※ AIに手伝ってもらいました。
古い森の奥に、それは棲んでいた。 人が足を踏み入れることのない、呪いを帯びた深い森。木々は黒く歪み、鳥は鳴かず、風すら音を立てることを嫌がるような場所だった。そこで魔物は、ただひとり息をしていた。 魔物の姿は醜悪だった。人の背丈ほどもある巨体に、ごつごつとした岩のような肌。顔は獣のそれに近く、牙が唇を押し上げ、赤い目がぎらぎらと光る。指には鉤爪が生えており、その爪で触れれば何もかもが裂けてしまう。声は低く唸るようで、まともな言葉を話すこともできない――いや、話したところで、誰が聞いてくれるだろう。 魔物は自分が何者なのかを知らなかった。気づけば森にいて、気づけば今の姿だった。人を恐れ、人に恐れられる存在として、ただ森の奥で時を過ごしていた。 孤独は慣れっこだった。寂しいという感情も、とうに忘れていた。おれは一人で生きていくのだと、魔物はそう思っていた。 そんな、ある秋の日のことだった。 魔物は遠くに、か細い声を聞いた。人の声だった。魔物は耳を澄ませ、そろりと洞窟から這い出した。
「どなたかいらっしゃらない? いたら返事をして」
森の入り口近くに、一人の少女が立っていた。金糸のような金の髪、澄み渡った空のように青い瞳。白い頬には薔薇色が差し、身にまとう衣は上質な布で仕立てられている。間違いなく、どこかの姫君だった。
――なぜ、こんなところに。
魔物は木陰に身を隠し、姫の様子を窺った。姫は困ったような顔をして辺りを見回している。道に迷ったのだろう。こんな呪われた森に、こんな美しい人がなぜ。 姫が魔物が隠れる木陰へ足を向けようとする。魔物は慌てた。もしも姫と鉢合わせてしまったら、自分の醜い姿を見て悲鳴を上げるだろう。恐怖で卒倒してしまうかもしれない。 だが、姫の足を止める術を知らない。下手に動くわけにもいかない。魔物は歯噛みし、ただ見守ることしかできなかった。 運良く、姫は魔物と鉢合わせることはなかった。しかし姫は一歩、また一歩と森の奥へ進んでいく。美しい顔には不安の色が浮かんでいるが、それでも足は止めない。魔物の住処まで、もうそう遠くない距離だった。 そのとき、姫の足が木の根に引っかかった。姫は小さく「あっ」と声を上げ、前のめりに倒れそうになる。 魔物は反射的に身を躍らせていた。姫を受け止めようと、両腕を広げて。だが途中で我に返る。
――おれが姫に触れてしまったら。この汚い手で、美しい人を穢してしまったら。
魔物は空中で身を捩り、姫のそばの地面に着地した。姫は尻もちをつき、呆然としてこちらを見上げている。
――見られてしまった。
魔物は立ち尽くした。姫の青い瞳が、自分の醜い姿を映している。今にも悲鳴を上げて逃げ出すだろう。当然だ。こんな魔物を見て恐れない人間など、いるはずもない。 けれど、姫は逃げなかった。 立ち上がった姫は衣の土を払い、魔物を見つめたまま静かに言った。
「ありがとう。受け止めようとしてくれたのよね?」
魔物は目を見開いた。姫は恐れていない。それどころか、礼を言っている。
「わたし、道に迷ってしまったの。あなた、城への道をご存じ? だとしたら、道を教えてくれないかしら」
姫の声は震えていない。確かに緊張はしているが、それは道に迷った不安であって、魔物への恐怖ではないようだった。 魔物は喉の奥で唸り声を上げた。それが精一杯の返事だった。姫は小首を傾げ、困ったような微笑みを浮かべる。
「お話しするのは難しいのね」
そして姫は、信じられないことを言った。
「静かな目。さっきも助けようとしてくれたし、あなた優しいのね」
