目次
1
おれが生まれたのは、とある山の中。花の香に包まれ、朝日に照らされ生まれ出た。 葉の上の朝露でのどを潤し、日々を過ごした。花の上で蜜を飲み、腹を満たして日々を過ごした。小鳥のくちばしは恐ろしかったけれど、彼ら彼女らの歌声は心地よかった。爽やかな葉の香りを吸った朝露を飲むたび、甘く優しい香りの蜜を飲むたび、おれは死ぬときも、このいい香りに包まれているのだろうと思っていた。 けれどおれは、人間の手に捕まり、狭く暗い壺の中に閉じ込められることになった。おれを捕まえたのは、白い水干を着た子供たちだった。
「お師匠さま、お師匠さま。言われたとおり、蜘蛛や蜂、長虫に蟇蛙、井守といった毒虫を捕まえて参りました」
おれを捕まえた子供の手が、壺の蓋を開く。おれが転がり出たのは、男の手の上だった。おれを受け止めた男が、おや、と薄い唇を愉快げに開く。
「これは毒虫ではないな」
だが、と男は絵筆で引いたような目を細めて笑った。
「毒も牙も持たないこいつが、この壺の中でどう足掻くか気になる」
にんまり笑うその顔はどう見ても人であるのに、おれには、幽鬼か何かに見えた。
「草花で生きてきたこいつは、ほかに食うもののない壺の中で毒を食らうのか。毒を食らって生きていられるのか。生き残ったこいつは――優秀な蠱毒となるのか。気にならないか、お前たち」
男の言葉に返事をする者はいない。おれは、毒虫のひしめく大きな壺に落とされた。 壺の中は、闇が満ちていた。壺の中は嫌なにおいで満ちていた。壺の中は、小鳥がおれに向けるよりも恐ろしい殺意で満ちていた。 おれより小さな虫はいなかった。毒を持たぬ虫はおれのほかにいなかった。花や草露で生きてきた虫は、おれ以外にいなかった。 毒虫が、蟇蛙が、長虫が、ギラギラ光る目をおれに向ける。おれは死にたくない一心で、持ちうる力を振り絞り抗った。 あるときは壺の隅に逃げた。あるときは大きな毒虫の頭にしがみつきほかの毒虫をやり過ごした。あるときは死んだ毒虫の死骸を食んだ。 気づけばおれは、あの男の拳ほどの大きさになっていた。これほどの体躯は、生き残っている毒虫たちも持ち合わせていない。 しかし奴らより大きくなってなお、おれは必死で抗わねばならなかった。何せ、おれには毒がない。おれの持つ武器は、体が大きくなるにつれ鋭く大きくなっていった牙のみだ。 大きくなった足で奴らの体を押さえつけ、大きくなった牙で息の根を止める。毒虫の肉は、毒虫の血は、美味くなかった。これ以外に腹を満たすものがないから、仕方なしに飲み込む。 食べれば食べるほど、おれは造り替えられていくようだ。それでも食べなければ生き残れない。殺さなければ生き延びられない。この体を巡る血の一滴までもが毒で満ちようと、花蜜を啜るに不要な牙が増えようと、生来の姿からかけ離れた化け物になろうとも、おれは、死にたくなぞなかった。 抗って、抗って。 いつの間にかおれは、たった一匹で壺の中にうずくまっていた。増えた足は千里の道を一晩で歩いたかのような疲れが溜まり、腹の底には嫌な重みがあった。おれを食おうとする毒虫が一匹もいなくなった今ならば、ゆっくり眠れるはずだ。だが、おれは眠れなかった。ずぅんと重い頭を支え、いもしない毒虫が暗闇から飛び出してこないかと怯えていた。 暗い壺の中に、一筋の光が差し込む。蓋を開けたのは子供らに「お師匠さま」と呼ばれていたあの男だ。眩しさに目が慣れず目眩を覚えるおれに、男はにんまりと笑った。
「やあ、やはりお前が生き残ったか。これはこれは、いい式ができそうだ」
男の手がおれを捕まえようとする。重たい手足を動かし、おれは男の手から逃げ惑った。狭い壺の中で逃げられるわけがないのに。 逃げ惑うおれを嗤いながら、男は時間をかけておれを捕まえた。男の手のひらで手足を縮こめうずくまり、おれは聞こえぬ声で我が身を嘆いた。
「帰りたい。花の香で満ちたあの場所へ帰りたい」
おれの言葉がわかるのか、男は変わらない笑顔で「そうかそうか」とうなずいた。
「お前は花の蜜や、草の上の朝露で生きてきたのだものな。毒虫たちを食べるのは、さぞつらかっただろう」
優しい声だ。労るような声だ。おれは男の手の上で「そうだ」とうなずいた。
「つらかった。苦しかった。だからもう、帰らせてくれ。あの花の香をもう一度、一度でいいから味わわせてくれ。そうしたら――」
おれはもう、死んでもいい。 そう思うおれに、男は無慈悲な言葉を投げた。
「ではお前は、俺とは正反対の――清く美しい魂を持つ者を食べる式としよう」
――腹が減ったからと向かってこられてはたまらんからなぁ。
男はそう言って、笑いながらおれを造り替えた。男の手にこねくり回され、おれは焼けるような苦しみを覚えた。男が持つ筆で何かを書かれ、おれの体はもげるような痛みを訴えた。男は笑みを崩さず、おれの体を式へと造り替える。
「食い散らかされた悪人の死体が転がっていたって、面白くなかろう? 善人が見るも無惨な死体となって転がるような、地獄絵図こそ面白い。俺とお前で、この都を地獄へ変えてやろうぞ」
そんなもの食べたくない。時刻になぞ興味はない。 おれがどれだけ訴えても男は聞く耳を持たず、おれを清らかな魂を食らう、化け物と呼ぶにふさわしい式へと生まれ変わらせた。 男は夜な夜な、おれを都の辻へ放した。
「さあ、食っておいで。うんと優しい心を持った、うんと清らかな魂の者を食い散らかしてこい」
こんな男の命なんて、抗いたかった。だが、おれは抗えなかった。男の命にではない。優しい心を持った、清く美しい魂を持つ者の、その香りに抗えなかった。 皮膚を突き破ることで香る、花の香に似た血の匂い。 肉を食み取ることで感じる、花の蜜にも勝る甘い味。 魂を啜ることでわかる、朝露にも等しい爽やかなのどごし。 どれもこれも、おれがほしくてたまらないものだった。 魂を啜ると、おれが食べた人間がどんな日々を送っていたかわかる。どれほど親しまれていたかわかる。どれほど優しい心を持っていたか、わかってしまう。 味に香りに酔いしれながら、おれは流せぬ涙を流した。
