生け垣で覆われた民家から、しわがれたおばあさんの声がする。
「むかぁしむかし、そらもうむかぁしの話や」
木が邪魔をして姿は見えないけれど、どうやら生け垣の向こうは縁側で、孫らしき子供にお話を聞かせてるらしい。
「昔々、昔の話。この国には、あやかしがおった。この国には、人間がおった。この国には、龍がおった。あやかしも、人も、龍も、互いに互いを怖がって、互いに互いを傷つけて、互いに互いを食い合っとった。いつからか、あやかしと人は歩み寄るようになった。交わって、混ざり|合《お》うていった。あやかしも、人も、境界が曖昧になった。同族を食べるもんは、おらん。龍はいっぺんに敵が増えた。味方のおらん龍は、姿を消してしもうた――」
おばあさんが話すのは、誰もが知ってる血筋の話。私みたいな雪女筋も、お隣の竹本さんみたいな山彦筋も、みぃんな知ってる本当の話。 幼稚園に入る前、おばあちゃんに散々聞かされたなぁと懐かしみ、私は先を急いだ。 じぃわじぃわと蝉がやかましい。じりじりと日差しが肌を刺す。
――夏っちゅう季節は、私ら雪女筋にはえろぉ堪える。雪女の色が濃ぉ出とる私には、殊に。
と思うものの、今日はお祭り、神社での無礼講の日。弱音を吐いてばかりではいられない。何せ、去年同じ中学に転校してきた山田君と二人きりで行くのだから。 今日のために、おばあちゃんに浴衣を着付けてもらった。おじいちゃんに、下駄を用意してもらった。こんなこと自分で言うのは恥ずかしいけれども、可愛い孫の初デートのためにと二人が頑張ってくれたのだから、私だって頑張らないといけない。みんなが教えてくれた動画を参考に、髪を結い、お化粧をした。ほんの少しは、いつもより見栄えするようになったのではないだろうか。 文字通り体が溶けてしまいそうな日差しに負けず、ばたりと倒れそうな暑さに負けず、待ち合わせ場所へ急いだ。
山田君は、今時珍しい、あやかしの血が混ざってない純血の〝人〟だ。お母さんもお父さんも、そのまたお母さんやお父さんも、そのまた前も――あやかしの血が一滴も混ざっていない、稀な〝人〟。 あやかし筋の中でも特に腕力や体力のない雪女筋である私は、人であるがゆえに腕力も体力もない山田君とは何かとペアで活動させられた。そのお陰で、私と山田君は友達と呼べるほどに仲良くなることができた。 山田君は切れ長の目が涼しげで、転校してきた当時は態度も冷たげで、あまり他人から好かれていなかった。けれどもこの町に馴染んでいくうちに本来の性格を出せるようになり、今ではほかの学年の女の子からも密かに想いを寄せられている。
そんな山田君を無礼講に誘うのは、真夏に炬燵へ潜り込むよりも勇気が必要だった。山田君からはただの友達としか思われてないだろうけど、私もほかの女の子たちと同じように、山田君に想いを寄せていた。 ただの友達が「二人で無礼講に行きたい」なんて言って引かれないかと心配だったけれど、山田君は優しいから、考える素振りも見せずに「ええよ」とうなずいてくれた。このときの喜びは、秋の終わり、冬の訪れに等しかった。 私が楽しみにしている〝無礼講〟は、この町では本来とは違う意味で使われている。町一番の川の上流、川の神様が祀られる神社で〝講〟が執り行われる日。これが、この町でいう〝無礼講〟だ。 無礼講の日は、何をしても、何を食べても、神社の中だけなら許してもらえる日だ。本当なら、人間の山田君を連れていくのは危険過ぎる日。 だけど、私が〝雪女〟だから大丈夫。近寄る者は皆、氷の息吹で凍らせてしまえばいい。いつもならそんなことしてはいけないけれど、今日は特別。今日だけは、山田君のために雪女らしいことをしてもいい日。
こんな危険を冒してまで無礼講へ行くには理由があった。 無礼講の日は、神様の舞がある。神楽とは少し違う。祀られている神様が、巫覡と舞うのだ。 何度か見に来たことがあるけれど、それはそれは美しい舞だった。山田君に絶対見せてあげたいと思うほど、素晴らしい舞なのだ。