魔物の心臓が、大きく跳ねた。 優しい。 生まれて初めて向けられた言葉だった。魔物は喉の奥で、今度は低い呻き声を漏らした。嬉しいという感情が、胸の奥で熱く渦巻いている。 姫は魔物の呻きを聞いて、はっと表情を改めた。
「わたしったら、長々と引き留めちゃってごめんなさい。城への道は一人で探してみるわ」
そう言って、姫は魔物に向かって丁寧にお辞儀をした。それから振り返り、森の奥へと歩いていく。 魔物は慌てて姫を追った。そして姫が行くべき道を指差す。姫は魔物の指す方向を見て、ぱっと顔を輝かせた。
「向こうに城があるのね。教えてくれてありがとう。あなたやっぱり優しいわ」
もう一度お辞儀をして、姫は森を出ていった。魔物は木陰から、その後ろ姿が見えなくなるまで見送った。 一人になった魔物は、洞窟に戻った。しかし心は落ち着かない。姫の言葉が、何度も何度も胸の中で響いている。
――静かな目、と言われた。優しい、と言われた。
それは魔物に向けられた、初めての優しさだった。魔物は洞窟の奥で身を丸め、その感情に震えた。これが喜びというものなのか。これが幸福というものなのか。 翌日、魔物は森の入り口近くに出た。姫がまた迷って来ないか、密かに見守るつもりだった。姫は来なかった。けれど魔物は諦めずに、毎日同じ場所で待った。 三日目の夕暮れ、姫が現れた。今度は道に迷ったのではない。手には小さな包みを持っている。魔物の前に来ると、姫は包みを置いて言った。
「この間はありがとう。これ、あなたへのお礼」
包みの中身は、焼き菓子だった。甘い香りが鼻をくすぐる。魔物は恐る恐る一つを口に含んだ。優しい甘さが口の中に広がり、思わず小さく唸り声を上げた。
「気に入ってもらえた?」
姫の嬉しそうな声に、魔物は何度もうなずいた。 それから姫は時々森にやってきた。魔物と言葉を交わすわけではない。ただ同じ空間にいて、時折菓子を分けてくれる。魔物にとって、それだけで十分すぎるほどの幸せだった。 姫がいない日は、魔物は遠くから城を眺めた。姫がどこで暮らしているのか、どんな日々を送っているのか。知りたくて知りたくて仕方がなかった。 やがて魔物は、毎日遠くから姫を見ることを日課にするようになった。姫の笑顔を見るだけで、一日が輝いて見えた。姫が庭を歩く姿を見るだけで、胸が温かくなった。 これが恋というものなのだと、魔物は薄々気づいていた。叶うはずのない、身の程知らずな感情だということも。 それでも魔物は、姫を見つめることをやめられなかった。遠くからでいい。こんな自分には、それで十分すぎるほどの贅沢なのだから。
***
姫が森を訪れるのは、決まって夕暮れ時だった。城での用事を済ませ、人目につかぬ時間を見計らって。魔物はその時間を心待ちにし、いつも同じ場所で姫を待った。 ある日、いつものように菓子を分けてくれた姫が、ふと空を見上げて言った。
「今日はとても良いことがあったの」
魔物は首を傾げるように姫を見た。姫は頬を薔薇色に染め、うっとりとした表情を浮かべている。
「隣国のエドワード王子とお会いする機会をいただいたの。とても素敵な方だったわ」
エドワード王子。魔物はその名を心に刻んだ。姫の表情が、今まで見たことのないほど輝いている。
「優しくて、美しくて、まるで物語の中から出てきた方のようだったわ。わたし、あの方を一目で好きになってしまったの」
魔物の胸に、鋭い痛みが走った。それが何なのか、最初はわからなかった。ただ、姫の幸せそうな顔を見ているのに、自分の心は暗く沈んでいく。
「政略結婚と言われたけど、あんな素敵な方とご縁をいただけるならこんな幸せなことないわ。わたし、初めてお父様に感謝したもの」
