私の周りでは何も起こらない

目次

※ 一部AIを使用して書きました。

Day1.祖父の葬儀

 春のことだ。祖父が死んだ。何の不幸も絡まない、天寿を全うしての大往生だった。大好きな祖父が死んだのに涙が出なかったのは、祖父が眠るように穏やかな顔をしていたからかもしれない。もしくは、たくさんの秘密を持っていた人だったから、生き返るような気がしたせいかも。  葬儀を終えると、父が私に一冊の分厚い本を差し出した。

「遺言で、死んだらお前に渡すように言われていたんだ」

 そう言う父の目はてんでバラバラな方向を向いていて様子がおかしかったけれど、葬儀の手配で疲れていたのかもしれない。私が本を受け取った後、操り人形のような動きで私の前から去って行ったけれど、あれもきっと、疲れているせい。  本を受け取った私は自室に戻り、ベッドに腰掛けて表紙をまじまじと眺めた。不思議な模様がたくさん描かれている。けれど表題らしき字は読めない。いったい、何の本だろう。  表紙をめくった瞬間、本から強い風が吹き出した。顔を襲う突風に思わず目を閉じる。風が止み、恐る恐る目を開ける。  そこには、獅子の頭を持つ異形の紳士が立っていた。紳士だと断定できるのは、その異形が三つ揃いとステッキを持っていたせい。

「やあ、ミーナ。魔道書を受け取ってくれてありがとう。これからはきみの祖父・ヴィルヘルムに代わって、わたしがきみを守るよ」

 異形の紳士は恭しく腰を曲げ、私の手を取る。普通だったら叫び声を上げてしまう姿なのに、なぜだか私は彼が怖くなかった。手を取られたまま、私は異形の紳士に尋ねる。

「おじいさまは、何から私を守ってくれていたの?」 「人間ではないものからさ。きみは人外の者に好かれてしまう性質だからね」 「あなたのような?」 「そう、わたしのような」

 白い手袋をした手をパチリと鳴らし、紳士は花を取り出した。真っ赤で小さな花だった。紳士は私の髪に花を挿した。

「わたしはいつでもきみのそばにいる。困ったことがあれば『レオ』と呼んでおくれ。大丈夫、きみ以外に姿は見えないから」

 そう言って、どうやら『レオ』という名らしい紳士は獅子の顔で微笑んだ。夢でも見てるみたい。でも頬を抓れば痛いし、髪に挿された花に触れればしっとりとした感触がある。

「私以外には見えないの?」 「きみ以外に私を感知する者はいないよ」 「そう、じゃあ……」

 花に触れ、私は確かめるようにぽつりと呟いた。

「私の周りは、静かなままね」

 獅子の頭を持つ紳士は、蕩けそうなほど目を細めてうなずいていた。


Day2.風の噂

 祖父が死んで、分厚い本を受け取って、私のそばでは獅子頭の異形の紳士が控えるようになった。といっても四六時中見えるわけではなく、とってもプライベートな時間なんかはどれだけ見回しても姿は見えない。気遣いができるところも、とっても紳士的。  祖父は私を人でないものから守ってくれていたらしい。それは本当のようで、祖父が死んで以来、様々なものに悩まされている。

 今一番の困りごとは、風だ。  学校へ向かう道すがら、そばでつむじ風が起きたかと思えば、ひそひそくすくす笑い声が聞こえる。

「悪魔が目覚めちゃったねぇ」 「いつもあの子を見てたもんねぇ」 「あの子のおじいちゃんは死んじゃったねぇ」 「これからはいろんなやつらがあの子をほしがるねぇ」

 耳元で聞こえる内緒話がうるさくて、私は「レオ」と呟く。するとそばでパチリと指を鳴らす音がして、きゃあともひゃあともつかない叫び声が遠ざかっていく。もちろん、つむじ風も消えてしまう。

 昼間、食堂でお弁当を食べているとき。窓から吹き込んだ風が私のそばを通り抜け、ひそひそくすくす笑い出す。

「ミーナはひとりぼっちだねぇ」 「ミーナはあの大魔術師の孫だもんねぇ」 「近寄れないよねぇ」 「呪われちゃいそうだもんねぇ」

 食事の手を止め、レオ、と絞り出すように呟く。すぐそばで、ぱちんと音が聞こえた。わあともぎゃあともつかない声が、遠ざかっていった。

 こんなことを三日ほど耐えてみたけれど、夜眠るとき、窓の外で渦を巻く風が潜めた声で噂話を持ってくるのにはほとほと参ってしまった。

「ずっと親友だよなんて言ってたあの子、今じゃすっかりミーナを忘れてほかの子と仲良くしてるねぇ」 「ミーナのそばにいると、また自分が自分じゃなくなっちゃうからしょうがないねぇ」 「ほかの子にいろいろ言いふらしたのもあの子だよねぇ」 「ミーナのこと――」

 それ以上聞きたくなくて、ベッドに潜ったまま「レオ」と呼ぶ。「どうしたんだい」と穏やかな声が尋ねる。私は毛布から顔を出し、レオに初めてのお願いをした。

「風が私のそばで話さないようにして」 「仰せのままに、ミーナ」

 レオはそう言うと、ステッキで床をどんと突いた。すると外で唸り声を上げていた風が、ひぃと息の詰まるような声を残して遠ざかっていった。あとに残ったのは、夜の静寂だけ。

「ありがとう、レオ」 「この程度、お安い御用だとも」

 おやすみ、とレオが手袋をはめた手で私の頬を撫でる。撫でられたと思った瞬間には瞼が落ち、次の瞬間には深い眠りに落ちていた。

 目を覚まし、身支度を調える。朝食を食べ、学校に向かう。もう私のそばでつむじ風が舞うことはない。  学校へ着き、自分の席に座っていても、食堂で一人ご飯を食べていても、もう風が私のそばで笑うことはない。  帰宅し、夜になり、ベッドに入っても、窓の外で風が私に噂話を聞かせることはない。  私の周りは、今日も静かだ。


Day3.祈り

 朝起きて身支度をする前と、夜寝る前、私は祈る。祈る相手は神様の時もあるし、産まれる前に死んでしまった祖母の時もあるし、つい最近死んでしまった祖父の時もある。

 ――今日も明日も何も起きませんように。静かに一日を過ごせますように。

 私は平和を愛している。私は静けさを愛している。静かで平穏であれば、それ以上は何も望まない。友達も、家族も、望まない。

「きみはいつも熱心に祈るね、ミーナ」

 おかしそうに笑いを堪え、レオが言う。お祈りをやめて振り向くと、いつもの三つ揃いに身を包んだレオがおかしそうに肩を揺らしていた。

「そんなに平穏が好きかい?」 「だって、静かで平和なのが一番だもの」 「つまらないだろうに、そんな人生」 「つまらなくていいの。悲しんだり怒ったりするのは、醜いから」

 思い出すのはまだ祖父が生きていて、私も幼かった頃。友達になる子が皆憑かれたように私に執着し争う姿。私から離れれば執着していたことすら忘れたあの顔。そして噂される『大魔術師の孫』の呼称。

「静かな生活があればそれでいい。私は静かに、穏やかに、誰も傷つけず傷つけられず過ごしたいから」

 そう言ってまた熱心に祈る私を見て、レオは楽しそう目を細めていた。


Day4.落とし物

 帰り道、懐中時計を拾った。随分古めかしく、そして動いていない時計だった。石畳の真ん中にころりと転がるそれは、うっかり誰かに蹴飛ばされてしまいそうだった。  私が拾い上げた時計を見て、レオが言う。

「ああそれは、誰かの未練だね」 「そうなの?」

 私の肩から時計を覗き込み、レオは「そうさ」とうなずいた。

「この場所のその時刻に強い未練のある誰かが此処に来て、落としてしまったんだろう。きみは不思議なものを寄せる性質だから見えるし触れられるだけで、きっとほかの人間には見えもしないよ」 「そうなんだ……」

 真鍮の懐中時計は、その冷たさまではっきりと感じ取れる。なのにこれは誰かの未練が形を成したもので、物ではないらしい。

「これ、動かないのかな」 「未練を解消すれば動くかもしれないね」 「どうやって解消すればいいんだろう」 「さあ、本人がここにいないからね。わたしにはわからないよ」 「これ、私が持っててもいいかな」 「きみのお好きに、ミーナ」

 持ち帰った時計は、どれだけ螺子を回そうとしても動かない。学校帰りに毎日同じ道を通って落とし主を探してみるも、誰にも見えないものを落とした人だ、わかるわけがない。

「あ」

 ある夜、机の上に置いていた懐中時計がカチリと音を立てた。ベッドから起きて見に行くと、秒針の動き出した時計が雪のように消えていくところだった。

「レオ、時計が消えちゃう」 「いいことじゃないか。未練が消えたということさ」 「そっか。それもそうだね」

 消えゆく時計を見守り、未練が消えたことを祝う。「よかったね」と言祝ぐ私のそばでレオがぽつりと言った言葉を、私は聞き逃した。

「まあ本当は、いつまでもミーナがこんな時計にかかりきりなのもつまらないから、魂を奪ってやっただけだがね」

 レオの低い呟きは、私の耳には届かなかった。  私の周りでは、今日も何も起こらなかった。


Day5.ふたつの月

 夜、お祈りを終えて空を見上げると、月が二つ浮かんでいた。今まで気づかなかった。いつから月は二つになったんだろう。  不思議に思う私の頭を読んだように、レオが言う。

「あれは願いの成れの果てさ。承認欲求の成れの果てとも言えるね。誰かに自分の存在を認めてほしい、見てほしいと願い続け、しかし叶わなかった願いが集まりああして月の形を成した」 「全然、気づかなかった」 「きみの祖父はああいったものも見えないようにしていたからね」 「守られていたのね、私」 「守られているよ、今も」 「そうね、レオがいるものね」

 風の噂を消してくれたことを思い出しながら、窓を開ける。部屋の暗がりに佇むレオへ、ねえ、と呼びかける。

「あの月に、私の声は届く?」 「届くと思うが、伝わるかはわからないよ」 「届くなら、少し話してみる」

 今度は夜空に向かって、ねえ、と話しかけた。

「一人は寂しいかもしれないけれど、慣れればそう悪くないと思うの。人に見られるのって大変よ。揚げ足を取る人だっているし、悪く言う人だっているし、それに――」

 私が話している間に、二つ目の月はぐんぐんこちらへ落ちてきた。そこには人の顔が浮かんでいて、私をぎろりと睨みつけている。  月に浮かぶ顔の鼻先が私の鼻先にくっつきそうになった頃、月は一言こう言った。

「わかった風な口をきくな」

 そう言って、偽の月はまた夜空へ戻っていった。私は震える手で窓を閉め、そっとベッドへ戻った。レオが笑いを堪えている気配を感じたけれど、気にする余裕なんてなかった。  それ以来、私は空に二つの月が見えても見ない振りをしている。そうしていれば、私の日々は平穏なまま。  今日も私の周りでは、何も起こらない。


Day6.約束の時間

 夢を見た。何もない、強いて表現するなら分厚い雲の中のような空間で、誰かが「夕方の五時だよ」と私に言う。男か女か判然しない、ぼんやりとした声だった。見回しても、相手の姿は見えない。私がどこへともなく「五時に何があるの?」と聞いても相手は答えず、「約束だからね」とだけ言った。そして私は目を覚ました。  体を起こして固まる私に、レオが「どうしたんだい」と尋ねる。私が「変な夢を見たの」と夢の内容を話した。レオは「それは変な夢だったね」と微笑むだけだった。  その日一日、私は時間が気になって仕方がなかった。あらゆる時計の針が進んでいくのを見つめずにいられない。授業にも集中できず、何度叱られたことか。  授業を終え、家に帰っても時計が気になるのは変わらない。むしろひどくなった。何せ家にある時計が、一斉に狂いだしたのだから。  同じ時間に合わせていた時計がてんでばらばらの時間を刻み始める。それに伴って、家の中の時間が進んだり、戻ったりし始める。私だけがその影響を受けないまま、立ち尽くした。

「れ、レオ……レオ、レオ!」 「何だい、ミーナ」

 姿を消していたレオが現れ、私のそばに立つ。私はレオに縋りつき、風をどうにかした時のように懇願した。

「助けて、これをどうにかして!」 「そうすると約束が果たせない。それでもいいんだね?」

 いいも何も、約束をした覚えはない。誰かとの約束なんて、もう何年もしていない。私が「約束を守れなくてもいいから、時計を戻して!」と叫ぶと、レオはパチリと指を鳴らした。  途端に、時計たちは好き勝手に時を刻むのをやめた。家の中の時間が元に戻る。時計の針も、すべて父が合わせた通りになっていた。時計はもう、午後五時を過ぎていた。

 ――約束、守れなかった。

 ふとそんなことが頭を過った。けれど覚えていない約束よりも、私には今日の平穏が大事だった。

「何も起きてない、私の周りでは、今日も何も起きてない……」

 繰り返す私に、レオだけが優しく――どこかおかしそうに――微笑んでいた。


Day7.鍵

 しとしとと雨の降る日のこと。私は母から屋根裏の掃除を言いつけられた。そこには小さい私が遊んだおもちゃや、もう読まなくなった絵本がうずたかく積まれている。  埃っぽいその部屋で、私は何冊ものスケッチブックを見つけた。誰のだろう、なんて考えるまでもない。この家には私以外に子供がいなかったから、私が書いたものだ。  スケッチブックを一枚めくれば、絵日記と呼ぶには日付がない、けれど字を覚えたばかりの私が一生懸命その日の出来事が書かれていた。 『おじいちゃまにまほうのくすりをつくってもらった』 『おかあさんとクッキーをやいた』 『おとうさんがたこあげをしてくれた』  内容はどれもとりとめのない、日常を記したものばかり。けれどある一ページで、日常は壊れた。 『レオとあそんだ』  描かれているのは、拙いながらもライオンとわかる頭の紳士。これは鍵だ、と私は悟った。  これは、記憶の鍵。私は何かを忘れてしまっている。このスケッチブックは、思い出すきっかけの一つだ。  思い出す唯一の機会かも知れない。けれど私は、そっとスケッチブックを閉じた。  思い出せば、平穏に戻れない気がした。

「何を見ていたんだい、ミーナ?」

 レオが私の背後から声をかける。いつもなら肩から覗き込むだろうに、今日はそれをしない。  私は「何も」と首を振り、スケッチブックを『捨てるもの』に分類した。  私は何かを忘れている。  忘れているから、何も起こらない。  私の周りでは、今日も何も起きなかった。


Day8.聞こえない声

 昼日中。日傘を差してお遣いに出た帰り道のこと。私の足にぴったりついて歩く影が、私の声で話しかけてきた。

「ミーナ、聞いてミーナ」

 きょろきょろと辺りを見回す。幸い、私が独り言を言っても気にするような通行人は誰もいなかった。

「あなたが話しかけてくるなんて、初めてね」 「ええそうよ。だって影は話さないもの。そうでしょう?」 「それもそうね」 「だけどそうも言ってられないわ。あなた騙されてるんだもの!」 「私が? 誰に?」 「レオよ。あの悪魔によ!」

 思わず背後を振り向く。レオはいない。いつもそばにいるとはいえ、彼が姿を現す時間は驚くほど短い。今もどこにいるのやら。私は自分の影に、思わず「滅多なこと言わないで」と咎めた。

「レオは私を何度も助けてくれたわ」 「もちろんレオはあなたを助けるわ。だってレオはあなたを――」 「わたしが何だい、影のお嬢さん」

 レオの声が、背後から覆い被さるように聞こえた。振り向けばレオはにこやかな顔(ライオンの顔に『にこやか』なんて表現するのも不思議だけど)で私を通して私の影を見下ろしていた。  レオに影はない。悪魔だもの。なのになぜか今は、レオに覆い被さられ影ができている気がする。  震えるのは私か、影か、どっちなんだろう。

「レオ……レオ、何でもないのよ。影が話すなんて、ないもの」 「……きみが言うならそういうことにしておくよ、ミーナ」

 レオは肩をすくめ、私から一歩離れる。呼吸が小さく浅くなっていた私は、細く深く、息を吸い込んだ。

「影とのおしゃべりを楽しんでいたわけじゃないなら、急いだほうがいい。そろそろ雨が降る」

 空を見上げると、鉛色の雲が青を覆いつつあった。急ぎ足で家へ向かう。ちらりと後ろを振り返ると、レオはもう姿を消していた。

 ――あなた騙されてるんだもの!

 私の声でそう訴えた影の言葉を思い出す。  私はレオとの何かを忘れている。  私はレオに騙されている。  不穏なピースがちりばめられていく。けれど私はそれらを拾わない。集めない。繋げない。だってそれは、平穏からほど遠いから。  家に着いた途端、雷鳴と共に雨が降る。バケツをひっくり返したような、ひどい雨だ。

「忠告したのに、ひどい、ひどい……」

 すすり泣くように呟く影の声は、豪雨にかき消され聞こえなかった。


Day9.ひとくちの魔法

 母が「娘とクッキーを焼くのは母親の夢なのよ!」と言い張ったから、特別な日でも何でもないけれどクッキーを焼くことになった。難しいことは何もしない、簡単なレシピだった。  けれど量は三人家族には多すぎるほどで、焼き上がったそれを母は「学校でお友達と食べなさいな」と小分けにしてくれた。私に友達はいないけれど、母が心配することをわざわざ言う必要もない。  小分けにしてもまだ余るクッキーをお皿に盛り付け、紅茶と一緒にトレーへ載せて部屋へ持ち帰る。勉強のお供にしようと思ったからだ。  部屋へ戻ると、珍しくレオが姿を現して私を待っていた。

「どうしたの、レオ」 「いや、なに、その……」

 これもまた珍しいことに、レオが言い淀んでいる。よく見れば、尻尾が揺れている。それはもう、ふおんふおんと音が聞こえそうなほどに。レオの感情がいかに乱れているかを表しているみたいだ。

「何かあったの?」

 私の問いに、レオは恥ずかしげに口元へ手をやると、ステッキを持っている手で私を指さした。正確には、私の持つトレーを。もっと詳しく言えば、その上のクッキーを。

「バターの香りが、懐かしくてね」

 一つもらえないだろうか、と小さな声がクッキーをねだる。断る理由は何もない。どうぞ、とトレーを差し出すと、レオはクッキーを一枚摘まんだ。そのまま口へ運び、さくりと音を立てる。  レオの目元が和らぐ。心の底から嬉しそうな目だ。私はその目を見て、なぜだか懐かしさを感じた。

「きみたち人間は魔法を使えないのに、よくこんな美味しいものを作れるね」 「悪魔に美味しいと思ってもらえたなら、それはもう魔法かもしれないわね」 「違いない」

 微笑みながら「ごちそうさま」と言うレオに、なぜだか少しドキドキしてしまった。でもそれは気のせいだと思うことにする。だって悪魔に恋だなんて、平穏からあまりに遠いんだもの!  私の気も知らず、レオは「やっぱりもう一枚……」と恥ずかしそうにおねだりをしていた。


Day10.鋏は口を開かない

 祖母の遺品の一つに、裁縫箱がある。柵に引っかけて取れそうになったボタンを縫い付けるため久しぶりに蓋を開けたら、今まで気づきもしなかったものに気づいた。  子供が見たら喜んで使いそうな、持ち手が赤い裁ち鋏だった。何の気なしに手に取り、刃を開こうとする。  これが、開かない。鈍く光る刃は、まるで固く閉じた貝のように開かない。無理に開こうとすると、何と鋏は、手を跳ね返すようにぶるぶるっと震えた。

「切るのを拒む鋏なんて、存在する意味がないだろうに」

 背後から聞こえたのは、面白がるレオの声だった。

「ひどいこと言うのね」

 物言わぬ物とはいえ、そんなひどい言葉を投げかけなくてもいいだろうに。抗議を込めて軽く睨むと、レオは「事実だろう?」と肩をすくめた。

「切るのを怖がる鋏に、何の存在意義がある?」 「……怖いの?」

 まだ震えている鋏を撫でる。すると鋏はほんのわずかに、しゃきりと口を開いた。  その瞬間、私の脳裏に《《何か》》の記憶が断片的に流れ込んだ。

 ――鋏で遊ぶ私、そのそばにいて見守るレオ。

 ――鋏でうっかり指を切る私。そして赤い血――

 私は思わず鋏を抱きしめた。

「もう大丈夫、私はもうそんな風に怪我なんかしないよ」

 鋏は震えを止め、しゃきん、と小さく音を立てた。まるで「ありがとう」と言うように。  私は鋏を丁寧に箱へ戻しながら、それにしても、とレオを見やる  どうしてもレオは、自分との記憶を思い出させたいらしい。鋏を片付ける私を見て、期待に目を爛々と光らせている。

 ――思い出させて、どうしたいんだろう。何を思いだしてほしいんだろう。

 尋ねもしないのだから、答えはない。私は何も考えないふりをして、ボタン付けに必要な道具を取り出した。


Day11.白猫と踊る

 小さい頃、白猫が庭に棲みついたことがある。いつからか姿を見せなくなったけれど、青い瞳が綺麗な猫だった。名前はパール。野良と思えない白い毛並みから、母がそう呼んだのが始まりだった。  なぜこんな昔話をしているかというと、今私は夢を見ているからだ。パールそっくりの猫……の頭を持った王子様が、恭しく私の前で膝をつき、ダンスに誘う夢。

「僕と踊ってくれますか、ミーナ」

 夢を見ている、と直感でわかった。広いダンスホールにいるのは誰も彼も猫頭だったし、シャンデリアがくすくす笑いながら私たちを見下ろしていたからだ。  夢だとわかっていたけれど、気づけば私の口は「はい」とうなずいていて、体はパールの白い手を取っていた。  音楽に合わせて踊りながら、パールが喉を鳴らして笑う。

「ミーナ、ミーナ。きみはまだ忘れてるんだねぇ」 「あら。あなたも私に思い出させようとするの、パール?」 「いいや? 僕は忘れていたままのほうがいいと思うよ。思い出せないってことは、思い出さないほうがいいってことなんだからね」 「そうでしょ? そうよねぇ。なのにレオは、思い出させようと必死な気がする」 「悪魔ってそういうものさ。それよりもほら、今は僕とのダンスに集中して。夜はまだ長いんだから!」

 音楽ががらりと変わる。パールは私をぎゅっと抱き寄せ、くるりくるりとしなやかに回る。私はパールの足を踏まないようにするのが精一杯で、音楽を楽しむ余裕もなかった。


Day12.星屑

 ある夜のこと。自室の窓を開けたら、星屑が飛び込んできた。星ではなく星屑と称したのは、本当に小さな星々だったから。  その星屑たちは、まるで仔犬のように私のウエスト辺りでくるくる回った。甲高く小さな声が、私の名を呼ぶ。

「ミーナ、ミーナ」 「可愛いねぇ、ミーナ」 「連れてっちゃいたいねぇ」 「連れてっちゃおうか」 「連れてっちゃおうよ」 「そうしよう」

 え、と思う間もなく、私の体は宙に浮いた。星屑は私の周りをくるくる回るまま、私を窓の外へ連れて行く。

「れ、」

 レオ、と言い切る前に、レオの白い手袋をはめた手が私の手を掴んでいた。

「ミーナを連れていくなら、お前たちを星屑と呼べないほどに砕くぞ」

 レオの低い唸り声は、私すら身震いするほど恐ろしかった。それは星屑たちも同じだったようで、くるりくるりと回りながら、私のウエスト周辺から首周辺、そしてつむじの上へと移動し、夜空へ帰って行った。  私を窓の中へ戻さず、宙に浮かせたままで。  星屑たちの不思議な力を失い、私の体はそのまま外へ落ちていくかと思われた。けれどレオがいる限り、そうはならない。  レオは窓から飛び出して、私を抱え宙に浮いた。そのまま横抱きで抱えられ、部屋の中に戻る。

「危なかったね、ミーナ」 「助けてくれてありがとう」 「きみを守るためにそばにいるんだ、当然さ」

 おやすみと低く囁き、レオは私をベッドへ運んだ。毛布を被せられ、私は一先ず目を閉じ眠ったふりをした。けれど実のところ、眠れはしなかった。  レオに触れられた手が、背中が、じんわりと熱い。心臓が声高にときめきを訴えていて、まだまだ眠れそうになかった。


Day13.貘

 眠るミーナの頭の上に、貘がいる。どこぞの誰かの夢を、わざわざミーナの頭の上で食べているようだ。  このまま貘の重さにうなされるミーナを見るのも面白いが、わたし以外がミーナに触れているのは面白くない。  わざとらしく咳払いし、わたしは貘に話しかけた。

「そんな場所で彼女の夢ではなく他人の夢を食べるのは、どういう理由からだ?」

 貘はゆるゆると頭をもたげると、こちらを向いた。眠たげな目がわたしを捉える。

「あのねぇ、ここはねぇ、座り心地がいいんだぁ」 「きみにはそうだろうが、ミーナにとってはそうではない。せめてクッションに乗ってやってくれ」 「この子はねぇ、守られてるからねぇ、心地がいいんだぁ」

 答えになっていない。ミーナのうなされる声がわずかに大きくなる。言葉で促しても移動しないなら、力で移動させるまで。  わたしは指をぱちりと鳴らし、貘の尻尾に火をつけてやった。  ギャッと声を上げた貘はそのまま姿を消し、その声に驚いたミーナががばりと起き上がった。

「レオっ? 今の声、なぁに?」 「今の声? 何のことだい?」

 とぼけるわたしを疑うこともなく、ミーナは「夢だったのかな……」とまたベッドに潜り込んだ。貘のせいで乱れた髪を直してやりながら、「おやすみ」と微笑みかける。ミーナはもう瞼が上がらないらしい。「おやすみなさい」ともごもご呟いたかと思うと、すぐに寝息を立て始めた。  健やかな寝顔は、あの頃と何ら変わらない。  懐かしく愛おしいミーナの寝顔を、わたしは朝が来るまで、飽きることなく見つめていた。


Day14.水たまり

 雨上がりの道を歩いていたときのこと。道の真ん中に、大きな水たまりができていた。そこには鏡のように綺麗に青空が映り込んでいる。

「水たまりって、空の穴みたいね」

 水たまりを覗き込み笑う私に、レオは真面目な顔で「あまり覗き込むものじゃないよ」と言う。

「気をつけないときみも落ちるよ、ミーナ」 「ほらご覧」とレオが白い手袋をはめた指で示すのは、水たまりのある一点。じっと見ていると、何かがぐんぐん近づいてきた。

「おっと、危ない」

 ちっとも慌てていない声のレオに腕を引かれ、一歩後ずさる。その瞬間、私の鼻先を掠めて何かが飛び出した。それは黒い影となり、そのまま空へ向かって消えていく。  あのままぶつかっていたら、私の顔に穴が空いたかもしれない。そう思わせるスピードに、心臓がどくどくと早鐘に代わる。

