私の彼はホッキョクグマ

 私の彼はホッキョクグマ。仕事はビルクリーニング。  私と彼は同棲している。きっかけは友人のカナエが結婚したこと。一緒に結婚式に出た日の帰り、話の流れでこうなった。  私の彼はとても泣き虫。私が仕事から帰ると、ベッドにこんもりと山ができている。小刻みに震える山に近づき、「オープンセサミ!」とシーツをめくれば、泣いている彼が現れる。  私の彼はとてもネガティブ。仕事でやらかしたことだとか、職場で上手くできなかった会話だとか、そんなものを思い出しては恥ずかしがって、悩んで、苦しんで、こうして帰宅後に泣くのだ。

「ヒトの世で生きてく自信がない、ヒトの生活に向いてない」

 これは泣いているときの口癖だ。大きな体を震わせ泣く彼に寄り添う私は、彼を慰め、宥め、明日もこの世界で生きていかせる。  泣く彼を慰めながら、時々、彼がカナエの彼氏だったら、と考える。カナエは怒りっぽいから、彼がめそめそする度に白くてもふもふの背中を張り飛ばすだろう。想像の中で背中を張り飛ばされた彼は、叩かれたとまためそめそ泣く。可哀想な想像をしてしまった罪悪感から、私は殊更彼を優しく慰めた。  時々、泣く彼にこんな言葉をかけることがある。

「仕事、辞めたっていいよ」

 あんまりつらそうだから、辞めてしまってもいいんじゃないかと思ってしまうのだ。  彼にヒトの世は向いてない。けれど私は、彼にこちらの世にいてほしいのだ。

「私の収入だけだとこのアパートはキツくなっちゃうけど……どうにかなるなる!」

 すると彼は、泣きすぎてキラキラする黒い目で私を見る。

「だめだよ。それはだめだ。ミキに苦労なんてさせられない」

 彼は泣き虫でネガティブなのに、こういうときはかっこいいことを言えるのだ。嬉しさとともに気恥ずかしさを感じ、こういうとき、私は普段よりも大げさに彼をからかってしまう。

「あれ、泣き虫さんを慰めるのは苦労じゃないの?」

 指で鼻先をつつきながら意地悪を言うと、彼は恥ずかしそうに顔を逸らす。「ごめん」と謝る彼に「何で謝るの」と笑い、長い首に腕を回した。大きな背中を撫でると、ひやっと冷たい鼻先が首に触れた。

「明日も、頑張って働くから」 「頑張らなくていいよ、泣くくらいならさ」

 こっちにいてくれるなら、仕事なんて頑張らなくていい。  そう付け足したけど、彼は無言で私の背中に腕を回した。

***

 ある夜。  食事を終えてテレビを見ていたら、彼は真剣な顔で正座をした。重い声が「ミキ」と呼ぶから、私も正座して彼に向き直る。  彼は、私に「一緒になってほしい」と言った。

「それは……どっちの意味?」

 《《一緒に》》なる。  彼のようなヒトからそれを言われた場合、意味合いは変わってくる。  同種同士であれば『つがいになろう』という意味しかない。しかし別種同士であれば、そこに『同種になった上でつがいになってくれ』という意味も含まれる。  彼は、私にもホッキョクグマになってくれと言った。

「俺と同じホッキョクグマになってくれ、ミキ」

 彼は大きな手で、私の手を包んだ。

「だめだ、だめなんだ。どうしてもこの世界で生きていけない。だからって、ミキを置いて北極になんて戻れない。ミキをほかのヒトに渡したくない。だから俺と一緒になってくれ。俺と一緒に、北極へ来てくれ、ミキ」

 言葉に詰まる私の手をぎゅうと包み、彼は私を安心させる言葉を積み重ねる。

「あっちは寒いけど、毛皮があるから震えるような寒さは感じないよ。食事が心配かもしれないけど、俺、こう見えてアザラシを狩るのは得意なんだ。向こうで腹を空かせたことなんかなかったよ。ミキのアザラシも俺が狩るから。苦労はさせない。お願いだ、俺と一緒になってくれ、ミキ」