「良い魂だ。何と美味なる魂か」
おれは男の命ずるままに善人を食い、かつて腹を満たした花蜜や草露とよく似た味の魂で、血肉で、|飢《かつ》えを癒やした。
2
あるときおれは、男と同じ職に就く同僚を食らえと命を下された。
「気に食わん。あいつは実に気に食わん。いつでも自分が正しい者だと言わんばかりの面をしおって。満ち足りた顔をしおって。慈愛に満ちた顔をしおって」
嫌だ嫌だと胸の内では拒絶するものの、おれの体は夜風の乗って、闇に紛れて、男が命ずるままにその同僚の元へ向かった。 男が食えと言った同僚は、それはそれは清らかな魂を持つ善人だった。 白装束に長い黒髪は、夜の闇でもはっきり見えた。おれを使う男と同じ格好の同僚はおれが来たことに気づかず、部屋の真ん中で呪らしきものを一心に唱えている。身を守る式も置かない同僚に、おれはそろりそろりと近づいた。 細面が、ハッと上げられた。おれに気づいたようだ。式でも投げつけられるか、呪をかけられるか。身構えるおれを、同僚は振り返らなかった。おれに気づきながら、おれに食われると知りながら、彼は呪を唱え続けた。おれはしばらく様子を窺い、彼がおれに何もするつもりがないとわかると、一気に飛びかかった。 飛びかかり、押し倒し、食らいつく。どんな善人も、おれに食われるときは怨嗟の言葉を吐いておれを呪った。しかし、彼は。
「何て、哀れな」
そう言っておれを見る目の、何と純粋なこと。そこに満ちるのは優しさと、おれへの哀れみ。彼の目を見て、おれは悲しくなった。彼もまた、おれを見つめ悲しそうに顔を歪めた。
「俺たちの都合でこんな風に造り替えられて、お前《《たち》》は本当に、可哀想だね」
おれは涙を流せない代わりに流れ落ちるのは、意地汚い涎のみだ。おれに食われて痛いだろうに、溢れる血がのどを塞ぐだろうに、彼は呪を唱えきった。最後の音まで唱え終わると、彼はおれの馬ほどに膨れ上がった胴体を、優しい手つきで撫でた。
「お前《《たち》》に積み重ねてしまった業が、いつか消え去ることを祈っているよ」
その言葉が本心であることは、飲み込んだ血肉から、啜った魂から伝わってくる。おれを哀れんでくれる唯一であろう人を、おれは欠片も残さず飲み込んだ。
3
彼を食らい尽くしたおれは、糸で引かれるようにあの男の屋敷へ戻った。そこでは、おれを使うあの男が、おれと同じ式に食われていた。先ほど食った優しい彼の式だとすぐにわかった。彼が死の間際まで唱えていた呪は、この式を使うためだったとわかった。わかったところで、おれにできることは何もない。 血の海の真ん中で、真っ白な式がおれを使役する男の|腸《はらわた》を咀嚼する。おれは一歩、式――大きな犬の姿だった――に近づいた。
「お前は」
おれの主であった男は、すでに息絶えている。死骸の|腸《はらわた》を食う式に、おれはたまらず問いかけた。
「お前の使役者を食らったおれに、報いるため来たのか」
おれの問いに、真っ白な犬は鼻で笑った。
「つまらぬことを聞くなぁ」
しゃがれた声だった。血で染まった真っ赤な口が、耳まで裂けた。夜の闇でも光る金色の目が、ぎらりと光った。光る目が、醜悪なおれを見る。
「たしかにおれは、あの男の命でここへ来た。だが、食うのはおれの意思よ」
長い舌が、毛皮を汚す赤をべろりと拭う。
「おれは澱んだ醜い魂を食らうため造り替えられた。おれを造り替えた者をお前に食い散らかされたから何だ? あの男には怨みこそあれど感謝などない。お前はこいつを食ったおれを憎いと思うか?」
大犬が男の頭を足で転がす。それを見ても、おれはこの式を憎いとは思わなかった。おれが素直に否の答えを返すと、大犬はにやりと笑った。
「おれも、お前も、命を下されたから食らうわけじゃなかろう?」
おれは、否定できなかった。しかし肯定もしなかった。 黙り込むおれの目の前で、大犬は髪の一本も残さず男を食い尽くした。血の一滴まで舐め終えた大犬は、赤い舌で満足げに口を拭うと、夜の闇へ駆け出した。
「おれもお前も自由だ。自由なのだ! 闇に乗じ思うがままに征こうぞ、哀れな|蜘蛛《はらから》よ!」
哄笑を上げ、大犬は闇に消えた。追うように、おれも闇に紛れ男の屋敷を逃げ出した。ようやく得た自由を逃がさぬように、大急ぎで都を駆け抜けた。 人のいないどこかへ消えたかった。あの大犬の言うとおり、思うがままに善人を食らうのは、この先耐えられそうもなかった。
おれが逃げ込んだ先は山だった。人も踏み込まぬ山、おれが生まれた場所によく似た山だ。優しい花の香に、あの安らかだった時代を思い出す。
おれはまだ、花の香に安らぎを覚えられる。 おれはまだ、草葉の匂いに清涼さを感じられる。 おれはまだ、根っこまで人食いに変わったわけじゃない。
そう思うと、安心できた。
そうだ、おれは蜘蛛だ。人に使われる化生じゃない。化け物なんかじゃ、ない。 そう思えば、正気を保てる気がした。
おれは山の中腹でうずくまった。 ここで死のう、故郷に似たこの山で、人を食わずに花の香に包まれ死のう。 望むのはただそれだけだったのに、そんなおれを放っておいてくれない者がいた。
「誰ぞ、誰ぞ、我が山内に入り込んだ余所者は」
馬ほど膨らんだおれが、見上げねばならぬほどに大きな蛇だった。この山の主なのだろう。 細い舌がちろちろと出入りする、裂けた口。 鋭い目と細い舌、ぬらりと光る鱗。 蛇の姿は、おれにあの壺の中での出来事を思い出させた。壺の中でのあの恐怖を思い出させた。
――食われたくない、死にたくない!
