明るく笑っていてくれたのよ。
カナエが笑いかけてくれたのが嬉しくて、ワタシ、アナタに駆け寄りすぐ手を握ったわ。
「ワタシ、アナタとお友達になりたいの」
カナエのきょとんとした顔。今思い出してもとっても可愛いわ。まん丸の目を瞬かせたアナタは、すぐに眩しい笑顔を浮かべてワタシの手を握り返してくれたわね。あの手の温かさ、忘れられないわ。
「いいよ! 私、|叶惠《カナエ》。アナタは?」
名前なんて、ワタシにあるわけない。だからワタシ、あのとき名乗らずに微笑んだだけだったの。笑みを浮かべたまま「当ててみて」と頼んだのは、そういう理由だったのよ。
「カナエなら、きっと当てられるわ」
カナエがワタシの名前だと思い浮かべたものを、ワタシの名前にしようと思った。カナエがワタシに送ってくれた名前を、ワタシを表す記号にしようと思った。
本当に、カナエって素直すぎるほど素直よね。 答えなんかないのに、アナタは真剣に考えてくれた。考えるためにワタシの手を離して、その手をこめかみに当てて、うんうん唸りながら考えてくれた。 手が離れていく寂しさよりも、どんな名前をつけてもらえるかっていう楽しみが強かったわ。そうは見えなかったでしょう? 一生懸命、落ち着いた子を演じてたのよ。上手だったでしょう?
カナエが目を輝かせて名前をつけてくれたときも、本当はぴくりとも動かないつもりだったのよ。でもカナエがあんまり嬉しそうに笑うから、心も体も継ぎ接ぎだらけなのに、ワタシ、つられて笑ってしまったわ。
「サヤカちゃん、って感じがする。清いって字のサヤカちゃんか、彩りって字のサヤカちゃん。違う?」
どちらの名前も、カナエがつけてくれたなら素晴らしい名だわ。ワタシが「どっちか当ててみて」と促したとき、カナエ、本当に嬉しそうだったわね。「サヤカちゃんなのは合ってるんだ!」なんて、子供みたいにはしゃいで……ああ、そうだった。アナタまだ、子供だった。あんな風にはしゃぐのは、当然だったわ。
そんなことも忘れていたワタシは、「清い」「彩り」を何度も繰り返し呟いて考え込むカナエを微笑ましく見守った。 「うーん」と唸ったカナエは、「わかった!」と廊下に響く声でワタシの名を告げた。
「彩りのサヤカちゃん!」
カナエがそう感じたのなら、それが正解になる。 答えなんてなかったのに真剣に考えてくれたことが嬉しくて、ワタシはカナエに〝彩〟を選んだ理由を尋ねた。
「どうしてそう思ったの?」 「何だかね、いろんな色を持ってる感じがするから!」
あのときばかりは、鎮座すべき場所にあるのにろくに機能していない心臓が跳ねたのを感じたわ。 ねえ、カナエ。あれはワタシが継ぎ接ぎだらけだと見抜いてたの? それとも、ワタシの元の体のことを言っていたの? 教えてよ、カナエ。アナタはワタシのこと、からかってたの?