――山田君、楽しんでくれるとええなあ。
そう思いながら、下駄をカラコロ鳴らして急いだ。
待ち合わせ場所は川の|端《はた》、大人の背丈よりも大きな岩の前。いつもならこの岩を待ち合わせ場所にしている子供や、私たちみたいな学生で賑わっているけれど、今日はしんと静か。 無礼講の日は、自分の身を守れるか、守ってもらえる者でないと外に出ない。小学生までは、おじいちゃんやおばあちゃん、それに天狗筋の高遠さんが一緒じゃないなら家にいなさいと両親に口を酸っぱくして言われたものだ。 山田君は、岩陰でしゃがんでいた。紺色の甚平を着た山田君はいつも以上に素敵で、私は自分の体温が上がる音を聞いた。 しばらく惚けていて、見とれている場合じゃないと気づき、慌てて山田君に駆け寄った。
「山田君、遅なってごめんなぁ」
しゃがんでた山田君は私の声に顔を上げ、よいしょとおじいさんみたいな掛け声と同時に立ち上がった。そばに立つと、ちょうど握り拳一つ分くらい高いところに山田君の顔がある。拳一つ分低い位置にある私の顔を見て、山田君は首を横に振った。
「全然待ってへん。僕も今来たとこや」
嘘ばっかり。首筋を流れた汗を見てそう思ったけれど、何も言わなかった。 山田君は「ん」と私に手を差し出した。握っていいのかな、と少しためらう。
――授業やら何やらで山田君とは何回か手を握った言うか触られたりしたけど、そやからって今日みたいなデートの日に、山田君と手ぇ繋いでええんやろか。そもそも、山田君、どういうつもりで手ぇ差し出してるんやろ。手ぇ繋ぐつもりやなかったら、私、とんでもなく恥ずかしい子とちゃうやろか。どうしよう、どうしよう。
ぐるぐる目を回し硬直する私に、山田君は首を傾げた。
「手、繋がんの?」
――繋ぐために差し出されてたんや!
顔が熱い。本当に繋いでいいんだろうか。悩みながら、差し出された手をおずおずと握る。私が手を握ると、山田君はふはっと笑った。
「今日は、さすがの志水さんも手ぇ熱いな」
指摘され、ただでさえ熱い顔がさらに熱を持つ。思わず離しそうになった手を、山田君の熱い手が、逃がすまいと強く握る。手を離されなかったことでさらに慌て、私はあわあわ言い訳がましい台詞を並べ立てた。
「ご、ごめんなぁ。雪女筋やのにこんなぬくい手、嫌やんなぁ。あの、その、そこの川に手ぇ浸したらちょっとマシになる思うねん。そやからな、てっ、手ぇ離してくれたら、冷やしてくるさかい、あのあの……」 「嫌ちゃうよ」
笑ったときの山田君は、本当に優しい顔になる。そしてこの優しい笑顔に、私もほかの女の子も、みんな夢中になるのだ。この笑顔を、私だけに向けてほしいと願うようになってしまうのだ。
「どんな温度でも、志水さんの手ぇや」
嫌なわけないやん、と笑った山田君の台詞に私の体温はまた、音を立てて急上昇した。髪を伝ってぽたぽたと落ちるのは、溶け出した私自身か、本物の汗か。 目を回し何も言えなくなる私を見て、山田君はまたふはっと笑った。
「暑いよな。はよ行こか。境内は涼しいやろ」 「う、うん」
骨張った手に導かれ、歩き出す。半歩遅れた私は、ちょっとうつむいて後に続いた。
山田君は無口。私も、おしゃべりが得意ではない。じわじわ鳴く蝉の声と、じりじり肌を焼くお日様の光と、繋がれた手の温度だけが私にとって世界のすべてになった。 気づかれないよう少しだけ顔を上げて、山田君を見上げる。去年はまだ、私たちの目線は同じ高さだった。目を上へやる必要はなかった。山田君の背は、いつの間にか私を追い越していた。 斜め後ろから見る山田君は、涼しげな顔で前を向いている。けれど首筋を伝う汗が、彼の感じてる暑さを物語る。ああ、と思わずため息が出た。
――ほんまやったら、私の体温で涼しなってもらえたのに。何で今日に限って、こんなに上がってしもてるんやろ。ぬるなった雪女の手ぇなんか、何もありがたくない。
しゅんとうつむいたら、繋がれた山田君の手が、少し力を強くした。
