貴女の為に盗みました

 夜も迫った黄昏時のこと。新聞紙を片手に、私は家を飛び出した。

「これ、はしたない!」

 そう叱るお母様の声が聞こえたけれど、気にしていられない。坂上さんちのお兄さんに、この記事を見てもらわなくてはいけないのだから。  町中を駆け回り、お兄さんを探す。お兄さんは坂上さんちの居候だ。坂上さんの甥っ子で、私とは親戚でも何でもない。でもお兄さんは、一回り年の離れた私を対等に扱ってくれる。私はお兄さんを実の兄のように慕っていた。  坂上さんは「働きもせずふらふらしおって」とご立腹のようだけど、お兄さんはどこ吹く風。気がつけばいつも街中をふらふらしてる。  今日もほら、土手沿いの桜並木を、一人で歩いてた。  赤や黄色に色づいた桜を見上げ歩くお兄さんに、私は大きな声で呼びかけた。

「お兄さん、お兄さん、見て!」

 私の声に、お兄さんが「おや」と振り向く。

「どうも、燕子花のお嬢さん。こんな風太郎に何のご用で?」

 うちの燕子花が見事だからって、お兄さんはいつも、私のことを名前でなく花の名で呼ぶ。でも私だって、お兄さんをお兄さんとしか呼ばないからおあいこだ。ううん、そんなこと今はどうでもいい!  私は立ち止まってくれたお兄さんの隣に並ぶと、息を整える時間も惜しんで新聞を差し出した。

「お父様が見ていた新聞! 拝借してきたの!」

 私から新聞を受け取ると、お兄さんは「ふむ」と目を通した。  お兄さんは優しい。お母様たちからお小言を言われるような、つまらない、荒唐無稽な話でも、うんうんとうなずき聞いてくれる。そんなお兄さんならわかってくれるはずだと、新聞を読み終えるのを待った。  お兄さんがどこかの記事に目を留めた。私が読んでほしい記事かしら。そうであってほしい。はらはらどきどきしつつ見守る私の前で、お兄さんは「ううん」と唸った。

「どうも、経済がよろしくないようで……」 「んもう、違うわ! これを見て、これ!」

 我慢できず、私は横から手を出すと、ばさばさ頁をめくった。  お兄さんに見せたのは、月を盗んだ男の記事。実際は、そんな風に見える写真を撮った、異国の方の話だ。  異国で見る月は、私が縁側で見るお月様よりずいぶん大きい。これを見た瞬間、私はお兄さんにも同じことを感じてほしくて、お父様から新聞を借りるなり家を飛び出してしまったのだ。  お兄さんは私が開いた記事を見て、感心した声を上げた。

「ほう、月を盗んだ男。いやはやこれは、うまくできた写真だなぁ」

 うんうんとうなずき記事を読んだお兄さんは、新聞を丁寧に新聞を畳み、私の手に新聞を返した。  写真の出来の良さももちろんだけれど、お兄さんと話したかったのはそこじゃない。そんな大人みたいな感想が聞きたかったんじゃない。

「違うわ、お兄さん。私そんなこと言ってほしくて持ってきたんじゃないの!」

 私が頬を膨らませると、お兄さんは「それは失礼」と肩を竦め笑った。

「じゃあお嬢さんは、僕に何と言ってほしかったのかな?」 「ロマンチックなことをされる方がいるねって、同意してほしかったの!」

 月を盗む。  夜空に浮かぶたった一つだけの月を、我が物としてしまう。  そんなの、想像しただけでわくわくして、その場で飛び跳ねたくなる。 お月様はどんな感触なんだろう?  舶来の銀食器のようにつるつる? お茶室の壁のようにざらざら?  漬物石のように重いかも。軽石のように軽いかも。  思いを巡らせ想像に耽る私を見て、お兄さんはふーむと思案顔。すっかり紺色が優勢になった空を見上げ、少しばかり顔を出したお月様を指さした。

「お嬢さんは、月がほしいと」 「ほしいんじゃなくて、盗んでみたいの!」 「なるほどね。じゃあ、僕が盗んであげようか」

 お兄さんはとっても簡単そうに言った。だけど月って、とっても遠い場所にある、とっても大きなものなのに。

「盗めるの?」

 思わず尋ねた私に、お兄さんはにこりと笑ってうなずいた。

「簡単さ」

 お兄さんは「ご|覧《ろう》じろ」とシルクのハンカチを取り出した。ひらひらと振って、何も隠していないことを暗に示す。そしてもう片手を大きく開き、何も持っていない、と私に見せた。

「月を盗むには、月に出てきてもらわないとね。お嬢さん、お時間は?」 「平気! お兄さんと一緒だもの、そんなに叱られないはずだわ!」 「叱られるのは間違いないようで」

 くっくと笑ったお兄さんは、まだ山際で恥ずかしがっているお月様へ声をかけた。

「お前さんが出てこないと、お嬢さんが叱られるんだ。早く出てきてくれないか」

 お兄さんが声をかけると、お月様は億劫そうに渋々と、けれどさっきよりうんと早く、空へ出てきた。  まん丸なお月様が、空の真ん中に浮かぶ。まるで、お兄さんの言葉が届いたみたい。

