俯いていた桜の話

 年も年なので、息子に会社を譲り隠居生活を送ることにした。  働かなくて良いとなると、時間を持て余す。連れはとっくに友人と習い事だのランチだのに忙しい日々を送っていたから、私は一人で楽しめる趣味を見つける必要があった。ありがたいことに未だ自分で物事を考え話すことができ、自分の思うように手足を動かせる。選べる趣味は多かったが、私は一番手軽に思える〝散歩〟を趣味とすることにした。  息子の嫁に持たされた携帯電話をポケットに入れ、杖を片手に一人で家を出る。お気に入りは、桜が植えられた土手を通るコースだ。桜の木の下には――こんなこと言うまでもないのだが――桜の精がいる。桜並木には、たくさんの桜の精がいるというわけだ。散歩を趣味としたのは、彼ら彼女らと会話をするのが楽しいから……というのが一番の理由だった。  ある日、桜並木の列から外れた若い桜の精の様子がおかしかった。枯れ木の横に立つ若い桜の精は、じっとうつむき何かを見ていた。ちなみに、桜の精が若いかどうかは身にまとう着物の色で判別できる。ほかの桜の精が桜色の着物なのに対し、この桜の精は若葉色だ。枯れる頃になると、桜の精の着物は枯茶色に変わる。あの枯れ木は朽ちているため、もう精すらいないようだ。  どうやら、若い桜の精は自分の根元を気にしているようだった。しかし近づいてみると、桜の精が見つめているのは自身の根元よりも離れた箇所、枯れ木の根が残っていそうな箇所だった。一心にそこを見つめているばかりか、枝までそちらへ伸ばしている。これは枝垂れ桜だったかなと首を傾げたくなるほど、枝は下へ下へと伸びていた。  単に枝がそちらへ伸びているだけならば、日当たりのいい方を選んでいるのだろうと納得できる。しかし枝を下へ伸ばし、桜の精までも下を見ているということは……。嫌な想像をしてしまい、思わず頭を振る。私は意を決し、帽子を取って若い桜の精に声をかけた。

「もし。地面の下に、何かあるんですか」

 桜の精は私の声に顔を上げた。あどけない顔つきには見覚えがある。何度か話したことのある、この桜並木の中で一番若い桜の精だ。桜の精は「そうなんです」とうなずいた。彼ら彼女らは表情というものを作らないから、こういった場合は困っているかどうかの判断がつき難い。

「掘り出すお手伝いをしましょうか」

 私の申し出に、桜の精は目線が私の枯れ枝のような腕に走る。この頼りない腕を見てから、若い桜の精はゆっくりと首を振った。

「自力で出られるそうなので、それには及ばないかと」

 どうやら、私の地中にいるのは生きているもののようだ。死体でも埋まっているのかと思ったから、外れてくれてホッとした。  しかし自力で出られるとは、いったい何が地中にいるのだろうか。尋ねても、この若い桜の精は首を傾げるだけで答えない。桜の精にもわからないという地中のものに、私は興味を覚えた。

「私も、この地中の何かが出るのを見守ってよろしいですか」

 桜の精は何度もうなずいた。どうやら、この精も何がいるかわからず不安だったようだ。毎日通うと約束を取り付け、私は一度家へ帰った。  翌日から、私の散歩の相棒は杖ではなくシルバーカーになった。  桜並木に通っては、地面の下から出ようとしている何かを待つ。私はシルバーカーに腰掛け、桜の精はしゃがみ込んで、地面の一点を見つめる。どこかへ遊びに行く子供たちが、一緒になってしゃがみ込むこともあった。通りすがる中年女性の集団が事情を聞き、「何が出てくるのかしら」と興味深げに見つめることもあった。けれどほとんどの時間、私と若い桜の精だけが地面を見つめていた。

「地中のものは、何か言っていますか」

 待つのに焦れた私が尋ねると、桜の精はこう答えた。

「桜の花を見たいと、言っていました。自分が普通に出る頃は夏になっているから、今出ていかないと見ることが叶わないと」

 ようやく、私は地中から出ようとしている何かの正体がわかった。

「ははあ、ようやくわかりました。我々が待っているのは蝉の幼虫ですな」 「セミノヨウチュウ」

 桜の精が首を傾げる。人の形をしていても、桜は桜だ。我々人間が〝何〟を〝どう〟呼んでいるかなんて、知るはずもない。

「蝉という虫はご存じでしょう。あのかまびすしい虫ですよ」 「ああ、はい、わかりました」

 首を傾げていた桜の精がうなずく。っさらりと落ちた長い黒髪を、桜の精の細い指がかき上げ、耳にかける。今までこれほどまで彼ら彼女らに近づいたことがなかったため気づかなかったが、そばで見る桜の精の肌は、抜けるように白いのに淡く色づいていた。年に数回、桜の精に恋い焦がれた若者が起こす不幸な事件を耳にする。不思議に思っていたが、それも納得だ。桜の精は誰も彼も美男美女で、こんな美男美女を間近で見つめ言葉を交わしてしまったら、若い男女であれば恋に身を焦がすのも当然だろう。  そんなことを考えながら、私は「蝉は夏の虫ですからね」と独り言めいた考察を続けた。