おれは声にならない叫びを上げ、蛇に飛びかかった。 気づけば腹がはち切れそうになっていて、体は蛇の血でぐっしょりと濡れていて、おれは山頂の洞穴でぐったりとうずくまっていた。意識が戻った途端、山の様子が手に取るようにわかる。ああ、とおれは嘆息した。
――おれはまたも、生まれたままの蜘蛛から離れてしまった。
山の主を食ったおれは、山の主になってしまったのだ。だからといって山を治める気になれるわけもない。おれは洞穴に籠もって目を瞑り、月日をやり過ごした。
春が訪れ、夏が駆け足でやってきて、秋が過ぎ去り、冬が重い腰を上げても、おれは洞穴に籠もっていた。暗い洞穴は涼しく、時に暖かく、過ごしやすかった。お陰で、いつまでも眠っていられた。 洞穴でまどろみ、どれほどの月日が過ぎたか。あるとき、地鳴りを感じた。まどろみの中にあっても、地滑りが起きたことはわかった。その頃はずいぶん前から雨が続いており、こうなることはわかっていた。 水が大蛇となりて村に襲いかかる気配がする。だがおれは、知ったことかと意識を手放した。
麓の村が、だめになった気配が伝わった。
4
次に目を覚ましたのは、空腹を感じたからだった。麓の村の人間が嘆く声が聞こえる。どれ、とおれは起き上がった。 すっかり元の静けさを取り戻した川に沿って山道を歩く。
――最初に出会った人が女であれば、食べてやろう。しかし優しい女であれば、少しばかり話を聞いてやろう。内容によっては、女にとって悪くない話を持ちかけてやってもいい。
山の主となり傲岸不遜となった己の考えにも気づかず、おれはゆったりと山を下りた。 最初に出会ったのは、女だった。村のそばを流れていた川の畔で、泥に|塗《まみ》れ座り込んでいた。おれがそばまで近づいても、女は逃げもせず、うわごとのように何が起きたかを話した。
「土が、家と夫を押し潰しました。水が、私の子を押し流しました。私だけが残りました」
憎い、憎いと女は声を絞り出した。汚れた頬を、透明な涙が伝い落ちた。花の香と、泥臭さと、苦いにおいが立ち上る。清い魂の持ち主が、怨みと悲しみで苦しんでいるにおいだった。 おれは、女に声をかけた。
「山が、川が、村を襲わないようにしてやろうか」
女が顔を上げた。醜いおれを瞳に映し、ぼんやりと見つめる。おれは噛んで含めるように、女に〝うまい話〟を持ちかけた。
「おれは山の主だ。この山の草木の一本までおれの意のままにできる。お前がおれに食われるならば、もう二度と川を氾濫させない。土砂崩れなぞ起こさせない。飢饉が起きないよう、畑の土も見てやってもいい。お前のように泣く女が出ないよう、村を守ってやる」
女は目を見開き、おれをはっきりと認めた。目の前にいるおれを見つめ、認め、おれの言葉を理解すると、女は眦を吊り上げた。
「なぜ……なぜ、それができるのに……」
絞り出された声は、そこで止まった。女は強く唇を噛み締め、土に爪を立て、うつむいて沈黙した。長い髪がだらりと下がり、はらりはらりと地面に垂れる。歯を食いしばりキリキリと音を立てた女は、髪を乱しておれを見上げた。
「二度と、二度と、私のような女を出さないでくださいまし。私たち氏子を、長く永く、お守りくださいまし」
そう言って、女はおれに首を差し出した。白い首に、おれは喜んで牙を立てた。 女は善人であった。花の蜜。草の露。懐かしい味だ。しかしそこにひとさじの塩辛さがあったのは、なぜだったのか。 おれは女との約束通り、山を治め村を守り、山の主として過ごし始めた。蛇から奪った力はすっかりおれに馴染んでおり、労することなく山を、川を、村の土を、意のままにすることができた。 飢饉から、天候から、村を守るに必要ならば、時に村の者に姿を見せることもあった。初めこそおれの姿を見て震え上がった村の者も、そのうちおれを山の主と認め、感謝するようになった。 年に二度ほど小さな祭りが執り行われ、おれへの捧げ物が並ぶようになった。人しか食えぬおれだが、感謝の気持ちというものは良き魂に次ぐ芳しさを持ち合わせており、食わずとも腹が満たされる気持ちになった。 おれは段々と山を治めるのが楽しくなってきて、感謝されたい一心で、あの芳しさを味わいたくて、身を粉にして働いた。 飢えて飢えて仕方のないときには、花の香りに、草の香りに包まれ眠ることで堪えた。式のままであれば、こんな日々は数ヶ月と続かなかっただろう。山の主を食ったお陰だ。そのお陰でおれは、自分が人食いの化け物であることを忘れられた。 しかし、いつまでも忘れることなどできない。 ある年、長く雨が続いた。食った女との約束だ、村が水没しないよう川の流れを整えるか……と、おれは重い体を持ち上げた。しかし、足は体を支えきれなかった。体が傾ぎ、べしゃりと倒れる。顔を地面にこすりつけたおれは、自分の腹が空っぽであることに気づいた。
――力が出ない。何か食わねば。《《何か》》、食わねば。
ずるり、ずるりと体を引きずる。一歩一歩、足を伸ばす。この体を運ぶにはあまりに小さな一歩だ。だがそれ以上大きな一歩を、おれは踏み出せなかった。 洞穴から出たところで、おれはもう、足の先すら動かせなくなった。腹が減ったと呟くことすらできない。 おれの空腹は、山や川、畑の異変として現れたのだろうか。村の氏子たちが、おれが住まう洞穴前まで押しかけてきた。そして、倒れるおれを見て驚いた。
