ある呉服屋に、それはそれは心根の良い娘がいた。主人も奥方も娘を深く深く愛し、大事に育てた。 そんな娘にはたった一つ、疵があった。なぜだかあやかしに好かれやすいことだった。きっと、娘の魂があまりに清らかで眩しいから、明かりに近寄る羽虫のように惹かれてしまうのだろう。 あやかしの好意は人間のそれとは違う。娘はあやかしの妖気に当てられ、幼い頃から何度も高熱を出し死の淵をさまよった。 坊主に神主、山伏に陰陽師まで呼ばれたが、娘のあやかし好かれはなかなか治ることがなかった。けれど一人だけ、娘に近寄るあやかしを払うことができた。それは呉服屋の得意先である武家の、三男坊であった。娘とさほど年の変わらない彼だけが、祈祷も護摩炊きもせずにあやかしを祓えた。それも、家から持ち出した脇差し一本だけで。
「我が家は昔、帝の娘をほしがる大蛇を脇差し一本で斬り捨てたそうだからなぁ」
武家の当主は誇らしげに三男坊の武勇伝を語った。 娘は自分をあやかしから守ってくれる三男坊に大層懐き、ことあるごとに家へ招きたがった。三男坊は年の割にとても頭が回ったので、この娘に懐かれれば食い扶持には困らないだろうと計算した。娘に頼られるがまま、どんなときも共に行動してやった。 三男坊にとって計算外だったのは、娘が自分へまっすぐな好意を向けてきたこと。
「いつも助けてくれてありがとう。あなたがそばにいるだけで、安心できるの!」
その好意を、三男坊自身嬉しく思ってしまったこと。
「わたしね、たぶんあなたのことが大好き」
自分までも、娘に好意を向けるようになってしまったことだ。
「おれも……あんたが笑いかけてくれると嬉しい。あんたがあやかしに苦しめられ、泣かされると、腹立たしい。おれは……いつまでも、あんたのそばにいたい」
それから二人は、いつでも一緒にいるようになった。
「留吉さん」
幼い頃、娘は三男坊をそう呼んだ。
「呉服屋のお嬢さん」
幼い頃、三男坊は娘をそう呼んだ。 けれど成長するにつれ、二人が互いを呼び合う名は変わっていった。
「信之助さん」 「お雪さん」
二人が恋仲になったのは、公然の秘密であった。呉服屋は奉公人として信之助を迎え入れた。いずれはお雪の夫として迎え入れようという算段だった。周りからはやっかみもありきつい仕事ばかり回されたが、信之助は逃げ出したりしなかった。お雪を幸せにする。そのために仕事を、作法を覚えた。 両家公認である二人の仲が引き裂かれようとしたのは、ある冬のことだった。雪の降りしきる中、二羽の鴉が呉服屋の食卓へ現れた。
「お山の主が嫁をほしがっている」 「お前たちの商売を繁盛させている見返りに、嫁をほしがっている」 「娘を寄越せ」 「お前たちが大事にしている娘を寄越せ」 「さもなくばこれまで通り商売なぞできなくなるぞ」 「一家は散り散り、物乞いにまで落としてやるぞ」
鴉はそう言い捨てると、笑うように鳴きながら飛び立っていった。奥方が「一体どういうこと」と夫に詰め寄る。呉服屋の主人は、自分たち御店の主人は代々お山の烏と契約を交わして商売を繁盛させていたと白状した。
「だけど聞いてくれ、今まで人を捧げたことはないんだ! 本当だ!」
鴉は鴉らしく、きらきら輝く金銀財宝さえあれば満足していた。
「だのに、今になって何だってお雪をほしがるんだ!」 「そんなことわかるわけないじゃない!」
きっと、金銀財宝よりも、お雪の魂の輝きに魅力を感じてしまったのだろう。それほどまでにお雪の魂は輝いており、清らかであった。 大声を上げ涙混じりに罵り合う夫婦を止めたのは、娘お雪の一言だった。
「なぜと言ったって、仕方ないんでしょう」
食事の手を止めていたお雪は、ぽつりと呟いた。
「私がお嫁に行かねば、家は潰れてしまうのね」 「いや……お雪、考えてみよう。山伏を呼ぼうか。いや坊主に頼むか? 神主でもいい、それかお侍さんに金を積もう!」 「そんなことをして機嫌を損ねたら、私が嫁入りしても許してくれなくなると思うの」
お雪は背筋を伸ばし、静かに微笑んだ。
「お嫁に行きましょう。望まれて迎えられるのです、いじめられはしませんわ」
一人娘の覚悟を、どうして無下にできようか。いや、そうではない。主人も妻も、今の生活が捨てられなかった。御店で働く者たちの生活を守らねばならぬ立場だった。娘が嫌がらないことをいいことに、突如悲劇に見舞われた夫婦を演じることにしたのだ。 お雪の両親は、お雪を山の大鴉へ嫁にやることを決めた。 数日後、お雪が嫁入りする日取りが鴉の使いによって告げられ、呉服屋ではお雪のための白無垢が準備された。嫁入りのための準備や駕籠の手配がされる中、信之助はお雪と共に逃げるため、呉服屋で働く傍らこっそりと準備を進めた。 そしてお雪が大鴉に嫁入りする前夜。信之助は、お雪の部屋へそっと入った。お雪はまるで信之助を待っていたかのように、部屋の真ん中で、布団も敷かずじっと座っていた。 信之助はお雪の前で膝をつき、お雪の細い手を取った。
