常春の庭にて

 そこは常春の庭だった。  木々には甘い果実が鈴生りに実り、花は常に美しく咲き誇り、花々の間を蝶のように天女たちが舞っていた。常春の庭にはいくつもの小川が流れ、清流の中では魚たちが歌いながら踊っていた。  常春の庭で暮らすのは、一匹の狐だった。金色の毛並みと九本の白い尾を持つ古狐だ。狐は人間の女の姿を取り、豪奢な着物に身を包み、金色の髪をゆったりと結い、白い顔に紅を引いて美しく装っていた。けれどその美しさを見せる相手はいなかった。狐は常春の庭に|一匹《ひとり》ぼっちだった。  外の世界には、狐が変化しているような人間がたくさんいる。同種の狐も尾の数よりいる。川面を鏡にすればいつでも外の様子を見ることができた。しかし、川面の鏡に映るのは面白くもないものばかり。人間たちの浅ましさや、同種たちの間抜けさに嫌気が差し、狐はすぐに川面を元に戻してしまう。  退屈をもてあそびながら、狐は花から花へ飛ぶ蝶をつついたり、魚たちに泳ぎの速さを競わせたり、もいだ果実をお手玉にして遊ぶなどして過ごしていた。

 ある日、遠くから子供の泣き声が聞こえてきた。これまで狐が暮らす常春の庭に、人間や同種が迷い込むことはあった。だが、狐が姿を見に行ってやったことはなかった。退屈ではあったが、彼らの相手をするのが面倒だったのだ。  しかし、この日の狐はあまりにも退屈だった。結った髪から立ち上がる耳をぴんとそばだて、九本の尻尾を支えに「どぉれ」と立ち上がった。立ち上がると、狐の背丈は女にしてはずいぶん高い。しかしながら比べる相手が何年、何十年、もしかすると何百年もいないため、狐は柳のようにぬらりと背の高い女のままだ。

「退屈がてら、泣きっ面でも見てやろうかねぇ」

 狐は長い手足をしゃなりしゃなりと動かして、泣き声の主を探し歩き出した。  川沿いを歩いていると、泣き声はだんだん近づいた。せせらぎのそばで、狐は人間の女の子を見つけた。  みすぼらしい着物に身を包んだ子供だった。常春の庭に来る前の狐ならば、涎を垂らし「うまそうだ」と舌なめずりをする年頃の子供だった。しかしこの庭にいる狐は、もう自分から肉を食べようとはしない。泣いてうずくまる子供を見ても、「まぁ小汚いこと」としか思わなかった。  狐がそばに立つと、子供は涙や鼻水でべたべたになった顔を上げた。狐は袖で口元を隠したが、ひそめた眉は隠せなかった。

「おっかあが」子供は喉を震わせる。「おっかあが、いないの」

 いない、見つからない、と子供はしゃくり上げ狐に訴えた。

「ごめんね、ごめんねって言って、おっかあ、いなくなったの。どっか、行っちゃった」

 狐が最後に川面を鏡にしたのは、いつだったか。その頃にはもう、外の世界では作物が不作だとか、日照りで井戸が涸れ始めているだとか、御上に納めるものが増えただとか、戦の準備が始まっているだとか、そんなつまらないことになっていた。この子供は、そのいずれかの理由――もしくは全部――によって親に捨てられたのだろう。  ふぅむ、と狐は考え込んだ。  この常春の庭に住まいを移し、ずいぶん経つ。何年、何十年、何百年とわからない時間を|一匹《ひとり》で過ごしている。この子供はみすぼらしい。恐らくどこかの貧乏集落で生まれた末っ子だろう。大した知識も教養もないのは間違いない。世話をしてやったとしても所詮人の身。百年と経たないうちに老いて死ぬだろう。しかし、百年に満たない年月といえど、退屈凌ぎにはなるかもしれない。狐が己の知識や教養を与えてやれば、話し相手くらいには育つかもしれない。仮に思い通り育たなかったとして、もしも余計な知恵をつけ生意気な口をきくようになっとして――そのときは、食べてしまえばいい。どうせ|人《えさ》なのだから。  |一匹《ひとり》は退屈だものなぁと苦笑し、狐は子供に白い手を差し伸べた。

「あたしがおっかあになってあげよう。ほぅら、おいで。怖くないから」

 子供は狐の耳と尾に目をやり、悩むそぶりを見せた。が、素直に狐の手を取った。  傷だらけの汚れた小さな手が、〝荒れる〟なんて言葉とは無縁の滑らかな手をおずおずと掴む。狐はにんまりと笑い、子供を常春の庭へ受け入れた。

 子供と暮らす日々は、思いがけず狐を楽しませた。

 こんなにも色とりどりの花が咲き乱れる世界なのに、常に真昼の明るい世界なのに、子供がいるだけで、さらなる彩りにあふれ、まばゆい輝きを放った。  子供は何でも狐に尋ねた。何でも狐に報告した。どんな感情も隠さず狐に見せた。