「今の、なに?」

 どうにか声を絞り出した私に、レオはこともなさげに「かつてどこかから落ちたものさ」と答える。

「きみも不用意にどこかから飛び降りたりしないことだ。あんな風に、空に囚われる落ち続けなきゃいけないことがあるからね」

 ゾッとするようなことを、レオは何でもないことのように言う。  私が「落ちたりしないわ」と返せば、「落ちないだろうね」とレオはうなずく。

「何せわたしが守っているからね」

 そう。そうだ。レオはいつでも私を守ってくれている。それはわかってる。わかってはいるけれど……。

「ねえ、レオ。……怖いから、家に着くまでそのまま私のそばにいて」 「いつもそばにいるけれど……きみが望むなら、姿を現しておくよ」

 水たまりが見えるたび、また何か飛び出してこないかと怖くなってレオの三つ揃いを掴んでしまう。そんな私を、レオはおかしそうに、けれどどこか微笑ましげに見ていた。


Day15.烏の視線

 学校帰りの午後のこと。空は高く澄み渡り、風は涼しい。歩いていて心地よい気候だった。  そんな心地よさの中、ふと違和感に気づく。  道の先の街灯、そのてっぺんに、一羽の烏がいた。動かず、鳴かず、じっと私を見ている。

「気づいたかい?」

 煙のように姿を現したレオが笑う。その口ぶりからして、随分前から私を見ていたのだろう。

「君に気づいてほしいんだろう。今日はやけにわかりやすい場所にいる」

 レオによれば、その烏は《《見届け役》》だという。魔道書に触れた者を観察する存在。何かしらの判断も下さない、干渉もしない、けれど決して逃がさない。

「何のために私を見張るの?」 「さてね。魔道書を書いた誰かが、使用者の行く末を見たいのかもしれない」

 烏は私たちがどれだけ歩いても同じ距離でついてきた。どの角を曲がっても、先回りして街灯の上に佇んでいた。  遠回りをしたせいで夕暮れが近づき、空が赤く染まりだす。私は烏を見やり、ため息のように呟いた。

「何だか不気味」 「仕方ない。きみはあの本を開いたからね」

 レオの言葉に一度足を止め、自分の影、街灯の影、そして烏の影に目を落とす。影は動かない。動かない私を、烏は今もじっと見つめている。

「……見られてるだけ。それなら何も起こらない」

 顔を上げ、私は再び歩き出した。

「寒くなってきちゃった。帰ったら紅茶でも飲もうかな」 「それはいい。クッキーもあればなおいいけれど」 「レオも紅茶を?」 「おや、わたしには出してくれないつもりだったのか?」

 歩き出した私たちの後ろで、静かな羽音が聞こえた。けれど私はもう、振り返らなかった。


Day16.回らないオルゴール

 たまたま通りかかった古道具屋で、オルゴールが目に入った。叩き売りとしか思えない値札がつけられたそれを手に取り店主に声をかけると、「音が出ないんだ」と返ってきた。

「ねじが回らなくてね。音が鳴らないんだよ。それでも買うのかい?」

 私が買わなければ、捨てられてしまったりするのだろうか。そう思うと気の毒で、気づけば私は「買います」と答えて硬貨を店主に渡していた。

「また余計なものを……」と背後でレオが呟いた気がしたけれど、振り向いたりはしなかった。

 夜、自室でオルゴールのねじを回してみようとした。けれど店主の言う通り、ねじは回らなかった。蓋を開けようと試しても、こちらも開かない。  部屋の空気が揺らぎ、レオが姿を現す。呆れ顔のレオに「気になるんだもの」と口を尖らせ言い訳する。レオはため息をついた。オルゴールへちらりと目を向けたレオは、「それは誰かの心臓だったものだ」と言う。  レオが嘘をついたことは(今のところだけれど)ない。レオがそう言うのなら、そうなんだろう。どうして心臓がオルゴールになったのかはわからないけれど。

「ねえ、レオ。このオルゴールが音を鳴らせるようにできない?」 「もちろんできるが……気分が悪くなるかも知れないよ」 「え」

 私が了承する前に、レオはぱちんと指を鳴らした。オルゴールはぱかんと小気味いい音を立てて分解された。  オルゴールの部品はどれもうっすら赤い。血のような色だけれど、それにしては鮮やかだ。  部品を眺めていて、ある部品に紙が巻きついているのに気づいた。破かないよう注意深くそれを外すと、それは手紙だった。文字はかすれて読めないけれど、手紙だとわかった。

「レオ……この手紙、見ていいものじゃないわよね」 「きみ宛の手紙であれば見てもいいだろうけどね」 「もう、意地悪」 「満足したならオルゴールを戻すよ。手紙はわたしが預かっておこう」

 レオはもう一度ぱちんと指を鳴らした。部品たちは生きてるように飛び跳ね自分のあるべき場所に収まり、オルゴールは元の形に戻った。  ねじを回してみる。きりきりと音を立てた後、オルゴールは可愛らしい音楽を奏で始めた。

「私……何となくだけど、このオルゴールはあの手紙の中身を表してる気がするわ」 「きみがそう思うなら、そうなんだろうね」

 オルゴールをそっと胸に抱き、私はベッドに横たわった。

「私の心臓もオルゴールになったら素敵ね」

 レオは返事をせず、窓の外を眺めていた。


Day17.あのときの言葉

 棘のように心に刺さり続けている言葉がある。

「あなたってほんと冷たいのね、ミーナ!」

 従姉妹のエルケが、祖父の葬儀に放った言葉だ。あんなにも可愛がってくれた祖父の死で泣かなかった私は、確かに冷たい。

「ねえレオ」

 自室で勉強中、どうしてもエルケの言葉が離れず、レオを呼ぶ。レオは音も立てず現れ「何だい?」と尋ねる。私はゆっくり言葉を探した。

「あなたが私を守るのは……というか……私が人じゃないものに好かれて、いろいろと変な目に遭うのは、私が冷たいから?」 「冷たい? きみが? 何を言ってるんだ、ミーナ」 「だって、あんなに大好きだったおじいさまが死んでも、涙一つこぼさなかったんだもの」 「ああ、それか……。それは、それはね、ミーナ」

 レオは動揺したようで、いつもより尻尾の振り幅が大きい。私がレオを見上げていると、レオは「おいで」と私をベッドへ移動させた。二人でベッドに腰をかけても、ベッドは私の体重しか感知しない。

「ミーナ、一つ言っておこう。きみは冷たくはない。むしろ優しすぎる」 「優しくない。誰かとの約束も忘れて放り出しちゃうような子だもの」 「いいや、優しい。きみがあの時泣かなかったのは、大好きな祖父を失った喪失感と、その非日常感がきみの感情を抑えつけたせいだ」

 レオは私の肩を抱き、髪を梳き、私に「きみは優しい」と言い続ける。その言葉のお陰で胸に刺さった棘が溶け落ちたような気がして、それと同時に今まで押しとどめられていた涙があふれ出した。レオが「いい子だ」「優しい子だ」と何度も言い続ける。  私は静かにそれを受け入れ、レオの三つ揃いを涙で濡らしていた。


Day18.絵の中の門

 私の部屋には、薔薇が見事な庭を描いた風景画が飾られている。小さい頃から気に入っていたその絵には鉄製の門が描かれていて、それはいつも閉じていた。  ある日のこと。窓も開けていないのに風を感じた。どこから吹く風だろうと部屋を見渡して、絵の中から風が吹いていることに気づいた。風は冷たく、鉄錆と薔薇の匂いがした。  風が吹くのは絵の中、それも、門の向こうからだった。そして門は、大きく開かれていた。  門の向こうには広大な〈空のない庭〉が広がっており、その向こうにある大地には何かが横たわっている。  絵の中の何かが、ほんの少しだけ動く。門から吹き出していた風が、今度は門の向こうへと吸い込まれる。私の存在に気づいたかのように、振り向こうとするかのようにそれは身動いで――。

「見ないほうがいい」

 そう言って、レオが私の目を塞ぐ。私はレオの手に自分の手を重ねながら問いかける。

「あれは、寝てるの?」 「ああ。まどろんでいるんだ」 「目を覚ましたら、どうなるのかな……」 「だから絵に閉じ込めたのさ」

 門の閉まる音がして、風が止む。レオの手がゆっくりと離れた。  物が見えるようになった目で絵を見る。風景画はいつも通り、薔薇を見事に咲き誇らせ、鉄の門はしっかりと閉じていた。さっきまで見ていたものが、まるで夢のよう。  けれど部屋に残った鉄錆と薔薇の匂いが、夢ではないと語っていた。


Day19.空想地図

 ある日のこと。宿題で調べ物をする必要があり、祖父の本棚で探し物をしていた。たくさん並ぶ本の中、私は分厚い図鑑の間に挟まれていた古びた紙を見つけた。大きさからして手紙ではないし、紙質からして大事な書類でもない。  何だろうと思って開くと、私の字と祖父の字が混じる地図だった。  背後から、レオが「懐かしいな」と覗き込む。

「きみの理想の街を、ヴィルヘルムが一緒に書いたものだよ」

 書いた記憶は一切ないけれど、クレヨンの筆跡は間違いなく私のもの。一体どんな街を作りたかったんだろうと、改めて地図に目を落とす。  街の中を通る川には、三日月の橋。街の東側にある森のそばにはお星様の浮かぶ池。中央通りには、ほっぺが落ちるおいしいパン屋さん。商店街には、不思議なものを売る骨董品店。住宅地には滑り台のある大きな公園にゾウの形をした噴水。  あれ、これって今の街にも覚えのある場所があるような……。

「私、もしかして予言の才能があったのかな……!?」 「さあ。予言か、それともこの地図が魔法の紙だったのか、どっちだろうね」

 愉快そうにレオは笑う。その顔を見て、私はこれが予言でも魔法の紙でも、どちらでも構わないと思えた。だってどちらにしたって、私の日常が平穏なことに変わりはないのだから。


Day20.赤い花

 街のお祭りで、花売りさんがいた。まだ五つ程度の可愛らしい花売りさんだ。

「おはな、いかがですかっ」 「ありがとう。一つくれる?」 「はい!」

 硬貨と引き換えに受け取った白い花を、家に持ち帰り、鏡の前で髪に挿す。  途端、レオが蜃気楼のように現れた。その顔はむすりと不服そうなで、たてがみは生きているようにうねっている。

「レオ、たてがみがうねうねしてる」 「不満だからね」 「何が?」 「きみが、私以外からそうして花を受け取ったことだよ」

 そう言って、レオは私の髪から花を抜き、ぽいと捨ててしまった。花は床に落ちる前に、まるで灰のように消えてしまった。  白い花の代わりに、レオの手には赤い花。出会った日にも同じ花を出していた。  レオはそれを丁寧に私の髪に挿した。

「きみには白よりも、赤が似合うと思う。よく映えているよ」

 金色の目に燃えるような感情が浮かんでいるのがわかり、私は咄嗟に目を伏せた。

「あ……ありがとう、レオ」

 お礼を言うのすら恥ずかしくなり、私はレオの顔を見上げられなかった。頬はかっかと熱を持ち始め、耳まで熱く鳴り出した。  そんな私を見て、レオは喉をゴロゴロ鳴らし笑っていた。


Day21.一番星は占い師

 最近、街で流行っている噂がある。 『一番星を街で一番に見ると明日を占ってもらえる』  何を占ってもらえるんだろう。どんなことを占ってもらうんだろう。  占ってほしいことなんて特にないくせに、一番星の占いなんて不思議なものが気になって、一番を狙ってみることにした。……のはいいのだけれど、街で一番最初に一番星を見つけるなんて、なかなかの至難の業。ましてや噂のせいで、誰も彼も空を見上げてる。  空に星が見えても、一番はすでに誰かのもの。占う声は聞こえやしない。  部屋の窓を閉めながら、私はため息をついた。

「今日も一番じゃなかったみたい」 「きみがそんなものに興味があるとも輪なかったな。そんなに占ってほしいのかい?」 「そういうわけでもないけど……」

 気になるんだもの、と唇を尖らせた翌日、日の暮れる頃のこと。私が窓を開ける前に、レオがぱちりと指を鳴らした。

「街の時を止めたから、今ならきみが一番乗りだ」

 レオが時間を止めることまでできるとは思わなかった。私はレオにお礼を言って、空に輝く一番星を探した。

「あ、見つけた」

 声に出した途端、見つけた一番星がぐんぐん近づいてくる。空から落ちる流れ星のように、輝く尾を引いてこちらに向かってやってくる。  そうして鼻先まで近づいた一番星には、年老いた顔が浮かんでいた。思わず息を呑む私に、人間の顔を持つ一番星は私の明日を占った。

「明日、鏡の中の自分に気をつけよ」

 一番星はそう言うと、きらめく尾を引き空へと戻っていった。レオが再び指を鳴らす。時間が動き出したのか、私にはわからない。けれど忘れていた呼吸は思い出せた。

「それで、何を言われたんだい?」

 レオには一番星の声が聞こえなかったらしい。私は「大したことないの」と首を振り、明日は鏡に近づかないでおこうと決めた。


Day22.鏡

 昨日の占いを思い出し、気をつけながら生活する――つもりだった。それなのに私は不用意に洗面所へ行き、鏡の前に立ってしまった。 顔を洗おうと屈み込んだ瞬間、鏡の中からにゅうと伸ばされた手に手を掴まれ、私は鏡の中に引きずり込まれた。  気づけば私は鏡の中。曇った鏡面越しに、もうひとりの〝私〟を見ていた。私の顔をして、私のように瞬きをして、私のように微笑む。

「ずっと待ってたの。あんたのじいさんが死ぬのを。あんたの守りが弱まるのを」

 鏡の私はそう言うと、サッと顔を洗って私がいつもするように食堂へ行ってしまった。鏡の中に閉じ込められた私は、鏡面のある場所でしか彼女の動きを把握できない。  彼女は、それはそれは上手に私の真似をして過ごした。  学校では一人で過ごすし、登下校も一人で過ごす。家に帰ればちゃんと宿題をして、そして、そして――。

「ねえ、レオ」 「何だい、ミーナ」

 私のように、レオの姿を感知する。レオを呼び、レオと話し、レオとほほ笑み合う。

 ――やだな。

 胸のあたりが、チクチクと痛んだ。レオ、どうしてわからないの、レオ。その子は私じゃない。《《それ》》は私じゃないわ。

「私以外に笑いかけないで、レオ」

 鏡の中の私の声は届かず、鏡面から跳ね返るばかり。そう思っていた。そう、思っていたのに。  レオは静かに、私を見た。鏡越しに私の目を見て、嬉しそうに笑う。

「可愛いことを言うね、ミーナ」

 次の瞬間、彼の白い手袋をはめた指が鏡に触れた。音もなく鏡面が|水面《みなも》のように揺らぎ、彼の手が私の腕をつかむ。  力強い手が、私の体をぐいと引き上げる。私の体が出ると、レオは鏡の私を鏡の中へ突き飛ばした。

「鏡像は所詮鏡像だ。大人しく、ミーナの真似をしていればいい」

 レオの声は穏やかで、けれど冷たかった。  鏡の中の私は鏡面を何度も叩いたけれど、もう外に出られないとわかると恨めしげに私を睨んでから、私の真似に戻ったまるで、何事もなかったかのように。  私は服の裾をぎゅっと握りしめる。

「……わかってたのね、レオ」 「助けてほしいときは名前を呼ぶよう言っただろう?」 「意地悪」

 拗ねた声を返すと、レオはくすりと笑った。白い手袋越しの指先が、私の喉元を撫でる。  猫みたいにゴロゴロなんて、鳴いてあげない。それどころか、もう少し小さな子どもだったらその指に噛みついているところだ。  それくらい、胸の奥がくすぐったくて、悔しかった。


Day23.名前のない楽器

 暇を見つけては家族で手分けして祖父の遺品を片付けているのだけれど、未だ片付かず、祖父の部屋は宝探し絵本のように雑然としている。  何とか少しでも見場が良くなるように――あるいは何か不思議なものが見つからないかと期待して――整理していると、小さな陶器の楽器を見つけた。形は心臓に似ていて不気味だけれど、陶器の朴訥さがそれを和らげている。  吹き込み口と穴の数から、オカリナらしい。

「いいや、違う。オカリナなんて上等なものじゃあない」

 カツンと音がして振り向くと、上等な杖をついた姿で現れたレオがいつもの三つ揃いで立っていた。今日も立派なたてがみがもふもふしている。

「じゃあこれは何?」   尋ねると、「名前のない楽器さ」と返ってきた。どう見てもオカリナだけど……。

「心臓の形をしているオカリナなんて、悪趣味じゃないか」 「もう、それは言わないで」

 遺品の山の中にあったにしては、オカリナ(仮)は汚れていない。試しに息を吹き込んでみるも――それらしい音は鳴らなかった。  レオが言う。

「これは〝なくした音〟を思い出すためのものだからね。ただ吹いただけでは鳴らないよ」

 ――人は言葉を、音楽を、記憶を忘れていく。だからこうした道具をヴィルヘルムは生み出したのさ。

 レオがそう話すのを聞きながら、私は思い出したい、忘れている音を考える。  何度目かに吹いたとき、遠くから誰かの声が聞こえた――ような、気がした。それは祖父の穏やかな笑い声に似ていた。  あんなに可愛がってくれた祖父の声を思い出せない日が増えていた。それはとても寂しかった。けれどこれからは、いつでも思い出せる。  楽器はもう、〝名前のない楽器〟ではなかった。


Day24.灯りのない夜

 その夜はしんと静まり返っていた。風の音も、遠くに犬の鳴き声すらない。夜空には雲が張りつき、月明かりは地上に届かない。

 ――眠れない。

 目を閉じても、宵闇の濃さが体にのしかかるよう。寝返りを打ったそのとき、不意にレオが声をかけてきた。

「眠れないのかい?」

 声の方向に目をやると、黒い影がベッドのすぐそばにに立っていた。夜の闇よりも濃いその影は、確かにレオだった。けれど、日中の穏やかな姿ではない。拗くれた角、鋭い爪。紳士な彼に似合わない、異質なものが浮かび上がっていた。

「……ねえ、レオ。あなたは私に、何を隠してるの?」

 影の中、レオが微笑む気配がした。レオはいつもと変わらない穏やかさで、まるで子どもの質問に応じるように答える。

「きみが思い出すまでは、良き隣人さ」

 それよりも、と囁く声とともに、彼の手が伸びてきた。指先が額へ近づくのを見て、私はびくりと体を強張らせる。レオは気に留める様子もなく、その手をそっと私の額に触れさせた。  その瞬間、まるで魔法のように、深い眠気が押し寄せてくる。意識が眠りの沼へ、ずぶずぶと沈んでいく。

「……レオ」

 眠気に声がかすれる。瞼が重い。けれど、どうしても聞きたかった。

「思い出したら、私とあなたは……どうなるの?」

 答えが返ってきた気がする。けれどそれは、波の音のように遠く、私の耳をすり抜けていった。  気づけば私は、眠りの底へと落ちていた。ただ、その夜の夢はどこか懐かしい風景だったことだけは、ぼんやりと思い出せた。


Day25.霧

 目を覚ますと、外は白く煙っていた。霧が出ているようだ。  不思議なことに時計の針は何度見てもあまり進まず、それを父と母は疑問にも思っていないようだった。いつも通り朝の準備を済ましても、時間はたっぷり余ってた。だからといってやりたいこともないので、体感でいつも通りの時間、学校へ向かうことにした。  外へ出ると、霧の濃さにむせかえりそうだった。霧は滑るように、何かを包むように、ゆっくりと漂っていた。  通学路いくつ目かの角を曲がったところで、私は立ち止まった。そこには、見たことのない喫茶店があった。  古びた木の扉、読めないほどかすれた手書き文字の看板。昨日まで、こんな建物はなかったはず。なのに、なんだか懐かしい匂い。花とスパイスと、陽だまりのような、胸の奥をくすぐる香り。

「入ってみるかい?」

 気づけば隣にレオがいた。紳士風の装いに、獅子のような頭。私にしか見えない、私だけの悪魔。

「でも、学校が……」 「この霧じゃあ、時間も迷ってるさ」

 そんなわけ……と思いつつ、扉の向こうから漂う香りに抗えない。私は意を決し、扉を押した。  りん、と小さなベルの音。中は不思議なほど静かで、温かい。一歩中へ入れば、紅茶の香りが出迎えてくれた。

「二名様ですね」

 カウンターから、店主らしい男の人が当然のようにレオを見て言う。

「レオが見えるの?」 「そのようだね」

 私たちが案内されたのは窓際の席だった。あちこちに漂う霧も、窓から中には入れないようだ。

「……ここ、来たことがある気がする」 「来たことがあるからね」 「私、それも忘れてるのね」 「思い出すさ、いつか」

 レオはメニュー表を見もせず店主を呼ぶと、「思い出のミルクティーと名を持たない焼き菓子を」と注文した。そんなメニューがあるのかとメニュー表を見る暇もなく、店主はうなずき、そしてすぐに注文通りの品を運んできた。

「砂糖は何杯だい、ミーナ?」 「もう、自分で入れるわ」

 レオの前で二杯もお砂糖を入れるのは躊躇われて、一杯だけにしておいた。くるくると混ぜ、一口飲む。瞬間、胸の奥がじんと温かくなった。  遠い午後の気配――誰かと並んで本を読んだ時間、誰かが見せてくれた宝石箱の中身、冷たい頬を包んでくれた大きな手。

「こっちの焼き菓子も食べてごらん」

 レオに促されて一口囓ると、素朴で甘い味が口いっぱいに広がった。

「美味しい」 「きみの祖母がよく作った味だよ」 「レオはいろいろ知ってるのね」 「まあね」

 カップとお皿が空になった頃、店の中から人の気配が消えた。振り返るとカウンターの向こうの店主はおらず、店内はもう何年も人が訪れなかった廃墟の佇まいに変わっていた。

「レオ……」 「店じまいのようだ。出ようか、ミーナ」

 外の霧は相変わらず濃い。店の急な変わり様を受け入れられず、私はもう一度確かめるため振り向いた。ちょうど、あの看板が霧の中に溶けて消えていくところだった。  それでも口の中にはまだ、ほんのり甘い焼き菓子の味が残っていた。


Day26.モノクロの花束

 放課後、いつものように門を開けたそのときだった。足元に視線を落とすと、そこには白と黒だけで構成された花束が置かれていた。  花束をそっと拾い上げる。香りはない。けれど、指が触れた瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

「……何だろう、これ」

 無記名だった。でも捨てるのも躊躇われて、私はそれを家の花瓶に挿した。  翌日も、その次の日も、家に帰れば門の前には必ず花束があった。無彩色のまま、変わらない形で。まるで何かを訴えるように。

 ――綺麗。でも、どこか怖い。

「ずっと、誰がくれてるんだろう」

 呟いても答えは返ってこない。気味が悪いと感じながらも、私は毎回この花束を捨てられなかった。何か、大切なことが込められているような気がした。もう少しで思い出せそうな、でも手の届かない、夢の断片のようなものがこの花束だった。

 三日目の夕方、私は門の前で花束を見下ろしていた。不意に、視界の端で影が揺れた。三つ揃いにステッキをついた、いつものレオだ。

「またこの花束か」

 忌々しげな声に、「知ってるの?」と尋ねる。「まぁね」と答えながら、レオはひょいと花束を拾い上げた。

「こんなもの、ミーナは気にしなくていい。ただの残滓だからね」

 レオの声には、いつもと違う棘が混じっていた。私はそれ以上聞けず、彼も何も言わなかった。その日の花束は、レオが持ったまま姿を消したので、家のどこにも飾られなかった。

 次の日の帰り道。家の前で、私は花束を運ぶ配達人にばったり出くわした。年齢も性別も分からない、不思議な雰囲気の人だった。彼は無言で私に花束を差し出し、言葉ひとつなく去っていった。  花束はいつもと同じモノクロ。けれどこの日の花束には可愛らしくリボンがかかっていた。薄いブルーは、私の好きな色。そのリボンには、手書きのメッセージが綴られていた。 ――思い出すまで待ってる。  差出人は、『あなたの忘れた誰か』と書かれていた。  心臓が跳ねた。立ち尽くす私の隣に、レオが煙のように現れる。

「レオ……これ、誰なの? わたし、誰かを忘れてるの?」 「気にしなくていいと言っただろう。ただの残り滓だ」

 そう言うと、レオは私の手から花束を取り上げ、空中高く放り投げた。レオの指がぱちんと鳴る。花束はパッと燃え上がって、灰も残さず消え去った。思わず「レオ!」と声を荒らげたけれど、私はすぐに勢いをなくした。

「きみを守るのは、わたしだけでいい」

 レオの声音があんまり寂しそうで、レオの表情があんまり悲しそうだったから、私はレオを怒れなかった。  数拍、私たちは黙りこくる。レオは何もないところから赤い花を一輪取りだし、私の髪に挿した。

「……きみに似合うのは赤だと、いつも言ってるのに」 「そう……ね。ありがとう、レオ」

 それだけが、ようやく出た言葉だった。

 夜、ベッドに横になって天井を見上げる。〝あなたが忘れた誰か〟と書かれたあの癖字が頭から離れなかった。  確かに、私は何かを忘れている。それはたぶん、とても大事な何かだ。でもレオもまた、今の私の隣にいて、誰よりも私を見てくれている。

 ――なら、今はこのままでいいかもしれない。いつか全部思い出すとしても、今はまだ。

 窓の外では、風が雲を攫っている。月明かりの中、一輪の赤い花が月を見上げていた。


Day27.視線

 祖母の遺品に、古びた鏡があった。額縁の彫刻はどこか異国風で、鏡面はわずかに曇っている。けれど不思議と、私の顔映りはよかった。 身だしなみを整えるため覗くと、私の隣にレオが立っているのが見えた。

「レオ、レディが朝の準備をしているときは覗き見しないで」 「いや、すまない。きみの髪が見る間に整うところは、魔法みたいだと思ってね」

 真顔で褒めるものだから、文句を言う気も失せてしまう。  私はため息をつき、「じゃあ、ちゃんと見てて」と鏡越しにレオに語りかける。だって、褒められて悪い気はしないでしょう?  私は「ここはこうして」「これはこう使って」とレオに身だしなみのレクチャーをした。私が手を動かすたびに、レオはまるで授業を受ける生徒のようにうなずく。……これじゃあ私、この先寝癖一つ放置できなくなりそう!

 祖父の遺品に山ほどの本がある。祖父の本棚から本を抜き取り、自室で読んでいるとき、ふと視線を感じた。顔を上げるともちろん、レオがいる。

「なぁに、レオ?」 「いや、すまない。きみの真剣な顔が美しいから、つい見蕩れてしまってね」

 そう言いながら、レオは悪びれる様子もなく優雅に椅子に腰掛けた。レオの優雅さに反し、私の頬はじわじわと熱くなる。  まったくもう、そんなふうに言われたら顔を上げられないわ!

