美しい思い出は心臓に刻まれるというよ

 俺が家を飛び出したのは二十歳の頃だった。中学からの友人で組んだバンドが文化祭で思いの外ウケて、「俺らこれで食えてけんじゃね?」なんて思ったのがきっかけだ。  音大を受験しなかったから、親もそこまで俺が音楽にのめり込んでるなんて思わなかったんだろう。入学して半年で俺が音楽で食っていきたいことを話したら、猛反対した。

「そりゃな、ミナト。お前たちのバンド演奏はよかったよ。けど、高校生にしちゃ良かった。それだけだ」 「並の高校生より良かったってことは、才能があるってことだろ⁉」

 親父の言い草が悪かった、と俺は今でも思ってる。俺も両親も、何度も話し合いの場を設けては互いの主張を相手に受け入れさせようとした。けれど俺たちは平行線のまま、交わることはなかった。  反対されてばかりの俺は、それなら自分の力を証明するしかないと思い、家を出る決意をした。大学二年の春のことだった。親にも言わず大学を中退し、その夜、家を出た。  こっそり出るつもりだったのに、玄関先で飼い犬のタロウにやたらとまとわりつかれて困った。俺が小学生の頃からずっと一緒だったタロウ。俺が帰ってこないつもりなのをわかっていたのかもしれない。  本当は、タロウを連れていきたかった。けれど俺一人で生活するのがギリギリなのは目に見えていた。タロウは鼻を鳴らし俺にすがる。俺は今にもこぼれそうな涙を堪え、タロウに「元気でな」と最後の言葉をかけて撫でてやった。  それから数年後の俺は、夢破れペットセレモニーの契約社員になっていた。  仕事は単調だ。告別室から運ばれた亡骸を、淡々と火葬炉へ送る。火葬終了の通知音が聞こえたら、炉から台ごと亡骸を取り出す。台の上には、灰と骨、そして心臓の形をした水晶が載っている。俺はその水晶らしきものだけをポケットへ入れ、灰と骨を収骨室へ送り出す。これが、俺の仕事だ。  俺が返した灰と骨を見て、泣き腫らした顔の女が怪訝そうに尋ねる。

「うちの子、心臓は残らなかったんですか?」

 俺は残念そうな顔を作り、悲しそうな声でうなずく。

「残りませんでした」

 女は新たな涙を滲ませ、声を潤ませ「そうですか」とうつむいた。俺はポケットの中の心臓に何が刻まれていたか思い出そうとしてみた。よく見もせずに入れた心臓だ。どんな思い出が刻まれていたかなんて、影すら浮かばなかった。  遺灰と遺骨と、透明な心臓。  これらが残るようになったのは、いつからだったか。始まりは、どこかのペット葬儀場だったのは確かだ。  火葬後に残る遺灰と遺骨。その中に、心臓の形をした水晶らしきものが見つかった。ライトを浴びて輝くそれは透明で、けれど硬質だった。初めてそれを見つけたスタッフは、家族が亡骸と一緒に入れた玩具だと思ったらしい。しかし心臓の形をした玩具なんて見たこともない。怪訝に思ったスタッフは、それを手に取った。  透明な心臓の中には、見事な彫刻が施されていた。ペットが生前最も大事だと感じていた思い出が、文字通り、この水晶のように変化した心臓の中に刻まれていたのだ。  刻まれているのは、飼い主の笑顔やお気に入りの玩具、もしくは大好きな風景。彫刻家でもここまで緻密に彫り込めまいと唸るほどの緻密さだった。  こんな心臓が、あちこちの火葬場で残るようになった。愛されたペットほど、心臓は水晶と化して残りやすいようだった。それからはペットだけでなく、人間の火葬後も透明な心臓が残るようになった。人間の心臓も、ペットのもの同様、故人の最も大切な思い出が刻まれていた。  遺族たちの間では、遺骨と遺灰、そして思い出が刻まれた心臓を持ち帰るのがポピュラーとなった。  ペットや人によっては、思いも寄らぬ幻想的な風景が心臓に刻まれることもある。そうでなくとも。心臓に刻まれた思い出は美しい。機械でも不可能なほどの緻密さに魅了される人は増え、ついにコレクターまで現れた。  しかし、大事な家族の心臓を売る者は滅多といない。それがコレクターたちの蒐集魂に火をつけた。  彼らは火葬場のスタッフに賄賂を渡して心臓を横流ししてもらおうとした。そんな倫理に反すること、受け付けないスタッフが大半だ。だがコレクターたちは金に糸目をつけない。金に目が眩み心臓の横流しをするスタッフは少なくなかった。  俺も、その少なくないスタッフの一人だ。  何せ俺はペット葬儀場のスタッフだ。人間の心臓ならば罪悪感も湧くが、ペット――動物の心臓なら、人のものよりマシなはずだ。まだ法整備はされていないが、新たな法律が定められても、人の心臓を横流しするよりは軽い罪で済むだろう。  そんな風に言い訳をして、俺は金のために他人のペットの心臓をコレクターに横流ししていた。  そんなことを繰り返して、もう自分への言い訳すら考えなくなった頃だ。俺は老犬の火葬を担当させられた。書類に目も通さず、俺は真っ先に馴染みのコレクターへ連絡した。老犬の心臓が手に入る旨を伝えると、彼は一も二もなく高額報酬を提示した。今まで貯めた金と合わせれば、そろそろ夢に再チャレンジする資金へ届く。  俺はコレクターたちから受け取った金をすべて貯金していた。一度諦めた夢を買い戻すため、仲間と商売道具を集めるためだ。  心臓を渡す日取りを調整し、俺は仕事へ戻った。  担当する老犬は、痩せ細った犬だった。痩せさらばえた体と毛並みを見て、俺は思わずネームプレートを確認してしまった。  いつもなら、火葬するペットの名前なんて気にしない。だけどこの犬の毛並みには見覚えがある。この犬の首輪には見覚えがある。この犬の毛布には、見覚えがある。  プレートには、『タロウ』と書かれていた。