「いったいどうなさったのですか、山神様」 「神様、神様、ああ何てこった。もしや身罷られるので?」 「ばっ、ばかなことを言うもんじゃねえ!」
これでは氏子たちが殴り合いに発展しそうだ。おれは力の出ぬ体でどうにか力を振り絞り、彼らに空腹を伝えた。
「腹が、減った」
おれの言葉に、氏子たちは目を剥いた。そして今までの捧げ物におれが口をつけていないことを知ると、大慌てでそれぞれの家から食べ物を持ってきた。しかし、おれはそれを食べることができない。
「おれは、人しか食えない」
人でしか、おれの腹は満たされない。 氏子たちはおののいた。それもそうだ、自分たちを守り助け続けた山の神が、実は人食いの化け物だと知ったのだから。 しかし、彼らはもう、おれの助けなしでは生きられない。もう何年も悪天候や不作への備えをしていない。おれが飢えて死ねば、彼らも遠からずおれと同様の理由で死ぬだろう。 村が立ち行かなくなる危機に、一人の老人が手を挙げた。
「息子も大きくなった。孫の顔も見ることができた。それもこれも山神様のお陰です。わしのような老いぼれで良ければ、この身を捧げましょう」
老人は、優しい心の持ち主だった。草露の爽やかな香が、おれの食欲を刺激した。彼の手はぶるぶると震えていたが、代わりに手を挙げようという者はいなかった。 老人は、一片の欠片も残さずおれの腹に収められた。食べるところは少なく、満腹にはほど遠い。しかし、彼はとても|清く優しい《美味しい》人だった。 それからおれへの捧げ物は、畑の作物から人へと変わった。最初は働けなくなった老人ばかりだった。痩せ衰えた老人の血肉では、おれの腹は満たされない。飢餓感で、|山の神《おれ》の力は先細りしていくばかり。 氏子たちはおれの力が弱まっていることに勘づいているようだが、老人以外を差し出せないでいた。不作の兆しを見せる畑の世話をする者を、これ以上減らしたくないのだ。 そんな中、事故で足を失った若者がおれに身を捧げると言い出した。
「足をなくしちゃ満足に働けねえ。うちのじいさまはまだ鍬を持てる。食うとこの多い奴のほうが、山神さまも嬉しいでしょう」
震える声で、彼は笑った。おれの前に跪き、頭を垂れてその身を差し出した。 若者の言うことは、正しい。優しい彼を食べ、おれの力は見違えるほどに蘇った。その年は一度も川が氾濫せず、山から石ころ一つ落ちることなく、畑は豊かな実りをつけた。 氏子たちは、久方ぶりの豊作に目が眩んでしまった。翌年から、おれへの生贄は若い者となった。腹が減ることのなくなったおれは、気分良く山を、川を、村を治めた。
5
しかし、ある年だ。 川の流れを抑えていたおれは、川面に映る自分を見て驚いた。
はて、おれの牙はこんなにも長かっただろうか? はて、おれの目の数はこんな数だっただろうか? おれの足はいったい、何対だっただろうか? おれの体はこんなにも大きかったか?
いや、いや。いやいや。いや。 おれは頭を振った。
まだ、まだおれは蜘蛛だ。人食いの化生じゃない。だって花の香を、草の香を、心地よいと思えるのだから。
おれは駆け出した。あの場所へ行けば、おれが蜘蛛であることは証される。 あの場所。初めてこの山に入ったとき、生まれ故郷を思い出したあの、花の香に満ちた場所。あそこならば、おれはただの蜘蛛でいられる。あの穏やかだった頃を夢見ながら眠ることができる。
しかし、あの場所へ行っても、おれの心は安らがない。 うずくまってみても、落ち着かない。 花の香も、草の香も、青臭くて辟易するばかり。
おれはもはや蜘蛛ではない。蜘蛛の姿を真似た、醜い化生に成り果てた。 おれは声もなく慟哭した。涙を流せないおれの代わりに、空が、川が泣いた。村が被害を受けたが、知ったことかとおれは悲しみ続けた。
すっかり水が引いた頃、おれは起き上がった。 村の氏子たちが困っている気配がする。山の動物たちが困惑している気配がする。 しかし、おれは何もしなかった。 大きくなった体を引きずって、洞穴へ帰った。陽の光が差し込まない、暗い洞穴で再びおれはうずくまる。
長く、長く、おれは洞穴に籠もった。 氏子たちは何度もやってきては、おれに山の主として働くよう乞うた。
「神様、あんたが働いてくれなきゃ、おれたちどうすりゃいいんだ?」 「畑は荒れ果て、食えなくなっちまう」 「川が氾濫して、住めなくなっちまう」 「みんなみんな死んじまう。そしたらあんたも、人が食えないだろうに」
おれはのっそりと顔を上げ、一言ぽつりと呟いた。
「おれはそれが、嫌なんだ」
人を食べれば食べるほど、おれのは蜘蛛から遠ざかる。もう食べたくない。これ以上、自然の理を越えて生きたくない。 そう言っておれは、人食いを、山神としての生を拒んだ。 おれが考えを曲げないのを見て、氏子たちはおれの説得を諦めた――ように見せて引き下がった。しかし洞穴から離れると、すぐにおれをその気にさせる方法を考え始めた。山神であるおれは、山道を下りながら交わす彼らの会話がよく聞こえた。
「きっと、生贄が美味しくないんだ」
ああ、彼らはおれの言葉を理解していない。わかろうとしてくれない。彼らの最初の一言に、おれは悲しくなった。
「そうだ、お気に召さないから食べたくないなんて申されるんだ」
違う、違う。暗い洞穴の中、おれは何度も首を振った。当然、彼らには見えもしない。だから彼らは、勝手な議論を続けた。
