姫が目を覚ましたのは、暑さのせいだった。もしくは、粗悪な敷布のせいかもしれない。頬に当たる感触は、城の寝台に比べ遙かに触り心地が悪かった。敷布はただでさえ粗悪な質なのに、どうやら床ですらない地面に直接敷かれているようだ。寝心地は最悪と言っても差し支えない。 目を覚ました姫がまず覚えたのは、不快感だった。敷布の寝心地は言わずもがな。汗で貼り付いた礼服の感触が不快だった。起き上がろうとしても動きを阻害する縄の感触が不快だった。目を開けても何も見えないよう覆われた麻布の感触が不快だった。 なぜ縛られ目隠しをされているのか。状況を把握できても理由を理解できない姫は、困惑し、身じろいだ。姫が身じろいだことで、姫をじっと見ていた誰かは姫が起きたと気がついた。
「気分はどう?」
尋ねる優しい声が、壁にぶつかり反響する。同時に、獣臭がむっと押し寄せてきた。たくさんの肉球が地面に触れる音が聞こえたかと思うと、毛皮をまとった小さな生き物が姫に群がる。小さな生き物たちは、背中を使い頭を使い、時にもこもこふわふわの尻を使って、敷布の上に転がる姫の体を起こした。転がるだけだった姫は、どうにか敷布の上に座った。姿勢を正すと、胸元で首飾りの石が揺れた。礼服の下に隠していたはずだったが、ひとまずは気にしないことにして、姫は自分を起こしてくれた動物たちにお礼を言った。
「起こしてくれてありがとう。あなたたち、ずいぶんともふもふしていたわね。狐かしら。狼じゃないといいんだけれど」
するとすぐそばで、うるる、と唸り声が聞こえた。姫がきゃっと悲鳴を上げると、姫に声をかけた誰かが「こら」と諫めた。狼の唸り声が止み、姫はほっとして崩れかかった姿勢を直した。姫が姿勢を正すのを待ち、優しい声の持ち主は、また優しく問いかけた。
「お腹は空いてない? のどは?」
今度もまた、獣臭が近づいてきた。果物の爽やかな香りが姫の鼻に届く。それらと近づいてくるのは羽ばたきだ。羽ばたきに合わせ、水が揺れる音も聞こえる。どうやら、水を入れた器や果実を、鳥が運んでいるらしい。口元へ差し出された器に口をつける前に、姫は優雅に微笑み、羽ばたきの方角へ礼を言った。
「いい香りね。お水も果物も、どちらもいただくわ。暑くて暑くてたまらなかったの」 「暑い?」
優しい声の持ち主が、不思議そうに繰り返した。そして潜めているつもりらしい大きな声で、ぶつぶつと考え込む。
「そうか、人間は小さいから、この程度でも暑さを感じるのか。難しいな……」
まるで声の主が人間ではないような言い方だったが、姫は空腹と喉の渇きを癒やすことに気を取られ、覚えた引っかかりもすぐに忘れてしまった。 人心地つき、姫は金の髪を揺らし「ところで」と声の主に尋ねた。
「ここはどこかしら? あなたはだぁれ? どうして私は縛られ目隠しされているの?」 「何も覚えてないのなら、思い出さない方がいいよ。きみだって、思い出したくないって思ったはずだから」 「覚えてないって、何が……」
声の主の言葉で目隠しの裏に蘇ったのは、鮮烈な赤だった。鼓膜に蘇るのは、山賊たちの雄叫びと父の無念の声だった。姫の真っ白な肌から血の気が引き、真っ青になる。
「そうだわ……そうだった。私、父上たちと湯治に出ていたのよ。先の戦で、父上は傷を負ってらしたから」
湯治には、年に一度赴いていた。姫の幼い弟はこれまで留守番だったが、この年は、もう見聞を広めてもいいだろうからと姫と一緒に連れ出されていた。無論、姫の母も同様だ。 湯治場へ赴き、湯に癒やされ、土地の様子を視察し、都へ帰るはずだった。しかし都を目前にした鉄の山で、姫たちが乗った馬車は山賊に襲われた。目隠しの下で涙を滲ませながら、姫は声の主に家族の行方を尋ねた。
「父上と、母上は? 弟は? 三人はここにいるの?」
優しい声が返したのは、残酷な答えだった。
「いない。きみしか、助けられなかった」
父と母が、幼い弟が、どんな目に遭ったのか。すぐには思い出せないが、姫は想像することができた。その場に突っ伏して泣き叫び、山賊へ呪いを吐きたいのをぐっと堪え、姫は大きく深呼吸した。胸元で、首飾りの石が励ますように揺れてぶつかる。ほのかに熱を放つ石に勇気をもらい、姫は微笑みを作った。
