沼の神と生贄

 いつかの時代のある場所に、小さな村があった。大昔に山の麓を切り開いてできた村だった。  山の麓には大きな沼があって、そこには大きな大きな蛇の姿をした水神様が棲みついていた。翡翠の鱗と烏羽玉の瞳が美しかった。  水神様は度々沼から這い出ては、村で暴れた。  村人たちがやめてくれと泣いて乞うても、山伏や坊主が調伏しようと試みても、水神様は人里で暴れるのをやめなかった。金切り声を上げひとしきり暴れると、疲れた体を引きずり、沼へ戻っていった。  暴れた後、水神様は沼の底でぽろぽろと涙をこぼす。

「ああ、さびしい、さびしい。おれはどうしてひとりきりなんだ」

 水神様は、ひとりきりが寂しかった。望んで沼の神になったわけではない。水神様ほど大きな蛇がいなかったから、水神様ほど長生きできる蛇がいなかったから、いつの間にか神として祀られるようになっただけだ。  勝手な信仰のせいで、水神様の胸にはぽっかりと大きな穴が開いていた。その穴が痛む度、水神様は村で暴れる。

「人間どもは、仲間で群れて楽しく過ごしているというのに。おれはどうして仲間がいないんだ。どうしてどうして、おればかりがひとりきりなんだ」

 涙は泥と混ざり合い、こぼした寂しさは|泡《あぶく》となって浮き上がり、誰にも知られず|水面《みなも》で弾けた。

***

 寂しさが我慢の限界を超えた、夏のある日。水神様は沼を出て人里へ出ようとした。しかしすぐに動きを止めた。  何かが、沼の|縁《へり》にいた。  水神様は目を凝らし、その何かを見た。それは人間の娘だった。まだ十を過ぎて数年の、若い娘だ。|眦《まなじり》の吊り上がった目は、山猫を思わせた。  縁に立つ娘は、仏頂面で水神様を睨みつけていた。水神様も、きょとんとして娘を見下ろした。こんな若い娘が一人で沼にやってくるなんて、今までにないことだった。いったい何の用だろうと、不思議で仕方なかった。  睨み合いを終えるきっかけは、娘の短い笑い声だ。小馬鹿にしたような笑い方だった。

「あんた、寂しくて暴れてたんでしょ」

 言い当てられたのは、初めてだった。今までやってきた坊主や山伏も見破れなかった。それを、娘は見ただけで言い当てた。  水神様は、腹の中にいくつもの感情が渦巻くのを感じた。  こんな小娘に言い当てられた恥ずかしさ。尾を一振りしただけで叩き潰せる娘に馬鹿にされた怒り。一呑みで腹に収まる小さな生き物に孤独を知られた惨めさ。

 ――不快だ。耐えがたい屈辱だ。見ているだけで不愉快だ。こんな小娘、一呑みにしてしまおう。

 水神様は裂けてしまうほど大きく口を開くと、娘を飲み込もうとした。けれど続く娘の言葉に、またもや固まった。

「あたしが一緒にいてあげるから、もう暴れるのはやめなさいよ。あたしみたいなのでも、誰もいないよりはいいでしょ」

 腹の立つ物言いをする娘だった。娘の言い方に薄腹が立たないわけでもなかったが、それ以上に、水神様は寂しかった。  水神様は大きく開けた口を閉じると、今度は控えめに開いた。

「お前がいても寂しいと感じたら、おれはお前を飲み込むぞ」 「そしたら村の奴らが喜ぶわ。あたし、あんたへの生贄だもの」

 生贄と言われ、水神様は改めて娘を見やった。  何かの蔓で縛った髪には艶がない。身に着けた衣服には継ぎ当てが多い。足には草履すらない。そして衣服の下、その体には肉が少ない。  娘が貧乏であることは確かだ。だが、働けないほどか弱くは見えない。首を傾げる水神様に、娘は淡々と告げる。

