ここ数年、球状者介護施設の需要が高まっている。というのも、世間の荒波に揉まれ続けた人が物理的に丸くなる現象が続いているからだ。 今までどれだけ角張っていた人も、丸くなると常に穏やかな顔つきになる。怒鳴り散らしていた人でも、穏やかな、優しい声になる。体はもちもちと柔らかく、まるでつきたての餅のよう。焼きたてのスポンジケーキのような、優しく、甘い匂いもする。 揉まれ続けた人が全員こんな風に丸くなるかというと、そうでもない。近所の角田さんなんて、死ぬ前日まで鬼の形相で野良猫を追い回していた。 いったい、何が原因で球状になるのか。球状になる基準は何なのか。球状になってなお体積を削りさらに丸くするものは何なのか。 これらは今なお研究中であり、詳しいことはわからない。研究者でもない私がそれを知るのは、何十年先だろう。 市民がわかっているのはただ一つ。丸くなるのはさほど『悪くない』らしい、ということだけだ。
「玉井さん、おはよう」 「おはようございます」 「白川さんがたまちゃんはまだって聞いてたよ」 「わかりました」
白川さんは私が担当する球状者の一人、可愛いおばあさんだ。白川さんはご多分に漏れず、子供の頃から苦労を重ねている。 結婚した相手と小さな料理屋を始め、子供もできていざこれから、という時に相手を事故で亡くした。それから娘さんを背負って店を切り盛りしたけれど、詐欺や何やらに騙され店を奪われてしまった。 それでも生きねばなるまいと、昼と夜と問わず娘さんのために働いた。貧乏生活に泣き言も言わない白川さんの背中を、娘さんはしっかり見ていた。勉学に励んだ娘さんは国立の大学に進み、弁護士として活躍するまでになったらしい。 娘が立派に育ったことで肩の荷が下りた頃、白川さんは徐々に体が丸くなっていったそうだ。 苦労はしたらしいが、白川さんは球状になる前から人当たりのいい性格だったらしい。根っからの人格者を見ると、私は気まずくなる。自分の未熟さを責められているような気になる。 白川さんはそんなこと、欠片も気にしないのだけれど。 朝の健康チェックを兼ね、道具を持ってスタッフルームを出た。 白川さんがいるのは二〇五号室だ。横滑りのドアを開けると、美味しそうな匂いが鼻腔をくすぐった。部屋には計八名の球状者がいて、どこもカーテンで仕切られている。一番窓際が白川さんのいるベッドだ。 ドア際から順番に声をかけ、体調を尋ね、数値を記録する。最後が、白川さんだ。カーテンを開け、声をかける。
「白川さん、おはようございます。どこか痛くありませんか」 「あら、たまちゃん。おはよう。痛くなんかないわ。丸くなってから、一度も痛いなんて思ったことないの。うふふ!」
白川さんのベッドは、ベビーベッドだ。白川さんの体はもう、赤ん坊より小さくなっていた。 球状者の大きさは、最初こそ本人の身長と変わらない。白川さんのかつての身長は、その年代の平均身長だったと聞いている。 こんなに小さくなっても、白川さんはいつも通り、上品に、楽しそうに笑う。
「今日も立派なへの字口ねぇ」 「生まれつきですからね。三十年物ですよ」 「可愛らしい顔なんだから、笑わないともったいないわ」 「日々あらゆることに憤っているので、難しいですね」 「うふふふ、たまちゃんたら面白い子ねぇ」
球状者の介護は、通常の要介護者と比べれば肉体的なつらさは少ない。白川さんのように揉まれて、丸くなって、さらに揉まれて、丸くなって、削られて、こんなに小さくなった人を相手にするならば、なおさら。 ベッド脇の椅子に座り、検温をしながら食欲の有無を確かめる。
「朝ご飯、今日も食べませんか」 「どうにもねぇ、お腹が空かないのよ。運動もできないからねぇ」
丸くなった白川さんは、もう手も足もない。球状者の手足は、丸くなるときに体内に埋没するか、何かに削られなくなるかのどちらかだ。白川さんの手足は、後者だった。まん丸の餅のような体は、最初から手足なんかなかったようにつるんとしている。
「ではマッサージは」 「マッサージはしてほしいわ! たまちゃんのマッサージ、とても気持ちいいのよ」 「わかりました」 「最近肩が凝るのよ……ってあら、私もう、肩もないわねぇ。うふふ!」 「そういう、笑っていいのかわからない冗談は困ります」 「うふふ、笑っていいのよ。たまちゃんが大笑いするところ、見たいわ。うふふふふ!」
自力で動けず、食欲もない。けれど体は削られ続ける。痛くはないというが、それは本当だろうか。 検温器具を片付けながら、白川さんに尋ねる。