姫は頬に手を当て、夢見るように微笑んだ。その美しい笑顔を見ながら、魔物は胸の奥で何かが焼けるような感覚を覚えた。
――これが嫉妬というものなのか。
魔物は自分の感情を理解するのに時間がかかった。姫の幸せを願っているはずなのに、なぜこんなにも胸が痛むのか。なぜ、エドワードという名前を聞いただけで、爪が土に食い込むほど拳を握りしめてしまうのか。 それからの日々、姫が森に来るたび、王子の話を聞かされるようになった。
「今日はエドワード様からお手紙をいただいたのよ。とても美しい字で、詩を書いてくださったの」 「エドワード様がくださった薔薇、大事に活けてあるのだけれど、まだ枯れずに咲いてるの。今日も咲いてるかしらって、毎朝それを確認するのが楽しみで仕方ないわ」 「来月には正式な婚約の儀があるの。エドワード様と同じお城で暮らせると思うと、夢のようだわ」
姫が語る一言一句が、魔物の心に深く突き刺さった。けれど魔物は、姫の話を黙って聞いた。姫が幸せそうに話すのを見て、自分も嬉しいふりをした。胸の奥で燃える嫉妬の炎を、必死に隠し続けた。 夜、魔物は|一匹《ひとり》洞窟で過ごす時間が辛くなった。姫の幸せそうな顔が瞼に焼きついて、眠ることができない。
――おれも、姫にとってそんな存在になれたら。
そんな愚かな考えが頭をよぎる。自分のような醜い魔物が、美しい姫と釣り合うはずもないのに。それでも心は、どうしようもなく姫を求めていた。 魔物は洞窟の壁に爪を立てた。石が削れ、血が滲む。痛みで少しだけ胸の苦しみが紛れたような気がした。
***
ある夕暮れ、姫はいつもより遅く森にやってきた。目元が少し赤い。泣いていたのかもしれない。魔物は心配になって姫に近づいた。
「ごめんなさい。今日は少し、わたしの愚痴を聞いててくれないかしら」
姫は木の根に腰を下ろし、膝に顔を埋めた。魔物も姫のそばに座る。言葉は交わせないが、そばにいることで姫の力になれるなら。
「エドワード様が、他国の姫とお話しされてたの」
姫の声は震えていた。
「政略結婚ですものね、エドワード様がほかに好いた方がいらしてもしょうがないわ。でも、でもわたし……とても醜いけれど、嫉妬してしまって」
魔物は姫の横顔を見つめた。いつも気品に満ちた美しい姫が、今は普通の女性のように悩んでいる。その姿さえも、魔物には愛おしかった。
「エドワード様は、少しでもわたしを好いてくれてるのかしら。わたし、わからないわ。わからなくて、不安になるの。わたしはただの、政略の道具なのかもしれないわね」
姫が涙を拭う手を、魔物は見つめていた。その手に触れたい。慰めたい。けれど自分にはその資格がない。
「でも、エドワード様を愛していることだけは確かよ。たとえ政略結婚でも、心からあの方ををお慕いして、良い妻になりたい」
姫の決意を込めた言葉に、魔物の心は引き裂かれそうになった。姫の純粋な愛情が、エドワード王子という男に向けられている。自分はその愛の対象になることは、永遠にない。 姫が帰った後、魔物は森の奥で吠えた。獣のような、低く長い咆哮が森に響く。鳥たちが慌てて飛び立ち、小動物たちが身を隠す。
――なぜおれはこんな姿なんだろう。なぜおれは、姫に愛してもらえるような存在ではないんだろう。
姫の幸せを願いたい。心からそう思う。けれど同時に、姫を自分だけのものにしたいという欲望が膨らんでいく。エドワード王子が憎い。姫の愛を独占している男が、憎くて憎くて仕方がない。 自分の醜い感情に嫌気がさして、魔物は洞窟の奥に籠もった。姫に会うのが辛い。でも、会わないでいるのはもっと辛い。 数日後、姫が森にやってきたとき、その表情は光り輝いていた。
