王子の皮を被った魔物

※ AIに手伝ってもらいました。

 古い森の奥に、それは棲んでいた。  人が足を踏み入れることのない、呪いを帯びた深い森。木々は黒く歪み、鳥は鳴かず、風すら音を立てることを嫌がるような場所だった。そこで魔物は、ただひとり息をしていた。  魔物の姿は醜悪だった。人の背丈ほどもある巨体に、ごつごつとした岩のような肌。顔は獣のそれに近く、牙が唇を押し上げ、赤い目がぎらぎらと光る。指には鉤爪が生えており、その爪で触れれば何もかもが裂けてしまう。声は低く唸るようで、まともな言葉を話すこともできない――いや、話したところで、誰が聞いてくれるだろう。  魔物は自分が何者なのかを知らなかった。気づけば森にいて、気づけば今の姿だった。人を恐れ、人に恐れられる存在として、ただ森の奥で時を過ごしていた。  孤独は慣れっこだった。寂しいという感情も、とうに忘れていた。おれは一人で生きていくのだと、魔物はそう思っていた。  そんな、ある秋の日のことだった。  魔物は遠くに、か細い声を聞いた。人の声だった。魔物は耳を澄ませ、そろりと洞窟から這い出した。

「どなたかいらっしゃらない? いたら返事をして」

 森の入り口近くに、一人の少女が立っていた。金糸のような金の髪、澄み渡った空のように青い瞳。白い頬には薔薇色が差し、身にまとう衣は上質な布で仕立てられている。間違いなく、どこかの姫君だった。

 ――なぜ、こんなところに。

 魔物は木陰に身を隠し、姫の様子を窺った。姫は困ったような顔をして辺りを見回している。道に迷ったのだろう。こんな呪われた森に、こんな美しい人がなぜ。  姫が魔物が隠れる木陰へ足を向けようとする。魔物は慌てた。もしも姫と鉢合わせてしまったら、自分の醜い姿を見て悲鳴を上げるだろう。恐怖で卒倒してしまうかもしれない。  だが、姫の足を止める術を知らない。下手に動くわけにもいかない。魔物は歯噛みし、ただ見守ることしかできなかった。  運良く、姫は魔物と鉢合わせることはなかった。しかし姫は一歩、また一歩と森の奥へ進んでいく。美しい顔には不安の色が浮かんでいるが、それでも足は止めない。魔物の住処まで、もうそう遠くない距離だった。  そのとき、姫の足が木の根に引っかかった。姫は小さく「あっ」と声を上げ、前のめりに倒れそうになる。  魔物は反射的に身を躍らせていた。姫を受け止めようと、両腕を広げて。だが途中で我に返る。

 ――おれが姫に触れてしまったら。この汚い手で、美しい人を穢してしまったら。

 魔物は空中で身を捩り、姫のそばの地面に着地した。姫は尻もちをつき、呆然としてこちらを見上げている。

 ――見られてしまった。

 魔物は立ち尽くした。姫の青い瞳が、自分の醜い姿を映している。今にも悲鳴を上げて逃げ出すだろう。当然だ。こんな魔物を見て恐れない人間など、いるはずもない。  けれど、姫は逃げなかった。  立ち上がった姫は衣の土を払い、魔物を見つめたまま静かに言った。

「ありがとう。受け止めようとしてくれたのよね?」

 魔物は目を見開いた。姫は恐れていない。それどころか、礼を言っている。

「わたし、道に迷ってしまったの。あなた、城への道をご存じ? だとしたら、道を教えてくれないかしら」

 姫の声は震えていない。確かに緊張はしているが、それは道に迷った不安であって、魔物への恐怖ではないようだった。  魔物は喉の奥で唸り声を上げた。それが精一杯の返事だった。姫は小首を傾げ、困ったような微笑みを浮かべる。

