※ 人外→人間♀→人間♂なので人外は報われません。
リーナは物心着いた頃から森の奥にある塔に小間使いとして仕えていた。塔には『身代わりの王子』と呼ばれる少年がいて、年の頃はリーナより五つほど上といったところだった。 少年はまさしく王子なのだが、双子の弟として生まれたため、いずれこの森の向こうにある山に住む大蛇に捧げられると運命付けられている。リーナには、なぜ弟に産まれたからといって捧げられねばならないのかが理解できなかった。だが身代わりの王子――エリアスがいつも寂しそうに窓の外を見ているのは知っていた。
「今日のお花は、スズランにしよっと」
用事を言いつけられて外に出るたび、リーナはエリアスに渡す花を摘む。塔の中に軟禁されているエリアスにとって、外に面した部屋で森の様子を見るのは唯一の心の慰めだったからだ。 王子の部屋に小間使いが堂々と行くなどと本来許されない。だからリーナはこっそりと、大人たちの目を盗んでエリアスの部屋へ行く。
「王子、王子。リーナです。お花を持ってきました」 「入っておいで」
優しい声がリーナを招く。リーナがそっとドアを開けると、エリアスは窓際の椅子に腰掛け、読んでいた本を閉じるところだった。
「今日はスズランです」 「ありがとう。いつも可愛い花を選んでくれるね」 「王子、お花が好きだから」 「そうだね、好きだよ。きみが摘んできてくれるから」 「えへへ」
エリアスは、リーナが持ってきた花を花瓶に飾らない。そんなことしても萎れてしまうからだ。リーナからもらった花はすべて押し花にし、大切に保管してある。だがリーナはそれを知らない。
「今日の外はどうだった?」 「森ですか、町ですか?」 「そうだなぁ、森の様子が聞きたいかな」 「じゃあ帰り道で見た猪の親子の話をします!」
リーナの語る話はどれも拙い。道化師のように面白おかしく誇張することも、学者のように学びある内容を語るでもない。ただありのままを、ありのままに語る。エリアスにはそれがちょうど良く、眩しかった。
「いいな。僕も出てみたいよ」
エリアスが初めて、本心を吐露した。リーナはきょとんとしてエリアスを見る。エリアスは「しまった」と言いたげに口を覆い隠したが、一度こぼれた言葉は覆らない。しばらくじっとエリアスを見ていたリーナは、輝く笑顔でエリアスに提案した。
「じゃあ行きましょう!」 「ええ? だめだよ、僕は逃げ出さないようこの塔で見張られてるんだから」 「逃げるんじゃないです、遊びに行くんです!」 「しょ……しょうがないなぁ」
リーナの言い分は破綻している。けれどそれを追及できるほど、エリアスの中の外への渇望は弱くない。リーナの手を取り、エリアスはそっと部屋を出た。 廊下の角を利用し、時に物陰を利用し、リーナとエリアスは一歩一歩外へ近づいた。
「こっそり外に出るなら、ここが一番です!」 「ええ……物置じゃないか、ここ」 「そうです! ここの窓から……よいしょ」 「リーナって、意外と能動的だね」 「のーどーてきって何ですか? 王子、それより早く早く!」
物置に放置されていた机を踏み台に、リーナがまず外へ出た。エリアスは埃臭さを気にしつつ、外への憧れを抱いて一歩踏み出す。窓枠を蹴り外へ出た瞬間、エリアスは自分の世界が広がるのを見た。 青い空。頬を撫でる風。草の匂い。木々の葉がざわめく音。遠くに聞こえる小鳥の声。 それらすべてが、エリアスにとって新鮮だった。
「すごい……。外って、こんな風にあるんだ」 「そうですよ。でも森はもっとすごいです!」 「どうなってるんだい?」 「それは見てのお楽しみです!」
リーナが駆け出し、エリアスも追いかけ走り出す。走るなんて初めてのエリアスはすぐに息が上がったが、それすらも楽しくて、息が苦しいのも忘れてリーナの後ろ姿を追った。 それから二人は、小さな子供のように森を楽しんだ。 森の中を駆け回る。低木になる実をもいで食べる。せせらぎに足を浸す。鳥の声に耳を澄ます。飛び出してきた猪の親子を刺激しないようそっと離れる。
「楽しいですね、王子っ」 「楽しいね、リーナ」
エリアスの返事に嘘はない。リーナの輝く笑顔に嘘はない。楽しい時間だった。けれどそれは、ほんのわずかな間のことだった。
「こんなところにいましたか、エリアス様」
低い声が二人の背後から聞こえた。かと思うと、エリアスの体はふわりと浮き、屈強な男の肩に担がれていた。リーナの手も、男の手に捕えられている。
「帰りますよ」
