「きみ、一年だろ。何か困ってる?」
何も考えてなさそうな、のんびりした声だった。勧誘チラシを抱え途方に暮れていた俺が振り向くと、声の印象通り、ラフな格好の青年が立っていた。クリームイエローのだぼついたパーカーが、妙に似合う人だった。 今し方の台詞から、先輩だとわかる。俺は「はあ」とも「まあ」ともつかない曖昧な声でうなずいた。
「どのサークルに入ればいいか、悩んでて」
先輩は「ふうん」とうなずいて、俺の手元を覗き込んできた。近づき過ぎて、肩が当たる。パーソナルスペースに入られるのは好きじゃない。俺は静かに一歩分ほど距離を取った。
「見た感じ運動系は苦手そうだけど」 「はあ、まあ。好きではないですね」 「文化系?」 「どっちかというと」 「じゃあ俺らのサークル来なよ」
にこやかに勧誘したかと思うと、先輩は俺の肩に腕を回し歩き出した。ノリが、軽い。距離が近い。しかし嫌だと言い出せないのは、俺の性格が押しに弱いせいか。それともこの先輩の雰囲気が穏やか過ぎるからか。 何にせよ、俺は先輩に言われるがまま歩き、彼が所属するサークルに顔を出すはめになった。
「新入生」
案内されたのは、小さな部屋。いったい何のサークルかとドアに貼られた紙を見ようと思ったけれど、飛びつくように俺の手を取った女性のせいで不可能に終わった。
「ほんとに新入生? 可愛い~! あたしやっと先輩になれるんだ? 一年間長かった~!」
サークルに入ることが確定しているような口ぶりだ。見た目は可愛い雰囲気だが、この女性は押しが強そうな気がする。そういう女性は、少し苦手だ。 戸惑う俺のそばに、ほかの先輩方が囲むように群がってくる。どの先輩も俺がサークルに入るという前提で話し、自己紹介までしてくる。ほとんどの人が軽そうな話し方だ。そして近い。距離が近い。 いきなり勧誘され紹介され戸惑った俺だが、結局そのサークルメンバーに加わった。俺が押しに弱いから……というのもあるが、誰も彼も悪い人には見えなかったからだ。寧ろ、誰にでも優しく接することのできる〝良い人〟に見える。距離が近いことさえ目を瞑れば、ほかに嫌な思いはしなさそうだ。 後に、深く考えずこの人たちに関わったことを、俺は後悔することになる。
「それでさぁ、みっちゃんはさぁ」
みっちゃんとは、俺のことだ。だがそんなことはどうでもいい。気になるのは、距離だ。 指が、手が、腕が、肘が、肩が、頬が、鼻先が、吐息が、触れる。女性の先輩に触れられるのは、嬉しいか嬉しくないで分ければ嬉しいと分類できる。けれどそれも、程度による。異性相手ですらこうだ。同性であれば、それもむさ苦しい体格の先輩であれば、なおさら拒否感は強い。
「あの、近いんすけど」
我慢の限界に達した俺は、食堂で鉢合わせ一緒に昼食を取っていた先輩の体を押しのけた。それぞれ別の椅子に座っているというのに、先輩の体は俺に寄りかかっている。反対隣の女性の先輩は、俺の肩に頭を乗せるという信じられない体勢でパンを頬張っている。そちらももちろん、なるべくそっと押しのけた。
「あんまり近いの、好きじゃないんすよ」
なるべく、なるべく穏やかに、けれどストレートに言ったつもりだ。先輩方は婉曲的な表現を理解してくれない。俺を挟むように座っていた先輩二人は、きょとんとして俺を見つめた。 最初に表情を変えたのは、俺に寄りかかっていた先輩だ。
「何だよ、なーに照れてんだよぉ」
そう言って彼は、俺の肩に太い腕を回した。
「私ら同サーじゃん!」
そう言って彼女は、俺の腕に細い腕を絡めた。 どうやら今回も、これだけストレートに伝えても、俺の言葉は届かなかったらしい。ため息をつき、俺は「食いづらいんすけど」と呟いて、うどんを啜った。 気にしない、気にしないと何度も自分に言い聞かせた。スキンシップが激し過ぎるるくらいで、サークルに波風立てるわけにもいかないだろう。そう思っていた。 けれど彼らは、肉体的距離だけでなく精神的距離までも詰めてきた。
