醜い私に、小姓でもなく侍女でもなく、ひとりの少年従者が付くことになった。 名はトマス。彼は残酷なまでに美しい。 その髪は陽光を溶かし込んで紡いだかのような金色で、神が気まぐれに指先で遊んだかのように柔らかく巻いている。 瞳は静かな森を思わせる、深く、吸い込まれそうな緑色。時折物憂げに伏せられると、その長い睫毛が形の良い頬に繊細な影を落とす。 透けるような青みを帯びた白い肌と、薔薇色の唇。その唇から紡がれる声は、春を告げる小鳥のさえずりのように愛らしく、聞く者の心を蕩かす。 誰もが振り返り、誰もが愛さずにはいられない容姿を持つ彼が私の家に奉公に来たのは、ほんの数ヶ月前のことだった。 我が家は父と四人の子供たちで構成されている。長男で家の主である兄のハリー。可憐な花のように愛らしく、誰からも蝶よ花よと育てられる姉のシャーロット。それから常に勉学に励み、その勤勉さで父の期待を一身に受ける努力家の妹エミリー。 そして私、エイダ。三番目の子である私は、この家族の中では異質な存在だった。兄や姉妹が持つ輝かしい美点のかけらも持たず、ただ息をしているだけの、言わば家の装飾品の一つ。いいえ、装飾品ですらない。私は、醜いのだから。 鏡を見る度、私はその事実を突きつけられて嫌になる。姉や妹の輝きが強ければ強いほど、私の影は色濃く、惨めになる。 そんな私に、なぜこれほど美しい少年が仕えることになったのか。その経緯は、数ヶ月前に遡る。
***
ほんの少し前まで、私の世話はメアリという名の侍女がしてくれていた。口数の少ない娘だったが仕事は実直で、私はそれなりに気を許していた。その彼女が、ある日給仕室でひどい火傷を負った。火傷のせいで侍女の仕事を続けられなくなり、メアリは田舎へと帰ることとなってしまった。 屋敷の者たちは口々に「メアリ自身の不注意だった」と言ったけれど、当時まだ下男として働き始めたばかりだったトマスだけが、頑なに「あれは僕のせいです」と言って譲らなかった。 メアリが屋敷を去ると、トマスは熱心に私の従者になることを希望し始めた。そのことで家令である執事のアルバートには何度も厳しく叱られていたらしい。 アルバートは、私が物心ついた頃にはすでに我が家の家令を務めていた。いつ見ても|厳《いかめ》しいしかめ面で、父から全幅の信頼を寄せられている、有能で頼もしい紳士だ。 けれど私は彼が恐ろしかった。彼は私にだけ、一度も笑顔を見せたことがない。兄のハリーも、姉のシャーロットも、彼の笑顔を見たことがあると言っていた。妹のエミリーですら、一度だけ微笑みかけられたことがあると、少し自慢げに話してくれた。私だけが、ない。きっと兄や姉妹とは違う醜い私を、視界に入れることすら不快なのだろう。 そんなアルバートに、トマスは何度も食い下がったという。よほど責任感が強いのか、それとも恐れを知らないのか。ついには私の部屋にまで直接やってきて、その美しい身を毛足の長い絨毯に折り、涙ながらに訴えたのだ。
「エイダ様、お願いします。僕に機会を与えてください。メアリさんの代わりを務めてみせます。だからどうか、どうか、僕をエイダ様のおそばに置いてください。僕をエイダ様の従者にしてください」
こんな美しい少年が、宝石のような涙を零しながら跪いて懇願するのだ。一体、誰が断れるだろう? 私はしくしくと泣く彼の肩を抱き、慰め、そして固い決意を胸に、二人でアルバートがいる執務室へと赴いた。 本当は、踵を返して逃げ出したかった。私を嫌っているであろうアルバートに何かを頼むなど、考えただけで胃が痛くなる。けれど、隣で私を見上げるトマスの縋るような緑の目。これを見てしまうと、みっともない姿は見せられないという矮小な矜持が私の足を前へ進ませた。 私とトマスが並んで立っているのを見たときの、アルバートの顔といったら! 普段から威圧感のある顔が、このときばかりは驚きと、そして何か深い苦悩の色に歪んでいた。長い付き合いになるけれど、あんな顔を見たのは初めてだ。 彼はトマスを見ただけで私たちの来訪理由を察したらしい。厳しい言葉を言いかけるアルバートを、私は必死に遮った。
