呪い師のお兄さんは少し不思議で少し優しい

目次

耳に棲まう毒虫

 天蓋を見上げ、その向こうに顔を見た――気がした。怖くて目を瞑っても、まだそこにぼんやり佇んでいる気がする。  睡魔がやってくる気配はない。代わりにやってくるのは昼間、学校のお友達からかけられた心ない言葉ばかり。

「春風さん、また駆けっこで最下位ですのね!」

 今のは、学年で一番足の速い花緑さんの声。

「春風ではなく、亀足さんと改名されたら?」

 今のは、学年で一番知識のある桃葉さんの声。

「あら、亀に失礼じゃありませんこと?」

 今のは、学年で一番お友達の多い紅蕾さんの声。  私が駆けっこが遅いのは、本当のこと。だけどそれが『春風』という名にふさわしいか否かは別問題。  この名前は、お母様が私の生まれた日にちなんでつけられた名前。あたたかな春風のように、誰かを優しい気持ちにさせられる子になるようにと与えてくれた名前。  その名を、足が遅いからなんて理由で変えたくない。変えられたく、ない。

 ――言い返さなきゃ。この名前は、お母様の気持ちが詰まったものですって。足が遅いくらい何ですかって、言い返さなきゃ。

 そう思っても、私の口は石のように固く閉ざされ、顔は自然と伏せられうつむくだけ。私を笑う声を、頭上から浴びせられるだけ。  そんな昼間のことを思い出すせいか、睡魔はますます遠ざかる。ここ最近……もう三日にもなるだろうか。ずっと、こんな風に寝付けない。

「明日も学校なのに、どうしよう……」

 呟いたって、誰も助けてくれない。お父様が異国から取り寄せた寝台で寝返りを打つ。よく眠れるようにと用意してくださった物だけれど、ふかふかすぎて落ち着かない。お母様が生きておられた頃、一緒に寝ていた頃のような、どっしりと重い布団の方が落ち着くのに。  そうやって眠れぬ夜を過ごし、学校へ行き、また眠れぬ夜を過ごす。授業中どうにか居眠りをせずに過ごせたのは、奇跡に近い。  もうすぐお休み、お休みになれば安心感から眠れるから。そう言い聞かせてようやく迎えた休日前夜も、私は眠れないまま、明るくなる天井を見つめていた。  鏡を見なくても、自分がどれだけ酷い顔をしているかわかった。幸いなことに、お父様はお仕事で滅多と顔を合わせない。この日だって、昨夜から家に帰っておられなかった。  私はほっとしながら、身支度を調えた。お父様にこんな顔を見られたら、次は何を買い与えられるかわからない。貿易商のお父様は、すぐ私に異国の物を与えたがる。私は異国の煌びやかなものよりも、生まれた国の、侘び寂を感じるものが好きなのに……。  なんて考え事をしながら、じいやたちが準備してくれた食事を食べ、ひどい顔を心配されながら、「散歩してくる」と庭へ出た。体がへとへとになれば、少しは眠れると思ってのことだった。  庭はお母様好みの、花を咲かせない木ばかりが植えられている。

「花が咲かねば季節がわからんだろう」

 お母様が生きておられた頃、お父様は口を尖らせ不満そうだった。そんなお父様に、お母様は花のように微笑んでいた。

「季節の移ろいを表すのは、花だけではないでしょう?」

 お父様は「ぐぬぬ」と唸るだけで、反論されなかった。お母様が儚くなられた今も、お母様の好きだったこの庭にだけは手を加えておられない。これからも、そうであってほしいと思う。  ひんやりした風に頬を撫でられ、自分が散歩中だったことを思い出す。湿気を含んだ風は、近づきつつある夏を意識させる。  こんなに過ごしやすい気温なのに、寝不足のせいか、体は重く足下は覚束ない。飛び石を踏みしめ、一周だけ、一周だけ歩いたら部屋へ戻ろうと決めて歩く。  庭を一周するには、途中にある池を越えなくてはならない。本当は越えなくても一周できるけれど、今はもう、早く部屋に戻りたい。池を渡ればその分早く戻れる。  早く帰ろう、早く戻ろう。そう気が急いていたせいか、石橋を渡ろうとして、足を踏み外した。

