もう消えたぬくもりを抱いて生きていくよ

 いつかの時代の、どこかの場所での話だ。山のそば、川が流れる場所であることは確かだった。

 そこには小さな神社があった。厄を引き受け、福を授ける神が祀られている。神社にいる神の姿を見た者はいないが、社の敷地内に暮らす〝それ〟を見た者は多くいる。それは厄神と呼んで差し支えない人外の者だった。  体格は幼児のものだが、その顔にある目はぎょろりと大きなものが一つだけ。指は三本しかなく、綿毛のような毛をかき分け鋭い角が一本生えている。汚い襤褸を身にまとい、いつも寒そうにしていた。  それは社のそばに棲みついているが、決して、社の中には入らなかった。いや、入れてもらえなかった。それは祀られる神に嫌われていた。軒下どころか、縁の下に潜り込むことすら許されなかった。  雨風を凌げないそれ――子供の体躯をした哀れな人外の者を、今後は厄神と呼ぼう――は、天気が悪くなると、人里に降りて雨風を凌いだ。  一つ目で、指が三本しかなく、角の生えた子供の姿をした化生を、誰が喜んで雨宿りさせよう? 誰が家の中へ迎え入れるだろう?  小さな厄神を見つけると、人々は野良猫にでもするように水をかけた。冷え切った体にさらに冷たい水を浴びせられ、厄神は大慌てでその家から逃げ出す。いつものことだ、慣れっこだ。慣れているのに、いつもいつも、胸が痛い。ちくちくと、ずきずきと、じくじくと、胸のずっと奥が痛くなる。痛くて苦しくて、厄神は時々、訳もわからず大きな単眼から涙をこぼした。  人は厄神を見るのも嫌がる。軒先に立つことも許されない。神社へ戻ってもそれは同じ。眠るときはいつも木の根の下、襤褸に包まって眠る。冷たい風が吹こうとも、屋根の下へは入れない。  厄神は寂しいという言葉を知らなかった。切ないという言葉を知らなかった。ただただ痛みと苦しみを抱え、紛れさせる方法も知らずさまよっていた。  痛みと苦しみだけではない。厄神はいつも、空腹に悩まされていた。気づけば存在していた厄神に、お供え物なぞあるわけがない。食べなくても死ぬことのない体だ。なのに、厄神の胸と腹はいつでも空っぽの虚しさを訴える。

 どうして自分はこうなんだろうなあ。  どうして自分の胸はいつも痛いんだろうなあ。  どうして自分の腹はいつも空っぽなんだろうなあ。  どうして自分は、ひとりぼっちなんだろうなあ。

 厄神は、いつもそんなことを考えていた。考えても、誰も答えはくれなかった。

***

 雨宿りに成功したある日のことだ。厄神は縁の下から這い出し、雨上がりの土の匂いを吸い込んだ。冷たい雨は嫌いだが、この匂いは土の優しさを感じて好きだった。  雨上がりの匂いに足を止めたのが悪かったか、厄神は遊びに行かんと外へ飛び出した子供たちに見つかった。

「あ」「あっ」「あ!」

 それぞれが、声を上げた。呆けた顔が悪意に満ち、子供たちは当たり前のように石を拾った。  一番体格の良い子供が、石を掴んだ腕を振る。放たれた石が、厄神の顔をかすめた。

「こっちに来んな、疫病神!」 「びんぼーがみ!」

 一人が投げたのを皮切りに、子供たちは次々石を投げる。雨霰のように降りしきる石を避け、厄神は体を丸め逃げ出した。  石が当たらないよう必死に逃げる厄神を、子供たちは笑いながら追いかける。走りながらも、子供たちは石を拾っては投げる。

 ――何でいじめるんだよぅ。おれが何をしたんだよぅ。

 厄神は、そう言いたかった。けれど息が切れて、言葉どころか声すら出ない。石の雨が降らない場所へ逃げるため、必死に脚を動かすので精一杯だ。  子供たちから逃れようと無我夢中で走っていた厄神は、自分が今、どこを走っているかもわかっていない。周りを見る余裕もない。だから、前方を歩く女にも、その女に自分がぶつかろうとしていることにも気づかなかった。  どん、とぶつかったのは厄神の頭だ。小さな角の生えた頭が、歩いていた女のふくらはぎを強かに打つ。

「あら」

 女が振り向いた。子供たちが「あ」と声を上げ足を止める。厄神を見つけたときの声とは違う。大人にいたずらが見つかったときの声だ。厄神は強く目を閉じ、体を縮こめた。きっと、殴られると思ったからだ。  だがぶつかった女は厄神を殴りもせず、その柔らかな腕で厄神を抱き上げた。

「石を投げて遊んではいけませんよ」

 優しい声だった。あたたかくて、いい匂いがした。今までこれほど誰かに近づいたことはない。

 ――いったい誰だろう?