「おっかあ、この実、たべられる?」

 狐がうなずけば、子供は懸命に手を伸ばし果実に触れようとした。木が気を利かせて枝を下ろせば、子供は目を輝かせ果実をもいだ。もがれたそばから、枝に果実が生る。子供は目をまん丸にして狐を振り向いた。

「おっかあ、もいだらはえた!」

 すぐに見慣れるだろうと思ったが、子供はすぐに生る果実に毎回喜んだ。そして、木から与えられた甘い果実を狐にも分け与えた。子供と食べる果実は、|一匹《ひとり》で食べるよりずっと甘く、瑞々しかった。

「おっかあ、これ、なに?」

 子供が指さすので、狐は「そいつは蝶々だよ」と教えてやった、子供は「ちょうちょ?」と首を傾げた。

「ひとみたい。羽がある、ひと」

 蝶々と天女の差は何だろう、と狐は考え込んだ。導き出されそうになった答えは、子供の笑い声で弾けて消えた。

「おっかあ、ちょうちょがわらったよ! わらった!」

 子供をからかうように、蝶々は鼻先でくるくる舞う。子供の耳には天女らの笑い声が聞こえているらしく、けらけらと一緒になって笑っている。狐もつられてしまい、花畑には子供と狐の大きな、天女の微かな笑い声が響いた。  川のそばで見つけた子供は、川を怖がった。

「川はこわいよ。くるしいよ。のどがいたくなるよ。むねがいたくなるよ」

 豪奢な着物がしわになるほどキツく抱きつき、子供は川から離れようとする。狐は「怖くないさ」と手を繋ぎ、ゆっくりゆっくり、一歩一歩、なだめすかしながら子供の足を川へ入れさせた。穏やかな流れが、子供の足の甲を撫でては過ぎてゆく。子供は強張っていた体を弛緩させ「……つめたい」と呟いた。  狐の手を離した子供は、そろり、そろりと川の中へ進んでいく。踝まで水に浸かった頃、子供はきゃあと声を上げた。すわ足を取られたか流されたら大変だと、慌てた狐が子供に駆け寄ると、子供は狐にしがみついた。

「おっかあ、足になにかさわった! つついてくる!」

 子供の足下を見ると、魚たちが寄って集って子供の足をつついているのが見えた。狐がジロリと睨むと、魚たちはばつが悪そうに散り散りになった。それでも庭の新たな住民である子供が気になるのか、ある程度離れはしても、子供が川を歩くたび同じ方向へついてくる。  狐はため息をつき、魚たちに子供と遊んで良いと手を振ってやった。魚たちは大喜びで子供に群がり、まだおっかなびっくりな子供の足をつんつんと口先でつついた。  川から上がり、すっかりずぶ濡れになった着物を絞りながら、子供は唇を尖らせた。

「魚はね、いじわるだよ。わたしの足、すぐつついてころばせようとする」 「あんたに構いたくってしょうがないのさ。でもあたしがいないときに一人で川に入っちゃいけないよ。あいつら、あんたを魚の子にしようとするかもしれないからね」

 子供は素直にうなずき、狐の言いつけをよく守った。狐がそばにいないときは決して川に入らない。魚たちも心得ているらしく、子供が川に入らなくても無理に水中へと誘ったりはしなかった。  狐から離れて一人で川の畔で遊んでいた子供は、時々、狐に歌を披露した。

「おっかあ! 魚がうたをおしえてくれたよ。きいて!」

 魚たちから教わったという歌を、子供はそれは上手に歌った。子供の歌声はきれいだった。狐が褒めると、子供は頬を上気させて喜び、何度も何度も歌った。

 子供が常春の庭のものに触れ、喜び、声を上げるたび、狐は穏やかに笑った。人間は好かないはずなのに、子供がはしゃぐ声は耳に心地よかった。  今やこの子供は、狐にとってなくてはならない|もの《存在》だった。  子供が眠たげに目をこすれば、優しく抱いて、尻尾で日差しを隠し、一緒に横たわって眠ってやった。不慣れな子守歌だって歌った。不慣れなせいか、生まれつきか、狐は音程や拍子を真似るということが下手だった。  狐の奇妙な一本調子の子守歌を聴くたび、子供は「おっかあ、へたっぴ」とくふくふ笑った。ふさふさの尻尾に包まれ、狐の優しい腕に抱かれ、子供は幸せそうに笑っていた。狐も、幸せだった。

 ある日、子供は遠くを見つめて棒立ちになった。  狐が声を掛けても揺すっても、遠くを見ていた。どうしたのかと狐が不安になった頃、子供はぽつりと呟いた。

「行かなきゃ。おっかあが呼んでる」 「何言ってるんだい、おっかあはあたしじゃないか」

 狐は子供の手を取った。必死な顔で引き留める狐の指を、子供は優しくほどいた。

「行かなきゃ」

 まるで狐のほうが子供で、この子供のほうが大人のような表情をしていた。  子供は木々の間を抜け、川を飛び越え、どんどん遠ざかっていった。咲き誇る花の花弁を散らしながら、まっすぐまっすぐ、遠くへと走り去る。  狐は動けなかった。足が凍りついてしまったように、狐の意に反して硬直していた。唯一自由になる喉から張り裂けんばかりの声を出し、狐は子供を呼んだ。