 ――あっ、落ちる。

 そう思って目を瞑ったけれど、私の体は「おおっと」と気の抜ける声に受け止められた。

「お嬢さん、顔色がお月さんのようになってますぜ」 「お、お兄さん……」

 私を抱き留め笑うのは、父が異国から呼び寄せた〝|呪《まじな》い師〟のお兄さんだ。  お日様の光を集めたみたいな髪と、顔の半分を隠す|面紗《ベール》が一番に目を引く。その次に目と耳を引くのは、装飾品の多い衣服。洋服ともまた異なる形の衣服には、不思議な形をした色とりどりの小石がたくさん縫い付けられ、時にぶら下げられている。  それらに目を引かれた後にようやく、お兄さんの猫みたいな目に気づく。お月様のような、太陽のような、そんな色。笑うと糸みたいになるところも、うちの黒猫の持つ目そっくりだ。  お兄さんは「まあ座りましょうや」と異国の人とは思えない口調で私を縁側まで運んだ。掃除をしていた女中にお茶とお菓子を言いつけ、お兄さんは私を隣に下ろす。なすがまま、私はお兄さんの隣に腰を落ち着けた。

「いやあそれにしても、ひっどい顔色ですねえ。寝てないんじゃないですか? 子供は寝なきゃ育ちませんぜ」 「眠いけど……眠れないの」 「あれま。そりゃまたどうして」

 お兄さんの飄々とした態度のせいか、学校では石のように重い私の口はすんなり開き、級友に浴びせられた言葉が耳から離れないことを打ち明けていた。

「学校のお友達に……嫌なことを言われて。それが、夜になるとすぐそばで聞こえて、眠れなくなるの」

 いつからだろう、仲の良かった級友から疎まれるようになったのは。  いつからだろう、悪意ある目を向けられるようになったのは。  いつからだろう、棘のある言葉を放たれるようになったのは。  彼女たちから向けられる棘ある言葉が、耳から離れない。  私の話を聞いたお兄さんは、「なるほど」とうなずいた。

「そいつぁ虫のせいですねぇ」

 さらりと断定したお兄さんは、「参ったもんだ」と腕組みをした。

「あんな小虫に悩まされて可哀想に。俺が取ってあげましょう」

 お兄さんは私の返事も待たず、「お耳を拝借」と私の右耳に触れた。これはお兄さんが私の右側にいたからだ。左側にいたら、左耳に触れられていたと思う。  お兄さんはしげしげと私の耳を見て、「なるほどなるほど」と一人でうなずいている。

「うん、よしよし。これならすぐ取れまさぁ」 「痛い?」 「ちぃっとも」

 私を安心させるように優しく笑ったお兄さんは、私の耳たぶをとんとんと叩いた。確かに、このくらいならちっとも痛くない。  違和感なんか何もなかったけれど、お兄さんは手応えを感じているみたい。

「そぉれ、抜きますよ」

 何かを指で摘まんだらしいことは、見えなくても察せられた。それでも、引き抜かれる感触は何もなかった。  別に見せてくれなくてもいいのに、お兄さんは得意げな顔で手のひらに置いた《《それ》》を見せてきた。

「こいつですよ、お嬢さんに悪さしてたのは」 「……何か、言ってる」

 お兄さんの手のひらには、もぞもぞ動く小さなものがいた。それは確かに虫だった。人の顔をした、七色に光る黒い虫だった。

「お嬢さんに向けられた悪意ですねぇ。卑怯な|呪《まじな》いですよ」

 そう言うと、お兄さんは虫をぷちりと潰した。

「《《返し》》をやる価値もねえ」

 お兄さんは冷たい目でぼそりと呟くと、すぐににこにこ笑って私に向き直った。

「お嬢さん、こんなもんに惑わされるなんざ時間の無駄ですよ。また困ったら俺に言ってください。すぅぐ解決してみせますぜ」 「うん……ありがとう」

 お兄さんは、頼りになる。この家に来たばかりの頃も、謎の熱に浮かされていた私を助けてくれた。医者に匙を投げられ、祈祷師にも諦めろと言われ、高名な住職や神職にも首を振られた私を、お兄さんは助けてくれた。  お兄さん――名前、なんて言ったっけ。