「いらんこと考えんでええよ」
川のせせらぎみたいな、優しく木々を揺らす風みたいな、そんな声。山田君は泣いた子供を慰めるみたいに、優しく私に言い聞かせた。
「今日は、志水さんとお祭りに行く日や。そんな顔してまうようないらんこと、考えんとき」
おずおず顔を上げると、山田君は肩越しに私を振り向いていた。目が合うと、山田君は楽しそうに目を細めた。
「僕もな、ちょっと浮かれてんねん。いつもよか手ぇも熱い思う。かなんかったら言うてや。離すさかいに」
この手を離すなんて、とんでもない! ぶんぶん首を振ると、山田君は静かに笑った。肩を揺らして笑う横顔はいつもより幼く見える。 山田君が笑ったことが嬉しくて、きゅうと胸が苦しくなった。山田君を笑わせてしまったことが気恥ずかしくて、顔を上げたばかりなのにまた顔を下げてしまった。 消えそうな声でお礼を言うと、山田君は「ええよ」と笑ってくれた。そして前を向き、私の手を握ったまま、神社へと歩き出した。
てくてくと歩いて、鎮守の杜に入ったとき。私たちの前を塞ぐように、大きな影が二つ現れた。 牛の頭と虎の頭。赤い肌に大柄な体格。山田君と同じく、今時珍しい混じりっけなしの〝鬼〟。〝ごんたくれ〟と悪名高い、河野の家の双子だ。 腕を組み立ち塞がった牛頭の兄が、同じく腕を組んで立つ虎頭の弟に、芝居がかった仕草で話しかける。
「なぁんや、えらいうまそうな匂いしてんなぁ?」
兄の台詞に、弟も鼻をひくひくさせてうなずく。
「人間のにおいやなぁ。今日は無礼講やのに、人間が外ぉ出とるわ」
一つ学年が上の二人は学校に来ず、悪い連中と遊び回っていると噂されている。山田君が彼らを怖がってないか心配で、横目で様子を窺い見る。 山田君は、転校してきたばかりの頃によく見た、あの顔をしていた。世の中すべてがつまらないと思ってそうな顔。目の前にいる相手を〝|あやかし《敵》〟とも〝|人《仲間》〟とも思ってない顔。ついさっきまで見せてくれた優しさは、欠片も見当たらない。 双子のごんたくれは気づいていないのか、にたにた笑いながら山田君を見下ろしている。山田君は、口を開いた。
「今日の無礼講は、人もあやかしも関係あらへん、誰にでも開かれた場所やろ。僕でも知っとるのに、きみら何年ここに住んでんのや」
山田君の平坦な声音に、双子の目が険しくなる。キリリと吊り上がった目を見て私は震え上がってしまった。なのに、繋いだ手から震えは伝わってこない。山田君は、平然と二人を見上げていた。 牛頭の兄が「何や、こいつ」と悪態をつく。
「馬鹿にしおって。お前、自分は誰にも食われへん思てるやろ」 「今日は無礼講や。人を食うても構わん日ぃや。境内に入ったら、お前なんかすぐ食うたるさかいな」
双子が脅かしても、山田君は涼しい顔。「さよか」と言って、追い払うように手を振った。
「ほんなら早よ境内入ったらええやろ。いつまで僕らの前に立ってるつもりなんや」 「言われんでも入ったるわい」 「お前が入った瞬間、俺らお前の|腸《はらわた》食うたるからな」
そう言うと双子はくるりと後ろを向いて、私たちに背を向け歩き出した。 行き先は、私たちと同じだ。山田君も歩き出した。手を繋いだままの私も、引きずられるように後に続く。 生い茂る木々の影で涼しい道が、寒さすら感じるほど温度が下がったように感じた。石段を上がるのが、怖かった。私は山田君の手を、初めて自分から強く握った。
――いざとなったら、私が山田君を守らんとあかん。今ここには、私しか山田君の味方がおらんのやから。
暑さにやられてる場合じゃない、と自分を奮い立たせる。鳥居をくぐった瞬間やるべきことを、頭に思い浮かべる。 山田君の手をほどいて、前へ飛び出して、双子を凍らせる。 私ならできる。やれる。やらなくちゃ。 緊張する私を、山田君はちらと振り向いた。ほんの少し目元が和らぎ、声を出さず「心配いらんよ」と励ましてくれた。その顔にホッとする。いつもの山田君に戻ってくれたと思った。 けれどすぐ、山田君は前を向いてしまった。冷たい目で双子の背中を見ていた。
