死神が、とある国の姫に恋をした。しゃれこうべの恐ろしげな顔に似合わず、死神の恋は静かなものだった。夜な夜な姫の寝室を訪れ、その寝顔を見つめるだけ。それでも、熱を隠しきれていなかった。 愛され育った姫は、格別美人というわけではない。けれど、相まみえる者を魅了して止まない、輝く魂を持っていた。尽きぬ愛を受けて育った者の証だ。その輝きは死神には眩しすぎたが、惹かれずにいられないものだった。 姫の寝室は高い塔にある。姫を心配した王と王妃が、姫が許した者以外、鼠一匹入れぬように建てた塔だ。鼠一匹入れぬ塔といえど、それは命ある者相手の話。死神はやすやすと門を通り抜け、長い長い階段を上り、壁を抜けて姫の寝室へ入ってしまう。 そうやって月が昇る頃に寝室を訪った死神は、月光に照らされる姫の寝顔を眺め、月が塔の真上に来る頃、静かに退室する。 触れるでもなく、恋を謳うでもなく、ただただ、姫の寝顔を見つめるだけ。死神はそれで満足だった。満足だと、自分に言い聞かせていた。 ある夜、塔の外へ出た死神の足下へ、一匹の黒猫がすり寄る。骨だらけの足に体をこすりつけては痛かろうに、猫は平気な顔だ。死神の擦り切れたローブを柔らかな毛だらけにすると、猫は満足げに「なぁう」と鳴いた。
「欲のない奴だなあ」
猫が言葉を発しても、死神は驚かない。この猫は同僚だ。少し前までは猫頭の死神だった。死神のあずかり知らぬ事情から、この同僚は〝猫頭の死神〟から〝本物の猫〟に降格された。頭が猫だけあり、本質も猫だったのだろう。同僚は猫になっても気にする様子も落ち込む様子もなかった。 猫の姿になった同僚は、骨だけの姿で命を狩る死神に話しかける。
「お前は本当に、欲がない」
そう評す同僚に、死神はしゃれこうべの首を傾げた。
「別に……欲がないわけでもない。叶うならば、誰のものにもなってくれるなと願っているさ」
がらんどうの胸でも、その程度の欲は持つことはできる。問いかけた張本猫はというと、毛繕いをしていた。艶やかな黒い毛並みを一生懸命に舐めながら、「ふうん」と相槌を打つ。
「それじゃあどうして、見つめるだけで済ますんだ?」
真っ暗な眼窩の奥に、炎が見え隠れする。揺れる炎に同僚の瞳孔が開いたが、飛びかかるようなことはしなかった。 同僚の問いに、ため息のような静かな声が答える。
「手に入れようとすれば、命を刈り取るしかないだろう」
わたしは死神なのだから、と低い声は呟く。月明かりに、死神の持つ大鎌が鈍く光る。その大鎌で刈り取れば、姫の魂は永久に死神のものとなるだろう。だがそれでは、月明かりに照らされた白い頬を見られない。寝言を呟く愛らしい声が聞けない。寝返りを打ち丸くなる姫の幸せそうな寝顔を、拝めない。 死神は、それが惜しかった。 彼女の魂がほしいわけではなかった。自分を見てほしいわけでもなかった。対話なんて望んですらない。姿を見せ声をかけては、恐ろしがられるだけだから。 では何を望んでいるのか。 死神はゆっくり、言葉を探した。
「命はいらない。魂も、わたしの手の中になくていい。ただ……ただ」
姫の、幸せそうな寝顔。あれだけは、自分だけのものであってほしい。その願いが叶ったならば、と死神は夢想する。叶わぬ願いが聞き届けられたなら、隙間風吹き込むがらんどうの胸に、喜びが形となって満ちあふれるだろう。 眼窩の向こうに揺れる炎が、わずかに大きくなった。暗闇の中で揺れる赤を見つめながら、同僚はぺろりと舌なめずりをした。
「それなら永遠に眠らせておけばいいじゃないか」