「おや、お忘れで? ふはは、何度でも名乗りましょう。俺の名はナイラ。|呪《まじな》い師のナイラです」

 ああ、そうだった。ナイラ、ナイラだ。どうしていつも忘れてしまうんだろう?  首を傾げる私を見て、お兄さんことナイラは、ふははと高らかな笑い声を響かせた。

金魚服

 眠れるようになり、季節が進み夏も終わろうという頃だ。学校帰りに、私は露天商のおじさんに呼び止められた。

「お嬢さん、お嬢さん。変わりたいと思ったことはないかい?」

 そんなの、いつもだ。もっと強い子になりたい、もっと明るい子になりたいといつも悩んでいる。  私が返事もしていないのに、おじさんは「そんなあんたに《《金》》《《魚服》》」とひらひらした赤い|婦人服《ドレス》を見せた。金魚の鰭のような、華やかな洋服だ。地面に広げた茣蓙の上にはそんなものなかったのに、どこから出したんだろう?

「細かいこたぁどうでもいいじゃないか。お嬢さん、あんたぁ、変わりたいんだろう? この服はね、あんたを金魚に変えちまうのさ」

 私が歩いているのは、いつもなら人通りの多い道だ。小売店が並ぶ通りだ。そんな場所に、露天商が居座るなんてできただろうか。おじさんに声をかけられるまで、周りにはたくさん人がいた気がする。だけど今ここは静かで、私とおじさん以外誰もいないみたい。夜だってもっと賑やかなのに、どうしてこんなに静かで、人がいないんだろう。  次々浮かぶ疑問を、おじさんの声がぴしゃりと遮る。

「お嬢さん、こいつはあんたへの|贈り物《プレゼント》ってやつさ。うつむいて一人ぼっちで歩いてるあんたの人生に、ちょっとした彩りを添えてやりたくなったのさ。じじいの気まぐれに付き合うと思って、受け取っておくれよ」 「でも……金魚になるなんて、怖い」

 尻込みする私に、おじさんは「怖くなんかないさ」と猫なで声で請け負った。

「本物の金魚になるわけじゃない。こいつを着ればあんたは、空を浮く不思議な金魚になる。まあ長く着続けりゃあ本物の金魚になっちまうんだが……あんたが人間を辞めたくないなら、違和感覚える前に脱いじまえばいいのさ」

「怖くない」「すぐ脱げばいいだけさ」と説き伏せられ、私は断り切れず《《金魚服》》を受け取らされた。  途端に、周りの賑やかさが戻ってきた。官憲が「そこの男!」と走ってくるのが見える。おじさんは驚くほど素早く荷物をまとめると、私に「大事に着とくれよ」と片目を瞑って人混みに飛び込んでしまった。  官憲は私に目もくれず、おじさんを追いかける。おじさんから受け取った金魚服を鞄へ仕舞い、私はまた家路を歩いた。

***

 さてそれから、家に帰った私は宿題に追われたり珍しく帰ってきていたお父様の相手をしたりと忙しく、怪しいおじさんにもらった金魚服のことなんてすっかり忘れていた。  思い出したのは、夜、寝支度を終えて窓の外の満月に気づいたときだ。金魚の目のような、まん丸の黄色いお月様だった。