「お話しするのは難しいのね」

 そして姫は、信じられないことを言った。

「静かな目。さっきも助けようとしてくれたし、あなた優しいのね」

 魔物の心臓が、大きく跳ねた。  優しい。  生まれて初めて向けられた言葉だった。魔物は喉の奥で、今度は低い呻き声を漏らした。嬉しいという感情が、胸の奥で熱く渦巻いている。  姫は魔物の呻きを聞いて、はっと表情を改めた。

「わたしったら、長々と引き留めちゃってごめんなさい。城への道は一人で探してみるわ」

 そう言って、姫は魔物に向かって丁寧にお辞儀をした。それから振り返り、森の奥へと歩いていく。  魔物は慌てて姫を追った。そして姫が行くべき道を指差す。姫は魔物の指す方向を見て、ぱっと顔を輝かせた。

「向こうに城があるのね。教えてくれてありがとう。あなたやっぱり優しいわ」

 もう一度お辞儀をして、姫は森を出ていった。魔物は木陰から、その後ろ姿が見えなくなるまで見送った。  一人になった魔物は、洞窟に戻った。しかし心は落ち着かない。姫の言葉が、何度も何度も胸の中で響いている。

 ――静かな目、と言われた。優しい、と言われた。

 それは魔物に向けられた、初めての優しさだった。魔物は洞窟の奥で身を丸め、その感情に震えた。これが喜びというものなのか。これが幸福というものなのか。  翌日、魔物は森の入り口近くに出た。姫がまた迷って来ないか、密かに見守るつもりだった。姫は来なかった。けれど魔物は諦めずに、毎日同じ場所で待った。  三日目の夕暮れ、姫が現れた。今度は道に迷ったのではない。手には小さな包みを持っている。魔物の前に来ると、姫は包みを置いて言った。

「この間はありがとう。これ、あなたへのお礼」

 包みの中身は、焼き菓子だった。甘い香りが鼻をくすぐる。魔物は恐る恐る一つを口に含んだ。優しい甘さが口の中に広がり、思わず小さく唸り声を上げた。

「気に入ってもらえた?」

 姫の嬉しそうな声に、魔物は何度もうなずいた。  それから姫は時々森にやってきた。魔物と言葉を交わすわけではない。ただ同じ空間にいて、時折菓子を分けてくれる。魔物にとって、それだけで十分すぎるほどの幸せだった。  姫がいない日は、魔物は遠くから城を眺めた。姫がどこで暮らしているのか、どんな日々を送っているのか。知りたくて知りたくて仕方がなかった。  やがて魔物は、毎日遠くから姫を見ることを日課にするようになった。姫の笑顔を見るだけで、一日が輝いて見えた。姫が庭を歩く姿を見るだけで、胸が温かくなった。  これが恋というものなのだと、魔物は薄々気づいていた。叶うはずのない、身の程知らずな感情だということも。  それでも魔物は、姫を見つめることをやめられなかった。遠くからでいい。こんな自分には、それで十分すぎるほどの贅沢なのだから。

***

 姫が森を訪れるのは、決まって夕暮れ時だった。城での用事を済ませ、人目につかぬ時間を見計らって。魔物はその時間を心待ちにし、いつも同じ場所で姫を待った。  ある日、いつものように菓子を分けてくれた姫が、ふと空を見上げて言った。

「今日はとても良いことがあったの」

 魔物は首を傾げるように姫を見た。姫は頬を薔薇色に染め、うっとりとした表情を浮かべている。

「隣国のエドワード王子とお会いする機会をいただいたの。とても素敵な方だったわ」

 エドワード王子。魔物はその名を心に刻んだ。姫の表情が、今まで見たことのないほど輝いている。

「優しくて、美しくて、まるで物語の中から出てきた方のようだったわ。わたし、あの方を一目で好きになってしまったの」

 魔物の胸に、鋭い痛みが走った。それが何なのか、最初はわからなかった。ただ、姫の幸せそうな顔を見ているのに、自分の心は暗く沈んでいく。

「政略結婚と言われたけど、あんな素敵な方とご縁をいただけるならこんな幸せなことないわ。わたし、初めてお父様に感謝したもの」

 姫は頬に手を当て、夢見るように微笑んだ。その美しい笑顔を見ながら、魔物は胸の奥で何かが焼けるような感覚を覚えた。

 ――これが嫉妬というものなのか。

 魔物は自分の感情を理解するのに時間がかかった。姫の幸せを願っているはずなのに、なぜこんなにも胸が痛むのか。なぜ、エドワードという名前を聞いただけで、爪が土に食い込むほど拳を握りしめてしまうのか。  それからの日々、姫が森に来るたび、王子の話を聞かされるようになった。