「お願い、アルバート」
私は頼み込んだ。
「本当に侍女のようなことはさせないわ。あれだけ必死なのは、きっと何か訳があるのよ。今まで通り小姓としても働かせるわ。私が呼んだときだけ、従者の真似事をさせる。それならそばに置いてもいいでしょう?」
父ではなくアルバートに頼むのは、父が家庭内の采配の一切合切を彼に一任しているからだ。私が父に頼んだところで、結局は「アルバートに聞け」と言われるに決まっている。
「あなたにも泣いて頼んだと聞いたわ。こんな年の子供が泣いて頼むなんて、気の毒だとは思わない?」
私の言葉に、アルバートはとても渋い顔――いいえ、何かひどく苦いものを無理やり飲み下したような顔をした。彼はしばらく黙考していたが、やがて、諦めたように小さく、そして不承不承、こくりと頷いた。 こうして、醜い私は世界で一番美しい従者に傅かれることとなったのだ。
***
トマスはいつでも、心から嬉しそうに私の世話をする。その献身ぶりは、彼が侍女の代わりを申し出たのが単なる責任感からだけではないことを雄弁に物語っていた。 毎朝私が目を覚ますと、枕元のサイドテーブルには必ず新しい花が飾られていた。
「エイダ様、おはようございます。見てください、庭に咲いていたんです。薔薇のように艶やかではないけれど、エイダ様はきっとお好きだと思って、庭師のおじさんに少し切ってもらいました」
彼が選ぶのは、いつも控えめで、けれど芯の強さを感じさせる野の花だ。私が豪華な薔薇よりもそういう花を好むことを、彼はいつの間にか知っていた。 毎日のお茶の時間には、まだ慣れない手つきながらも、一生懸命に給仕をしてくれた。
「エイダ様、お茶です。今日はいい茶葉が届いたそうです。給仕長さんが、エイダ様のお口に合うといいなと言っていました。僕も、そうだと嬉しいです」
そう言ってはにかむ顔は、あまりにも愛らしく、お茶の味を一層引き立てた。 私が出かけるそぶりを見せれば、トマスはすぐさま準備に駆け回る。
「エイダ様、お出かけですか? 待ってください、馬車の用意をしてもらってきます。えっと、お着替えは……小間使いのお姉さんを呼んだほうが、いいですよね。すみません」
今まで小姓だったとは思えないほどの働きぶりに、私は感心して「誰に教えてもらったの?」と尋ねたことがある。するとトマスは、「いつもアルバートさんや、ほかの人たちのお仕事を見ていましたから」とはにかんだ。何て勉強熱心な子なんだろう。「勉強熱心なのね」と褒めてると、トマスは心の底から幸せそうに微笑んだ。
***
ある晴れた日の午後、私たちは庭を散策していた。大きな樫の木の下で、何かが落ちているのが見えた。近づいてみると、それは巣から落ちてしまったのであろう、まだ羽も生えそろわない雛鳥だった。
「可哀想に……」
呟いて膝を折ろうとすると、私の考えを察したトマスがいち早くその場に膝をつき、雛鳥の小さな亡骸を両手でそっと包み込んだ。
「どこへ埋めましょうか、エイダ様」
トマスの森色の瞳が私を見上げる。私は日当たりの良い、季節ごとに様々な花が咲く一角を指定した。あそこなら、寂しくないだろうと思ったからだ。トマスは私の言う通りに、その小さな体を埋めてくれた。 数日後、雛鳥を埋めた場所を通りがかると、一輪の花が咲いていた。あの雛鳥がもし育っていたらきっと、こんな色の羽で空を羽ばたいたかもしれないと思わせるような、淡く、愛らしい空色の花だった。