「きっと、この首飾りの神様が守ってくださったのね。私だけでなく、家族も守ってくださればこの上なかったのだけれど」
優しい声の誰かが、言いづらそうに「その首飾り」と指摘する。姫は得意げに、けれど隠し事が見つかった子供のように、首飾りを得た経緯を説明した。
「これはね、鉄の山に御座す火の神様にいただいたものなのよ」
細い細い鎖で繋がれた首飾りの石は、炎のように熱を放つ。それは姫が鉄の山に住まうという火の神から授かったものだった。両親に連れられた神事で、火の神が生み出したという炎を見たとき、姫は魅せられてしまったのだ。
「本当はいけないけれど、私、こっそり神様にお手紙を出したのよ」
神様とお話ししてみたい、などという幼い姫のわがままを、父と母は当然許さなかった。だが姫は諦めず、その場に一緒にいた叔父と大臣にこっそりと頼んだ。叔父と大臣は、姫にだけは甘かった。二人の協力を得た姫は、火の神への供物が並んだ祭壇に、こっそりと手紙を紛れ込ませた。父が知れば烈火のごとく怒るような、神への不敬と罵られても仕方のない行為だった。
「だってあんなにきれいな炎を生み出した方だもの。お話ししてみたいと思っても、仕方ないでしょう?」
姫の話を最後まで聞いた誰かは、穏やかな声で「そうだね」とうなずいた。その声はほんの少し、笑いを含んでいるようだった。
「きみみたいな無邪気な人間ばかりなら、神も人も苦労がないだろうにね」 「あら、もしかして馬鹿にされてるのかしら」 「まさか。きみの純真さを、神だって好ましく思ったから返事を出したはずだよ」 「そうかしら。そうだと嬉しいわ」
血の気を取り戻した姫が頬を染め照れていると、優しい声の誰かは微笑んだようだった。
「きみはそれを、大事に持っていたんだね」 「ええ。だって、私なんかと文通してくださる神様がくださったのよ。大事にしないわけがないわ」 「そう。神様もきっと、喜ぶだろうね」
優しい声に、姫はハッとした。まだ、助けられたことのお礼を言っていない。姫は慌てて優しい声の恩人に謝った。
「ごめんなさい。あなたが助けてくれたこと、まだお礼も言ってなかったわ」
座り直した姫は、縛られ目隠しをされたままで背筋を伸ばし、優雅な笑顔を繕った。
「助けてくれてありがとう。王都へ戻ったら、あなたにたくさんお礼をするわ。お名前を教えてくださる?」 「いいんだ。お礼がほしくて助けたわけじゃないから」
恩人の謙虚な台詞に、姫は「あら、そう?」と残念そうに首を傾げた。けれどすぐに笑顔を取り戻し、花咲くような声で「じゃあせめて」と今自分がいる場所を尋ねた。
「ここがどこだかは教えていただけるかしら。王都までどのくらいかかるのか知りたいの」
優しい声が教えてくれた地名は、姫が先ほど思い出したばかりの場所と同じだった。
「ここは鉄の山の、頂上に近い洞窟だよ」 「まあ、鉄の山だったの?」
縛られていなければ、両手を打ち鳴らし喜ぶところだ。それができない姫は、にこにこと顔いっぱいに笑みを浮かべ喜びを表現した。
「それなら王都は目の前ね。歩いてだって帰れるわ。それがわかったらもう安心よ。さ、縄を解いて目隠しを取ってちょうだいな。早く王都へ戻って、騎士たちに命じて山賊をやっつけなくちゃ。それから大臣たちに手配して、父上たちの……お葬式を、しなくっちゃ」
三人の亡骸は、今も山中で転がされているのだろうか。その亡骸は、判別できる状態にあるのだろうか。王家の地位を侮辱するような扱いを受けはしなかっただろうか。想像し、落ち込む姫に、恩人は優しい声で追い打ちをかけた。
「ごめんよ。その目隠しと縄は、すぐには外してあげられないんだ。時期が来れば外すから、我慢してくれないか」
ほんの数秒、姫は口をきけなくなった。泣きたくなるのを堪え、姫は震える唇と震える声で無理矢理に納得する姿勢を見せた。
「つまり、その時期が来るまで私は芋虫のように転がって過ごさなきゃいけないのね」 「ごめんね。だけど、きみのためなんだ」
――どこが私のためなの!