……答えてくれないのね。いいわ。話を続けるから、そのまま聞いて。 ワタシは動揺を気取られないよう努めながら、カナエの答えを受け入れた。
「すごいわね。正解よ」 「本当? やったぁ!」
あの瞬間から、ワタシはワタシであり、同時に|彩《サヤカ》になった。そして、カナエの友人の一人になった。 放課後の校舎で、一人でいるときしか会えない友達。誰かに話せば、幽霊か何かとしか思われないだろう友達。それでもカナエは、ワタシを人間の友人として扱ってくれた。それがどれだけ嬉しかったか、カナエはわからないでしょうね。わからないわ。わからないはずよ。
カナエと二人、部活に励む子供らの声を聞きながら静かな校舎をゆったり歩くのは楽しかった。 屋上で変わりゆく空の色を眺めながら、カナエの友達の話を聞くのは楽しかった。 誰もいない空き教室で席に着き、カナエの家庭の話を聞くのはこの上なく幸せだった。
幸せだったわ。カナエと記憶を共有することで、感情を共有することで、ワタシはアナタと〝同じ〟だと思えた。幸せだった。本当に、幸せだったの。 なのにその幸せを、カナエは何気ない一言で壊しちゃったわね。
あの日も、カナエは放課後に一人で歩いてた。あの頃のカナエは、放課後に一人でいることが増えていた気がする。あれは、ワタシに会いたかったからなの? それとも家に帰りたくなかった? 友達と話すのに疲れてた? 何にせよ、ワタシはカナエと二人きりになれて幸せだったわ。
静かな校舎を歩いて、最後の輝きを放つ夕日を眺めてた。窓枠に肘をつくカナエの隣で、ワタシは夕日を見るふりをしてカナエの横顔を見つめてた。人気のない校舎に二人きりでいると、世界で二人ぼっちになれた気がしたわ。 落ち行く赤の眩しさ。いつもならカナエは、「さびしいね」と言った。だからワタシは、あの眩しい赤を〝寂しい〟ものだと感じるようになった。カナエだって〝同じ〟だと思っていたのに、カナエ、アナタはこう言ったわね。
「私たち、今こうやって同じものを見てるけど……本当は、全然違うものに見えてるんだろうねぇ」
ワタシがどれだけ衝撃を受けたと思う? カナエがそばにいなければ、元の姿に戻ってしまいそうだったわ。それほどの衝撃を耐えても、後から深い悲しみが押し寄せた。何で、どうしてそんなこと言うのって、疑問ばかりが浮かんだわ。
だからあのとき、「どうして」って尋ねたワタシの声は震えていたでしょう? あのとき「ワタシもアナタも〝同じ〟でしょ?」と確かめた声は、泣きそうだったでしょう? 酸素なんか必要ないのに、ワタシ、うまく息が吸えなくて苦しかった。カナエがどうしてそんなこと言い出したのかわからなくて、何度も尋ねるしかできなかった。
カナエはワタシの悲しみも苦しみも知らず、残酷なほどあっさり首を振ったわね。
「同じじゃないよ」
あの台詞に、ワタシの心がどれほど切り裂かれたと思う?
「同じように思えても、同じじゃない」
その一言が、ワタシにどれほどの劣等感を抱かせたと思う?
「私が感じてることに同意してくれても、同じように感じてはない」
ええそうよ、ワタシはアナタと〝同じ〟ように感じているふりをしていただけよ。仕方ないじゃない、ワタシとアナタは〝違う〟生き物なんだから! カナエの残酷な言葉に傷ついて、ワタシは「逆もそう」と言う優しい声も理解できなかった。理解したくなかった。
「彩ちゃんが感じてることに私が同意しても、完全に同じ感じ方をしてるわけじゃないんだよ」 「そんな……」
ワタシは苦しくて、悲しくて、体がバラバラになりそうなのを必死で堪えながら、質問を繰り返すしかできなかった。
「そんな。だって、だったら、どうして、何で」 「私たちが見てるこの夕焼けも、同じ赤だけど違う赤なんだろうなぁ」
のんびりした口調で、カナエは頬杖をついた。隣にいるワタシがどんな気持ちでいるかもしらないで、カナエは頬をむにりと歪ませていた。
不思議だったわ。どうしてそんな残酷ことをそんな穏やかな顔で言えるのかしらって。どうしてそんなひどいこと、そんな穏やかな声で言えるのかしらって。 不思議がっていても、元々が空っぽなワタシの頭じゃ答えは出ない。わかったのは、ワタシがこの体を得てカナエに近づいたって、何の意味もなかったということだけだった。