鳥居が見えてきた。朱塗りの鳥居は、長い長い年月ここで参拝客を出迎えている。だのに未だ色あせず、昨晩塗ったばかりのように鮮やかな色を発している。 その鳥居を、双子が先にくぐった。数歩前へ進んだ二人が振り向いた瞬間、山田君は私の手を離し、鳥居の向こうへ飛び込んだ。 人である山田君が、猿のごとき素早さで牛頭の首に飛びつき、がぶりと噛みついた。飛びつかれた勢いで、牛頭は参道に倒れてしまった。隣の虎頭は、何が起きたのか理解できず、ぽかんとしている。 牛頭は手足をめちゃくちゃに振り回して暴れるけど、山田君は意に介さず、牛頭の太い首にかじりついている。 ごりっ、と嫌な音がした。びくん、と牛頭の体が跳ねた。 私は動けなかった。息を吸うことも、悲鳴を上げることも、できなかった。 我に返った虎頭が「やめろや」と山田君の肩を掴んだ。血まみれの山田君は牛頭の首から口を離し、今度は自分の肩を掴む虎頭の手に噛みついた。虎頭が叫び声を上げたのと同時に、山田君は虎頭に飛びかかった。 双子は仲良く、同じ末路をたどった。 |山田君《にんげん》が、|鬼の双子《あやかし》を食べている。食事の音が、鳥居を隔てた私の耳を浸食する。 祭り囃子は鳴り止まない。 鳥居をくぐる人たちは足を止めない。
「やれ無礼講や」 「それ無礼講や」
誰かが歌って踊ってる。 私は自分で自分をかき抱いて、鳥居のこちら側で棒立ちになって、山田君の食事が終わるのを見ていた。見ていることしか、できなかった。 山田君の食事は、そう時間をかけずに終わった。甚平を血で汚した山田君は、迷子になった子供のようにうつむいて「ごめん」と謝った。
「ごめん。嫌なもん見せてもたな」 「そっ……そんなこと、ないよ」
私は首を振ったけれど、山田君に近づくことはできなかった。
「山田君は|悪《わる》ないよ。あの二人が、悪いんよ」
悪いのは、ごんたくれの双子。 悪いのは、見てるしかできなかった私。
「私こそ、ごめんな。ごめんなさい。雪女やから、二人を凍らせてしまおう思てたんよ。そやけど、そやけど……」 「ごめん、志水さん」
――血、洗てくる。
風で飛ばされそうなささやき声でそう言うと、山田君は手水舎へ走って行った。ようやく動けるようになった私は、慌てて鳥居をくぐり追いかけた。 私の前を、小さな影が横切る。踏みつけそうになった影を避けると、川の神様見習いさんが、にょろにょろと参道へ上がるところだった。 参道を汚した血を洗いに来たようだ。舌の代わりにぴゅっぴゅと水を出しながら、見習いさんは冷たい目で私を見上げる。
「参道を汚して許されるんは、今日だけやで。連れにもよぉ言い聞かせときや」
あいすみません、堪忍してください、と何度も頭を下げ、許しを得てから参道のそばを走った。 人混みに紛れてしまった山田君を探す私を、けたけた笑う声が呼び止めた。「志水んとこのぉ」と私を呼ぶしゃがれ声は、近所のじいさま方、田中のじいさまたちだ。
「河野んとこのごんたくれぇ、山田んとこの坊が食いよってんなぁ」 「ほんまはわしらが食う予定やってんけど、もう歯ぁ弱なってるでなぁ」 「若いのがきれーに食うてくれて助かるわ」 「入れ歯壊してばーさんに怒られんで済むしな」
田中のじいさまたちは名字は一緒だけれど、血筋が違う。それぞれ河童、かまいたち、狐、狸の血筋だ。見た目だけは人と変わらないけど、よく見ればずらりと並んだ鋭い歯に気づける。 じいさま方は砂利の上に茣蓙を敷き、自前らしい鍋で何かを煮ていた。変な色をしたぶよぶよの何かが、じいさま方の箸先でつつかれている。ぬっぺっぽふの肉だということは、匂いでわかった。鼻を覆う私に、かまいたちのじいさまが摘まんだ肉を差し出した。
「志水んとこの、食うてくか?」
ぶよぶよした肉は、到底美味しそうに見えない。ありがたいけれど、と丁寧に辞退して、山田君を追いかけた。後ろでは、まだじいさま方がけたけた笑っていた。