「蝉は桜の樹液を好むから、葉桜はいやというほど見ましょうが、花を見ることは叶わない。親が桜の花を見たわけでもあるまいに、はてさて、どこで花のことを聞いたのやら」

 答えを求めたわけではなかった。桜の精が知るはずもないと思っていた。だが地中の何か――恐らく蝉の幼虫――と言葉を交わしていた桜の精は、その答えを知っていた。

「地中にいる間、外の様子に耳を傾けていたようです。何年も、何年も」 「それはそれは」私は思わず肩を揺らした。「地中にいながら、実に耳聡い蝉ですな」

 からからと笑い、その日はそこで桜の精と別れた。蝉の幼虫だとわかってからは、昼日中ではなく、明け方に桜並木へ通うようになった。  桜の精に「そろそろだそうです」と告げられたのは、うつむく桜の精に声をかけて七日が過ぎた頃だった。私は「わかりました」とうなずき、私は夜半に家を出た。蝉が脱皮する時間とは、そういう時間だからだ。  ライトアップなぞされずとも、夜の桜たちは美しかった。若い桜の精は仲間の列から離れたあの場所で、じっと私を待っていた。シルバーカーを押して桜の精の隣に並んだ私は、そこで初めてこの精がおろおろしているのに気がついた。

「そろそろと言いましたが……まだ、出てこられないみたいなんです」

 恥ずかしそうに、桜の精はうつむいた。そんなこともあるだろうと私は予想していた。何せ、夏の生き物が春に出てこようとしているのだ。私は「あなたが恥じることではありません」と言い、シルバーカーに腰掛けた。

「ゆっくり待ちましょう。早い時期に出るもんだから、あちらも力が足りないんでしょう」

 申し訳なさそうに佇む桜の精の隣で、どれほど待ったか。やがて日が昇り、桜の花を朝日が照らした。日の光を浴び白く輝きながら、一方で日の当たらない影は寒々と青い。地面から顔を上げて美しい桜を眺めていると、桜の精に袖を引かれた。見ると、地面がもこもこと膨れてくるところだった。  お辞儀をするように、桜の枝が地面に向かって伸ばされる。地面すれすれまで伸ばされた枝を掴んだのは、地面から出てきたばかりの蝉の幼虫だ。その幼虫は、人の頭ほどもあろうかという大きな体をしていた。桜が差し出した枝を登りながら、蝉は嬉しそうな声を上げる。

「やあ、これがみんな楽しげに話していた桜ですか。きれいだなぁ。きれいだなぁ」

 幼虫の重みで枝がしなる。桜の精がわずかに顔を歪め、苦しそうな表情を浮かべた。幼虫は桜の精の表情が苦しげなのに目もくれず、よちよちと枝を登っていった。  ある程度登ったところで、幼虫はぴたりと動きを止めた。ゆっくりと、幼虫の背中がひび割れる。出てくるのは白い体だ。じっくり時間をかけて成体へ変化を遂げた蝉は、みるみる色を変え、透明な羽をしっかりと伸ばした。

「ありがとう、ありがとう。桜の花の美しさ、まだ地中に眠る仲間たちに伝えるよ」

 そう言って、人の頭ほどもあろう大きな蝉は羽ばたいていった。先ほどまでの苦しそうな顔はどこへやら、隣に立つ桜の精は「良いことをしました」と満足げだ。その『良いこと』に、私は首を傾げそうになった。果たして、我々は良いことをしたのだろうか。素直にうなずけない私に気づかず、桜は珍しくにこにこと笑っていた。  それから、数日後。  案の定、あの蝉に桜を見せたのは『良い』と呼べる結果をもたらさなかった。いったいどのように吹聴したのか、あちらこちらで蝉が早すぎる羽化を迎えたのだ。夏の象徴である彼らは、桜が満開である中あの喧しい鳴き声を響かせ、春の象徴である桜たちの樹液を啜った。それだけならば、桜たちが多少迷惑するだけで済んだだろう。しかし夏の象徴が騒ぎ立てるものだから、春は自分が去る時期だと勘違いし、夏は自分が起き出す季節だと勘違いしてしまった。  春は慌てて退場し、夏は駆け足でやってきた。お陰で桜は早々に散ってしまい、入れ替わるように青い空、白い雲、灼熱の太陽がやってきた。  じりじりと日に焼かれながら、杖を片手に桜並木の土手まで歩く。土手の桜たちはすっかり葉桜だ。桜の精たちは、皆一様に同じ方向を向いている。方角は、あの若い桜の精だ。若葉色の着物を着た桜の精は、桜色の着物の先輩方に睨まれ、居心地が悪そうに土手の隅で身を縮めていた。睨みつける彼ら彼女らの気持ちはわからなくもない。扇を出して扇ぎながら、私は『もしも』についてぼんやりと考えた。

 ――あのとき、声をかけた日に手を出していれば。何が桜を見たがっているのか、掘り返して正体を見てみれば。もしかすれば、外に出たがっている夏の象徴を握り潰し、踏みにじり、早すぎる夏の訪れを防げたかもしれない。そうすれば、あの若い桜の精が睨まれることなどなかったかもしれない。

 もし。だったら。であれば。そんな言葉いくら並べても、後の祭りだ。  私は若い桜の精に近づき、声をかけた。早すぎる夏を呼んだ大罪人として扱われるこの精に話しかける者は、もはや私しかいない。寂しそうに、けれど未だ話しかける者がいるのを喜ぶように、桜の精は笑みを浮かべた。桜の精といくつか言葉を交わしながら、段々小さくなる木陰で、私は生ぬるい風を起こし続けた。