そう叫びたいのを抑える姫を置いて、動物たちに世話を命じ、恩人は洞窟の前から去って行く。恩人は洞窟に入ってはこなかったようだが、その足音は大きく、いつまでも姫の耳に届いた。何より、恩人が歩くたびに地面が揺れているようで、姫の怒りも悲しみも、その揺れへの驚きで吹き飛んでしまった。
「私の恩人は、ずいぶん大きい人なのかしら」
返事をするように、世話を命じられた動物がケン、と鳴いた。 それから姫は、芋虫のように転がされる日々を送った。歩くこともできなければ、自分で起き上がることもできないのだ。身の回りのことは、恩人が命じたとおり、動物たちが肉球を使って不器用ながら懸命にやった。 転がるせいで汚れた礼服は動物たちに脱がされ、恩人が用意した服を着せられた。恩人は洞窟の外から「蜘蛛の糸で編んだものだよ」なんて御伽噺のようなことを言っていた。疑っていた姫だが、雲のような軽さと着心地から、あながち嘘でもないのかもしれないと思った。 恩人の言うことをよく聞き献身的に世話をしてくれる動物たちだが、中にはいたずらっ子も混ざっていた。そのとき姫の世話をしていた動物は、人間である姫が珍しかったのか、それともいたずら盛りなだけだったのか。とにかくその動物は、ふんふんと姫の髪に鼻先を近づけていたかと思うと、もぐもぐと髪を頬張った。姫が思わず「きゃあ!」と叫んでも、いたずらっ子は驚きもせず髪を口から離すこともしない。縛られたままの姫はじたばた藻掻き、どうにか涎から逃げようと試みた。
「ちょっと、だめよ、やめて! 引っ張らないで! 食べないで!」
動物たちは姫の家臣ではない。姫がくすぐったさに叫ぼうと、涎から逃げるために藻掻こうと、自分たちが飽きない限りやめはしない。そういうときは、洞窟の外にいる恩人が優しい声で動物たちを諫めた。
「だめだよ。お姫様は今、遊んでる場合じゃないんだ。ほら、べたべたにした髪をきれいにしてあげて」
恩人の言葉で、姫の髪を食べていた動物が渋々といった遅さで口から髪を出す。髪はすっかりべとべとだ。姫が内心嘆いているのを察したのか、恩人は「洗ってあげなさい」と動物たちに命じた。すると動物たちが姫に群がり、転がっている姫を数々の肉球で地面に押さえつけた。姫を押さえつけていない動物たちが、姫の汚れた金髪を床へ広げていく。姫が「何? 何なの、何をするの?」と怯えていると、小鳥の囀りと羽ばたきが聞こえ、何かしらと思う前に冷たい水が被せられた。小鳥たちはよくよく狙いを定めてくれたのか、姫の顔にかかったのは、ちょっぴりの雫だけだった。 髪がずぶ濡れになると、姫の体を押さえつけていた肉球が離れ、ずぶ濡れの髪へ移動していった。髪をむぎゅむぎゅと押し洗い、また水をかける。水は風邪を引きそうな冷たさだったが、幸いにも、洞窟内は暑かった。恩人は未だ人間の適温を理解できず、姫には少々暑すぎる温度を保っていた。 洞窟の中が常に暑いのは、どうやら、洞窟の外で火を焚いているせいらしい。遠くから、微かに薪が爆ぜる音が姫の耳に届いていた。離れた場所で火を焚いているはずなのに洞窟内まで暑いのは、よほど大きな火を焚いているのだろう。時々、トンカンと何か硬いものを叩いている音も聞こえた。動物たちがそばにおらず退屈なとき、姫はその音に耳を傾け、音と音の間が空くと恩人に話しかけた。
「ねえ、あなた、いったい何をしているの?」
姫の問いかけに、恩人はいつも離れたところから返事をした。恩人の声は洞窟の岩壁に反響し、姫は時折、どの方角から返事が聞こえているのかわからなくなった。
「鉄を作ってるんだ」
優しい声が、そう答える。姫は「まあ」と驚いた。
「あなた一人で作っているの?」 「そうだよ」