 真剣な目だ。本気なんだろう。  泣いていない彼の目を正面から見つめ返す。真っ黒の瞳が、私をまっすぐ見つめている。黒い瞳に映り込んだ私を見据えるのがつらくて、私はそっと顔を逸らした。

「ごめん。考えさせて」

 するりと手を抜いたとき、彼の口は、ぽかんと開きっぱなしになっていた。

 彼と《《一緒》》になる。私は私であることを捨て、彼と同じになれるだろうか?  私は悩んだ。悩みに悩んだ。仕事中も頭がいっぱいになるほど悩み、ミスを連発しては心配されてしまった。  いっそ誰かに相談できれば楽になれるだろう。  そう思った私は、蛇の旦那さんと結婚したカナエとランチをしたとき、思い切って相談してみた。だが私は、彼女がこんな悩みを抱えたことがないことを知った。  カナエは私の相談に、大層戸惑った顔をした。戸惑ったカナエの表情で、カナエの旦那さんは《《一緒に》》なることは求めなかったのだとわかった。  カナエは|人間《カナエ》のまま、旦那さんは|蛇《旦那さん》のまま。ふたりは、それで足りている。なんて素敵なんだろう。

 ――じゃあ、私と彼は?

 悩みが解決しないまま、数日を過ごすことになった。

***

 仕事を終えてアパートに帰ると、珍しく泣いていない彼が出迎えた。彼はちょっと気まずそうに、恥ずかしそうに、私をリビングへエスコートし、席へ着かせた。テーブルに敷かれた淡い色のプレースマットはどう見ても新品だ。折り目がついている。どうやら、彼が買ってきたばかりらしい。  それから彼は、キッチンから次々料理を運んできた。手の込んだ料理立ちは明らかに彼の手作りではない。いったい何のお祝いでこんなご馳走が振る舞われるんだろう?  料理を並べ終えた彼が、私の正面に座った。

「デザートもあるよ」

 はにかむ彼に思わず「何かお祝い?」と尋ねると、彼は首を振った。

「違うよ。ミキにずっと暗い顔させてるから……その、お詫びかな」

 一瞬悲しそうな顔を見せた彼は、私が何か言う前に「いただきます」と手を合わせた。黒い肉球がぷにりと合わされるのを見て、私も「いただきます」と手のひらを合わせた。  食事をしながら、私たちはいつも通りの会話を交わした。彼からのプロポーズには、互いに触れなかった。  ディナーを終え片付けをしようとすると、優しく椅子に押し戻された。後片付けもしてくれるようだ。  申し訳なさを感じながらそわそわ座って待っていると、彼はお皿に載ったデザートを運んできた。白いお皿に載るのは、フルーツタルトだった。  再び席に着いた彼と向かい合い、フォークを手にまた合掌する。フルーツたちと目が合う。私が最初にフォークを伸ばしたのは、つやつやのマスカットだった。  飾られた大粒のマスカットをフォークで刺し、口へ運ぶ。  噛みしめて、む、と声が出た。  熟していなかったのか、少し酸っぱい。  声を漏らしただけで味について言及しなかったのに、彼は気づいてしまったようだ。

「こっちのマスカットは甘かったよ」

 はい、と私のお皿に大粒のマスカットが移された。そのまま彼は、これも、あれも、とフルーツを移動させる。フォークが忙しない移動を辞める頃には、彼のタルトは敷かれたムースだけになった。