同僚は前足で顔を洗いながら気楽な調子で言う。声の調子と提案の内容の差に、死神は言葉に詰まった。 死神が返事をしないのを、同僚は検討中と受け止めたようだ。同僚は丹念に髭を整えながら、未だ言葉を見つけられない死神の背を押す。
「覚めない眠りは死と同義。そうすればお前はずっと寝顔を見ていられるし、姫もずーっと夢を見ていられる。お前も姫も幸せじゃないか」
そんな暴論がまかり通るものか――と返せるのなら、死神は毎夜姫の寝室を訪れたりしない。 死神は大鎌を片手に持ち替え、ふむ、と考え込んだ。 目覚めぬ眠りにつく姫は、死にもせず、生きてもいない。夢の中で暮らし、運が良ければいつの日か、死神の手に落ちる。眠ったまま死の淵へ転がり込んだ姫は、きっと魂だけになっても夢を見ているだろう。 それは悪くない。夢の中であれば、姫は死神を恐れないだろうから。脳天気な姫のことだから、夢の中ならばと死神へ「お友達になりましょう」と手を差し出すかもしれない。 多くを望まなかった死神が、段々と欲を見せ始めた。天秤を揺らす死神に、同僚は愉快げに細めた目を向ける。
「姫と仲良しの妖精を使うといい。あいつら、面白いもの持ってるからなあ」
面白いものとは何か。死神が問うと、同僚は「眠りの粉さぁ」とあっさり答えた。 眠りの粉。本来眠り妖精しか持たないものを、姫と仲良しのいたずら妖精は持っているらしい。いたずら好きの性悪妖精のことだから、眠り妖精からくすねたのだろう。 死神は良い提案をしてくれた同僚に礼を言うと、姫が目を覚ます前に、いたずら妖精を探しに行った。
妖精は森の中にいる。その常識は死神の頭蓋骨にも存在した。まだ夜更けの森は静かだった。音も立てず移動する死神が自分の元へやってこないか。夜行性の動物たちは息を殺し、死神の一挙手一投足を見つめていた。 動物たちの視線を受け、死神はいたずら妖精を探した。暗い眼窩の中で、苛立ちの炎が燃え始める。死神の憂さ晴らしに命を奪われることを恐れ、動物たちは翼で、尻尾で、いたずら妖精の寝床を指し示した。 いたずら妖精は、高い木の中程、細い枝の上で眠っていた。妖精のくせに眠るだなんて生意気な。死神はぼそりと呟くと、いたずら妖精の羽を摘まんで持ち上げた。とんぼのものより薄い羽は、骨だけの指で摘ままれくしゃりと皺を寄せた。
「痛い、痛い、痛い!」
摘まみ上げられ宙に浮いた妖精は、涙をこぼしながら手足をばたつかせた。その程度で死神の指は離れない。妖精は寝ぼけ眼をこすりながら、自分の羽を摘まむのが死神とも知らず口汚く罵った。
「てめえ、どこのどいつだ! 眠ってる相手に乱暴しやがって!」 「あまねく命を刈り取る唯一の者、死神だとも」
夜風が死神のローブをはためかせ、骨の隙間から風が吹き込み、恐ろしい音を立てる。極めつけにしゃれこうべの顔を突きつけられては、威勢の良かった妖精も情けない悲鳴を上げてしまう。 羽を摘まんだままの死神は、大鎌の刃先で妖精を脅した。
「眠り妖精の粉を持つお前なら、姫を永久の眠りにつかせられるだろう。さあ、やれ。鎌で切られたくなければな」 「そんなの、羽をもがれたってお断りだい!」
死神の大鎌が恐ろしくないはずもないのに、妖精は小さな体を目一杯大きく膨らませ、虚勢を張った。しかしそんなもの、死神の眼窩に驚異として映るわけもない。生意気な奴めと苛立つ死神に、妖精は舌を突き出した。 真っ暗な眼窩の向こうに、火花が散った。妖精があっと声を上げ後悔した頃にはもう遅く、妖精の青みがかった透明な羽は大鎌の刃でちょんぎられていた。 落ちる妖精を、骨だけの手のひらが受け止める。それは決して慈悲からではない。死神の眼窩では青い炎が揺れている。痛みにのたうち回る妖精に、死神はなおも大鎌の切っ先を突きつけた。
