目次
こいをした けものの はなし
ひとくいの けものが こいをした けものは くまにもまけない おおきなからだが じまん けものは ゆきのように まっしろな けがわが じまん ろっぽんの ふさふさした しっぽが じまん あさやけの おひさまのような こんじきの めが じまん するどく おおきな きばが じまん にんげんを たべることが じまん そんな けものが こいをした たべるはずの にんげんに こいをした にんげんを あいしてしまった
かる かられる かる
獣は生まれたときから|一匹《ひとり》だった。見たこともない母から教わるまでもなく獣は人間を食べて育った。人間はいつでも狩られる側だった。獣は人間を食べずに殺すだけのときもあった。獣は楽しかった。だが時折、同じ土地に住まう狐や狸なんかがつがいで仲睦まじくしているのを見ると、たまらなく寂しくなった。胸の奥がじくじくと痛んで、その痛みを紛らわすように人間を食い殺さずにはいられなくなった。くちゃくちゃと人間の肉を食みながら、寂しくない寂しくなんかないと、獣は自分に言い聞かせた。 人間は気まぐれに自分たちを襲う獣の正体を議論した。あれは狐だ、いや熊だ、いいや狼だ。そうやって議論するばかりで、人間たちは獣に対抗する手段を編み出そうとしなかった。獣はやいのやいのと議論するだけの人間を馬鹿にした。議論の場に飛び込み、哄笑をあげながら人間たちを食い散らした。 人間はいつまでも、獣の餌であるかに見えた。しかし人間は知恵をつけていった。技術を生み出していった。いつしか獣は、狩る側から狩られる側へ落ちていた。
ひとめみて こどくを かぎとった
獣は逃げ惑っていた。人間は銃を持って獣を追いかけた。銃は獣を苦しめた。耳をつんざく轟音は獣の耳を|一時《いっとき》使い物にならなくした。放たれる弾丸が肉に潜り込む感触は痛かった。かすめただけでも自慢の毛皮を焦がされるのは我慢がならなかった。 獣は銃に恐れを抱いた。獣は生まれた地を離れることにした。この地を離れさえすれば追ってこないと思っていた。だが、人間たちはどこまでも獣を追った。 野を越えた。山を越えた。川を越えた。海を越えた。それでも人間は追ってきた。 逃げているうちに時は過ぎ、時代は流れ、獣は自分が身を隠せる《《道》》が減ってきていることに気づいた。だが人間たちは追ってくる。獣に食われては数を減らし、獣への怨みによって数を増やし、どこまでもいつまでも獣を追った。 獣はとある山に逃げ込んだ。人間は山までも追いかけてきた。獣は陰に隠れて人間を待ち伏せた。追いかけてきたのは五人の人間だった。そのうちの一人を噛み殺すことはできたが、ほかの四人に邪魔され、食べることはできなかった。一人を殺して集中砲火に遭い、大量の血を失った。獣は死にたくなかった。餌だと思っていた人間の手によって死ぬのは嫌だった。血を流しながら、獣は山を駆けた。 落ち葉を踏みしめる音が尻尾のすぐ向こうで聞こえるようだった。獣は無我夢中で走った。見える景色が白くなるほど、色を失うほど、ありったけの体力を足に注いで人間たちから逃げた。走って、走って、逃げて、獣は血のにおいを嗅ぎ取った。自分のものではない。噛み殺した人間のものでもない。だが、人間の血のにおいだった。においを頼りに獣は走った。見つけたのは、小さなぼろ家だった。戸は開け放たれていた。しめた、と獣は飛び込んだ。血を流し弱っている人間がいるのなら、それを食べて力を取り戻そうと思った。 そこにいたのは、血まみれの刃物を持った長い髪の|女《メス》と血を流し倒れ伏す老齢の|男《オス》だった。女は目を見開き獣を見つめた。獣も女を見つめた。男を食べれば力が戻る。だがそのためにはこの女を――刃物を持った女を殺さなくてはならない。飛びかかるだけの力があるだろうか。頭蓋を噛み砕くだけの力があるだろうか。ぐぐ、と獣は足に力を込めた。だが、その必要はなかった。女が刃物を手放したのだ。
「おいで」
女は優しい声で獣を招いた。
「あなたに、《《これ》》を食べてほしいの」
言われるがまま近寄り、獣は男を貪った。ひどい味だったが、選り好みしている余裕はなかった。あの人間たちの足音がすぐそこまで迫っている。女はふらふらと獣のそばから離れると、小屋から出て戸を閉めた。人間たちの足音が、小屋の外で止まる。女に向かってがなり立てる声が聞こえた。しかし女の声のほうが獣には恐ろしかった。
「伯父が、寝ているんです。捕まえた鹿を解体して、ほったらかして、その後始末で私、忙しいんです。あなた方が取り逃がした獲物なんか知らない。帰ってください。伯父を、怒らせないでください」