「トマスへのお礼ね、きっと」
私がそう言うと、トマスは静かに首を振った。
「いいえ、エイダ様へのお礼です。エイダ様がお優しいから、花は咲いたんです」
彼は伏し目がちに、「僕一人なら、きっと……」と呟いた。 その言葉は、以前の会話を思い出させた。亡くなった遠縁の叔母の話をしていたときのことだ。
「叔母様は亡くなったあと、薔薇になったの。叔母様のお墓では、それはそれは見事な真っ赤な薔薇が何輪も咲いたそうよ。羨ましいわ。私はきっと、死んだって花にもなれないから」
私は自嘲気味に笑った。
「トマスは美しい花になれそうね。今でもこんなに美しいのだもの」
すると、トマスは困ったように口ごもり、私を見上げた。
「僕は……花になんて、なれません。僕は、美しくありませんから」 「トマスが美しくないなら、私はどうなってしまうの? ヒキガエルよりもさらに下のものの代名詞が、私になってしまうわ」
私の冗談に、トマスは真剣な顔で反論した。
「お嬢様はお美しいです。淑やかで、優しい、美しい花だと思います。お嬢様は、僕なんかにも良いところがあると見つけてくださる方です」
急に褒められ、私は照れてしまった。だからつい、トマスの言葉をお世辞だと思い受け流すような言葉を返してしまった。
「トマスったら、いつの間にそんなに口がうまくなったの?」 「僕は本気です。ひどいです、お嬢様」
トマスは本気で傷ついたように眉を寄せた。トマスはどこまでも純粋に、私を慕ってくれているらしい。私は彼のその純粋さが時々眩しく、そしてどこか怖かった。
***
トマスは私の世話をしながらも、本来の仕事である小姓として屋敷中を忙しそうに走り回っていた。こんな私のために疲れさせてしまうのが可哀想で、私は何度か「私の従者なんて、もう無理にしなくてもいいのよ」と声をかけた。しかしその度にトマスは美しい緑の瞳からはらはらと大粒の涙を落とした。
「どうして、どうしてそんなことを仰るんですか? エイダ様は僕のことがお嫌いですか? 僕は、お役に立てていませんか? 僕は学校に行っていませんが、ジャックさんに文字を習っています。給仕の仕方も、オリバーさんに教えていただいています。だから、だから捨てないでください、エイダ様」
毎度こうして泣きながら懇願され、私は「体を壊さないようにしてね」と労うことしかできなくなってしまうのだった。 彼を従者から外すことを諦めた頃、私はずっと疑問に思っていたことをついに尋ねてみることにした。
「どうしてそこまで私の従者でいたいの? メアリの火傷は誰もあなたのせいだなんて思っていないわ。そこまで責任を感じることじゃないはずよ。出世を目指すにしても、私ではなくお兄様の従者を目指したほうがずっと近道なのに」
私の問いに、トマスはしばらく黙っていた。やがて、彼は眉を下げて、悲しげに微笑んだ。
「……覚えてなんて、いらっしゃいませんよね。当然です。あの日の僕は、今のように清潔な格好なんてしていませんでしたから。泥を被って、地面に這いつくばって生きていましたものね」
トマスの声は遠い過去を辿るように、静かに響いた。
「僕を救ってくださったのは、エイダ様です。僕が今こうしてこのお屋敷にいるのは、すべてエイダ様のお陰なんです」
私には彼を救った覚えなど全くなかった。首を傾げながらも「続けてちょうだい」と私が促したことで、トマスは、なぜ私に仕えたがるかの本当の理由を、ぽつり、ぽつりと話し始めた。