「聞いて! エドワード様が正式に求婚してくれたの!」
魔物の心臓が、氷のように冷たくなった。
「『あなたを心から愛している』……なんて情熱的な言葉で求婚してくださったの。政略結婚だと思っていたのに、エドワード様もわたしを愛してくださってたんだわ」
姫は両手を胸の前で組み、天を仰いだ。その幸福に満ちた表情を、魔物はじっと見つめた。
「来週には婚約の儀。そして来月にはお嫁に行くわ。まるで夢のようよ」
夢のよう。姫にとっては美しい夢。だが魔物にとっては、悪夢の始まりだった。 姫が森を訪れる回数も、これから少なくなるだろう。やがてはまったく来なくなるかもしれない。王子の妻となった姫が、こんな森の魔物など思い出すはずもない。 その夜、魔物は城の方角を見つめて立ち尽くした。城の窓に灯る明かりの一つが、姫の部屋だろうか。そこで姫は、王子との幸せな未来を夢見ているのだろう。
――見ていたい。最後まで、姫の幸せな姿を見ていたい。例えそれが、おれの心を引き裂くことになっても。
魔物は拳を握りしめた。鋭い爪が手のひらに食い込み、血が滴る。だがそんな痛みなどどうでもよかった。 姫の幸せと、自分の欲望。どちらも手放すことができず、魔物は苦悩した。この先どうやって生きていけばいいのか、わからなかった。
――愛とは、こんなにも苦しいものなのか。愛とは、こんなにも自身を狂わせるものなのか。
魔物は初めて知った。愛することの喜びと、同じだけの痛みを。
***
婚約の儀から三日後の夜。月のない、暗い夜だった。 魔物は城の周辺を徘徊していた。もう姫に会えないかもしれないと思うと、居ても立ってもいられなかった。せめて窓の向こうの明かりだけでも見ていたい。そんな切ない思いで、城の外壁にへばりついていた。 そのとき、馬の蹄の音が聞こえた。 一人の男が馬を降り、城の裏手へと向かう。月明かりが雲間から差すと、その男の顔がはっきりと見えた。 金の髪、整った顔立ち、品のある立ち振る舞い。エドワード王子その人だった。 魔物の全身に、電流のような感覚が走った。 憎い。 憎い。 この男が、姫の愛を独占している。この男がいなければ。この男さえいなければ――。 王子は城の裏手から、こっそりと中に入っていく。おそらく人目を忍んで姫に会いに来たのだろう。婚約者としての正式な面会ではなく、二人だけの時間を求めて。 魔物は王子の後を追った。足音を殺し、気配を消して。長年森で生きてきた魔物にとって、人に気づかれずに動くことなど造作もなかった。 王子は姫の部屋の窓の下で立ち止まった。小石を拾い、窓に向かって投げる。しばらくすると窓が開き、姫が顔を出した。
「エドワード様」
姫の嬉しそうな声が、夜の静寂に響く。
「あなたにどうしても会いたくて。少しだけ、お話しできませんか」
王子の甘い声に、姫は頬を染めてうなずいた。
「お待ちください。すぐにそちらへ行きます」
窓が閉まり、しばらくして姫が城の裏口から現れた。薄い羽織を纏っただけの軽装で、まるで舞踏会から抜け出してきたかのように美しい。 王子と姫は手を取り合い、庭の奥へと歩いていく。魔物は木陰に身を隠し、二人の様子を見守った。いや、嫉妬の炎にその身を焦がしながら、監視していた。 二人は庭の四阿で座り、甘い言葉を交わし始めた。魔物には、その内容の一つ一つが針のように心に刺さる。
「きみは本当に美しい。月の女神のようだ」 「エドワード様ったら、そんな」 「きみと結婚できるなんて夢のようだ。これからは毎日きみの笑顔を見ていられるなんて」 「わたしこそ、エドワード様のお妃になれるなんて信じられません」
やがてエドワード王子は立ち上がった。