「美味しい生贄って、いったいどんな人間だ?」 「丸々肥えた、脂ののった若い人間か?」 「今まで、どんな生贄を美味しいと言っておられたか」
ううん、と考え込む彼らが、答えに辿り着かないようおれは祈った。だがおれの祈りなぞ、今まで聞き届けられた試しがない。一人が「あっ」と声を上げた。
「神様が喜ばれた生贄は、誰にでも優しい者だった」 「ああそうだ、作兵衛さんとこのばあさまは、あんなに痩せ細っていたのに喜ばれてた」 「若い者も、神様は喜ばれてたはずだ」 「そうだ、足をなくした留吉は、美味い美味いって食われてた」 「女を食べた年、神様は豊作にしてくださっていた」 「おすゑが食われた年は、どこの畑もいい野菜が採れたなぁ」
辿り着いた答えに、彼らは額を付き合わせた。
「生贄用に、子供を家畜がごとく育てよう」 「ちょうど生まれた赤子がいるぞ。女の赤子だ」 「その子を特別美味い生贄に仕立てよう」 「名はどうする」 「菫はどうだ」
――花のように愛らしい子となれ。花の香のように優しい子となれ。そして、山神様に召し上がっていただけ。
彼らは決めるだけ決めると、大急ぎで山を駆け下りていった。まるで彼らも、おれと同じ化け物になったようだ。そう思いながら、おれは特別な生贄が届けられるまでの年月を、洞穴に引きこもって過ごした。
6
そして十年あまりの歳月が過ぎた。 菫と名付けられた少女が、おれの元にやってくることになった。菫が山に入った瞬間から、おれは強烈な空腹を覚えた。悲しいことに、彼らの目論見は成功した。おれはあの子を〝美味そう〟と思ってしまった。 悪意なぞ欠片も持っていないような、心根の優しい少女。村の皆から愛情豊かに育てられたことがうかがえる、愛嬌たっぷりの少女。それが、菫だ。 氏子たちに送り届けられて洞穴の前までやってきた菫は、元気に満ち満ちた声でおれに挨拶をした。
「はじめまして、山神さま。わたし、菫です。山神さまに召し上がってもらうためやって参りました!」
きらきら光る目の、何と純粋なことか。春風のような優しい声の、何と心地よいことか。漂う花の香が、彼女の魂の清らかさを語っている。今すぐ胃の腑へ収めたいと思う反面、おれは、この子を食べたくなかった。これ以上、蜘蛛から遠く離れたものになりたくなかった。 洞穴すら窮屈に感じるほど大きなおれを、菫は恐れない。それをいいことに、おれはのそりと起き上がり、菫の前に立った。
「おれは、お前を食べない」
菫の目から光は消えない。きらきら光る目を細めて、菫はにこりと笑った。
「では召し上がってくださるその日まで、おそばに置いてくださいね!」
菫の親がいないことは知っていた。生贄のため育てることを拒んだ二人は、裏切り者として氏子たちに殴り殺された。帰る家など菫にはない。 おれは仕方なしに、菫を洞穴に住まわせた。 血も涙もない計画で育てられた菫だが、驚くほど優しい子に育っていた。生贄を食わないおれに、菫は無理強いしなかった。神として働こうとしないおれを、菫は決して責めたりしなかった。
「いつかは食べてくださいね。わたしを食べて、村を豊かにしてください」
生贄として山に入った菫は、村に降りることが許されない。生贄として育てられた菫は、山で生きる術を知らない。おれが食わない限り、菫は山で生きる必要に迫られる。 おれは重い腰を上げ、菫を洞穴から連れ出した。
「お前も食べるものが必要だろう。腹が減るならついてこい」
のそりと外へ出るおれのあとを、菫は跳ねるようについてきた。
せっかく外へ出たからと、おれは少しだけ、山の調子を整えてやった。洞穴を出るのが数日遅かったら、村は土砂で埋まっていたかもしれない。 山のあちこちを歩く道すがら、氏子たちが山中で採るものは何かを、菫に教えてやった。素直な菫はふんふんとうなずき、要領よく覚えていった。
山の恵みをある程度菫に教え終えたある日、おれは氏子たちが川からも恵みを得ていたと思い出してしまった。菫が川に入ることはあるだろうか。あるかもしれない。仕方なく、おれは菫を連れてまた洞穴から出た。ついでに、川の勢いをほどほどに整えてやる。 川の畔を歩く道すがら、氏子たちがどうやって川から恵みを得ているかを教えた。素直な菫は、時折首を傾げつつ、おれの話に耳を傾けた。菫を川には近づけないほうがいいな、とおれは思った。
山と川、そのどちらの恵みも菫が自らの手で得られるようになった頃だ。もう教えることなどなかった。菫を自由の身としてもいい頃合いだった。なのにおれは、またも思い出してしまった。 氏子たちは、人の子は、動物たちと違って火を使う。おれは火なぞ使わない。そのせいで、菫は生魚を食べて腹を壊したことがある。 火の扱いも生きる上で必要かと思い直したおれは、重い体を持ち上げて、菫を連れて外へ出た。火の扱いを教えるついでに、村の土を少しばかり柔らかくしてやった。その上で、氏子を一人呼びつけ、菫に火おこしを教えさせた。火なぞ必要ないおれは、火の熾し方なんて知らないからだ。
こうして菫は、山の中でもどうにか暮らしていける術を身に着けた。 なのにおれは、未だに菫を連れて洞穴から出ている。おれが山の神として働くのを見て、菫が目を輝かせるせいだ。
「山神さまは、こうして村をよくしてくださってるんですね。こんなに間近で山神さまの働きを見られるなんて、わたしは幸せ者です」