***
トマスが生まれたのは、この屋敷から遠く離れた、森のそばにある小さな村だそう。その村の住人たちは、ほとんどが黒い髪と浅黒い肌を持っており、そうでなくても、どちらかの特徴は必ず受け継いでいた。なのに、トマスだけは違った。 白に近い金髪、青白い肌、そして深い緑の瞳。その異質な容姿は、すぐそばにある森のせいだとされた。妖精が人間の赤ん坊と取り替えていったせいだと噂され、人々から後ろ指を指された。トマスは実の両親にすら、「お前なぞ生まれなければよかった」と罵られ、家を追い出されてしまったらしい。 それでも彼は生きるしかなかった。泥水をすすり、よその家の残飯を盗み食いし、納屋の藁にくるまって、ただ必死に毎日を生き延びた。 彼が私に出会ったその日、彼は同年代の子供たちに捕まり、頭から泥水を被せられていた。「妖精に取り替えられたバケモノの子」と囃し立てられ、笑いものにされていた。もう涙も涸れ果てていたトマスは、ただ黙ってその場を通り過ぎようとした。だが子供たちの一人が彼の足に引っかけ、彼は無様に転倒した。そこへさらに、桶いっぱいの泥が浴びせられる。泥だらけになってうずくまる彼を、子供たちは踏みつけ、囃し立てて笑っていた。 彼はただ、嵐が過ぎ去るのを耐えていた。そこへ、私が来たのだという。
「あなたたち、そこで何をしているの」
私の、静かだが凛とした――とトマスは表現した――声に、子供たちは固まったという。その場にいた子供たちは、私の服装だけで、私が自分たちよりずっと高い階級の人間だと悟ったらしい。私の後ろからはあのアルバートが、いつものしかめ面で現れた。それを見て、子供らは蜘蛛の子を散らすように逃げていったそう。 残されたトマスを、私は泥がつくのも全く構わずに助け起こし、持っていたハンカチでその顔を拭ったのだと、トマスは言った。 そして、そのときに私が掛けたという言葉を聞いて、ようやく、私も微かに思い出した。
「……きれいな瞳ね。深い森と同じ色。こんなにきれいな瞳、私、羨ましいわ」
そう、思い出した。あまりに美しい、深い深い緑色の瞳。その瞳を見て、私は思わずそう口走ったのだ。 トマスは生まれて初めて、誰かに「きれい」と言われたのだという。そのたった一言が、彼の世界に差し込んだ唯一の光となったのだ。
「ですから」
トマスは跪き、私の手を取る。
「恩返しをさせてください。どうか、どうか、僕をおそばに置いてください」
手の甲に額を押し当て懇願するトマスに、私は「わかったわ」と言うほかなかった。
***
それは私が十八歳になった年の春のことだ。 父から正式に婚約の話を告げられた。相手は、父と取引のある裕福な商会の跡取りだという。貴族ではないが、誠実で働き者だと評判の青年らしかった。 姉のシャーロットのように華々しい縁組ではないが、醜い私には分相応、いや、望外の縁談だった。断る理由など、どこにもない。 屋敷中が私の婚約話で浮き足立つ。姉や妹は祝いの言葉を口にし、使用人たちも陰で噂話に花を咲かせている。その祝福の空気の中でただ一人、トマスだけがその美しい顔から光を失っていた。 彼の奉仕は相変わらず完璧だったが、笑顔にはどこか影が差し、私を見る緑の瞳は悲しげに潤んでいた。 ある日彼は私の部屋で二人きりになると、絨毯に膝をつき、肘掛けに置いた私の手に自身の手を重ねて懇願した。
「エイダ様。僕をお兄様のところへなんてやらないでください。僕はずっと、エイダ様のおそばにいたいんです。エイダ様、どうかお願いです。僕を、僕を捨てないでください」
おそらく、私が嫁いだ後、彼がハリー付けの従者になるという話でも耳にしたのだろう。私は彼の冷たい手を握りしめ、優しく言い聞かせた。