だからワタシは、何もかも諦めちゃったの。
「それならもう、こんな体いらない」
ぼそりと呟いたとき、カナエがどんな顔をしていたか、ワタシはもう思い出せないわ。思い出せるのは、どろりと溶けて黒くて粘つく気味の悪い生物になっていくワタシを見て悲鳴を上げるカナエだけ。 その悲鳴ごと、ワタシはカナエを飲み込んだわ。どろどろ溶けて広がる体で、カナエの体を包み込んだわ。カナエのあらゆる隙間から奥へ奥へと入り込んで、カナエのすべてを包み込んだわ。
溶けながら、カナエを飲み込みながら、ワタシは廊下を這いずり校舎を出た。外へ出ると、面白いくらい次々悲鳴が上がったわ。ワタシの中にいても、それは聞こえていたでしょう? 有象無象に叫ばれようと、姿を見られようと、ワタシはもう意に介さなかった。一番ほしかったものを手に入れたから、もう隠れてる必要なんてなかった。 重い体を引きずって、校庭を横切り、道路へ出て、マンホールの蓋をゆっくり持ち上げた。取り込んだカナエが微かに暴れるのを感じながら、人間ならば一秒と耐えられない空間に、ワタシはどぽんと滑り落ちた。
***
「そうして、ワタシとアナタはここにいるのよ。わかった、カナエ?」
暗く、暖かく、異臭に満ちた空間に少女の声が響く。相変わらず、カナエと呼ばれる相手からの返答はない。それでも少女は気にせず話し続ける。
「それからワタシは、カナエを手に入れた喜びと安全な住み処を手に入れた安堵から、どろどろと溶け続けたわ。飲み込んだカナエをどうしようか、考え続けたわ」
――カナエの脳を取り込めば、同じになるかしら。同じ脳を持てば、同じ感じ方ができるはずよ。
「そう考えたけどやめたのよ。だってそうすると、二度とカナエに会えなくなるでしょ? それは、もったいないもの」
うふふと笑って、少女は〝もったいない〟と言った。会えなくなることが悲しいのではなく、もったいないと。 自分でもその表現に気づいたのだろう。少女は今までのように語りかけるのでなく、独り言のように呟きだした。
「そう……もったいない。もったいないわ。せっかく手に入れたのに、すぐ食べてしまうなんてもったいない」 「楽しみは残しておかなきゃ」と、歌うように少女は言う。
「カナエを食べるのは、いつだってできるわ。カナエが死んでからだっていいもの。それより今は、こうやってカナエを独り占めできる幸せに浸っていたい。カナエ、カナエ。ワタシ、アナタに助けられたあの日から、アナタが抱え上げてくれたあの日から、アナタのことが大好きよ」
ごぽりと、どこからか空気の漏れ出る音がした。少女が口を噤む。暗闇を静寂が支配した。人間が入り込んだなら、あまりの静けさに耳が痛くなっただろう。 しばらくして、また少女が話し始めた。今度は語りかけるのではなく、ただ自分の思いを一人で呟いているだけだった。
「ワタシがカナエを溶かさない限り、血肉として取り込まない限り、カナエはずっと、ワタシの中で生きていられる。これを幸せと呼ばず、何を幸せと呼ぶのかしら」
少女の愛らしい忍び笑いが、暗くて暖かくて異臭に満ちた空間にこだまする。その声は心底幸せそうで、〝カナエ〟の返答なんて一切ないのに、いつまでもいつまでも、愛しげに語り続けていた。
冒涜コラージュ
ぶよぶよしてねばねばしてあらゆる色を混ぜたような気味の悪い黒色。それは遙か彼方よりこの星に産み落とされた、歴とした生き物だった。目も耳も鼻も口も見当たらないが、それは間違いなく生き物だ。手も足も尻尾もないが、それは動く物こともできる。それは体表をぐよぐよとうごめかせ、這いずり回って移動した。 その冒涜的外見を見て、この星の生き物は敵意を抱かずにいられない。冒涜的異臭を放つ生き物を、敵と見做さずにいられない。牙を持つ獣は噛みつき、爪を持つ獣は引っ掻き、己の武器を以て傷つけた。 傷つけられた《《それ》》は、奇妙で不快で冒涜的な泣き声を上げて逃げ出した。怪我を負わされた《《それ》》は、どろどろして悪臭を放っていて虹色に輝く黒色の体液を流した。