「あたしを食って怒りを鎮めてくれって、何に怒ってるか知らないけど、これで勘弁してくださいってさ」 「おれは別に、怒っちゃいない」

 言い訳のようにもごもご呟く水神様を見上げ、娘は「はんっ」と笑った。

「寂しい寂しい、誰か構って、って駄々こねてただけだものねえ」 「駄々もこねてない」 「はいはい。そういうことにしといたげる」

 娘が何か言えば言うほど、水神様は向かっ腹が立った。二、三日過ごしても寂しさが紛れなかったら、一口で食ってやろうと決めた。

「お前、名前は」 「性悪娘のナズナ」

 ナズナと名乗った娘は、自ら頭に〝性悪〟とつけた。性格、口の悪さに自覚はあるようだ。

「確かにお前は口が悪い」

 水神様がうなずくと、ナズナはぷいとそっぽを向いた。

「しょうがないじゃない。あたしがしっかりしてなきゃ、だぁれもあたしとシロザを守ってくれなかったんだもの」

 ナズナには、シロザという弟がいた。過去の話だ。シロザは|二《ふた》月ほど前に死んでいる。水神様が暴れたときに、尾の下敷きになって死んだのだ。

「シロザはね、可愛い子だったわ」

 ナズナはそっぽを向いたまま、弟のシロザがどんなに可愛かったかを語る。

「まん丸のほっぺと、ちっちゃな手がすごく可愛いの。姉ちゃん、姉ちゃんって寄ってくるのなんか、本当に、本当に可愛くて、風が冷たくたって体が温かくなるくらい。あの子のためなら、山に入って山菜を採るのも、柴を刈るのだって苦じゃなかった」

 語るナズナの顔から小生意気さは消え、うら寂しさと物悲しさが浮かんでいる。  水神様は初めて、自分が悪いことした――ような気になった。  小憎たらしいナズナがしゅんとしょげるほどのことをしてしまったのだと思うと、何か言わなくてはいけない気になった。  言うべき言葉は一つだけだ。しかしそれは、今まで口にしたことのない言葉。水神様は、黙りこんでしまった。ナズナも同じく、黙ったまま立っていた。  ゆっくりと、水神様が口を開いた。開いた口はすぐ閉じ、またゆっくり、小さく開けられた。

「……すまんかった」

 もごもごと、不明瞭な声だった。風にかき消されそうな小さな声だった。それでも、水神様は謝った。自分より遙かに小さなナズナに謝った。  もごもごと謝る水神様を、ナズナは目を見張り、胡乱げに睨んだ。きゅっと吊り上がった眉が、不意に柔らかく下がる。ナズナは水神様を睨むのをやめると、鼻で笑った。

「あんたも、悪いことしたって思えるのね」

 そう言って、ナズナは「ふうん」とにやにや笑った。どこか納得したような、いたずらを思いついたような、そんな仕草だった。  ナズナはうんっと体を伸ばすと、きょろきょろと辺りを見回した。

「ねえ、あたしが寝るのにいい場所って知らない?」 「おれは沼の底で寝る」 「そりゃあ、水の中で息のできるあんたはいいでしょうけどね。あたしはそうはいかないわよ。人間だもの」

 別に、水神様だって沼の中で息をしているわけではない。息苦しくなったら起きるだけだ。だがそれを言っても、ナズナに何かと理由をつけ言い負かされるだろう。  水神様は余計なことを言わず、尾の先で沼を囲む森の向こう、少し行った場所にある小屋を指した。そこは坊主や山伏たちが、水神様を調伏の準備をするため用意した小屋だった。

「坊主たちの使っていた小屋がある。そこを使え」 「ああ、あれね」

 そううなずくと、ナズナはすたすたと歩いて行ってしまった。お礼の一個もなく、さっさと木々の合間を抜けて森へ入った。

「あいつは、とことん失礼な奴だなぁ」

 腹が立つやら、呆れるやら。水神様は、鼻から大きな息を吐いた。

***

 こうしてナズナは、生贄のくせに食われもせず、水神様と暮らし始めた。人を食うつもりなんてもとよりない水神様だが、ナズナのことは、厚かましい奴だなぁと思っていた。しかしそんなナズナと過ごす日々は、思いの外楽しかった。  ナズナは器用だった。  沼の周りに生える背の高い、茎の硬い草を使い、茣蓙を編む。  森に入り、太さと硬さを伴う蔦を持ち帰り、篭を編む。  坊主や山伏たちが置いていった野営道具とわずかな食物で、水神様も腹の空くような料理を作る。 ナズナが何か作業をするたび、水神様は目を輝かせた。鮮やかな手捌きに、時間を忘れ見とれた。  特に楽しかったのは、調理中のナズナを見ることだ。火を熾す様、刃を研ぐ様、食材を刻む様、煮込む様。料理というものを知らなかった水神様は、どれを見るのも楽しかった。