 私の部屋は南向きで、太陽も月もよく見える。ある夜、窓の外から視線を感じる。窓の外を見上げてみると、月に腰掛けたレオが私を見下ろしていた。

「いや、すまない。きみの寝顔があまりに可愛らしいから、夜通し見ていようと思ってね」

 冗談とも本気ともつかない口調に、私はシーツを頭から被って寝るほかなかった。

「ねえ、レオ」 「何だい、ミーナ」

 自室で勉強中、視線を感じて振り向く。案の定、レオは私を見ている。

「そんなに熱い視線を送られたら、私いつか、燃えちゃうわ」 「愛しのミーナが火に巻かれるなんて、わたしがいる限りありえないさ」 「はいはい、わかったわ」

 何でもないように流して勉強に集中するふりをしたのはいいけれど、私は耳まで真っ赤になっていた。  それをわかっていて、レオが声もなく笑う。その気配を察して、私は頬を膨らませながら必死になって課題に意識を向けた。


Day28.風に紛れて聞こえる声

 その日、学校を出た瞬間に強い風が吹いて、私の髪を乱した。はためくスカートの裾を押さえながら顔を上げたとき、ふっと耳元で誰かが囁いた。

「おかえりぃ」

 私は辺りを見回したけれど、帰り道には私しかいなかった。ただ、風が少し笑ったような気がした。

「気のせい……?」

 呟いた声は、かすれていた。

 その声は、次の日も聞こえた。風が吹くたびに。

「今日も無事でよかった」

 それが不気味だと感じるよりも先に、懐かしさが胸の奥からやってくる。以前――とても昔――にも、こうやって私を心配してくれていた気がして。

 声は、日が経つごとにはっきりしてきた。

「まだ、おれを思い出さない?」 「早くミーナと遊びたいなぁ」 「いつ思い出してくれるかなぁ」

 帰る道中、私はすっかり混乱して足を止めてしまった。  思い出すって、レオとの何かすら忘れているのに? 声しかわからない何かのことも忘れているの?  ふと視線を感じて振り返ると、いつもレオがいた。上等な三つ揃いに、磨き込まれたステッキ。いつも通り、変わらない姿。

「レオ……ねぇ、この声、レオは知ってるの?」

 レオはしばらく黙っていた。それから、低い声で言った。

「きみが大切にしてた誰かだよ」

 それ以上は、レオは黙りこくってしまい何も教えてくれなかった。私は出かかった問いを飲み込むしかなかった。

 そして、その夜がきた。  風は今までよりも激しく吹き荒れて、窓を木の葉が叩く。風の音に眠れなかった私はベッドの上で起き上がり、カーテンを開けようとした。  そのとき、風に乗ってはっきりと声が聞こえた。

「迎えに来たよ!」

 その声は、思わず息を止めるほど懐かしくて、あたたかくて。  カーテンを開け、外を見た。そこには白銀の狼がいた。月の光に照らされて、その毛並みは輝いている。  薄いブルーの瞳と目が合った瞬間、心の奥で扉がゆっくりと開いた気がした。

 ――知ってる、私はこの子を知ってる。

 心の奥に仕舞い込まれていた記憶があふれ出そうとしている。あと少し、もう少しで思い出せる。  すべてを思い出すには、あの毛並みに触れなくちゃ。  そう思い、窓を開けるため手を伸ばした。その手を、白い手袋をはめた手が掴む。

「だめだ」

 振り返ると、レオがいた。いつもの柔らかい表情じゃない。真剣で、哀しみを含んだ目。

「ミーナを守るのはわたしだ。お前じゃない」

 レオが窓の前に立つ。ステッキで床をどんと突いた。風がぴたりと止み、もうあの声は聞こえなくなった。  白銀の狼は、じっとこちらを見つめていた。その瞳は、どこまでも無邪気で、優しかった。私は一歩、窓に向かって踏み出して――それから立ち止まり、振り返った。

「……ごめんね」

 私は、私の手を掴んだままのレオの手を握り返した。  窓の外の狼は残念そうに私を見て、噛みつきそうな目でレオを見て、それからゆっくりと夜の闇に溶けていった。

「……思い出してあげたかった」

 私がぽつり呟くと、レオは「思い出さなくてもいい」と小さく返した。

「思い出せないのは、それなりの理由があるからだ」

 そう言って、白い手袋をはめた手が私の頬に触れる。

「さあ、目を閉じて」

 レオの金色の目に覗き込まれ、私は素直に従った。静かに瞼を閉じると、すぐに眠気が降りてくる。レオの手が、私の瞼を撫でた。  ──ああ、また忘れちゃうんだ。  今日のことを忘れたくない。そう思ったけれど、襲い来る睡魔が私にすべてを忘れさせた。


Day29.箱の中身は

 祖父の書斎で、古びた木箱を見つけた。掌に乗るくらいの、重みも何もない箱。錠も鍵穴もないのに、蓋はぴったり閉じている。  何となく気になって部屋に持ち帰ったら、レオがすぐに眉をひそめた。

「ミーナ、それはどこで見つけた?」 「おじいさまの棚の奥の奥。空っぽみたいだけど、引っかかってて」 「そうか。……できれば、開けないでくれると助かるな」

 レオの視線が箱に落ちる。珍しく、真剣な顔。 私は「わかった」と返事をしつつも、正直、中身が気になっていた。  そしてその夜。  布団に入ってしばらくすると、こんこん、と木を叩く音がした。最初は風かと思ったけれど、風なら窓を鳴らすはずだ。でもこの音は、明らかに部屋の中から聞こえる。  そっと体を起こして目を凝らす。机の上の箱が、月明かりに照らされていた。  もう一度、こん、と叩く音。今度ははっきり聞こえた。……まさか、箱の中?  私はそっと立ち上がり、箱に近づく。耳を当てると、中から小さく何かが叩く音がした。

 ――こん、こん、こん。

 開けようと手をかけた、そのとき。

「ミーナ」

 レオの声にびくりとする。気づかぬ間に現れた彼が、私と箱の間にすっと立った。

「開けないでくれと言っただろう?」 「でも、中に何か……」 「〝何か〟じゃなく〝誰か〟だ……と言ったら?」

 レオの台詞に、私は背筋がひやりとするのを感じた。私は箱を見下ろした。古びて、何の変哲もないそれが、まるでこちらを見返しているような気がした。

「わかった……開けない」

 そう告げると、レオはほっと息を吐いた。そして箱に手をかざし、ぽつりと呟く。

「目覚めるには、早すぎる」

 ノックの音はもう、二度と聞こえなかった。

 翌朝、机の上には何もなかった。箱のことを聞いても、レオは「そんなものあったかな」ととぼけるだけ。……あれ? あの箱、どこにやったんだっけ?  思い出せないのに、胸の奥がざわつくのはなぜだろう。けれどレオが微笑んでいるのを見て、私はそれ以上考えるのをやめた。


Day30.昔話

 昔々、ある街に大魔法使いがいた。  ある年、大魔法使いに孫が産まれた。それはそれは可愛い女の子だった。  大魔法使いはその子が誰からも愛されるようにと、自分の知る人外の者たちに祝福をさせた。しかし過度な祝福は呪いとなり、女の子を苦しめた。大魔法使いは女の子を祝福から守るため、すべての祝福と呪いを退ける魔法を編まねばならなかった。  大魔法使いの死後、編まれた魔法はほどけつつある。  女の子は少女へと成長し、自分が危機に瀕していることを知らずに平和で何も起こらない毎日を愛しているのだった――。  昔々、ある街にひとりの大魔法使いがいた。  世界の理をいくつも編み替え、神々にすら名を知られるその者は、ある年、ひとりの孫を授かった。それはそれは愛らしい女の子だった。

 ――この子が誰からも愛されますように。

 大魔法使いは、自らの知るあらゆる人外の者たちに祝福を求めた。彼らは皆、魔法使いの願いに応え、女の子へと祝福を注いだ。  だが、過ぎたるはなお及ばざるがごとし。過度な祝福は呪いと化し、女の子を蝕んでいった。  大魔法使いは後悔し、すべての祝福と呪いからその子を守るための魔法を編み上げた。祝福と呪いを打ち消す代わりに、女の子に孤独を強いる魔法だった。しかしそのお陰で、女の子には過度な悲しみも怒りもない、静かな生活を送ることができるようになった。  やがて女の子は少女に成長し、祝福も呪いも知らず、何も起こらない平和な日々を愛するようになったのだった――。

「……まるで眠り姫みたいね、そのお話」

 私は本を閉じながら笑った。  レオは、いつものようにベッドの脇に立っていた。三つ揃いのスーツに、ステッキ。獣の王の顔を持つ彼の表情は、今夜も読みづらい。

「実話だよ、ミーナ」 「ふふ、そういうことにしておくね」

 少女――ミーナは小さくあくびをしてベッドに潜り込んだ。

「おやすみ、レオ」 「おやすみ、ミーナ」

 明かりが消え、部屋に闇が満ちる。ミーナの健やかな寝息を聞いてから、レオはため息をついた。

「これを聞いても思い出さないか……」

 嘆くような困り果てたような台詞は、夢の中にいるミーナには届かなかった。


Day31.ランプ

 ミーナが屋根裏から降りてきたとき、埃だらけのランプを手にしていた。

「これ、きれいになると思う?」 「どうかな」

 答えながら、わたしは胸の奥がざわつくのを感じた。それは、とうの昔に忘れたはずの感覚だった。  ミーナはわたしの動揺も知らず、布で丁寧にランプを磨いている。少し不格好な金属のランプには、持ち手のところに細かい模様が刻まれている。あれは、呪文だ。  ミーナが最後の仕上げに息を吹きかけると、ランプは一瞬だけ淡く光った。

「あれっ? 今、光った?」 「そうかい? わたしは気づかなかったが……」

 即座に否定したが、ミーナは納得していないようだ。

「絶対光ったと思うの。青い光だった。明るいからレオには見えなかったのかな」

 そう言ってランプを棚の上に飾るミーナを見つめながら、わたしはこっそりため息をついた。 あのランプにまだ力が残っているとは。その上、ミーナの手で見つけられるなんて。  その夜、わたしはひとり、暗い部屋の中に佇んでいた。ミーナはすでに寝息を立てている。安らかな寝顔を背に、ランプの置かれた棚の前に立つ。

「……まだ、覚えているか?」

 応えるはずもない沈黙。それでもわたしは続ける。

「昔、わたしはお前に願った。ミーナを、わたしだけのものにしてほしいと。誰にも触れさせず、誰にも見つけられない場所に閉じ込めて――ずっと、そばにいさせてくれと」

 それは若く愚かな願いだった。ミーナの魂を欲する強い思いが、願いの形をして溢れたにすぎない。  ランプは答えなかった。口を閉じたまま、何も言わずに沈黙を守った。  あのとき初めて知ったのだ。このランプは、ただの道具ではない。願いを選ぶ――そんな意思も、持っているのだと。

「まただんまりか。お前は彼女の味方でいたんだな」

 ミーナに味方がいるのはいいことだ。有象無象に狙われるミーナに平穏が訪れるようにと願う者がいるのは、悪いことではない。だが、しかし。

「お前は願いを叶える存在だろう。わたしの願いを、欠片でも叶えてくれてもいいじゃないか」

 ずっと傍にいた。守ってきた。けれど、ミーナの世界は驚くほど広がっている。昔は良かった。彼女の世界は庭までしかなかった。しかし今では、庭の外をどこまででも行ける。  わたしは怖い。いつかミーナの笑顔が、誰かのものになる日が。

「彼女はもう、子どもじゃない。自分で選び、歩き出す。……それでも、わたしは」

 だから願う。もう一度だけ。今度こそ。しかし、ランプは黙っていた。棚の上、冷たく静かに、まるで封印でもされているかのように。  わたしはしばらく立ち尽くしていた。時間が流れる。夜が深まる。やがてわたしは、自嘲気味に笑った。

「そうか。……やっぱり、お前はどこまでもミーナの味方なんだな」

 ランプは答えなかった。ミーナの寝息だけが、静かに部屋を満たしていた。  翌朝、ミーナは目をこすりながらわたしに話した。

「昨日の夜、夢の中で誰かと話してた気がするの。何を言われたかは覚えてないけど、あったかくて、優しい声だった気がする」 「……へえ」

 わたしはどうにか微笑んだ。

「いい夢だったかい?」 「うん。すっごくいい夢だった」

 そう言って、ミーナは嬉しそうに微笑んだ。その笑顔が誰のものでもないことに、わたしは救われる思いだった。

「……そうか。ランプもまだ、ミーナが誰かのものになるのを望んでいないのか」

 わたしは声には出さず、心の中でそっと呟いた。


Day32.こぼれる光

 学校帰り、家に着いたときのこと。咲き終えた花の間に、私は小さな何かを見つけた。

「……妖精?」

 それは手のひらに乗るほど小さな存在だった。羽根は折れ、瞳は閉じられ、まるで誰かが置き忘れた人形のよう。けれど、私が触れようとしたとき、わずかに瞼が動いた。まだ、生きてる。  そっと手を伸ばし、妖精を両手で包みこむ。すると、指の間から微かな光がこぼれた。

「……あったかい」

 まだ生きてる。そう思うと、胸がきゅうと痛んだ。こんなにも弱っている存在を放っておけるわけがない。私は妖精を部屋へ連れ帰った。  部屋に入ると、すでにレオは姿を現していて、難しい顔をしていた。傾きかけた太陽が、レオのたてがみに金の縁取りを施している。

「随分珍しいものを拾ってきたね、ミーナ」 「うん。見て、この子……すごく弱ってるの」

 手のひらを開いて差し出すと、レオは顔を近づけて覗き込んできた。妖精の体はちかちかと明滅を繰り返している。

「ああ、これはもうだめだ」

 レオはあっさりと言う。

「これは命が終わる光だ。きみにできることは何もないよ、ミーナ」 「でも……でも、まだ、動くの。ぐったりしてるけど、レオの魔法なら……」 「わたしにもどうにもできないよ」

 きっぱりと言い切られ、私は妖精をまた手のひらで包んだ。何もできない自分が、情けなかった。

 夜になっても、妖精は目を開けなかった。私はベッドに入らず、手の中の小さな命をじっと見守っていた。光はまだ、ぽつりぽつりとこぼれては消えている。  水を与えてみたが、口からこぼれるだけだった。蜂蜜を与えてみたが、妖精は口を開かなかった。思いつく限りのものを与えて命の期限を延ばそうとしたが、妖精は弱々しく拒むばかり。私は、唇を噛みしめるしかできなかった。

 明け方、カーテンのすき間から差し込む光が、手の中の小さな存在を照らした。小さな妖精の肩が、かすかに揺れた。羽が震えた。そして、ゆっくりと瞼が開く。  翡翠のような目が、まっすぐ私を見つめた。  アーモンドの花のような唇が動く。声にはならなかったけれど、私は確かに声を聞いた。

「ありがとう」

 その瞬間、妖精の身体が、空気に溶けるように淡く光りながら崩れていった。光の粒になって、すうっと消えていく。  私は思わず手を伸ばしたけれど、何も掴めなかった。何も掴めなかった手を握り、レオ、と呼ぶ。煙のように、レオが現れる。

「助けようとするその気持ちが、あれには嬉しかったんじゃないかな」

 レオの優しい声に、私はうなずけなかった。何か言いたいのに、言葉は胸の奥につかえたまま。  頬を一筋の涙が伝うのを感じながら、溶けて消えた妖精が何の痛みも感じなかったことを祈った。


Day33.扉の隙間の青

 学校の帰り道、私はふと足を止めた。理由はわからない。風が止んだからか、陽が陰ったからか、それとも――誰かに見られている気がしたからかもしれない。  足を止めたのは、ちょうど古びたお屋敷の前。私が産まれたときにはもう誰も住んでいなかったらしい。背の高い門は蔦に覆われ、向こう側はほとんど見えなかった。  でも、その隙間。ほんの少しだけ空いた隙間から――青い目が、ひとつ、こちらを覗いていた。

「……だれ?」

 声は自然と漏れた。けれど、返事はなかった。私は一歩、後ずさった。蔦が揺れ、風が吹いた。そして、いつものように家へ帰った。  今のは見間違い。きっとそう。――そう、思おうとした。

 次の日の放課後。通学路を歩く足が、また同じ場所で止まった。心のどこかで、今日はもう何もないと思いたかった。けれど隙間に目をやった私は、息を呑んだ。  昨日はひとつだった青い目が、二つになっていた。それだけでもぞっとするのに、二つの目は、縦に並んでいた。

 ――人間じゃない。

 そう思ったら、声にならない悲鳴が喉でつかえた。踵を返して走り去ろうとしたそのとき、かすれた声が私を引き留めた。

「行かないで」

 空気が凍った。私の喉が、きゅっと締まった。声が出ない。  青い目はじっと私を見ている。固く閉ざされていた門が、じわりじわりと開いていく。

 ――怖い。怖い。助けて!

 逃げたいのに、体は動かない。意識がどんどん遠くなり、見えない力が私の体を門の向こうへと引きずる。

 ――レオ……!

 声にはならなかった。でも、私は唇を動かした。心の中で、必死に呼んだ。  レオ。お願い、助けて!  風が吹き出すような音がして、私の影から三つ揃いを着た獅子頭の紳士が現れた。もちろん、それはレオだ。

「……やれやれ。きみはほんとうに不用心だな」

 レオの声がした瞬間、私の身体に力が戻った。喉が通る。呼吸ができる。声が、出る。

「レオ……」

 私の小さな声が空気に混じると、レオはひとつ、ぱちんと指を鳴らした。  鋼鉄の門が嫌な音を立てて閉じていく。隙間に吸い込まれるように、青い目も、まるで最初からなかったかのように消えた。  私はその場にへたりこみ、膝をついた。

「怖かった……」

 声が震えていた。足も手も、まだ冷たい。レオは私に手を差し伸べて立たせながら、笑いを含んだ声で言った。

「次からは、怪しいものに近づかないことだね」

 私はこくんとうなずいた。でも少しだけ、恥ずかしさに下唇を噛んでから、小さく呟く。

「……気をつける、ね」

 それだけ言って、空を見上げた。雲の向こうから太陽が覗き、柔らかな光が差していた。  あの目はもういない。たぶん、もう大丈夫。  でも私は、しばらくあの門の前は通るのをやめようと思った。


Day34.違う場所に続く階段

 朝起きて、制服に袖を通す。窓の外には、いつも通りの空。少し曇っているけれど、雨の気配はない。私は鞄を肩にかけて、階段の前に立つ。  一段、二段、三段……。数えるのが好きというわけじゃない。ただ、いつも決まった段数だから、自然と数えてしまう。十、十一、十二。……十三?  足が止まった。そこには、見たことのない十三段目があった。いつもは十二段で足が床につくのに、その先にもうひとつ段がある。木の色も、踏み板の幅も同じなのに、ほんの少しだけよそよそしい。  おかしいな、と思いながら、その段を踏む。途端、空気の匂いが変わった。  目の前には、見知らぬ風景。眼前いっぱいに青々した穂が揺れる畑が広がっている。そしてその手前、私の目の前には、青い屋根の小さなバス停。空からは静かに小雨が降っている。  慌てて振り返れば、見慣れた階段が続いている。家の中なのに、外と繋がってしまったようだ。  バス停には誰もいない。そのはずなのに、バスを待つ誰かがそこにいる気がした。なぜだか私も、「バスを待たなきゃいけない」と思った。ベンチに座る見えない誰かの隣に座って、いつ来るか、どこへ行くかもわからないバスを待たないと。  そう思って一歩足を踏み出そうとしたそのとき。

「ミーナ、学校は?」

 背後から、レオの声がした。影が揺れて、私の足元から白い手袋をはめた手が伸び、そっと私の手を取る。

「レオ……?」

 私はハッと我に返り、足を引いた。階段に足をつけると同時に、バス停と畑は霞のようにかき消えるように消えた。目の前には、見慣れた家の廊下だけが見える。

「危ないところだったね」

 レオが私を見て、いつもの調子で言う。

「あのまま踏み出してたら、どうなってたの?」

 尋ねる私に、レオはこともなさげに言う。

「違う世界へ連れて行かれただろうね」 「また危なかったのね、私」 「きみの不用心さもここまで来ると、エンターテイメントだよ」

 レオは困ったように笑ったけど、私の手はまだしっかりと握られている。ひやりと冷たいその手だけれど、怖さよりも安心を覚えさせる。  私は少しだけ笑って呟いた。

「でもレオが止めてくれたから……今日も何も起こらずに済みそう」

 レオは、黙って私を見ていた。その目は、どこか寂しそうで、でもやさしかった。  私はもう一度、今度はレオに聞こえないようそっと呟く。

「私の周りはいつも通り。何も起こらない、静かなまま」

 それが、いちばんの願いであり、ささやかな祈りでもある。  レオが何か言いかけて、それを飲み込んだのがわかった。でも、私は何も聞かなかった。だって今は、ちゃんと〝いつも通り〟に戻れたのだから。  階段を、あと一段だけ、戻る。十三段目はもうない。朝の静けさだけが、家の中に満ちていた。


Day35.あなたの名前

 わたしがその子を初めて見たとき、彼女は床にぺたんと座り込み、クレヨンを握っていた。赤、青、黄色。指先までカラフルに染めて、クレヨンを紙の上で自由に泳がせていた。  線はたどたどしく、色ははみ出し放題。それでも彼女の絵には不思議と命を感じる温度があった。

「おなまえはー?」

 突然そう声をかけられて、わたしは内心ぎょっとした。子供というのは、時に異形すら恐れない。

「レオス・テネブラエ」

 短く名乗ると、彼女はぱちりと瞬きをした後、たどたどしく繰り返した。

「れお!」 「そう、レオ」 「わたしはミーナ!」

 何がおかしいのか、ミーナはくふくふと笑う。そしてまたクレヨンを握り直す。  白い画用紙には、彼女自身が描かれている。子供らしいまん丸な頬。にっこり笑う目と口。そしてその周りには、妖精、精霊、悪魔、天使、巨人、小人、人間。ありとあらゆる存在たちが、笑ってミーナを囲んでいた。  この子はヘルミーナ。わたしと契約を交わした大魔法使いヴィルヘルムの孫にして、この世界でただ一人、あらゆる〝人ならざるもの〟から愛されてしまった少女だ。  過ぎたる祝福は、呪いでもある。  あらゆる存在に好かれてしまったがゆえに、あらゆる存在から欲しがられる。奪われそうになり、囲われそうになり、壊されそうになる。その中には、きっと人間も含まれる。そして……わたしも。

「ミーナ。困ったときはわたしの名を呼ぶんだよ。書くのでもいい。とにかくどうにかわたしの名を内から外へ出すんだ」 「うん? うん、わかったー!」

 返事が軽すぎる。けれど、ミーナの笑顔は本物だった。その無垢な瞳を見ていると、どうしようもない欲が胸の底から湧いてくる。  ──その魂を引き抜いて、宝石のように磨いて、我が手に抱いていたい。それがこの世界の誰にも触れられないように。誰にも、見せたくない。  だがそんなことをすれば、この陽だまりのような笑顔は二度と見られなくなるだろう。笑顔を失っても、魂の輝きは衰えないだろうが。

「……いや、だめだな」

 爪が手袋を破りそうになっていることに気づき、思考を止めた。  理性はある。まだ、今は。  けれど長くはもたない。願いのランプがあったなら、「この子をわたしのものに」と願ってしまうだろう。そんな自分がどこか滑稽で、我ながら笑うしかなかった。

「れお、なんで笑ってるの?」 「何もないよ。それより、いい絵が描けているね」 「えへへ。みてみて、わたしのおともだち!」

 そう言って、ミーナは今し方描いた〝わたし〟を指さした。紙の上の〝レオ〟は、彼女の隣で優しく見守っている。  ミーナはまたお絵かきを始めた。鼻歌交じりにクレヨンを操る彼女を、ただじっと見守る。それが今のわたしにできる、唯一の誠実な対応だった。


Day36.灰色の朝

 今日は学校を休んだ。なんとなく体が重たくて、顔を洗うのもおっくうだった。天気は曇り。窓の外は、昔の写真みたいに灰色にくすんでいる。  私は、そういう朝がときどきある。  親とすら喋りたくなくて、近所の人にも見られたくなくて、目を閉じれば呼吸の音ばかりがやけに大きく聞こえて、世界が遠くなる。そんな朝が。  そんなとき、私はベッドの上で本を読む。今日は、祖父の書斎にあった古い本を抱えてきた。古い紙の匂いは、少しだけ心を穏やかにしてくれる。  パラパラとめくっていると、一枚のメモがはらりと落ちた。 『心がくすんだときに』  そんなタイトルの下に、祖父ので何かが書かれている。お茶の、レシピ?  ──庭のカモミール 多め  ──庭のラベンダー 少し  ──好みの白い花びら ひとひら  ──好きな茶葉 お好み  何だか適当なレシピ。私はくすっと笑ってから、起き上がって玄関へ向かった。  庭に出て、咲き残っていた白い小花を摘んで、カモミールとラベンダーも摘む。それからキッチンへ向かって、それらを茶葉と一緒に小鍋へ投入。文明の利器・携帯端末で手順を調べながら、ことこと煮出す。  静かな音が、灰色の世界に小さな明かりをともす。出来上がったお茶はあたたかくて、少し不思議な香りがした。  一口、ゆっくりと飲み込む。それだけで胸の奥のつかえが少し溶けたような気がした。  飲み終わったカップの底に、何かが残っている。これは……花びら? でも、私が入れた花とは形が違う。白いような、透きとおるような、小さなかけら。  私はそっと指先で触れた。その瞬間、なにかが胸をすぅっと通り抜ける。世界を覆っていた灰色が、すこしずつ薄れていく。くぐもった音がクリアになっていく。  この変化は気のせいかもしれない。それでも、私の心が軽くなったのは確かだ。

「……少しだけ、歩いてこようかな」

 カップを流しに置いて、上着を取りに部屋へ戻る。準備を終えて玄関のドアを開けると、心地よい風が頬を撫でた。

「気分は良くなったかい?」

 ふと、足元から声が聞こえた。目を落とすと私の影はぐにゃりと伸びるところで、そこからレオが現れた。いつもの三つ揃いに、上等なステッキ。今日は帽子まで被ってる。

「うん。少しだけ」

 そう答えると、レオはかすかに目を細めて微笑んだ。

「散歩ならわたしも行こう。きみ一人だと心配だからね」 「ありがとう、レオ」 「礼には及ばない。それがわたしの役目だ」

 隣に並んだレオが、静かに歩き出す。私もそれに合わせて歩き出す。並んだ足音が、灰色だった朝に、小さな色を添えていく。  今日も、私の日常には、きっと何も起こらない。何も起こらない日を守ってくれる誰かがそばにいる──それだけで、今日の世界がほんの少し、鮮やかな色になった気がした。


Day37.ふたりの影

 眠れない夜だった。別段理由はない。ただ、目を閉じても睡魔がやって来ないというだけ。私はもそもそとベッドから抜け出して、そっと窓を開けた。  夜風がカーテンを揺らし、外の空気が私の頬を撫でる。空にはまん丸の月。まぶしいくらいの光が、庭をやさしく照らしている。