溌剌とした声と、輝く瞳が眩しかった。あの声が聞きたくて、おれは菫を連れ出しているのかもしれない。菫から立ち上る芳香が恋しくて、連れ歩くのかもしれない。 今日もおれが山を、川を、村を整えるのを見て、菫は花開くような笑みをおれに向けた。
「今日も山神さまのお陰で、村の人があんねいに暮らせますね」
おれは、唸るようにしか返事をできなかった。 村では、菫と同じ年頃の子供たちが駆け回って遊んでいる。菫もああして遊びたいだろうに、生贄という役目のせいで山に籠もらざるを得ない。さすがのおれも菫を気の毒に思った。 おれは村の土を整えるのを切り上げ、菫を山で遊ばせることにした。 菫が生贄だと理解しているのか、山の動物たちは菫のことを見下しているようだ。菫は髪や着物を引っ張られ、遊び道具にされている。それでも、菫の笑顔が絶えることはなかった。 草の上を転がり、動物たちと戯れる。その様子を見守りながら、おれはうとうととまどろんだ。 何も食べないせいか、近頃やたらと眠い。眠気がやってくると、理性までもが溶けていく。花のごとく芳しい香を振りまく菫を夢見心地のうちに食べてしまわないよう、おれは必死で目を開けていなくてはならなかった。 動物たちもおれの苦心がわかるのか、眠りそうになると、つついたり噛みついたりしておれを起こした。そうした理由を知らない菫だけが、おれをつつく小鳥や噛みつく兎に「いけないよ」と窘める。 おれが「いいんだ」と言っても、菫は「いけません、山神さま相手に」と聞かない。 仕方なしに、おれは菫に身の上を話した。どうして生贄を――菫を食べたくないかを、打ち明けた。眠気に抗いながら語った身の上話はひどくまとまりがなかった。しかし菫は最後までおれの話を聞き、終いには両の|眼《まなこ》からぽろぽろと涙を落とした。
「山神さまが、そんな辛い思いをされてたなんて」
花の香が、強くなった。 いけない、とおれが身を起こす前に、菫が動いた。 立ち上がった菫が、爪先立ちになって、おれの頭を抱きしめた。細腕では一抱えもあるこの頭を、長い牙が伸び目の数も増えた異形の頭を、菫はためらいもなく抱きしめた。 細かな毛の感触がくすぐったい。おれの頬を押しつけ、おれを哀れみ、菫は泣いていた。
――何て優しい子なんだろう。
おれの胸に、今まで感じたことのないものが広がる。じんわりとあたたかい何かが広がっていくと同時に、おれの中で、どうにかこの子を幸せにしてやりたいという気持ちがわき上がる。 どうすればこの子を幸せにできるだろう。どうすればこの子をまっとうに生きていかせられるだろう。この山にいる限り、菫は生贄としてしか生きていけない。どうにかして、この山から、村から出してやれないものだろうか。 おれの頭を、菫を幸せにするための考えが目まぐるしく行き交う。そんな折り、菫の双眸からこぼれ落ちる涙がひとしずく、おれの口に転がり込んだ。
甘い甘い涙だった。 花の蜜を思い出すほど甘い水滴だった。 胸に広がるあたたかいものが、わき上がっていた気持ちが、菫をまっとうに生きていかせる考えが、消し飛ぶほどの甘さだった。眠気が吹き飛び、今すぐにも菫を組み伏せたい味だった。
「あまい」
呟いたおれの声は、幸いにも、菫の耳には届かなかった。
7
それからおれは、時折、思い出したように菫に自らの過去を聞かせた。
――昔は小さな蜘蛛だった。 ――昔は花の蜜で満足できた。 ――昔は草の朝露で酔うことができた。 ――昔は、昔は……。 ――今やおれは、化け物と成り果てた。
おれの話に耳を傾け、菫はいつも涙をこぼした。
「可哀想に。山神さまは、何にも悪いことしてなかったのに」
そう言って菫は、立ち上がっておれの頭を抱きしめた。おれの口に、菫の涙が転がり込む。花の蜜のように甘く、草の上の朝露のように酔える味。おれはますます菫を美味しそうに思った。 菫はきっと、あのとろけるような甘さを思い出させてくれる。菫はきっと、あのほろ酔いの心地よさを思い出させてくれる。 けれど菫を食べることはできない。おれはおれであることを捨てたくない。食べたいけれど、食べたくない。 悩むおれのところに、不満を抱えた氏子たちがやってくる。
「どうして、菫を食べてくださらないのですか」 「前はただ糸を垂らすだけで大漁だったのに、今じゃ餌を用意しなきゃ釣れやしない!」 「前は気ままに歩くだけで、篭いっぱいの山菜が採れた。なのに今じゃ、目を皿にして探さなきゃあ、茸すら見つけられない!」 「前は耕してるだけでよかったのに、今じゃ肥やしをまいて水も引かなきゃならねえ」
まくし立てる氏子たちに、おれは「そう言われても」と口ごもる。 おれは菫を食べたくない。 しかし、山を、川を、村を何とかしなくてはならない。 おれは山の神だから。あの女と約束したから。約束は、果たさなくちゃいけない。 苦し紛れに、おれは菫の髪の毛を食べることにした。夜、一所にまとめた干し草の上に、菫を座らせた。行儀良く膝をそろえて座った菫に、おれは一房の髪を乞うた。
「菫。お前の髪を、おれにおくれ。一口でいい。一房でいい。ほんの少しでいいんだ」
菫は不思議そうにおれを見上げ、それから破顔した。
「わたしの全部は山神さまのものだから、聞かなくたっていいんですよ」