「待って、行かないで、あたしを置いてかないで」

 泣いても、叫んでも、子供は戻ってこなかった。  ようやく動けるようになって、狐は子供を探した。人の姿の不便なことといったら! 長く人の姿でいた狐は、自分自身の姿に戻るのに苦労した。  狐はどうにか本来の姿に戻った。四本の足を地に着け、あの子はどこだと駆けずり回った。  木々の影にあの子はいない。  川のせせらぎにあの子はいない。  花のそばにあの子はいない。

「どこ、どこに行ったの、あたしの子。あたしの可愛い子」

 へとへとに疲れ、狐は人の姿になると花畑の真ん中に座り込んだ。尽きぬ涙が後から後からこぼれ落ちた。幼子のように、狐は泣いた。  泣きじゃくり、やがて涙は涸れ果て、狐は呆けたように宙を見つめた。呆けているわけではない。狐はほつれた髪の間から、耳をぴんと立てていた。あの子の声が聞こえやしないかと耳をそばだて、庭中の気配を探っていた。  時間は変わらない速度で過ぎていく。しかし、ひとりぼっちでいる時間の、何と長く感じることか。

 ――あの子といた時間はどれほどだったのだろう。あの子がおっかあと呼んでくれた日々はどれほどだったのだろう。

 この常春の庭に、あの子はいない。  捕まえた蝶々を見せに来るあの子はいない。  もいだ果実を差し出してくれるあの子はいない。  魚に教わった歌をきれいな声で聴かせてくれるあの子はいない。  抱きしめればすり寄り、安堵の息を吐くあの子がいない。  無垢な目で、信頼しきった声で「おっかあ」と呼んでくれるあの子がいない

 昼夜のない常春の庭は、時間の感覚を狂わせる。  あの子が消えてどれほど時間が過ぎたのか。千年が過ぎたと言われても、狐は素直にうなずいただろう。それほどまでに、狐は狂おしいほどの孤独と苦痛を味わわされた。  せせらぎの音に子供の泣き声が重なることがあった。けれどそれは、あの子じゃない。狐は立ち上がりもしなかった。あの子の声だけを探し、求めていた。

「あの子がいない。あの子がいない。どこ、どこ、私の子」

 ぶつぶつと呟き、耳が子供の泣き声を拾うたび、違う違うと首を振っていた。

 ある日、あーん、あーんと泣き声が聞こえた。  それはあの子の声によく似ていた。狐はぴん、と耳をそばだてた。

 ――あの子の声に、似ている? 違う。あの子の声だ!

 狐はもどかしげに立ち上がり、転びそうになりながら走った。どこ、どこ、と呟き声を探した。豪奢な着物は今や、しわくちゃのぼろのようだった。

 川の畔に、女の子がうずくまって泣いていた。出て行ったときと格好がずいぶん違っている。着物ではない、奇妙な衣装だった。けれど狐には、この子供が自分の可愛い子だとわかった。においがあの子だったのだ。  走ったせいで、狐の結った金色の髪はほつれ、着物はぐちゃぐちゃに乱れ、幽鬼の様な出で立ちだった。異様な姿でそばに立つ狐に怯えもせず、子供はしゃくり上げ訴えた。

「お母さんが、怖い顔するの。わたし、怖かったの。とっても、とっても苦しかった」 「もう怖いことなんかありゃしないさ」

 ずび、と鼻をすすり、狐は着物の袖で己の顔を拭った。  そして、とびきりの笑顔を子供に向けた。

「だって、あんたの本当のおっかあはあたしなんだから。怖いおっかあは、にせもののおっかあだよ」 「そうなの?」

 狐は、子供の泣き濡れた顔を渇いている側の袖で拭ってやった。あのときと同じ、涙や鼻水なんかでどろどろになった顔だ。  可哀想に、と狐は呟き子供の頬を両手で包んだ。

「もうどこへもやらないよ。あたしのそばを離れちゃいけないよ」

 子供は怪訝な目で狐を見た。あの日のように、狐の耳と尻尾へ目をやった。けれど、狐を拒まなかった。頬を包む白い手に顔を預け、新たな涙で濡れる目を閉じ、うなずいた。

「……うん。ただいま、おっかあ」

 ぴょこん、と子供の頭に狐の耳が生える。奇妙な服を押し上げ、ふさふさの尻尾が生える。子供を抱きしめ、狐は幸せで胸がいっぱいになった。

「おかえり、あたしの可愛い仔」

 子供のしっぽが、ゆぅらゆぅらと揺れていた。