その体液を浴びた獣たちは、自分の舌を噛みちぎったり、自分の体を食い破ったり、被った体液を落とすために水に沈んでそれきりになったりして死んでいった。逃げるのに必死だった《《それ》》は自分を傷つけた者たちの末路を知ることもなく、ただただ怯え、泣き、隠れ暮らした。 姿を見せては襲われるので、《《それ》》は何も口にできなかった。不思議なことに飲まず食わずでも、《《それ》》はたちまちのうちに死ぬことはなかった。だが日を追うごとに弱り、這う速度が遅くなり、泣き声も弱々しくなっていった。《《それ》》は緩やかに、死を迎えつつあった。 死を迎えつつある《《それ》》が人に見つかるまで、幾年が流れたか。見つけたのはランドセルを背負った子供たちだった。小学校の帰り道、国道脇のガードレール下でうずくまっている《《それ》》を、彼らは見つけてしまった。運の悪いことに、彼らはいじめっ子と呼ばれる集まりだった。 いじめっ子たちは《《それ》》を醜悪で愚鈍な生き物と見做した。一人がニヤニヤと笑い、一緒に歩いていた友人たちに石や枝を拾うよう言った。それだけで友人たちは彼の意図を理解し、同じようにニヤニヤ笑い、よく尖った枝や、なるべく重く大きい石を拾った。動く力もなくなった《《それ》》は、いじめっ子たちに刺され潰され、虹色に輝き悪臭を放つどろどろの黒い体液を流すことしかできなかった。 泣く力すら、《《それ》》にはなかった。《《それ》》の不快で冒涜的な体液を浴びながら、いじめっ子たちは金切り声を上げて《《それ》》を責め苛む。 そこへ通りがかったのは、いじめっ子たちと同じくらいの年頃の少女だった。少女は目を丸くして足を止め、彼らが突き刺し潰して遊んでいるのが生き物だと知るなり、丸い目をキッと吊り上げて突進していった。
「何してるの、こんな子いじめて!」
いじめっ子たちは、自分たちの邪魔をする少女に顔を向けた。その顔はもう人と呼べないほどに憎悪や敵意に溢れていたが、少女にはまだ、そんな感情がわからない。だが彼らが相当頭に血を上らせていることは理解できた。自分に向けられる枝や石を避け、少女は《《それ》》に近づいた。
「怖くないよ」
耳もないのに、《《それ》》は少女の優しい声を聞いた。少女は自らの体液に塗れて悪臭を放つ《《それ》》を、ためらいもなく自分の胸に抱えた。そして、いじめっ子たちに体当たりをして逃げ出した。少女は見事、いじめっ子から《《それ》》を助け出すことに成功した。 体当たりされ転んだいじめっ子たちは、少女を追いかけることをせず、手近にいた友人に枝を刺した。湧き上がる怒りや衝動を、今すぐに発散せずにいられなかった。刺された友人は手に持った石で相手を殴り返した。彼らは枝や石で互いを傷つけ合い、自分すらも傷つけていった。金切り声を上げ傷つけ合う彼らを、少女は振り向かなかった。少女の目は、腕の中の《《それ》》にしか向いていなかった。
「大丈夫だよ。大丈夫だからね。ひどいことされたね。かわいそう。かわいそうに」
《《それ》》は敵意や害意以外の感情を向けられるなんて、初めてだった。少女が自分に優しい声をかけ、守るため動き、走っていることを理解しながら、信じられずにいた。《《それ》》はあたたかく柔らかい腕に守られ、声も上げずに泣いた。涙は出なかったが、《《それ》》は確かに泣いていた。 家に帰った少女は、《《それ》》をどうするか悩んだ。とりあえずと自分の部屋へ連れて行き、親に見つからないよう、段ボールと毛布を調達して仮の家を作った。柔らかな毛布の上に下ろされ、《《それ》》は寂しげに少女の手に絡んだ。少女は粘つきながら伸びる《《それ》》の体を不思議そうに見ながら、「怖がらなくていいよ」と撫でてやった。 初めての感触に、《《それ》》はぶるりと体を震わせた。体を優しく撫でられる感触は、決して不快でも、ましてや痛くもなかった。もっと撫でられたいと思っても、《《それ》》は少女にどう伝えればいいかわからない。もどかしさを抱え、《《それ》》は少女の手に絡んだままでいた。 ねばねばしてどろどろしてぶよぶよした冒涜的外見の奇妙な生き物を腕にまとわりつかせながら、少女は《《それ》》の体を引っ繰り返してみたり眺めてみたりと、自分なりに調べてみた。