「今日はエドワード様からお手紙をいただいたのよ。とても美しい字で、詩を書いてくださったの」 「エドワード様がくださった薔薇、大事に活けてあるのだけれど、まだ枯れずに咲いてるの。今日も咲いてるかしらって、毎朝それを確認するのが楽しみで仕方ないわ」 「来月には正式な婚約の儀があるの。エドワード様と同じお城で暮らせると思うと、夢のようだわ」

 姫が語る一言一句が、魔物の心に深く突き刺さった。けれど魔物は、姫の話を黙って聞いた。姫が幸せそうに話すのを見て、自分も嬉しいふりをした。胸の奥で燃える嫉妬の炎を、必死に隠し続けた。  夜、魔物は|一匹《ひとり》洞窟で過ごす時間が辛くなった。姫の幸せそうな顔が瞼に焼きついて、眠ることができない。

 ――おれも、姫にとってそんな存在になれたら。

 そんな愚かな考えが頭をよぎる。自分のような醜い魔物が、美しい姫と釣り合うはずもないのに。それでも心は、どうしようもなく姫を求めていた。  魔物は洞窟の壁に爪を立てた。石が削れ、血が滲む。痛みで少しだけ胸の苦しみが紛れたような気がした。

***

 ある夕暮れ、姫はいつもより遅く森にやってきた。目元が少し赤い。泣いていたのかもしれない。魔物は心配になって姫に近づいた。

「ごめんなさい。今日は少し、わたしの愚痴を聞いててくれないかしら」

 姫は木の根に腰を下ろし、膝に顔を埋めた。魔物も姫のそばに座る。言葉は交わせないが、そばにいることで姫の力になれるなら。

「エドワード様が、他国の姫とお話しされてたの」

 姫の声は震えていた。

「政略結婚ですものね、エドワード様がほかに好いた方がいらしてもしょうがないわ。でも、でもわたし……とても醜いけれど、嫉妬してしまって」

 魔物は姫の横顔を見つめた。いつも気品に満ちた美しい姫が、今は普通の女性のように悩んでいる。その姿さえも、魔物には愛おしかった。

「エドワード様は、少しでもわたしを好いてくれてるのかしら。わたし、わからないわ。わからなくて、不安になるの。わたしはただの、政略の道具なのかもしれないわね」

 姫が涙を拭う手を、魔物は見つめていた。その手に触れたい。慰めたい。けれど自分にはその資格がない。

「でも、エドワード様を愛していることだけは確かよ。たとえ政略結婚でも、心からあの方ををお慕いして、良い妻になりたい」

 姫の決意を込めた言葉に、魔物の心は引き裂かれそうになった。姫の純粋な愛情が、エドワード王子という男に向けられている。自分はその愛の対象になることは、永遠にない。  姫が帰った後、魔物は森の奥で吠えた。獣のような、低く長い咆哮が森に響く。鳥たちが慌てて飛び立ち、小動物たちが身を隠す。

 ――なぜおれはこんな姿なんだろう。なぜおれは、姫に愛してもらえるような存在ではないんだろう。

 姫の幸せを願いたい。心からそう思う。けれど同時に、姫を自分だけのものにしたいという欲望が膨らんでいく。エドワード王子が憎い。姫の愛を独占している男が、憎くて憎くて仕方がない。  自分の醜い感情に嫌気がさして、魔物は洞窟の奥に籠もった。姫に会うのが辛い。でも、会わないでいるのはもっと辛い。  数日後、姫が森にやってきたとき、その表情は光り輝いていた。