「ほんとに金魚になれるのかしら」

 鞄から、金魚服を出す。するりと出てきた金魚服は繻子のような触り心地で、魚みたいにひんやり冷たい。金魚服は複雑な構造ではなく、頭から被って腕を通せば着られるようだった。  寝巻きの上から、すぽんと被る。腕を通したときには私の腕は鰭と化し、足は長い尾鰭に変わっていた。  金魚服を着た私は、紛うことなく金魚になっていた。おじさんが言っていた通り、体は宙に浮いている。  体をくねらせれば前へ進み、頭を傾ければその方向へ曲がっていく。雪が降った日にじいやが乗せてくれた橇を思い出した。

 ――長く着続けりゃあ本物の金魚になっちまうんだが……。

 おじさんは、そんなことを言っていた。そうなる前に違和感を覚えるはずだから、そのときに脱げばいいとも言っていた。違和感って、どんな違和感だろう。でもおかしいから違和感って言うんだし、きっとわかるよね。  窓枠に体をぶつけ、無理矢理窓を開けて外へ出る。月夜を浴びた|金魚《わたし》の影が、庭に落ちる。それを見て、私は体がぶるりと震える楽しさを覚えた。  庭の木を越え、屋根を越え、敷地内をふよふよ飛び回る。明かりを点して繕い物をする女中のお梅、帳簿と睨み合い頭を抱える番頭さん、お父様と何やら話し込んでいるじいや。誰一人、私に気づかなかった。まるで幽霊にでもなった気分で、それがさらに私の気分を高揚させる。

 わくわくして、体がぶるりと震えたせいだろうか。  普段知らないみんなの様子を見て、悪いことをした背徳感にくすぐったさを覚えたせいだろうか。  どちらも体の違和感として捉えるべきだった。私は自分の息が苦しくなって初めて、金魚服の制限時間を越えたことに気づいた。  息苦しい。体が重い。どんどん地面に近づいていく。痛いほどの早さで体が縮んでいく。

 ――本物の金魚に近づいてる。私、人間に戻れなくなる!

 焦って金魚服を脱ごうとして、鰭となった手では服を――そもそも金魚になった自分に衣服をまとっている感覚がないことに気づく。  ぽとりと地面に落ちた私は声を上げることもできず、ただ虚しくぴちぴちと跳ねた。  このまま息ができず干からびて死ぬのだろうか。  そんな恐怖に、涙の出ない体でしくしくと泣いた。お月様は憎らしいほどの明るさで私を照らしていて、それがまた私の恐怖をかき立てた。  私の上に、影が落ちる。

 ――誰か助けに来てくれたんだ、きっとお兄さんだ!

 そう期待した私を見下ろすのは、舌なめずりする黒猫だった。 「なぁお」と鳴いて、黒猫は前足を振り上げた。桃色の肉球が私に迫る。必死に体をくねらせ、私はごろりと転がった。間一髪、猫の肉球も爪も私をかすめはしなかった。  けれど猫はもう二発目を繰り出すため前足を持ち上げている。二度目を避ける元気はない。もう鰭の先すら動かせない。

 ――もうおしまいだ、私もお母様のところへ行くんだ。せめて目を閉じられれば自分を襲う爪の先なんて見なくて済むのに……。

 諦め、くたりと脱力する私と猫を、大きな影が覆った。

「お嬢さん、まぁた妙な|呪《まじな》いにかかってますねぇ」

 私を見つけてくれたのは、お兄さんだった。爪先で猫を追い払い、つまみ食いでもするような気軽さで私を摘まみ上げる。手のひらで跳ねる私の尾鰭を、お兄さんの白い指が捕らえる。  尾鰭がついと引っ張られたかと思うと、服の脱げる感触が肌を走り、私はころりと地面に転がり落ちていた。お兄さんの手には、赤い金魚服だけが残っていた。

「こんなもの、誰から手に入れたんです?」

 珍しく険しい顔で尋ねられ、私はとっさにうつむきながら、正直に答えた。

「露天商の、知らないおじさん……」 「いけませんよ、怪しいものに手ぇ出しちゃ。と言うより、知らない男に近づいちゃいけませんぜ。誘拐されたらどうするんです」 「ごめんなさい……」