「もう遅い。風邪を引くといけないから、部屋に戻ろう」 「エドワード様、どうかもう少しだけ」 「いけないよ、愛しの君。きみの体が心配だ」
王子は姫の手にそっと口づけをして、別れを告げた。姫が城に戻るのを見送ると、王子も馬のもとへ向かう。 魔物は王子を追った。城から離れた森の入り口で、ついに王子に追いついた。
「誰だ」
王子が振り向く。月光に照らされたその顔は、確かに美しかった。姫が愛するのも無理はない、と魔物は思った。だからこそ、許せなかった。 魔物が木陰から姿を現すと、王子は剣の柄に手をかけた。
「魔物め。何の用だ」 「おれの……おれの姫を」
ようやく絞り出した言葉は、かすれて聞き取りにくかった。王子は眉をひそめる。
「何を言っている。立ち去れ」 「おれの姫を……返せ」
王子が剣を抜こうとした瞬間、魔物は飛びかかった。人とは比べ物にならない膂力と速さで、王子の首に爪を突き立てる。 王子は驚愕の表情を浮かべたまま、声も出せずに絶命した。 魔物は王子の亡骸を見下ろした。美しい顔は、もう二度と姫に微笑みかけることはない。その事実に、複雑な感情が湧き上がった。安堵と、罪悪感と、そして恐ろしいほどの満足感。 だが、王子を殺しただけでは意味がない。姫は王子の死を知れば悲しむ。それでは本当の意味で姫を奪ったことにならない。 魔物は自分の胸に爪を立てた。皮膚が裂け、血が流れる。痛みに歯を食いしばりながら、自分の体を裂いていく。そして血まみれの手で、王子の皮も自分のもの同様に剥いでいった。 魔物の持つ魔力が、その血と苦痛に反応した。剥ぎ取った王子の皮が、魔物の体を包んでいく。骨格が変わり、筋肉が収縮し、声帯が作り替えられる。激痛に意識が遠のきそうになりながら、魔物は変身を完遂した。 そうして魔物は、エドワード王子の姿になった。 手足の長さ、顔の造作、髪の色、すべてが王子そのもの。鏡がなくとも、自分が変わったことがわかった。
――これで、姫に愛してもらえる。これで、姫を手に入れることができる。
魔物――いや、偽の王子は、王子の衣服に着替えた。血で汚れた自分の皮は、森の奥深くに埋めた。もう二度と、あの醜い姿に戻ることはない。 翌日の夕方、偽の王子は姫を訪ねた。エドワード王子がしたように、城の裏手から、窓に小石を投げて。 窓から顔を出した姫は、王子の姿を見て輝くような笑顔を浮かべた。
「エドワード様、昨日に続いてまた来てくださったんですか?」 「きみに会いたくて、我慢できなかったんだ」
魔物の声は、完全に王子のものだった。姫は少しも疑うことなく、嬉しそうに外に出てきた。 姫の手を取ったとき、魔物の心臓が大きく跳ねた。ついに触れることができた。姫の柔らかな手を、自分の手で包むことができた。
「王子、手が冷たいですわ」
姫が心配そうに見上げる。魔物は慌てて微笑んだ。
「すまない。きみがあんまり美しいから、少し緊張しているんだ」 「まあ」
姫は頬を染めて俯いた。その仕草があまりにも愛らしく、魔物は本当に心臓が止まりそうになった。
――これでいい。これで姫は、自分のものだ。
王子として愛される限り、自分は幸せになれる。姫も幸せになれる。誰も傷つかない。 魔物はそう思い込もうとした。心の奥で、小さな声が「これは裏切りだ」と囁いているのを、必死に無視しながら。 その夜から、魔物は王子として姫と過ごすようになった。姫は以前にも増して愛らしく、魔物に優しく接してくれた。
「エドワード様、前よりもお優しくなられましたね」
姫のその言葉に、魔物の胸は複雑に痛んだ。優しいのは当然だ。魔物は姫を心の底から愛しているのだから。本物の王子以上に、姫を大切に思っているのだから。