 ――ちょっとだけ、外に出てみようかな。

 ふいにそう思った。階段を下り、玄関の扉をそっと開ける。夜の空気は思ったより冷たくて、私はぶるりと震えた。

「散歩かい?」

 不意に聞こえた声に、私は驚きもせずに振り返る。

「レオ」

 ライオンの頭を持つ彼は、いつもどこからともなく現れて、私のそばに立つ。私にしか見えない、私だけの悪魔。いつもなら、そのはずなんだけど――。

「……レオ、影」

 私は足元を見て、呟いた。  私の影の隣に、もう一つ。ちゃんと腕も足もある影が、私の影に寄り添って伸びている。

「いつもこんな風に、影があったっけ?」

 レオは「いいや?」と首を振った。

「普段はこんな風に影なんて見せやしない」 「どうして?」 「姿を隠せば影も隠れる。そういうものさ」

 理屈はよくわからないけれど、レオがそう言うのだからそう納得しておこう。  ふんふんとうなずく私に、レオは続ける。

「けれど月の光の下では、秘めたものが暴かれやすいんだ。特に、こんな満月の夜にはね」

 私はもう一度、私たちの足元を見つめた。二つの影は寄り添っていて、手をつないでいるようにも見える。

「じゃあ今のレオは、私以外にも見えちゃうの?」 「そうだね。見ようとすれば」

 レオはそう言って、どこか困ったように笑った。私はその横顔を見て、ふふっと笑う。

「レオの姿が私以外にも見える時間があるなんて、少し不思議」 「そうかい?」 「うん」

 それから私たちはどちらからともなく庭に足を踏み出して、そう広くない庭を散歩した。花々が夜風に揺れる様をぼんやり眺めたり、夜にしか出てこない虫がせっせと移動するのを眺めたりと、静かな時間を過ごす。  庭の端にたどり着き、頭上のまん丸な月を見上げる。皓々と光る月の眩しさに、思わず目を細める。ふと隣を見るとレオも顔をしかめて月を見上げていて、私は思わず噴き出した。  そのまま私たちは何も言わず、ただ静かな庭の音に耳を澄ませていた。風が木々を揺らし、どこかで猫の声がする。  沈黙を破ったのは、私だ。

「ねえ、レオ」 「ん?」 「レオのお陰で、よく眠れそう」 「それは良かった。月夜に外へ出た甲斐があるよ」

 冗談めかして言う彼に笑いかけながら、私は足下へ視線を落とす。  足下にある二つの影は、互いに寄り添うように並んで、月の下で静かに伸びていた。


Day38.鳴かない鳥の歌

 家に帰ったとき、庭の隅でばさばさと何かがせわしなく動く音がした。何だろう、と探してみると、小さな鳥が芝の上で身を震わせていた。  片翼を不自然に折りたたんで、動けないでいる。私は小さな体をそっと抱き上げて、慌てて家に連れ帰った。

「レオ!」

 呼べばレオはすぐに現れ、私が「この子を助けて!」と願えば何も言わず指をぱちりと鳴らした。すると手の中の鳥は、手当てを終えた格好になった。具体的には、何かの薬の匂いと包帯をまとった姿。  鳥はちっとも鳴かないけれど、くちばしは何かを言いたげに開いたり閉じたりしている。

「どうしたの? 声が出ないの?」 「そのようだね」 「そう……」

 私は小さな体を撫でてやりながら、呟いた。

「声が出ないって、寂しいでしょうね」

 周りと上手く話せない気持ちなら、少しだけわかる。私の場合は、言葉が出せないわけでなく、避けられているのだけれど。

 その夜は祖母の古いストールを巣のように丸めて、その中に鳥を寝かせた。

「怪我が良くなっても、うちにいていいからね」

 ぽつんとそう言ったときだった。

「それは良くない」

 音もなく、レオが現れた。手当てをお願いしたときは無言だったし、今は声が低いし、何だかとっても機嫌が悪そう。

「鳥は空にいてこそ鳥だ、同情で地に引き留めてはいけないよ」

 くどくどと続くレオの説教に、私は少しだけ首を傾げた。

「レオ、もしかして……ヤキモチ?」

 返事はなかった。ライオンの顔が、わずかにそっぽを向く。  そのとき、鳥がぶるりと身を震わせた。まだぎこちないながらも、羽を大きく広げてばさばさと羽ばたきをする。私が驚いて立ち上がる間に、鳥はストールを抜け出し月光の中に飛び立っていった。  その羽音が、夜気を切る風の音が、まるで歌のように聞こえた。  私は、窓の外をしばらく見つめた。

「レオ。あの子、歌ってたよ」 「ああ、いい歌だったね」

 名残惜しく思いながら、月に向かって消えた鳥を思った。


Day39.路地の先

 朝、家を出て通学路を歩いていた。いつもの道に、ほんの少しだけ風が吹いて、木の葉が足元に転がってきた。しゃがんでそれを避けようとした時、目に留まったのは片方だけの靴だった。  黒い革靴だった。古びていて、デザインも古い。どうしてこんなところに転がっているんだろう?  拾い上げたその瞬間、心の中にふわりとした感情が浮かぶ。

 ――……今日は、学校休んじゃいたいな。

 自分が登校拒否をわずかに煩ってると自覚した直後、細い路地の奥からもう片方の靴がころんと転がってきた。誰かが投げた――というわけでもない。ただ自然に、靴自ら私のほうへやって来るかのように。  なぜだか、靴を拾わないといけないような気がした。私は片手に靴を持ったまま、その路地へ足を踏み入れた。  靴を拾い、路地を奥へ進む。路地は思ったより長くて、外の音がだんだん遠ざかっていく。それでも私は歩いてく。  そうして路地を抜けた先には、見覚えのない古いお屋敷がぽつんと建っていた。煤けたレンガと、閉ざされたカーテンの向こう。誰かの気配がした気がした。  私は無意識にお屋敷の戸口に立っていた。背の高い門を見ていると、いつかの青い目を思い出す。  踵を返して帰ろうかと逡巡している間に、門が音もなく開いた。門の向こうにいたのは、無表情の少女だった。私よりもずっと年下に見える。  少女は白金の髪にグレーの瞳、紙より白い肌が特徴的だ。着ている白いワンピースの裾は少し汚れていて、足は何も履いていない。

「それ、わたしの……。ありがとう」

 そう言って、少女は私の手から靴を取った。それから私を、グレーの瞳でじっと見つめる。

「わたし、ずっとここにいるの……。からだがよわくて、おそとにでられなくて」

 少女の声は小さく、今にも空気に溶けてしまいそうだった。確かに体は弱そう。でもだからこそ、そんな格好で外に出るのは良くないんじゃ……。  そう指摘しようとしたとき、女の子の線の細い手が、私の手をぐっと掴んだ。

「おねえちゃん、ここにいて」

 ぐいと手を引かれ、私はよろめいた。女の子のグレーの瞳に、めらめらと燃える青い炎が見えた――気がした。

「いっしょにいようよ。ここならわたしがいるから、ひとりぼっちにならないよ。がっこうなんて、いかなくていいんだよ」

 そう言って、少女は私を門の向こうへ入れようとする。その手は土のように冷たい。振り解こうとしても振り解けない。こんな小さな子供の手なのに。  どうにもできなくて、あともう数ミリで爪先が門の向こうに入ってしまうというそのとき、私はレオを呼んだ。

「レオ!」

 叫ぶように呼ぶと同時に、私の影が揺れ、噴き出すようにレオが現れた。

「きみはほんとうに不用心だな、ミーナ」

 仕立ての良い三つ揃いに上等なステッキ。頭は獣のような異形でも、私をからかうような声は優しい。  レオは手に持つステッキの先で、地面をカツンと叩いた。門の向こう、お屋敷の扉が大きく開き、その中から蔓が飛び出してくる。飛び出した蔓は少女に巻きつき、あっという間に少女をお屋敷へ引きずり込んだ。  ハッと我に返ると、私はレオ抱きかかえられるようにして路地の入口に立っていた。何もかもが元通り。朝の空気も、風の音も、道行く人たちの声も、毎朝聞くそれと変わらない。

「まったくきみは、放っておくとすぐこれだ」

 レオは呆れを含んだ声でそう言うと、私をそっと地面に下ろした。私が見上げると、レオは少しだけ肩を竦めるようにして笑った。

「あ……ありがとう、レオ」 「わたしの役目だから喜んで守るけれど、不可思議なものにすぐ近寄るのはいかがなものかと思うよ」 「気をつけます……」

 私はそう返して、携帯端末の時計を見た。思った以上に時間が経っている。このままだと遅刻は免れないかもしれない。でも、いつもの日常は戻ってきた。

「……行ってきます」

 レオは無言でうなずき、煙のように消えた。それを見届けて、私は学校へ向かって走り出す。  さっきの路地を振り返ることは、もうなかった。


Day40.天井を歩く足音

 熱を出すなんて、何年ぶりだろう。夕方まではまだ我慢できていたけれど、夜になって急に頭がぼうっとして、ふらふらして、もうどうにもならなかった。  母が冷たいタオルと水を持ってきてくれて、寝具を整えてくれて、あっという間に私はベッドに押し込められていた。明日が休みでよかった。  母が消してくれたお陰で、部屋には明かりがない。両親ともに気遣ってくれてるお陰で、部屋に生活音が届くことはない。それほど静かな部屋に、ある軽い音がした。  とち、とて、とち。  小さな足音だった。重たい足ではない、音を殺しそっと歩くような、軽くて、でもはっきりと響く音。  はじめは夢を見ているのかと思った。でも耳を澄ませば、確かに聞こえる。私の部屋の天井――屋根裏から聞こえた。

「……何か、いるの?」

 思わずそう口にして、私は半身を起こした。視界が霞んで、喉がひりつく。  そのとき、カーテンがふわりと揺れた。黒い影がすべりこむように現れて、レオがベッドのそばに立った。いつも通りの三つ揃いにステッキ。けれど今日はどこか、少し違う。

「レオ……天井の音、聞こえた?」

 私がそう尋ねると、レオは無言で目を伏せた。

「屋根裏に、何かいるの?」

 重ねて尋ねると、レオはほんのわずかだけ、いつもより返事を遅らせた。

「……あれは昔の、わたしの名残さ」

 ぽつりと呟かれたその言葉は、部屋の空気に沈むように消えていく。

「名残……?」

 首を傾げる私に、レオは少し笑って、それから、どこか遠くを見るような目をした。

「わたしがまだ悪魔ではなかった頃……ちいさな、何の力も持たない生きものだった頃だ。あの屋根裏で、よく眠っていた。いや、あれは……泣いていたのかもしれないな」

 私は黙って天井を見上げる。  とち、とて、とち。  その足音は、悲しいくらいに軽かった。誰かを呼びたいのに声が届かず、ひとりで歩き回っているような音。私は布団の中から、手を伸ばしてレオの袖をつまんだ。彼の黒い服地は、ひんやりしていて安心する。

「寂しかったのね」

 レオは言葉を返さなかった。ただ、私と同じように、天井をじっと見つめていた。  その夜、足音は一晩中続いていた。


Day41.子猫の影

 ある日の午後、家に帰ると子猫の影だけが元気に部屋を走り回っていた。呆気にとられて立ちすくんでいると、影は元気に話しかけてきた。

「ねえねえ知ってる? レオって悪魔は昔、子猫だったんだよ」

 不思議な存在がこんなことを言っているのに、レオは出てこない。おかしいなと思っていると、影は「レオはいないよ!」と元気よく先回りした。

「レオは今、悪魔の仕事をサボりすぎってお説教受けるために地獄に戻ってるよ。だから今いるのはおれだけ!」 「そう。じゃああなた、小さいレオってこと?」 「レオになる前のおれだから、ただのおれだよ!」 「そうなの」

 影の子猫が座れるよう、ベッドに置いていたクッションを床に置き、その影を勧めてみた。影の子猫は「これはどうも!」と元気にお礼を言うと、ぴょんと跳ねてクッションの影に飛び乗った。よかった、影だから影に座るという判断は、間違ってなかったみたい。

「クッションありがと。それよりもさぁ、レオが昔子猫だったって聞いて、いやじゃない?」 「何も嫌じゃないわ。どうして?」 「だって、そばで守ってくれる相手が元子猫だったら、頼りないって思わない?」 「思わないわ。今のレオはとっても頼りになるもの」 「ふーん。……ふーん!」

 子猫は嬉しそうな声でそう言うと、クッションの上でぴょんと跳ねた。そのままくるりと回ったかと思うと、子猫の影は消えてしまった。  どこへ消えたんだろう。もう少し話してみたかったのに。  きょろきょろと辺りを見回す前に、レオが姿を現した。

「何か妙なものが現れなかったかい?」

 レオはたてがみがやや乱れ、急いで来たような風貌になっている。レオがそんな格好をしているのは珍しく、私はくすっと笑ってしまった。

「何もないよ」

 いつも通り、私の日常は何も起こらない。今日の可愛いお客様だって、今はもう、影も形もない。  私がそう言って笑うのを、レオは不思議そうに、どこか不服そうに見て首を傾げていた。


Day42.黒猫が踏んだ影

 夕焼けが赤く染める通学路を、私は家へ向かって歩いていた。いつもより少しだけ遠回りの、静かな裏道。誰もいないと思っていた路地の真ん中に、ぽつんと黒い影が落ちていた。  一歩近づいて、それが猫だと気づく。よく手入れされた、毛並みに艶のある黒猫だった。夕日に目を細め、まるで誰かを待っているように、じっとこちらを見つめている。

「あなた、どこかのおうちの子?」

 軽く声をかけると、猫はのんびりと尻尾を振り、口を開いた。

「お前は、レオと仲良しにゃ?」

 思わず目を瞬いた。猫が喋った。はっきりと、私に向かって。夢の中以外で猫が喋るのは初めてだ。  驚きつつも、私は真面目にレオとの関係について考える。

「ええ……まあ、そうね。仲良しだったらいいな、と思うわ」

 そう答えると、猫の目が糸のように細くなった。

「おれは、あいつの古い知り合いにゃあ」

 そう言って、猫は私の足元にすっと歩み寄る。気づけば、私の影の上に、前足がちょこんと乗っていた。何でそんなことを、と足を浮かせようとして、私は足が動かないことに気づいた。  猫が「にゃはははは!」と高らかに笑う。

「どうだ、動けにゃいだろう!」

 試しに踏み出そうとしても、爪先は影に縫いつけられたよう。上半身の自由はきくけれど、匍匐前進での帰宅は難しそう。

「さぁて、あいつにどうやって吠え面かかせてやろうかにゃあ? にゃーっはっはっは!」

 猫の高笑いが、夕暮れの空に響く。私はこっそりため息をつき、「困ったわね」と辺りを見回した。辺りには何も役に立ちそうなものがない。  じゃあ自分が持っているもので何か役立たないかと、ポケットの中を探る。見つかったのは飴玉一つだけ。  猫を観察する。毛並みには艶があるし、ひげには張りがある。年は若そうだ。だったら、この遊びが好きそう。

「ねえ、見て」

 私は猫に、個包装の飴玉を見せる。猫が訝しげに飴玉へ目をやったのを確かめて、右へ、左へと振ってみせる。猫の目は、飴玉を追いかけ始めた。尻尾が揺れ、姿勢が前傾になる。そのタイミングで私は「それっ」と飴玉を遠くへ放り投げた。  包み紙がきらりと光って落ちていく。猫は縮んだバネが伸びるような勢いで飴玉を追いかけていった。  猫の足が離れたお陰で、私の足も動く。猫と反対方向へ駆け出しながら「レオ」と呼ぶ。息を荒らげた呼びかけに、夕闇の影からするりとレオが現れた。三つ揃いの裾を翻し、ステッキを鳴らしながら私の横に立つ。

「大変だったね、ミーナ」 「ええ、まあ。それより今の猫、本当に知り合い?」

 問いかけると、レオはわずかに目を逸らした。

「……知らないとは、言わないがね」 「ふふ、大変ね」

 そう言って、私はそっと微笑んだ。レオのこと、だいぶわかってきたなあ……そんなことを思いながら、息を整え家までの道を歩いた。


Day43.黒いレースのハンカチ

 夜毎夢に見る、霧の中の一本道。  白く煙る景色の先に、喪服をまとった女の人が歩いている。ゆっくり、ゆっくりと前に進んで、そして決まって黒いレースのハンカチを落とす。

「落としましたよ」と声をかけようとすると、女の人はわずかに振り返る。その顔は、靄がかかったように見えない。  そこでいつも目が覚める。  最初はただの夢だと思っていた。けれど三日、五日、一週間と同じ夢が続くうちに、私の体は重くなっていった。熱もないのに寒気がして、足がもつれるときもある。  レオに相談しようかな。そう思っていた日の夜。  私はついに、夢の中で黒いハンカチを女の人に渡した。手を伸ばすと、女の人はゆっくりと振り返り――その顔が見える前に、霧の中に溶けて消えた。  あれ、と思うと私は喪服を着ていた。黒いレースの手袋、重たく結ばれたリボン、胸元には一輪の白い花。  気づけば周囲には、無数の〝顔のない人影〟が集まり始めていた。彼らは無言のまま、私の背後に並び、葬列のように列を作る。先頭は、私だ。

「い……いや、やめて」

 足が勝手に進み出す。こんな不吉な列の先頭、歩きたくない。歩いた先に、いいことなんて絶対にない。

「れ……レオ!」

 私は叫んだ。いつものように、私だけを守ってくれる悪魔の名前を。  その瞬間、霧を割るように黒い影が現れた。レオの手が、私の手を取った。ステッキの先が地面を叩く音が響き渡る。

「もっと早く呼びたまえ」と彼は言ったけれど、私は答えられなかった。

 そして、朝。  目が覚めた私は制服に着替え、鏡の前で髪を整える。顔色はまだ少し青ざめていたけれど、それでも学校には行けそうだった。  通学路の途中、ふと、足が止まった。  夢で何度も歩いた、あの霧の道とまったく同じ風景が、目の前に広がっていた。季節外れの霧が、足元を白く覆っている。そしてその先に、喪服を着た女の人が。  私は息を呑んで、そっと目を伏せる。けれど、女は私に気づかないまま歩き去っていった。まるで最初から、私の存在など見えていなかったように。  女の人が見えなくなってから、震える足で先へ進む。ふと、足元に落ちているものに気づいた。  黒いレースのハンカチが――霧に濡れて、しっとりと冷たくなっている。  私はハンカチを拾わなかった。  ただ立ち尽くして、レオを呼ぶこともできないまま、しばらくその場を離れられなかった。


Day44.泣いている石像

 ふと立ち止まったのは、風がひどく冷たくなったからだっただろうか。校舎の裏手にある旧校舎。長い間使われておらず、蔦が絡まり、窓は板で打ち付けられている。その屋根の端に、私はそれを見つけた。  口を開けてこちらを睨むように伏せたガーゴイル。ただその目元だけが、妙に濡れて見えた。雨なんて降っていなかったはずなのに。

「……泣いてるの?」

 小さく呟く。返事はなかったが、何かに見つめ返されている気がして、その日は踵を返して帰った。  次の日も、同じ時間に旧校舎前に立った。ガーゴイルはやはり濡れていて、陽に照らされたその顔にはきらりと光る雫の跡があった。風が吹くたび、どこからか嗚咽のような音がして、思わず空を見上げた。  次の日も、そのまた次の日も、やっぱり同じだった。放課後になると、なぜかその場所へ足が向いてしまう。  泣いている理由を知りたい。ガーゴイルが誰かを待っているように思えて、放っておけなかった。  数日が経ち、満月の晩。私は夢を見た。  夢の中の空は濃い紫色で、旧校舎の周りには霧が流れていた。屋根の上では、ガーゴイルがじっと佇んでいる。  けれど、いつもの石の彫像ではなかった。硬い羽を持ち、人の言葉を話す、灰色の獣の姿をしていた。

「……ずっと見張っていたのに」

 その声は、少し掠れていた。

「見つけられなかったんだ。声も、顔も、名前も。みんな……」

 何を探していたのか。誰を待っていたのか。私が問いかけようとした瞬間、夢は霧に飲まれ、目が覚めた。  朝。校舎へ向かう足が、旧校舎へ向かう。呼ばれているような気がした。見届けなくてはいけない気がした。そう思って旧校舎へ向かい、ガーゴイルが佇んでいた場所へ行くと――そこにガーゴイルはいなかった。  屋根の下、地面に転がった瓦礫の中に、砕けたガーゴイルの頭があった。翼も、顔も、ばらばらになっていた。

「あなたが泣いていたのは、誰のため?」

 そう尋ねても、答えはない。  誰かのために心を砕き泣き続けたガーゴイルを思いながら、私は破片をそっと撫でた。


Day45.花食む悪魔

 夢の中、私は一人で花咲く野原を歩いていた。風はなく、空は柔らかく曇っていて、どこまでも静かだった。足元には見たことのない花々が咲いている。  スミレのような、タンポポのような、けれど香りはライラックと雨粒を混ぜたような、淡いにおい。  しゃがみこんで、ひとつ摘んでみる。茎は思ったよりも細く、折れるときに小さくぽきりと音がした。

「懐かしいな」

 不意に声が聞こえた。顔を上げると、レオがいた。いつもの三つ揃いだけれど、今日はステッキがない。

「昔は、よくここで散歩をしたものだ」 「レオが?」 「ああ。もちろん、一人きりでじゃない」

 冗談みたいに聞こえたけど、レオの目はいつもどおり真面目で、それでいてどこか遠くを見ているようだった。  私が覚えていないことを、レオはときどきこんなふうに語る。私と昔に会っていたことを、ほのめかす。聞いてみれば、レオは答えをくれるだろう。けれど私は知るのが怖くて、「そう」とだけ返すのが精一杯。  花を両手に抱えながら、私はレオの横に腰を下ろした。

「昔来た時は、ここでなにしてたの?」 「昼寝をしたり、妖精を追いかけたり、空を見たり」 「穏やかな時間を過ごしてたのね」

 私は摘んだ花を膝の上に並べ、茎を編み始めた。花冠なんて、もう何年も作っていない。けれど夢の中の手は思っていたよりもするする動いてくれた。

「できた」

 出来映えは上々。これを自分で被る――のは少し恥ずかしくて、レオに差し出した。レオはそれを素直に受け取ってくれたけど、頭に運ぶことはなかった。  白い手袋をはめた手が、優雅に花びらを一枚むしる。その手は口元へまっすぐ移動し、牙の並ぶ口がわずかに開かれる。そしてレオは、クッキーでも囓るような気軽さで、花びらを食べた。  驚き声も出ない私の前で、レオはゆっくりと花びらを噛みしめる。うんうんとうなずき、嚥下し、そして目を細めて一言。

「実にきみらしい味だ」 「ど、どういう意味……?」

 なぜだか頬が熱くなる。だって、レオの動きがあんまり優雅だったから。だって、あんな可憐な花の味を『きみらしい』なんて言うから。  私の問いにレオは答えず、ただ楽しげに目を細めるだけだった。  そのとき、どこからか鐘の音が聞こえた。いつか聞いたことがある気がするけれど、思い出せない音だ。  私はもう一度レオに「どういう意味?」と聞こうとしたのに、唇がうまく動かなかった。  そして、目が覚めた。  見慣れた天井、いつもの枕の感触、窓の外では鳥が鳴いている。夢だとわかっていたのに、心臓はドキドキと早鐘に変わっている。  私は瞬きをしてから、一つ深呼吸をした。夢の中のレオの言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 ――実にきみらしい味だ。

 その意味は、今日一日かけて考えることにしよう――そう決めて、私は身支度をするためベッドから起き上がった。


Day46.踏み出せない階段

 私の家は両親とも共働きで、学校から帰っても誰もいないことが多い。誰もいないリビングに「ただいま」を言って、自室へ戻るため階段へ向かった。  階段の下に着き、上がるために足を一歩踏み出す。が、一段目に足が乗らない。踏み出しても、階段を上がることを拒むように足が動かなくなる。もう一度、そっと爪先で触れるようにしてみても、やっぱり足は木の感触を捉えない。

「……レオ」

 私の悪魔を呼べば、私の影がゆらりと揺れて、煙のように彼が現れる。

「階段が……上れなくて」

 困りながら現状を説明すると、彼は眉をひそめてすんっと鼻を鳴らした。

「どうやら上に〝人ならざる客〟が来ているようだ。邪魔されたくないらしい」 「客?」 「ちょっとした通りすがりさ。気まぐれな存在が、きみの部屋を使いたかったんだろう」 「何で私の部屋で……」

 レオは肩をすくめて笑うだけで、それ以上は教えてくれなかった。  仕方なく、私は階段下の廊下に座って、鞄からノートを取り出して宿題を始める。たまに階段を上れないか確かめるけど、やっぱり足は乗らない。  何分、何十分、待っただろう。突然、「あ、もう大丈夫」とわかった。階段の一段目に足を乗せれば、足はしっかりと木の感触を覚えた。

「どうやら、宴はお開きになったようだ」 「そうみたいだね」

 廊下じゃなくてリビングで宿題をすれば良かった、と体の痛みに後悔を覚えながら、階段を上がる。部屋のドアを開けて、私は言葉を失った。  枕は床に転がって、さらに床には見知らぬ花びらが山盛り。カーテンは外れかかっていて、何かの羽の残骸が引っかかっていた。空気にはどことなく甘い香りが漂っている。

「な……何これ」 「どうやらパーティーをしていたようだね」

 レオは涼しい顔。一方私は、青ざめてるはず。

「この片付け、私がやるの……?」

 彼は答えない。ただ笑って、部屋の影にまぎれていく。私はがっくりと肩を落として、掃除道具を取りに階下へ戻った。  レオに頼めば、掃除なんて一瞬で終わる。でもそれは何となく、いけない気がした。  ため息をつきながら、私はまず、花びらを掃くための掃除を取り出したのだった。


Day47.星の降る音

 その音が聞こえたのは、何の前触れもない静かな夜だった。眠りに沈む直前、小さな音がした。ガラス玉が床に転がるような、銀のスプーンがティーカップを叩くような、そんな響き。  私は重い瞼をわずかに開けた。部屋には私しかいないはずなのに、枕元に光るものがあった。  淡くきらめくそれは、小さな星の欠片のよう。  半分眠ったままの私は、それを「美味しそう」と思ってしまった。  そっと指先でつまみ、口に入れてみる。  ……甘い。  お砂糖みたいな、でもほんのり冷たくて、口の中でふわりと溶ける味だった。  それから私は、夜が来るのを楽しみにするようになった。落ちてくる星の欠片は一晩に一つだけ。微かな音を立て、そっと枕元に落ちてくる。私はそれを丁寧に拾って、小さな瓶に詰めることにした。集めた星は、コンフェイトのように光って、静かに息をしているようだった。  瓶が半分ほど埋まった頃だった。ある夜、眠る前に瓶の中からカラカラと音がした。見れば、星の欠片たちが静かに震えている。  どうしたんだろう、と瓶の蓋を開けてみる。すると目を刺すような光が漏れ、私は思わず目を瞑った。  何かが瓶の中から飛び出していく気配を感じた。そしてそれらが、花のように光を弾けさせるのも。私は目を開けることなく、ぱたりとベッドに倒れ込んだ。  その夜、私は自分が何を見たのかうまく思い出せない。けれど目が覚めたとき、胸の奥がぽうっとあたたかかったのは確かだ。  瓶は空っぽになっていて、枕元にはうっすらと光る粒がさらさらと残っていた。それはまるで、「さよなら」と書かれているようだった。  瓶が空っぽになったことを残念がる気持ちは微塵もない。満ち足りた気持ちだけが、私の胸のなかで明るく|瞬《またた》いていた。


Day48.足音だけの存在

 学校帰りのいつもの道は、少しだけ肌寒かった。西の空が茜に染まっていて、影が長く伸びている。影を見下ろしながら歩いていると、後方から自分のものではない足音がこつ、こつ、こつ、と聞こえていた。  私に合わせるような足音に気味の悪さを覚え振り返っても、そこには誰もいない。風も止まっていて、木々も静かだ。

「……誰か、いるの?」

 声に出したら少し怖くなって、慌てて口をつぐんだ。

「怖がる必要はない」

 呼ぼうかと悩んだそのとき、レオが煙のように現れた。「あれは〝見守りさん〟の足音さ」と当然のように言う。見守りさん? そんな名前、聞いたこともない。

「姿はないが、子供を守る存在だ。怖がらせて早く家に帰らせるという、子供思いなんだかそうでないんだかわからないやり方でね」

 レオの口調は冗談めかしている。けれどそれは、本当のような気がした。  私はもう一度、静かな道を振り返った。やっぱり誰もいない。けれど、こつ、こつ、こつ、と足音は聞こえ、遠ざかっていくのが確かにわかった。

「……また明日ね、見守りさん」

 そう呼びかけたら、足音は少しだけ早足になって、そして――ふっと消えた。レオが小さく笑う。

「照れたようだ」 「照れるんだ」

 笑いながら、ホッとする。今日も、何も起きなかった。それが、なんだかとても嬉しかった。


Day49.いないはずの人

 祖父が亡くなってから、私は度々書斎に入るようになった。遺品整理を手伝うというのは建前。古い本の匂いや、使いかけの万年筆、読めない字で書かれた分厚い本の山に囲まれていると、祖父がまだこの世に留まっているような気がするからだ。  今日も学校帰り、部屋に戻らずそのまま書斎の扉を開けた。窓の隙間から西日が斜めに差し込んで、机の上に柔らかい影を落としている。  埃はきれいに拭いてあるのに、この部屋だけ空気の密度が濃い。時間が留まっているような、静かな重みがある。  私はゆっくり歩いて、机の前の椅子に手を伸ばした。深い緑の布張り。肘掛けは手の形にすっかり馴染んでいて、祖父の姿がそこに重なる。  ふと、背もたれに触れた指先が止まった。

 ――あたたかい?

