星降る川に舟浮かべ

 自分の手が辛うじて見えるような暗がりで、ハルは立っていた。足下には仄かに光る草が生え、真っ暗な世界にわずかな明かりを投げかける。その下には、多分に水を含んだ土が敷き詰められている。軟らかすぎる土は、身動いだだけでじゅくりと音を立てる。  そこから数歩進めば、川がある。川の周囲はほんのりと明るい。川の流れに沿うように、星が瞬いているからだ。ハルの頭上に星はない。だがあと数歩進めば、ハルにも星々の輝きが優しく降り注ぐだろう。  薄暗い川縁では、小舟が一艘、ハルが乗り込むのを待っていた。ハル専用の小舟は、ハルの髪のように真っ白だ。  川は空の星が映り込むほどの静けさだ。昇りたがらない太陽が顔を出したなら、この川の青さに見とれるだろう。そしてハルの瞳が、太陽の輝く青空にも、澄んだ川面にも負けないくらい美しい青であることに驚くだろう。  川面には星のほか、夥しい数の手紙が浮かんでいる。水の上にありながら、どの手紙も濡れた様子はない。ハルはこの手紙を集めるのが仕事だった。

 ハルは佇んだまま、川を見つめていた。やがて諦めたように一度目を伏せ、それから足を踏み出した。静かな足取りだが、水気を含んだ土が殊更大きく音を立てる。土が跳ねて、ボロボロのサンダルを汚していく。ハルは構わず土を踏みしめ、岸辺を歩いた。  小舟のそばへ近寄り、古びたシャツから覗く細腕で、小舟を押す。わずかに水音を立て、小舟は川に浮かんだ。  膝まで水に浸かったハルは、軽い身のこなしで小舟に乗り込む。櫂を下ろし、星の散る真っ黒な水をかく。小舟はハルの操るまま、川の中程まで進んだ。

 ハルは櫂を手放し、水に浮かぶ手紙へ伸ばされる。手紙を拾い上げては小舟の底へ落としながら、ハルは川の下流へ目を向けた。岸辺からは決して見えなかった明かりが、この位置からは見える。  このまま手紙を集めずに川を下れば、あの明るい世界に辿り着くだろう。しかしハルは明かりから目を逸らし、水面に浮かぶ手紙をせっせと集める。  波紋広がる川面に、ハルの顔が映る。映り込んだハルの顔は意地悪く笑っていた。

「向こうに行きたいのに、何で見ないふりなんかするんだ? 手紙なんか捨てちまえ。その手は紙切れを運ぶためについてるわけじゃないだろ?」

 鏡像がけしかける。ハルは顔をしかめ、それを無視した。  黙々と手紙を集め、小舟で拾えるだけ拾うと、ハルはまた岸辺へ戻る。植物がわずかに放つ光を頼りに、ハルは〝お屋敷〟へと急いだ。

 お屋敷でハルを待つのは〝婦人〟だ。日も差さないのに日傘を差して、寂しい庭で佇んでいる。日の差さないこの世界では、色鮮やかな花など咲かない。庭の植物たちはどれも蕾のまま時を止め、闇の支配を嘆くように項垂れている。  ハルは駆け足でお屋敷の門をくぐった。門の向こうで、枯れることも茂ることも知らない植物に囲まれ、婦人はいた。暗闇よりもさらに黒い日傘を差して、闇に溶けそうなワインレッドのドレスを纏い、眠れる植物に囲まれていた。

 婦人の名前を、ハルは知らない。彼女は〝夫人〟かもしれないし、違うかもしれない。わかっているのは、庭の向こうで威圧感を発する大きな屋敷の主ということだけだ。  婦人は外に出るとき――即ちハルと向かい合うとき――いつでも日傘を差している。日傘は婦人の顔を隠し、決してハルに見せようとしない。仮に見えたとしても、婦人の表情をハルが知ることはない。婦人の顔は、世界を覆う空のように真っ暗闇だった。運が良ければ、声を発するために開く口が見える。  庭で佇む婦人は、ハルを振り返らない。黙って、覚めることのない眠りにつく草花を見つめている。  ハルは静かに婦人のそばへ行き、そっと手紙を差し出した。婦人の楽しみはこの手紙しかないのだ。必ずハルを振り向き、受け取る。ハルと婦人が言葉を交わしたことはない。だがハルは、婦人の楽しみはこれだけだとわかった。