「そら、次はどこを切られたい? さあ言ってみろ。お前の意地を見せてみろ」 「わかった、わかったよ! もうやめろよぅ」
涙を拭き拭き、妖精は死神に従うことにした。羽のない妖精はもう飛べない。死神が手に乗せなくては動けない。羽ではなく足をもげばよかったかと反省しながら、死神は妖精を連れ城へ戻った。 姫の寝室を訪う時のように、金城鉄壁であるはずの塔に入る。階段を上り、姫の寝室を素通りし、塔の頂上へ出る。夜風が死神のローブを、涙に濡れる妖精の頬を撫でた。 死神はまだすんすんと泣いている妖精をせっついた。妖精は「いやだ」と首を振ったが、死神が許すはずもない。大鎌を取り出し、次にもぐ部位を選る。
「手をもいでは眠りの粉をまけないだろう。となると、次にもぐべきは足になるが」 「わかったよ、わかったからもう、鎌を出すなよぉ」
妖精は渋々眠りの粉を取り出すと、風に乗せて眠りの粉をまいた。 風に乗った眠りの粉が、月明かりを受けきらきら輝く。風は死神の恋路を応援するかのように、城の隅々まで、城の外にまで、眠りの粉をくまなく運んでいった。 鼠一匹見逃すまいと瞬きすら惜しんでいた門番が、とろけるような心地よさに瞼を閉じた。明日の朝食を仕込んでいた給仕係たちは、食べきれぬほどの豪勢な食事を振る舞われる夢を見始めた。姫の寝室を見張る侍女にいたっては、夢の中でも寝室の番をしている。 城のあちこちに潜んでいた鼠たちは、自分の尻尾を、仲間の体を枕に、大きなあくびをして目を閉じた。月に恋い焦がれる花も、闇夜を払うため揺れていた炎も、粉を被ったすべてが覚めない眠りについた。 死神は塔の上から、すべての命が眠りにつくのを見守っていた。 すっかり粉をまき終えた妖精が、不安げな顔ですんっと鼻を鳴らす。
「ずっとこうはいかないぜ。いつかはきっと、姫を眠りから目覚めさせる奴が現れる」
それがどうしたと、死神は首を巡らせ妖精を見下ろした。
「そうなれば、そいつの命を刈り取るだけだ」
――わたしを誰と心得る。わたしは死神、命を刈り取る存在ぞ。
恐ろしいほど低い声で言うと、死神は妖精をぽいと放り投げた。妖精はもがれた羽の痛みに泣きながら、後悔に胸を痛めながら、ぽてぽてと歩いて森へ帰っていった。 死神はないはずの耳を澄ませ、城中から微かに響く寝息を確かめた。誰も彼も深い眠りについている。自力では起きられないほどの、深い、深い眠りだ。 しかし、すでに眠りについていた姫はどうだろう。死神は恐る恐る、塔の中へ入った。 眠る姫をそっと覗き込む。寝台の上で、姫は変わらず眠っていた。窓から差し込む月明かりが、姫のふっくらした頬を青白く照らす。幸せそうな微笑みは、昼日中の太陽よりも眩しい。時折漏れる喃語の愛らしさときたら、死神はこれ以上のものを知らぬほど。 どれもいつもと変わらない、愛しの姫のものだ。死神の体がせめて猫であれば、感嘆のため息くらいはつけただろう。 死神は骨だけの手を、姫に向かってそっと伸ばした。野ざらしで白くなった指先は、姫の豊かな髪に触れようとして動きを止めた。何度か近づいては離れを繰り返した白い指は、姫に触れるのを諦めた。触れずとも、死神のがらんどうの胸は幸せで満ちていた。
「愛しの姫。目覚めぬ姫。これでようやく、ようやく!」
喜びを、興奮を、感動を表す言葉が死神の中で溢れかえる。空っぽの胸に骨だけの手を置き、死神はしばし、激情に酔いしれた。 ひとしきり己の感情に溺れ気が済んだ死神は、姫の寝台にそっと腰掛けた。
「これで永遠に、あなたはわたしのものだ」
先ほどはためらった指先が、姫の頬に触れる。何も知らない姫はただ一言、「おなかいっぱい」とだけ呟いた。