「それじゃあフルーツタルトじゃないじゃん。せめて半分こしようよ」

 こちらの皿へ移されたフルーツをひょいひょいと彼の皿へ戻す。彼は「うん」とうなずきながら、返したフルーツにフォークを伸ばさず、ムースのみのタルトを食べた。  手元のタルトに目もくれず、彼はじっと私を見ている。キラキラ輝く目が何を期待しているか、長い付き合いのせいで痛いほどわかった。渋々、もらったマスカットにフォークを刺す。彼の目がさらに輝いた。そんなに期待されると気まずいなと思いながら、マスカットを口に入れた。  じゅわ、と甘い果汁が口に広がる。  今度は声すら上げてないのに、彼の表情はぱぁっと明るくなった。  彼はにこにこして、私が彼のお皿に返したフルーツの一つ、半分にカットされたマスカットにフォークを刺した。彼のタルトに載っていたものだから甘いはずだった。だがそれはハズレだったようだ。「すっぱ」と目を細めながら、彼はマスカットをもう一つ口に運んだ。それもまたハズレで、彼は今度は何も言わず口をすぼめた。  私は、彼とまだ一緒に住んでなかった頃にケーキを焼いたことを思い出した。  初めてにしては上手に焼けたけど、一部焦げてしまった。焦げの部分は彼に出さず、自分で食べるつもりで私のお皿に載せた。なのに彼はひょいとお皿を取り替えて、止める間もなく焦げたケーキを一口で食べた。  当然、焦げた部分が甘いわけもなく。「うわ苦っ」と思わず声に出してしまった彼は、慌てて自分の口を押さえた。その様に私は恥ずかしいやら照れるやらで、わざと呆れた声を出してしまった。

「まったくもう、何でわざわざ苦いとこ食べるかなぁ!? もーほら、こっちの甘いとこ食べて!」

 突きだした皿に載ったケーキを、彼は半分だけ食べた。残り半分は私が食べた。お皿の上のケーキを分け合い食べていたときの彼の、幸せそうな顔。細めた目があまりに可愛くて、このとき私は、彼を本当に心の底から好きになったような気がした。  思い出してみると、似たようなことはたくさんある。

 ――鯛焼きを買ったとき、私と違う味を選んで半分こしてくれた。  ――旅先で食べた料理、美味しいからって私のお皿にひょいひょい移動させてたっけ。  ――やたら位置を気にすると思ったら、冷たい風が当たらないよう気を遣っててくれたこともあった。

 そうだ。彼は、こういうヒトなのだ。  私はそっとフォークを置いた。

「まだ、ちゃんと決めきれてはないんだけど」 「うん?」 「まずは実家に、挨拶しに行くっていうのはだめ?」 「……いいの?」

 まん丸な目をさらに丸くした彼に、私は大きくうなずいた。

「《《一緒に》》なるかは、もうちょっと考えさせてほしい。でも、これからも一緒にいたいって思ってる。だからお互いの家に、挨拶してもいいんじゃないかなぁって、思って……」

 だめかな、と首を傾げた。そんなんじゃ納得できない、なんて言われたらどうしようと不安だった。けれど、彼はそんなこと言わなかった。  彼は「だめじゃない」と、何度も首を振った。そしてうつむき――ぽろぽろ涙を落として泣きだした。めそめそ泣く彼の隣に移動し、抱きかかえるように分厚い毛皮を撫でさすった。

「もー、ほんと泣き虫だなぁ」 「ごめん、すぐ泣いて、ごめん」

 泣きながら「不安だった」と彼は打ち明けた。

「ミキと一緒にいたいんだ。一緒になってほしいけど、一緒にいられないなら同じになんかならなくていい。ごめん、ミキ。悩ませてごめん」 「謝らなくていいってば、もう」

 私は笑いながら、彼の毛皮をがしがしと撫でた。

「これからもずっと一緒にいようね」

 ひやりと冷たい鼻先が、私の鼻先に触れた。濡れた瞳が私をじっと見つめる。そこからあふれる涙の、透明で美しいこと。

 ――私の鼻先も、いつかこんな風にひんやりするんだろうか。

「ミキぃ」と情けない声を上げ泣く彼をあやしながら、それも悪くないかも、と思い始めている自分に気づいた。zz