「聞いて! エドワード様が正式に求婚してくれたの!」

 魔物の心臓が、氷のように冷たくなった。

「『あなたを心から愛している』……なんて情熱的な言葉で求婚してくださったの。政略結婚だと思っていたのに、エドワード様もわたしを愛してくださってたんだわ」

 姫は両手を胸の前で組み、天を仰いだ。その幸福に満ちた表情を、魔物はじっと見つめた。

「来週には婚約の儀。そして来月にはお嫁に行くわ。まるで夢のようよ」

 夢のよう。姫にとっては美しい夢。だが魔物にとっては、悪夢の始まりだった。  姫が森を訪れる回数も、これから少なくなるだろう。やがてはまったく来なくなるかもしれない。王子の妻となった姫が、こんな森の魔物など思い出すはずもない。  その夜、魔物は城の方角を見つめて立ち尽くした。城の窓に灯る明かりの一つが、姫の部屋だろうか。そこで姫は、王子との幸せな未来を夢見ているのだろう。

 ――見ていたい。最後まで、姫の幸せな姿を見ていたい。例えそれが、おれの心を引き裂くことになっても。

 魔物は拳を握りしめた。鋭い爪が手のひらに食い込み、血が滴る。だがそんな痛みなどどうでもよかった。  姫の幸せと、自分の欲望。どちらも手放すことができず、魔物は苦悩した。この先どうやって生きていけばいいのか、わからなかった。

 ――愛とは、こんなにも苦しいものなのか。愛とは、こんなにも自身を狂わせるものなのか。

 魔物は初めて知った。愛することの喜びと、同じだけの痛みを。

***

 婚約の儀から三日後の夜。月のない、暗い夜だった。  魔物は城の周辺を徘徊していた。もう姫に会えないかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなかった。せめて窓の向こうの明かりだけでも見ていたい。そんな切ない思いで、城の外壁にへばりついていた。  そのとき、馬の蹄の音が聞こえた。  一人の男が馬を降り、城の裏手へと向かう。月明かりが雲間から差すと、その男の顔がはっきりと見えた。  金の髪、整った顔立ち、品のある立ち振る舞い。エドワード王子その人だった。  魔物の全身に、電流のような感覚が走った。  憎い。  憎い。  この男が、姫の愛を独占している。この男がいなければ。この男さえいなければ――。  王子は城の裏手から、こっそりと中に入っていく。おそらく人目を忍んで姫に会いに来たのだろう。婚約者としての正式な面会ではなく、二人だけの時間を求めて。  魔物は王子の後を追った。足音を殺し、気配を消して。長年森で生きてきた魔物にとって、人に気づかれずに動くことなど造作もなかった。  王子は姫の部屋の窓の下で立ち止まった。小石を拾い、窓に向かって投げる。しばらくすると窓が開き、姫が顔を出した。

「エドワード様」

 姫の嬉しそうな声が、夜の静寂に響く。

「あなたにどうしても会いたくて。少しだけ、お話しできませんか」

 王子の甘い声に、姫は頬を染めてうなずいた。

「お待ちください。すぐにそちらへ行きます」

 窓が閉まり、しばらくして姫が城の裏口から現れた。薄い羽織を纏っただけの軽装で、まるで舞踏会から抜け出してきたかのように美しい。  王子と姫は手を取り合い、庭の奥へと歩いていく。魔物は木陰に身を隠し、二人の様子を見守った。いや、嫉妬の炎にその身を焦がしながら、監視していた。  二人は庭の四阿で座り、甘い言葉を交わし始めた。魔物には、その内容の一つ一つが針のように心に刺さる。

「きみは本当に美しい。月の女神のようだ」 「エドワード様ったら、そんな」 「きみと結婚できるなんて夢のようだ。これからは毎日きみの笑顔を見ていられるなんて」 「わたしこそ、エドワード様のお妃になれるなんて信じられません」