「きみを愛しているからさ」
それだけは、偽りではなかった。この気持ちだけは、何よりも真実だった。
***
王子として過ごす日々は、夢のようだった。 姫は魔物を疑うことなく愛してくれた。手を取り、頬に触れ、時には唇を重ねることさえあった。魔物が長年夢見ていた幸福が、ついに現実のものとなった。 だが、それは同時に拷問でもあった。 ある夜、姫と庭を散歩していたとき、姫がふと空を見上げて言った。
「エドワード様、わたしたちが初めてお会いしたのも、こんな星空の夜でしたわね」
魔物の胸に、鋭い痛みが走った。姫が愛しているのは自分ではない。エドワード王子という、もうこの世にいない男だった。
「ええ、美しい夜でした」
嘘だった。すべてが嘘だった。姫との思い出も、姫の愛も、自分という存在そのものも。
「あの夜、エドワード様が『きみを守りたい』とおっしゃってくださったとき、わたしの心は決まりました」
守りたい。それは魔物も同じ気持ちだった。姫を守りたい、幸せにしたいと心から願っている。けれど今の自分は、姫を騙している。姫の純粋な愛を、偽りで応えている。
「わたしも、きみへの気持ちは変わらないよ」
それだけは本当だった。愛しているという気持ちだけは、何よりも真実だった。 姫が振り向いて微笑む。月光に照らされたその美しい顔を見ながら、魔物は胸の奥で叫んだ。
――本当のおれを見てくれ。
――この偽りの皮を剥いだおれを、どうか愛してくれないか!
だが、それは不可能だと知っている。あの醜い姿で愛を迫れば、姫は恐れて逃げ出すだろう。今のこの幸せは、王子の皮があってこそのものだった。 日を重ねるごとに、魔物の心は少しずつ壊れていった。 姫に触れられるたび、姫と言葉を交わすたび、本当の自分を隠していることが苦しくてたまらなくなる。愛されれば愛されるほど、罪悪感が膨らんでいく。 夜中に一人になると、魔物は鏡のような水面を見つめた。そこに映るのは美しい王子の顔。でも、その瞳の奥には獣の本性が潜んでいる。
――いつまでこの嘘を続けるつもりだ。
――いつまで姫を騙し続けるつもりなんだ。
ある日、姫が体調を崩して床に臥せた。姫を訪った魔物は壁をよじ登り、姫の部屋に入って看病をした。熱にうなされる姫の額に濡れ布を当てていると、姫がうわ言で呟いた。
「エドワード様……わたし、あなたが……大好き……」
魔物の手が止まった。姫は今も、本物のエドワード王子を愛している。自分ではない、死んでしまった男を。
――おれじゃない。おれじゃないんだ。
魔物は拳を握りしめた。爪が手の平に食い込み、血が滲む。この痛みでさえ、心の苦しみには及ばない。 そのとき、姫が目を覚ました。ぼんやりとした瞳で魔物を見上げる。
「エドワード様……? どうして、ここに……?」 「きみのことが、心配で」 「ありがとうございます。でも、少し……」
姫は眉をひそめた。
「少し、顔色が悪いように見えますが……」
魔物は慌てて微笑んだ。だが、その笑顔はどこかぎこちない。
「大丈夫。きみの心配をしていただけだよ」
姫は何かを感じ取ったのか、じっと魔物を見つめていた。その視線が、魔物の胸を締めつける。 王子の皮を被って過ごす時間が長くなるにつれ、魔物の魔力は少しずつ消耗していった。完全な変身を維持するには膨大な力が必要だった。それに加えて、精神的な負担も限界に近づいている。 時々、水面や鏡に映る顔が歪んで見えることがあった。一瞬だけ、元の醜い姿が透けて見える。魔物は慌てて意識を集中し、王子の顔を保った。
――まだだ。まだ正体を明かすわけにはいかない。
ある夜、姫と二人で庭の四阿にいたとき、姫が魔物の手を取って言った。