「捨てるなんて言わないわ。でも、私はもうすぐこの家を出ていくのよ。あなたを一緒に連れていくことはできないの」
私の言葉が彼に何を思わせたのか。彼は顔を上げ、真剣な、そして熱の籠もった目で私を見つめた。
「エイダ様。縁談のお相手のことは好きですか? それとも僕のほうが好きですか? 少しでも僕を、相手方よりも好いてくださっていますか?」
そのあまりに唐突な問いに、私は戸惑った。この可哀想で健気で美しい少年を、好ましく思わない人なんていないだろう。
「そうね……。会ったことのない人だから、今はまだ、トマスのほうが好きよ」
その答えを聞いた瞬間、彼の瞳がぱあっと輝いた。頬は熟れた果実のように赤く染まる。トマスが弾んだ声で「だったら」と私の手を握り返した。
「だったら、縁談なんて断って、僕と結婚してください。僕はまだ十三ですけど、それまで逃げ回ればいいんです。僕と一緒に駆け落ちしてください。好きです、エイダ様。僕はエイダ様のことが大好きなんです」
十三歳の少年からの、あまりに情熱的な告白。私はそれをどう受け止めていいのかわからなかった。 だって私は家のために結婚しなくてはならないし、年だってもう十八だし、容姿なんて見にくいし、トマスと結婚だなんてできるはずがない。けれど、彼の純粋な好意を傷つけるのは憚られた。ずるい私は、ただ曖昧に微笑むことしかできなかった。 私はどう返事をして、トマスを仕事に戻しただろう。「そうね」と返しただろうか。それとも「考えておくわ」とでも言っただろうか。そのときの自分の返事も、そしてそれを聞いたときのトマスの表情も、なぜかはっきりと思い出すことができなかった。
***
私の結婚が確固たるものとなった日の、夜更けのこと。物音を聞いた気がして、私は目を開けた。部屋はすっかり夜の底に沈んでいたけれど、月明かりが窓から差し込み、ぼんやりと室内を照らしていた。その青白い光の中に、人影が浮かび上がっている。 その人影は、ベッド脇に立つトマスだった。彼はその手に、銀色に光るナイフを振り上げていた。 彼の美しい緑の瞳からは、大きな涙が幾粒も幾粒もこぼれ落ちている。彼は今にもそのナイフを私に突き立てんと私を見下ろしていた。 時間が、凍り付いた。驚きのあまり声も出ず、私は辛うじて彼の名を呼んだ。するとトマスの肩がぶるりと震え、きれいな手からナイフが滑り落ち、音もなく絨毯に吸い込まれた。 彼は私を見つめ、またぽろぽろと涙をこぼす。
「トマス?」
どうしたのと声をかけると、彼はついに顔を両手で覆い、その場に崩れ落ちて泣き出した。
「ひどい、ひどいです、エイダ様! 僕は、あなたを本当に、ああ、エイダ様!」
しゃくりあげる彼の小さな背中を見ていると、恐怖よりも先に、哀れみがこみ上げた。私はベッドから降りると、彼のそばに膝をついた。
「どうしたの、トマス。ねえ、泣かないで。何かあったのね? 優しいあなたに、誰がこんな恐ろしいものを渡したの?」
私の言葉に、トマスは顔を上げた。その涙に濡れた顔は、深い悲しみと、裏切られた怒りに歪んでいた。
「誰が、ではありません。僕が、僕自身が、このナイフを手に取ったんです! エイダ様の胸に突き立てるために! そして、そのあと、僕自身の喉をかき切るために!」
呼吸の仕方を忘れた。トマスがそんなことを考えていたなんて。ああでも、思い返せば彼の目はいつも私に熱いものを送っていた。この前の求婚だって、本気だった。裏切ったのは、私なのだ。 息もできない私のそばで、トマスはぽつりと呟く。
「僕には、エイダ様しかいないのに……エイダ様は、僕だけのものでは、なかったんですね」
トマスは自嘲するように、か細く笑った。