だが、小学生の彼女に《《それ》》が何の生き物なのかわかるわけもない。ただ、怪我をしていることはわかった。 少女は悩んだ末、近所で仲のいいお姉さんを頼ることにした。お姉さんは獣医師を目指しており、この生き物についても知識があるだろうと思ったのだ。しかし、当然そのお姉さんに《《それ》》が何の生き物かわかるわけもなかった。 お姉さんの家に行くと、疲れた顔のお母さんが応対した。部屋にいるから、と二階へ上がるよう示し、自分は台所に戻っていく。少女はお礼を言って、段ボールを抱えて階段を上がっていった。 お母さんの言うとおり、お姉さんは部屋で勉強机に向かっていた。少女が呼びかけると、お姉さんはくるりと椅子を回転させて振り向いた。お姉さんの顔も、お母さん同様疲れている。少女はそれに気づかず、持ってきた段ボールをお姉さんに差し出した。
「この子ね、いじめられて怪我してるの。でも何の動物かわかんなくって」 「んん? 何連れてきたの」
人のいいお姉さんは、ずり落ちた眼鏡をペンで押し上げながら段ボールの中を覗き込んだ。そして中のぶよぶよしてねばねばしてあらゆる色を混ぜたような気味の悪い黒色の生き物を見るなり、お姉さんは「くさっ!」と仰け反った。
「何これ、くさっ。何これ。何これ? 生き物? これが? んなわけないじゃん。これが生き物なら洗濯のりで作ったスライムも立派な生き物だわ。くっさ。こんなの生き物って呼ぶなんて地球上のあらゆる生命体に失礼。この世の生き物すべてに失礼」
失礼、失礼、失礼と繰り返すお姉さんは、手元を見もせずに持っていたペンでノートに何かを書き殴り始めた。黒で書き殴られる文字とも呼べない意味不明の何かは、ノートに収まりきらず机にまで広がっていく。 お姉さんのただならぬ様子に、少女は「ごめんなさい」と謝った。段ボールの中の《《それ》》に「帰ろっか」と言い、お姉さんの家を辞去する。少女が外に出たとき、二階のお姉さんの部屋から金切り声が響いた。振り向き、仰ぎ見たが、お姉さんの部屋は玄関からは見えない。少女はお姉さんの金切り声を気にしないことにして、家に向かって歩き出した。
「お姉さん、疲れてるんだねぇ。とりあえず家に帰って、お風呂でその黒いの流してからご飯にしよっか」
帰宅し、少女は黒くてねばねばしてぶよぶよしてどろどろした《《それ》》を風呂場へ連れて行った。シャワーを使って体液を落とそうと試みるが、虹色に輝く黒い体液は次から次へと溢れて、どれだけ流しても落とせない。その上、ひどい悪臭が浴室に充満する。さすがの少女もちょっと顔をしかめ、浴室の窓を開けて換気しながら《《それ》》の体を洗い続けた。《《それ》》はか細い声を上げ、慣れない温度に戸惑った。《《それ》》の戸惑いを察したのか、少女は「大丈夫だよ」とねばねばしてぶよぶよする体表を撫でた。
「ばあちゃんね、寝たきりなんだ。おむつ交換とか手伝うから、このくらい平気だよ」
《《それ》》は泣くのをやめ、大人しく少女に洗われた。撫でてもらうのも、優しい声をかけてもらうのも、初めてのことだった。初めてのことでも、《《それ》》は嬉しいと感じることができた。このままこの少女といられたら、と知性らしい知性もないのに考えることができた。 しばらく根気強くシャワーを使っていた少女だが、やがて《《それ》》の体液を洗い落とすのを諦め、ずぶ濡れになった《《それ》》を抱いて脱衣場へ出た。バスタオル一枚が《《それ》》の体液でだめになったが、少女は気にせず《《それ》》を抱いて部屋へ戻った。 毛布を敷いた段ボールに下ろされ、《《それ》》はどろりと広がった。すぐに広がる体を縮こめ、目とも呼べない目で少女を見上げる。見上げられているとも知らず、少女は「ご飯取ってくる!」と部屋を出て行った。少女が部屋に持ち込んだのは、一口大に切ったバナナと何枚かのハムだった。 《《それ》》が鼻とも呼べない鼻で匂いを嗅ぎ取り体に取り込んだのは、バナナだ。初めての食事に、《《それ》》は甲高い声を上げた。喜びの声だったが、ほかの生き物は不快で苛立ちを感じる耳障りな声に聞こえるだろう。しかし少女はにこにこ笑い、《《それ》》に少しずつバナナを与え続けた。 