「エドワード様、最近何か悩んでいるのではありませんか?」
魔物の心臓が跳ねた。気づかれているのだろうか。
「以前よりもお疲れのご様子ですし、時々遠くを見つめていらっしゃることが……」 「そんなことは」 「無理をなさらないでください。わたし、あなたの役に立ちたいんです」
姫の優しい言葉が、魔物の心を深く刺した。姫は自分を心配してくれている。偽りの自分を、本当に愛してくれている。 そのとき、魔物の中で何かが決壊した。
「きみに……きみに、話したいことがあるんだ」
魔物は震える声で言った。姫は心配そうに身を乗り出す。
「どのようなことでしょうか」 「わたしは……わたしは……」
言葉が喉に詰まった。言ってしまいたい。すべてを打ち明けて、姫の判断に委ねたい。でも、言えば終わりだということも分かっている。 姫は静かに待っていた。魔物が何を言おうとも、受け止めようとする覚悟を決めているようだった。 だが結局、魔物は真実を告げることができなかった。
「わたしは……きみを、心から愛している」
それだけを言うのが精一杯だった。姫は安堵したような笑みを浮かべ、魔物の手をそっと握りしめた。
「わたしもです。ずっと、ずっと愛してます」
その夜、一人になった魔物は森の奥で慟哭した。獣のような咆哮が闇夜に響く。
――いつまで続けるんだ、この茶番を。
――いつまで姫を騙し続けるんだ。
愛されることの喜びと、それが偽りであることの苦しみが、魔物の心を引き裂いていく。魔力の消耗も激しくなり、時々意識が朦朧とすることがあった。 そして魔物は気づいていなかった。姫もまた、何かを感じ取り始めていることに。 あの夜から、姫は時々不安そうな表情を浮かべるようになった。愛する人に何かが起こっているのではないかという、女性特有の直感が働いていたのかもしれない。 魔物の幸福は、崩壊への道を辿り始めていた。
***
それは雨の夜のことだった。 いつものように姫の部屋を訪れた魔物に、姫は静かに微笑みかけた。だが、その笑顔の奥に影が差しているのを、魔物は見逃さなかった。
「お疲れのようですね、エドワード様」
姫は窓辺に腰を下ろし、雨に濡れる庭を眺めていた。魔物もその隣に座る。二人の間に、今までにない静寂が流れた。 やがて姫が、ためらうように口を開いた。
「エドワード様に、お尋ねしたいことがあるんです」
魔物の心臓が、不安な音を立てて跳ねた。
「何でしょうか」 「あなたは……あの夜から、変わりました」
あの夜。本物の王子を殺し、その皮を被った夜。魔物の全身に冷たいものが走った。
「変わった……わたしが?」 「ええ。以前のエドワード様は、もっと……どう言えばいいのかしら……。明るく、屈託のない方でした」
姫の声は穏やかだった。責めるような調子は微塵もない。それがかえって、魔物の胸を締めつけた。
「でも今のあなたは、いつも何かに苦しんでらっしゃるような。まるで、大きな罪を背負ってらっしゃるような……」
魔物は何も答えられなかった。姫の言葉は、すべて的を射ていた。
「わたし、最初は政略結婚が重荷になってらっしゃるのかと思いました。でも違う。もっと深い、もっと根本的な何かを抱えてらっしゃるようですね」
姫が振り向く。その瞳に宿る光は、まっすぐに魔物を見据えていた。
「エドワード様、わたしに何か隠してらっしゃいますね?」
雨音が、二人の沈黙を満たしていく。魔物は震える手で、姫の頬に触れた。
「きみは……気づいていたのか」 「すべて、ではありません。でも、感じてはいました。今のあなたは、以前のエドワード様とは……違う」
姫は魔物の手を包み込んだ。