 やがてエドワード王子は立ち上がった。

「もう遅い。風邪を引くといけないから、部屋に戻ろう」 「エドワード様、どうかもう少しだけ」 「いけないよ、愛しの君。きみの体が心配だ」

 王子は姫の手にそっと口づけをして、別れを告げた。姫が城に戻るのを見送ると、王子も馬のもとへ向かう。  魔物は王子を追った。城から離れた森の入り口で、ついに王子に追いついた。

「誰だ」

 王子が振り向く。月光に照らされたその顔は、確かに美しかった。姫が愛するのも無理はない、と魔物は思った。だからこそ、許せなかった。  魔物が木陰から姿を現すと、王子は剣の柄に手をかけた。

「魔物め。何の用だ」 「おれの……おれの姫を」

 ようやく絞り出した言葉は、かすれて聞き取りにくかった。王子は眉をひそめる。

「何を言っている。立ち去れ」 「おれの姫を……返せ」

 王子が剣を抜こうとした瞬間、魔物は飛びかかった。人とは比べ物にならない膂力と速さで、王子の首に爪を突き立てる。  王子は驚愕の表情を浮かべたまま、声も出せずに絶命した。  魔物は王子の亡骸を見下ろした。美しい顔は、もう二度と姫に微笑みかけることはない。その事実に、複雑な感情が湧き上がった。安堵と、罪悪感と、そして恐ろしいほどの満足感。  だが、王子を殺しただけでは意味がない。姫は王子の死を知れば悲しむ。それでは本当の意味で姫を奪ったことにならない。  魔物は自分の胸に爪を立てた。皮膚が裂け、血が流れる。痛みに歯を食いしばりながら、自分の体を裂いていく。そして血まみれの手で、王子の皮も自分のもの同様に剥いでいった。  魔物の持つ魔力が、その血と苦痛に反応した。剥ぎ取った王子の皮が、魔物の体を包んでいく。骨格が変わり、筋肉が収縮し、声帯が作り替えられる。激痛に意識が遠のきそうになりながら、魔物は変身を完遂した。  そうして魔物は、エドワード王子の姿になった。  手足の長さ、顔の造作、髪の色、すべてが王子そのもの。鏡がなくとも、自分が変わったことがわかった。

 ――これで、姫に愛してもらえる。これで、姫を手に入れることができる。

 魔物――いや、偽の王子は、王子の衣服に着替えた。血で汚れた自分の皮は、森の奥深くに埋めた。もう二度と、あの醜い姿に戻ることはない。  翌日の夕方、偽の王子は姫を訪ねた。エドワード王子がしたように、城の裏手から、窓に小石を投げて。  窓から顔を出した姫は、王子の姿を見て輝くような笑顔を浮かべた。

「エドワード様、昨日に続いてまた来てくださったんですか?」 「きみに会いたくて、我慢できなかったんだ」

 魔物の声は、完全に王子のものだった。姫は少しも疑うことなく、嬉しそうに外に出てきた。  姫の手を取ったとき、魔物の心臓が大きく跳ねた。ついに触れることができた。姫の柔らかな手を、自分の手で包むことができた。

「王子、手が冷たいですわ」

 姫が心配そうに見上げる。魔物は慌てて微笑んだ。

「すまない。きみがあんまり美しいから、少し緊張しているんだ」 「まあ」

 姫は頬を染めて俯いた。その仕草があまりにも愛らしく、魔物は本当に心臓が止まりそうになった。

 ――これでいい。これで姫は、自分のものだ。

 王子として愛される限り、自分は幸せになれる。姫も幸せになれる。誰も傷つかない。  魔物はそう思い込もうとした。心の奥で、小さな声が「これは裏切りだ」と囁いているのを、必死に無視しながら。  その夜から、魔物は王子として姫と過ごすようになった。姫は以前にも増して愛らしく、魔物に優しく接してくれた。