 不思議でならなかった厄神は、自分を抱き上げた女を見上げた。厄神が見たことのない、長い黒髪の女だった。「巫女さん」と子供の一人が呼びかける。

「巫女さん、そんなのほっとけよう」 「そいつが雨宿りした家じゃ、いっつも悪いことが起きんだぜ」 「庇ったりしたって、なぁんも得しねーよ」 「構いませんよ」

 ゆったりと微笑んだ巫女なる女は、厄神を家へ連れ帰った。巫女の住まいは粗末な小屋だった。入り口で下ろされ途方に暮れる厄神に、巫女は「お入りください」と優しく微笑んだ。

「湯浴みはご存じですか? ずいぶんと冷えていますね。あなたほどの体なら、たらいで事足りるでしょう」

 そう言って、巫女は湯を沸かし始めた。その間に厄神は、巫女の家にそろりと足を踏み入れた。それを見て、巫女はまた嬉しそうに笑んだ。  厄神にとって初めての湯浴みは、とても快いものだった。心地よいのは湯の温度だけでなく、巫女の優しさもだった。

「あなたさえ良ければ、ここに住んでくださってもいいんですよ」

 厄神に新しい服を着せながら、巫女はそう言った。だが厄神は首を縦に振らなかった。けれど、何かあるとすぐ巫女のところへ行くようになった。  巫女が家にいなければ軒先で待った。巫女は自分の住まいで厄神が待っていても、一度も嫌な顔をしなかった。いつもどんなときも、自分の住まいを訪れた厄神を微笑みで歓迎した。  湯浴みや食事、昼寝といった少しの生活を、厄神は巫女の家で送る。そうしたことが済むと、巫女は厄神を抱いて膝に乗せ、《《おはなし》》を聞かせる。

「あなたが住む社には、神様がいるでしょう?」

 膝の上で、厄神は無言でうなずく。巫女は微笑み、厄神の頭を撫でながら話を続ける。

「社の神様は、福を授けてくださいます。けれどもう一柱、神様がいるんですよ」

 それは初耳だった。厄神が首を傾げると、巫女はいたずらっぽい目で厄神を見下ろした。厄神は少し考えてみたが、答えはわからなかった。  厄神が小さくため息をつくと、巫女はそれを続きの催促と受け取り、答えを話した。

「その神様は、私たちの厄を受け取ってくださる神様です。ではその方が受け取られた〝厄〟は、どこへ行くと思いますか?」

 幼い厄神が、それを知るわけもなかった。厄神はまた、無言のまま首を振った。巫女は厄神の無知を気にせず続けた。

「ほかの神社では、川に流すそうです。でもこの神社は川に流さない。厄を受け取り、溜め込むお役目を背負った神様がいるからです」

 それってとてもつらいことじゃあないの?  厄神がそう思ったのを感じ取ったのか、巫女は「とても辛いお役目です」と深くうなずく。すごい神様がいるものだ、と厄神は感心した。

「その神様はいつしか、神様じゃなくなりました。神様じゃなくなっても、その方は厄を引き受け続けています。私は……その方が、とても愛おしくなりました。そんな尊い方にこそ、お仕えしたいと思ったんです」

 巫女は優しい目で話す。その内容の半分も理解できなかったが、厄神は巫女のそばが心地よかった。

 ――あったかいな。  ――おなかもむねも、なんだかいっぱいだな。  ――ずっとずっと、いっしょにいられたらいいな。

 そう願っていたのに、厄神のささやかな幸せはあるときから崩れ始めた。巫女が伏せがちになったときからだ。嫌な予感はしていた。巫女は床の中から、「うつる病でもないのですが」と申し訳なさそうに厄神に謝る。伏せってしまった自分が一番辛いだろうに、厄神を気遣う。  厄神が様子を見に行く度に、巫女は弱っていった。そしてとうとう、寝込んでしまった。  何をすればいいだろう。何をしてやればいいだろう。厄神に薬の知識はない。医の知識なんて欠片もない。わかるのはせいぜい、社の裏手にある森で、食べられる木の実やきのこの区別くらいだ。  厄神はお見舞いとして、それらを巫女の家へ運ぶことにした。かつて身にまとっていた襤褸いっぱいに木の実やきのこを詰め込んで、巫女の家へ走る。  巫女の家に行くと、知らない男がいた。しかめ面をした、近寄りがたい空気をまとった壮年の男だった。  彼に見られてはいけない気がして、厄神は隠れて聞き耳を立てた。  どうやら男は、巫女の父親のようだった。男は巫女に「もう関わるな」と忠告に来ていたのだ。