「でも……それでも構いません。わたしは、今のあなたを愛しております」
その言葉が、魔物の心を粉々に砕いた。愛している。この偽りの自分を、姫は愛していると言う。 魔物の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。王子の美しい顔に流れる涙を見て、姫は驚いた表情を浮かべる。
「エドワード様……」 「姫、わたしは……わたしは……」
声が震える。喉が詰まって、言葉が続かない。 そのとき、魔物の体に激痛が走った。魔力の限界が近づいている。長い間王子の姿を保ち続けた代償が、ついに体を蝕み始めた。 魔物は立ち上がろうとして、よろめいた。姫が慌てて支えようとする。
「エドワード様、どうなさいました」 「おれから……離れて」
魔物は姫を突き飛ばすように遠ざけた。姫が転びそうになりながらも、心配そうに見つめている。 魔物の顔が歪み始めた。美しい王子の顔立ちが崩れ、元の醜い姿がにじみ出てくる。
「見ないでくれ……お願いだ、見ないで……」
だが姫は逃げなかった。恐れることもなく、ただじっと魔物を見つめていた。
「大丈夫です。あなたがどうなろうと、わたし、怖がったりしませんわ」
その言葉を聞いた瞬間、魔物の心に最初に姫と出会った日の記憶が蘇った。森で道に迷った姫が、醜い魔物に向かって言った優しい言葉の数々。魔物の心の中に、宝石のように大切に仕舞われているそれらが、浮かび上がる。
「姫、おれは……」
魔物の声が、低い唸り声に変わっていく。王子の美しい容貌が剥がれ落ち、元の醜い姿が露わになった。
「おれは、森の……」 「大丈夫」
姫は静かにうなずいた。
「薄々、感じてたわ。あの優しい瞳が、王子の中にもあったことを」
魔物は完全に元の姿に戻っていた。巨大な体躯、ごつごつとした肌、赤く光る目、鋭い牙。それでも姫は逃げなかった。
「おれは……おれは王子を殺した」
ようやく真実を告白した。姫の顔が青ざめる。
「おれは王子の皮を剥いで、その姿になって……きみを、騙した」 「それは……なぜ?」 「きみを、愛しているから」
魔物の声は涙で震えていた。
「きみを愛しているけれど、この姿では愛してもらえない……だからおれは、おれは……」
姫の瞳からも涙がこぼれ落ちた。だがそれは恐怖の涙ではなく、悲しみの涙だった。
「ねえ。わたし、あなたの名前を知らないわ。あなたを慰めたいのに、名前も呼べないなんて」 「名前なんて……おれに名前なんて、ない……」
姫は魔物に近づこうとした。だが魔物は後ずさりする。
「触れないで。おれの汚い手で、きみを穢したくない……」
魔物の体が崩れ始めた。魔力を使い果たし、もう形を保っていることができない。体の各所から血が滲み、意識も朦朧としてくる。
「でも……」
魔物は膝をついた。もう立っていることもできない。
「でも、王子を殺したこと、おれは後悔してない。きみに触れられたから……きみと、見つめ合えたから……」
姫の手が、魔物の頬に触れた。温かく、優しい手だった。
「あなたが森で、わたしを助けてくれたこと、忘れないわ」 「姫……」 「あなたがわたしに向けてくれた愛も、決して忘れない」
魔物の体が塵となって崩れ始めた。最後の力を振り絞って、魔物は言った。
「愛して……いるよ……心から……」 「わたしも……」
姫の涙が、魔物の顔に落ちる。
「わたしも、あなたを……」
魔物の姿が、完全に消えた。残ったのは血に染まった王子の衣装だけ。姫はその衣装を抱きしめ、ほろほろと涙をこぼした。
「あなたの名前……結局、呼ばせてくれなかったわね」
雨が窓を叩きつける。その音に、姫の嗚咽はかき消された。