生き物には魂があり、死後、それは天に昇る。……と考える生き物がいる。たった一種類しかいないそいつらのせいで、僕らは雲の上に生まれ、魂を命に造りかえる仕事をするはめになった。 ふよふよと空へ昇ってきた魂をこねて丸めてまとめて分けて、次の〝命〟にしてまた下界へ落とす。 簡単な仕事だけれど、量が多くて忙しい。だから僕のほかにもたくさん生まれた。昇ってきた魂なる概念を、みんなで黙々と次の命に造りかえていく。 雲の上に昇ってくるのは魂だけではなかった。魂のようにふよふよとやってくるのは、色とりどりのあぶく。それは僕らを雲の上に生まれさせた生き物――人間の感情や思考だった。 弾けたあぶくからは、下界で生きる人間の声が聞こえた。
「この子が七つを超えられますように」 「財産が増えますように」 「病気が治りますように」
聞こえてくるのは、こんな祈りばかりではなく。
「失脚すればいいのに」 「何で自分ばっかり」 「不公平だ不平等だアンフェアだ」
こんな風に、不満そうな声も多い。 願いも、不満も、どれもこれもつまらない。聞くに値しないものばかりだ。だから僕は弾けたあぶくなんか無視して命をこねていた。 無視していた。していたかった。でも一つのあぶく――一人の声は、やけに僕の耳に残った。 そのあぶくは、弾けるといつも同じ言葉を響かせた。
「どうしてこんな死に方をしなきゃいけなかったんだろう」
涼やかで、静かな声だったからかもしれない。 穏やかで、寂しそうな声だったからかもしれない。 声の主は、いつも同じことを悩んでいるようだった。同じことばかり言ってるから、同じ声音で悩んでるから、どうにか黙らせてやりたくなって、僕は下界へ行くことを決めた。 雲の上から、魂の抜けた体を見繕う。魂を得られなかった体、魂が抜け出た体、それらはいつでもどこにでもある。 そんな体を集めて、継いで接いで、新たな体を造り出す。年齢は声の主と合わせた。同じ年頃の体に整えるのは少し手間だったけれど、向こうを驚かせないためには仕方ない。 用意した体は魂がないから、中身は空っぽ。そこへ潜り込み、僕は人間として下界へ降り立った。 日差しの強い昼日中。そんな時間に、声の主は悩んでいた。車に轢かれた猫のそばにしゃがみ込んで、じっと見つめていた。 泣いてはいない。通学鞄を重そうに背負い直して、猫の亡骸をじっと見つめている。 声の主は子供だった。まだ幼いといえる年頃の、女の子だ。名前は千絵理。千の理から美しいものを見出せるようにとつけられた名前。 皮肉な名前だな、と声に出さず呟いた。千絵理は汚いもの、目を背けたいものばかり見ている。 千絵理は突然現れた僕に気づいていない。僕は千絵理のそばに立つと、見下ろしながら言い放った。
「理由なんてないんだ」
僕の声も、千絵理に負けず劣らず平坦なものだった。地面を見下ろしていた千絵理は、億劫そうに顔を上げた。僕が太陽を背負うように立っているから、千絵理は眩しそうに目を細めている。僕は千絵理の、細くなった茶色の目を見つめた。
「その死に方でなくてはいけなかった理由はない」 「そうなの?」
いつも聞いていた声が、僕の言葉に反応した。なぜだかそれが、少しだけ嬉しかった。 手で庇を作りながら、千絵理は「どうして」と静かな声で僕に投げかけた。
「どうして、ないなんて言い切れるの? 理由がなくちゃ、こんな死に方しないんじゃない?」 「理由はないよ。あるのは因果だけ」
落ち着いた声が「因果って何」と尋ねる。できるだけ簡単に説明しても、千絵理は首を傾げる。とにかく、と僕はまとめた。
「生まれるのも死ぬのも、そうである意味はないんだ」 「ふうん」
そっか、と千絵理は呟いた。どうにか納得したようだった。僕は自分が安心したことに気づきながら、そこから目を逸らした。
「そんなとこにしゃがんでると轢かれるよ。早くお帰り」 「この子をどこかに埋めたら、帰る」
千絵理は死んだ猫を抱き上げ、てくてく歩いていった。服が血で汚れてもお構いなしだ。千絵理を引き止めようとして、やめた。これ以上は僕に関係ない。 継いで接いだ体を放棄して、雲の上に戻る。これでもう、千絵理の声は聞こえなくなるだろう。あの声を気にせず仕事に打ち込める。 そう思ったのに、千絵理の声はまた雲の上までやってきた。
「どうして、こんな死に方しなきゃいけなかったの?」
千絵理の声は、震えちゃいない。潤んでもいない。ただ静かに、自分に見せられた死の理由を問うだけだ。 理由なんてないと教えた。成長すればこんなこと考えなくなる。自分にそう言い聞かせて無視すればいい。 なのに僕は、再び聞く度に下界へ降りて千絵理を諭していた。 二度目に会った千絵理は、皓々と光る液晶の前でぼんやりと座り込んでいた。周りには誰もいない。千絵理一人で着くには大きすぎる机に、空になった食器が一人分並んでいるだけだ。 そこは千絵理の自宅だった。居間と呼ばれる部屋だった。そんな場所に音もなく現れた僕を、千絵理は見ていなかった。