 婦人は億劫そうに、殊更ゆっくりとハルを振り向いた。意味のない日傘が婦人の顔を覆い隠す。  一言も発さず、手が伸ばされた。赤い爪の先が手紙に触れる。細い指が、ハルがかき集めた手紙を掴んだ。  ハルから手紙を受け取ると、婦人は屋敷に戻っていく。婦人がハルに礼を告げることはない。わかりきったことだ。ハルはもう、気にしない。婦人が戻っていった屋敷に明かりが灯らないことも、当たり前のことだった。ハルはお屋敷の中のことを何一つ知らないが、不思議と、それが当たり前だとわかった。

 婦人は日傘を畳み、暗い屋敷内を戸惑うことなく歩く。そして自室へ戻り、燭台に火もつけず、たった一人で手紙を読む。自分に宛てられたものでもないのに。  ハルが屋敷に入ったことはない。婦人が手紙を読むところを、その青い眼で見たことはない。だがきっとそうだろうという確信を持っていた。婦人はこれだけが楽しみなのだ。この暗い世界で、ハルがもたらす娯楽だけが生きがいだ。  見たわけでも聞いたわけでもないのに、なぜだかハルは、そう確信していた。

 婦人が屋敷に入ると、ハルは敷地内をぶらぶら歩く。暗い世界に娯楽はない。ほんのりと光る植物を眺めるくらいだ。この植物は風もないのに揺れることがある。ハルは目についた植物を観察し、揺れる法則を探るのが趣味だった。  光る植物を観察し、飽きれば庭をうろつき、眠る植物を気まぐれに撫で、また敷地内を歩く。そうやって、ハルは「もうこれ以上は無理だ!」と思うまで時間を潰す。  暗い世界に朝も夜もない。だがハルは、ある程度活動すると眠る。ハルの寝床は、敷地の隅にある小屋の中にあった。  狭い小屋だ。家具なんて一つもなく、薄い毛布の一枚もない。そんな小屋で、ハルは床の上で丸くなって眠る。

 ハルの腹が空腹を訴えたことはない。ハルののどが渇きを覚えたことはない。

 起きるべき時間が来れば起きて、小舟を出して手紙を集め、婦人に渡す。植物を眺めて時間を潰し、眠るべき時間になれば小屋で眠る。  そんな日々を、ハルは繰り返していた。  川面の鏡像は、ハルが小舟に乗っているときしか現れない。ハルの心が動くのは、川の上に舟を浮かべた時だけだ。

「あの明かりが気になるんだろ? 櫂を動かせ。ほら、何をぼさっとしてる? あの無口なババアに義理立てしてるつもりかよ。あの気取り屋、お前の働きを何とも思っちゃいないぜ」

 鏡像のハルは、明かりを見つめるハルを唆す。屋敷を離れろ、舟を漕げとせっつく。いつものハルは、明かりを見つめたまま返事をしない。しかしこの日は、ぽそりと小さな声で反応した。

「別に、あっちになんか行きたくないさ」

 明るい世界に興味なんかない。屋敷での生活に不満なんかない。婦人の態度を、悲しく思っちゃいない。  自分自身にそう言い聞かせ、ハルは明かりから目を逸らし、水面を漂う手紙に手を伸ばした。  毎日川へ行っては手紙をすくい、屋敷で待つ婦人へせっせと運ぶ。ハルの働きを婦人が褒めることはない。感謝を表すことはない。それでもハルは愚直に、手紙を運び続けた。

 だがある日、ハルは、屋敷の裏で紙片を見つけた。びりびりに破かれた紙の欠片は、繋ぎ合わせずとも、自分が運んだ手紙だとわかった。  膝をつき、ハルは手紙を拾い集めた。淡い色の便せんに、褪せた色のインクが文字を綴る。しかしそれはもう、誰にも読まれない。ハルの胸がつきんと痛む。

