猫を奏でる・ピアノ編

「あらあら、まあ」

 皺だらけの手を口元に添え、私は声を上げた。  家事の最後はピアノの部屋を掃除する。それがルーティーンだ。しかし部屋に入ると、私のピアノが消えていた。  ここ最近弾いていなかったものの、毎日きちんと掃除はしていた。だから昨日までは確かにあったと言い切れる。  ピアノが消え、相棒である椅子だけが定位置にいる。けれど寂しそうに感じないのは、その上に八割れ猫がいるからだ。  白黒の猫は椅子の上で、誇らしげに私を見つめる。猫なのにぴんと背筋を伸ばし、きちんと前足を揃えている。揃えられた足先は、白と黒が交互に並んでいる。

 どうやら、ピアノが猫になったらしい。

 猫は長生きすると化けるなんて言うけれど、ピアノも化けるのだろうか。付喪神になったのかもしれない。百年も使ってはいないのだけれど。  そんなことを考え戸惑う私に、ピアノらしき猫は微笑みかける。愛想のいい猫だ。  椅子の上にきちんと座った猫は、さあどうぞお弾きなさいと言わんばかりに前足を差し出してくる。私は恐る恐る近づき、椅子の前に膝をついた。

 そろりと手を伸ばし、指先で猫の白い指を押す。猫はドの音で「にゃん」と鳴き、続きを促すような目で私を見る。嫌がってはいないようだ。  そのままチューリップを弾き、猫が嫌がらないか、痛がりはしないかを注意深く観察する。私の心配をよそに、猫は気持ちよさそうに目を細め、弾いた通りの声で鳴いていた。  チューリップを弾き終え手を離すと、猫は不満げに「にゃん」と鳴いた。まだまだ足りないらしい。まだ弾いてもいいのならと、猫踏んじゃったを弾いてみた。前足をぶにぶにと押されているのに、嫌がりも、痛がりも、くすぐったがりもせず、猫は私の演奏通りに鳴いてみせた。  演奏されて喜ぶなんて、猫の姿になっても、やっぱりピアノはピアノだ。《《あの子》》とは違う。

「ありがとう。慰めてくれてるのね。それとも――」

 別の曲を弾きながら、私はピアノに尋ねた。

「あなたも、寂しくなった? マルルはいつも、あなたの上に飛び乗って昼寝していたものね」

 愛猫マルルが死んだ。一ヶ月前のことだ。幸いなことに、老衰だった。病で苦しまなかったことだけが救いだ。  けれどそれは猫にとってのことであり、私にとって救いはない。愛する家族を失って、救いも何もないでしょう?  悲しむ私を、家族はそっとしておいてくれた。よその猫のことすら話題に上げず、私がいつか乗り越えるのを待っていてくれる。  けれどこの子は待ちきれなかったようだ。

「私、あんなにピアノを弾くのが好きだったのに、マルルのために葬送曲も弾いてないわ」

 あんなに好きだったのに。  マルルがそばで聴いていてくれるピアノが、大好きだったのに。

「ねえ、今日だけは猫でいてくれる? 明日からはちゃんと、普通の毎日を送るわ。マルルのこと忘れずに、マルルのことを覚えたまま」

 ピアノは「にゃう」と目を細め鳴いた。うなずいてくれたのだ、と私は思うことにした。もしかしたら「もちろん」と言ったのかもしれない。  それから私は、その日は一日ピアノ猫を抱いて過ごした。ピアノ猫は嫌がらず、マルルがそうしてくれたように、私と同じベッドで眠ってくれた。  そして翌朝目を覚ますと、腕の中に猫はいなかった。起き出して、ピアノの部屋へ行く。  ピアノはいつもの場所で、朝日を浴びて佇んでいた。  蓋を開け、そっと鍵を押す。  ピアノも寝ぼけるのだろうか。あの子の声に似た、にゃん、と高い音が響いた。