甘いバナナを食みながら、《《それ》》は考えた。どうしたら自分に尽くしてくれるこの生き物に近づけるだろうか。どうすれば自分に食べ物を与えてくれるこの生き物と一緒にいられるだろうか。どうすれば自分に親のごとく愛を注いでくれるこの生き物と同じになれるだろうか。どうすれば、この生き物とつがえるだろうか。 《《それ》》は答えを知っていた。教えられていなくとも、答えは本能として備わっていた。 いじめっ子たちに傷つけられた体が癒えた頃、《《それ》》は少女が目を離した隙を突いて、少女の庇護下から出て行った。《《それ》》はもう、生まれ落ちたことに戸惑い泣いているだけの弱い生き物ではなかった。 《《それ》》は潜み、観察した。自分を助けてくれた生き物と同じ、自分を傷つけた生き物たちを観察した。《《それ》》は体を薄く薄く伸ばし、あらゆる隙間に自分の体を潜め、少女と同じ生き物たちについて学んでいった。 《《それ》》が少女と同じ生き物になる第一歩は、唐突に訪れた。|細長い石造りの建物《とあるマンション》に潜んでいた《《それ》》は、重いものが水分を撒き散らしながら潰れる音を聞いた。時間は夜明けだった。薄く伸ばしていた体を戻しながら、《《それ》》は建物の外へ這い出た。 外では、少女と同じ生き物が血や内臓を撒き散らかして死んでいた。死んでいるのは、《《それ》》が最近観察していた〝優れた個体〟だった。人の言葉を覚えた《《それ》》は、死んでいる個体が『|賢い《カシコイ》』と褒められているのを知っていた。 《《それ》》は死んだ個体に近づき、体を広げ、こぼれた脳を取り込んだ。そして、知性と|賢い《カシコイ》脳を手に入れた。死んだ個体――受験ノイローゼで飛び降りた高校生の脳を手に入れてから、《《それ》》は次々に自分が望むものを手に入れた。 あるときはストーカーに絞殺されかけていた少女を救い、その優れた容姿を手に入れた。あるときは小鳥のように愛らしい声で笑う少女を襲い、その愛くるしい声を手に入れた。あるときは夢を胸に努力を重ねていた陸上部の少女を襲った不意の交通事故を利用し、そのしなやかな足を取り込んだ。あるときは夜空いっぱいの星を見上げ星々に負けないほど目を輝かせる少女を襲い、きれいなものだけを映した瞳を手に入れた。あるときは烏の濡れた羽のような美しい黒髪を持った少女に足下から忍び寄り、その髪を自分のものとした。あるときは愛しげに花を摘む少女の頭上に降り注ぎ、そのほっそりした白い手を自分の手とした。 取り込んだものは、《《それ》》の血となり肉となり、力となった。そして《《それ》》は、|私《ワタシ》になったのだ。 私は、見た目だけならば人形のように完璧な美少女となった。しかし目に見える継ぎ目こそないものの、この体と心は継ぎ接ぎだらけ。普通の人間ならば、私を見て違和を感じ害意を持ち、後に発狂するだろう。かつて私をいじめたいじめっ子たちのように。私を診断したお姉さんのように。 あの子は私を見ても大丈夫だろうか。私の声を聞いても大丈夫だろうか。あの子が壊れる様は見たくないけれど、どうしてもあの子に会いたい。 結局私は、どれだけ人に近づこうとも欲に忠実な動物のままだ。記憶をたどり、あの子に拾われた場所まで行き、そしてあの子の|家《スミカ》まで足を伸ばした。 物陰に隠れ、あの子が出てくるのを待つ。《《あの体》》に戻れば薄く伸びて家の中に入り込むこともできるけれど、今の私は〝人〟としてあの子に会いたかった。けれどあの子に会ったところで、どう声をかけていいかもわからない。私は変わってしまったし、取り込んだ人間があの子よりも年嵩だったものだから、あの子よりも大人に近い姿だ。このままあの子と出会っても、戸惑わせてしまうかもしれない。 《《あの体》》に戻ろうか、このまま待っていようか。どうするかと悩んでいるうちに、「いってきまぁす」あの子の元気な声が聞こえた。あの子の家に意識を戻すと、あの子が家から出てくるところだった。 私があの子の前から姿を消して、それほど年月は過ぎていないと思っていた。けれどあの子は成長し、今やこの姿と変わらないほどになっている。お陰で不安が一つ消えた。 