人間たちはまだ喚いていたが、急に静かになった。女がもう一度「伯父を怒らせないでください」と言うと、人間たちはすごすごと引き返していったようだった。人間たちの気配が離れて、獣が男の血一滴すら舐め取りすべて食べきった頃、女は小屋に入ってきた。飛び散る血すら消えた中の様子を見て驚いたように目を丸くしたが、すぐに破顔した。獣に近寄り、そっと手を差し伸べる。
「あなたもひとりぼっちでしょう? いつまでもここにいたらいいわ。私もひとりだから。ひとりぼっち同士、仲良くしましょう」
――怪我が治ればこの女も食ってやろう。この女を食ったらあの人間どもを食い殺しに行こう。それまでは精々利用してやろうじゃないか。
企みを女に悟られないよう、獣はべろりと大きな舌で女の手を舐めた。
いやされるこどく はきだされるどく
女は必要なとき以外小屋から出ず、獣を手当てし、見事な毛皮を撫でて過ごした。獣のそばにいる間、女は獣に自らの身の上を話した。獣を撫でる手つきの優しさとは裏腹に、身の上を語る女の声は憎悪と怨嗟に満ちていた。
「あなたに食べてもらったのはね、私の伯父」
オジが何であるか獣には理解できなかったが、その意味を察することはできた。のどを鳴らしもせず前足に顎を載せ黙りこくる獣に、女は話し続ける。
「最低な人だった。父さんを殺して、母さんを犯して殺した、最低のけだものだった」
ケダモノ、という言葉も理解できなかったが、そこに宿る憎悪は伝わった。女はいつも同じ話をした。獣が語ることができるくらいに、女は繰り返し自分の家族を殺した伯父の話をした。
「私もね、犯された。伯父は毎晩私を犯したけど、殺しはしなかった。そこにどんな理由があったかなんて知らない。知りたくない。あのけだものを殺してやるって、それだけを生きる理由にしてた。ようやく殺せたとき、特に何も感じなかった。だってあれは人間じゃない、獣ですらないけだものだから。ただ、ああこれからどうしようって思った。|死体《これ》を埋めたって燃やしたっていつか見つかるって思った。そんなときにね、あなたが来た」
そこで区切ると、女は獣の毛皮に顔をうずめた。女がこうすると、いつも毛皮に湿り気が混じる。その感触は不快だったが、獣はうなりもせず黙って女の声に耳を傾けた。
「あなたは私の神様ね。白いし、尻尾もたくさんある。何よりあなたは、私を救ってくれた。あなたが来たことで、私の心は救われた」
――私の神様。私だけの神様。
そう言って女は獣を撫でた。女の細い指が毛の中を潜り肌を滑るのは、不思議な感触だった。それは決して不快なものではない。いつしか獣は、このままずっと撫でられていたいと願うようになった。獣にとって女の存在がなくてはならないものになっていた。
おまえのためならば わがみをけずるよ
「お前のためなら」
獣が言葉を発したことに、女は驚いた。だが獣を恐れず、変わらぬ態度で「なぁに」と尋ね返した。獣は少しのためらいのあと、再び口を開いた。
「お前のためなら、俺はこの身を削ってもいい」 「どうして? 私があなたを助けたから?」 「そうだ。お前は|人間《えさ》でありながら、俺を助けた。だから俺も、お前を助ける」
人間には〝かね〟というものが必要であることを獣は知っていた。六本の大きな尻尾のうち一本をむしると、獣は女に差し出した。
「これを〝かね〟に換えてこい。俺にはどうすればいいかわからないが、お前は知っているだろう。持って行け」
女は悲しそうな顔をしたが、むしってしまったものは元に戻せないので仕方なく受け取った。むしられた尻尾を大事に抱えた女は、悲しそうな顔のまま微笑んだ。
「あなた、話せるのに話さなかったのね」 「気分じゃなかっただけだ」 「そう。それじゃあ、これからは話してね。独り言を聞かせるのも寂しかったの。私は|雪枝《ゆきえ》。雪枝と呼んでね。私はあなたを何て呼べばいい? あなた、名前は?」 「ひとくいのばけもの、ひとくいのけもの、それくらいだ」 「そんなの名前じゃない。これからあなたは|雪《ユキ》と呼ぶわ。私とお揃い。真っ白なあなたにぴったりでしょう?」