 しゅんとうなだれる私に、お兄さんはどこからか取り出した藍染めの羽織を頭から被せた。

「変わりたきゃ、内面からお変わんなさい。こんな|呪《まじな》いに頼らずにね」

 返事もできない私の前で、お兄さんは金魚服を乱暴に丸めた。

「こいつは俺が処分します。いいですね? 嫌だと言っても処分しますが」 「わかりました……」

 私がうなずくと、お兄さんは金魚服を宙へ放り投げた。火種もないのに、宙に浮いた金魚服はめらめらと燃え上がる。  それはまるで、赤い金魚が空中で踊っているようだった。

鼠に嫁入り

 金魚になって窒息死しそうになった夏の終わりからまた月日は過ぎて、秋の半ばの頃だった。学校帰り、家の門をくぐると庭に黒い毛玉を見つけた。  それは毛玉ではなく、あのとき私を食べようとした黒猫だ。どうやら、何か小さな生き物をいじめているらしい。  猫にいじめられているのは、白い鼠だった。薄汚れたところのない、大福のような鼠だ。  鼠なんか食べなくてもじいやたちがご飯をあげているというのに、まだ食べ足りないというのか。いつもは愛らしい黒猫が、金魚になった頃の記憶と相まって、なんだか憎らしく思える。

 猫への|生憎《あやにく》心と鼠への同情から、私は鼠を助けることにした。  鼠を|叩《はた》こうとする猫を抱き上げ、えいと放り投げる。非力な私ではそう遠くへ投げられず、猫はきれいな姿勢で地面に着地した。私が投げたせいで毛並みが乱れたらしい。その場にどっかと腰を下ろし、毛繕いを始めた。  ちょうどいい、これで鼠にちょっかいなんか出さないはずだ。そう思って、鼠を振り向く。猫にいじめられていた鼠は、ちょうど起き上がるところだった。よろよろと四つ足で立ち上がり、思ったよりしっかりした足取りで走り去っていった。

「怪我をしてるのに、あんなに走って大丈夫かしら」

 お父様に聞かれたら「獣の頑丈さを侮るな」と笑われてしまうようなことを呟き、それきり鼠のことを忘れ、私は一日を終えた。  しかし翌日、私は「そういえば鼠を助けたんだった」と思い出すことになる。それは、窓辺に小さな花束が置かれていたせいだ。  華美な花ではない。野に咲く健気で愛らしい花を細く切った木の皮でまとめた、素朴な花束だった。

「もしかして、猫から助けたお礼かしら。可愛い花束ね」

 花器に生けるにはあまりに小さい。だからといって捨てるのももったいない。鼠からの贈り物は、大事に机の上に飾っておくことにした。  その翌日も、そのまた翌日も、花束は置かれていた。毎日毎日違う花が使われていて、見ていて飽きが来ない。

「鼠さんってまめなのねぇ」

 思わず笑みをこぼしながら、四日目の花束を部屋の中へ入れようとした朝だ。窓の外へ出した手が、がっしりと掴まれた。

「お嬢さん。この前から大事に飾ってるこれは何です?」

 いつも飄々としているお兄さんが、金魚服以来の険しい顔をしていた。今回は、怪しいことは何にもない――はず。ためらいながら、私は鼠を助けて以来の贈り物であることを話した。

「助けた次の日からね、毎日置いてあるの。きっと感謝して、毎日摘んできてくれてるのよ。お礼の気持ちを踏みにじるのは、よくないでしょう? だから大事に取ってあるの」

 私の話を聞いて、お兄さんは「ふぅむ」と顎に手をやり考え込んだ。

「あまりいいものには見えませんがね。かといって、|呪《まじな》いものにも見えない。これならまあ、何かあってもお嬢さんのいい薬になるでしょう」 「嫌な目に遭う?」 「少なくとも、傷つくことはないと思いますよ」