物陰で私が胸を撫で下ろしているとも知らず、あの子は紺色のセーラーをひらめかせて駆けていく。行かないで、と無意識に声が出そうになった。すんでの所で言葉を飲み込み、あの子を追いかける。あの子が向かった先は、入っていった建物は、|中学校《チュウガッコウ》と呼ばれる施設だった。私はどろりと溶けて《《あの体》》に戻った。 伸びて、伸びて、薄くなって、中学校のあちこちに体を張り巡らせる。床の隙間、壁の割れ目、窓の継ぎ目に滑り込み、静かにあの子の様子を窺う。 いつあの子の前に姿を現そう。いつあの子に声をかけよう。どんな格好であの子の前に出ればいいかしら。そんなことばかり考え、じっと潜んでいた。 数日かけて様子を探り、あの子と関わりのなさそうな子供の制服を失敬した。あの子と会う前に、盗んだ制服を着て子供の前に姿を現してみるためだ。一人でいる子を見つけ、姿を見せる。思った通り、あの子と同じ年頃の子供たちは皆、継ぎ接ぎだらけの私の姿を見るなり例外なくひどく不快そうな顔をして、剥き出しの敵意を向けてきた。せっかく用意したこの体を傷つけられてはたまらない。泡を飛ばし激高する子供の目の前でどろりと溶けて、私は隙間という隙間に逃げ込んだ。 後にこの中学校では、で私のことは怪談として語られる。けれどそれは、私のあずかり知らぬことだ。 子供たちの反応に、私は途方に暮れた。あの子に会うためこの姿になったのに、これではあの子に会うことすらできない。それにあの子はいつでも誰かと一緒にいる。いつも隣には、私以外の誰かがいる。 隣は私が立ちたいのに。隣は私が歩きたいのに。人間に生まれたってだけであの子の隣にいられるなんて、人間はずるい。ずるい。ずるい。 どろどろでぶよぶよの体をじゅくじゅくと泡立たせ、私は嫉妬に苛まされた。せめてあの子が一人になれば。一人になってくれれば。そう考えていた頃に、ようやくあの子と私が出会える機会が訪れた。それは|放課後《ホウカゴ》と呼ばれる時間だ。 あの子は一人で歩いていた。退屈そうに、時間を持て余しているように、ぶらぶらと校舎内を歩いていた。滅多とない機会に、私は慌てて薄く伸ばしていた体を引き戻し、あの子の前へ現れるべく姿を整えた。あの子の背後で姿を作り終え、どこもおかしくないかと窓を鏡代わりに確認し、ようやく、あの子に声をかけた。
「ねえ」
私の声に、あの子は振り向いた。私を拾ってくれた頃は髪なんて短く切り揃えていたのに、今では長く伸ばし、編んで垂らしている。大人になりつつあるけれど、笑顔は変わっていなかった。
「なあに? 私?」
にこにこ笑って、あの子は私に近づいてきた。今までの子供たちは私を見て不快そうに顔を歪め、泡混じりに私を罵倒したけれど、彼女はそんなことしなかった。きっとこの子は、純真で鈍感なのだろう。優しさと善意しか持ち合わせていないのだろう。だから、歪で継ぎ接ぎだらけの私を見ても、明るく笑っていてくれる。 私は「あのね」と彼女の手を握った。
「ワタシ、アナタとお友達になりたいの」
彼女はきょとんと目を丸くして、そしてまた眩しい笑顔を浮かべて私の手を握り返した。
「いいよ! 私、|叶惠《カナエ》。あなたは?」
名前など、あるわけない。私は名乗らず、微笑みを返した。
「当ててみて。カナエなら、きっと当てられるわ」
叶惠が私の名前だと言い当てたものを、私の名前としよう。叶惠が私に送ってくれた名前を、私を表す記号としよう。 素直な叶惠は私の答えなき問いかけに、ううん、と唸って考え出した。考えるためか、叶惠の手が離れる。離した手をこめかみに当て、叶惠は私の名前を考え始めた。いったい、どんな名前をつけてくれるのかしら。叶惠が悩む様を、私は内心ハラハラしつつ、表面は落ち着いた風を装って見守った。 やがて叶惠は、思いついた答えに目を輝かせて私を見た。
「サヤカちゃん、って感じがする。清いって字のサヤカちゃんか、彩りって字のサヤカちゃん。違う?」
にこにこ、にこにこ。そんな字が似合いそうなほど、嬉しそうに叶惠は笑う。私も見えない継ぎ接ぎだらけの顔でにこりと笑ってしまった。