有無を言わさない声だった。エリアスは「離せ」ともがく気力もなく、ただ男に担がれ塔へ戻った。 塔で待っていたのは、リーナへの厳しい折檻だった。リーナが泣いても止まらない。給仕長は鞭でリーナを打ち据える。エリアスが止めても、鞭は止まらない。
「連れ出せと言ったのは僕だ、その子は悪くない!」 「いいえ。唆したこの者が悪いのです」
そしてエリアスは、監禁されることとなった。塔の一番上、決まった者しか入れぬ部屋、窓一つない部屋へ。 リーナは己の軽率な行動を悔やんだ。エリアスから唯一の楽しみを奪ったことを悔やんだ。 リーナは考えた。悪いのは己か。そもそも王子が外へ出てはいけないのはなぜか。王子を身代わりに捧げようとする王が悪いのではないか。王子を捧げるよう要求する人外の者が悪いのではないか。 痛む体にローブを被り、リーナは塔を出た。リーナがいなくなっても、ほかの使用人たちは「ひどい折檻に逃げ出したんだろう」としか思わなかった。
リーナは歩いた。歩いて、歩いて、王子が捧げられるという山へ向かった。お腹が空いた。喉が渇いた。それでもリーナは歩き続けた。 山の奥、沼地のあるその洞窟前に、大蛇はいた。退屈そうに頭だけを外へ出し、時折不満げに洞窟の岩を尻尾で叩いていた。 リーナは勇気を出し、大蛇に尋ねた。
「どうして、王子を捧げろって言うの?」 「んあぁ?」
大蛇は眠たげに声を上げ、リーナを見た。そしてそれからつまらなさそうに答えた。
「別に王子じゃなくていい。ただあの国の王が昔、俺に花嫁を寄越すと言って嘘をついた。俺を退治しようと王子を寄越した。腹が立って王子を殺したが、まだ腹が立つから王子を寄越すよう言ってるのさ」 「あんた、お嫁さんがほしかったの?」
大蛇はリーナからぷいと顔を逸らし「そうさ」とうなずいた。
「俺は寂しいんだ。この辺りの動物はなぜだか俺を怖がるし、おんなじような蛇もいない。寂しい寂しいって暴れ回ってたら、静かにしてくれれば娘を嫁にやるって言われたんだ。なのにあいつは約束を破った。だから俺は王子を捧げろって言ってるのさ」 「じゃあ私がお嫁さんになってあげるって言ったら、あんた、もう王子を寄越せって言わない」 「ううん?」
大蛇は逸らした顔をリーナに戻し、しげしげとリーナを眺めた。
「そうだなあ」
大蛇が言う。
「あんた、気が強そうだし、体も丈夫そうだ。ちょっとのことじゃ泣かなさそうでいいなぁ。長生きしそうでいいなぁ。あんたが俺のお嫁さんになるなら、俺、もう王子なんていらないなぁ」 「じゃあ約束。私がお嫁さんになってあげるから、王子を寄越せって言わないで」 「待て待て待て」
大蛇はずるりと洞窟から出てきた。長い長い体は見上げるほど大きく、リーナは首が痛くなった。
「何度も何度も約束を破られてるんだ。お前が俺のお嫁さんになってからじゃなきゃ、俺は王子なんかいらないって、王に言わないぞ」 「わかった。何をすればお嫁さんになれる?」 「たくさんの酒とご馳走だなぁ。いや、ご馳走なんていらない。酒さえあればいい」 「ほかには何もいらないの? わかった、お酒をたくさん用意するね」
リーナは走った。走って、走って、町へ走った。そこでたくさんの酒を買うと、薬屋で一つ薬も買った。
「よく効く薬をちょうだいな。鼠がコロリと死ぬような」 「おや、塔に鼠でも出たかい、お嬢ちゃん」 「まあね」
歩くのも大変なほど酒を買い込んだリーナは、よたよた、のろのろと山道を歩いた。誰にも助けは求められない。リーナ一人でやり遂げねばならないことだ。 途中で足を止め、酒瓶の一つに殺鼠剤をすべて溶かし込む。
「あの蛇がいるからいけないんだ。あの蛇がいなくなれば、王子は捧げられなくて済むんだ」
薬を入れたせいで酒はだいぶ濁ってしまったが、リーナは気にせず蓋をした。そして酒の山をまた背負い直すと、よたよた、よろよろと再び山道を歩いた。 洞窟前では、大蛇がウキウキしながら待っていた。リーナが持ってきた酒の山を見ると、舌をちろちろ出して喜んだ。
「さあ、さあ、宴をしよう、花嫁殿。俺とお前の結婚式だ!」 「私まだお酒が飲めないの。あんたにお酌するだけでもいい?」 「もちろんだとも花嫁殿! ああ嬉しや、花嫁殿の手酌で酒が飲めるなんてなぁ!」
蛇はでれでれと大口を開ける。リーナはそこへまず、毒の入っていない酒を注いだ。大蛇は何も疑わず、喉を鳴らして酒を飲み干す。
「さあ次だ、花嫁殿。もっともっと、浴びるように飲ませてくれ!」