「みっちゃん、講義決めた? まだでしょ? これにしなよ! 同サーみんなこれだから、レジュメとか試験対策とか困んないよ?」 「ああ、そうそう。講義といえば、ゼミはここにするんだよ。同サーみんなここにいるからね。OBの人も同サーだったし、いろいろ聞きやすい環境だと思うよ」
ここが何のサークルか、正直、一週間ほどが過ぎた今でもよくわからない。そんなサークルに属している俺だが、大学に来たからには一応、学びたいことは決まっている。講義どころかゼミまで勝手に決めようとする先輩方に、俺は遠慮がちに否を訴えた。
「や……あの……俺、受けたい講義も入りたいゼミも決まってるんで……」 「は?」
その場にいたサークルメンバーが、一斉に俺を振り向いた。彼らはいつも笑みを浮かべ明るく振る舞っていた。なのに今俺を見るその顔からは、表情どころか感情すら抜け落ちている――ように見えた。
「何で?」
呟くように言ったのは、後輩ができると喜んでいた彼女だ。それを合図に、先輩方がじりじりと俺に近づいてくる。
「何でそんなこと言うの?」 「同じサークルにいるのに、何で一人だけ違うことしようとするの?」 「そんなこと言うならみっちゃん」 「無理矢理、〝同じ〟にしちゃうよ?」
それがどういう意味かを知ったのは、その日の夕方。バイト先であるファミレスにやってきた集団を見て、俺は「〝同じ〟にする」という意味を知った。 お冷やを出した俺に、先輩方はにこやかに笑いかけた。
「いい雰囲気じゃんここ」 「はぁ、まあ……ただのファミレスですよ」 「いやいや、俺らが今いる居酒屋に比べたら全然明るいって!」
メニューを広げ何を食べるか選びながら、彼らはにこにこ笑い、店内を見回す。
「俺らも今のとこやめて、ここにしよっか」 「そうしよそうしよ!」 「全員入る余裕あるかなぁ」 「なかったら減らせばいいよ」
――ここの店員を。
俺を勧誘した彼が、小さくそう付け加えた。ざわめく店内でそれを聞いたのは、俺のほかはサークルメンバー以外いないだろう。 もうファミレスでバイトは続けられないな――そう思いながら俺は、まだどこか楽観的に考えていた。ファミレスは大学から近かったけれど、俺の家はファミレスからも大学からもそこそこ距離がある。バイト先を知られたのはその近さのせいからだろうと思い込んだ俺は、家まで知られるとは考えもしなかった。 ある日の夕方。帰宅し門の前に立った俺の肩に、太い腕が乗せられた。
「すげー、庭付きの家だ!」
太く大きい声に、俺の肩はびくりと跳ねる。その肩を押さえるように、俺よりは太い腕が乗る。
「俺んち団地だし、公園しかないんだよなぁ」 「公園あるだけマシじゃん。うち公園すら遠いよ?」 「なあなあ、この庭ならテント張ればみんなで住めそうじゃね?」
住む? 俺んちの庭に、このゼロ距離人間たちが? そんなこと、あってたまるか! この日は追い返せたものの、先輩たちは諦めなかった。翌日には先輩方はテントを持ち込み、俺の家の庭に住み始めた。最初こそ俺の家族も戸惑い、彼らに拒否反応を示していた。しかし雨水が時間をかけて岩を削るように、彼らはゆっくりと、俺の家族に浸食していった。
「いい子たちじゃないのぉ」
食卓でそう言ったのは母だ。庭では、先輩たちが楽しげにバーベキューをしている。それに苦い顔をしているのは、俺だけだ。
「荷物持ってくれるし、家事の手伝いもしてくれるし、助かるわぁ」 「そうだなぁ」
うなずいたのは、父だ。
「お世話になってるからって、生活費まで入れてくれるしなぁ」
そうだ、彼らは俺と同じファミレスで働き、その大半を我が家の生活費にと渡している。行儀の悪い妹が、小鉢を箸で引き寄せながら「あたしも好き」と呟いた。
「勉強も見てくれるし、お兄より頼りになるよ」 「ははは」
