あなたがさびしくなったらね

 その竜が目を覚ましたのは、広い広い原っぱで、ちょうど春の頃だった。竜は体を起こそうとして、自分の体が錆の浮いた鎖に押さえられていることに気づいた。  錆の浮く前は、さぞ強い力で竜を縛り付けていたのだろう。しかしそれも、竜が身じろいだだけで塵芥となって風に散った。  劣化し崩れた鉄を運んだ風は、暖かかった。優しい春の風だった。  竜の足下には柔らかくみずみずしい草が生い茂り、開いたばかりの花も見える。穏やかな景色だった。  けれど竜の心には冷たい風が吹いていた。  竜の胸には、ぽっかり穴が開いていた。実際に開いているわけではない。けれど確かに、大きな穴が開いている。

 ――寂しい。  ――恨めしい。

 ほろほろと涙がこぼれそうになったとき、そよ風よりも頼りなげな声が竜の心に蘇る。

「あなたがどうしても××××なったとき、また会いに来るよ」

 声と同時に、己に向かってそう言った誰かの顔が脳裏に|過《よぎ》る。  顔は、はっきりと思い出せない。声も、朧気で頼りない。けれどそれは己と異なる種族、人間の娘だとわかる。そしてその人間の娘と、自分に深い縁があったこともわかった。

 ――会いたい。もう一度声を聞きたい。

 どれだけ望んでも会えないのだと、唯一残っている記憶が教える。  ××××なったとき、と娘は言った。それは何になったときだろう。どうなったら、会えるというんだろう。  答えのないまま、竜は起き上がって体を揺すった。  鱗の隙間に入り込んだ錆が、風に乗って飛んでいく。その錆を追うように、竜は歩き出した。

 広い原っぱを飽きるほど歩き過ぎれば、人間の住む集落があった。ここは、記憶の中の娘と関係があるのだろうか。そう思って竜が集落に踏み入ると、悲鳴が上がった。人間たちの悲鳴には彼らの言葉も混じっていたが、竜にはわからなかった。  人々は己が住処に隠れ、縮こまり、竜に通じぬ言葉で何かを祈る。竜に懇願する。

「昔はお前たちも、同じ言葉を使っていたのに」

 そう呟いて、竜は思い出せない過去に人間そのものと交流があったことを知る。ああそうか、と納得した。でなければ、人間の娘を恋しく思うはずもなかった。  人間たちは竜の前に出ようとはしなかった。竜は失われた記憶を彼らから引き出すのを諦め、集落を抜けた。

 風はまだ吹いている。

 歩き続ければ、何か思い出すかもしれない。  歩き続ければ、何か見つかるかもしれない。  歩き続ければ、恋しい誰かが見つかるかもしれない。

 竜はあちこち巡って、記憶の蘇るのを期待した。しかし、思い出せなかった。  竜はあちこち巡って、記憶の欠片を探した。しかし、見つからなかった。  竜はあちこち巡って、記憶の誰かを探した。しかし、どこにもいなかった。

 進めば進むほど、原っぱから離れるほど、人間の竜への態度は変わった。怯えるどころか、害意を向ける者が増えた。明確な殺意を持って、竜に矢を射て火をかけて、時に知らぬ奇妙な武具を使って竜を傷つけた。  その度に竜は怒り狂った。人間に武器を向けられるのは業腹だった。そうされることで大切なものを《《また》》奪われる――ような気がした。  奪われたのは記憶の中の娘だろうか。確かめたくとも、そうする|術《すべ》はどこにもない。

 巡り巡る季節を追うように、竜も世界を巡り巡った。  探すものはどこにもなかった。どこにもないまま、竜は彷徨った。  そして竜は、再び原っぱに帰ってきた。世界をぐるり一周しても、記憶の娘には会えなかった。

「名も思い出せぬお前に、どうしても会いたいよ」

 竜はぽつり呟いた。  とても寂しかった。つらかった。醒めぬ眠りについてしまいたいほどに、恋しかった。  はらはらと涙をこぼし、竜は丸くなった。  涙が鱗の上を滑る。涙が若草の上に落ちる。目を閉じた瞬間だっただろうか。それとも眠りに落ちながらまだ泣いていたのだろうか。  いずれにせよ竜は、己に向けられた「あはは!」と快活な笑い声で目を覚ました。

「会いに来るって言ったんだから、待ってればよかったのに!」

 顔を上げれば、遠く向こうから歩いてくる人間の姿が見えた。もはや照合する記憶もないが、それが求めていた姿だとわかった。  求めていた声はこれだ。  求めていた色はこれだ。  求めていた笑顔は、これだ。  人間はゆったりと歩いてくる。すまなそうに、はにかむように人間は笑った。

「お待たせ、私の|半身《つがい》」 「遅いぞ、我が|片割れ《つがい》」

 体が重い。立ち上がることもできない。けれどいい、最期につがいと会えたのだから。  |片割れ《つがい》が駆けてくる。鱗に覆われた頭を、毛皮もないか弱い腕が抱きしめる。  異なる種が流した涙が、混ざり合って花に散った。