「どっちか、当ててみて」 「あっ、サヤカちゃんなのは合ってるんだ! うーん、どっちかなぁ。清い……彩り……うーん……。彩りのサヤカちゃん!」 「どうしてそう思ったの?」 「何だかね、いろんな色がある感じがするから!」
鎮座すべき場所にあれどもろくに機能していない心臓が、ドキリと跳ねた。私が継ぎ接ぎだらけだと見抜いたのかしら。それとも、私の《《あの体》》のことを言っているのかしら。 黒い体液で満ちた心臓が、激しく脈打つ。それを気取られないよう努めながら、私は「そうね」とうなずいた。
「カナエは、すごいわね。正解よ」 「本当っ? やったぁ!」
この瞬間から、私は|彩《サヤカ》となり、叶惠の友人になった。放課後の校舎で、一人でいるときしか会えない友達。誰かに話せば、幽霊か何かとしか思われないだろう友達。それでも叶惠は、私を《《人間の》》友人として扱った。 静かな校舎で、部活に励む子供らの声を聞きながらゆったりと歩くのは楽しかった。変わりゆく空の色を眺めながら、叶惠が話す学友たちのことを聞くのは楽しかった。誰もいない空き教室で席に着き、叶惠の家庭の話を聞くのはこの上なく幸せだった。 その幸せは、叶惠の何気ない一言で壊される。 ある日の放課後。私たちは静かな校舎を歩き、最後の輝きを放つ夕日を眺めていた。落ち行く赤を見つめながら、叶惠は何気ない風でこう言った。
「私と彩ちゃんは、同じもの見ても同じようには感じられないんだねぇ」
その一言に、私はとてつもない衝撃を受けた。元の姿に戻りそうな衝撃の後は、深い悲しみが押し寄せる。なぜ、どうしてと、疑問ばかりが浮かんだ。
「ど……どうして? ワタシもアナタも、《《同じ》》でしょう?」
息苦しさに喘ぎながら、叶惠に今の言葉の意図を尋ねる。私の悲しみ苦しみを知ってか知らずか、叶惠は残酷にも首を振った。
「同じじゃないよ。同じように思えても、同じじゃない。私が感じてることに同意してくれても、同じように感じてはない。逆もそう。彩ちゃんが感じてることに私が同意しても、完全に同じ感じ方をしてるわけじゃないんだよ」 「そんな……そんな。だって、だったら、どうして」 「私とあなたが見てるこの夕焼けは、同じ赤だけど、違う赤なんだろうなぁ」
叶惠はのんきなことを言いながら、夕日を見ていた。隣にいる私がどんな顔をしているかも知らず。 どうしてそんな残酷こと、そんな穏やかな顔で言えるのかしら。どうしてそんなひどいこと、そんな穏やかな声で言えるのかしら。どうしてどうしてと疑問ばかり浮かんでも、元々空っぽなこの頭では答えなど出ない。わかったのは、私がこの体を得て叶惠に近づいたって、何の意味もなかったということだ。 そして私は、何もかも諦めた。
「それならもう、こんな体いらない」 「え?」
どろりと溶ける私を見て、叶惠が悲鳴を上げる。その悲鳴ごと、私は叶惠を飲み込んだ。どろどろと溶ける体で叶惠を包み込む。叶惠の体の中にまで入り込んで、叶惠のすべてを包み込む。 どろどろと溶けながら、私はずるりずるりと廊下を這いずり校舎を出た。外へ出ると、次々に悲鳴が上がった。叫ばれようと、姿を見られようと、私はもう意に介さない。校庭を横切り、道路へ出て、マンホールの蓋をゆっくり持ち上げる。人間ならば一秒と耐えられない空間に、私はどぽんと滑り落ちた。 暗く、暖かく、異臭に満ちた空間。私は安らぎを覚えながらどろどろと溶け続け、飲み込んだ叶惠をどうするか考えた。
――叶惠の脳を取り込めば、同じになるかしら。だって同じ脳だもの、同じ感じ方ができるでしょう。でもそうすると、叶惠に二度と会えなくなる。それは、もったいない。
そう、もったいない。すぐさま食べてしまうなんて、もったいない。楽しみはまだ残しておこう。これから先、叶惠を食べるのはいつだってできる。それより今は、叶惠を我が身の内に抱え独占できる幸せに浸っていよう。 いつまでだって、叶惠と過ごしていられる。私が叶惠を溶かさない限り、血肉として取り込まない限り、叶惠はずっと、文字通り私の中で生き続ける。これを幸せと呼ばず、何を幸せと呼ぼうか。 少女の愛らしい忍び笑いが、暗くて暖かくて異臭に満ちた私の住み処にこだまする。その声は心底幸せそうで、私は溶けた体をいっそう震わせ、暗闇に少女の笑い声を響かせた。