「それでは、これからあの月を盗んでみせましょう」

 お兄さんは私に向かって、恭しく、芝居がかった動作でお辞儀をした。私もぺこりと頭を下げて、お兄さんがお月様を盗むのを待つ。  お兄さんはまず、手のひらにお月様を載せた。そこへハンカチを被せるふりをする。しかしお兄さんが手を離すと、ハンカチは宙に浮いた。よく太った満月に被さってるように、まん丸だ。

「一、二の三で月を盗むよ」

 私はうなずき、固唾を呑んでお兄さんの手元を見つめた。お兄さんは涼しい顔で三つ数え、えいとハンカチを取り去った。  ハンカチの向こうには何もない。空に浮かんでいた、あのまん丸のお月様すらも!

「わあ、すごい! お月様が消えちゃった」

 心なしか、空も暗さを増した気がする。なんて上手な手妻だろう!  惜しみなく拍手を送ると、お兄さんは笑みを浮かべ私の肩を指した。何があるんだろう、と目を向けても、肩の上には何にもない。

「おっと失礼、こっちだった」 「なぁに、お兄さんてば」

 肩からお兄さんへ目をやると、手を差し出されていた。差し伸べられた手の上には、小さな丸いお月様。

「あなたのために、夜空の月を盗みました」

 近くで見ても眩しくないほど淡く光るまぁるい石。それは紛れもなくお月様だった。  きっと私、もう宝石を見ても喜べない。だってこんな、たった一つしかない輝きを贈られたんだもの。どんな高価な贈り物よりも、未来の夫からもらったモダンな指輪よりも、何十倍、何百倍も嬉しい!

「素敵、素敵!」

 我慢できずその場で飛び跳ね、お兄さんの手にしがみついた。

「とってもロマンチックだわ! ありがとう、お兄さん!」 「そんなに喜んでもらえると、僕まで嬉しくなるなぁ」

 お兄さんの手から私の手へ、お月様が転がり移る。手渡された月はつるりとして、大きさの割に少し重くて、ひんやりしていた。  手のひらで月――を模した石――を転がし、私はにこにこにこにこ笑っていた。お兄さんも、嬉しそうに笑っている。

「満足できたかい?」 「もちろん! 本当に、とっても上手な手品だったわ。素敵なお土産もありがとう!」 「手品じゃあないけど、喜んでくれたなら何よりだ。それじゃあ、帰ろうか」 「ほんとだ、帰らなきゃ! お母様きっと、頭に角が生えてるわ」 「それは怖い」

 ちっとも怖くなさそうに肩を揺らし、お兄さんは歩き出した。私も後に続いて、月を模した石を抱いて家路を歩く。  坂上さんの家は、土手と私の家の間にある。けれどお兄さんは坂上さんの家の前を通り過ぎて、私と家まで歩いてくれた。そして私と一緒に、家の前で待ち構えていたお母様にこってり叱られてくれた。  珍しくしゅんとしょげ返るお兄さんに、お父様がこそこそと「仕事でも見つけなさい」と慰めの言葉をかけていた。お兄さんは「慰めになってませんよ」と肩を落としていたけれど。  お母様に叱られながら、私はお兄さんと歩いた帰り道を思い出していた。  二人で歩いた道中、空に月は見えなかった。でもそれは、お兄さんの手妻の続きだろうとのんきに考えていた。  けれど次の日も、また次の日も、月は空に昇らない。ご近所で噂になるどころか、新聞で騒がれるようになった。  お兄さんからもらった月は、私の部屋にある。机の上、宝物を入れた小箱の中でころころ揺れている。  これはもしかして、本物なの? 本物の月を、たった一つしかないものを、私、自分のものにしてしまったの?

「ねえ、ねえ、あなた本物のお月様なの? だったらお空へ帰らなきゃ」

 そう言って、夜更けにこっそり箱から出し、空へ掲げた。手のひらのお月様は、ころころ転がるばかりで浮き上がりもしない。  困った。  困ってしまった。  一度お兄さんに会わなくちゃ。でもどうやって? お兄さんはついこの間、坂上さんちのおじさんに首根っこ掴まれて、よその国へ旅立ってしまった。留学でもして箔をつけてこい、と言われたらしい。でも、でもそうしたら、誰に月を戻してと頼めばいいの?  私のせいで月が消えたのに、私はそれを誰にも言えない。  言ったところで、誰が信じてくれるの?  信じてくれたところで、私はどう償えばいいの?  今日も夜空では、頼りなげに星が瞬いている。すっかり寂しくなった夜空を見上げ、今夜も月が見えないと嘆くご近所さんの声に胸を痛める。

「お兄さん、お兄さん、早く帰ってきて」

 空に向かって祈ったって、誰も返事をくれはしない。小箱の中の月が転がり、ことん、と音を立てる。  私は心細さに、きゅうとハンカチを握りしめるしかできなかった。