 お兄さんはそう言って、目を細め笑った。糸のような目ではない。何か考えがあるような――お父様が商売について語るときのような、笑っているのに笑っていない目だった。  私が「不思議なものに関わらなければよかった」と後悔したのは、鼠を助けて花束を贈られて、七日目の夜のことだった。  使用人たちすら寝静まっている夜更けだった。ひたひたと、とことこと、近づいてくる足音に目を覚ました。足音だけではない。ひそひそと話す声、お祭りのような掛け声も聞こえる。たくさんの人が私の部屋へ近づいてくる――そう直感させる音だった。

「夜分遅くに失礼致しまする」

 部屋の戸がすぅと開く音。それから、しわがれた声が聞こえた。体を起こして見回しても、声に該当する人はどこにも見当たらない。ただ、開け放たれた戸の向こう、廊下にはたくさんの白鼠たちがいた。  鼠たちは皆一様に、後ろ足だけで立っている。

「先日は我らが若君を助けていただき、誠に、誠にありがとうございました」

 先頭に立つ鼠が深々と頭を下げると、後ろに控える鼠たちも声をそろえ「ありがとうございまする」と頭を下げた。頭を下げないのはただ一匹、体に包帯を巻いて、立っているのも辛そうな若鼠だけ。  その若鼠が、よたよたと先頭へ出てくる。

「七日」

 若鼠の声は、まだ幼さの残る凜とした声だった。

「あなたの元に、七日通いました。求婚の贈り物を、あなたは七日分すべて受け取ってくださいました」 「えっ」

 思わず机の上に飾った七つの花束を見る。あれはお礼じゃなくて、求婚だったの?  私の戸惑いを知ってか知らずか、若鼠は求婚の挨拶を続ける。

「結婚式の準備はすでに整えてあります。あとはあなたを、我らが鼠の国へ迎えるだけ」

 ひたひたと、とたとたと、何十、何百もの鼠たちが部屋に入ってくる。寝台をよじ登り、その小さな体で私を持ち上げた。

「さあさあ花嫁様、我らとともに行きましょう」 「花嫁衣装は和洋揃えておりますゆえ、ご安心なされ」 「御馳走の準備も整っております。何も、何も心配はございません」 「ご両親にも後々ちゃあんとお招きしますよ。寂しくありませんからね」

 さながら神輿のごとく、私はわっしょいわっしょいと鼠たちに運ばれる。もちろん私は神輿じゃないし、ろくな会話も交わしていない鼠と結婚なんて望まない。

「下ろして、結婚なんてしない! お願い、やめて!」

 もがいても、暴れても、私を運んでいない鼠たちが私に飛び乗り押さえつけ、抵抗を許さない。  こんなに騒いでいるのに、誰も起きてこない。きっとこれも、何かの|呪《まじな》いなのだろう。  お兄さんならば気づいてくれるだろうか。気づいてくれても、もう間に合わないだろうか。だって、部屋の外の景色が廊下ではない。私はこのまま、鼠の国へ連れて行かれるのだ。

 お父様、別れの挨拶もできない娘をお許しください。  お母様、あなたに早く会えることを願ってます。

 そう諦め目を瞑ったそのときだ。憎たらしい「なぁお」という鳴き声が聞こえた。続いて、「こいつぁいけねえな」と笑いを含んだ声。  鼠たちの足が止まる。反対に、誰かの足音が近づいてくる。

「お嬢さんの優しさに惚れちまうのはお前さん方の自由だが、両親の了承も得ず嫌がる本人を連れてくってのはどうなんだ?」

 目を開けると、薄暗闇に金の目が四つ。二つは床に近い場所、二つは天井に近い場所。うちの黒猫と、お兄さんが部屋にいる。  助かった、と私は安堵した。その安堵を後押しするように、お兄さんがぱちんと指を鳴らす。  なぁお、と黒猫が鳴く。鼠たちがざわりと毛を逆立てる。  怯えている。天敵の姿に、人語を操る鼠たちは怯えていた。  私を抱えていた鼠たちが、一歩、後ずさる。私を抱える力が弱くなる。逃げたいのだ、天敵から。しかしそれを、一族の頭が許さない。