頼まれた通り、リーナは浴びせるように酒を飲ませた。途中、毒の入った酒瓶の中身も注いだ。大蛇の体が大きすぎるからか、長すぎるからか、毒はなかなか効果を現さない。酒瓶が残り少なくなりリーナがハラハラし出した頃、ようやく大蛇は苦しみだした。
「うーん、うん。何だ、なぜだ、苦しい……」 「ああ……やっと効いてきた」 「何をしたんだ花嫁殿。喉が、喉が焼ける。腹が熱い。苦しい。痛い」 「あんたがいるから、王子は捧げられるんだ。あんたがいるから、王子は外に出ちゃいけないんだ。だから私、あんたを……殺そうと、思って」
大蛇の目から大粒の涙がこぼれる。リーナはたじろいだ。今まで何人もの王子を要求し殺してきた大蛇に、流す涙があるなんて思いもしなかった。
「痛い、痛い、苦しい」 「何で……何で、泣くの」 「花嫁殿、苦しい、痛い、助けてくれ」 「私が毒を盛ったんだよ。助けるわけ、ないじゃん」 「花嫁殿、花嫁殿」 「……ごめんね」
リーナの目からも、涙がこぼれた。大蛇をただの悪い奴だと思っていた後悔が、涙となってあふれ出す。
「ごめんね、ごめんね。そんなに苦しいんだね。痛いんだね。ごめんね。でも私、あんたより王子を助けたいの。ごめんね、せめて最期まで見ていてあげるから」
のたうつ大蛇のそばで、リーナはそう囁く。大蛇は暴れながらリーナを見た。
「花嫁殿、泣いてくれるのか? 俺を、俺の死を、悲しんでくれるのか?」
リーナは答えない。答えられなかった。だが大蛇は答えなど返ってこなくても満足だったらしい。
「そうか……そうかぁ。俺の死を、そんなに悲しんでくれるのかぁ」
――最期の最後に、いいものもらえたなぁ。
そう呟いて、大蛇は絶命した。血反吐を吐いて、リーナを汚して、悶絶して、死んだ。リーナは涙と血を拭いながら、行きよりもさらに重い足取りで山道を下った。
翌日。塔は大騒ぎだった。大蛇のご機嫌伺いに行った使者が、死んでいる大蛇を見つけたからだ。 大蛇はただ平穏を約束していただけではなかったらしい。平穏と共に、国の栄華をも約束していたようだ。けれど大蛇の死んだ今、平穏も栄華も失われてゆくのみ。 王へ使者を送れ、いやその前にこの塔にある金目の物を盗んでしまえ、いやそれよりもこの国から逃げ出さねば。 騒然とする塔内に戻ってきたリーナは、エリアスの部屋の鍵をこっそりと盗みだし、階段を上った。本来エリアスの部屋の前は数人の警備がいる。しかしこの騒ぎで、警備なんて一人もいなかった。 リーナは自分が大蛇の血を被っていることを思い出し、ドアをノックするのを躊躇する。しかし、結局は遠慮がちに叩いた。
「王子。む、迎えに、来ました」
エリアスの声が「リーナ?」と呼ぶ。自分にはもう名前を呼んでもらう資格もないのではないかと思いつつ、リーナは鍵を開けた。そっとドアを押し開け、中に入る。エリアスはリーナの姿を見て、驚いたようだった。
「どうしたんだい、リーナ。酒のにおいがひどいし、服も……それは、血?」 「あ、あの」
リーナは声が震えるのを抑えられなかった。それでもどうにか、涙だけは堪えようとした。
「王子が死んじゃうなんて嫌で……王子が、広い広い世界を見ないまま死んじゃうなんて、悲しくて」
ローブから血が滴り落ち、エリアスの部屋を汚す。
「あの、あの蛇に、酒と一緒に毒を盛ったんです。あの蛇は、生け贄よりもお嫁さんをほしがってたから。私がお嫁さんになってあげるよって、お酒をたくさん、持って行ったんです」
リーナの目から、とうとう涙がほろほろと落ちた。 リーナがそれ以上何も言わなくても、エリアスには、大蛇がどうなったかわかった。
「王子、一緒に外へ出ませんか?」
エリアスは、自分より幼いリーナが成し遂げたことを、影とは言え王子である自分が、褒めるべきではないとわかっていた。わかっていたが、言わずにいられなかった。
「ありがとう」
エリアスは、リーナの手を取った。小さな手は震えていた。エリアスは服が汚れるのも構わず、リーナを慰めるように抱きしめた。
「きみとなら、世界の果てまでも行けそうだ」
リーナがわっと泣き出したのを慰めながら、エリアスはリーナと二人、世界を歩く決意をした。 二人は簡単に荷物をまとめ、手を取り合い、塔を出て森を抜け、広い広い世界へ飛び出していった。 その後一つの王国が滅びたけれど、そんなこと、長い長い歴史ではよくあることだ。滅びた国は忘れ去られ、死んだ大蛇も忘れ去られた。 生け贄にされるはずだった影の王子なんて、その侍女のことなんて、誰も気にとめない。 二人の行方は誰も知らない。 二人の結末は誰も知らない。 ただ確かなのは、二人は最期まで自由であっただろう――ということだけだった。