女――雪枝によって、獣は獣でなくなった。自らを示す名前をもらった獣は、ゆき、と舌の上で慣れぬ|言葉《もの》を転がした。 雪枝は雪の尻尾を肉と毛皮と骨に分け、丁寧に加工し、それを背負って山を下りた。毛皮も、肉も、骨も、高く売れた。毛皮は特に高く売れた。買い上げたのは小屋にやってきたあの四人の人間だった。彼らは雪枝に尻尾の持ち主についてしつこく尋ねた。彼らは雪枝が嫌悪を露わにしていることに気づかなかった。雪枝はその場では彼らを袖にして、後日一人ひとりに接触した。甘い言葉で山へおびき出し、一人ずつ雪に食わせた。雪を探し追い回す人間はこの世からいなくなった。四人すべて食べ終えた雪に、雪枝は嬉しそうに尋ねる。
「ねえ、雪。元気になった?」
口の周りの血を舐め取り、雪は「ああ」とうなずいた。
「元気になったとも。だがまだ足りない。撫でてくれ、雪枝。お前の血のにおいがする手で。お前のその細い指で」
優しく微笑み、雪枝は「うん」と雪を撫でた。数の減った尻尾を振り、雪は喜んだ。いつまでもこの手が自分を撫でてくれるならほかに何もいらないとまで思った。だが本能がそれを許すわけもなかった。
たべたいくらい いとおしい
雪枝の〝かね〟が尽きるのを敏感に察し、雪は雪枝に尻尾を差し出した。雪枝は嫌がりむしるのを止めるが、熊より大きい雪の力に勝てるわけもない。むしられた尻尾を渋々売りに行き、金を作った。尻尾をむしるたび、雪は雪枝に撫でてもらった。普段から雪枝に撫でてもらっているが、元気のないふりをしているときの撫で方が一番好きだった。尻尾をむしると、雪は幼い頃ですら出したことのない甘えた声を出した。
「痛い、痛い。雪枝、尻尾が痛む。もうないはずの、三番目の尻尾が痛む。四番目の尻尾が痛む。六本目の尻尾が痛む」
そのたびに雪枝は慌てて雪に駆け寄り、雪を撫でた。優しい手で、優しい声で、雪を慰めた。雪枝が心身のすべてを自分に向けるのがたまらなく嬉しかった。目を細めて鼻先を雪枝に近づけ、長い髪に鼻をうずめた。
――いいにおいがする。あまいにおいがする。
ゆきえ、ゆきえと甘く名前を呼んで、大きな舌でべろりと雪枝を舐める。空腹を覚えた。顔を上げ、自分の頬を撫でる雪枝の手を舐める。甘かった。何て甘いんだ、と驚いた。「あ」と思う隙もなく雪枝の手をかじっていた。 口の中に転がり込む一本の指。味わう間もなくのどの奥へ消えていく。 その感触で我に返り、雪は慌てて雪枝の指を吐こうとした。雪の|嘔吐《えず》きを止めたのは脂汗を流す雪枝だ。初めて雪が尻尾をむしったときと同じ顔で「いいの」と首を振る。
「いいの。食べて、雪。私を食べて。雪になら食べられてもいい。私はあなたに食べられたい。きっと雪に食べられることで、私は本当に救われる」
雪枝は死にたいのだ。雪は悟った。だが雪枝は死にたくないのだ。雪がいる間は死にたくない。しかし雪が雪枝を食べたいのなら、雪枝は喜んで身を差し出す。雪はそれが嫌だった。何度も何度も謝りながら、雪枝にそれだけはするなと懇願した。
「お前がいなくなったら、俺は|一匹《ひとり》になる。いなくならないでくれ、雪枝。一度誰かといる幸せを味わったなら、もう孤独には戻れない。人食いの獣には戻れない。俺に名前をつけたのはお前だ。俺に食われようとしないでくれ。俺を獣に戻さないでくれ」
鼻先を雪枝の腹に押し当て、雪は鼻を鳴らし訴えた。子犬のように震えて鳴き声をあげる雪を撫でながら、雪枝は「ごめんね」と呟いた。 それから雪枝は、言葉巧みに雪に自分を食わせた。雪も本能に逆らうことはできなかった。一本、また一本と雪枝の指が減っていく。すぐに右手の指がなくなった。自分は人食いの獣のままだと落ち込む雪を、雪枝は優しく撫でて慰めた。だが、あの優しい右手はもうない。うまく撫でられない自分の手を見つめ、雪枝は少し寂しそうに笑う。
「うまく撫でられなくてごめんね」
お前が悪いんじゃない、と雪は泣いた。
「雪枝、お願いだ。俺にお前を食わせるな。俺を人食いの獣にするな。頼む、お願いだ」 「ごめんなさい」
謝罪なんていらない、と雪は鼻先を雪枝に押しつけた。腹の虫を騒がせるにおいが鼻腔いっぱいに広がる。ぐうと腹の虫が鳴く音を聞き、雪枝は微笑んで左手を差し出した。
いとしい おいしい いとしいひと
がり、ごり、ぼり 雪は涙を流して雪枝を食べていた。
――何てうまいんだろう、今まで食べたどの人間よりも美味なる肉だ、血だ、内臓だ、骨だ、皮だ。
もう一本しかない尻尾を振り振り、雪は雪枝を食べた。ゆきえ、ゆきえとくぐもった声で呼びながら雪枝を食べた。骨の一欠片、毛の一本も残さず、雪は雪枝を食べた。べろ、と口の周りを舐め「雪枝」と呟き――雪は小屋を後にした。 その後、山に入って獣を見た者はいない。だが小屋の近くを通ると、誰もいないのに女の楽しそうな笑い声と獣が幸せそうにのどを鳴らす音が聞こえるらしい。