「ね、猫一匹に臆するな! 我ら一族総出で抗えば――」

 若鼠の台詞を、猫の鳴き声が遮った。うちの黒猫の声ではない。「なぁう」と可愛らしく鳴くのは、呉服屋の三毛猫ではなかっただろうか。

「なぁう」「なぁお」「にゃあご」「うなぁん」

 四方八方から聞こえる、猫たちの鳴き声。暗闇の中で光る金色の目、緑の目、青い目。いったい、何匹いるんだろう。  鼠たちはキャッと声を上げ、私を放り出して散り散りに逃げていく。部屋どころか屋敷中に響き渡っていそうな、ドタドタと賑やかな足音。そこに混じる鼠たちの悲鳴と、猫たちの興奮した声。 「ああやかましい」とぼやく声は、お兄さんのもの。

「お嬢さんが眠れなくなっちまうじゃないか。もっと遠くで暴れてくれないもんかね」

 肩を竦め、「お嬢さんもそう思うでしょう?」とお兄さんが振り向く。床に転がったままの私は姿勢を正しながら、もじもじとお礼を言った。

「今日も助けてくれて、ありがとう」 「いや何、俺は|呪《まじな》いからお嬢さんを守るためにいますからねぇ」

 それは初耳だった。照れながら頬をかくお兄さんは、お父様がお兄さんを雇うに至った経緯を教えてくれた。

「あなたの親父様は、あなたが|呪《まじな》いに魅入られるのを防ごうと躍起になっておられる」 「どうして?」 「可愛い娘が呪いの化け物に魅入られ嫁にされそうなんだ、どんな親でも手を尽くすでしょう。金持ちならなおさらだ」

 私は鼠だけでなく、別のものにも嫁入りさせられそうなのか。お父様、どうして教えてくれなかったのかしら。思わず頬を膨らませてしまう。お兄さんは笑いながら私の頬をつついた。

「余計な心配をかけたくないと思うのが、親心ってやつですよ」 「でも、何も言ってくれないのはひどいわ。教えてくれていれば、私、不思議なものや変なものに近づかなかったのに」 「さぁて、それはどうでしょう? お嬢さんは好奇心旺盛だからなぁ」 「そんなことないわ。ちょっと……ちょっと、押しに弱いだけだもの」 「ふはは! 自覚がおありなら今後はお気をつけんなって」

 まあそれでも、とお兄さんは静かになった廊下へ目をやる。

「お嬢さんに魅入られちまうような|呪《まじな》いもんは、俺が祓っちまいますがね」

 そうだった。今までからずっと、お兄さんが私を助けてくれた。どんなときも簡単そうに、あっという間に解決してくれた。こんなすごい人を見つけるのに、お父様はどれほど苦労されただろう。

「私、お兄さんみたいなすごい|呪《まじな》い師に守ってもらえて幸せね」

 何気なくこぼした一言に、お兄さんは一瞬、驚いた顔をした。そしてそれから、とても幸せそうな笑みを浮かべた。

「ええそうです」

 お兄さんは猫みたいに目を細め、|面紗《ベール》の向こうの薄い唇をつり上げた。

「お嬢さんは俺を頼ればいいんです。いつまでも、いつまでもね」

 お兄さんはにこりと笑い、「さあお休みになって!」と私を抱き上げた。そのまま子供のように寝台へ運ばれ、布団を掛けられる。そのまま赤ん坊のように布団の上から撫でられ、少しくすぐったい。

「また助けてね、お兄さん」 「ふはは、いつまでたっても名前を覚えてくれませんねぇ」 「あ、そうだった。お兄さんじゃなくて……何だっけ、名前」 「俺の名はナイラ。|呪《まじな》い師のナイラですよ、お嬢さん」

 満足げに目を細めるお兄さんことナイラの影が大きく大きく伸びていたこと。その形が人とはほど遠い異形であったこと。どちらにも気づかぬまま、私は眠りについた。