「そんなわけあるか」

 思わず声に出す。そんなわけあるか。だってここは、実家からいくつ街を越えなきゃいけない距離だ? いくつの駅を通り過ぎる必要がある? 親父はどれだけハンドルを握ってなきゃならない? ペットの火葬に、わざわざこんな遠い場所を選ぶ理由がないじゃないか。  プレートから、犬の亡骸に目を戻す。病気だったのか、痩せこけていた。つやつやしていた毛並みは、水分すら感じられない。閉じられた瞼の下にある瞳は、何色だろう。確かめる勇気はない。確かめたくない。これが俺のタロウなわけない。  これは違う、よその犬だ、知らない家の知らない犬だと言い聞かせ、俺は『タロウ』の亡骸を火葬炉へ送った。  火葬終了の通知が待ち遠しかった。同時に、いつまでも終わらないでくれとも思った。もしもタロウだったなら、俺は、俺は――。  亡骸とともに焼かれるような気持ちで、俺は機械音が終了を告げるのを待った。  そして火葬後、俺は急いで炉から遺骸を取り出した。台の上に残っていたのは、遺灰と遺骨。何かを隠すようにこんもりと山を作っている。俺は恐る恐る、灰と骨の山を崩した。  中から現れたのは、水より透き通る心臓だ。そこには、俺の笑顔が刻まれていた。  俺は涙が止まらなくなった。声を上げ、「タロウ」と心臓に頬ずりした。俺がこれだけ泣いていても、ほかのスタッフはやってこない。  ひとしきり泣いてタロウの心臓を涙で濡らした俺は、涙も拭かないでタロウの遺灰と遺骨、そして心臓を遺族が待つ部屋へ運んだ。  そこには、俺の両親がいた。俺同様、二人も泣いていた。同僚たちは神妙な顔で――一部は哀れむ目で――俺を見ていた。鼻をかんだ父親が、俺に向かって一歩出る。

「お前が他人様の家族から、心臓を盗ってるんじゃないかって聞いたんだ」

 事実だ。俺は他人の家族から心臓を――残された思い出を、盗んでいた。

「目を覚ましてほしくて、タロウを連れてきたんだ」

 ああそうだ。目が覚めた。目が覚めたよ、タロウ。こんなことをしてたから、俺はお前の死に目に会ってやることもできなかった。人間の心臓を盗むよりマシだなんて考えてた自分が恥ずかしい。  俺は同僚に頼んで、私物の携帯端末を持ってきてもらった。そしてその場で、馴染みのコレクターに連絡を入れた。

「今までお世話になりました。俺はもう、あなたに心臓をお渡しできません」

 コレクターが喚いている。けれどそれを無視して、俺は通話を切った。彼らから受け取った金は夢のために手つかずで残してある。だがそれを使い切っても、コレクターの手に渡してしまった心臓は取り戻せないだろう。

「俺の貯金全部切り崩して――それこそ、自分の内臓を売ることになっても、俺、心臓を返すよ。ペットだって家族だもんな。その思い出は、家族だけのものだよな」

 ――赤の他人が蒐集して、眺めて、見せびらかしていいもんじゃないよな。

 夢を叶えるよりも厳しい道に足を踏み入れた。怖くないといえば嘘になる。きっとつらい目にも遭うだろう。痛い思いもするだろう。けれど俺は、こんな俺を心臓に刻みつけていたタロウのためにも、進まなければならない。  タロウの心臓を握りしめ、これからの困難を想像し震える。そんなときだ。手の中の心臓が、とくん、と動いたのは。俺はハッとしてタロウの心臓へ目を落とした。心臓はライトの光を反射するだけで、ぴくりとも動かない。  気のせいだ。勘違いだ。わかってる。わかっているけれど。  目を覚ました俺を、贖罪の決意を固めた俺を、タロウが励ましてくれたような気がした。