「きみは何でも自分の中に受け入れすぎだね」
僕がそう言って、千絵理はようやく僕に気づいた。振り向いて、僕を見上げて、なのに驚きもしない。
「受け入れてないよ」
僕がここにいる事実を受け入れておきながら、千絵理はこんなことを言う。ぺたりと座ったままの千絵理を見下ろし、僕はため息をついた。
「ならどうして悩むのさ」 「それは……」
千絵理は目を伏せ、少しの間考え込んだ。どうしてだろう、と考えているのが伝わる。口を挟まず待った。 たぶん、と前置きして、千絵理はまた僕を見た。
「受け入れられないからだと思う」 「なるほどね。じゃあとことん付き合おうじゃないか」
僕は千絵理の隣によいしょと座った。千絵理の目が丸くなる。初めて驚いたようだ。今度は僕が気にしない番だった。
「それじゃあ話してご覧よ。今日は何に悲しんでるんだい?」 「悲しんでるの?」 「悲しんでないつもり?」
わからない、と千絵理は迷子のような顔をした。
「私、冷たいって言われるから……」 「どうして」 「おじいちゃんが死んだときも、にわとりが死んだときも、うさぎが死んだときも、みっちゃんが死んだときも、泣かなかったから」
けれど事実、千絵理は悲しんでいる。車に轢かれて死んだ猫を、無慈悲に殺された見知らぬ人間を、哀れんでいる。心を寄せ、なぜそんな死に方をせねばならなかったと問うほどに。 千絵理は泣かなかったのではなく、泣けなかったんだろう。
「悲しみが大きくて、悲しみの理由に目を向けなくちゃやりきれなかったのさ、きみの心は」 「そうなのかな……」 「でなきゃ、そうやって考えるはずないだろう? 冷たい人間なら、興味も持たないよ」 「そっか……。そっかぁ」
千絵理の体から、ふ、と力が抜けた。
「ありがとう」
浮かべたのは、控えめな笑みだった。はにかみながら、肯定された喜びを滲ませた感謝だった。仮初めの体なのにそれは僕の目に焼き付いて、魂にまで深く刻み込まれてしまった。 千絵理の喜んだ顔が忘れられなくなったせいで、僕は声が聞こえる度に下界へ降りるようになった。諭しても諭しても悩む千絵理のせいだと言い訳する。下界へ降りる僕を、誰も咎めやしないのに。 諭す相手が成長しないのはおかしいから、下界へ降りる度に体を造りかえる必要があった。面倒だけど、千絵理に会うためには仕方のないことだ。 千絵理に会いに行けば、それだけ仕事が滞る。やめなくちゃと思いつつ、千絵理の声が聞こえると手を止めて会いに行きたくなる。 そのうち、僕は千絵理に会いに下界へ降りるのではなく、仕事をしに雲上へ戻るようになった。仕事の素材の一つでしかないのに、僕は千絵理に、愛着を持ってしまった。 自分の変化に気づく頃には、千絵理は思春期と呼ばれる年齢になっていた。みんなと同じ制服を身に纏い、指定された鞄で勉強道具を持ち運ぶ。空から見下ろしていたら、もう千絵理を見分けられないかもしれない。そんな不安を覚えるほどの変化だった。
「ねえ、あなたの名前は?」 「名前?」 「小学生の頃からずっと一緒なのに、私、あなたの名前を聞いたことないなって」
僕の抱える不安も知らず、千絵理が尋ねた。それは秋頃、試験期間の夕暮れ時。図書館で勉強していた千絵理を、家まで送っていたときのことだった。
「そんなもの、僕にはないよ」
名前なんて、雲の上で親もなく生まれた僕が持つわけがない。素っ気なく答えると、千絵理は怪訝そうに眉を寄せた。
「ないことは、ないでしょ」 「ないんだ、本当だよ」
千絵理はふうんとうなずいて、なぜだか楽しそうな顔で首を傾げた。
「じゃあ、私が名前をつけていい?」 「いいよ」
千絵理は「それじゃあね」「えっとね」と考え出した。足まで止めて考え込む千絵理は、出会ったばかりの頃を思えば、ずいぶん明るくなった。 ああでもない、こうでもないと考える千絵理の隣で、僕も足を止める。体の年齢にこだわる前に、名前を考えておくべきだったな。人間らしく振る舞おうとしても、こういうところでぼろが出るんだなぁ――なんて、他人事のように自分の黄道を振り返っていた。 考え終わったのか、千絵理は隣に立つ僕を見た。その目は悲しい事実を見るときのように真っ直ぐで、でも悲しさとは正反対の輝きに満ちていた。
「さとーくん」 「まさか名じゃなく姓をもらうとはね」 「いろいろ諭してくれるから、さとーくん」 「もしかして名なのかい?」