山田君は手水舎の前で、途方に暮れたように立ち尽くしていた。鬼の血でベトベトになった手で柄杓を掴んでいいものか、悩んでいるようだ。 困った顔の山田君は、追いついた私に気づくと、気まずそうに目を逸らした。 私は山田君の隣に立つと、柄杓を取った。清浄な水をすくい、山田君に差し出す。山田君はためらいながら、遠慮がちに出してくれた。 川の神様がきれいにしてくださったお水で、山田君の手を、口を、すすいでいく。顔や首についた血も洗い流してさっぱりすると、今度は甚平の汚れが目についた。 汚れていない部分を摘まんで、引っ張って、山田君はこっちを見ないで苦笑いした。
「こんな格好でこれ以上進んだら、神さんも怒らはるやろな」 「そんなこと、あらへんよ」
新しい水をすくい、山田君に甚平を脱ぐよう促しながら、私は首を振った。
「今日は何をしても許してくださる日やもの。何を食べても、お咎めなしの日やもん。山田君は悪ないの。悪いのは、私らあやかし筋。そやから、そんな顔せんといて」
山田君はやっとこっちを向いてくれた。それでも私を見る目は、とても寂しそうだった。
「志水さんは、僕みたいな人で無しにも優しいなぁ」
――親すら見放す人で無し。あやかしを食いとうてしゃあない、人で無し。
歌うように節をつけて言う山田君の横顔が、どれだけ寂しげだったか! そんなことないよ、と言ってあげたかった。 私は見放さへんよ、と言ってあげたかった。 ずっとそばにおるよ、と言いたかった。 なのに私の口は、縫い合わされたかのように開かなかった。私は黙々と、山田君を汚す双子の血を洗い流していった。 手水舎を汚さないよう、脱いだ甚平には外で水をかけた。神様見習いさんが聞こえるくらい大きなため息をついたけど、何も言わずに通り過ぎてしまわれた。ほかの参拝客は、私たちが見えないかのように笑って通り過ぎていく。 落とせるだけの血を落として、固く固く、一滴も残さないよう絞った。よぉく絞ったせいか、気温のせいか、皺を伸ばして何度か振るだけで、甚平は乾いてしまった。 乾いた甚平に袖を通した山田君は一瞬微妙な顔をしたけれど、耐えられると思ったのか、それ以上表情は変えず元通りに着てしまった。そして、気恥ずかしそうな、ちょっと幼く見える笑顔を私に見せてくれた。
「ごめんな、志水さん。お待たせ」
私たちは隣に並んで、はにかみ笑い合って、手水舎を出ると参道沿いに奥へ進んだ。
手水舎を越えれば、参道沿いに屋台が建ち並び、客も増えた。 金魚すくいならぬ人魚すくいの屋台があって、そこは猫又筋の者で繁盛しているようだった。水槽でちゃぷちゃぷ泳ぐ人魚は、歯こそ魚のものだけど、顔はどこか猿のようで、人の手を真似たような鰭を持っていて、猫又の手に渡るとつるりと飲み込まれていた。 無礼講の日しか食べられないよ、と客引きをする屋台もあった。大概は怪しげな食べ物を出していたけれど、中には普通に《《見える》》ものを出しているところもあった。 色のついたわたあめはふわふわしてきれいで、思わず食べたくなった。しかしわたの奥からうめき声やすすり泣きが聞こえたので、手を出すのはやめた。店主の舌打ちも聞こえたので、買わなくて正解だったようだ。 地元で育ったのにキョロキョロしては目を輝かせる私を見て、山田君は声を抑えて笑った。肩を振るわせてる山田君に気づいた私がどれほど恥ずかしかったか、恋をしたことのある人なら、きっとわかるはず。 顔を真っ赤にしてぷるぷる震える私に、山田君は「ごめんごめん」と謝った。謝る山田君の声は震えていたし、目もずいぶん細められていた。
神楽殿では、すでに舞が始まっていた。メインイベントなだけあり、客の数は屋台の比にならないほど多かった。笛の音を聞きながら歩き回り、舞殿が見える場所を見つけ落ち着いた。 舞殿では、神様と双子の巫覡が舞っていた。見習い様が演奏し、巫さんが鈴を、覡さんが幣を手に、神様を引き立てている。神様は手に何も持たない。神様が動くたび、空気が色を変えて揺れ動くからだ。神様の動きに合わせて空気は揺らめき、輝きを放ち、清涼な風となる。その風はここにいる者すべての胸に吹き込み、溜め込んでいた邪な心を浄化していった。