 ほんのわずかだけれど、誰かがさっきまで座っていたような、そんな温もりを感じる。  私は静かに目を閉じた。意識の奥に触れるように、祖父の声や姿を思い出してみる。  読書する姿。カップを置く小さな音。私の描いた絵をなぞる手。  手を離せば、きっとこのあたたかさも消えてしまう気がして、私は椅子の背にそっと手を預けたまま、しばらく佇んでいた。  やがて陽がもう一段傾いて、部屋の光がうっすら琥珀色に染まる。

「また来てもいいかな」

 そう呟いた声が、空気にゆっくり溶けていく。もちろん、返事なんてない。だけど、なぜだろう。誰かが微笑んでくれたような、そんな気配だけが、確かに漂っていた。


Day50.誰かの夢を拾う

 学校から帰り、玄関の鍵をポケットから取り出そうとして、私はふと足下の光に気がついた。夕陽に照らされた石畳の上に、何かが落ちている。  水晶の結晶に似ている。けれど淡く揺らめくように、青、紫、金、桃と――見るたびに色が変わっていく不思議な結晶だ。  何だろう、と思って拾い上げる。ガラスのような冷たさのそれは、おもちゃには見えない。

「誰かの落とし物かな……」

 ぽつりこぼすけれど、わざわざ家の前まで来てこんなものを落とす人が思い浮かばない。近所の子供たちはこの家を「魔術師の家だ!」と怖がって近寄らないし、大人たちは「大魔法使いの家だ」と恐れて滅多に近寄らない。  私は結晶をポケットへ入れた。お父さんたちに聞いてみて、二人に心当たりがなければしばらく玄関に飾ろう。  そう思っていたのに、私は二人に結晶のことを打ち明けられず、自室まで持って行ってしまった。それほどに結晶に魅せられ、惹かれていた。

「うう、ごめんなさい。明日になったらちゃんと二人に心当たりがないか聞くから、今晩だけは眺めさせて……」

 そう言い訳して、私は勉強机で結晶を眺めた。ライトで照らせば、夢見るような色の光が結晶から溢れる。ただ手のひらに転がしているだけでも、結晶は角度で色を変え、本当にきれいだった。眺めるだけで、随分時間が過ぎてしまうほどだった。  やがて眠る時間になって、私は慌てて就寝の準備を始めた。結晶はどこに置くか考え、結局、枕元に置くことにした。  電気を消して、ベッドに潜り込む。そのまま眠りに落ちた私は、不思議な夢を見た。  私は夢の中の、現実と少し違う自分の家の前に立っていた。私は玄関前で、結晶を手に載せ立っている。私の前にいるのは、郵便局の制服に似た服を着る男の人だった。胸元には『夢配達人』の文字。  帽子で顔が影になったその人は、申し訳なさそうに私に手を差し出した。

「あなたが拾った結晶は、あなたではない別の人の夢です。ぼくがうっかり落としてしまったものでして……。返してもらえませんか」

 そのままだと膝をついて懇願しそうな勢いに、私は慌てて結晶を配達人へ返した。

「私こそ、落とし物を拾ったままにしてごめんなさい」 「ああ、よかった。ありがとうございます。これはきっと、正しい届け先へ届けます」

 配達人がそう言って受け取ると、結晶は万華鏡のように光の色を変え、そのまま宙に溶けていった。  配達人が、はにかみながら笑う。

「あなたにも夢を届けます。どうか、楽しみにしていてくださいね」

 私は何と返事をしたんだろう。そもそも、返事ができたんだろうか。気づけば私は目を覚ましていて、枕元からは結晶が消えていた。残念な気持ちは、なかった。

「私のところにもあんなきれいな夢が来てくれるのかな」

 少し楽しみな気分でベッドから起き出す。  今日もいつもと同じ、学校へ行かなきゃいけない朝。けれどほんの少し、胸がときめく朝だった。


Day51.黒いリボン

 ある休日のこと。祖父の遺品の中には古いアルバムがあって、そこに写る祖母の髪にはいつも黒いリボンが結ばれていた。今日の髪型に悩んでいた私は、祖母を真似て黒いリボンで髪を結うことにした。  部屋で一人四苦八苦しながらリボンを結んでいると、音もなくレオが現れ「懐かしいね」と鏡越しに言った。

「ハンネもよく黒いリボンを選んでいたよ」 「そうなの。アルバムでいつも黒いリボンを結んでいたから」 「アルバムに載せた写真の外でも黒いリボンだったよ、彼女は」

 口ぶりからして、レオは祖母とも交流があったらしい。私だけの悪魔なのに、私以外とも交流があった――それも女の人と!――なんて、面白くない。  拗ねる私に気づいてか気づかずか、レオはさらりと「きみはハンネ似だね」と宣う。ますます拗ねた私はレオを振り返り、結った髪を見せた。

「これ、私とおばあちゃんと、どっちが似合う?」

 きょとんとしたレオは、珍しいことに「ははは!」と声を上げて笑った。

「ヤキモチかい、可愛いミーナ」

 まさしく図星だった私は否定もできず、頬が熱を持つのを感じながら「もういい!」と声を荒らげリボンを掴んだ。そのまま解こうとする手を、白い手袋をした手が止める。

「ハンネのリボンはトレードマークだったよ。ミーナのリボンは……そうだな……。あえて言うなら、愛らしい」

 今度は、耳まで熱くなってしまった。私は俯き、「ずるい」とぽつり呟くのが精一杯だった。  俯いた頭上では、まだレオの笑ってる気配がする。けれど私は、耳の熱が引くまで顔を上げられなかった。


Day52.左手だけ冷たい

 閉館時間まで図書館にいたせいで帰りが遅くなった、ある日のこと。「変な人に会うから通っちゃダメ」と言い聞かせられてきた暗くて狭い路地を、近道に選んでしまった。  そこで鉢合わせたのは、覆面を被った二人組。一人は手にハンマーを、もう一人はナイフを持っていた。

「おい、ここ誰も通らねえんじゃなかったのかよ!」 「俺が言ったんじゃねえよ!」 「どうする?」 「どうするも何も」

 ナイフが光る。ハンマーが振り上げられる。立ちすくみ声も出ない私の前に、獅子頭の紳士が吹き上がる煙のように現れた。レオだ。

「きみは人間相手にも不用心なんだな、ミーナ」

 レオはそう言うと、自分を認識すらしていない二人組に向かってぱちんと指を鳴らした。路地に響いた指の音が消える前に、覆面の二人組は姿を消した。

「次からは近道にこんな道を選ぶんじゃ――」

 ないよ、とレオは言いたかったんだろう。でもレオは、言葉を止めた。目を見開き、私を見ていた。私がほろほろと涙をこぼしていたせいだ。

「助けてくれてありがとう、レオ」

 今まで怖い目には何度も遭ってきたけれど、こんなにも直接的な怖い目は初めてだ。足が震えて今にも崩れ落ちそうな私を、レオが支える。  私はしばらく、レオの胸で泣いた。  泣き止む頃には月が昇っていて、レオの影が私のそばにくっきりと浮かび上がっていた。いつもの私なら恥ずかしがってすぐ離れていただろうけど、この日の私はまだ怖さが勝っていて、レオに「家に着くまで手を繋いでて」とお願いしてしまった。レオは「きみが望むなら」と手を差し伸べてくれたのだけれど……。

「……そういえば、レオのこの手袋の下は、どんな手なの?」 「気になるなら見せてもいいが、面白いものではないよ」

 そう言ってレオは、ゆっくりと手袋を脱いだ。  手袋の下は、たてがみより淡い色のもふもふした毛の生えた手があった。手のひらを返してもらえば、そこには黒い肉球もある。触れてみれば、驚くほど冷たい。

「悪魔だからね」とレオは笑い、私の手から自分の手を抜こうとした。

「こんな手では不安だろう。もう手袋をつけていいかい?」 「そんな、そんなことない。レオが嫌なら無理強いしないけど、私はこの手と手を繋ぎたいの、レオ」

 私の懇願に、レオは「そうかい?」と首を傾げながらも手袋をつけるのはやめた。それからそっと、私の手と自分の手を絡ませる。  月明かりの下、私とレオの影がくっきりと映る。それが嬉しくて、私はさっきの恐怖も忘れて鼻歌交じりに家路を歩いた。


Day53.貝殻

 ある休日のこと。買い物帰り、子供に「おとしましたよ!」ときれいな巻き貝を差し出された。

「ありがとう。でも私じゃないわ」

 そう言って首を振ると、「じゃあきれいだからどうぞ」と手渡された。子供からの厚意をむげにも扱えず、私はその貝殻を受け取った。  手のひらの貝殻は、ひやりと冷たかった。  その日の夜、寝る準備をしていて、机の上に置いていた貝殻のことを思い出した。

「貝殻を耳に当てると、波の音が聞こえるのよね」

 最後に海に行ったのは何年前だったか。記憶を呼び起こしながら、月明かりの下、ベッドの上で貝殻を耳に当ててみた。  寄せては返す波の音。その向こうに、囁くような声で「ミーナ」と聞こえた気がした。  貝殻から耳を離すと、貝の中から羽を生やした小さな人が飛び出してきた。顔立ちが、今日出会ったあの子供に少し似ているような気がした。

「こんばんは、ミーナ。ぼくは海の妖精!」 「ええと、ええ、こんばんわ、妖精さん」 「何か願いはなぁい? もちろん海に関することだよ!」 「そうね、それなら……海が見たいわ。小さい頃に行ったきりだから」 「おやすいごようさ!」

 妖精がくるりと回ると、ベッドの下から水が噴き出し、部屋が海になってしまった。色鮮やかな魚が泳ぎ、時に踊る。

「まあ、すごいわ」

 思わず手を叩き賞賛すると、妖精はにこにこ笑って私の手に止まった。  「ぼくね、ミーナのことがすごく気に入ったんだ。海が見たいっていうのが願いなんだから、ミーナは海が好きだよね? これからは海がいつでも見れるよ、ぼくが連れてってあげるから!」

 部屋の中の海に、イルカの影が混じる。あれに私を乗せるつもりだろうか。妖精はにこにこしながらまたくるりと回ろうとする。私は慌てて「レオ!」と叫んだ。  魚影の中から立ち上る煙のように現れたレオは、上等なステッキで海面をぱしゃんと叩いた。  潮が引くように海はベッドの下へ吸い込まれ、私の手の上にいた妖精は舌打ちを残して姿を消した。部屋に残った海の名残は、あの貝殻だけだった。  ため息をついたレオが言う。

「そろそろ叱るべきかい、ミーナ?」 「そうね、そろそろ叱られるべきかもしれないわ」

 しょんぼりと肩を落とす私に、「もう今夜はお休み」と言って頭を撫でた。大人しく毛布を被りながら、私は一度だけレオに言い訳した。

「あんな妖精が出てくると思わなかったの。本当よ」 「きみはいろんなものに好かれてるという自覚を持った方がいいね」 「難しいわ、そんなの」

 唇を尖らせ、私は拗ねながら毛布に潜った。毛布の外では、レオが笑ってる気配がする。

 ――明日からもう少し気をつけようかな。でも気をつけてたって、向こうからやってこられるとどうしようもないじゃない。

 そう思いながら、私は瞼を閉じたのだった。


Day54.夜空の蕾

 いつものように不思議なことがあって、レオに助けられたその帰り道のこと。私はいつものように「ありがとう」と言って、彼は「お安い御用さ」と返し隣を歩く。そのときにふと、彼の胸元に見慣れないものがあるのに気づいた。  レオの胸元には小さな蕾が一輪、ちょこんと挿されていた。まだ固く閉じられたそれは淡い青色で、香りは感じられない。

「どうして蕾を挿してるの?」

 尋ねればレオは「ああ、これは」と白い手袋をはめた指先で蕾をつんとつついた。

「夜空の蕾を手に入れてね。珍しいから、きみに見せようと思って」

 レオは私の前に現れていない間、何をしているんだろう? 尋ねてみたくなったけれど、深入りするのはやめておいた。

「今日の夕方、庭へ出てわたしを呼んでごらん。いいものを見せてあげよう」

 レオがそう言うから、私は夕方を楽しみにした。  それから夕暮れを待って、私は庭に出た。「レオ」と小声で呼べば、つむじ風のようにレオが現れる。  太陽がゆっくりと沈む頃、レオの胸元の蕾が、音もなくふわりと開き始めた。夜空色の花弁が見え出すと、空に一つ、二つと星が瞬き始めた。花弁が開けば開くほど、空は夜色に染まり、星の数は増していく。

「きれいね」と思わず呟く私に、レオは「きれいだろう」とうなずく。本当に、きれいだった。  夜がゆっくりと、私たちを包んでいく。私たちは空がすっかり夜になるまで、じっと佇み、夕と夜のグラデーションを眺めていた。


Day55.お月さま

 一番星が瞬く頃。庭で何かが光っている気がして下りてみると、ころんと丸いお月様が落ちていた。手乗りサイズのお月様を拾い上げると、微かな声でしくしくと泣いているのが聞こえた。

「どうしたの? どこか痛いの?」

 尋ねれば、お月様はわずかに身動ぐ。どうやら「違う」と言っているらしい。泣きすぎて話せないのか元々無口なのか、苦労しながら聞き出せたのは、空へ帰れないということ。  気の毒に思った私は、振り返りながらレオを呼んだ。

「ねえレオ、助けてあげて」 「きみはお人好しだな」

 レオはすでに背後に立っていて、呆れ顔で私とお月様を見下ろしていた。そして呆れ半分嫌々半分といった顔で、いつものようにぱちんと指を鳴らしてくれた。  きらきらと光る何かが、空からくるくると回りながらやってくる。いつかの、私を連れ去ろうとした星屑たちだ。星屑たちはレオに目もくれず、私を取り囲む。

「ミーナ、久しぶり」 「呼んでくれるなんてはじめてだねぇ」 「ミーナを連れてけばいいの?」 「ふざけるな」 「きゃあ」 「こわいこわい」

 私を囲んでふざける星屑たちに、レオが地面を震わすような低い声で怒る。私からパッと離れた星屑たちに、レオは私の手から取り上げたお月様を放り投げた。  星屑たちは、お月様を取り囲むとふわふわ浮かせた。よかった、お月様は空へ帰れそうだ。

「気をつけてね」

 声をかけると、星屑たちが嬉しそうにくすくす笑うのが聞こえた。  群青色が強くなった空に、月が戻る。

「もう落ちちゃだめよ」

 もう一度声をかけると、わかってると言うように、月の明かりが一段と増した気がした。


Day56.紙の鳥

 街に大道芸が来た。広場のあちこちで行われるパフォーマンスを、皆が足を止め、時に喝采をし、時に野次を飛ばし、思い思いに楽しんでいる。  そんな中、離れたところでぽつんとパフォーマンスを行う芸人を見つけた。  彼が見せる芸は、紙で折った鳥を生きているかのように飛ばすもの。ただの紙を折っただけなのに、本物の小鳥のようだった。  これほどすごいパフォーマンスなのに、私以外誰も関心を示さない。芸人のお兄さんも、何だか残念そう。私は必死に拍手を送り、彼の芸が素晴らしいことを伝えた。彼は嬉しそうに笑うと、一度自分の手元に戻した鳥をまた中へ放った。  宙を舞う鳥たちが、私の肩や頭に止まる。くすぐったくて笑ってる内に、鳥たちは私の元へどんどん集まってきた。

「お嬢さんだけだ、私の奇術を見てくれるのは」

 紙の鳥に包まれて、広場の音が遠ざかる。私の耳に、お兄さんの声しか聞こえなくなる。

「私の元でずっとずっと奇術を見ていてください」 「れ――」

 レオ、と呼びたかったのに、口の中に紙の鳥が入ってきて、私は私の悪魔の名を呼べなかった。心の中で何度もレオを呼び、ふと思い出す。 『困ったときはわたしの名を呼ぶんだよ。書くのでもいい。とにかくどうにかわたしの名を内から外へ出すんだ』  レオの声が頭に浮かんだ。でもこれは、いつ聞いたことだろう。いつ、こんな風に言い聞かせられただろう。  思い出せない。何も思い出せないけれど、とにかく今はレオを呼ばなくちゃ。  頭に浮かんだ名前は――『レオス・テネブラエ』。私は自分の腕に爪を立て、頭に浮かんだ名前を書いてレオを求めた。  つむじ風が起こり、紙の鳥が私から離れていく。つむじ風の中、煙のようにレオが現れた。お兄さんにはレオが見えていないらしい。散り散りに飛んでいく鳥を呼び戻そうとするお兄さんへ、レオが白い手袋をはめた手を向ける。

「よくもわたしのミーナに紙なぞ食わせたな」

 炎のように燃えるレオの目。それを見たきり私は意識を失って、気がついたときには家にいた。

「レオ?」

 呼べば「何だい?」と穏やかな声。

「今日――」 「忘れなさい、ヘルミーナ」

 有無を言わさない声に思わず黙り込む。けれど一言だけ、言わずにいられない。

「助けてくれてありがとう」 「……きみを守るのがわたしの役目だ。気にしなくていい」

 怪我さえしなければね、とレオは肩をすくめた。でも照れているのか、滅多と揺れない尻尾が今日はゆらゆらと揺れていた。


Day57.消えかけた境界線

 休日の、ある午後のこと。庭の片隅に、細かい模様が描かれた石が並んでいるのに気づいた。模様というよりも、文字に見える。こんな不思議なもの、祖父関連以外に考えられない。

「レオ、これはおじいさまが?」

 振り向き尋ねれば、当たり前のように背後に立っていたレオが「そうだよ」とうなずく。

「ヴィルヘルムが、小人たちにこちらへ来させないための境界線を作ったんだ」 「随分薄れかかってるわ」 「きみが望めば書き直し方を教えるけれど、どうする、ミーナ」

 私は少し考え込み、再びレオに尋ねた。

「小人って……何をするの?」 「何をしたか、ではなく?」 「やっぱりいいわ、聞くのが怖くなっちゃった」

 書き直し方を教わり、薄れた境界線を補強することに決めた。インクの材料を集めるのに苦労したけれど、祖父の遺品やキッチン、庭をよく探すことでどうにか作ることができた。  石に書かれた文字を上からなぞり、一安心したその夜だ。私は夢を見た。小人が悔しそうに地団駄を踏んでいる夢を。

「あともうちょっとで、ミーナのところに行けたのに!」

 甲高い声が悔しがるのを聞き、私はベッドから飛び起きた。窓枠に飛びつき、月が照らす庭を見る。  石はちゃんと、午後に並べたとおり並んでいる。動いたりしていない。きちんと、境界線の役割を果たしている。  書き直して良かったとホッとして、私はもう一度ベッドへ潜り込んだ。


Day58.夢で会う

 夢の中で、アルバムの中でしか見ない幼い自分と出会った。幼い自分は庭仕事でもしていたのか、小さなスコップを持ち土だらけの格好で私を見上げていた。

「どーしておもいださないの?」

 それは何のことだろう、なんて、考えなくてもわかる。

「思い出せないの」

 首を振る私に、幼い私は「ちがうよ」と頬を膨らませる。

「ちゃんとおもいだそうとしてないんだよ」

 確かに、その通りだ。思い出せば静かな毎日を送れない気がして、それが怖くて、私は思い出そうとする自分を押し込めている。  私の考えは幼い私に伝わるようで、土だらけの私は首を傾げた。

「なんでしずかなのがいいの? レオとか、ヴォロスとか、もふもふでおもしろいよ?」

 ヴォロスって誰、と聞き返しそうになって、私は口をつぐんだ。聞いて思い出せば、静かな日常が一歩遠のく。  それにしても私はなぜここまで静かな日常を愛するのか。思い返せば明確な理由が自分の中になく、私は「そうね」とうなずきながら困り果てた。

「静かな方が……何も起きない方が、平和でいいと思って」 「そんなのおもしろくないよ! へんなの」 「そうね、変ね」

 くすっと笑うと、幼い自分も「うふふ」と口元を隠して笑った。それから「あ」と残念そうに声を上げた。

「もうめがさめちゃう。ねえ、おきてもわすれないでね、はなしたこと」 「ええ、なるべく」 「ぜったい!」 「うーん、じゃあ……絶対」

 約束だよと、幼い自分が靄の向こうに消えながら言う。約束ね、と返す前に、私は目を覚ました。  ベッドから身を起こし、夢の内容を反芻する。抜け落ちた部分はないように思う。夢は簡単に思い出せるのに、あの時分の自分が思い出せない。いや、思い出せないのではなく――。

「思い出すのは、やっぱり怖いわ」

 今日も何も起こらない一日でありますようにと祈ってから、私は学校へ行く支度を始めた。


Day59.夢の中の

 庭でお茶会をする夢を見た。テーブルには、小さい頃仲の良かった友達以外にもたくさんのお客がいた。  妖精に、小人に、巨人に、精霊に、星に、月に、狼に、それからレオ。

「お砂糖は何杯、ミーナ?」

 そう尋ねるのは小さい頃の友人で。

「ミーナ、こっちにお菓子があるよ」

 そう手招くのは妖精で。

「ヘルミーナ、今日はお招きありがとう」

 そう挨拶に来るのは天体で。  客人たちはみんな、てんで好き勝手に私に話しかけてくる。私はそれが嬉しくて、話しかけてくる客人たち一人一人ににこにこ笑顔を返した。

「お砂糖は二杯ほしいわ」 「お菓子は後で回してもらうわね」 「こちらこそ来てくれてありがとう」

 返事をしながら、しみじみと幸せを噛みしめる。こんなにたくさんのひとに囲まれて、たくさんのひとに好意を向けられて。  ああでも、やっぱりだめ。嬉しさはすぐ、残念な気持ちに変わる。  みんなの目がギラついていく。私を自分だけのものにしようと、周りを出し抜こうと考え始める。

「ミーナ」

 庭ではない遠くから、祖父の声が聞こえた。お茶会の席に祖父はいない。祖父の声が聞こえるのは、家の方角だ。  祖父に呼ばれ、私は席を立った。牽制し合っていた客人たちが、いっせいに私を振り向く。ぎらついた目で「どこへ行くの」「まだまだお茶会は終わってないよ」「主役が席を立っちゃいけないよ」と引き留める。  私は「ごめんなさい」と謝って、彼らの手を振り切って、家に戻った。  家の中に入ると、玄関もなくすぐに祖父の部屋だった。驚いたけれど、夢だからこんな間取りなんだとすぐに納得できた。  部屋では、祖父がいつもの椅子に座っている。

「思い出さなくていいんだよ、ミーナ」

 そう言って私を手招く。

「私もそう思う」

 そう返して、私は祖父の足下に膝をついた。  祖父の手には鍵がある。それを私の額に当て、くるりと回した。  カチリと音が響いて、私は夢から目を覚ます。

「おはよう、ミーナ」

 視界いっぱいにレオの顔が映る。珍しく、レオが枕元で覗き込んでいた。

「夢を見たかい?」

 夢……夢。  何も思い出せなかった。首を振ると、レオは「そうか」と残念そう。  そういえばと額にある違和感を思い出したものの、言わない方がいい気がして、私は黙っていた。


Day60.月色の翼

 朝、学校へ行く支度をしていた時のこと。  鏡を覗き込み、私は自分の背中に月色に光る翼を見つけた。後ろに手を回してみても、羽の感触はない。でも鏡を見れば、私の背中に翼がある。  不思議に思っていると、ぽんっと音を立ててレオが現れた。

「またこんなものを……」

 どこか忌々しげなレオが、私の背中をぱっと払う。それだけで鏡に翼は映らなくなった。

「今のはなぁに?」

 尋ねればレオはやや固い声で「未練たらしい奴の仕業さ」と答えた。

「きみを諦められないものが連れ去ろうとした証だよ」 「羽ってことは、どこかに飛んでいくのね」 「それも空高くね」 「怖いわ」 「翼なら払ったからもう安心さ」

 けれどそれからも翼は何度も生えてきて、その度にレオが現れては払ってくれる。翼は簡単に払えるし消えるけど、段々レオはイライラして始めた。

「あいつは本当にしつこい奴だ」 「心当たりがあるの?」 「ありすぎるほどにね」

 腹立たしげにため息をつくレオに申し訳なさを覚えたある夜、私は夢を見た。レオと、天使のような何かが庭で決闘をする夢だ。私はそれを窓のそばでぼんやり見ていて、二人はそれに気づかない。  私は寝ぼけてぼうっとする頭で、剣を構える二人がまるで中世の騎士みたいだと思っていた。  剣がぶつかる音は不思議と聞こえず、夜の静けさは保たれたままだった。それでも、二人の決闘は激しいものだった。互いに紙一重で躱し合い、急所を狙い合う。  この決闘に勝ったのは、レオだった。天使のような誰かは、レオに憎しみの目を向けながら飛び去っていく――そんな夢を見て、私は目を覚ました。

「レオ、大丈夫?」 「何がだい?」

 平気な顔で平気な声を出すレオだけれど、尻尾の先の毛が平らになっている。レオは気づいていないようだし、気づいていても指摘されたくないだろうから、私は「何でもない」と首を振って朝の支度を始めた。


Day61.赤い実

 学校の帰り道。街角で、色とりどりの果物が山盛りになった篭を抱えた女の子とぶつかってしまった。篭から転がり落ちた果物が、ころころと石畳に広がる。私は謝りながら、大慌てで果物を拾い集めた。  ぶつかった女の子は怒りもせずにっこり笑って、「拾ってくれてありがとう」とお礼を言ってくれた。何て心の広い人なんだろう。  感動すら覚える私に、女の子は手を差し出すよう言った。言われるがまま手を差し出すと、手のひらに赤い実一つ。「これは?」と聞けば、女の子はいたずらっぽく笑った唇の前で、人差し指を立てた。

「おまじないのみ。恋に効くよ」

 女の子の言うことを頭から信じたわけではなかったけれど、別れてからの道すがら、私はそっと赤い実を囓ってみた。  名も知らぬ赤い実は、甘酸っぱくて、胸の奥がほんのり熱くなる味がした。ああ美味しい、とそのまま一つ食べきったと思ったら――胸元のボタンの隙間から、緑の小さな芽がぴょこんと顔を出した。

「えっ。……ええっ?」

 私が慌てていると、つむじ風のようにレオが現れた。私と胸元の芽を見比べたレオは、呆れ顔でため息をついた。

「まったく、また変なもの食べて……」 「へ、変なものを食べたのは、これが初めてだもん」

 拗ねている間にも芽は成長し、小さな赤い花を咲かせる。ああこれは、とレオは何かわかった顔でうなずいた。

「これは、初めての恋をすると咲く花だね」 「えっ……」

 驚く私に、レオは説明を重ねる。

「お相手が誰だか知らないが、初恋は大体破れるものだ。そうすれば枯れるよ」

 初恋の心当たりは一つしかない。私はおずおずと、恋が破れたくない場合はどうするのかを尋ねた。

「……破れる勇気もないなら、どうしたらいいの?」 「それを悪魔のわたしに聞くかい? まあ、そうだな……。恋のお相手に、手でも握ってもらえばいいんじゃないか? そうすれば恋が実ったと花が勘違いして、実を結んで花も枯れるだろう」 「そ、それじゃあ……」

 私は震える声で、震える手を差し出す。

「レオ、私の手を握って」

 レオの口が、ぽかんと開く。目をぱちぱちと瞬かせたレオは、不思議そうに首を傾げた。

「それじゃあミーナ、わたしに恋をしてると言ってるようじゃないか」

 その一言で、私は耳まで熱くなった。気づいたときには「もういいっ!」と大声を出していて、レオを置いて走って家までの道を走り出していた。玄関に飛び込むようにして帰宅した私は自室に閉じこもり、「レオのばか!」とノートに書き殴った。  その一方で置いてきぼりになったレオが、「あれはそういう意味なのか……?」と困ったように尻尾を揺らし立ち尽くしていたなんて、知らない知らない、全然知らないんだから!