父が笑う。母が「それじゃあ」と愉快そうに庭を見た。
「みっちゃんの代わりに、あの子たちにお兄ちゃんお姉ちゃんになってもらう?」
俺の中で、何かがぷつりと切れた気がした。 翌日、俺は遅くまでベッドから出なかった。妹が学校へ行き、父が仕事に行き、母がパートに出て、先輩たちが大学へ行ってようやく、ベッドから抜け出る。顔も洗わず向かったのは、庭にある物置だ。 小さな物置の中をごそごそと物色し、工具箱を探す。青色の工具箱から取り出したのは、金槌だ。数年前、突然DIYに目覚めた父が買ったものだ。使ったのはものの数回で、この金槌が陽の光を浴びたのは何年ぶりか。 金槌を手に、家に戻る。使い古したタオルに|包《くる》んで台所へ行く。ラップで蓋をされた一人分の朝食と、「あたためてね」と書かれたメモが、テーブルに置かれている。俺はメモパッドから一枚のメモを破ると、家族に向けて短い手紙をしたためた。
『ごめん』
それだけ書くと、俺はタオルに|包《くる》まれた金槌だけを持って家を出た。 大学をうろつき、先輩たちを探す。彼らが出ているはずの講義に、その姿は見つけられなかった。 うろうろと、ふらふらと、どのサークルに入るか決めかねていたあの日のように彷徨い歩く。あの日と違うのは、声をかけたのが先輩からではなく、俺からということだ。
「先輩」
あの日と同じクリームイエローは、幸いにも一人だった。振り向いた先輩は、俺を見て人懐こく笑った。
「どうした、みっちゃん?」
俺はタオルから金槌を引き抜き、先輩のこめかみ目がけて振り抜いた。 嫌な手応えが手に伝わる。先輩は廊下に倒れた。手加減なんかしなかった。先輩は目を回しているだろうか。俺は振りかぶり、倒れ伏している先輩の後頭部目がけて振り下ろした。嫌な音がした。俺はもう一度、今度は頭頂部に当てるつもりで振りかぶった。 先輩は、倒れたまま笑いだした。
「みっちゃん。みっちゃんみっちゃんみっちゃん。俺を殴ったのはハンマーか? 金槌ってやつか? 何でそんなもの使うかなぁ。何だって〝物〟なんか使うかなぁ!」
血を流しながら、先輩はよろよろと立ち上がった。血まみれの顔で、俺を見て笑った。ボタボタと血を落としながら、先輩が俺に一歩近づく。
「物なんか使ったら〝遠い〟じゃないか。寂しいなぁ、寂しいなぁ! みっちゃんはいつも〝遠い〟んだよ。〝近く〟なきゃ寂しいだろ? 人間てさぁ、群れなきゃ生きてけないんだよ、みっちゃん!」
近づいた先輩が俺の胸ぐらを掴む。俺の服に、先輩の血がついた。とっさに俺は先輩を突き飛ばした。先輩は簡単によろめき、尻餅をつく。俺は先輩を見下ろし、金槌を振り上げた。
「知るかよ……知るかよ! だからって俺の中に、土足で踏み込んで来んじゃねえよ!」
先輩の頭が割れた。中身がこぼれ出た。それを見て俺の胸に浮かんだのは――「こんなもんか」という、人らしからぬ淡泊な言葉だけだった。 そこから俺は、ためらいの心を捨て去り先輩たちの頭を割って回った。どいつもこいつも、俺が金槌を使うこと嘆いた。誰も、俺の中に踏み込んだことを謝りはしなかった。 最後の一人の頭を割り終えたとき、俺は正義感あふれる教師生徒に取り押さえられた。あっという間に警察が来て、引っ立てられて、実刑判決が下された。両親は泣いたし、妹には罵倒された。でも俺は、自分で悲しくなるほど後悔していなかった。これでもう俺の中に入ってこようとする奴はいない。そんな安心感でいっぱいだった。 けれどその安心感も、刑務所に入るまでのことだった。看守からの冷たい態度のせいじゃない。収容者による俺へのいじめのせいじゃない。そうじゃなく――。
「何か困ったことあったら言いな? 同じ刑務所に収容された〝仲間〟なんだから」
そう言って俺の肩に腕を回す、馴れ馴れしい態度の名も知らない青年A。彼のその距離感に、彼の体温に、彼の気さくな声音に、俺は拳を固く、固く握りしめた。