「きれいやなぁ。なあ、山田君」
潜めた声で隣の山田君に同意を求める。山田君も低めた声で「そうやな」とうなずいてくれた。けれど、どこか寂しそう。何でそんな顔をするんだろうと思っていたら、神様が私たちの前にふわりと舞い降りた。
「食うたんやな、人の子」
神様はとてもきれいな人だった。きれいな声が、山田君の〝食事〟について問う。とっさに言い訳しそうになった私を制し、山田君はゆっくりうなずいた。
「鬼の双子を食いました」
山田君の返事に、神様は「正直でよろしい」とにっこり笑った。その笑顔は、お手伝いをした子供を褒めるお母さんの笑顔と似ていた。
「ええ子やな。ここで食べるんは、祭りの日だけにするんやで」 「わかりました」
神様はうんうんとうなずくと、ふわりと飛び上がり、舞殿へ戻った。 何事もなかったように舞が続けられる。山田君は舞殿へ視線を注ぐ。 私はもう、舞殿を見ていなかった。隣の山田君ばかり見ていた。 許してもらえたね、と言いたかったのか。 よかったね、と言いたかったのか。 川の神様、優しいねと言いたかったのか。 何を言いたかったのか、わからないけれど、私は山田君の名前を呼び、甚平の裾を摘まんでいた。
「どうしたん?」
舞殿から私へ視線を移し、山田君は首を傾げた。私自身もどうして山田君を呼んだのかわからず、首を傾げたくなるのをどうにか堪えた。 何も言わずうろうろ視線をさまよわせる私をじっと見つめ、急かしたりせず、山田君はじっと待っててくれた。鈴が鳴るのを聞き、笛が細く響くのを聞き、太鼓が叩かれるのを聞き、ようやく私は口を開いた。
「……嫌やなかったら、来年もまた、一緒に来よう?」
私の申し出に、山田君は目を見開いた。そしてゆっくり目元を和らげると、うなずいてくれた。
「志水さんが、僕と一緒で嫌やなかったら」
嫌なんて思わへんよ、と言ったけど、山田君は寂しそうに笑うだけだった。
やがて、舞が終わった。客たちはぞろぞろと神楽殿から離れていった。私たちも、メインイベントは終わったのだからと神社を後にした。どちらからともなく手を繋ぎ、二人一緒に鳥居をくぐっていつもの町へと戻った。 神社で過ごした時間はとても短く感じられたけど、相当な時間を過ごしていたらしい。鎮守の杜を出ると、外はすっかり黄昏時だった。 帰り道、待ち合わせ場所の岩を通り過ぎて、山田君が家まで送ってくれた。私こそ家まで送ると言ったけれど、山田君は「女の子に一人歩きなんてさせられへんよ」と笑って聞いてくれなかった。女の子と言われたのは、嬉しかった。 家の前まで送ってくれた山田君の手が離れるとき、名残惜しげに感じたのは私の妄想だろうか。そうじゃなければ嬉しいけれど、同時にとてつもなく気恥ずかしくなるから、やはり妄想であってほしい。
「そんなら、志水さん。また学校でな」
そう言って、山田君は帰って行った。紺色の背中が、宵闇迫る空気に溶けていく。一人歩いて帰る山田君の背中を見て、寂しいと思った。駆け寄って手を繋いで、一緒に歩いてあげたいと思った。けれど山田君は、私にそれを望んでいない。 見えなくなるまで見送って、私はガラス戸に手をかけた。そして山田君との約束を思い出す。
『志水さんが、僕と一緒で嫌やなかったら』
山田君は、そううなずいてくれた。来年もまた、一緒に舞を見に行ける。
――来年は、山田君に最初っから最後まで楽しんでほしいなぁ。
来年こそはと気を引き締め、ガラガラと戸を横へ滑らせる。来年こそは、山田君を食べようとするあやかしを、私が撃退するのだ。そのための特訓を誰につけてもらおうか? 天狗筋の高遠さんか、それとも池成さんちの猫又お姉ちゃんに頼もうか。 おじいちゃんに相談しなくちゃとあれこれ考えながら、背中で静かに戸を閉めた。