「山伏たちの奇術より見応えがあるなあ」

 憎たらしさも忘れた水神様は、感心のあまり、素直に褒めてしまった。褒められたナズナは、水神様が謝ったときと同じ顔をした。けれど今度は鼻で笑うことなく、ふっと息を噴き出した。

「あんたってほんと、子供みたい」

 柔らかく細められた目が、誰かへの思いやりが浮かぶ眼差しが、水神様の胸に空いた穴を埋めた。胸の穴が塞がると、水神様は体がぽかぽか暖かくなるのを感じた。  初めての感覚に水神様は戸惑った。けれど一つだけは確かにわかった。

 ――おれはナズナを食わないな。ナズナがおれを殺そうとしたって、おれはナズナを食わない。殺さない。

 それは穴を塞いでくれたことへの感謝か、はたまた別の感情のせいか。今までひとりぼっちが長かった水神様にはわからない。わからないが、ナズナと過ごす時間が少しでも長ければいいと願った。

***

 それから水神様は、ナズナと一緒に山へ入ったり、沢を渡ったり、沼の縁でまどろんだりと、穏やかな日々を過ごした。  ナズナはずけずけと物を言い、遠慮がない。けれどそれもそのうち慣れた。  それはけれどナズナが見せる、人の世界で生きる術が面白かったせいもあるかもしれない。  誰かが常にそばにいる生活が、あまりにもあたたかだったせいかもしれない。  ナズナから聞く、人里での話も楽しかった。仲睦まじく暮らす人々の話を聞いても、水神様は妬まなくなっていた。寂しさを感じなくなっていた。胸の穴が塞がっているのを実感し、ナズナの話を聞く度、水神様は嬉しくなった。  ある夜、熾した火のそばで膝を抱えながら、ナズナが水神様に言った。

「あんたも話してよ。あたしばっかり話して、疲れるわ」 「んん? そうか、疲れるのか」

 沼の縁に頭を載せまどろんでいた水神様は、ゆっくり頭を持ち上げた。  最近、ナズナの料理を食べると眠くなり、うまくものを考えられなくなる。回らない頭で、水神様はむにゃむにゃと考えた。  もやもやする頭の中、ナズナに聞かせる話を探す。だが、話せるようなことは何もない。  ない、と伝えると、ナズナは片眉を上げた。

「ないことないでしょ。何でもいいから、とにかく話してよ」

 ううん、と唸りながら、水神様はひとりぼっちの日々を思い出した。どれだけ考えても、ナズナが聞いて面白がりそうな話は一つもない。それでもナズナが望むのならと、水神様は、沼の中で見たことをナズナに話した。

「おれが眠る沼の中には、魚がたくさんいて……」

 泳ぐ魚たちの自由さ、前触れなく鳥に連れ去られる無情さを、水神様はぽつりぽつりと語った。あるがままの自然を伝えただけで、それは面白みの欠片もない話だった。  またナズナに笑われるな、と水神様はしょげた。けれど水神様がどれだけ縮こまっても、ナズナは笑わなかった。

「それで? 見たことはそれだけ? もっとあるでしょ。あたしが話した分、あんたも話してよ」

 その日から、夜の沼の縁で語るのは、水神様の役になった。  大したことは語れない。水神様は自身が山や沼で見たこと、山中で起きた出来事しか知らない。  盛り上がる部分もないし、きれいにまとめる落としどころもない。  加えて、水神様は今まで誰かとこんなにも話したことがなかった。言葉に詰まることも、上手く話せず黙り込んでしまうこともあった。  それを、ナズナは馬鹿にしなかった。水神様が珍しく愉快な話をした以外で笑うこともなかった。  自分の見聞きしたことをナズナに伝えたい。その一心で話す水神様を、ナズナはじっと見つめ、静かに相槌を打っていた。

 話ながら、水神様は時々泣いた。

 寂しかった日々を思い出しながら語ったせいだろうか。自分の話に耳を傾けてくれる者がいる嬉しさのせいだろうか。  自分でもわからぬまま、水神様は烏羽玉の目からほろほろと涙を流した。  ナズナは水神様を慰めなかった。けれど泣き止むまでそばにいた。ときには滑らかな鱗を、小さな手で撫でた。  ナズナの手は水神様には熱すぎたけれど、嫌ではなかった。この手で撫でられるのなら、情けなく泣くのも悪くはないと思っていた。