短い返事の後は、またあのトンカンという音だけが聞こえる。そのトンカンの合間に、恩人は困った声を上げることがある。察するに、動物たちがじゃれついているらしい。火を恐れるはずの動物たちがそばに寄りつくなんて、よほど恩人に懐いているのだろう。
「こらこら。火傷するからだめだって言ったろう? 危ないから、降りなさい」
姫の身の回りを世話するようなしっかり者の動物たちが、製鉄中の恩人に子供のようにまとわりつく。そんな様子を想像し、姫は小さく笑った。目隠しをされ何も見えない今、楽しみは少ない。こうやって少ない情報から周りで起きたことを想像するのは、楽しみの一つだった。恩人の姿を想像するのも、そこに含まれている。優しい声にふさわしい、華やかではないものの素朴な顔立ちの恩人を、姫は瞼の裏に浮かび上がらせる。栗鼠や小鳥を方に座らせ困った顔をする恩人を想像した姫は、楽しそうに、こっそりと笑った。 こうかしら、ああかしらと想像しているうちに、姫の頭の中で情報は整理され、恩人の正体について一つの可能性に辿り着いた。
――私を助けてくれたあの人は、もしかしたら、鉄の山の火の神様かもしれない。
洞窟は、鉄の山の頂上付近と言っていた。火の神様の住まいは、鉄の山の頂上と伝えられている。その鉄の山で、恩人は仲間もなしに一人で鉄を作っている。そして、火の神の首飾りを持つ姫を山賊から助け出した。尋ねても名乗らないのは、人間のように名を持たないからかもしれない。 一度思い至ると、姫はもう、そうとしか考えられなくなった。感謝と畏敬の念は姫の胸を膨らませ、抑えきれなくなり、動物たちと一緒に食べ物を運んできた恩人に尋ねずにいられなくなってしまった。
「ねえ、あなたはこの首飾りをくれた神様でしょう?」 「違うよ」
恩人は、洞窟の外から否定した。恩人は何かと姫を気にするのに、一度も洞窟に入っては来ない。目隠しをされて何も見えない姫だが、恩人が緩やかに首を振っているのはわかった。恩人は、申し訳なさそうに否定を重ねる。
「神様じゃない。僕はそんな、いいものじゃないんだ」 「でも」と言いたいのを、姫は辛うじて飲み込んだ。代わりに、神様でないのならあなたは何なのという気持ちを込めてむくれた。洞窟の外にいる恩人が困ったように笑った空気を感じ、姫はむくれるのをやめた。
「わかったわ。でも、あなたは私の恩人よ。都へ戻ったら、必ずお礼をするわ」
恩人は返事をせず、動物たちに姫の世話を任せて去って行った。地面を揺らす足音が遠ざかり、しばらくするとトンカンと鉄を叩く音が響き渡る。山の中でたった一人、鉄を作る音だ。「こらこら」とまとわりつく動物たちを諫める、優しい声も聞こえた。動物たちに懐かれている証拠だ。 洞窟に残った動物たちに顔を洗われ髪を梳られながら、姫はむぅと唇を尖らせた。姫の頭に浮かぶのは、城で見た、顔のほとんどを真っ白い髭で覆われた神様の絵だ。恩人の穏やかで優しい声と、あの髭の顔は重ならない。けれどあの恩人が鉄の山の神でないのなら、恩人はいったい何者なのか。その答えは出ないまま、数日が過ぎた。
あるとき、洞窟の外から叔父の声が聞こえた。
「我が姪を返すがいい、怪物!」
久しく聞いていなかった恩人以外の声に、姫は顔を輝かせて声の方角を向いた。
「叔父上の声だわ!」
声にははち切れんばかりの喜びが滲んでいた。しかしすぐ、疑惑も混じる。
「それにしても怪物だなんて、叔父上ったら何を言い出すのかしら。ああでも嬉しいわ、叔父上が迎えに来てくれたのね!」 「違うよ」
ようやく縄や目隠しから解放されると喜ぶ姫の期待に、恩人は優しい声でゆったりと押し潰した。
「今のは、小鳥の鳴き真似さ」
恩人が言うのと同時に、洞窟の外から小鳥たちが飛んできた。羽ばたきと囀りが近づいたかと思うと、芋虫のように転がる姫の肩に数羽の小鳥が止まった。ちるちると鳴きながら、小鳥たちは叔父の声真似を披露する。