「エドワード様、前よりもお優しくなられましたね」

 姫のその言葉に、魔物の胸は複雑に痛んだ。優しいのは当然だ。魔物は姫を心の底から愛しているのだから。本物の王子以上に、姫を大切に思っているのだから。

「きみを愛しているからさ」

 それだけは、偽りではなかった。この気持ちだけは、何よりも真実だった。

***

 王子として過ごす日々は、夢のようだった。  姫は魔物を疑うことなく愛してくれた。手を取り、頬に触れ、時には唇を重ねることさえあった。魔物が長年夢見ていた幸福が、ついに現実のものとなった。  だが、それは同時に拷問でもあった。  ある夜、姫と庭を散歩していたとき、姫がふと空を見上げて言った。

「エドワード様、わたしたちが初めてお会いしたのも、こんな星空の夜でしたわね」

 魔物の胸に、鋭い痛みが走った。姫が愛しているのは自分ではない。エドワード王子という、もうこの世にいない男だった。

「ええ、美しい夜でした」

 嘘だった。すべてが嘘だった。姫との思い出も、姫の愛も、自分という存在そのものも。

「あの夜、エドワード様が『きみを守りたい』とおっしゃってくださったとき、わたしの心は決まりました」

 守りたい。それは魔物も同じ気持ちだった。姫を守りたい、幸せにしたいと心から願っている。けれど今の自分は、姫を騙している。姫の純粋な愛を、偽りで応えている。

「わたしも、きみへの気持ちは変わらないよ」

 それだけは本当だった。愛しているという気持ちだけは、何よりも真実だった。  姫が振り向いて微笑む。月光に照らされたその美しい顔を見ながら、魔物は胸の奥で叫んだ。

 ――本当のおれを見てくれ。

 ――この偽りの皮を剥いだおれを、どうか愛してくれないか!

 だが、それは不可能だと知っている。あの醜い姿で愛を迫れば、姫は恐れて逃げ出すだろう。今のこの幸せは、王子の皮があってこそのものだった。  日を重ねるごとに、魔物の心は少しずつ壊れていった。  姫に触れられるたび、姫と言葉を交わすたび、本当の自分を隠していることが苦しくてたまらなくなる。愛されれば愛されるほど、罪悪感が膨らんでいく。  夜中に一人になると、魔物は鏡のような水面を見つめた。そこに映るのは美しい王子の顔。でも、その瞳の奥には獣の本性が潜んでいる。

 ――いつまでこの嘘を続けるつもりだ。

 ――いつまで姫を騙し続けるつもりなんだ。

 ある日、姫が体調を崩して床に臥せた。姫を訪った魔物は壁をよじ登り、姫の部屋に入って看病をした。熱にうなされる姫の額に濡れ布を当てていると、姫がうわ言で呟いた。

「エドワード様……わたし、あなたが……大好き……」

 魔物の手が止まった。姫は今も、本物のエドワード王子を愛している。自分ではない、死んでしまった男を。

 ――おれじゃない。おれじゃないんだ。

 魔物は拳を握りしめた。爪が手の平に食い込み、血が滲む。この痛みでさえ、心の苦しみには及ばない。  そのとき、姫が目を覚ました。ぼんやりとした瞳で魔物を見上げる。

「エドワード様……? どうして、ここに……?」 「きみのことが、心配で」 「ありがとうございます。でも、少し……」

 姫は眉をひそめた。

「少し、顔色が悪いように見えますが……」

 魔物は慌てて微笑んだ。だが、その笑顔はどこかぎこちない。

「大丈夫。きみの心配をしていただけだよ」

 姫は何かを感じ取ったのか、じっと魔物を見つめていた。その視線が、魔物の胸を締めつける。  王子の皮を被って過ごす時間が長くなるにつれ、魔物の魔力は少しずつ消耗していった。完全な変身を維持するには膨大な力が必要だった。それに加えて、精神的な負担も限界に近づいている。  時々、水面や鏡に映る顔が歪んで見えることがあった。一瞬だけ、元の醜い姿が透けて見える。魔物は慌てて意識を集中し、王子の顔を保った。