***

 ナズナと過ごし始めて季節が一つ進んだ頃だっただろうか。  一人の娘が、自らの足で沼へやって来た。ナズナと同じ村に住む、心根の優しいことで有名な娘だった。器量よしでもあり、艶やかな黒髪と身に着ける衣服の上等さから、裕福な暮らしが窺えた。  娘がやって来たそのとき、ナズナはちょうど、小屋へ調理道具を仕舞いに行ったところだった。やってきた娘は「私をお食べください」と膝を折り、水神様へ田畑の豊穣を願い出た。

「どうか私を食べ、怒りを鎮めくださいませ。痩せた田畑を元に戻してくださいませ」

 水神様は、烏羽玉の目をきょとんと瞬かせた。  土に関しては、何にもしちゃいない。水の神なのだから、痩せた田畑を肥やせるわけもない。それにもう、生贄ならば足りている。

「土はおれの知ったことじゃない。だからもう生贄はいらない。おれには、ナズナだけでいい」

 水神様が首を振ると、娘は眉をひそめた。

「《《あれ》》に絆されましたか」

 娘はナズナを《《あれ》》と呼ぶ。水神様はなぜだか、それが無性に腹が立った。水神様が人間ならば、その眉間に大きな皺が刻まれただろう。  そうとも知らず、娘は続ける。

「水神様。あれは性悪です。あなたを殺す毒を隠し持っているんですよ」 「それは……そうだろうなぁ」

 驚きはなかった。寧ろ、そうでなくてはおかしいと思った。何せ自分は、ナズナの弟を殺したのだから。それ以前にもきっと、誰かの家族を殺している。いや、一家丸々叩き潰したことだってあるだろう。  ナズナの料理を食べると眠くなるのは、毒のせいかもしれない。だが、それでも――それでも。  水神様は、静かに首を振った。

「ナズナは、おれの寂しさを消してくれた。だからおれは、ナズナになら殺されてもいい」

 茂みの揺れる音がした。娘と水神様がそちらを見やると、顔を真っ赤にしたナズナが出てきたところだった。

「ばっかじゃないの?」 「馬鹿とは何だ」

 水神様はふんと鼻息を吐き出すと、ナズナに向き直った。

「おれは本当に、ナズナになら殺されてもいいと思っているんだぞ」 「なんであたしが殺さなきゃいけないのよ」 「殺さないのか?」 「ばかじゃないの?」

 そんなやり取りをしているうちに、気づけば娘は消えていた。呆れたのか、失望したのか。それとも、食われるのがいやになったのか。  どちらにせよ帰ってくれてよかった、と水神様はほっとした。ナズナが取られては敵わない、余計な人間が増えなくてよかったと安堵し、はたと我に返った。

 ――ナズナが取られる?

 ああそうか、と納得した水神様は、一人でうんうんとうなずいた。

「おれはナズナが好きなんだなぁ」

 水神様がしみじみ呟くと、ナズナの顔はまたさらに赤くなった。

「ばか!」

 一声叫んだナズナは、目にも止まらぬ早さで水神様の尾を蹴った。ナズナの小さな足に蹴られたって、水神様は痛くもかゆくもない。けれどそうしなければいけない気がして、水神様は「あいたたた」と大げさに痛がって見せた。  その日ナズナの機嫌は悪かったが、ナズナの料理を食べても、水神様は眠気を感じなかった。

***

 娘が村へ戻り、ナズナと二人きりの生活が戻ったかと思いきや、平穏はすぐに終わってしまった。  その日、ナズナを連れて沢を渡った水神様は、一休みするため沼へ戻った。  見計らっていたかのように、農具を持った村人たちが山へ入ってくる。水神様の沼へと、列を成し歩き始めた。  不満と義憤の混ざった村人たちの気迫を、水神様は感じ取っていた。遊び疲れたナズナがごろりと転がる様子を見ながら、耳を澄ました。そうやって、迫り来る彼らの足音を聞いた。荒い鼻息を聞いた。会話を聞いた。  村人を煽動するのは、黒髪の娘だった。

「あそこにいるのは化け物です。神様なんかじゃありません」

 娘の言葉に村人たちは色めき立つ。目に怒りを燃やし、沼へ進む。

「私は聞きました。土も水もどうにもできないと。できないのに、神として崇められ暴れていたんです、あの蛇は」

 そこまで聞いて、水神様はううん、と悩んでしまった。ナズナが気遣わしげに水神様を見上げる。

「どうしたの。お腹でも壊した?」 「いや……その……」

 水神様は、今聞いたものをナズナに教えるか悩んだ。悩んだが、結局教えた。聞いた途端、ナズナは跳ねるように起き上がり、きりりと目を吊り上げた。  口を開こうとするナズナを、水神様は制した。