「なぜ、こんなことをするんだろう」

 初めて舟に乗った日。上手く櫂を漕げず、手紙は一通しかすくえなかった。自分を屋敷に置いてくれる婦人のためならばと、ハルは櫂の扱いを懸命に覚えた。  どんな日も、ハルは婦人のため、一生懸命に手紙を運んだ。婦人の唯一の楽しみだからと、冷たい水に手を浸して手紙を集めた。

 ――その手紙を、婦人は。

 鏡像の声が、自分自身の声が、ハルの耳元で笑いながら聞こえた。

「ほら、もうこんな場所捨てちまおう。何もかも無駄だったんだ。尽くしてやるだけ無駄だったのさ」

 でも、だけど。  首を振るハルに、鏡像――もう一人のハルが、肩に手を載せ囁く。

「そもそも、お前は覚えてるのか? 何でこんな屋敷にいるのか。何で居候しているのか。どうして、舟に乗って手紙を集めるのか」

 ハルは答えられなかった。覚えていなかった。疑問も抱かなかった。考えも、しなかった。

「もう自由になれよ。おれは自由になりたい。でもお前が自由にならなきゃ、おれは自由になれない」

 ――何せおれは、お前だから。

 ハルの肩を掴む手に、ぐぅ、と力が込められる。

「なあ、おれ。おれは明るい世界に、これっぽっちも興味ないか? あの明るい世界に何があるか、気にならないか? 明かりに満ちた世界で、色鮮やかな花を見たいとは思わないか?」

 ハルののどが、微かに動いた。

「見たいよ」

 ハルはもう一人の自分が、にんまりと笑うのを感じた。

「それなら、こんなとこからおさらばしよう。あんな女に恩なんざ感じることない」 「うん――うん。そうだね」

 そうしようか。  うなずいたハルは、再び川へ向かった。

 ハルが歩く世界は、相変わらず暗い。岸辺に立っても、明かりは全く見えない。あの明かりは、川に出なければ見えないもののようだ。  岸に乗り上げた小舟を細腕で押し、舳先まで水に浮かべる。そこで舟に乗り込み、もう戻らない決意を込め、サンダルで強く岸を蹴った。思った以上の勢いで、小舟は川の中程へ進んだ。  小舟が川を進んでいく。ハルは櫂を掴み、流れに沿って手紙の群れへ近づいた。今ではもう、下流の明かりがよく見える。儚くも確かな光がハルを誘うように、招くように、存在していた。

 ハルが光に向かって漕ぎ出そうとしたそのときだ。せせらぎの向こうに、足音が聞こえた。聞き慣れない甲高い声が、「待って」とハルに向かって叫んでいる。ハルは思わず振り向いた。  振り向いた先では、婦人が傘も持たずに走っていた。ドレスの裾を脚に絡ませながら、必死になって走っている。

「待って、置いてかないで!」

 婦人は岸辺で立ち止まり、叫んだ。川へは入ろうとしない。裾を強く握りしめ、暗い世界からハルに向かってただ叫ぶ。  本当に置いていかれたくないのなら、川に入ればいい。ハルの舟に縋ればいい。だが婦人は、決して川に入らない。ハルに、自分の意志で戻ってくるよう乞う。  だからハルは、首を振った。

「さよなら。さようなら……」

 続く言葉は飲み込んで、ハルは櫂を握り直した。そして、前だけを見据える。  進む先には明かりが見える。しかしその明かりの、何と儚いことか。

 先に進んでも、明るい世界なんてないかもしれない。  そんな不安が、ハルを襲った。しかしハルは、櫂を握る力を一層強くした。わざと音を立て、水を叩くように櫂を動かす。

「怖くなんかない。僕は行くんだ、光の向こうへ」

 声に出すと、揺れる水面の鏡像が「そうさ」とうなずいた。

「おれたちは行くんだ、新しい世界へ。だっておれたちは、自由なんだから」

 たとえ進んだ先が一生暗闇だろうと、後悔なんかしない。  そんな予感が、進むハルの背を押した。