千絵理はうふふと笑った。歌うように「さとーくん」と繰り返す千絵理を見ていると、僕もつられて笑ってしまった。 呼び名なんて、何でもいいか。どうせ千絵理が死ぬまでの名なんだから。そう思って、笑っていた。 僕は千絵理と一緒に、この体を成長させるつもりだった。大人になって年老いて、死んでいく千絵理を見守っていくつもりだった。そんな気になってしまっていた。 だけど千絵理は呆気なく、思っていたより遙かに早く死んでしまった。 殺されてしまった。妙ちきりんな主義主張のために、ただ通りがかっただけなのに、殺されてしまった。 場所は駅前の大通りだった。たくさんの人が歩いていて、千絵理だけが歩いていたわけじゃなかった。明るい時間だった。子供だってたくさんいた。隣には、成人男性の体を持つ僕がいた。なのに千絵理は、これまで一度も見たことのなかった男に刺されて死んだ。 たくさんの男に取り押さえられ、千絵理を刺した男が喚いている。たくさんの人が集まってくる。若い男が通信機器で助けを求めている。初老の女が千絵理の傷口を押さえ必死に声をかけている。 僕は、千絵理のそばで立ち尽くしていた。千絵理の体から抜け出るものを見つめていた。雲の上に届いたあぶくのような、淡い色の、きれいな魂だった。 手を伸ばし、千絵理の魂を両手で包んで引き止める。空へ昇ろうと藻掻く魂の感触は、継ぎ接ぎの体でもわかった。仮初めの体から涙が出るほど愛しかった。周りの喧噪なんて、僕の耳には届かなかった。 雲の上から見ていたのだろうか。仕事仲間が降りてきた。体を持っていないから、姿も声も、知覚できるのは僕だけだ。
「ねえ、その魂はどうするの?」
尋ねられ、考えるまでもなく僕は懇願していた。
「この魂だけは、僕に任せてくれないか」 「ああ何だ、捕まえてたんだ。うんうんいいよ、どれ使ったって同じだし」 「それと、あそこにある魂も、回収させてほしいんだ。無理にとは言わないけど」
千絵理を刺し殺した男を目で示すと、仲間は気前よくうなずいた。
「もちろんいいよ。ほかの奴にも伝えとく?」 「うん。手を出さないよう伝えて」 「無理矢理持ってく感じ?」 「この体を廃棄すれば、できるだろう?」 「できるよ、できちゃうよ。あの魂ひとつどころか、ここにあるぜーんぶの魂だって持ってけちゃう!」 「そこまでの数はいらないよ。忙しくなるじゃないか」 「それもそうだ!」
じゃあ待ってるよ、と雲の上に帰って行く仲間を見送って、僕は千絵理のために継ぎ接ぎした体を破棄した。 千絵理の魂をしっかりと抱いて、千絵理を殺した男の魂を引きずり出して、雲の上へ帰る。 帰ってすぐの仕事は、千絵理を殺した男を細切れにして、小さく小さく分けることだった。 もう自我も意識もない魂に、僕が今やっていることを話して聞かせる。
「いつもはもっと、適当に繋げて丸めるんだ。だけどお前は、繋げてやらない。細切れにして、あちらこちらへばら蒔いてやる」
独り言を言っていると思われたらしく、近くにいた仲間が、僕の手元を覗き込んだ。下界へ降りてきた仲間とは別だけど、こちらも雲の上から僕と千絵理に起きたことを見ていたらしい。納得した顔でうなずきながら、なぜ、と問うてきた。
「そんなことしたって意味ないのに」 「そうさ。こんなことに意味はない」 「その魂はどうするの」
仲間が指さしたのは、千絵理だ。僕の胸元で漂う千絵理を肩に置き、頬を寄せた。
「いつも通り、仕事をするだけさ」 「そう」
仲間はうなずき、離れていった。 僕のそばにいる千絵理は、もう「どうして」と悩まない。僕に理由を尋ねない。千絵理はもう、いなくなってしまった。
「あれだけたくさん話していたのにね」
こんな風に終わりが訪れるなら、もっとたくさん話せばよかった。もっと会いに行って、何でも聞いてやればよかった。 悔やめども悔やめども、後悔は後を絶たず押し寄せる。 八つ当たりのように細切れにした命を片付けると、そばに置いていた千絵理をそっと抱きしめた。腕の中で、千絵理だった魂はふるりと震えた。 いつまでも抱きしめていたいけど、そうはいかない。名残惜しさを振り切って、きれいな色の魂を手放した。
「きみが悩んで悲しまないよう祈るよ」
なるべくきれいな魂を選ぶ。そこへ千絵理の魂も混ぜて、捏ねて、丸めて、分ける。 そこに千絵理はいない。一欠片も千絵理じゃない。だけど手の中で分かれていく命ひとつひとつが、苦しいほど愛おしかった。
「また見つけるから、生まれてきてね」
混ぜて捏ねて丸めて分けた、新たな命。どれもこれもきれいな色で、手放しがたかった。
「さ、お行き」
雲の分け目から、下界へと命を落としていく。きれいな色をした命は同じ色の光を発し、地上へと落ちていった。 落ちていく命と一緒に、僕の目から一粒、落ちるはずのない涙も落ちた。