 ――まだだ。まだ正体を明かすわけにはいかない。

 ある夜、姫と二人で庭の四阿にいたとき、姫が魔物の手を取って言った。

「エドワード様、最近何か悩んでいるのではありませんか?」

 魔物の心臓が跳ねた。気づかれているのだろうか。

「以前よりもお疲れのご様子ですし、時々遠くを見つめていらっしゃることが……」 「そんなことは」 「無理をなさらないでください。わたし、あなたの役に立ちたいんです」

 姫の優しい言葉が、魔物の心を深く刺した。姫は自分を心配してくれている。偽りの自分を、本当に愛してくれている。  そのとき、魔物の中で何かが決壊した。

「きみに……きみに、話したいことがあるんだ」

 魔物は震える声で言った。姫は心配そうに身を乗り出す。

「どのようなことでしょうか」 「わたしは……わたしは……」

 言葉が喉に詰まった。言ってしまいたい。すべてを打ち明けて、姫の判断に委ねたい。でも、言えば終わりだということも分かっている。  姫は静かに待っていた。魔物が何を言おうとも、受け止めようとする覚悟を決めているようだった。  だが結局、魔物は真実を告げることができなかった。

「わたしは……きみを、心から愛している」

 それだけを言うのが精一杯だった。姫は安堵したような笑みを浮かべ、魔物の手をそっと握りしめた。

「わたしもです。ずっと、ずっと愛してます」

 その夜、一人になった魔物は森の奥で慟哭した。獣のような咆哮が闇夜に響く。

 ――いつまで続けるんだ、この茶番を。

 ――いつまで姫を騙し続けるんだ。

 愛されることの喜びと、それが偽りであることの苦しみが、魔物の心を引き裂いていく。魔力の消耗も激しくなり、時々意識が朦朧とすることがあった。  そして魔物は気づいていなかった。姫もまた、何かを感じ取り始めていることに。  あの夜から、姫は時々不安そうな表情を浮かべるようになった。愛する人に何かが起こっているのではないかという、女性特有の直感が働いていたのかもしれない。  魔物の幸福は、崩壊への道を辿り始めていた。

***

 それは雨の夜のことだった。  いつものように姫の部屋を訪れた魔物に、姫は静かに微笑みかけた。だが、その笑顔の奥に影が差しているのを、魔物は見逃さなかった。

「お疲れのようですね、エドワード様」

 姫は窓辺に腰を下ろし、雨に濡れる庭を眺めていた。魔物もその隣に座る。二人の間に、今までにない静寂が流れた。  やがて姫が、ためらうように口を開いた。

「エドワード様に、お尋ねしたいことがあるんです」

 魔物の心臓が、不安な音を立てて跳ねた。

「何でしょうか」 「あなたは……あの夜から、変わりました」

 あの夜。本物の王子を殺し、その皮を被った夜。魔物の全身に冷たいものが走った。

「変わった……わたしが?」 「ええ。以前のエドワード様は、もっと……どう言えばいいのかしら……。明るく、屈託のない方でした」

 姫の声は穏やかだった。責めるような調子は微塵もない。それがかえって、魔物の胸を締めつけた。

「でも今のあなたは、いつも何かに苦しんでらっしゃるような。まるで、大きな罪を背負ってらっしゃるような……」

 魔物は何も答えられなかった。姫の言葉は、すべて的を射ていた。

「わたし、最初は政略結婚が重荷になってらっしゃるのかと思いました。でも違う。もっと深い、もっと根本的な何かを抱えてらっしゃるようですね」

 姫が振り向く。その瞳に宿る光は、まっすぐに魔物を見据えていた。

「エドワード様、わたしに何か隠してらっしゃいますね?」

 雨音が、二人の沈黙を満たしていく。魔物は震える手で、姫の頬に触れた。

「きみは……気づいていたのか」 「すべて、ではありません。でも、感じてはいました。今のあなたは、以前のエドワード様とは……違う」

 姫は魔物の手を包み込んだ。

「でも……それでも構いません。わたしは、今のあなたを愛しております」

 その言葉が、魔物の心を粉々に砕いた。愛している。この偽りの自分を、姫は愛していると言う。  魔物の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。王子の美しい顔に流れる涙を見て、姫は驚いた表情を浮かべる。