「何て、何て恥ずかしいんだろう! 僕だけだった。僕だけが、エイダ様を本気で好きだったんだ。互いに想い合っているなんて、愚かな勘違いをして……ああ、なんて笑い話なんだろう!」
自分の求愛の言葉が子供の戯言として受け取られていた事実に、彼は今、打ちのめされている。私はトマスの純粋さを、そのあまりの激しい愛を、自身への自信のなさから見誤っていた。 私は、この傷ついた美しい子供をどう慰めてやればいいのかわからなかった。どうにか呼吸を思い出し、絞り出すような声で「部屋に戻りなさい」と言ったことは覚えている。「何もなかったことにしてあげるから」と言って、トマスを廊下へ出した。トマスは何も言わず、肩を落として廊下を歩いて行った。
***
あの夜以降、トマスは何もなかったかのように過ごしている。以前と同じ、幼くも完璧を目指す愛らしい従者に戻った。けれど彼の中では何かが壊れてしまったのだろう。彼の笑顔はまるでよくできた仮面のようになり、緑の瞳の奥には、悲しい諦観が宿っていた。
***
さてそれから日は過ぎて、私の婚礼の日が一週間後に迫ったある日の午後のことだった。お茶の時間、せっかくだからとトマスはテラスにお茶を用意してくれた。
「お茶です、エイダ様」
その声はいつもと変わらず穏やかで、小鳥のように愛らしい。私は疑いもせず、差し出されたティーカップを受け取った。
「ありがとう、トマス」
私の礼に、トマスは悲しげに微笑みながら、もう一つのカップにお茶を注いだ。いつもならそんなことはしないのに、今日はトマスもお茶を飲みたいのだろうか。非常識だと叱るべきなんだろうけど、散々トマスを傷つけた手前、このくらいの非常識には目を瞑りたくなってしまう。
「エイダ様のその笑顔が、もう見られなくなるのは、とてもつらいです」
結婚の日取りは近い。そのことを言っているのだろう、と私は考えた。彼の激しい求愛と無理心中未遂を思い出し、私はどう答えるべきかわからず、黙ってカップを傾けた。いつも通り、ちょうどいい温度だ。ただ、いつもより苦みがあるような気がする。
「でも、エイダ様のその笑顔を、僕以外の誰かに奪われるのは……もっと、もっとつらいんです」
その言葉の意味を私が理解する前に、彼は紅茶を一息に呷って続けた。
「大丈夫です。苦しまないものを選びましたから」
私はカップを傾ける手を止めた。苦しまないものって、何?
「トマス……何を言っているの?」 「ネズミで、試したんです」
彼は泣きそうな顔で微笑みながら言った。
「台所で捕まえたネズミは、これを食べてすぐ、眠るように死にました。何匹捕まえても、一匹も苦しみませんでした。何匹も、何匹も、何匹も……みんな、同じように、静かに死にました。だから大丈夫です、エイダ様。苦しくなんて、ありませんよ」
血の気が引いていく。カップを持つ手が震え始める。息も苦しい。胸が、苦しい。
「僕たちはただ眠るんです。そして、次にまた生まれるまで……こんな風に、大人と子供じゃなく、同じ年に、同じ立場で生まれることができるまで、一緒に眠るんです……」
カップを持つ手から力が抜ける。かちゃん、と音を立ててカップが落ちる。お茶を吐き出そうとしたが、もう遅い。体に力が入らない。体が鉛のように重くなっていく。視界がゆっくりと白んでいく。 テーブルの向こうで、トマスは満足そうに、そしてうっとりと微笑んでいた。 意識が遠のいていく中で、私は、あの日のことを思い出した。庭に咲いた、一輪の、愛らしい空色の花。 あの雛鳥は、花になれた。だとしたら、醜い私は、美しいトマスは、何になれるのだろう。 薄れゆく視界の端で、床に崩れ落ちた私の手にトマスの小さな手がそっと添えられる。それが私の、最後の記憶だった。