菫は快くうなずき、おれに髪を差し出した。食べた髪は涙と同じ、花の蜜のような甘露だった。 たった一房、量にすればおれの一口にも満たない。それだけの量なのに、たちまちのうちにおれの腹は膨れ、体には力が漲った。山の神として働いても、七日は疲れも感じなかった。もちろん、空腹すらも。 しかし、八日目に地獄が訪れた。 強烈な飢えを感じるようになったのだ。髪を食べる前よりも強く、焼けるような空腹だ。このままでは菫を丸呑みしかねないと、おれは慌てて菫に髪をねだった。菫は快く、おれに一房の髪を差し出した。だが、同じ量なのにおれの腹は満たされなかった。
「もう少し、分けておくれ。もう一口。もう二口」
のしかからんばかりの勢いでねだるおれに、菫は嫌な顔一つせず「どうぞ」と微笑んだ。頭を差し出し、おれの好きに食ませてくれた。おれは礼もそこそこに、菫の髪をさりさりと食んだ。 しかし、足りない。満たされるどころか、さらなる飢餓感を覚える。 ざんばらになった菫の髪を見て、おれは理解した。おれはもう、菫の髪では足りなくなってしまった。おれは己の浅ましさに悲しくなった。 涙の味を知らなければ、髪を食べようと思わなかっただろうか。 髪を食べなければ、こんな飢餓を味わわなかっただろうか。 けれど、菫の味を知ってしまえばもう戻れない。 おれは山の神だ。おれは女と約束したのだ。氏子たちを、氏子たちの住む場所を、守ってやらねばならない。 そう言い訳して、なるべく困らない箇所にするからと自分に言い聞かせて、菫の体を、ほんの少しずつ食べていくと決めた。
――最初は、足の指を一本だけ。一本だけなら、まだ歩けるはずだから。
浅ましい思考に支配されたおれは、夜、眠る菫にそっと近づいた。 動物たちが集めた葉や羽を固めた寝床で、菫はすやすや眠っている。おれはその小さな体に、今や十本に増えた足でのしかかった。
「菫、菫」
おれの呼び声に、菫は身じろいで寝ぼけ眼を開いた。ぼやけた声が「山神さま」とおれを呼ぶ。おれは異形の顔を近づけ、いじらしいほどおれを慕う菫に懇願した。
「腹が、減ったんだ」
もはやおれの腹を満たしはできぬ髪をさりさりと食みながら、指の一本を拝むように乞う。これでは、どちらが神でどちらが氏子かわからない。
「お前の手の代わりはできないけれど、足の代わりならできる。この背中に乗せて、どこへでも連れて行ってやる。だから、少しだけ。ほんの少しだけ、分けておくれ。指の一本でいいんだ。痛くないよう、苦しくないよう、気をつけるから」
おれの哀願に、菫は微笑んだ。
「つむじから爪先まで、わたしのすべては山神さまのものです。何も言わず、気の向くままに、召し上がってくださいませ」
菫の頬に、ぽたりと雫が落ちた。たった一粒謝罪の涙を落としたおれは、ようやく得た許しに喜んで菫の足に牙を立てた。 式として得た毒を使うのは、久方ぶりだった。それでも毒はうまく回り、菫の意識がもうろうとしているうちに、小さな足の小さな指を一本、おれは食み取った。 涙よりも、髪よりも甘い、とろけるような味だった。
8
それからおれは、魅入られたように|夜毎《よごと》菫にのしかかった。菫は嫌がりも泣き叫びもせず、ただ微笑んでおれに血肉を差し出した。 毎夜一本ずつ足の指を失い、菫はすぐに一人で歩けなくなった。なのに菫は泣き言も漏らさず、日々を過ごした。 歩けなくなった菫を、おれは背に乗せて山を歩いた。おれが整えた山を、川を、村を、菫は幸せそうに眺めていた。 菫がこんな風になっても、おれの腹は依然として満たされなかった。なぜだなぜだと自問しつつ、おれはまた、菫に懇願した。
「菫、菫。お願いだ、お前の足をおれにおくれ」
おれの浅ましい懇願に、菫は「お上がりください」と微笑んだ。そうして菫は、くるぶしから下を失った。日を置かず、膝から下を失った。これではもう、おれの背に乗ることも難しい。 氏子たちを呼び寄せて、菫の足代わりになる道具を作らせた。菫を少しずつ食べているお陰で、氏子たちは労することなく恵みを得ている。おれが多少の難題を押しつけても、氏子たちは一つ返事で受け入れた。 菫のために、木で足が作られた。菫のために、おれの背に乗せる鞍を作られた。しかしどちらもすぐ、無用の長物となった。膝まで食べ終えたおれは、菫の手をも食べ始めたからだ。 菫はまず、小指を失った。それから毎夜一本ずつ、菫の手から指が消える。指を失っては、もう手綱を握れない。指がなくなると、おれは菫の手を食べた。菫を食べれば食べるほど、おれの力は満ち満ちて、村は豊かになった。菫はそれを喜んだ。なくなった手を打ち合わせ、村が栄えることを自分のことのように喜ぶ。 菫の丸くなった腕の先端を見つめ、おれは涎を堪えるのに必死だった。 手がなければ、転んでも体を支えることができない。あんな丸い手首だけで、体を支えられるわけがない。支えることができないならば、歩くなんて危険なこと、させられるわけがない。
「だからもう、その腕も必要ないだろう?」
おれの非情な言葉にも、菫は笑顔でうなずいた。甘美な血肉を、おれは再び味わった。 膝から下もなく、腕から先もない菫は、もはや人形だ。おれだけでは到底世話をしきれない。菫のための世話人が必要だ。おれはまたも氏子を呼びつけ、菫の世話を言いつけなければならなかった。 氏子たちは、喜んで菫の世話をしに山を登った。何もせずとも飢えることのない彼らは、人手が余っていた。代わる代わる山に登っては、彼らは菫の面倒を見た。 見るたびに体の部位が減っていく菫を見ても、氏子たちの誰も、笑顔を崩さなかった。 今や、菫の寝床は草や羽ではなく村から運ばれた布団だ。たっぷりの綿が入った清潔な布団で、菫は一日の大半を過ごす。その日は世話人が外へ連れ出したからか、菫はよほど疲れたようで、おれが近づこうとも寝息を立てていた。ずいぶん小さくなった菫を見下ろし、おれはためらいながらのしかかった。 もぞもぞと、菫が動く。おれはぽたぽたと涙を落とした。