Day62.かすれた魔方陣

 祖父ヴィルヘルムの部屋で本を探していたミーナが、床に何かを見つけうつむいた。

「ねえ、レオ」

 呼ばれて姿を現せば、ミーナはかすれた魔方陣を指さした。

「こんなところに変な模様の四角形がある」 「ああ、それはヴィルヘルムが――」

 書いた魔方陣だ、と言いかけてわたしは口を閉じた。首を傾げるミーナを見つめながら、あの日を思い出してしまったせいだ。  ミーナはあらゆる人外から祝福を受け、人外たちから欲されるようになった。連れ去られそうになるだけならばまだ幸いと言えて、ひどいときにはその場で存在を食われそうになる。  孫可愛さに馬鹿なことをしてしまった、と悔いるヴィルヘルムは、ミーナの中にある人外たちとの記憶ごと祝福を封じる決断をした。そのときの魔方陣がこれだ。  魔方陣の中で大人しく座り絵を描くミーナに、ヴィルヘルムが封印の呪文を施す。わたしはヴィルヘルムの隣でそれを見ていた。あらゆる人外が拒まれる中、わたしだけが〝庇護者〟としてミーナのそばにいることを許された。

「天使は穢れなき魂をすぐ天井へ連れていきたがるから信用ならん」

 そう言って、悪魔のわたしを〝庇護者〟に選んだのだ。  記憶を封じられたミーナは、わたしのことが見えなくなっていた。だがそれでも構わなかった。ヴィルヘルムとの契約で、彼が死ねばミーナがわたしの契約者となる。そうすればまた、わたしをあの瞳に映してくれるとわかっていたから。

「レオ?」

 ミーナの声にハッと我に返る。わたしは「ああ、」と言葉にならない言葉をもらし、魔方陣がヴィルヘルムのものだと続けた。ミーナはしげしげと魔方陣を眺め、わたしを振り向く。

「何だかこれ、見たことある気がする」

 あるだろう、あるだろうとも!  そう言いたいのを堪え、わたしは「そうかい?」と誤魔化した。  早く思い出してくれ、ミーナ。封印は解けつつある。幼少の記憶すべてとは言わない。せめて、せめてわたしのことだけでも。  口に出せない気持ちを込めて見つめているとも知らず、ミーナは床に書かれた魔方陣を眺めたり触れたり、子供のような好奇心を示しているのだった。


Day63.貝と蝶

 ある日の放課後のことだった。この日の空はどんよりと曇っていて、なぜだかそれが印象的だった。  家に帰るには少し早い気がして、私は小道をふらりと曲がり、その先にある雑貨屋へ入った。古くて、少し埃っぽいけれど、時々宝物が見つかるお店で、祖父の生きていた頃から行きつけのお店だ。  この日見つけたのは、白くて少し青みがかった小さな二枚貝。内側は虹色に輝いていて、まるで光を閉じ込めているみたいだった。  値札はついていなかった。小さいし、値段のつけられないほど古いものなのかもしれない。

「これ、ください」

 店主のおじいさんは黙って微笑み、囁くような声で硬貨一枚分の値段を告げた。

 その日の夜。私は月明かりを頼りに、あの貝をそっと開いてみた。ぱたりと、貝が開く。開いた貝はゆっくりと羽ばたき、薄青い蝶へと変身した。  月明かりの下、蝶は優雅に部屋を舞う。私はあまりにきれいな蝶に見蕩れてしまい、蝶が自分に近づいてきたことも、胸元に止まったことも、気にも留めなかった。  蝶が胸元に止まったとき、私は急な眠気に襲われ、そのままぱたりと目を閉じてしまった。  そして私は、夢を見た。  夢のの私は、異国の土地の森にいた。風は甘い花の匂いを運び、青い木々の間を空色の蝶が舞う。知らない誰かと手をつないで、私は笑う。手を取り合って、踊って、ずっと楽しい気持ちでいた。  ふわふわして、あたたかくて、懐かしかった。目を覚ましたとき、私はどれだけ残念に思ったか。

「また変なものを拾ったのか?」

 朝の支度を終えた頃、レオが呆れ顔で現れそう言った。「また」の部分に引っかかりを覚えたけれど、無視することにした。

「変なものなんか拾ってないわ」と鞄を携え廊下に出る。

「夢を見せてくれる貝を買ったの。蝶になるのよ」

 私はそう言って笑ったけれど、レオの目は鋭く眇められ、何か言いたげだった。結局レオは何も言わず、私も何も返さず、朝食を取るべく階下へ下りた。

 それから毎晩、貝は蝶に変身し、私は夢を見るようになった。けれど日を追うごとに、目覚めたときに身体が重く感じ、意識が霞むようになった。あの貝のせいだとはわかっているけれど、私は貝を開くのをやめられなかった。

「ねえミーナ」

 ある日夢の中で、あの蝶に似た青い髪の少年が私と踊りながら言った。

「今きみは、とても寂しい思いをしているだろう? こっちへおいでよ。みんなきみを大好きだよ」 「それは……」

 答えきらないうちに、何かに引き上げられるようにして目を覚ました。  枕元にレオがいる。月を背負って、私を見下ろしている。

「ミーナ」

 レオが厳しい口調で言う。

「その貝はただの貝じゃない。もうわかっているだろう?」 「でも、でも……とってもきれいで、楽しいの」 「だからってそんな夢に浸ってばかりで生きられない」 「意地悪なこと言うのね」

 レオが何か言いかけたけれど、私は背を向けて布団に潜った。

 その次の夜だった。蝶はとても大きくなっていた。私と同じくらいの大きさにまで膨らんで、私をそっと包み込んだ。  強烈な眠気と、浮遊感。

 ――ああ、飛べる。夢の中へも、どこまでも。

 そう思った瞬間。

「悪趣味な真似はやめろ」 ぱちん、と指の鳴る音。私を包む蝶の羽が、音もなく散った。続けて、ステッキを打つ音がドンと響く。

「ミーナを連れて行かせはしない」

 レオの怒った声が、静かに響く。蝶の姿は見る間に萎びて、あの薄青い二枚貝に戻った。  私はベッドの上で、まだ少しぼんやりしながらレオを見上げた。レオは物言いたげな顔をして、それから呆れたようにため息をついて、私にそっとシーツを掛けた。

「夢は夢だ、現実じゃない。その線引きを忘れないことだ」 「それを、悪魔のあなたが言うのね」

 拗ねた私がそう言うと、レオは微笑んだ。

「そうだとも。何せわたしは、きみの〝庇護者〟だからな」 「おやすみ」とレオが呟く。

「おやすみ」と私も返して、目を閉じる。  今度はもう、何の夢も見なかった。


Day64.話す植物との会話

 ある朝のことだった。

「オイラよぉ、知ってんだぜ」

 窓際からそう話しかけられ、私は着替えの手を止めた。振り向けば、窓際に鉢植えが置いてある。自分で置いた覚えはない。けれど可憐な花が咲く鉢植えだった。  そこから、べらんめえな訛りが聞こえてくる。

「な……何を……?」

 恐る恐る訪ねる私に、花は声を潜めた。

「あんた……寂しいんだろぉ?」 「……そ、そう、ね」

 寂しいか寂しくないかで言えば、寂しい。友達が一人もおらず、いとこたちとも折り合いが良くない。大好きな祖父も土の下で眠ってしまい、今の私は……あれ、今の私って、こんなに寂しかった?  ぐるぐると考え込む私に、花は「植物の生はいいぜぇ」とプレゼンを始める。

「日の光を浴びて、水を飲んで、それで生きてける。楽だぜぇ、植物。いいぜぇ、植物」

 私は「そうね」と答えながら、おずおずと切り出した。

「えぇと、あの……その……あなた、話せるのね」 「おうよ、話せるぜ!」 「えっと、いつから……?」 「今朝からだぜ!」 「……れ、レオぉ」 「これはさすがにわたしも対処できないな」

 現れたレオに泣きつき、花をどうにかしてくれと泣きつく。

「何だか怖いの、喋るのに合わせて揺れ動いてるのぉ」 「何だぁ? 植物が動いちゃいけねってのか? 差別だ差別! ヘイトだヘイトぉ!」 「いっそ燃やそうか」 「燃やさなくていいから庭に移して……」 「そうしよう」 「あっ、何すんだライオンちくしょうめ! オイラまだまだお嬢ちゃんと話し足りねえんだ、離せっ、下ろせえぇ~」 「……それにしても、誰が私の部屋に鉢植えなんか置いたんだろう?」

 私の呟きは誰にも届かず、時計の秒針が進む音だけが部屋に響く。一人きりになった今のうちにと、私は着替えをそそくさと済ませた。


Day65.夢の庭園

 季節がちぐはぐな庭を、わたしは今日も歩く。  右手には春、左手には冬。目の前の草むらには秋の落ち葉が重なり、その向こうでは夏のひまわりが揺れている。花の香りも、土のにおいも、陽射しも風も、ここにはすべてある。すべてあるのだが、それはどれも、本物ではない。  この庭は、ミーナの心がかたちになったもの。正確に言えば、彼女の記憶が眠っている庭だ。ミーナの祖父、大魔法使いヴィルヘルムが封じた。  祝福されすぎた彼女を、過剰に愛される呪いにかかった彼女を、人外の者たちは欲した。可愛い孫を人外の手に渡すまいと、ヴィルヘルムはミーナの祝福を記憶ごとこの庭に隠し、それらを色とりどりの花で覆った。わたしは彼女の〝庇護者〟であり、この庭園の番人だ。  時折、ミーナは夢の中でこの庭園に訪れる。そこでの彼女は私を思い出していて、幼い頃にした約束を恥ずかしがったり、学校での出来事を私に話す。  だが目を覚ませば、彼女は何も覚えていない。ヴィルヘルムの封印は、そう簡単に解けはしない。  思い出すにはまだ早いだろう。ヴィルヘルムが死んでまだ一年も過ぎていない。だがいつか、ヴィルヘルムの封印が緩み始めるいつかが来れば、ミーナはわたしとの約束を思い出すだろう。  それだけでわたしは、どれほどだって待てると思った。


Day66.忘れるための砂時計

 今日は少しだけ、胸の奥がざらざらする日だった。放課後の教室で、誰かが囁いた「またあの子、空気読めてないよね」が、私の中でいつまでも反芻される。帰り道はよく晴れていたけれど、私の影は地面に沈み込んでいるようだった。  家に帰り、部屋に戻る。ベッドに倒れ込む私の頭上から、穏やかな声が聞こえた。

「おかえり、ミーナ。今日は……疲れた顔をしているね」

 私は黙って顔を上げ、レオを見上げた。レオは私の返事を待つ。けれど私は返事をしない。  レオは少し困った顔をしたあと、くるりと手を回して、何もない空間から小さな砂時計を取り出した。  手のひらにすっぽり収まる、木目が美しい古いもの。中にはきらきら光る淡い金色の砂が入っていた。

「これは、忘れたいことを消してくれる時計だよ。砂を落とせば、その記憶は君から静かに抜け落ちる。痛みも、涙も、なかったことになるはずだ」

 砂時計を受け取って、じっと見つめる。傾ければ砂はさらりと動く。  これを逆さまにすれば、あの言葉も、教室での空気も、全部なかったことにできる。  私はそっと時計を傾けようとした。けれどその時、レオと目が合った。  いつも通りの柔らかな瞳。けれど、どこか静かな哀しみのような色が見えた。  レオは何も言わない。ただ、私が選ぶのを待っているようだった。

「……やっぱり、やめる」

 私は時計をレオの手に戻した。

「忘れなくていいの。少し苦しくても、全部私の一部だから」

 砂は、傾けてももう動かなかった。まるで私の決意のよう。  レオはくるりと手を回して時計を消すと、隣に座って肩を抱いてくれた。

「きみはよくやってるよ、友達がいない割にね」 「レオってほんと、意地悪」 「何せ悪魔だからね」 「もう」

 涙が滲みそうになるのを誤魔化すように、私は少しだけ笑った。  窓の外では、雲がゆっくりと流れている。静かで、優しくて、確かに息をしているような時間だった。  今日、私はつらいことがあった。でも、こうしてレオといると、明日も頑張れる気がする。  それだけで十分だと思えた。


Day67.星の小径を

 最近、不思議な夢を見るようになった。天の川を顔のない紳士と共に歩く夢だ。顔のない、と表現するのは語弊がある。彼にはきちんと顔があるのだけれど、その顔は黒く塗り潰されて見えなくなっているのだ。  私と紳士の間に言葉はない。星でできた小径を、ただゆったり歩くだけ。  夢を見るたび出発地点は変わる。時に紳士に手を引かれ、星々の上を歩く。目を覚ますと、不思議と懐かしい安心感が残る。  だけどレオは、私が機嫌良く目を覚ませば覚ますほど不機嫌そう。

「きみは本当に、浮気者だな」 「な、何のこと……?」

 レオは返事もせず、ぷいとそっぽを向いたかと思うと消えてしまった。戸惑いつつ、私は朝の支度をした。  その日の夜も夢を見た。  いつも通り、天の川を紳士と歩く。いつもは何も言わない紳士が、この日初めて口を開いた。

「ヘルミーナ。わたしを覚えてくれているか?」

 しゃがれた声が、私の名前を呼ぶ。私は反射的に一歩後ろに下がった。反対に、紳士は私のほうへ前進する。星の粒を踏みしめる音が、やけに大きく聞こえた。  紳士が黒く塗り潰された手を伸ばす。

「思い出せなくてもいい。共に行こう、ヘルミーナ。夢のような星の世界を、わたしと共に」

 紳士の手が私の手首を掴んだ。振り解こうとしても恐ろしいほど力の差があって、振りほどけない。  レオ、と呼ぼうとした瞬間、紳士の手がぼとりと落ちた。

「それ見たことか」

 不機嫌そうな声が聞こえたかと思うと、逞しい腕に抱きかかえられ、浮遊感を味わった。落ちた紳士の手は、宇宙の闇に塗り潰されてもう見えない。紳士が手を押さえながら、黒く塗り潰された顔をレオへ向ける。

「忌々しい、獅子頭の悪魔め……」 「顔のない悪魔より幾分ましだ」 レオの不機嫌極まりない声。その声が聞こえたことに何よりも安心感を覚え――気づけば私は、自分のベッドの上にいた。  天井の模様が、夢の星の小径と重なる。ゆっくりと呼吸を整える。冷たい汗が首筋を伝った。その割に、心は落ち着いていた。

 ――ああ、夢だったんだ。

 そう思うと、少しだけほっとした。  あの紳士の手の感触はまだ消えないけれど、レオの声も、私を包んでいた感触も、確かに覚えている。

「ありがとう、レオ」

 誰もいない部屋で、小さく呟く。返事はない。けれどきっと、聞こえてる。

 ――今夜はこのまま、夢を見ずに眠れますように。

 そう願いながら、私は毛布を引き寄せた。


Day68.やきもち

 屋根裏で見つけたのは、小さな宝石箱だった。手のひらに収まるほどのサイズで、丁寧な細工が施されている。軽く息を吹きかけて埃を払うと、金属の蝶番がゆっくりと軋んで開いた。中には、褪せたモノクロ写真と、小さな銀のプレートが入っていた。  写真は、若い頃の祖母のもの。その隣に並んだプレートには、見覚えのある紋章が刻まれていた。レオのスーツの胸元にいつも刺繍されている、あの意匠とよく似た、あれ。

「……何、これ」

 心臓が、少しだけ早く脈打った。祖母とレオって、もしかして……?

 その夜、私はベッドの上にちょこんと宝石箱を置いて、意を決してレオに呼びかけた。

「ねえ、レオ」 「何だい、ミーナ?」

 音もなくレオは現れ、こん、とステッキの先をついた。今日もいつもの三つ揃いに、上等なステッキ。尻尾の先まで毛並みの手入れが行き届いている。  私はそっと、レオに宝石箱を差し出した。

「これ、屋根裏で見つけたの。おばあさまの写真と……これが入ってたの」

 レオの金色の目が、瞬かれる。その反応が面白くなくて、私は畳みかけるように質問を重ねた。

「やっぱりレオって、おばあさまと仲が良かったんじゃないの?」

 私の問いかけに、レオは少し首を傾げた。

「ハンネと? どうだろうね。彼女は〝見える目〟を持つ人だったから、多少の交流はあったが」 「ふぅん……」

 つい、唇が尖る。それを見てレオが喉の奥で笑う。

「どうもきみは、わたしが女性と関わるのが面白くないらしいね」 「そ、そんなこと! そんなこと……」

 抗議の言葉は途中で萎んで、小さな声になった。レオはおかしそうに、けれどどこか優しく笑う。

「出会ったときにはもう既婚者だったよ。わたしも彼女も、互いに何の感情もなかった」 「だって! じゃあどうして、こんなもの……」

 私は宝石箱を指差して問い詰める。レオは肩をすくめた。

「さあ? お守り代わりじゃないかい?」 「お守りになるの?」 「これはハンネじゃなくて、夫であるヴィルヘルムの仕業だろう。彼女の目が見えすぎないよう、寄ってくる魑魅魍魎をわたしの紋章で追い払ってたのさ」 「……虫除けスプレーみたいな使い方をしてたのね」 「そう思ってくれて構わないよ」

 レオは嬉しそうにニヤニヤ笑っている。私が「なに?」と聞けば、レオは「いや……」と口元を隠した。

「きみもずいぶん、わたしに懐いてくれたものだと思って」

 私はレオを問い詰めたことが急に恥ずかしくなって、レオに宝石箱を押しつけベッドへ飛び込んだ。

「そんなんじゃないのっ!」

 それだけ言い捨て、顔を隠す。毛布に包まれ何も見えない私の耳に、レオの声が柔らかく響く。

「おやすみ、ミーナ」

 無視しようと思ったけれど、優しい声で「おやすみ」を言われると、反射的に返事をしてしまう。

「……おやすみなさい」

 蚊の鳴くような声だった。毛布の中、私は誓った。次に屋根裏で変なものを見つけても、今度こそ放っておこう――と。


Day69.雨の中の傘

 雨の日の登校中、校門の近くに浮いている傘を見つけた。誰もいないのに、風もないのに、傘はその場に静かに佇んでいる。傘の下には、濡れた足跡が一つだけあった。  その夜、私はレオを呼び出した。

「レオ、聞いて」 「何だい、ミーナ」

 朝見たものをレオに話すと、「ああそれは、忘れられた子の傘だよ」と当たり前のように説明された。  忘れられてしまった子。そこにいるのに、みんなから忘れられてそのまま消えてしまった誰か。

「何だか私みたい」

 祖父のことや噂から、誰にも話しかけられない私。明日校門前にあの傘があったら話しかけようと決めて、私は眠りについた。  そして次の日。  雨はまだ降っていて、私は自分の傘を差して登校した。校門前では、あの傘がふわりと浮いている。私は傘に近づくと、そっと「おはよう」と声をかけた。誰の声も返ってこないけれど、うなずくように、傘が微かに揺れたような気がした。

「私、あなたのこと忘れないよ」

 それから私は毎日、朝と帰りに傘に話しかけた。返事はない。けれど傘は微かに揺れたり、上下に動いたりする。きっとそれが返事なのだろうと思って、私は話しかけるのをやめなかった。  それから一週間ほどが過ぎた日。校門前に着く頃には雨が止み、晴れ間が覗いた。いつものように傘に挨拶しようと思ったら、あの傘はもう、浮いていなかった。  代わりにそこにあったのは、小さく可愛らしい白い花だった。雨に濡れた花は、雫をこぼすように揺れていた。  私はそっと花のそばにしゃがみ込む。

「もう寂しくなくなったよってことかな」

 静かに笑って、立ち上がる。ふと耳元で、風に紛れて、誰かの声がした気がした。とても小さな、でも優しい、「ありがとう」という声。  私も小さな声で、「どういたしまして」と返した。


Day70.夜の郵便屋

 朝のこと。カーテン越しの光に目を細めながら、ふと窓辺に目をやる。そこには一枚の便箋があった。窓縁に、まるで誰かがそっと置いたように。  窓を開け、それを手に取る。薄い青色の便箋には、宛名も差出人もなかった。ただ、便箋の真ん中に一言。 『会いたい』  誰からだろう? どれだけ記憶を手繰っても、思い当たる人はいない。

「行き場をなくした言葉を、集めて届ける者がいるんだよ」

 背後から聞こえた声に振り返ると、レオが立っていた。いつもの仕立てのいい三つ揃いに、上等なステッキ。朝の光が眩しいのか、金色の目がしぱしぱと細められている。

「レオ、知ってるの?」 「まあね。この世では、時折言葉が行き場をなくす。誰にも届かず、誰にも拾われない。そういう言葉を、夜の郵便屋が集めては配るんだ」 「でもこれ……私に届いていいものだったのかな」 「そう思うなら、もう一度旅に出てもらおうか」

 レオはそう言って、私の手から便箋を取ると、器用に折り目をつけ、すっと紙飛行機を折り上げた。そしてそのまま、窓の外へと腕を伸ばす。

「行っておいで」

 風に乗った紙飛行機は、驚くほどまっすぐに飛んでいった。高く、高く、空の青に吸い込まれるように。

「これで誰かのところへ届くだろう。あるいは、『会いたい』という気持ちが本当に届けたかった相手に届くかもね」

 私はしばらく、その飛行機の軌跡を目で追っていた。ただの紙切れなのに、どうしてあんなに綺麗に飛んでいくんだろう。

「ねえ、レオ。もし私が、言いたかったことを言い逸れたら……」 「そのときは、夜の郵便屋が拾ってくれるさ」

 レオの目はどこか遠くを見ていた。まるで、今日もどこかで言葉を探している誰かを見守っているみたいに。  私は小さくうなずいて、窓を閉じた。空は、少しだけ朝の色を濃くしていた。


Day71.光らない星

 雨が降る午後のこと。私は祖父の部屋で読書をしていた。一冊を読み終え片付けようとしたとき、棚の隙間に古くて埃をかぶった本を見つけた。  タイトルはかすれて読めず、祖父も開かなかったような古書だった。取り出してページをめくると、ころりと何かが落ちてきた。拾い上げると、それは死んだように白い星だった。  光らず、声もなく、ただそこにあるだけの冷たい星。  不思議に思って、私は「レオ」と呼んだ。つむじ風のように現れたレオは星を見るなり、「ああこれは」と目を細めて呟く。

「これは終わった星だね」

 私はつい首を傾げた。

「願いを叶える星じゃなくて?」

 そう問う私にレオは首を振り、静かに微笑んだ。

「これは願いの終わりに残る。叶ったも願い、叶わなかった願い、どちらの最後にもぽつんと残るものだよ」

 そしてこれは、誰にも見つけてもらえないことが多いらしい。けれどこれがあると、おしまいまできちんと辿り着いたという証になるそうだ。  私はしばらく黙って星を見つめた。白い星は、どこかあたたかく感じた――ような、気がする。すると胸の奥で、もう終わってしまった小さな願いが蘇ってきた。

 ――いつか、誰かとの仲直りが叶わなかったこと。

 ――諦めてしまった、画家になりたいという夢。

 ――時間とともに色褪せた、近所のお兄さんへの憧れ。

 思い出すたび、ぽろ、ころ、と白い星が床に落ちた。それを拾い上げ、最初に見つけた星をつまみ上げる。

「こっちは誰の星なのかな」

 呟く私に、レオは「きみのものではないのは確かだ」と答える。何でも知ってるレオにすら思い出してもらえないのだ、この星は。  私は白い星をそっと手のひらに置き、「お疲れ様」と声をかける。その瞬間、白い星はふっと淡く光った。ほんの一瞬、まばたきほどの時間だけだけれど。一瞬だけ瞬いた星は、もう二度と光らなかった。  手のひらの上に転がしながら、私は呟く。

「終わったって、なんだか寂しいね」 「終わったからこそ、次に進めるんじゃないか」

 そうは言っても、やっぱり寂しい。けれどレオの言う『新たな旅立ち』を後押しするように、窓の外では雨が止み、太陽が顔を出していた。


Day72.揺籃歌

 眠る前、灯りを落とし布団に潜り込んだときにそれはやってくる。音とも声ともつかないそれは、寄せては返す波のような、柔らかな旋律のような響きが、耳の奥に触れる。  初めは気のせいかと思った。けれど数日も続けば気のせいではないとわかる。これは誰かが、何かが、歌ってる。けれど歌の意味はわからない。どれだけ必死に耳を澄ませても、言葉を掴めないからだ。