「……白川さん、怖くありませんか」 「何が怖いの?」
白川さんの澄んだ瞳が、私を見上げる。球状者に現状への恐怖を訊くことは禁じられている。これは就業規則だ。なのに私はつい、訊いてしまった。 しまった、と黙り込む私を見上げ、白川さんはきょとんとしている。そして何か合点したらしく、あらあら、ところころ笑った。
「たまちゃん、またオバケのテレビ見ちゃったのね? たまちゃんたら立派なへの字口なのに、暗い場所すらダメだものねぇ」 「への字口と怖がりは関係ありませんよ」
への字口をさらに曲げて見せると、白川さんは嬉しそうに声を上げた。
「たまちゃんも、いつか丸くなれるといいわねぇ」
私は「そうですね」とだけ残して、報告と朝食の用意のため部屋を出た。 白川さんは別れ際、いつもああ言う。だが私は、物理的に丸くなるなんて絶対に嫌だ。球状者になったら、骨も残らないのだ。 世間に揉まれ、精神を削られ、そしてまた揉まれ、球状になる球状者。丸くなっただけで災難だというのに、今度は何かに肉体を削られ、最後には消えていなくなってしまう。白川さんは「悪くない」と言うが、私には信じられない。
「私が丸くなる日なんて、来るもんか」
誰に言うでもなく呟いて、朝日に照らされた廊下を歩いた。
削られ続け、丸くなり続け、白川さんが消えるまで、私は二〇五号室の担当だった。娘さんに連絡をして、白川さんのベッドを片付けて、新たな球状者を受け入れた。新たな球状者は安藤さんといって、白川さんのようなおっとりした人だった。安藤さんは、入居時の白川さんよりずっと小さかった。
「あまり時間はないだろうけど、よろしくねぇ」
ため息のような声は、それでもなぜだか幸せそうだった。 ひたすらに、仕事に没頭した。辞めるという選択肢はなかった。丸くならなかった祖父母の介護や、蒸発した両親の借金返済のためにも、職を失うわけにはいかなかった。 私が丸くなるときはあるのだろうか。否、そんな日が来るわけがない。私はいつも怒っている。 寝たきりの祖父母を一人で介護をしなくてはならないこと。覚えのない借金を返さねばならないこと。テレビ局が暗いニュースばかり流すこと。いじめがなくならないこと。不満が消えないこと。 怒ってばかりの、不満を抱えてばかりの、十年が過ぎた。への字口は四十年ものになった。祖父は逝去し、残るは祖母だ。今ではもう、私のこともわかっていない。 なぜ人体が球状になるのか、その謎は未だ判明していない。けれども、痛みを感じない理由などはわかりつつあった。それにより、新たな鎮痛薬ができあがりそうだとも。 キャスターが読み上げるニュースを聞きながら、朝食のパンをかじった。焼く暇はない。薄くジャムを塗ったそれを押し込み、コーヒーで流す。続くニュースは、動物園で生まれたパンダがようやくお披露目という話だった。ころころと転がる小さなパンダを見た私は、「たまにはいいニュースもないとね」と薄く笑った。 それからさらに、十年がたった。への字口は五十年もの。祖母も見送り、借金もどうにか完済の目処が立った。職場での地位は変わっていないが、とにかく借金がなくなること、介護の必要がないことにほっとしていた。
「ああこれで、やっとゆっくりできる」
そんなことを言って、ほっとしたのがいけなかったのか。翌朝目を覚ますと、私は丸くなっていた。丸くなった私は、球状者が口を揃えて「悪くない」と言う理由を知った。 丸くなって初めて知る、その心地よさ。体を球状に整えられてしまうことも、小さく小さく削られていくことも、ゆっくりと消えていくことも、何もかもが心地よかった。 ありのままを受け入れている実感がある。なるほど、と納得した。これは確かに、悪くない。 丸くなった私は出勤できず、電話することもできず、そのまま自宅で転がっていた。不審に思った職場の同僚が様子を見に来てくれたことで、私は介護する側から介護される側になった。 私が担当していた部屋は七人しかいなかった。そこへ私が入り、八人部屋となった。担当するのは同僚と、新人の小堀さんだ。 小堀さんは、私と同じような目をしていた。自分はこうなりたくないという、頑固な目だ。白川さんはこんな気持ちで私を見ていたのかしらと思うとつい、微笑んでしまった。 体を洗ってくれる小堀さんに「悪くないものよ」と話しかける。
「こんな風に丸くなるのはね、あなたが思っているより、案外悪くないものなのよ」
小堀さんは怪訝そうな顔で私を見た。私は「うふふ」と微笑んだまま、丁寧に洗ってもらえる心地よさにうっとりと目を閉じた。