「菫、菫」
おれを見上げ、菫は笑った。言わずとも、菫にはおれの気持ちが通じていた。
「わたしのすべてはあなたのものです。遠慮せず食べてくださいませ、山神さま」
こんな優しい子なのに、おれはどうして食べたいと思うのだろう。悲しくて、苦しくて、おれはほとほとと涙を落とし首を振った。
「食べたくない。食べたくないんだ、おれは」
泣きながら首を振るおれを、菫はいつかのように、不思議そうに見上げた。
「じゃあどうして、そんなに涎をこぼしているの?」
おれは目を見開き、菫をよく見た。 菫の頬に落ちる水滴は、糸を引いていた。これはまるで、吐き出さなくなって等しい糸のようだ。涙はこんな風に、糸を引くだろうか? 答えは否だ。菫の頬に落ちていたのは、涙ではなく涎だった。おれは今まで、菫に申し訳ないと思っていたはずだ。菫を哀れに思っていたはずだ。菫のために涙を落としていたはずだ。 だが目の前にある水滴が、菫の頬に落ちた一滴が、おれの中にそんな気持ちはなかったのだと知らしめる。おれはどこまでも、己の食欲に忠実な、浅ましい人食いの化生だったのだ。 衝撃を受けるとほぼ同時に、おれはおれを見失った。気がつけば布団は真っ赤に染まっていて、そこに菫の姿はなかった。 おれは、菫を食べ尽くしてしまった。腹は満たされたのに、おれの胸は空っぽになった。
「食べてしまった。可愛い可愛いおれの菫を、食べてしまった」
満たされた腹が不快な重さに変わる。吐いてしまおうか。そんな考えが|過《よぎ》ったが、菫を吐き出すことはできなかった。 腹の重さに引きずられるように、頭が重くなり、気分が塞ぎ、おれは洞穴から出られなくなった。浮かぶのは、菫の笑顔。菫の声。菫の足音。菫の感触。菫の匂い。
「菫がいない。姿が見えない。声が聞こえない」
足の間に頭を埋め、おれはたらりと涎を垂らした。
「もう二度と、菫を味わえない」
己の浅ましい台詞に気づき、おれはつくづくこの身が嫌になった。 おれが菫を欠片も残さず食べたと知った氏子たちは、洞穴から出てこないおれを責めなかった。務めを果たそうとしないおれに、猫撫で声をかけるだけだった。
「山神様、山神様。来年も格別の生贄をお届けします。ですからどうか、どうか」
翌年、彼らは菫の次にと用意していた生贄を連れてきた。菫と同じように、きらきらした目でおれを見上げる、良い子であった。花の優しい香と、草露の爽やかな香をまとった子だった。だがおれは、今度こそ指一本触れはしなかった。おれの前にやってきたその子を、氏子たちに向かって押し戻した。
「おれはもう、お前たちが差し出す子を食べない。もう誰も、食べたりしない」
菫と同じように育てられた子供だ。花のように芳しい香りで、この子の心根が優しいことはわかる。食べればきっと、菫と同じ味がするだろう。 だからこそ、食べたくなかった。 菫の味だけを覚えていたかった。菫の味を、忘れてはいけないと思った。 飲まず、食わず、おれは洞穴に転がっていた。そのうち体は萎れて干からびて、抜け殻のようになった。 そしておれの生は、幕を閉じた。 死んでなお、おれは山にとどまっていた。体から魂が抜けきらなかったせいか、一度は主となったこの山の行く末を見届けねばならないからなのかは、わからない。 おれの亡骸を見た氏子たちは驚き、悲しみ、嘆いた。これからの生活をどうすればいいのかと、誰もがそればかり気にしていた。おれの亡骸を洞穴に残し、氏子たちは泣きながら、悩みながら、山を下りていった。 生きているのだ、彼らが生活のことばかり心配するのも仕方ないといえる。しかしそれらは杞憂だった。 おれが死んだあとも、山や川、村の土に目立った変化はなかった。おれの魂が体から抜けきらないように、山神の力もすぐには消えなかったのだろう。だがそれを、氏子たちは違った目で捉えた。|山神《おれ》がいなくとも、山や川、村の土は安寧なのだと思ったらしい。
「騙しやがった」
そう憤ったのは、おれへの生贄を一度も出したことのない家の若者だった。血気盛んな彼は、鍬を持ちほかの氏子たちを集めた。
「あいつはただの人食いの化け物だった。おれたちを食うために、山神様のふりしてやがったんだ」
彼の怒りに煽られて、ほかの氏子たちも農具や松明を持って集まった。怒りが燃え盛る目で、氏子たちはおれの亡骸が転がる洞穴を目指した。
「私の子を返せ」 「おれのばあちゃんを返せ」 「よくも俺たちを騙したな、化け物め!」
鍬が、鋤が、鎌が、おれの体に突き刺さる。松明を持っていた者が、おれの体に火をつける。火だるまになったおれの体は灰になり、風に乗って散らばった。 それでも|魂《おれ》は、|山《ここ》に残った。
おれが灰になって、何年が過ぎただろうか。ようやく|山神《おれ》の力が山から消えた。豊かな土壌は荒れ果て、川は何度も氾濫し、土砂崩れが起き、麓の村はすっかり人の住めぬ土地となった。氏子たちは次々に土地を離れ、最後の一人も足を引きずり旅立った。 風が吹き、寂しげな音を立て、おれが住んでいた洞窟を吹き抜けていく。人が入らなくなった山で、動物たちだけが、変わらぬ営みを繰り返した。