「レオ」

 眠る前、ベッドに腰掛けながらレオを呼んだ。レオはいつも通り、音もなく、煙のようにゆらりと現れる。「何だい?」と優しい声で尋ねられ、私は「あのね」と話し出した。

「夜になると、声がするの。歌のような、でも何の言葉も言ってないような……」 「ああそれは」とレオは言う。

「子供にしか聞こえない、夜の精の子守歌さ」 「子守歌?」 「眠りの精たちが、夜の縁に座って歌ってるんだよ。目覚めてしまえば、もう聞こえなくなるだろう?」

 確かに、目を覚ませばもう聞こえなくなる。  とにかくこれは怖いものではないようで安心した。私はレオに礼を言って、その日も言葉のようで言葉ではない歌を聴きながら眠りについた。

 それからも私は、毎晩歌を聞きながら眠った。まるで揺り籠の中にいるようで、眠りは深く、夢も優しい。ただ不思議なことに、夜が静かであればあるほど、その声は遠のいていくように感じられた。  そして、ある晩。  布団に潜り、いつもの歌が聞こえるよう耳を澄ました。けれど、何も聞こえない。夜の空気は静かすぎるほど静かで、鼓動の音ばかりが大きくなる。  私は寝返りを打ち、枕をぎゅっと抱きしめた。けれど、夜は何も返してくれない。

 ――ああ、あの声が、あの響きが、もう聞こえない。

 胸の奥に、ぽっかりと穴が空いたようだった。私はレオを呼び、現れたレオにぽつりと呟いた。

「ねえ、あの声……聞こえなくなっちゃった」

 レオは目を伏せ、それから、ゆっくりと私の頭を撫でた。

「それは、きみが大人になろうとしている証だね」 「……私が、大人に」 「そう。きみも立派なレディってことさ」 「もう、レオったら」

 私は頭から布団を被り、レオの視線から隠れた。そして、耳を澄ませる。やっぱりあの歌は聞こえなかった。

「大丈夫」

 レオの優しい声が、布団越しに聞こえてくる。

「たとえ聞こえなくても、あの歌は確かに聞こえていた。今もきみには聞こえないだけで、歌われているよ」

 レオの言葉に、私は今まで聞いた歌を思い出した。聞こえないだけで、あの歌は今も歌われている。そう思うと、何だか安心できるような気がした。

「……ありがとう、レオ」 「どういたしまして」

 布団越しにぽんと頭を撫でられ、さらに私は安心する。お陰でもう、瞼が重くて仕方ない。私は小さく「おやすみ」を呟いて、夢の縁へ転がり込んだ。  今夜見る夢も、いつも通り優しい気がした。


Day73.笑顔

 いつもの古道具屋は、商店街のはずれの少し傾いた角を曲がったところにある。看板も出ていないし、開いているのか閉まっているのかも曖昧で、気まぐれな猫みたいな店だ。  そんな古道具屋に足が向いたのは、その日の天気が曖昧なせいだったからかもしれない。雨が降りそうで、でもまだ降っていない。そんな微妙な空模様が、私を古道具屋に向かわせた。  からん、と音を立ててドアを開ける。カウンターに店主の顔は見えない。奥から紅茶の匂いがするから、ティータイム中なのかもしれない。  紅茶と埃の匂いが混ざる中で、私はその人形を見つけた。棚の奥の奥、顔だけをこちらに向けている状態だった。  そこにあるのはマリオネットだった。驚くほど精巧な木彫りで、何より気になったのは、貼りついたような笑顔だった。  口角が引きつる寸前で止まっていて、目元も笑っていない。けれど、どこかで見たことのある笑い方。誰かの真似のような。  マリオネットの表情が何だか不気味で、私は何も買わず古道具屋を出た。  その夜からだ。私が笑えなくなったのは。  小さな冗談にも反応できない。好きな本を読んでいても、心が動かない。レオの私を茶化すような物言いにも、返す表情が浮かばない。ただ、「そう」「ふうん」と、気のない声が唇からこぼれ落ちるだけ。

「どうしたの、ミーナ。きみがつまらないと、僕も退屈で仕方ないよ」

 おどけて言う父に、私は「ごめんなさい」しか返せなかった。

「ねえ、レオ」

 夜、自室に引き上げてから私はレオを呼んだ。レオは見えないドアでもあるように現れ、「どうしたんだい」と優しく話を促してくれた。  私は古道具屋でマリオネットを見たことを話してから、おずおずと尋ねた。

「あの人形……もしかして、笑いを盗んだりする?」

 レオは私の顔をまじまじと観察したあと、「そうかもしれない」と顎に手をやった。

「そのマリオネットは他人の笑顔を真似て生きてたのかもしれない。もう役目を終えて古道具屋にいるだろうに、うっかり吸ってしまったのさ、きみの笑顔を」

 レオにそう推測された翌日、私はまたあの店へ足を運んだ。埃はあの日のまま、紅茶の匂いだけがしない。棚の奥のマリオネットは、まるで私を待っていたかのように同じ姿勢でそこにいた。  私はしゃがみこんで、そっと語りかけた。

「返して。笑顔は、私のものだから」

 声は小さかったけれど、はっきりとそう言った。そうしないと、戻ってこない気がしたから。  次の瞬間、不意に人形の顔から笑みが消えた。何もない顔。無表情。ただの木の仮面。それを見た瞬間、私の胸の奥に、ぽっと火が灯るようなあたたかさが戻ってきた。  帰り道、空は晴れていた。鏡のようになった窓ガラスの前で、私はそっと笑ってみる。それはいつもの、私の笑顔だった。


Day74.夢と現実の境界線

 学校帰りのこと。公園前を通ったら、空色のドアが浮いていた。不思議なものに近づく度にいろんな目に遭っている私は、近づく前にレオを呼んだ。

「レオ、あれはなぁに?」

 音もなく現れたレオはさらりと「音のない庭に通じる扉さ」と答えた。そのまま説明を続ける。  レオ曰く、音のない庭はあちらとこちらの境界にあるもの。そこでは心の音しか聞こえない。そこに人間はいないからとても静かだけれど、その静けさに惹かれて戻ってこれなくなることもある。

「戻れなかった人はどうなるの?」 「〝人でない何か〟になる。木や花のようなね」

 それはとても素敵だなと思った。だって私には友達がいないし、これからも作れる気はしない。不思議な目にばかり遭うし、それならいっそ静かな場所で人間でないものになってしまいたい。けれど――。

「近づかなくて正解だった。もし公園に一歩でも踏み込んだら、止めようと思ってたんだ」

 レオが止めようとしたということは、私が向こうへ行くのを望んでいないということ。私がここにいることを、私が私であることを望んでくれる誰かがいるのだから、もう少しこのままでいようと思った。


Day75.クローズドサークル

 学校帰りのこと。校門前で、小さな女の子が困り果てていた。

「おねえちゃん、わたしを助けて」

 不思議なことに「何をすればいいの?」という言葉は浮かばなくて、私は女の子に導かれるまま家とは反対方向へ足を向けた。  歩いて、歩いて、歩き続けて、廃スーパーそばの森のそばで、女の子に小石を渡された。

「これを持って、この中に入って」

 女の子が指で指し示したのは閉じていないサークル。熱に浮かされたように、私はその中に入った。

「その小石で、輪っかを閉じて」

 言う通りにすると、パチッと何かが弾けるような音がした。その音で我に返った私はサークルを出ようとしたけれど、足がサークルから出ない。何度踏み出しても、小石の上で足が止まってしまう。

「やったやった!」

 女の子の喝采が聞こえたと思ったら、その体は幾体もの小さな妖精に変わった。

「ヘルミーナを捕まえたよ」 「ヘルミーナを捕まえたねぇ」 「夜になればヘルミーナを森に連れてけるね」 「夜になるまでここに閉じ込めておかなきゃ」

 夜までなんて待っていられない。けれど小石を退けようとしても、手が弾かれて触れられない。困り果て、私は情けない声でレオを呼んだ。

「れ、レオぉ……」

 レオはいつも通りの姿で現れてくれた。私を見て、妖精を見て、ため息をつく。

「きみの不用心さはいっそ愉快だな」 「そんなに言うなら止めてくれればいいのに……」 「何か言ったかい?」 「何にも」

 レオは持っていたステッキを素早く振り、サークルを形成する一つ、私が置いた小石を割ってしまった。妖精たちから口々に「あっ」「あ!」「あーっ!」と声が上がる。

「もう少しでヘルミーナを連れていけたのに!」 「壊すなんてひどい!」 「おに! あくま!」 「こんこんちき!」 「悪魔に罵声を浴びせるなら、もっと語彙を増やすべきだな」

 そう言ってレオが指を鳴らせば、突風が吹いて妖精たちを吹き飛ばしてしまった。飛んでいった妖精たちを見送ってから、レオがこちらを振り向く。

「さて、帰ろうか」 「うん」 「手を引いて帰るべきかい、リトルレディ?」 「もう、馬鹿にしないで」

 一人で帰れるもん、と頬を膨らます私に、「そういうところはまだ子供だね」とレオは笑う。レオに子供扱いされると、本当に面白くない。次からはもっとレディらしく振る舞うよう気をつけなくちゃと、私はサークルからそっと足を踏み出した。


Day76.露店

 ある日の放課後のこと。いつもの道を歩いていたら、珍しいことに露店が出ていた。そこには様々な形の瓶が並べられている。何が入っているのか聞く前に、店主が口を開いた。

「そこにあるのは『昨日』だよ」

 瓶に詰められたのは様々な『昨日』で、そこにはやり直したい『昨日』もあるらしい。やり直したい『昨日』を買って瓶を割れば『昨日』に戻れるそうだ。

「どうだい、お嬢ちゃん。あんたにもやり直したい『昨日』がたくさんあるだろう」

 ――例えば四つの頃、あんたを巡った大喧嘩とか。例えば七つの頃、あんたを巡って学年会議が開かれたことだとか。例えば十の頃、あんたを攫おうとした男とそれを防ごうとした警官の醜い争いだとか。

 思い出したくもない、嫌な熱の籠もった視線。あれが向けられないようやり直せるのならばやり直したい。やり直したいけれど――。  私は静かに首を振った。

「やり直したい日はたくさんあるけど、私、静かで平和な今が大事なの」 「そうかい。それは残念」

 商品を見せてもらったことに礼を言って、露店の前を立ち去る。しばらく歩いて、私は一度だけ振り返った。  ついさっきまであったはずの露店は、朝露が蒸発したかのように消えていた。


Day77.言葉になる前の手紙

 最近、灯りを消して、ベッドに入ると、風がざわめくような、誰かが呼吸しているような、そんな音が聞こえるようになった。  耳を澄ませば、それは確かに声だった。誰かが小さな声で語りかけているような、小さな声。まるで遠い部屋から手紙を読み上げているようだった。けれど内容はまるで分からない。言葉になっているのか、それすらもわからない。けれど確かに、何かを話している。  最初は怖かった。でもその声がどこか切なげで、けれど優しかったから、聞いている内に怖くなくなった。今ではその声を聞きながら、ゆっくりと眠りに落ちるようになった。  ある日、私はレオに尋ねてみた。

「ねえレオ。最近寝るときにね、声が聞こえるの。誰かが何かを読んでるような……そんな声」

 レオは、私の言葉を途中で遮ることなく聞いてから、静かに言った。

「それはね、言葉になる前の言葉さ。まだ届け先が決まっていない、宛名のない手紙だよ」 「手紙?」 「心の中で形になりつつある想い、飲み込んだ感情、そういったものが言葉になる前にふと漏れ出して、夜の底をさまようんだ」

 その夜、私は夢を見た。どこか懐かしい場所――けれど知らない景色。木漏れ日が差し込む中、見知らぬ人が私に何かを語りかけてくる。口の動きは確かに見えた。でも、やっぱり言葉には聞こえない。  目が覚めると、部屋は朝の光に満たされていた声はもう聞こえない。けれど、私の胸の奥にはあたたかいものが残っていた。きっと昨日の夢では、いい手紙を受け取ったんだろう。そう思うと、今日がいい日になる気がした。


Day78.待ちぼうけの椅子

 カフェの窓際、陽だまりの角に、一席だけぽつんと空いた椅子がある。平日の午後でも、週末の混雑時でも、なぜかそこだけは誰も座らない。

「あそこ、いつも空いてますね」

 入店時にふと呟くと、店員さんが「そうなんですよ」と声を潜めて言った。

「あそこ、眼鏡と杖のおじいさんがよく座ってた席だったんです。晴れた日の午後には必ずいらしてて。でももう、何ヶ月も来てないんですよね」

 病気か、事故か、それとも、そっとこの世界からいなくなったのか。それは誰にも分からない。店側としては彼の指定席にしたつもりはないが、不思議と客は彼の席を避ける。

「不思議なんですけど、あそこに座ったお客さんはすぐ立ち上がっちゃうんですよ。座り心地が悪いとか、居心地が落ち着かないとか言って。椅子が怒ってるんですかね」

 私はその老人の指定席の向かいに腰を下ろし、紅茶と焼き菓子のセットを頼んだ。そこからは通りの石畳が見え、誰かがドアを開けるたび、ベルがやさしく鳴った。

「寂しいわね」

 白い木の椅子は、静かに日差しを受けていた。ほんの少し背もたれが揺れた気がして、私はそのまま話しかけ続ける。

「あなたの待ち人が来るまで、お向かいに座るのを許してね」

 木の軋む音が、優しく答えてくれたように思えた。  そうして私たちは二人で静かな午後を過ごした。会話もない、ただ紅茶の香りと光の揺れる時間。 老人を待つ椅子は、向かいに人がいることで、少しだけ嬉しそうに見えた。  紅茶を飲み終え、美味しい焼き菓子もきちんと食べ終え、私は席を立つ。待ち人が戻らなかったとしてもあの椅子が寂しくないよう、また来ようと決めながら。


Day79.マッチ箱入れ

 骨董市の空気は少し埃っぽくて、古くさい。でも私はこの空気が嫌いじゃない。  街の広場では時々、骨董品の並ぶ日がある。今日もその日だ。  例えば、錆びた鍵。片方だけのピアス。文字の滲んだ手紙。色あせた写真。どの品も何も語らないけれど、物語を抱えている。  私はそれらを眺めながら、ゆったりと歩いていた。  そんな中それが目に留まったのは、たぶん偶然。  見つけたのは小さなマッチ箱入れ。すっかりくすんでいるけれど、丁寧な彫刻で家と木が掘られているのがわかる。手に取ったそれを手放しがたくて、決して安くはない値段を払って家へ持ち帰った。

 そして夜。部屋の灯りを消して、机の上に置いたマッチ箱入れを見つめる。何となく留め金を開けようとした瞬間、隙間微かな光と、カチリ、カチリという小さな機械音が漏れてきた。  開いた中ににあったのは、信じられないほど精緻な歯車の街。風車のような屋根がゆっくりと回り、小さな橋の上を、歯車を背負った小人のような人影が行き来していた。  しかし触れようと指を伸ばすと、光もろともすべてがかき消える。指を離せば、明るさと街の様子が戻ってくる。

「これって……」

 呟く私の背後で、こつりと音がする。振り向けばレオが、ステッキを床について立っていた。

「珍しい物を買ったね。それはとある発明家の夢の残骸さ」 「夢の残骸?」

 レオは「そう」とうなずく。

「夢というものは時々、物の形を借りて残ることがある。これは夜中だけ目を覚ます夢だね。仕上げることのできなかった作品か。発明家の無念が、夢という形で誰にも知られずに動き続けてるのさ」

 その声は静かで、どこか哀れみを感じているようだった。  私はマッチ箱入れをそっと閉じた。音は止まり、光も消えた。マッチ箱を手のひらに載せ、胸元にそっと当てる。見えなくても、誰の目にも触れなくても、この箱に入った夢は続いている。  私は使えないマッチ箱入れを、明日も明後日も、机の上にそっと飾っておこうと思う。


Day80.花びら

 それは風の気持ちいい午後のことだった。散歩に出た私は、休憩がてら公園のベンチに座り本を読んでいた。ページをめくる手を止めたのは、風に乗って落ちてきた、一枚の花びらだ。  ページの上に舞い降りたそれは淡い桃色。近くにこんな色の花が咲いていたかしらと疑問に思う前に、花びらの裏に小さな文字で何かが書かれているのに気づいてしまった。 『会いたい』  文字を指先でなぞってみる。インクではなく、擦り込まれたような柔らかい跡。誰が、誰に向けて書いたのだろう。

「それはね、誰かの深いため息だよ」

 すぐそばで声がして、私は顔を上げる。いつの間にかレオが立っていた。仕立ての良い三つ揃いに、今日のステッキは赤い石がはめ込まれている。  今日は一段とお洒落さんだなぁと思う私の隣にレオは腰かけ、落ちてきた花びらをそっとつまんだ。

「ため息はね、強く吐かれると風に乗るんだ。その風が花びらを散らして、ため息に混ざっていた感情や願いを刻む。きみは受け取りやすい体質だからね。こういったものも届きやすいんだろう」 「……私、誰かに会いたいって思われてる?」 「さあ? 誰かが別の誰かに会いたいと願って、その想いが迷子になってきみに届いたのかもしれないよ。言葉は時々、届くべき相手を忘れてしまうからね」

 レオは花びらを私の手に戻した。私はしばらくそれを見つめ、そばの花壇から一輪、控えめな白い花を選んだ。「ごめんね」と呟き、花びらを一枚ちぎり取る。 『正しい相手に届けて下さい』  爪の先でそう書いて、私は届いた花びらの隣にそれをそっと置いた。レオは何も言わず、ただ微笑んだ。  私たちはしばらくそのまま風の音を聞いて、やがて立ち上がった。風がまた吹いたけれど、今度は何も落ちてこなかった。


Day81.瓶詰め

 学校帰りのある日。公園を通りがかったら、ベンチに小さなガラス瓶がずらりと並んでいた。誰かが並べたにしては不自然なくらい整っていて、一つ一つの瓶には蝶が閉じ込められている。  それはとても奇妙な光景だった。けれど、蝶の羽を休める姿は苦しそうではなく、むしろ心地よさそうに見えた。  私はしゃがみ込み、瓶の一つをそっと手に取ってみた。持ち上げた瓶の下には、折りたたまれた小さな紙片が一つ。広げると、そこには墨のような黒で「晴れ」とだけ記されていた。

「また変なものに手を出して」

 呆れた声と同時に、こつん、と杖を突く音。振り向けばいつもの三つ揃いとステッキを携えたレオが、背筋を伸ばして立っていた。

「レオはこれ、何だかわかるの?」 「それは感情の天気予報さ。蝶は心の色。瓶はそれを一時的に閉じ込めている。そしてその紙は、これからの気分を予報しているってところだね」

 レオはそう言って、ステッキの先で瓶を軽く指し示した。

「そうだな、左から……晴れ、曇り、花曇り、涙雨。きみが持つ瓶を選ぶなら、今日の心は涙雨ってところか。悲しみの雨が降り注ぐよ」

 私はしばらく迷った末、「涙雨」の隣にあった「花曇り」と書かれた瓶を手に取った。中の蝶は、淡い黄。羽の縁が白く、春の空気みたいな色だった。

「それが今日のきみには、いちばん合っているのかもしれないね」

 レオはそう言って、口元に微笑を浮かべて姿を消した。  帰り道、私は瓶をバッグに仕舞い歩いた。時々、風の音と瓶の中で羽ばたく蝶の気配が重なる。遠くの雲の輪郭がぼやけていたのは、きっと本当に、少しだけ花曇りという天気になったのだと思う。  静かな気持ちのまま家路をたどる。瓶の中の蝶は、まだ羽ばたいていた。


Day82.便り

 それは、休日の午後のことだった。 部屋で紅茶を飲んでいたら、窓の隙間から紙の鳥がふわりと飛び込んできて、私のカップを持つ手に留まった。私がカップを机に置けば、鳥は机の上で手紙に変身する。手紙には淡いインクで、こう書かれていた。 『あなたにまた会いたい。何度便りを出しても、あなたは返事をくれませんね』  覚えがない……とは言い切れなかった。先週だったか、学校の帰り道だ。風に乗って舞い降りた花びらに、「会いたい」と書かれていた。まさか私宛てとは思わなかったけれど。  同じく部屋で紅茶と焼き菓子を楽しんでいたレオに手紙を見せる。

「ねえレオ、これ見て。あの時の花びら、やっぱり私宛てだったんじゃ……」

 言いかけたときには、もう遅かった。隣に座っていたレオが指先を軽く動かしただけで、手紙は音もなく燃え上がり、灰すら残さず消えた。

「……レオ、今のはヤキモチ?」

 茶化すように問うと、レオはすっと目を細めて、まるで当たり前のように答えた。

「そう思ってくれても構わないよ」

 その声音があまりにさらりとしていて、かえってこちらが頬を熱くしてしまった。三つ揃いを完璧に着こなした悪魔が、そう無造作に言ってしまうのだから、ずるい。  照れ隠しにカップに口をつけると、レオが少し声を潜めて問うた。

「……それで? 返事は書くのかい?」

 不安が混じったような言い方が可笑しくて、思わずくすりと笑ってしまった。

「宛先がわからないのに、出せないよ」

 そう言って首を振ると、レオはほんのわずかに息を吐いた。安堵の気配。その表情がちょっとだけ嬉しくて、胸がくすぐったくなった。  たまには、ヤキモチを焼かれるのも悪くないかもしれない。


Day83.火のないランプ

 放課後、私は老人の再訪を待つあの椅子がいるカフェの窓際に座っていた。ガラス越しの光がやわらかく、カップの中で紅茶がきらめいている。  ふと、机の中央に置かれたランプに目をやった。古びた装飾ランプだ。銀色の細工が施されていて、ガラスの内側には煤も焦げ跡もない。まるで一度も灯されたことがないような、無垢な佇まいだった。

「そのランプ、どうやっても明かりがつかないんですよ」

 近くにいた店員が、笑いながら言った。

「油も替えたし、芯も新しいのを使ったんです。でもまるで駄目で。いつも誰かが試して、諦めていくんです」

 私は「そうなんですね」とうなずき、そっとランプに視線を戻した。  そのときだった。ガラスの内に、ほんのりと光が滲んだ。小さな明かりだ。けれど、炎ではない。熱もない。  やがてその光の中に、文字が浮かんだ。 『好きでした』  あまりにも小さな、儚い一言だった。思わず息をのむ。声に出すことができなかった気持ちが、どこかで、何かに宿ってしまったのだろうか。  窓の外に目をやる。私の心の中にも、似たような明かりがある。言えないまま、胸の奥に仕舞われたレオへの想い。

「言葉にしたら、燃えたのかな」

 そう呟いた瞬間、ランプの光はふっと消えた。それは炎ではなく、言葉の残り香。灯っていたのは、忘れられなかった想いの形。  私は紅茶に口をつけ、目を閉じた。静かな午後、火のない明かりだけが、記憶のようにそこにあった。


Day84.届かなかった星屑

 夜の帰り道、石畳の隙間で、私はそれを見つけた。一粒の光る砂のようなもの。月明かりのせいかと思ったけれど、拾い上げた手のひらの上で、それは確かに光を放っていた。  不意に、言葉が浮かんだ。声にはならなかったけれど、はっきりと胸の奥に届いた。 『声を忘れたくないと思ったのは、あなたが初めてでした』  知らない誰かの、言えなかった想い。けれどどうしてだろう。自分に向けられたものではないと分かっているのに、胸がちくりと痛む。

「言葉には行き先がある」

 背後から聞こえるのは、聞き慣れた低い声。振り返ると、レオが三つ揃いの影を夜に溶かして立っていた。

「星屑になるのは、それを失ったときだよ。届かない言葉が、彷徨った結果、落ちてくるんだ」

 私は力なくうなずいた。たぶん、これはもう、誰にも届かないのだ。

 次の朝、まだ空気が冷たい時間に、私は庭に出た。拾った星屑を、小さなスコップでそっと土の中に埋める。亡くしたペットを埋めるように、静かに、丁寧に。レオは傍らで何も言わず、ただ見ていた。  あの声が誰の声だったのか、誰に向けられたものか、わからない。せめて私が聞き届けたよと、あなたの想いは私が弔うよと、伝わればいい。  埋め終えて、私は小さく「さよなら」と告げた。


Day85.星の数を数える夜

 星を数えるのが、いつから習慣になったのかは覚えていない。けれどそれは、空に向かってそっと心の内をこぼす行為に似ていた。  その夜も私は、レオと並んで窓辺に立っていた。

「今日の星は、少し多い気がする」

 そう呟くと、レオはふふっと鼻で笑った。月明かりに浮かぶその顔は獅子のそれなのに、どこか優しい。

「数えてどうするんだい。拾えるわけでもないのに」 「でも、数えている間は、いろんなことを考えなくて済むのよ。寂しさとか、不安とか……」

 それでも、心の奥にある願いまではごまかせない。私は手を組み、そっと目を閉じた。声にするほどのことではないけれど、胸の奥にある願いが星に届けばいい。

 ――レオと一緒にいる時間が、ずっと続きますように。

 それが叶えば、もう十分だ。  目を開けると、レオが興味深そうに私を見ていた。私が何を願ったか気になるらしい。  私はもったいぶってレオに尋ねた。

「ねえ、レオ」 「なんだい」 「星って、願いを聞いてくれると思う?」 「たまに耳を傾けるけれど、叶えるとは限らない。だからこそ、願う意味があるんじゃないかな」

 ずるいな、と思った。その口ぶりは、聞いてくれてると言っているようなものだ。  私はひとつ深呼吸をしてから、また星を数え始めた。  数えて、数えて、いつまでも。


Day86.知らない誰かの日記

 屋根裏部屋は薄暗さに加え、埃っぽい空気が漂っていた。雑多に積まれた箱の中から、古ぼけた日記帳を見つけたのは偶然だった。表紙は擦り切れ、祖父が書いてくれたらしい手書きの文字がかすれている。  ページをめくると、そこにはまるで知らない誰かの記憶が刻まれていた。クレヨンや鉛筆で綴られた言葉は、かつての私の感情の断片。けれど、今の私には遠い世界のものに感じられた。  どうして私は、五歳までの幼い自分を覚えていないんだろう。

「見たのかい」

 背後から声がして、ハッと顔を上げる。そこに立っていたのは、いつも通りに上品な三つ揃いのを纏い、獅子の頭を持つレオだった。彼の鋭い目が日記を覗き込む。  反射的に日記を閉じて、私は「いいえ」と答えた。レオは軽く笑ってから、じっと私を見つめる。

「嘘つきだね」

 息を飲んでから、思わず口を尖らせた。

「ええ、嘘つきよ」

 言ってしまった言葉に引っ込みがつかなくて、目を伏せた。屋根裏の薄暗い光のなかで、私の中に何かが静かに揺れた。あの頃の私と今の私――少しずつ重なり合い、溶け合っていくのだろうか。

「ねえレオ」

 ――この日記の記憶、思い出してほしい?