「ワガメイヲカエセ、ワガメイヲカエセ!」 「まあ、そっくり!」
姫が驚くと、小鳥たちは得意げにちるちる鳴いた。小鳥たちは嬉しそうだが、本物の叔父ではなく小鳥のいたずらと知った姫は、少しばかり悲しい気持ちになった。縄も目隠しもなくなれば、恩人としっかり向き合い、その目を見つめお礼を言えると思ったのだ。姫は小鳥の囀りが聞こえる方角に顔を向け、声真似は金輪際やめてくれるよう頼んだ。
「とっても上手ね。でも、もうそんないたずらはしないでちょうだい。迎えが来てくれたと喜んでしまうから」
わかっているのかいないのか、小鳥はちるちると鳴くだけだった。 またあるときは、大臣の声が洞窟の外から聞こえた。
「姫様を渡せ、怪物め! 私は王弟様のようにはいかないぞ!」 「大臣の声だわ!」
その日も芋虫のように転がっていた姫は、大臣の声に顔を上げた。
「それにしても怪物だなんて、大臣ったら何を見てそんなこと言うのかしら。叔父上のようにって、叔父上はここに来たの?」
首を傾げる姫に、前回と同様、恩人は「違うよ」と優しい声で姫の胸で膨らむ期待をひしゃげさせた。
「今のは、小鳥の鳴き真似さ」
転がる姫の肩に、再び小鳥が集まってくる。ぴりぴりと一度囀ってから、小鳥たちは大臣の声真似を披露した。
「ヒメサマ、ワタシハアナタヲアイシテオリマス!」
大臣そっくりの声真似と、本物の大臣が言いそうにない台詞に、姫はがっかりしたことも忘れくすくすと笑った。
「大臣はそんなこと言わないわ。もう、驚くからそんないたずらはしないでって言ったのに」
一度目も、二度目も、期待しては小鳥のいたずらと知らされ、姫はがっかりした。次こそは期待しないと思いつつ、三度目も、姫は本物かしらと期待した。三度目に聞こえたのは、幼馴染みの騎士の声だった。
「姫様を返せ、人攫いの化け物め!」 「まあ、騎士ったら何てひどいことを言うのかしら!」
顔を上げた姫は、恩人を化け物呼ばわりする騎士の発言を怒ってみせた。しかしこれも小鳥のいたずらかしらと思い直し、洞窟の外にいるはずの恩人に「ねえ」と呼びかけた。
「ねえ、今のも小鳥さんのいたずら?」
洞窟の外から、返事はない。優しい声は返ってこない。聞こえるのは、獣のような荒い呼気だ。小鳥たちが慌ただしく飛んでいく羽音が聞こえた。獣たちが外へ駆けていく風が、姫の金髪を揺らした。ただならぬ様子に、姫は怯えた。こんな状況で縄と目隠しを外されぬまま放置されることに、恐怖した。
「ねえ、待って。置いていかないで! 一人にしないで!」
叫びも空しく、洞窟から姫以外の生き物の気配は消え失せた。外からは、金属が激しくぶつかり合う音、耳を塞ぎたくなるような恐ろしい咆吼が聞こえる。カタカタと震えながら、姫はあの優しい声が聞こえるのを待った。穏やかに「小鳥の鳴き真似さ」と言ってくれるのを待った。いたずらをする動物たちを諫める声が聞こえるのを待った。待って、待って、ようやく聞こえたのは、長い長い断末魔だった。 大きな何かが、どうと倒れる音がした。空気をびりびりと震わせる地響きの後、洞窟の外は、静かになった。何が起きたのか、どうなっているのか、姫に教える者はいない。溢れそうな涙を堪え、すすり泣きたくなるのを堪え、姫は必死に外へ呼びかけた。
「ねえ、誰か、誰かそこにいる? 何があったの? どうなったの? お願い、答えて!」
聞こえてきたのは、金属同士が触れ合う耳障りな音だ。耳障りな音は、姫にまっすぐ近づいてくる。誰が来るのか、目隠しされている姫にはわからない。少なくとも、姫の恩人ではないことは確かだ。 近づいてくるものから隠れようと、姫は震えながら体を縮こめた。しかし身を隠すものは何もない。姫はただ、身を縮め丸くなるしかできなかった。 丸くなる姫の耳に届いたのは、聞き慣れた、幼馴染みの騎士の声だ。