「エドワード様……」 「姫、わたしは……わたしは……」

 声が震える。喉が詰まって、言葉が続かない。  そのとき、魔物の体に激痛が走った。魔力の限界が近づいている。長い間王子の姿を保ち続けた代償が、ついに体を蝕み始めた。  魔物は立ち上がろうとして、よろめいた。姫が慌てて支えようとする。

「エドワード様、どうなさいました」 「おれから……離れて」

 魔物は姫を突き飛ばすように遠ざけた。姫が転びそうになりながらも、心配そうに見つめている。  魔物の顔が歪み始めた。美しい王子の顔立ちが崩れ、元の醜い姿がにじみ出てくる。

「見ないでくれ……お願いだ、見ないで……」

 だが姫は逃げなかった。恐れることもなく、ただじっと魔物を見つめていた。

「大丈夫です。あなたがどうなろうと、わたし、怖がったりしませんわ」

 その言葉を聞いた瞬間、魔物の心に最初に姫と出会った日の記憶が蘇った。森で道に迷った姫が、醜い魔物に向かって言った優しい言葉の数々。魔物の心の中に、宝石のように大切に仕舞われているそれらが、浮かび上がる。

「姫、おれは……」

 魔物の声が、低い唸り声に変わっていく。王子の美しい容貌が剥がれ落ち、元の醜い姿が露わになった。

「おれは、森の……」 「大丈夫」

 姫は静かにうなずいた。

「薄々、感じてたわ。あの優しい瞳が、王子の中にもあったことを」

 魔物は完全に元の姿に戻っていた。巨大な体躯、ごつごつとした肌、赤く光る目、鋭い牙。それでも姫は逃げなかった。

「おれは……おれは王子を殺した」

 ようやく真実を告白した。姫の顔が青ざめる。

「おれは王子の皮を剥いで、その姿になって……きみを、騙した」 「それは……なぜ?」 「きみを、愛しているから」

 魔物の声は涙で震えていた。

「きみを愛しているけれど、この姿では愛してもらえない……だからおれは、おれは……」

 姫の瞳からも涙がこぼれ落ちた。だがそれは恐怖の涙ではなく、悲しみの涙だった。

「ねえ。わたし、あなたの名前を知らないわ。あなたを慰めたいのに、名前も呼べないなんて」 「名前なんて……おれに名前なんて、ない……」

 姫は魔物に近づこうとした。だが魔物は後ずさりする。

「触れないで。おれの汚い手で、きみを穢したくない……」

 魔物の体が崩れ始めた。魔力を使い果たし、もう形を保っていることができない。体の各所から血が滲み、意識も朦朧としてくる。

「でも……」

 魔物は膝をついた。もう立っていることもできない。

「でも、王子を殺したこと、おれは後悔してない。きみに触れられたから……きみと、見つめ合えたから……」

 姫の手が、魔物の頬に触れた。温かく、優しい手だった。

「あなたが森で、わたしを助けてくれたこと、忘れないわ」 「姫……」 「あなたがわたしに向けてくれた愛も、決して忘れない」

 魔物の体が塵となって崩れ始めた。最後の力を振り絞って、魔物は言った。

「愛して……いるよ……心から……」 「わたしも……」

 姫の涙が、魔物の顔に落ちる。

「わたしも、あなたを……」

 魔物の姿が、完全に消えた。残ったのは血に染まった王子の衣装だけ。姫はその衣装を抱きしめ、ほろほろと涙をこぼした。

「あなたの名前……結局、呼ばせてくれなかったわね」

 雨が窓を叩きつける。その音に、姫の嗚咽はかき消された。