「巫女になったから、お前は子が産めなくなった。それどころか今では、寝床から起きることすら難しくなったではないか」

 男は「あんな厄神と関わるな」「切り捨ててしまえ」と言い聞かせる。けれど、巫女はうなずかないようだった。男が胸の内にあるだけの心配と怒りを吐き出し終えると、巫女は細い声で言った。

「だからこそではありませんか」

 尊い役目を背負われているのに、邪険に扱うなんて、そんな道理はないでしょう――と、巫女は笑った。厄神は巫女に聞かされた《《おはなし》》を思い出した。

 ――そうか、《《あれ》》はおれのことだったのか。  ――おれが、みんなの〝厄〟をためこむ神さまのなれのはてだったのか。

 そう理解しても、厄神は巫女の元へ通うのを辞めなかった。厄神が通うのをやめると、巫女が悲しむからだ。どのみち巫女はもう、長くない。  巫女はどんどん弱っていった。厄神は不慣れなりに、巫女に寄り添い看病をした。巫女の指示に従ったつもりだ。けれどどれも、裏目に出る。厄神の思いは空回り、巫女をますます弱らせる。  巫女は感謝するばかりで、一度も声を荒らげはしなかった。笑みを絶やしはしなかった。  一つっきりの大きな目から、厄神はいくつもいくつも、涙をこぼした。

「ありがとう、なんて、ゆうなよぉ」

 拭っても拭っても、涙は落ちる。布団の中から巫女の手が伸び、厄神の涙をすくい取る。巫女の顔にはいつもと同じ、優しい笑みが浮かんでいた。

「嬉しいと、自然に口をついて出るんです」 「なんにも、できてない。よくなってほしい。なのに、なんにも、いいこと、できない」 「そんなことはありませんよ。あなたがそばにいてくれるだけで、私は嬉しくなる。これ以上はないほどに、幸せな気持ちになれる」

 幸せな気持ちだけでは、巫女の体は良くならない。弱った巫女はやがて、ため息をつくように最後の息を吐くと、そのまま死んでしまった。  死んだ人間をどうするか、厄神は知っていた。けれど誰かを呼ぶことも、ましてや埋めることもできず、巫女の亡骸のそばでじっとしていた。もしかしたら目を覚ますかもと、一抹の希望があったのかもしれない。  巫女の体から異様なにおいが立ち上る。それでも厄神は気にしなかったが、それは厄神だけだった。巫女の心配をした子供たちが訪れ、腐る亡骸に寄り添う厄神を見つけた。

「あ」「あっ」「あ!」

 それぞれがそれぞれに声を上げると、三人は声を揃えて叫んだ。

「やくびょーがみが、巫女さんたべてる!」

 厄神は、巫女を食べてなんかいなかった。そばで寝起きしていただけだ。彼らに見られたその瞬間は確かに、巫女の亡骸に覆い被さっていた。けれどそれは、目を覚ましてくれないかと顔を覗き込んでいただけだ。  子供たちが逃げていく。大人たちを呼ぶのだろう。厄神は咄嗟に、巫女を連れて外へ出ようとした。しかし亡骸は重く、一人では運べない。

「……ごめん」

 亡骸は、すでに脆くなっている。厄神は亡骸に抱きつき、巫女の頭を抱えた。

「ごめんよぉ」

 もう一度謝り、厄神は巫女の|頭《こうべ》を亡骸からもぎ取った。そして、巫女の家から飛び出した。  腐り落ちた頭を抱える厄神を見て、叫び声を上げない者はいなかった。気骨のある者は巫女の頭を奪い返そうとしたが。それは叶わなかった。小柄ながらも逃げ回り、厄神は社へ転がり込んだ。いつもは厄神を拒む社が、このときばかりは厄神を拒まなかった。

***

 それから厄神は、誰の前にも姿を現さなくなった。風雨にさらされ体が冷え切っても、どこかへ雨宿りに行こうとはしなかった。巫女の|髑髏《しゃれこうべ》を大事に抱え、決して離さなかった。  唯一身にまとう襤褸で巫女の|頭《こうべ》を磨き、ぽろぽろぽろぽろ涙をこぼしながら、厄神は自分に言い聞かせるように巫女の頭蓋骨に話しかけた。

「だいじょうぶだよ。おれ、ちゃんとおやくめをはたすよ」

 だから見守ってて――と、厄神は巫女の頭を抱きしめた。風雨にさらされ丁寧に磨かれたその骨は、うなずくようにちかりと光った。