 言いかけて、やめた。レオが笑っていたから。

「何だい、ミーナ?」

 レオの笑みは優しかったけれど、どこか見透かされているようで、私は胸が熱くなるのを感じながら「何でもない」と呟いた。


Day87.朝と夜の隙間

 夜中、重くのしかかるような夢に襲われて目が覚めた。暗闇の中、ぼんやりと揺れる街灯の影。そこに浮かぶ影絵のような人影は、私の名前を囁いていた。なのに顔は見えず、声だけが風に溶けて消えていく。恐ろしさに体は震え、目の奥はじんわりと熱くなる。  もう一度眠ることができず、ベッドから抜け出す。台所で水を飲むと、まだ薄暗い早朝の庭へと足が向いた。普段は夜や早朝に外に出ることなんてない。でもこの日は、確かめたかった。夢は夢だと。  冷たい空気の中、庭の中から外を窺い見る。家の前にある街灯の下には、影が揺れていた。まるで何かを待っているかのように。  風が吹く。木々がざわつく、葉がこすれ合う。その音とともに、影は形を変えずに私を見ている。目を凝らしても姿ははっきりしない。声が風に乗って届くだけだ。

「ここにいるよ――」

 鳥肌が立つのを感じながら、私は立ち尽くした。

「れ、レオ……レオっ」

 小声でレオを呼ぶ。いつもならすぐに現れて、指を鳴らすだけであんな影消し去ってくれた。けれど今日に限って、なぜだかレオは現れない。  何度もレオを呼ぶ。それでもレオは現れない。私は泣きながら家に駆け込んだ。  部屋に戻り、震える声でレオを呼ぶ。すると、いつもの獅子頭の悪魔が三つ揃いを整え、ゆっくりと現れた。私はレオの胸を叩き、涙を溢れさせながら問い詰めた。

「どうして、どうして呼んだのに来てくれなかったの!」

 レオは困ったように首を傾げ、柔らかい声で言った。

「すまない。君の声が届かなかったみたいだ。いつもはこんなことないんだが」

 その言葉にわずかに救われながらも、私の胸の奥にはまだあの影の冷たさが残っていた。あれは何だったんだろう。「ここにいる」って、何を伝えたいんだろう。  まだ暗い窓の外を見つめ、私は荒くなった息を整えるため深く息を吐いた。窓の外を見る勇気はない。  私に外を見せたがるように、風がガタガタと窓を揺らしていた。


Day88.泣かないでと歌う箱

 屋根裏のガラクタ山、古びた箱の中で、私は小さなオルゴールを見つけた。くすんだ金色の蓋には、鳥と花の細工。こんなオルゴール持っていたっけと首を捻りながら螺子ををひねると、少し外れた音色が流れた。  これは子守歌。すぐに分かった。子守歌なのに、どうもこの曲は聞くほど胸が苦しくなる。  あたたかくて、懐かしい。でもどうしてだろう、まるで喉の奥に何かが引っかかったみたいに、息が詰まる。

「それはね」

 背後に、聞き慣れた甘やかで低い声がした。こういったものを見つけると、レオは呼ぶ前に現れる。私は驚きもせず振り返った。

「誰かが泣かないように歌った唄さ」

 レオは、上等なステッキを突きながら、オルゴールの音に耳を傾ける。

「誰が泣くの?」

 私が問うと、レオは「さてね」と肩をすくめる。

「君が知ってるはずだった誰か……もしくは、きみかもしれないね」

 曖昧な言葉で煙に巻き、レオはそれ以上言わない。私はオルゴールを手のひらで包み込むように抱え、音の終わりを待った。終わりかける旋律は、夜の終わりにも似ていた。あたたかいのに、どこか寂しい。  音が止むと、少し泣きそうになった。けれどどうにか泣かなかった。泣いてはいけない気がしたからだ。誰かの代わりに、私が泣かないままでいること――それこそが、この子守歌の願いだと思ったから。  私はオルゴールをそっと閉じる。そして静かに、無音の余韻に耳を澄ました。  そこには、もう誰の涙もなかった。


Day89.夢売り

 昼下がりの市場、花と果実の匂いの間に、妙な甘さが混じった。どこからだろう、と匂いの発生源を探す。見つけたのは広場の片隅、見慣れない露店だった。  布張りの天幕には「夢あります」と、子どもの書いたような字で看板がぶら下がっている。恐る恐る近づき中に入ってみると、そこには瓶がずらりと並んでいた。蜂蜜の瓶より小さなガラス容器の中には、まるで霧を閉じ込めたような色とりどりの夢らしきものが入っている。  それぞれの瓶には小さな札がぶら下がっていて、「安心の眠り」「かつて見た空」「好きだった誰か」といった効能らしきものと値段が記されていた。  その中でひとつだけ、値札も効能も書いてない瓶があった。色も曖昧で、ただ霞んでいるような――眠る前の記憶みたいなものだった。

「それ、売れ残りなんですよ」

 露店の主が言った。ぼんやりした顔立ちで、声も曖昧だ。

「誰にも合わなかった夢って、たまにあるんです。良ければ持っていっちゃってくださいよ」

 私は断りきれず、瓶を受け取ってしまった。

 その夜、ベッドに入ってから瓶を枕元に置いて目を閉じた。  夢の中、私は誰かと並んでキッチンに立っていた。小さく丸い指先、赤い花がアップリケされたエプロン、ぐつぐつと煮えるスープの香り。私より背の低いその子は、笑いながらスプーンを差し出した。私はその味を知っている気がした。  起きたとき、味はすっかり忘れていた。口の中に何も残っていないのに、懐かしさだけが残っている。  起き上がり、レオを呼ぶ。蜃気楼のように空気が揺らめいて、窓辺に腰かけるレオが現れた。

「夢を売るお店で、夢をもらったの」

 レオは当たり前のように「そう」とうなずいた。

「夢は売れるからね」

 獅子頭が笑みを作る。

「きみが見たのは、たぶん、捨てられた夢さ」 「捨てられたのに、どうして私には合ったの?」 「君がなくしたものと、あの夢の誰かが残したものが、たまたま似ていただけさ。偶然ってやつだよ」 「……スープを作ったわ。でも味は覚えてないの」 「でも、温かかったんだろう?」

 私はこくりと頷いた。レオは何も言わず、私の頭をそっと撫でた。空には、夢の名残のような白い雲が、ひとつだけ流れていた。


Day90.薄明かりの下

 通学路の途中にある街灯の柱に、少し色あせたコンサートのポスターが貼られている。バイオリンを構えた若い女性の写真が角からわずかにめくれていて、見過ごしてしまいそうな一枚だ。  けれど夕方、影が長くなる頃になると、彼女の唇がわずかに動く。

「おかえりなさい、今日も疲れた?」

 声は擦れた紙の内側から聞こえてくる。誰にも気づかれないように、小さく、穏やかに囁かれる。初めて聞いたときは怖かったけれど、レオを呼び出して尋ねると、いつものように悠々とステッキを鳴らしながらこう言われた。

「退屈しのぎさ。誰かが通るたびに聞いた言葉を、少しずつ覚えたんだろう。真似してるだけさ」 「随分賢いのね」 「暇を持て余した物は大体そうだよ」 「知らなかった」

 それ以来、私は学校帰りに少し遠回りをして、毎日のようにそのポスターと世間話をするようになった。

「今日は体育があったの」 「美術の先生にまた描き直しさせられちゃった」

 ぽつりぽつりと話しかけると、彼女はいつも一言か二言、相槌を返す。  ポスターの紙は季節の風にさらされ、少しずつ薄れていっている。でも、声は変わらない。  この前、「いつまでここにいるの?」と訊いたら、少し間をおいて、彼女はこう答えた。

「もう少しだけ。あなたがまだ、ひとりで歩いている間は」 「それじゃまだまだいてくれるのね」

 二人で笑い合い、互いに「またね」と言って別れる。家までの道は、ほんの少し明るくなった気がした。


Day91.忘れ物の終着駅

 それは、遠出をした帰り道のことだった。駅前のベンチの下に、手のひらほどのぬいぐるみが落ちていた。くたびれた耳、ほつれかけた足。どこか私を見上げているようで、見捨てるには気が引けた。

「届け先がわかるかい?」 ふいに肩越しに聞こえた声。振り返ると、やはりレオがいた。ライオンの頭に三つ揃い。それから場違いなほど上等なステッキ。

「レオは知ってるの?」 「知ってるとも。それを鞄に入れてついておいで」

 ステッキを鳴らし、レオが歩き出す。私はぬいぐるみをそっと鞄に入れ、レオの後ろ姿を追いかけた。  レオに導かれるまま、町外れの路地を進む。古ぼけたアーケードに差しかかると、そこには見たことのない市場が広がっていた。  人影はまばらで、商品棚にはどれも『忘れ物』と書かれた商品が並んでいた。  鍵、手袋、写真の切れ端。呼びかけても返事のない、誰かの記憶のかけらたち。

「ここは置いてけぼりの終着駅」

 レオがぽつりと言う。

「持ち主が思い出してくれないものは、ここで新しい誰かを待つんだ」

 私は市場の奥にある落とし物箱に、ぬいぐるみを入れた。それは、まるで小さなベッドのようで、ぬいぐるみは嬉しそうに見えた。

「誰かに買ってもらえるといいね」

 そう言って、箱のふたを静かに閉じる。

「帰ろうか」

 レオが言う。

「うん、帰ろう」

 そう返して、私たちは市場を後にした。  帰り道は静かだった。レオは珍しく姿を消さず、私の隣を歩いている。私以外には聞こえない、ステッキが石畳を打つ音だけが聞こえていた。

「あのぬいぐるみ、誰かが買うかな」 「ぬいぐるみはあの市場では人気商品だ。すぐ買われるだろうね」 「そう。それなら、よかった」

 落とし物が持ち主のところに戻ることは少ない。でも、それでも持ち主を待つ場所が、新たな誰かを待つ場所があるのなら、少しだけ救われる。  そんな気持ちで私は宵闇迫る道を歩いた。


Day92.幽霊の遺言

 古道具屋の片隅で見つけた、小さなレコード。タイトルも、ラベルもない。ただ妙に手に馴染むのが気になって、私はそれを買った。  プレーヤーは祖父の遺品の中にある。家に帰るとそれを引っ張り出して、自分の部屋へ持って行った。  レコードをセットし、中に入っている音楽を流す。……はずが、音楽は流れない。回転はしている。けれど音が出ない。入れ直しても音楽が流れることはなく、その日は諦め、また日を改めて考えることにした。  その晩のことだ、ふと目が覚めたのは。夜の気配は深く、窓の外はしんと静まり返っている時間だった。そんな時間に、どこかから音がした。  机の上に置いていたプレーヤーが、勝手に回っていた。  聞いたことのない旋律の向こうに、言葉が交じっている。けれど、内容はどこかおかしい。

「あの時は」「と思ってたんだ」「違う」「愛してる」「ほんとは」「言ったら良かった」「よく晴れてるね」「きみのこと」「ああどうして」

 文法も順序もない、ぐちゃぐちゃな言葉。何を言っているのか理解できないのに、胸がひりつくように痛んだ。

「それは幽霊の遺言だ」

 いつの間にかレオがいた。ステッキの先でプレーヤーを軽く叩き、低い声で囁くように語る。

「誰にも言えなかった言葉を、夜な夜な繰り返してるんだよ。聞いてくれる誰かをずっと待ってたんだろうね」

 私は答えられなかった。声の主を知らないはずなのに、その言葉が、まるで私に向けられている気がしたから。胸の奥に、思い出せない何かが、ひっそりと疼いていた。  レコードは夜しか音を出さなかった。昼間は無音のまま、ただそこにある。私は毎晩それを聴いた。声は、少しずつ確かになっていくようで、けれど最後まで意味は通らなかった。  そしてある夜。  最後の一言が終わったその瞬間、レコードは静かにひとりでに割れた。欠片は音も立てず床に散らばり、そのままふっと、煙のように消えていった。

「ようやく届いたんだろうね」

 レオが言った。

「誰に?」

 私が問うと、彼はただ静かに笑っただけだった。  それきり、プレーヤーは音を立てない。でも私は、あの声を忘れないと思う。言葉にならない想いを、誰かが手放した夜のことを。


Day93.青い鱗

 校庭の隅、金網の根元にそれは落ちていた。それは花束だった。白い紙に丁寧に包まれていて、明らかに誰かに贈るつもりだったはずなのに、くしゃくしゃに潰れたまま、誰にも拾われずにいる。  そっと持ち上げてみる。可憐な水色の花がいくつも束ねられていたが、ひときわ光るものが花弁の間に混じっていた。それは小さな、銀の鱗だった。

「海で交わされた約束の名残りだね」

 不意に声がして、レオが私の影からするりと現れた。獅子の頭に三つ揃い、そして上等そうなステッキ。場違いなくらい優雅な姿だ。

「海の? でもここ、内陸なのに」 「昔の約束はね、風や夢に乗って、時々こんなところまで流れ着くんだ」

 レオの口ぶりは冗談とも本気ともつかない。けれど私は、その鱗の冷たさに確かな記憶の匂いを感じた。塩のような、涙のような。  瞬きをしたとき、不意に花束が軽くなった。驚いて手を開くと、そこにいたのは一匹の小さな魚だった。  花の色をそのまま映したような、青白い魚。手のひらの上でくるりと身をよじったかと思うと、音もなく、すうっと空気にとけるように消えてしまった。  私はただ、見ているだけだった。何も言えなかった。  残ったのは、ほのかな潮の香りと、手のひらに残る一輪の蕾だけ。

「約束は果たされたんだろうね」

 レオが静かに言う。風が吹いて、校庭の埃を巻き上げる。空は淡い灰色。もうすぐ雨が降りそうだ。

「果たされたのに、捨てられてたの?」 「あるいは、手放すことで果たされたのかもね。悲しいようで、ちゃんと美しい別れもある」

 そう言って、レオは再び影の中へ姿を消した。私は蕾を大事に鞄へ仕舞い、門に向かって歩き出す。  潮の香りはまだ、指先にほのかに残っていた。


Day94.花を運ぶ鞄

 学校帰り、通い慣れた舗道の端で、ふと目に留まったのは、型の古い鞄だった。革製で、所々擦れていたけれど、まだ充分使えそうな品だった。道の真ん中に落ちていたわけでもない。けれどどうにも気になって、私はそっと拾い上げた。  念のため中を確かめると、小さな花が一輪、奥に静かに置かれていた。咲いているわけではない。だが、萎れているのでもない。まるで「咲きかけ」のようだった。茎はしっかりとして、花弁はまだぎゅっと閉じたまま。柔らかく、でも凛としていた。  見つめていると、頭上から甘やかで低い声が降ってきた。

「それは咲かせられなかった誰かの夢だね」 顔を上げれば、獅子頭の三つ揃いを着た悪魔がそこにいる。腰を屈め、一緒になって鞄の中を見ながらレオは言う。

「想いを秘めたまま、言葉にもならず仕舞いこまれた夢は、時折こうして形になる。咲く前に、忘れられてしまったものだろうね」 「何だか、寂しいね」 「寂しいかどうかはともかく、そうして落とし物を覗き込んでるきみは非常に怪しい。早く交番にでも届けることを勧めるよ」 「い、意地悪……」

 私は慌てて鞄を閉じ、近くの交番へ鞄を交番に届けた。中は冷たくて、乾いた紙の匂いがした。制服の警官は手際よく内容を確認し、手帳、財布、鍵――と、事務的に項目を読み上げていく。  けれど、どこにも「花」のことは書かれなかった。私が中を開けて見せても、警官は首を傾げただけだった。  そのまま、鞄は預かりの棚に収められた。きちんと封がされて、他の無数の忘れ物と同じ列に並ぶ。その静けさの中で、私は小さく祈る。

 ――持ち主が戻ってきたとき、あの蕾が、あの人の手の中でそっと咲いてくれますように。

 交番から出てきた私を、レオが待っていた。

「咲かぬまま、永遠に仕舞われてしまう夢もある。それでも、それを拾う者がいたということは……たぶん、それだけで十分なんだろうね」

 彼の言葉の意味を、私はまだ半分も理解できていない。でも、少しだけわかった部分もある。  世界にはきっと、咲かないまま美しいものもある。


Day95.恋心を飾る花冠

 花を編んでいた。  それは夢の中だと最初から分かっていたのに、私は夢中になっていた。手が勝手に動き、不思議な色の花々を編み込んでいく。青でも紫でもない、水の中で光を透かしたような、名のない色ばかり。  円を描くように、ゆっくりと、花を繋げてゆく。そうしているうちに、空気がふっとゆらいだ。

「きみによく似合うだろうね」

 顔を上げれば、そこにはレオがいた。夢の中でもやはり、彼は仕立ての良い三つ揃いに、上等なステッキを持って立っている。獅子の頭は相変わらず威厳があって、けれど不思議と怖くはない。

「この花、不思議な色でしょう? 見たことないわ」 「当然だよ。これはね、人の恋心にだけ反応して咲く花だから」

 編んでいた手を止めて、私は思わずレオから目を逸らした。

「私にはそんなの、ないよ」 「そうかい?」

 レオは笑いながら首を傾げた。

「じゃあ、たまたま一斉に咲いたんだろうね。君の手元でだけ」

 皮肉めいた言い方だ。私は何か言い返そうとして、そこで夢はほどけるように薄れていき、私は静かに目を覚ますこととなった。  朝の光が差し込む窓辺には、あるはずのないものがそこにあった。  夢で編んだはずの花冠が、そこにある。色も、形も、あのときのまま。  それだけでも十分におかしなことなのに、もっと奇妙なのは、花冠に一つだけ、小さな宝石のような粒が編み込まれていたことだ。薄い桃色の、優しく光を返す石。

「それが何か気になるかい?」

 姿を現したレオが、意地悪く笑いながら問うてくる。悔しく思いつつ「気になるわ」とうなずけば、レオはステッキの先で花冠を指し示した。

「それはね、君が知らないうちに育てた芽だよ」 「芽?」 「恋心の、ね」

 そう言って、彼は笑いながら姿を消した。消えたレオに反論しようとして――やめた。確かに私は、レオに対して特別な感情を向けている。でもそれをレオに打ち明ける気はない。今のところは、まだ。  私のもやもやした気持ちを知ってか知らずか、宝石は花の間で朝の光をひっそりと反射させている。  これが芽として花をつけるのか消えるのか、それともこのままなのか――それがわかるのは、もう少し先のこと。


Day96.踊るレース

 私の部屋の窓には、古びたレースのカーテンがかかっている。祖母の時代からあるものらしく、ところどころほつれているけれど、私はこの繊細な模様が好きだった。朝の光が差し込むと、まるで壁や床に刺繍が施されたみたいに見えるから。  その日の午後も、紅茶を淹れて机についた私は、カップを持ち上げかけて、ふと手を止めた。  部屋の中に落ちたレースの影が、揺れていた。風もないのに、ゆっくりと、まるで誰かが踊っているように。  ひらり、ふわり。  人の形をした影が、手を取り合って輪になっているようにさえ思えた。

「……ねえ、レオ。カーテンが、踊ってるの」

 名前を呼ぶと、すぐに姿を現すのが彼の紳士的なところだ。ステッキの先で床をとんとんと鳴らしながら、レオが窓辺へ近づいていく。

「昼下がりの幻さ。よくあることだよ」 「本当に?」 「その紅茶、今日はいつもより香りが強いね。きっと、そこに陽の光が混ざったせいだ」

 カップを指差した彼は、それ以上何も言わず、私の向かいの椅子に腰を下ろした。獅子の顔に似合わない、ゆったりとした仕草はとても優雅だ。  私は改めてカップを口元に運んだ。ベルガモットがふわりと香る。  それからの時間は、まるで夢の続きのようだった。  壁に踊るレースの模様を見つめながら、私は紅茶を少しずつ飲んだ。何かが起こるわけじゃない。ただ、やわらかな光と香りに包まれた時間。こういう午後を、私は嫌いじゃない。  レースの影はいつしか止まり、紅茶も冷めていた。私はカップを片づけながら、レオに聞いた。

「こういう素敵なものって、また見られる?」 「さあ? こういったものは気まぐれだね。けれど、君はほら、不思議なものに好かれやすいから」

 レオがそう言って笑う。冗談のようで冗談じゃない。私は曖昧に笑って次に期待することにした  日が傾いて、レースの影が静かに消えていく。午後の幻が、そっと幕を引いたようだった。


Day97.恋心を売る露店

 放課後の帰り道、少しだけ遠回りをしたくなって、私は一本裏の路地に足を踏み入れた。そこで、見慣れない露店が出ていた。  布張りの台の上に、宝石のようなものがずらりと並んでいる。けれどよく見ると、それは宝石じゃない。どこか曇った、不思議な光を湛えている。煌めきというより、滲むような輝き。

「それはね、お嬢ちゃん。報われなかった恋心さ」

 声がして、顔を上げると、屋台の奥に店主がいた。顔は皺くちゃで、皺の中に目が埋もれているようだ。

「これ……売ってるの?」 「売ってるよ。誰かの想いを、そっと預かってるのさ。気になるなら手に取ってご覧」

 好奇心に負けて、一粒そっと手に取る。それはほんのりと温かくて、胸の奥に淡い記憶が流れ込んできた。楽しくて、くすぐったくて、少しだけ苦しい──それでも、とても素敵な気分。

「……とってもいい気持ち。でも、どれも報われなかったのね」 「そう。だけどね、報われなかった恋ほど美しいもんはない」

 店主の目が、皺の中からキラリと覗く。

「お嬢ちゃんもどうだい、報われない恋の自覚があるなら高く買うよ」

 私は少しだけ考えて、それから首を振った。

「……いいの」 「ほう?」 「私はまだ、この恋心を持っていたい。報われなくても、抱えていたいの」

 それは、誰にも言えない気持ち。頭が獅子のくせに気障で、人の心なんかお見通しみたいな顔をする、あの悪魔のことを私は好きだ。彼の隣に立てなくても、笑いかけられなくてもいい。報われなくても、この恋心は捨てたくない。

「そうかい、それは残念」

 店主はそう言って、帽子をくいと傾けた。すると、風が吹いた。目を細めたその一瞬で、露店も、男も、ふっとかき消えていた。  夢だったのかもしれない。でも、胸にまだあの石の温度が残っている。  私は顔を上げて、夕焼けの道を歩き出す。誰にも知られず、報われないまま、それでも輝き続ける恋心を、大切に胸に抱いたまま。


Day98.星の胞子

 庭の片隅に、それはひょっこりと現れていた。  朝露に濡れた草の合間、銀色の帽子をきらりと光らせている。見たことがない、銀色の茸だ。  私はしゃがみ込み、茸をしげしげと眺める。茸の傘には、ぽわぽわと白いものがまとわりついている。そっと息を吹きかけると、白くてやわらかな胞子が煙のように舞い上がった。  茸から離れた胞子は、朝の光に透けながら風に乗って空へと溶けてゆく。私はそれを少し吸ってしまい、慌ててレオを呼んだ。

「ねえ、レオ。この茸、毒かな? 私の肺から茸が生えたりしないかなっ?」

 レオは呆れた顔で私の周りを舞う胞子を払い、それから「毒はないよ」と言った。

「この茸に毒はない。ただの放浪者さ」

 レオ曰く。彗星がこの星のそばを通るとき、銀の胞子を落としていくらしい。それは不思議な力で成層圏をくぐり抜け、大地に降り立つ。けどほとんどは海に落ちてしまい、大地に糸を潜り込ませることはできないそうだ。

「彗星が、茸を運ぶの……?」 「不思議に思うかい?」とレオが笑う。「でも、地上の花が風に種を乗せるのなら、宇宙の旅人が茸の胞子を落としていったって、いいじゃないか」

 数日後の夜。私は夢を見た。まるで星が降るように、夜空がやさしい光で満ちていた。  そしてその中に、ぽん、と咲いた銀色の茸──雲の上に咲く、それはほんの一瞬の明かり。まるで手のひらに乗るような、ちいさな星。

「……きれい」

 誰にも届かない呟きを、夜がそっと受けとめたそのとき。隣に立っていたレオが、ぽつりと呟いた。

「あれは、胞子を飛ばしたきみへのお礼だよ」

 私は顔を向けたけれど、レオの表情は見えなかった。ただ、その低くて静かな声だけが、夢の奥に残っている。  目が覚めた翌朝。あの銀色のきのこは、庭から姿を消していた。けれど、草の上にだけ、うっすらと白い粉のような痕跡が残っていた。

「また、落ちてくるといいな」

 私は呟いて、学校へ行くべく門を押した。


Day99.星飴の灯る場所

 夜更け、窓辺にひそやかな気配があった。目をやると、小さな包みがちょこんと置かれている。中には、夜空の欠片を閉じ込めたような飴玉が一つと古びたランプ。  飴玉は透き通った藍の中に、金の粒がきらきらと瞬いている。ランプは手のひらに収まるほど小ささで、芯はまだ新しく、どこか懐かしい香りがした。

「それはね、星を閉じ込めたお菓子だよ」

 背後から声がして、私は少し驚いた。いつの間にかレオが姿を現していて、窓辺に腰掛けている。獅子の頭に、仕立てのいい三つ揃い。上等なステッキを膝に置き、金色の目でこちらをじっと見ている。

「灯すとね、空を旅する夢が見られるんだ。けれど一つ条件がある」 「そ、それは……どんな?」

 レオの白い手袋をはめた指が、すっと飴玉を指す。

「その飴を食べながらでないと、明かりは本当の空を見せてくれない。おっと、理由を聞くのはなしだ。そういう魔法だから、としか答えられないからね」

 少し迷ってから、私は飴をそっと舌の上に乗せた。口に含んですぐ、冷たく甘やかな感触が口の中に広がる。夜の始まりのような味だった。  レオがぱちりと指を鳴らし、ランプに火を入れる。すると部屋いっぱいに光が放たれた。  天井にも、壁にも、床にも──星図のような線と点が映し出され、まるで空の下に立っているかのよう。  知らない星座。見たことのない空。  それなのに、なぜか懐かしい気持ちになった。

「懐かしいだろう、ミーナ」

 レオはどこか誇らしげだ。私はあまりの美しさに返事ができず、しばらく星空を見つめていた。  やがて飴はだんだんと小さくなり、ランプの灯も、少しずつ淡くなっていく。けれどそれは終わりではなく、夜が眠りにつくようなやさしさだった。

「……ありがとう」

 ぽつりと呟くと、レオはなにも言わず、ただ一度だけうなずいた。  いつもより静かな夜だった。けれどその静けさが、今夜はとても、心地よかった。


Day100.私の周りでは何も起こらない

 ある休日の昼下がりのこと。レオが言う。

「今日は平和だね、ミーナ」 「ええそうね、レオ」

 紅茶を飲んで、お菓子を食べて、好きな作家の本を読んで。何て平和な日だろう。ああ、終わらせていない課題もあった。本を読み終わったら片付けなくちゃ。

「ミーナ、聞いてミーナ」

 影が囁く。

「ミーナ、ミーナ、ヘルミーナ」

 風が私を呼ぶ。

「思い出してよミーナ、おれのこと」

 窓の外、白い狼が懇願する。

「ミーナ、迎えに行かせてよ」

 絵の中の巨人が額縁を揺らす。

「ミーナ、ずるいよ、そっちへ行かせて」

 窓の外、庭の小人が地団駄を踏む。

「ヘルミーナ、おいでよ、森へ行こうよ」

 窓の外、妖精たちが私を誘う。  けれど私はどれにも返事をしない。  レオがぱちんと指を鳴らせば、私の周りは静かになる。  静かになった部屋で、私は本を、レオは焼き菓子を楽しむ。焼き菓子に使ったバターの風味に目を細めるレオを時折見つめながら、基本は本に目を落とす。  静かになった部屋で、ふぅ、と息を吐く。  私の日常では何も起こらない。今日も私の周りでは、何も起きずに済みそうだ。