「ここにおられましたか、姫様!」
今度は、鳥の声真似ではない。本物だ。声の方角へ、姫はゆっくり顔を上げた。騎士は「失礼します」と言い、耳障りな音を立てて膝をつくと、姫の目隠しをそっと外した。暗い洞窟に、見慣れた騎士の顔が浮かぶ。精悍な顔に安堵と笑顔を浮かべ、騎士は姫に一礼した。
「遅くなり、申し訳ございません。姫様を攫って閉じ込めていた化け物は、今、わたくしが屠りました」 「どういうこと? 化け物が私を攫ったなんて……私は、山賊に襲われたのよ」 「それは王弟殿と大臣の差し金でした。王弟殿は王位を、大臣はあなたを我が物にと企み、湯治から戻られる馬車を襲ったのです」
あの声は本物の二人だったのか、と姫は驚いた。なぜ恩人が二人の声を小鳥の鳴き真似と嘘をついたのか。恩人は、叔父と大臣の思惑を知っていたのか。浮かぶ疑問に戸惑う姫の傍らで、騎士は縄を切りながら得意げに続ける。
「お可哀想な姫様。山賊に襲われ、さらには一つ目の巨人に攫われ、こんな場所に閉じ込められて」 「一つ目の巨人? あなた、何を言ってるの?」
姫の問いに、騎士は洞窟の外を指さした。
「ご覧ください。あれが、姫様を閉じ込めていた化け物です。真の愛を持つ私が、魔女より魔法の剣を授かり、あの化け物を倒したのです!」
外は洞窟よりも遙かに明るい。外の様子が見えるようになるまで、姫は睨むように目を細める必要があった。ようやく目が慣れたとき、見えたのは事切れている単眼の巨人だった。巨人の首には、金属で作られた細い細い鎖と、燃える炎のような石が揺れていた。小鳥たちが、動物たちが、巨人の骸に寄り添い頭を垂れている。 姫は目を見開き、息を呑んだ。語り足りず巨人との死闘について長々語る騎士の台詞も聞かず、姫は身を捩り、立ち上がった。縄を切っている最中の刃が、姫の肌を傷つける。皮膚が裂け血が流れるのも厭わず、姫は洞窟の外へ走り出した。しかし、まだ切り終えていない縄が姫の動きを阻害する。縄で足がもつれ、姫は前のめりに倒れた。再度立ち上がろうとしても、手首に残る縄が邪魔で、地面に手をつくことができない。立ち上がれず、起き上がれず、姫は這って外を目指した。姫の目には、巨人と、首飾りの石しか見えなかった。
「世界中の誰もが、化け物と呼んだって」
洞窟の岩肌や、転がる石が姫の柔肌を傷つける。自分の肌に傷が増えるのも厭わず、姫は外へ出ようと、巨人に寄り添おうと這い続けた。
「あなた自身が、否定したって」
視界がぼやけ、姫は何度も鬱陶しそうに顔を振った。差し込む光を受けて、飛び散る涙の粒が光る。滲む涙は痛みのせいではない。芋虫よりも遅い歩みで、姫は巨人の元へ這っていく。
「あなたは神様よ。優しい優しい、神様よ」
洞窟の外まであと一歩のところで、唖然としていた騎士が我に返り駆け出し、追いついた。もぞもぞと這う姫を「何をなさっているのです!」と抱きかかえ引き止める。姫は身を捩り、藻掻き、巨人に向かって手を伸ばした。屈強な騎士の力には勝てず、姫の体は洞窟の外から出ることは叶わなかった。けれど、指先だけはどうにか巨人の巨躯に届いた。 真っ赤な血を流し倒れる大きな体には、まだぬくもりが残っている。動物たちの悲しみを湛えたつぶらな目が、姫を見つめた。姫の目からも、大粒の涙がこぼれた。
「助けてくれたのに、こんなことになってごめんなさい。あなたは恩人よ。化け物じゃないわ。怪物じゃないわ。ありがとう、ありがとう」
泣きじゃくる姫は、触れた指先を離すまいと力を込める。事切れたはずの恩人が、わずかに笑み浮かべた。