「お雪、逃げよう」 「信之助さん」
お雪は信之助を見つめ、静かに微笑んだ。
「あなたはきっと来てくれると思ってました」 「裏に駕籠を手配した。行くぞ」 「待って」
お雪は信之助の手をほどき、立ち上がろうとした信之助の顔に手を伸ばす。お雪と信之助の唇が重なった。そんな暇なぞないのにと信之助が思ったのもわずか一瞬、自分の口に流された何かを思わず飲み込んでしまい、信之助はお雪から顔を離した。飲み込んだものを吐き出そうとしてももう遅い。信之助は目眩と強烈な眠気を覚え、体を傾がせた。 畳に手をつく信之助を見つめ、お雪は目に涙を溜め謝る。
「ごめんなさい。あなたならきっと、私を連れ出そうとしてくれると思ってた。でも、行けないの。家を、この御店を潰すわけにはいかないから……」
信之助は「待て」と言いたかった。立ち上がるお雪の手を取りたかった。けれど伸ばした手は届かず、引き留めようとした言葉は声にならず、信之助はそのまま、不本意な眠りに落ちた 信之助が起きたのは翌日の昼だった。場所はお雪の部屋ではなく、奉公人の部屋だった。奉公人たちが「こんな日に寝坊しおって」と悪態をつくのも聞かず、家から持ち込んだ唯一の荷物を手に店を飛び出す。 雪の降る中、信之助は走った。大鴉のいる山の方角は知っていた。大鴉の棲まう山はいつだって妖気が放たれている。それを放っておいたのは、お雪に害がないと思っていたからだ。 山へ分け入り、駕籠より先に山頂へ行かんと進む。 着の身着のままで飛び出した。素足に草履。そのままで雪の中で走ると突き刺すような痛みがあったが、足を止める理由にならない。 雪が足を取る。それでも信之助は走った。 走って、走って、走った。この先へたどり着いた後のことなど考えず、ひたすらに走った。 信之助の頭上、木の枝の上で、鴉に似た鳥が鵯のように囀る。
「歩いてったよ、歩いてったよ」 「花嫁は一人で歩いてったよ」 「お山の主に嫁入りするため歩いてったよ」 「お供もつけずに歩いてったよ」 「どこへ行った」
信之助が唸るように尋ねると、鳥たちはくすくすと笑った。
「この先さぁ」 「この先だとも」 「だってお山の主は」 「山頂に巣を作ってるんだから!」
けたけたと笑い声をあげ、鳥たちが飛び去る。信之助は飛び去った鳥たちを睨みつけ、その時間を惜しむように再び走り出した。 道が良かったのだろうか。魔を払う刀のお陰だろうか。 信之助が山頂にたどり着いたとき、お雪はまだそこにいなかった。いるのは大岩ほどもあろうかという大きな鴉のみだ。
「におう、におうぞ」
大鴉が大きく口を開ける。
「お前から、我が嫁御のにおいがするぞ!」 「ああ何せ、昨夜はお雪に口づけられたからな」
翼を広げた鴉が、その鋭い嘴を信之助に突き立てんと飛びかかる。信之助は転がるようにしてこれを避け、抜刀する。懐に入らねば刃は届かない。だが信之助には刃を大鴉の心の臓へ届かせる自信があった。 何せそれは、鱗の隙間を縫って大蛇を仕留めた先祖の所業よりは簡単なはずだったからだ。 信之助が血だらけになって大鴉の心臓に刃を突き立てたのと、お雪が白無垢姿で山頂にたどり着いたのはほぼ同時だった。お雪は呆然と立ち尽くし、信之助は新雪を赤く染めながら立ち尽くした。
「お雪」
信之助が、静かな声でお雪を呼ぶ。
「し、信之助、さん」
お雪が、震える声で信之助を呼び、一歩近寄る。
「逃げよう」 脇差しを鞘へ戻し、信之助はぽつりと言った。
「お前となら、どんな生活も耐えられる。けどお前のいない生活は、たとえ裕福でも耐えられない」
信之助の顔は驚くほど静かで、声には厳かさすらあった。お雪はほろほろと涙をこぼしながら、また一歩信之助に近づいた。
「薬がまだ、抜けきらなかったでしょう」 「あんな眠気、雪の中を走れば忘れた」 「足が凍えて、ひどい色になってる」 「この程度、お前が一人で歩いたことを思えば何てことない」 「こんなに怪我をして、痛かったでしょう」 「お前を奪われるくらいなら、腕の一本だってくれてやるつもりだった」 「私を……私を、御店よりも何よりも、選んでくれたんですね」 「ああ。だからお前も俺を選んでくれるか、お雪」
それからお雪の呉服屋は商売が立ち行かなくなり、静かに店を畳んだらしい。雪山に入った二人の行方は、杳として知れない。だが噂では、二人によく似た若い夫婦が、雪の降らない海辺の村で静かに暮らしているらしい。