「おれはもう、死んだっていいんだ。ナズナといられて楽しかったから。だけど、殺されるならナズナがいいな」 「あたしがあんたを殺すなんて決めつけないでよ」

 ナズナの小さな手が、ぽこん、と水神様を叩く。くすぐったさを感じながら、水神様は尾の先で村人たちが来る方角を指した。

「おれを殺せば、ナズナは村に戻れるんじゃないか?」

 久しぶりに、ナズナが鼻で笑った。心底馬鹿らしいと思っている顔だった。

「戻らないわよ、あんな村。あんたみたいな寂しがりを置いてけないもの」

 嬉しかった。ナズナがそう思ってくれるだけで、もう十分だと思えた。そう伝えても、ナズナはうなずかない。

「いいからあたしに任せてよ。あたしが性悪って呼ばれてたのは、口の悪さだけじゃないんだから」

 暴れないでよね、と釘を刺し、ナズナは村人たちと水神様の間に立ち塞がった。  黒髪の娘が、村人たちをたきつけたときと同じ台詞を口にする。それをナズナは一笑に付した。

「勝手に神様扱いしたのはあたしたちでしょ。暴れたことを怒るのはまだしも、土を肥やせないからって恨むのは筋違いじゃない」

 正論だろう。しかし頭に血の上った村人たちに、何かを恨まねば心の芯が折れてしまいそうな村人たちに、そんな言葉は届かない。

「化け物を庇うのか」

 誰かがそう言って、鍬を構えた。

「お前は性悪だものな」

 そう言って、誰かは鋤を担いだ。

「生贄にしたことを恨んで、化け物と一緒に俺たちを笑ってたんだろ」

 鎌を持った誰かが、ナズナへ刃を向けた。

「食われもせず化け物と暮らしてたお前も化け物だ」

 誰かの握っていた杵が、大きく振り上げられる。「殺せ」と誰かが言った。「殺しちまえ!」と同調した。ナズナの頭に、杵が振り下ろされた。  あっと声を出す間もなく、水神様が尾で引き寄せる隙もなく、ナズナは地面に倒れ伏した。どろりとした赤いものが地面に広がっていく。  水神様は、辺りが冬になったように感じた。身を切るような寒さが体に走ったからだ。けれど風はまだ柔らかく、凍えるような寒さはない。  水神様は、夜が訪れたのかと思った。ナズナが見えぬほどの暗闇が目の前に降りてきたからだ。けれど遠く聞こえる鳥たちの鳴き声が、今が昼間であることを告げる。  自分の体に突き立てられる金気も、木片も、痛くはなかった。けれど塞がった胸の穴が無理矢理広げられた痛みは、耐えがたかった。

「ナズナ」

 巨躯を折り曲げ、ナズナに頭を近づける。それほどの距離で名前を呼んでも、ナズナから返事はない。

 ――おれに群がる人間たちが騒がしいせいだろうか? この人間たちを静かにさせれば、ナズナは返事をするだろうか。

 水神様はナズナの体をくわえると、空を仰ぎ、金切り声を上げて尾を振り回した。  ずっしりと重いものが何度も当たったが、吹き飛ばされたそれを確かめることはしなかった。  何度も何度も、尾を地面へ叩きつけた。  芯のある硬いものが水気を撒き散らし弾けた感触があったが、それを見ることはしなかった。  辺りがしんと静かになっても、ナズナは返事をしない。

「ああ、これじゃあ足りないんだな。まだ麓に、村があるものな」

 水神様は山を下り、村で暴れた。今度は寂しさで暴れるわけではない。そうするのだと決めて、村で暴れた。すべての家を潰すつもりで、呼吸をするものすべての息の根を止めるつもりで、暴れた。  村のあった場所が平地になる頃には、水神様の息はすっかり上がっていた。  ナズナを横たえ、もう一度名前を呼ぶ。

「ナズナ」

 返事は、なかった。  水神様はナズナの亡骸をくわえると、重い体を引きずり、どこかへ向かった。  元いた沼ではない。  山の中でもない。  静かなどこかを探して、ゆっくり、ゆっくりと、傷ついた体を引きずっていった。  水神様のその後を知る者はいない。  誰も、知らない。